全419件 (419件中 1-50件目)
ブログも新たな時代になってきました。そこで、私もブログを引っ越すことにしました。新しいブログでは、ブログの可能性を追求。さまざまな実験をしたいと思います。何故、ブログを引っ越すかについては、追々語っていくことにしますが、端的に言えば、次。ブロガーが搾取される時代の終焉。そして、楽天ブログの欠点は、次。・アマゾンにリンクが貼れない。・ユーチューブをリンクできない。☆ネットでの、ロム者たちが、閲覧しているだけで、情報の只取りをしていると考えるのは、アクセス数で広告料が決定する時代に、正しくない。同様に、無料ブログのブロガーたちも、只でブログ環境を提供されているから、環境を只で利用しているとはいえぬ。YouTubeでは、巨大なアクセス数を稼いだ投稿者に報酬を支払うという。私・スポンタも、私なりのウェブ2.0を始めようと思う。引越し先は、シーサー・ブログである。http://sponta.seesaa.net/☆リアルな私と、ネットな私。それらが混在するブログ空間に迫ろうと思っている。勿論、様々な混乱があるだろうし、批判も受け止める。今後とものお付き合いをお願いいたします。
2007年05月19日
神奈川新聞がメディアジャムというニュースサイトをスタートさせたということなので、さまざまなメディアのアルゴリズムの違いを明確にすることで、ことの本質を探ってみたいと思う。【既存メディア・オーマイニュース韓国版・市民参加型ジャーナリズムのアルゴリズム】*Regacy Mediaとは既存メディアのことである。ダン・ギルモアの講演会で、時事通信社の湯川氏が、Old Mediaという言い方ではなく、Regacy(遺産)という語を使ったのを鮮明に覚えている。既存メディアのアルゴリズム(代表決定・意思決定のシステム)は、ヒエラルキー型である。下部組織の構成員が提出した情報は、上部組織の構成員の承認がなければ、オーソライズ(外部に発表)されることはない。*真ん中に位置するのは、オ・ヨンホ氏が韓国で成功させたという市民参加型ジャーナリズムのオーマイニュース韓国版である。大統領選の行方にも影響を果したと伝えられるオーマイニュースだが、その記事はオ・ヨンホ氏自身と専従記者たちが作り上げたものであって、市民記者が関わることはなかったという。つまり、オ氏は、メディアとしての影響力を強めるために市民記者を利用したに過ぎず、かのメディアが大統領選出に影響を与えたといっても、市民の声がジャーナリズムを通じて、国政に影響を与えたということではない。*一番右に、CGM(ユーザー参加型メディア)と書いたが、それは市民参加型ジャーナリズムの理想の形である。フラットな構造をしているが、市民記者たちの合意において記事が提出されている訳ではない。市民記者は単独で記事を書くのであって、同僚の市民記者たちとの合意のもとで記事がオーソライズされるのではない。そのあたりは、以下の図で示されるフラット型アルゴリズムの弊害を眺めていただければ理解していただけるだろう。【フラット型アルゴリズムの弊害:クレーマーの野放しと、ボピュリズムの発生】インターネットの登場により、世の中がフラットになっていくという言論がある。それは、アメリカ一極集中を終焉させるものであり、南北問題の解消につながるとでもいうような好意的な論調でもある。だが、フラット型のアルゴリズムがそのような理想とは程遠いことを気がつかなければならぬ。フラットな領域が広がっていくことは、それまで、小会議室で打ち合わせを行なっていたのが、突然、日本武道館のようなところで会議をしなければならぬような事態である。小会議室であれば、忌憚のない発言ができる。対話の中からお互いの気づきが生まれ、有効な結論が期待できる。だが、日本武道館のようなところで、大勢が集まったとしても、対話は促進されない。発言するものは、目立ちたがり屋であり、採決をとってもポピュリズムに陥った結論しか出ない…。たとえば、いくつもの小会議室での結論を持って、それぞれの代表者が会議を積み上げていって、大集団の結論を導き出すとしよう。ひとつひとつの会議は密室であり、そこに信頼を寄せられない人もいるのかもしれぬ。だが、発言数や対話の数を合計すれば、日本武道館でやる会議のようなものとは比較にならぬコミュニケーションが実現していたはずである。インターネットで広がっているフラット感は、日本武道館である会議のようなもの。私は、そんなことを感じている。追記:05.20アルゴリズム14は、シーサーブログで、続けています。アルゴリズム14:メディアのアルゴリズムを総覧する。…です。ご高覧いただければ幸いです。
2007年05月19日
私は、ブログ普及後のインターネットは、オルタナティブメディア(相互補完的媒体)ではないと指摘している。ならば、ネットvsリアルではない。そして、新聞・既存マスコミ vs ネット言論ではない。☆新聞社は新聞発行において、記事の内容の真正性に責任をとる。私は、それをオーソライズという語を使って表現している。とはいえ新聞社も神ではない。ときとして、間違うこともあるから、訂正をしたり謝罪したり、無実を主張するために法務部を設けたりしている。*だが、インターネットの時代になると、情報は多様になり、新聞社がリリースした情報が真正かどうかが、極めて疑わしいことが露呈してきた。新聞社は神ではないのだから、ことの真正性を突き止めることは不可能である。また、真正であるかどうかと離れて、現状を批判するにしても、その批判の元になる思想が、民意を反映してのものかどうかも疑わしい。そもそも、新聞社が「事実性を保証して新聞を発行する」などという行為が欺瞞に満ちていたのである。☆インターネット時代の読者たちは、「新聞は、真実とあまり関係なく、固有集団が接した情報をリリースしているに過ぎない」と、看破している。だから、読者たちは、新聞社が導き出す言論が極めて主観的であっても、それに踊らされるというよりも、それらが恣意的なものであることを楽しんでもいる。*たとえば、サヨク系な言論を提示する新聞社に憤懣やるかたない読者がいる。そのように怒っている所作も、楽しんでいる風景のひとつといえないだろうか…。私は成人するまで、我が家は、その新聞しか取っていなかった。両親は内灘闘争で知り合ったサヨクの残党だったので、幼い私は、その新聞の言説が左翼的な偏見に満ちたものであるとは予想だにしなかった。そのような時代こそ、まさに危うかった時代であり、幸いなことに、現在は、その危うさから逃れられている。*たとえば、新聞には、詐欺まがいのビジネスをしている広告が大きく掲載されている。たとえば、自費出版系の出版社の悪性がネットでは話題になっているが、その出版社は新聞には大きな広告を載せ、悪行を続けている。出版社の名前をグーグルで検索すれば、当然のことながら、さまざまな事案を通じて、被害者の声に接することができる。新作の映画だと思えば新新宗教の布教映画だったり、ヒット本だと思ったら教祖の説教本を信者が大量に購入しているに過ぎない。そんなことが紙上にまかり通っている。記事で何かが批判されていると思ったら、新聞社・記者の私怨に基づく批判だったり…。*テレビも同様である。かつて、芸能人を自殺させる原因にもなった中小企業向けの金融会社が報道番組にCMを出していて、問題になったことがある。最近でも、解約に問題があることが司法で判断された英会話教室は、一切の弁明もなく、CMを連発している…。*読者たちは、そのようにあからさまな裏事情を知りつつも、新聞やメディアを楽しんでいる。ウサギのCMを楽しみながらも、別の英会話学校に通うだけのこと。私も、ペプシのコマーシャルで沢尻嬢を愛でながら、コカコーラを飲む…。それが現実である。メディアはメディアとして楽しまれている。不満を表明する鑑賞者たちも、イジって遊んでいるに過ぎず、それは必ずしも悪いことではない。東京スポーツのように開き直る必要もない。とはいえ、真実を伝えるなどと言われては、世の中の空気を読んでいないなどと思ってしまう。受け手たちが、裏事情を知りつつ、メディアを楽しんでいるということは、メディアが真実性を決定しているのではない。つまり、新聞が発行されることは、とりあえず真実性が新聞社によって確認されることでしかなく、それが最終的な真実性を保証しない。*オーソライズするのは、新聞社ではなく、読者・情報の受け手なのだ。☆さて、ガ島通信さんによると、神奈川新聞が、メディアジャムというのを始めたという。「優良なサイトを自動巡回してニュースをタグで分類するサービス」で、ニュースには一言コメントを書き込むこともできます。新聞社系の会社が運営するものとしては、初のニュースアグリゲーターサービスかもしれません。(ガ島氏評)ガ島さんの分析によると…。気になるのは既存の新聞社サイトの記事をインデクシングすること。自動巡回と言う意味では、Googleニュースと同じですが、自社コンテンツのようにコメントが書き込めるようになっているところに、インデクシングされる側がどう反応するのか…ガ島さん、情報ありがとうございます。…そうなんです。いままでは、読者が自分の中で、新聞記事の真偽を図っていたに過ぎない。だから、それが発信・流通するにしても、口コミに過ぎなかった。いま、それがネット上で流通することになる。そのメディアを、よりにもよって同業者・競業社が作成する。これこそが画期的なことであり、業界再編を大きく進めることを予感させる。☆私は、湯川さんがIT潮流でビデオ番組を始めることについて、その先見性を次のように指摘している。早くも永遠のベータ版宣言。そして、不特定多数に対する、プレリリース版の存在の告知。これこそが、次世代のメディアの形だと思っています。あとは、別場所による、重要度の勘案サイト(リモート・タグ)でしょうか…。もちろん、重要度勘案には、「複数のアルゴリズムの並存」を期待しています。今回の神奈川新聞のメディアジャムの凄いところは、競合他社の記事の重要度をランク付けすること。つまり、同じ業界社が、リモートタグをつくったこと。たとえ話をすれば、その画期的なことが分かる。ナベプロが、ジャニーズ事務所のタレントの魅力ランキング表をつくること。森永製菓が、グリコのお菓子の人気ランキング表をつくること。それらは、神奈川新聞が、朝日新聞や読売新聞の記事の魅力・重要度のランキング表をつくることと等価である。そして、記事にはコメントが書き込める。コメントによっては、ナベプロがつくったサイトの上で、ジャニーズ事務所のタレントが批判されることは必至だし、森永製菓がつくった掲示板で、グリコのお菓子が批判される可能性もある。ならば、神奈川新聞がつくったメディアで、朝日新聞批判や読売新聞批判が起きて当然である。☆神奈川新聞は、「メディア・ジャムというソシアルブックマーク」をつくっているに過ぎぬと思っているのかもしれぬ。だが、それは明らかにリモート・タグであり、ソースにも影響を与える。リモートタグによって何が起きるかといえば、同業他社である通信社や新聞社がオーソライズした情報に対して、同業者が再度のオーソライズの機会を設けることになる。それは、期せずして、新聞が発信する情報のベータ版化を意味する。*さすがにnewsingのように、ニュースに○×をつけるようなことはないが、神奈川新聞が、diggや、newsingを参考にしたことは、想像に難くない。ネットが新聞に突きつけていることは、1. 永遠のベータ版2. 対話3. ログを残すことであると、指摘してきた。*だが、ネットが新聞に突きつけるのではなく、新聞業界の中で、それが突きつけられている。ガ島氏が懸念されているように、神奈川新聞の快挙に、他社が対応しないはずはない。ならば、絶望とも思えてきた新聞が突きつけられている3点への対応も、予想外に早くなされるのではないかと考えている。本来は新聞社が単独で有するべき「多様なアルゴリズムの並存」であるが、新聞業界全体で、「多様なアルゴリズムの並存」を確保することもできる。ならば、「単一のアルゴリズムさえ持たぬ」ネット者たちに勝ち目はない。否、新聞業界が多様なアルゴリズムをつくるならば、ネット者が自主運営でアルゴリズムをつくる必要はないし、それが自然な成り行きという気もする…。
2007年05月18日
日本新聞新聞労働組合連合会のシンポジウムが近づいている…。主論は、アルゴリズムではあるが、新聞について考察している。☆ご存知のように私は、作画ソフトを使いながら、考察を重ねている。前回は、既存メディアとインターネットという図を描いた。【既存メディアとインターネットの概念図】描いたものを、時を置いて見ていると、2点の欠点が気になる。それは、1.メディアとオープン社会のサイズが、1:99であることが表現されていない。2.メディアはピラミッド型のコミュニティーであり、オープン社会はアメーバ状である。あの図の主旨は、メディアが単一のアルゴリズムで成立していて、オープン社会は複数のアルゴリズムで成立していることを表現しているに過ぎない。今後、改訂を加えることにする。☆さて、インターネット登場以前の新聞について、作図してみた。【伝統的メディアと大衆の概念図】作図の主旨は次…。1. オープン社会は、個の発信はおろか、意志決定・代表選択のためのシステムを持たない。2. 上記を補完するために、メディアは、オープン社会の意志決定したり、代表選択の機能を果す。2007年、市井の個でもブログがあれば、意見を発信することができる。ならば、オープン社会の意思決定・代表選出を代行してきた既存メディアが、いままでどおりの所作を行なうことに合理性はない。そして、市井の個の発言がインターネットで把握するようになると、いままで既存メディアが提出してきたオープン社会の意志や代表選択が、必ずしも、オープン社会の意志・代表を反映していないことが明らかになってきた。たとえば、公立学校卒業式の国旗・国歌報道は、その典型的な例といえるのではないだろうか。オリンピックやサッカーワールドカップで、スタンドにはためく日章旗は圧倒的である。また、試合開始時に起立し、君が代を斉唱することは、日本国籍を持っているならば、当然の行為である。仄聞するに、記者席に思想信条的な理由で、起立しない人がいるという。だが、その数はスタジアムを埋め尽くす人数と比べるべくもないだろう。もし、日本国籍を持っていない人でも、他国の国歌に礼儀を示すことは国際社会にあって、当然行なわなければならないことに違いない。そのような、国民的総意の明確な状況があるにも関わらず、NHK「クローズアップ現代」をはじめとして、テレビ報道の国旗を軍国主義と過度に結びつける言論は、どう考えても民意を反映したものであるとは思えない。私は、そうした現象の裏に、既存メディアがかつて、左翼言論によって成立していた時代の尾てい骨を見る。☆かつて、言論は、体制(保守)に対抗するために成立してきたという歴史がある。専制主義を引きずっていた時代、議会制民主主義も専制のイメージの延長線上で形成されていたに違いない。ならば、代議制民主主義は名ばかりのものになり、代議員や官僚たちは、自分達が新しい王様のように振舞う。とはいえ、群雄割拠の時代のように武力で戦うことはできぬから、言論で、新しい時代の王様たちの専横を妨げるべく活動をしたに違いない。きっと、専制を引きづった民主主義の時代には、ジャーナリズムとは野党的であることが極めて当然のことだったろう。☆時事通信社の湯川氏は、「ブログがジャーナリズムを変える」(NTT出版)の中で、私のコメントを引用してくれた。それは、「野党的ジャーナリズムから、与党的ジャーナリズム」というものである。専制時代を引きずっていた民主主義の時代では、ジャーナリズムが野党的になるのは、極めて健全なことだろう。だが、民主主義が新しい時代を迎えている今、いたずらに野党的言論に拘っていることに合理性はない。否、野党的がリベラリズムと訳されるならまだしも、野党的が左翼的との意味ならば、批判されてしかるべきである。ベルリンの壁が崩壊し、北朝鮮の拉致が発覚した今、それらの言論を既存メディアで擁護してきた過去を一切の反省しない人たちが、果たして誠実なる人たちなのか…。私は極めて疑問である。☆インターネットで何が変わったかといえば、個が発信できるようになったことである。だが、まだまだ不備があり、その不備を解決していくことこそ、インターネットの新たなる課題である。その課題こそが、「多様なアルゴリズムの並存」によって、個が発信した情報を、インターネットの膨大な情報量の中に埋没させぬことを実現できる。私は、インターネットの膨大な情報量の中に埋没している存在なので、その立場でできることをやっている。だが、そのような不備をまったく勘案しないで、若者たちに、インターネットにいらっしゃいと煽る人たちがいる。インターネットで発信したにも関わらず、無視され疎外感を感じた人たちがどのような行動に走るか…。そのことを考えて欲しい。*もし、佐賀のバスジャック犯の反応予告に誰かが反応し、諭しかけることができていたら…。そして、長崎の小6の少女の異常さにネット上な誰かが気づき、対話することで、少女の思いを受け止めていたら…。たしかにインターネットで対話ができたとしても、犯罪そのものを制止することはできなかったかもしれない。だが、もしそのようなことが出来ていたら、殺人事件が傷害事件、未遂事件になっていたと思えてならない。そして、悲しいかな、事件が起きてしまったとしても、犯罪者を怨み、社会の呪うのではなく、心を痛めた・心を病んだ人たちに対して何も出来なかった自分たちを深く反省する。そのような社会ができあがるのではないか。おきてしまったことを批判するのではなく、社会全体が自分たちの出来事として深く反省する。その道筋からしか、悲劇的な事件を再発を防ぐことはできない…。*インターネットは、すべての個に傍観者であることを許さなくなったのである。インターネットは、孤独を癒すメディアであるが、孤独を煽るメディアでもある。対話が成立しない悲しみをこのサイトで実感して欲しい。孤独な者たちは、対話を拒絶されて、どこへ行くのだろうか。対話をせぬものよりも、対話を拒絶されたものたちの感情は深い…。☆進化論は現在と過去を考察できねば有効なものはできぬ。フューチャーは、今起きている問題を棚上げにすることではない…。私は苦々しく思っている。
2007年05月17日
5/25の日本新聞労働組合連合会のイベントにパネラーとして参加することになっている。そのサイトから、「スポンタつーのは、誰やねん」とやってくる人のことも考えつつ、書き進めることにする。☆安心して欲しい、歌川先生には失礼になるかもしれぬが、「新聞のなるなる日」はこないと思う。「ネットは新聞を殺すのか」といえば、湯川氏に失礼になるかもしれぬが、消費者たちは、新聞を抹殺・根絶やしにはしない。何故なら、新聞がまったく世の中から存在しない不都合を感じるから…。勿論、それが、いまの新聞社の組織や新聞人の給料を保証するわけではないが…。☆さて、ネットがリアルに太刀打ちできないのは、当然のことである。リアルなパワーは、当事者(ステークホルダー)のパワーである。当事者とは、生産者であり、NIMBYでない人・直接被害者である。だが、日本のコミュニティーにおいて、殆どの事象における、当事者の割合は、99:1以下だろう…。たとえば、日本の人口が一億三千万人。その1/10が新聞の消費者として1300万人。その1/100はといえば13万人。新聞従事者の数は把握していないが、無理のない数字かもしれぬ…。どちらにしても、数的に圧倒的に劣る生産者が消費者に勝てるはずはない。では何故、いままで、生産者が消費者に勝ててきたか。その理由は、次の三種である。☆1. インフラ格差2. 情報格差3. スキル格差1.に関して…。たとえば、板ガラス業界。寡占状態になっているのは、あまりにガラス工場の建設に関わる費用が高いからである。*2.に関して…。たとえば、けちなラーメン屋のオヤジは、スープの出汁の中身を教えない。何故なら、駄目なラーメン屋のオヤジは、レシピ以上のスキルを持たないからだ。レシピで伝わるようなスキルが料理人のスキルでないのに…。*3.に関して…。アマチュアとプロでどちらがスキルがあるかといえば、それは何ともいえない。アマチュアよりもスキルが劣るプロもいるし、プロよりもスキルが高いアマチュアもいる。私は映像のプロだが、予算の範囲以上の仕事をしないことをモットーにしている。だから、アマチュアの作品よりも、手数が少ない。それをして、私の作品が手抜きであると断ずることもできる…。☆さて、表題の「新聞vsネット」である。新聞をおおまかに捉えて報道機関・情報産業としても、答えは同じだ。要約すると、次のよう…。1. インターネットの登場により、情報生産者は、消費者に対してインフラ格差を誇ることはできぬ。2. インターネットの登場により、情報生産者は、消費者に対して情報格差を誇ることはできぬ。3. インターネットの登場により消費者発信が可能になったので、個別の消費者のスキルの低さは、そのひとつひとつのスキルを繋ぎ合わせた集団としてのスキルとして、生産者のスキルを上回る。1.に関して…。インターネットでは、ほとんど費用ゼロで情報発信できることは言うまでもない。*2.に関して…。新聞社は独自のネットワークで豊富な情報を得ている。一方の消費者の持っている情報は社会全体が持っている情報と等価である。その情報がインターネットによって、ネットワークでつながれるのだから、新聞社は太刀打ちはできぬ。その上、新聞社には、社会的影響力を勘案しなければならないため、未確認情報を発信することはできぬ。また、公官庁からの縛りもある。ならば、情報ディーリングの自由度について、消費者に劣るのは当然のことだ。*3.に関して…。新聞人は専門教育を受けて、文章修行をする。モラルにおいて、知識において、技術において、そのスキルは消費者の追随を許すものではない。と、百歩譲って考えたとしても、それは個としての場合だけである。世の中には、消費者を「衆愚」と捉えて、自らの優越性を保とうとする人たちがいる。だが、果たして、世の中には、「衆愚」しか存在しないのだろうか…。*何故、日本軍が負けたのか。何故、外務省は伏魔殿と化したのか。何故、霞ヶ関が自己矛盾を解消できずにいるのか。戦前の日本軍の首脳は、日本の大エリート集団である。戦後の日本の官僚機構も、日本一のエリート集団である。それらが一応に、巷間の愚者(消費者)に見えている問題たちを解決できていない状況は、公愚・エリート愚とでもいうものではないのだろうか。☆結論をいえば、公愚・エリート愚とでもいうものを発生している原因は、単一のアルゴリズムでしか、意思決定・代表決定ができぬ組織構造で営まれているからである。たしかに、1:99のパワー差はある。だが、それは言っても仕方のないことだし、世の中のすべての人が新聞人になる時間的余裕などないのだから、言うべきではないだろう。ということで、新聞vsネットという図を作成した。図は諸要素を書き込んだつもりであるが、総覧的になってしまった。この図に示されていることで重要なことは、新聞は、一つの事件をさまざまな視点から一つの記事(言論)に仕立てる。しかし、ネット言論は、一つの事件からさまざまな言論を生むということ。つまり、新聞はツリー状。ネットは逆ツリー状。ひとつの言論しか提出できぬ言論機関。そして、複数の結論を提出するネット。制止した言論を提出する言論機関。たえず動いている言論を提出するネット。その差は大きいのである。
2007年05月16日
インターネットの登場によって、既存の言論空間も変化を余儀なくされていることは、いうまでもないだろう。2007年に起きていることは、既存メディアがネット情報を引用するところまでである。それは、自己都合によって、既存メディアがネット情報を引用することが許される時代ともいえる。…だが、それは過渡的な現象に過ぎない。*ひと頃は、YouTubeがテレビの著作権の侵害が取りざたされたが、時事通信の湯川氏などは、「再放送しない地上波は、ユーザー・ニーズにこたえていない」と指摘している。著作権侵害を指摘されているが、視聴者ニーズを補完する役目をしてもいる。すでに、ネットでは、既存メディアが自分達に不都合なものを引用しないことに対する批判が起きている。次第に、ネットと既存メディアの立場は逆転し、自己都合の言論を連発する既存メディアたちを誰も信用しなくなる。テレビはテレビとして、今後も成立しつづけるだろうが、視聴者がそれを信じて行動することはなくなるに違いない。☆これからも、既存メディアとインターネット言論の戦いは続くのだろう。だが、既存メディアに勝ち目はまったくない。と言って、私は憚らない。*ことの本丸は、「紙かディスプレイか」という問題ではない。もっとも重要な視点は、「閉ざされたコミュニティー(既存メディア)には、オーソライズを寡占する権利はない」。…である。☆事ほど作用に、既存メディアたちは、インターネット言論に太刀打ちできぬ。何故、そうなるかといえば、根本的に2つの問題がある。もし、その問題を既存メディアが克服できるならば、既存メディアは、今後も存続できる。たとえネット上の言論であっても、その問題を克服できなければ、存続は危うい。その意味でも、ことは、「紙かディスプレイか」という問題ではない。*2つの視点とは次である。1. コミュニティー内の言論は、外界を語ることはできぬ。2. コミュニティー内の意志・代表決定システム(アルゴリズム)が単独であれば、それは、多様なアルゴリズムが並存する外界の言論によって淘汰される。☆新聞社は、ひとつのコミュニティーでしかなく、それ以上でも、それ以下でもない。そのようなものが、コミュニティーの外にあるはずの世論を語ったり、コミュニティー内の規範でしかない正義を語ることに合理性はない。そのような構造を省みず、新聞社が言論を公開すれば、批判・反論が起こるのは必至である。*新聞社の言論提出システム(アルゴリズム)は、ヒエラルキー型、もしくは、ツリー型である。そして、その構成員たちは固定的であり、固有の思想に執着している。ならば、そのようなシステムによって提出されたものは、ひとつの言論ではあるものの、それが多様な外界の風にさらされれば、特定のバイアスのかかった言論であることを提示する。ときとして、合理性をもたぬと批判されることも珍しいことではないだろう。*いままで、既存メディアはオーソライズを独善的に行なっていた。だが、インターネットの時代の情報は、ディファクトスタンダードよろしく、さまざまなネット者の関与を経て、時間をかけ、オーソライズがなされる。ネットの場合、オーソライズされた言論といえども、それが単一の結論である場合は少ない。2項対立のまま、オーソライズされることもあるだろう。それらは、ディファクト・オーソライズといっていいものであり、誰かがオーソライズしたものは、必ずネット上のオーソライズという再度の試練を受けることになるのだ。
2007年05月15日
トーマス・フリードマンは「フラット化する世界」という書物をなした。私は、それがアメリカニズムの上に載った言論に過ぎぬと指摘している。だが、アメリカ的な考えはともかくとして、さまざまな問題を孕みつつも、日本が民主主義な制度の上で、存在していて、フラットな社会だと考えている人が多いのかもしれぬ。確かに、フランスのように新大統領が当選後、自家用ジェットで地中海クルーズにバカンスで出かけるような国とは違う。だが、日本の諸制度がフラットであると考えるのは浅薄である。言語を司ることのできぬ乳児に参政権を与えることはできぬのは合理である。だから、どの年齢から参政権を与えるかについて、議論が起こるのは仕方のないこと。人間は教育によって、社会的責任を果すようななるのだとするならば、教育を終えた人間に選挙権を限定して与えるのは当然のことだろう。だが、それだけではないことに気づかねばならぬ…。☆インターネットならば、365日24時間、誰でも参加できる議論が可能だし、いつでも採決ができる。このような素晴らしいシステムを何故、既存の民主主義の機関たちが使わないか、その理由を考えた人がいるだろうか。すこし考えれば、答えは明らかである。既存の合議システム・選挙システムは、民意を抽出するシステムとして、多くの欠点を持っている。そのことをインターネットは、明らかにしてしまうのだ。☆たとえば選挙である。原稿の選挙制度は、「誰でも立候補できる」制度などと考えてはいけない。選挙には、供託金制度があり、金銭的な余裕がない人は、選挙に立候補することはできない。その反証として、選挙民が望まぬのに、夕張市の市長選には私財200億円の羽柴秀吉が立候補するし、東京都知事選にはドクター中松が立候補する。そして、得票数が第一位になれば、首長になれるのかといえばそうでもない。九州の寒村は、オウム真理教の教祖が首長になることを阻止するため、住民票の受け入れを阻止した。このようなことを想起すれば、選挙は平等の精神を理想とするが、それは、ひとつの方法に過ぎず、それが平等に近いものであるにしても、それが理想を実現しているのではない…。制度は民意を追っており、民意が変われば、如何なる制度も是認されぬ。それが日本である。*日本のような異質性の低いコミュニティーでは、その共同幻想は高いが、アメリカではそうではない。J.F.Kennedyが最初の選挙のとき、財界を牛耳っていた彼の父親は、対立候補と同姓同名の人間を立候補させ、相手候補に打撃を与えたという。もし、同じことを日本でしたなら、そのような悪巧みをする人間に投票はできぬ。との批判が沸き起こり落選は必至だろう。だが、アメリカでは違う。アメリカは、異質性が高いから、平等の概念よりも、機会均等を尊ぶ。どんな奇手を使おうとも勝利者は勝利者である。敗者が、モラルをして勝者を批判しようと、それは負け犬の遠吠えに過ぎない。日本にいる私には、ハリウッド映画のアカデミー賞の裏側などを知る由もないが、その世界が、かつて批判された日本のレコード大賞の裏側以上に、エスカレートされたものであることは想像に難くない。☆そういえば、昨年、YouTubeでは、Lonely girl 15という投稿が話題になった。話題になったのは、自らの心理状態をビデオでネットに披露することだった。キュートな彼女の容姿もあり、YouTubeのアクセス数は激増した。だが、1カ月を待たずして、そのすべてが、「やらせ」であることが分かった。リアルで女学生を知る人物からの投稿があり、話題が話題を呼び、アクセス数も増えた。そして、テレビ番組で、当該女学生が「やらせ」の事実を告白するに至った。投稿をしくんだのは、制作集団であり、そのチームに女優として雇われた女学生が演じていたのである。…だが、Youtubeでは嘘をついてはいけない。などというルールがあるわけではない。数日前のサンケイエクスプレスによれば、YouTubeは、アクセス数に貢献した投稿者に対価を支払うことを表明した。という。アクセス数に寄与することは、YouTubeの広告収入増収に貢献することである。その報酬支払リストにLonely Girl 15があるという。日本であれば、「あるある…」事件のように批判が集まったに違いない。まるでドキュメントであるかのように、ドラマを見せられたのだから、視聴者からの反発は必至である。だが、アメリカ手は、そのようなモラル違反も、アクセス数の激増という事実の前では、捨象される。*同様に、莫大な資金をつかって活動を続けるアメリカの大統領選挙を、ボピュリズムだと批判するアメリカ人がいるだろうか…。☆同じ民主主義でも、日本とアメリカでは、その現実はあまりに違うのである。そして、私が指摘したいのは、アメリカ人のように「民主主義がひとつの形式でしかない」と、冷めている人たちよりも、民主主義を信じている日本人のほうが危うく、そして、不幸なのである。☆日本の民主主義では、「誰でも立候補できる」というのは幻想である。現実的には、選挙費用や、落選したときの供託金がなければ、立候補はできない。日本の選挙では、選挙カーによる名前の連呼という、候補者の言論と乖離したボピュリズムが批判されることはない。そして、選挙で当選し議員になったとしても、自由に言論できるのでもない。確固たる信念と言論があったとしても、それが敵視されれば、女性関係や経済行為、身内の不始末など、言論と無関係なことを糾弾され、言論発信の機会を奪われる。それが社会の民主主義の現実であり、インターネットでの365日24時間会議・永遠に続く採決とは、大いに異なる。*インターネットがなければ、既存の民主主義のシステムの不都合は、民主主義本来の持つ欠点として、けっして糾弾されない。だが、インターネットがあれば、それは、just既存システムの不備であって、民主主義そのものの欠点ではないことが露呈する。そのことを既存のエスタブリッシュメントたちは勘付いているから、インターネットを自らから遠ざけようとする…。☆「世の中がフラット化する」などと嘯くのは、世の中を見ることを辞めた人のセリフである。インターネットの登場で見えてくるのは、フラット化ではなく多様化(ダイバージョン)なのだ。ブラウン管が白く映っていても、それは、光の三原色・赤緑青が合わさったものに過ぎぬ。フラットなどという幻想に騙されてはならぬ。画像をフラットにしている原因は、対象との距離に他ならぬ。対象との距離をつめれば、白くはない。最近、英語ブログを作った。英語圏で生活したことのない日本人がつくった低レベルな英語だが、英語にしてみると、考えが整理されてくることもある…。私の長い日本語に嫌気がさしている人は、覗いてくれると嬉しい。そこに、"Flat lead us equality"と書いてみた。もちろん、それは幻想であるとして…。である。
2007年05月14日
アルゴリズムとは、コミュニティーの意思決定・代表決定の形式である。意思決定されたものを提出すること。代表を選出したものを発表することがオーソライズである。オーソライズされた意志・代表が、出自のコミュニティーを飛び出して流通することになる。☆一年ほどの間、私は、インターネットにインテグレート(統合)システムがない。と指摘してきた。インテグレートシステムがないから、ネット上に提出された個の発言は孤立する。個の発言が一般化すればするほど、発言総数は増える。一切のインテグレートシステムが存在せず、インターネットがフラットのままならば、発言総数は、分母となり、個が発言すればするほど、それぞれの存在価値は低くなる。結果、既存メディアの発言者たち(エスタブリッシュメント)の発言は温存される…。*インテグレートシステムは、ツリー状をイメージしていた。だが、ツリー状の三角形が、アメーバ状の多様な言論空間をすくい取ることができないという直感があった…。☆そこで、ヒントをくれたのが、グーグルである。グーグルは、アルゴリズムによって検索結果を出すという。SEO(検索エンジン最適化)という産業があるというが、それは、グーグルがアルゴリズムを公開していないため、そのアルゴリズムに最適なサイトの作り方を指南するものだという。SEOというテクニックが存在することは、グーグルのアルゴリズムが恣意的であることの証明でもある。一方で、グーグルは、「グーグル八分」をしたことで批判されている。公正さを元にアルゴリズムを公開しないグーグルが、恣意的・自己都合な意図でアルゴリズムを作成している。*「グーグルは神である」と評する言論人もいる。だが、グーグルは固有のアルゴリズムを行使しているに過ぎぬ。ならば、緒尊の中の一つではあるかもしれぬが、それが一神教的な神ではない。ならば、アルゴリズムという恣意的な意志・代表決定システムを並存させることにより、固有なアルゴリズムのバイアスを無力化しなけれならない。それにより、多神教的な言論空間が生まれてくる。☆グーグルのような自らのアルゴリズムを秘匿するシステムは論外である。アルゴリズムを公開し、それを多数存在し、それらを互いにリファレンスすることによって、あるべき言論空間が成立する。☆インターネットの時代、情報伝達に関わる経費はゼロに限りなく近づいている。ならば、他者を騙ることは、横着者の所作であり、一切の合理性を持たない。発言者は自説を語ることしか許されない。発信された個人の言論が流通するとき、感想者たちの感想や重要度勘案のタグがつくのが、インターネットの時代のスタンダードである。☆そのようなインターネット時代の情報流通を考えたとき、既存メディアが変革していかなければならぬ必然があることも感じていただけるだろう。
2007年05月13日
アルゴリズムがプログラムに関わる難解な概念であり、素人には理解できるものではない。とのご指摘をいただいている。たしかに、狭義のアルゴリズムはそのようなものかもしれぬが、私はあえて、「コミュニティーの意思決定・代表決定のやりかた」とシンプルに捉えたい。そして、その意思決定・代表決定のやり方によって、意志や代表が変わってくる。その恣意性を認識しつつ、提出された意志や代表を勘案すべきであるというのが、本論の主旨。その恣意性を認識するには、「多様なアルゴリズムを並存」させなければならぬ。というのが、今後のインターネットにおける重要な視点である。☆さて、「多様なアルゴリズムの並存」を、私が独自に導いたと思っている方がいるとするならば、それは買いかぶりである。私は、20年ほど前に、「多様なアルゴリズムの並存」に出会っている。それは、他でもない、当時画期的であったヤマハのシンセサイザーDX7である。当時のプロフェッショナルなシーンでのシンセサイザーは、イミュレーター、プロフェット5、カーツウィルなどが主流であり、いずれも、数百万という高価なものだった。そこに20数万円という画期的な価格で登場し、プロフェッショナルも利用したのが、ヤマハのDX7である。このキーボードの上面には、アルゴリズムの表が書かれていた。このキーボードの音源はFM音源(周波数変調)といい、オペレータという発信・変調する回路を組み合わせることによって、音色を変えるという。DX7では、32種類のアルゴリズムを並存させ、多彩な音色を誇っていた。特に、金属を叩くような打撃形の音色はきらびやかで、PCM音源が主流になった今も、音源として使われている。☆当時の私は、DX7のパンフレットを睨みながら、アルゴリズムについて理解しようとうなっていた。楽器店に行って、触って音色を確かめても見た。「欲しい」。買うと願った楽器だったが、極端な品薄で、予約しても、数ヶ月待ちという状況。せっかちな私はコルグの別のキーボードを買ってしまい、結果、DX7には縁が無かった…。とはいえ、私の脳裏には、アルゴリズムという概念が理解できぬ難解なものとして、印象に残ったのである。☆考えてみれば、コミュニティーがコミュニティーとして存在するのは、内と外があるからであり、コミュニティーがその求心力を求めるならば、何らかの「意思表示」や「代表」を選出・抽出しなければならない。しかし、コミュニティーが、そのために有効なコミュニケーションツールを持っているとは限らない。コミュニケーションツールの種別をアルゴリズムと私は呼んでいるが、その代表的なものは、次の3つだと考えられる。フラット、ツリー、ヒエラルキルの3種に大別されるアルゴリズムだが、それぞれに一長一短があり、どれか一つをとって理想とすることは妥当ではない。最近では、「フラット化する世界」と論ずるアメリカ人ジャーナリストもいるので、フラットが理想であるかの幻想をもたれる人もいるかもしれぬが、フラットなコミュケーションの欠点は多い。つまり、フラットなコミュニケーションでは、クレーマーを制止できぬし、ボピュリズムに陥りやすい。また、フラットであることにより、個の相対価値は低下し、コミュニケーションそのものが促進されない場合が多い。よく教室で先生が、「みんなで話し合ってください」と言っても、誰も話し合わないが、「隣の人と話し合ってみてください」と問いかけると、みんなが話し始める。そんな状況を想起すれば、フラットなコミュニケーションの弊害を理解していただけるだろうか…。☆ここでは、アルゴリズムを概観してみた。閲覧者のみなさんの理解が深まれば、幸いである。
2007年05月11日
日本新聞労働組合連合会のイベントが近づいている。そのサイトから、私のブログに来る人も少なからず存在するはずだ。その方々にとって、アルゴリズムという言葉に興味を感じないのかもしれぬ。だが、アルゴリズムという概念が、これからのコミュニティーでのコミュニケーションを語るについて、外すことのできない概念であることを確信している…。☆東京財団の「それから」研究会は、日本の新聞の未来を探るものだった。私は、「メディアがある限り言論統制・言論弾圧から免れない」という言論を提出し、2ちゃんねるが存亡の危機を迎えていることを危惧するとともに、既存メディアも同様の危険を孕んでいると指摘した。私のネット上の知人であるマスコミ者は、自分達に都合の悪いことがあると、同僚たちは、「言論の自由」を持ち出すと嘆いていた。巷間、メディアが喧伝する「言論の自由」に反する事例の多くが、メディア人たちのルサンチマン(怨念)の現出ではないか。と、私は感じている。その理由は、メディア人たちが、自らのステークホルダー(自己の利益を守る・損害を避ける)のために、軽々と「言論の自由」の理想の旗を降ろしているからである。そのことを、インターネットは如実に現してしまう…。☆la causetteさんのブログに、「diggにおける反乱」というエントリーがアップされた。Diggとは、英語圏ではユーザーの多いソーシャルニュースサイトである。その体裁は、私が理想としている市民参加型ジャーナリズムの形に近い。まずトップページがあり、次に、個別の記事に飛ぶ。個別の記事は、diggのサイトであり、そこではコメントによるコミュニケーションが図られる。記事は、外部のサイトとリンクしている。外部サイトでは、diggとアイコンがあり、ニュースサイトとのリンクを明示している。これは、ブログにおけるトラックバックなどが果してしまう、情報の上流・下流をイメージさせない。とても、フラットなリンク関係を明確に示している。上流は、沢山の人たちに閲覧されるが、要約されているが薄い内容。下流は、少数の人にしか閲覧されぬが、豊富な情報。二つのエレメントが対称的なパラメーターを成しているため、上流と下流はフラットである。この精神が、日本のインターネット市民記者メディアには欠落している。*仔細は、la causetteさんのエントリーに行っていただければ分かるのだが、私が要約すると次のよう…。diggに、HD-DVDのコピープロテクトを打ち破る暗号キーの情報が掲載された。この暗号と何らかのプログラムを使えば、コピイプロテクトがかかった市販HD-DVDソフトをコピイすることができるのだろう。当然のことながら、HD-DVDの業界から情報の削除依頼が来る。そして、diggの運営者・管理者も即刻削除する。だが、一度、掲載されてしまった暗号キーは、多くのユーザーたちにすでに保管されている。コピイプロテクトは、著作権者にとっては必要不可欠なものだが、ユーザーにとっては窮屈なものである。それは、コピイ&ペイストが専らなインターネットの現実とは遊離しており、インターネットの理想とは相容れない。著作権者の存亡を危うくする大量コピイや大量流通は許されないが、ソニーの盛田氏がカリフォルニアの法廷で戦って勝利したような、「私的な利用においては認められるべき権利」ではないか…。そのようなユーザーの思いは、diggの運営・管理者が何度も暗号キーを削除しようとも、再度、暗号キーをdigg上にアップするという行為になって、現れた。diggの管理・運営者は、サービスの停止をするか、巨額の賠償金を負うという2者択一を迫られている。だが、ユーザーたちは、そのよなコミュニティー存亡の危機とは無縁である。ユーザーにとって、ニュースサイトは無数にあるし、diggが無くなれば、代替物を探せばいいだけの話である。この状況こそが、「表現の自由」の名のもとに、メディアが崩壊する事例である。そして、そのことは、既存のメディアたちがなぜ、存続できてきたかを暗示する。そもそも、既存のメディアは、「表現の自由」とは無縁なのである。☆そのように、メディアが存在することが、著しく「表現の自由」「言論の自由」と乖離さぜるを得ないと悟ったとき、メディア者たちの存在を唯一肯定できるものは何かといえば、それは、ユーザーにとって納得できる「表現の自由」の制限であり、「言論の自由」の制限である。奇しくも、運営者は、「いままでも、ポルノや暴力・憎悪に関する言論については言論を制限してきた」と明かしている。それは、そのような制限を肯定してきたユーザーが、こと「表現・言論の自由」に対して、拘泥する論理矛盾の指摘かもしれぬ。☆根本的な原因は、diggというサイトが、フラットなアルゴリズムによってユーザーを扱っていることにある。これにより、ユーザーコミュニティーは集団的合意が成立せず、個の意見が孤立したまま、漂ってしまう。結果、どんなに管理・運営側が禁忌情報を削除しようとも、匿名の個たちが情報をアップするということが続いてしまうのである。あるべきは、集団的合意をもとに管理・運営をなすことである。その合意がないから、メディアは終末を強いられる。*ならば、フラットなユーザーコミュニティーのアルゴリズムを変革しなければならない。ツリー状。または、ヒエラルキルなアルゴリズムの並存によって、ユーザーの集団的合意を形成させなければ、diggは消滅してしまうに違いない。*diggのビジネスモデルは、現時点で考えうる理想のニュースサイトの形態である。だが、それが問題を孕んでいることが、今回明らかになった。これは、単にニュースサイトの問題ではなく、CGM全般についての問題であることは言うまでもないだろう。
2007年05月11日
※ アルゴリズムとは、コミュニティーの意思決定・代表決定のシステムです。アルゴリズムを論じることは、行き先を指定しない無責任な脱構築論ではなく、超構築論とでもいうものです。私はすでに、インターネットの歴史は、人類の4000年の歴史をトレースする。と指摘している。そして、今、私たちが位置するのは、原始共産主義の理想の時代であると論じてきた。事実、いまも村井純先生は、公権力のインターネットへの介入阻止に尽力されている。だが、原始共産主義の理想と言い放っていい気になっている状況ではないと感じている。その危機感が私をして、「アルゴリズムの時代」という本論を書かせている…。☆インターネットの理想が、原始共産主義の時代であることは変わりないが、ブログの普及は明らかに新たなるフェイズを生み出している。ブログの普及によって、個が発信することは珍しいことではなくなった。だが、個は発信によって、社会から孤立・断絶させられる。結果、フランクに思っていることを言う人は、炎上・バッシングされ、口当たりの良い言論ばかりが、世の中を横溢することになる。*私が女性小説家のオフ会で感じたことは、当日、その場にいた人たちのごく普通な感想だったはず。しかし、被害者ともいえた参加者の反発・バッシングはすさまじかった。映画スターのファンサイトでは、明らかに不出来な作品であっても、その不出来を指摘する言論は批判される。言論の場は、そのようなステークホルダー(立場)とルサンチマン(怨念)に満ちている。そのようなインターネットの言論がメディアが引用することによって、肯定されてしまうとともに、それが民衆の声だと詐称されて世の中に伝わっていくと、私たちの生活の根幹をなす民主主義の有様も変わってくる。それはまずいだろう…。というのが、私の言論する理由だ。☆民主主義が何時生まれたかといえば、フランス革命であることに異論はないだろう。では、そのフランス革命がどのような経緯をたどったかを思い出して欲しい。1789年、ブルジョワジーが国民議会を結成し、それ呼応するように民衆たちによりパスチィーユの牢獄の襲撃が起こる。彼らは新たな首長を決めることなく、人権宣言を採択し、1791年に憲法を制定し、立法議会を成立させた。だが、自国に民主化の波が寄せることを怖れた近隣諸国が、1793年、対フランス大同盟を締結し、戦争を挑んでくる。民主主義を機能させるために、十分に話し合って多数決をとるには時間がかかる。しかし、近隣諸国から攻められていては、話し合いに時間をとる猶予はない。議論を尽くさぬ採決は、合理的なものではなくなり、その結果が合理性を欠き、結果、近隣諸国との戦争に負ける結果に通じるならば、採決の結果に従うことも憚られる。そのような状況を悟ったロベスピエールは、ジャコバン党の独裁と恐怖政治をすすめた。*フランス革命は、英国のピューリタン革命のような王党派と議会派の争いではない。クロムウェルのような新たな王を生むための運動ではなかった。ロベスピエールは代議制民主主義を実行したに過ぎない。だが、それはあまりに彼の理想とは異なっていた。だが、そのような代議制に民衆やブルジョワジーは慣れていなかっただろうし、代議制を正当化するための制度も不備であったに違いない。結果、反発も多く、ロベスピエールは、極端な政策をとらざるをえなかったのだろう。それら、専制と民主主義のせめぎあいは、コンコルド広場で行なわれたのではなく、ロベスピエールの内的葛藤の中でこそ行なわれたに違いない。その結末は、内省的な書斎派だったロベスピエールが、自らの理想である民主主義の旗を降ろし、独裁と恐怖政治に手を染めることとなる。自由と平等を目指してパリにやってきた男にとって、それは人生を賭するに相応しい挫折であり、苦渋の選択であったに違いない。彼は、民主主義の理想の旗を降ろすことで、フランスという国を近隣諸国の軍隊から守った。だが、それが彼の理想・目標であったはずはない。☆ルイ16世、マリーアントワネットの死から、時を経ずして、ロベスピエールも断頭台の露と消える。次いで、現れた政治体制は、5人の総裁が司る総裁政府であり、その体制も、数年を経て、ナポレオンの独裁政権に繋がっていく。結果、ほんとうの意味で民主主義の時代がやってくるのは、まだまだ、先のことである…。否、一切の首長を存在しない民主主義は、いまだにこの世界に成立していない。2007年のフランスにおいても、サルコジ氏を民主主義の代表と見ることもできるが、新しい王様の誕生と見ることも否定できない…。☆会議・話し合いには時間が掛かる。議案は沢山あるにも関わらず、人間にはひとつの体しかない。ならば、重要人物が必ず出席しなければならない重要案件ほど、議事はすすまない。そして、個の思想は肉体に縛られているから、所属する派閥に縛られる。言論的対立はそれほどないにも関わらず、身を守るために所属する派閥の結束を固め、他の派閥と対抗する。採決にも、全員投票を行なうならば、お金と時間が掛かる。そして、投票の規模が大きければ大きいほど、手続きに公正さが求められるとともに、その絶対数のパワーの元に、その偏向さが忘れられてしまう…。そのような様々な事情が、民主主義を理想とかけ離れたものにしてしまう。だが、21世紀の私たちには、インターネットがある。☆インターネットならば、365日24時間の会議も可能である。そこでは、参加者のすべてが情報共有し、ステークホルダー(自己の利害)を越え、ルサンチマン(怨念)を越えた議論が期待できる。もし、ロベスピエールの時代に、インターネットがあれば、彼は独裁する必要もなかったし、恐怖政治をすることもなかったに違いない。インターネットの言論をリファレンスしながら、政治を動かしていけばいい。とはいえ、それはいまのインターネットでは駄目で、「多様なアルゴリズムを並存する」システムを内包したインターネットである。それは、多種多量なリモートなタグが存在し、それをインテグレートする様々なシステムが現出することによって、容易に成立する。現状は、情報そのものと、情報の価値判断が切り離されていない。既存のメディアは勿論、ネット上の情報の多くは、セルフブックマークに過ぎないのである。「劇団四季はスゴイらしい」とCMを打つ劇団。コミュニケーション・エクセレンスと名刺に書いた広告代理店。誰も指摘しないが、それらは極めてコミックなセルフブックマークである…。そして、熱心なガ島通信ウォッチャーである私は、「冷やし中華はじめました」というラーメンと屋の貼り紙にも似た、「クローズアップ現代に紹介されました」というエントリータイトルを微笑ましく見ている。(^o^)インターネットの普及を思うにつけ、ロベスピエールの無念を思ってやまない。ロベスピエールの挫折は、彼がギロチンの刑に処されたからではない。自らが掲げた民主主義の旗を、国家存続のために、降ろさざるを得なかったことである。*そして、21世紀…。コミュニティー存続のために自由・平等の理想を捨てることは、どこにでもある。あえて、ネット上の市民記者メディアの名前をあげるまでもない…。だが、それらの運営者たちが浅慮だったわけではない。「多様なアルゴリズムが並存する」運営システムなど、この日本のほとんどのフェイズに成立などしていないのだから…。
2007年05月10日
昨日、NHKクローズアップ現代で、アルファブロガーの特集をやっていました。タイトルには、「影響力を増す超人気ブログ」とあります。いま、読んでいる森健氏の本「グーグル・アマゾン化する社会」には、「多様化が生み出す一極集中現象」との指摘があります。*「ブログの終わりの始まり」と嘯かれる昨今、アルファブロガーこそ、ブログ界の一極集中という弊害・時代のあだ花であり、ブログの不毛を象徴する存在であると、考えています。NHKは、「影響力を増す超人気ブログ」とありますが、ブログ人口が800万を越えたならば、シェアから見て、影響力を増す超人気ブログという表現は適当ではなく、孤立化を増すアルファブロガーたちと表現すべきではないでしょうか。彼らのブログで、お互いの気づきを生むような対話が一切成立していないことを見れば、それは明らかです。つまり、アルファブロガーたちのブログは、もはやブログではなく、更新タームの短いホームページに過ぎない。*東京財団の対談では、対立してしまった感のある森氏ですが、光文社新書に書かれていることは、納得することばかり、現状認識もほとんど私と同じ、そして、憂慮されていることも殆ど同じだと感じています。森氏が、Web2.0の特徴を、ユーザー参加型というよりも、ユーザー依存型と明記していることも、私が、CGMはメディアがユーザーに君臨しており、今後は、ユーザー主導のメディアが誕生してくるに違いないという言論と等価ではないか。☆アルファブロガーの選出のアルゴリズムは以下のよう…。・サイトではなく、「ブロガー」である「個人」を探したいと思っていますので、大手ニュースサイト名等ではなく、ブログ個別で選んでください(CNET単体ではなく、CNETの○○ブログという感じで)・集計はブロガー単位で行いますので、複数のブログを書いているブロガーの場合は、一つだけ書いていただければ結構です。 なお、今年は単純な人気投票ではなく、皆さんに投票いただいたブロガーをノミネート候補として、サイドフィード、ライブドア、はてな、テクノラティ、日本技芸などの企業の方々にもご協力を頂き、多角的な分析をした形で結果発表をする予定です。 締め切りは2007年1月20日(土)です。 2006年まるまる一年を振り返って、回答してみてください。FPNのサイトよりつまり、いままでの人気投票に加えて、各種の数的勘案を加えた。選出方法については、さまざまな議論があるようだ。ある分析結局のところ、量的な勘案で質的な勘案を代行している。そんな印象を受ける。☆先のエントリーのコメント欄で気づかされたことだが、何故、「アルゴリズムの時代」というテーマを提出するかといえば、それは、民主主義の最大の欠点・「衆愚」が、「多様なアルゴリズムの並存」により、回避されるからである。衆愚の名において肯定されてきたマキャベリズムが、「多様なアルゴリズムの並存」により、否定されるのである。小泉首相も、ボピュリズム(人気取り・劇場型政治)と批判されたが、「多様なアルゴリズムの並存」という概念を世の中の人々が持つことができるならば、そのような批判から無縁でいられるかれしれぬ。実際、永田町主導というアルゴリズムに、自民党県連の意見の集積というアルゴリズムが勝利したのが、森首相の降板であった。*「多様化が生み出す一極集中」と、森健氏は指摘している。まさにその通りである。フラットな社会になれば、出る杭は打たれる状況になり、出すぎた杭は打たれない…。つまり、一点突破した者だけが勝利する。インターネットにより情報格差がなくなり、フラット化することは、グローバリズムと等価である。情報公開はある意味、ローカルコミュニティーを根絶やしにすることである。ローカルな王者は、グローバルな王者に太刀打ちできない。たとえば、地元の草野球チームが、アメリカのMLBのチームと戦えば勝てるはずもない。だが、観客にとって、必ずしも、MLBの試合を見ることが幸福であるとは思えない。いかに素晴らしい技術を持ったチームでも、見知らぬ外国人の野球を見て感動するのは、野球おたくでしかない。*私は東京に住んでいるから普段は感じないが、仕事などで地方都市に行ったとき、東京発のニュースを見ていて違和感を感じることがある。この地方の人たちにとって、東京発のニュースを本当に見たいのか・必要なのか。東京から発信されるニュースは、東京というローカルをグローバルであるかのように詐称して発信されている情報ではないのか…。勿論、東京は日本一の人口密集地帯であり、そこで行なわれる情報収集が、グローバルを仮称することは、是認されるのかもしれない。しかし、メディアが多チャネル化・分散し、CGMによってユーザー意見の抽出が可能になるならば、そういう所作も変化していかなければならぬだろう。*結局のところ、東京・地上波テレビが、一極集中の最たるものである。その存在を社会悪とみるか、ビジネスチャンスとみるか、必要悪とみるか…。それによって、世の中の見え方も大きく変わってくるし、その見え方で、その人のステークホルダーも明らかになる。☆私はいままで、ネットにおいても、ステークホルダー(自己利益を目論む)の当事者発信が横溢していると憂いてきた。そして、ネットにおけるインテグレートシステム(民意抽出システム)の不在を指摘してきた。だが、「アルゴリズム」という概念を得た今、必ずしもインテグレートシステムを必要としないことに気がついた。つまり、オフィシャルコミュニケーションに対立するものとして、非オフィシャルコミュニケーションを存在させる必要はない。オフィシャルコミュニケーションが、多様なアルゴリズムよって複数存在することが、より摩擦が少なく、より健全である。☆アクセス数で勘案することが質を保証しないという意見もある。ならば、アルファブロガーは、特定アルゴリズムの専横の結果でしかない。私の感覚では、・ブロガーとはコメント欄とTB欄を空けている人のことを言う。・眞鍋かおりのような人は勿論、なんらかの商業的営みとしてブログをやっている人は、商人ブロガーでしかない。・そして、ニュースサイトなどにぶら下っている人たちが存在するのはブログ空間ではない。ネット新聞にぶら下った個人コラムである。(ブログとネット市民新聞の中間の位置づけ)極論をいえば、ブロガーとは炎上にけっして怯まず、対峙する人である。ならば、今回紹介されたアルファブロガーのほとんどは、かつてはブロガーだったかもしれぬが、いまはブロガーではない。そのような人たちの営みが寡占的な地上波テレビを牛耳るテレビ人にとって、オーソライズされ、テレビ番組として紹介される。これもまた、特定アルゴリズムの専横である。☆インターネットが永遠のベータ版であり、情報のオーソライズは、コンテンツメーカーがするのではなく、無名な受け手たちのコミュニティーによってなされる。その無名な受け手たちのコミュニティーの神経経路ともいえるのが、「多様なアルゴリズムの並存」である。神経系・リンパ系・脊髄反射系・思考系…。さまざまな経路があり、それらが時を得て結論(オーソライズ)を出す。「多様なアルゴリズムが並存」した暁には、すべてのメディアのオーソライズ機能は無力化する。そのような時が近づいているに違いない。実は、その危機感を多くのメディア人も感じていて、だからこそ、自虐的な言論を繰り返す。その言論構図は、ギター侍の、悪態をついた後の切腹のセリフにも似て…。補足:アルゴリズムとは、集団を代表するものを決めるシステムです。スポーツでいえば、リーグ戦方式、カップ戦方式、ワイルドカード方式、勝ち抜き方式…。議論でいえば、多数決方式、委員会方式、談合方式…。*サッカーでは、リーグ戦の王者がカップ戦の王者とは限らない。ならば、それぞれに利点があり、欠点があり、どちらが真の王者を決定しているのかは、覚束ない。ならば、それらを並存させることこそ、真の王者を決めることになる。*それが、私が指摘する「多様なアルゴリズムの並存」であり、それがインターネットの時代ならば、実現できるのです。
2007年05月09日
トーマス・フリードマンは、「フラット化する世界」という著作で、南北問題は解消し、ヒエラルキーな世界は解消し、アメリカの地盤沈下を危惧している。私は、それがアメリカ人の圧倒的な優越感による言論に過ぎず、アメリカ人にとっては有益な言論かもしれぬが、数十年の経済的優越しか持たぬ日本人が、この本を読んでしたり顔をすることは軽薄であると感じた。フリードマンは、さまざまなフェイズがフラットになると指摘する。だが、そのフェイズを見つめる視点はアメリカにあるということに気づかなければならない。ITをめぐる諸相はフラットになる。だが、言論のフェイズはアメリカ独裁(英語独裁)で変わらぬ。そのような安心感の上で、この著作が綴られていることを、忘れてはならぬ。☆フラット化する世界にアメリカは対応しながら、21世紀のリーダーシップをとっていく。それが、フリードマンの言論であり、それに、アメリカという社会がベストセラーにして応えたというのは、当然のことである。では、日本はどうすればいいのか。そもそも、フラットな側にいた日本が、フラット化に対応するなどということは不毛である。ならば…。*私は、「アルゴリズムの時代」というテーマを提出したい。世界の21世紀は、アルゴリズムの時代である。アルゴリズムの時代が到来することにより、グローバリズムとアメリカニズムは分離され、衆愚からも解放される。そこにおいて、ヒエラルキーという妄想も、フラットという幻想も世の中から消え去るのである。*アルゴリズムの時代の到来に抵抗するすべての人は、独裁者であり、民主主義の敵である。アルゴリズムの時代こそが、人類をあるべき方向に促すのだ。☆これから数回、アルゴリズムについて語っていくことにする。反論・疑問・問題点を得た人はぜひともコメントを試みて欲しい。有効な議論から、新しい言論が生じることを願っている。アルゴリズムとは、議決方式・代表の決定方法・選択の方法・抽出の方法・ランキングの決め方・組み合わせである。ツリー状のヒエラルキーシステムや全員参加の採決が無批判に肯定される時代は、インターネットの普及により終焉する。ツリー状のヒエラルキーシステムは、元来「ねずみ講」的なものであり、新規参入者を拒む。ならば、世の中にフリーターが多発するのは当然のことである。相互コミュニケーションが欠乏したコミュニティーに於いて、全員参加の採決が衆愚に陥るのは当然である。情報を共有し、それぞれが意見を十分に交わせば衆愚な結果にはならない。インターネットの登場により、ヒエラルキーの上部と下部の情報格差は合理性を持たない。そして、365日24時間対話ができるインターネットがあるなら、全員参加の採決も衆愚にはならない。もし、ヒエラルキーが害悪をもたらすならば、ネットの情報共有機能を理解せぬ者が存在するために、情報格差があること。もし、衆愚があるなら、ネットの対話機能を理解せぬ者が存在するのである。追記:グーグルの終焉・佐々木氏言論の危うさを論じていても、建設的ではない。これからは、「アルゴリズムの時代」という提案をすることで、21世紀のあるべき日本とインターネットについて論じていくことにしよう。
2007年05月08日
佐々木氏の言論については、すでに語っている。佐々木氏は、グーグルの次と暗示しながらも、グーグル神話を紡ぎつづけている。だが、2007年において、その言論は翳りをみせている。EPIC2014を紹介し、グーグルアマゾン時代がやってくると誇らしげに語っていた湯川氏も、その考えを修正している。彼は、すでにグーグル・テクノラティー・ニューシングなどを検索エンジンとして選択的に利用している。*EPIC2014が何故やってこない理由は以下。・グーグルはクローズド・アルゴリズム・ロボット検索エンジンであり、それは、オープン・アルゴリズム・ハイブリッド(マシン&ヒューマン)検索エンジンの登場によって、輝きを失う。・グーグルが情報をパッケージとして捉えていて、その二次加工を捨象している。・現時点においても、SNSはグーグル検索を拒絶する島宇宙を形成している。グーグルゾンが、個の情報のすべてを無制限に獲得することは不可能である。・グーグルゾンは、営利的・商業的フェイズをターゲットに運営されており、その他の領域を対象にしないバイアス(偏向)のきつい情報機関である。☆本著作において、佐々木氏は、グーグルの次のモデル・これからの時代は、高機能なUFOキャッチャーが登場する時代だと期待する。しかし、CGM(消費者参加型メディア)が、COM(消費者主導型メディア)に移行する流れの中で、UFOキャッチャーが捕縛しようとするぬいぐるみたちが、変化しない・固定的な存在であるはずもない。景品が、ゲーム機の中に定常的にあるとも思えないし、ぬいぐるみを補充する前に、ゲームセンターの従業員に賄賂を渡して、UFOキャッチャーを経ずしてゲーマーが景品を獲得することも大いに考えられる。そもそも、検索エンジンを喩えるにつき、ゲーム機の設置者(商売人)がいて、彼らがゲーマーたち(顧客)にお金(対価)を払わせて景品(情報)を獲得させるなどというUFOキャッチャーを持ち出すことが不毛なのである。もちろん、社会ツールとしてではなく、ビジネスモデルとしてグーグルを考えるならば、UFOキャッチャーを例にあげることも仕方の無いことかもしれぬ。ただし、それでは彼が終章で指摘している「リスペクト」は得られないのである。
2007年05月07日
マクルーハン「メディアの法則」(NTT出版)の訳者(中澤豊氏)あとがきから引用する。マクルーハンは、演繹とか機能といった論理学の用語は避け、「概念(コンセプト)から知覚内容(パーセプト)へ」という彼らしい表現で、抽象的な「思惟」よりも、「観察」の重要性を説いている。そして、観察をより確かなものとするため、知覚の偏向(バイアス)への注意も怠らない。マクルーハンのアフォリスティック(箴言集・金言集的)な記述スタイルは、フランシスベーコンに倣った、理論的知識の体系が押し付けてくる近くの変更に対する反撃であった。アフォリズムは、通常、箴言集・金言集と訳される。要は、体系的に論述する(演繹・帰納・弁証....)のではなく、具体的事実や根本法則を破断的に提示することによって、論理ではなく直感に訴える言論形式ではないたろうか。☆私は考える。ブログのエントリーというものは、ひとつの体系としての分量を許されない。カテゴリーとしての連続した文脈を提出することもできるが、果たしてそれが、そのような文脈の中で読まれるかどうかといえば、それは疑わしい。もし、私のブログの閲覧者が、私というひとつの文脈を理解してくれれば、私は次のように、ブログに書くことはなかったはず。私は、1000件以上にも登るエントリーを読むことを閲覧者に強いることはできぬ。私は、スポンタという固定的な文脈を知ってもらうことが、読者・閲覧者の理解に資すると思って、エントリーを溜めてきた。だが、その結果に起こったことは、逆である。スポンタという固定的な文脈を、読者・閲覧者に強いることは傲慢・僭越である。*そして、ブログというフレームでは、帰納や演繹という体系・文脈として、言論を提出することはできない。それは、アトグランス的にパソコンディスプレイで情報に触れること閲覧者の生理から言っても当然のこと。このブログの1つのエントリーの文字数の限界は、1万である。ということは、400字詰め原稿用紙25枚以内で、訴求点をまとめなければならない。原稿用紙25枚という分量が、演繹や帰納に適していないことは言うまでもない。体裁が整えられた論文を想定するならば、原稿用紙25枚というのは、演繹や帰納を構成するひとつの項目としても、足りないぐらいである。*ひとつのエントリーについて1万字という制限は、ブログの閲覧者の生理から言って、限界的な字数である。そして、シリーズとしてエントリーを読み連ねるかといえば、それも極めて疑わしい。何故なら、日記の時系列は、現在から遡る形で提示されているため、シリーズをはじめから読むということが、ネットでの習慣として奇異であるからだ。☆思えば、私の中では、25枚という原稿は、極めて中途半端な分量である。何かを論述するに、最低限必要な枚数は、100枚だろう。そして、200~300枚が適当な枚数である。きっちり、じっくり語る・論じるならば、500~1000枚必要だというのが、本当のところ。しかし、そのように詳らかに丁寧に書かれたものを誰が読むのか。といわれれば、極めて寂しい状況になる。「幻想の市民参加型ジャーナリズム」の分量は350枚である。私は仕事の合間の1カ月(1日2時間、土日は8時間)ほどで、一気に書き上げた。そこに提示されている言論はほとんどブログにおいて提示されていたものである。だが、それに私は満足をせず、何故そのようなものを書いたのか。それは、私自身の体系的な言論に対する劣等感であり、アフォリズム的な言論の集積では価値を見出されぬという絶望があったからである。*当該原稿のブログのアクセス数は、すでに1万3千のアクセスを集めて、更新はせぬものの今だに1日の数十件のアクセスを集め、時として100件を越えることもある。だが、それをエントリー数106で割ってみれば、理解できる。延べにして、私の作品を全部読んだ人は、122人に過ぎない。体系的な文脈として、「幻想の市民参加型ジャーナリズム」を捉えるならば、極めてお寂しい状況となる。だが、ひとつひとつをアフォリズム式の集積物として考えれば、状況は変わってくる。1万3千は1万3千であり、122ではない。そもそも、ブログという文体・文脈の中で、体系的な情報提示をしようとした私が間違っていた…。そのことを、マクルーハンとフランシス・ベーコンは教えてくれる。☆そのようなブログの文脈において、私が言えることは次のようなものである。もし分からない語句があれば、スポンタと当該用語をキーワード入力してググルことによって、理解を深めて欲しい。キーワードとは、アフォリズム(箴言)の核をなす単語である。その単語と私のハンドルネームを入力すれば、閲覧者の理解に資すると期待するのだ。フランシス・ベーコンのペンネームが劇聖・シェイクスピアではないかといわれるような16世紀の人物である。グレン・グールドの友人であり、1980年に亡くなったマクルーハンの言論ではなく、16世紀の思想家の言論を引いて、ブログを論じることの意味をかみしめている…。ベーコンは、「学問の進歩」(服部英次郎・多田栄次訳、岩波文庫p242~243)の中で次のように述べている。それとは別の、重要な、伝達方式の区別は、アフォリズム式か、あるいは体系式かの知識の伝達である。それについて注意すべきことには、どの主題についても、少数の一般的命題あるいは所見から、本式のできあがった学問をうちたて、それにいくつかの叙説をつめこみ、それを実例をもって説明し、もっともらしい体形式の書き物にまとめ上げることがあまりにも習慣になりすぎている。ところが、アフォリズム式の書き物には、体形式の書き物などの及ばぬ、多くのすぐれた長所がある。すなわち、まず第一に、アフォリズム式のものは、筆者が浅薄なひとであるか、堅実なひとであるかの試験になる。というのは、アフォリズム式のものは、嘲笑されるようなものでない限り、諸学の真髄からつくらざるをえないからであるが、それというのも、例証のための説明も省かれ、実例をあげることも省かれ、脈絡と順序のための説明も省かれ、実際の応用のための叙説も省かれるからである。それで、アフォリズム式のもののうちにもられるべきものは、ある適量の所見だけであり、したがって、健全で、しっかりとした基礎のある人でなければ、何人もアフォリズムを書く資格はなく、書こうと企てても無理であろう。ところが、体形式のものにおいては、「順序と配列は大きな力を持っていて、平凡なことから取材したものにも素晴らしい光彩を与える(ホラティウス『詩篇』)」ので、解体されればつまらぬものになってしまうようなものでも、うわべだけはりっぱな学問にされるのである。第二に、体系式のものはむしろ同意や信用を得るには適しているが、行動を指示するには適していない。というのは、体系式のものは、一種の循環式あるいは相互的証明の方法をとり、各部が互いに説明しあい、それゆえに納得させるものであるからである。ところが、個々の事例は個々別々のものであるから、個々別々の指示がそれにもっとも適しているのである。最後に、アフォリズム式のものは、断片的な知識を示すので、一層深く研究するように人々を誘うが、それに反して、体系的なものは、うわべは全体のような様子であるので、研究の果てまで来たかのような安心感を人々に与えるのである。「メディアの法則」(マーシャル&エリック・マクルーハン。訳・中沢豊 NTT出版 P346より)私は、16世紀の思想家の原稿を読みながら、佐々木俊尚氏の言説を思っていた。何故、研究対象・領野を共有する彼と私の言論がこれほどまでに乖離しているのか。フランシス・ベーコンは、体系的記述スタイルとアフォリズム的記述スタイルを比較しているが、その底にある意識の違いに気づかなければならぬのだろう。☆私は、マクルーハンとベーコンの言論を持って、自己肯定をしようなどとはついぞ思ってはいない。1970年前後に「マクルーハン詣で」などとういう言葉が誕生し、メディアからひっぱり凧になったにも関わらず、学会からは冷ややかに見られたマクルーハン。そのような事情もあって、彼の思想はメディアに消費されつくすと、ブレーク後の彼の名声には翳りが差したという。それをして、佐々木氏の名声と私の無名をメタファーするならば、それはルサンチマン(感情的)すぎるのかもしれない。とはいえ、インターネットの存在しない16世紀の思想家が指摘したことが、新鮮に捉えるとは、なんとも痛快なことである。否、グーテンベルグの活版印刷の普及期に生きた稀代の思想家が感じたことと、21世紀の我々がインターネットの普及において感じていることが等しいというのは当然のことなのだろう。ベーコンの著作を一作とて読んでいない私であるが、シェイクスピアの正体とも疑われるベーコンの著作が、アフォリズムの現出であることは容易にイメージできる。*ベーコンのような地位やマクルーハンのような名声のない私が、アフォリズムで語っている。何故、アフォリズムで語るのか。それは、ブログというメディアの制約上の出来事でしかない。だが、体系的でないことに劣等感を持つ必要は無い。散文的であることは恥じるべきだが、アフォリズムであることを恥じる必要はない。そして、体系的であることこそ、出口のない現在を語ることであり、明日への入り口を見失う所作なのである。
2007年05月05日
佐々木俊尚氏の「次世代ウェブ・グークルの次のモデル」(光文社新書)を読んでいる。私は無名氏に過ぎぬが、彼との少なからぬ因縁を感じている。それは、GripBlogに関わる「ことのは」のM氏関連の擁護論陣を彼が張ったこと。そして、オーマイニュース日本版に関して、彼が、イデオロギッシュな視点でカイゼンを求めたことについてである。*前者については、日本において言論の自由は尊重されるべきだけれど、無制限にそれが尊重されるのではない。殺人や自殺を肯定する言論は制限される。ならば、それに連なる言論は制限されてしかるべき。同様に、殺人集団に加わっていた人間は、同様な過ちを繰り返さないという意志を見せることによってのみ、言論が許されるべきであって、殺人集団に加わり、その言論部門として活動しながらも、一切の自己批判をしないM氏に言論の自由はない。というのが、私の立場・考えである。佐々木氏は、GripBlog氏、歌田明弘氏(週刊アスキーコラムニスト)、R-30氏とともに、M氏の擁護論陣を張った。私は、パソコン通信時代を思い出し、カルト宗教の蔓延がネットの自由な言論をいかに妨げるかということを痛感してきたので、トリル氏などの指摘に背中を押されながら、彼らの言説の危うさをネット上で批判してきた。*後者については言うまでもない。ベルリンの壁崩壊後、右左という視点は不毛化している。ネット上のメディアが存続できる唯一の視点は、時事通信社の湯川氏が唱えているように、「対話を継続すること」である。運営の透明性・編集の透明性・市民記者との対話…。それらの問題を私はネット上で提示したが、一切の対話は生まれなかった。フランスの社会思想家のジャック・エリュールは、「対話が終わったときに、プロバガンダが始まる」と言ったという。*私は思う。対話をしないメディアは、ピンボンダッシュをしているに過ぎず、報道機関ではなく、プロパガンダメディアなのだ。「みんなが市民記者」をスローガンではじまったオーマイニュース日本版も、そのひとつであることは指摘するまでもないし、私の指摘に一切答えない佐々木氏を考えれば、彼の言論もオーマイニュースが仕組んだ言論誘導のひとつでしかない。☆さて、話を戻そう。佐々木氏の著作「次世代ウェブ・グークルの次のモデル」の174ページには次のようにある。以下引用。たとえばアルファブロガーとして知られる松永英明は、「備忘録ことのはインフォーマル」という自身のブログでこう書いている。「Web2.0」の背景にある考え方。」という2006年9月28日のエントリーだ。 M氏の言論を受けて、佐々木氏はこのように続ける。つまりマーケティングや意思決定など、何らかの社会の傾向を調べたり、あるいは多数決による世論などを定めるのには、集合知は有効だ。しかし、「真実」を探求する方法としては、集合知は誤ってしまう可能性があるのである。島田裕巳氏が、中沢新一氏批判の本を上梓されたという。その理由は、中沢氏の言論が、いまだにオウム真理教の信者たちの還俗を阻んでいるからだという。私は、一貫して、「M氏には地下鉄サリン事件でご主人を亡くした高橋シズエさんの前に、言論の自由はない」と主張している。そして、それが衆愚に関するものであり、それが、オウムによって殺された30余人の方々をメタファーするのならば、その過ちを指摘しなければならぬ。中沢氏と佐々木氏は同じことをしている…。☆さて、M氏と佐々木氏の言論。読者の方々は納得されているだろうか。もし、彼らの言論に納得されているならば、小学校時代の学級会の経験を忘れているに違いない。*議案が提出され、解決策の選択肢が提出されたら、即、多数決をとるなどということはなかったはずだ。たとえば、「クラスのいじめられっ子の○△君を学級委員にしよう」と、誰かが提案したら、即、採決などということがあっただろうか…。普通は、そこで議論・対話がはじまる。誠実な先生は、「あなたたちは、本当にそれでいいの? ちゃんと話し合いなさい」と叱ったはずである。小学校の学級会は、小学生たちの知性によって営まれており、衆愚とは無縁である。なんて、こどもの日にふさわしい言論っす。(^^;)*私があえていうまでもなく、インターネットの最大の利点はインタラクティブ・対話である。(情報共有・ログが残ることも、対話の中の一つ。過去形の対話でしかない)*なのに、エスタブリッシュは既得権益が損なわれるとして、対話に応じない。そして、被エスタブリッシュは傷つくことになれていないから、対話を始めない。☆それは、「次の時代は、智民主義の時代である」と唱える公文俊平氏の言論も同様である。そもそも集合知が衆愚に陥るという考え方が、選民主義的なのである。そのようなネット以前の価値観を、ネットの21世紀に適用することに合理性はない。*公文氏は、知ではなく智と記述することにより、Knowlege, Intelligenceではなく、Wisdomというニュアンスを表現したかったに違いない。だが、いま気づくことは、集合知というものが、Knowledge, Wisdom, Intelligenceなどとうい静的なイメージではないこと。集合知というものは、動的なものであって、動的であるがゆえに、万能な知性を保持する。動的とは、知性と知性がコミュニケートすること。つまり対話である。多くの宗教で、固定的な知であるはずの経典が、何故、説話体になっているのか。※特に、仏教・儒教では、弟子との対話体で宗主の思想が語られる。それらは、すべからく叡智というものが、固定的なものではなく、知性と知性が対話(コミュニケーション)することによって成立することを物語っているといえるだろう。*私には、「集合知が衆愚に陥る」という考え方に違和感があった。私はダウン症の青年とバンド活動をしていたが、彼の参加によってバンドが衆愚に陥るなどと考えたことはなかった。逆に、彼から音楽の意味、ステージの意味を教えてもらった。勿論、非ロゴス的なコミュニケーションにおいてではあるが…。*そのような経験から紡ぎ出される思考の過程でたどり着いたのは、ロゴス(言語的)的な集合知は棘棘しいものであり、非ロゴス的な集合知は違うものである。と、考えた。だが昨日、ある気づきを得た。「ユングの神秘主義を出す必要は無い」と、皮肉にも神秘主義者であるはずのM氏の言論に触れて気づくことができた。そして、インターネットにおける言論・情報の理想を次のようにまとめる。すべての情報を共有し、ステークホルダー(自己の利害)を乗り越え、ルサンチマン(怨念)を乗り越え、対話・議論を尽くした上で、採決をしなければならぬ。365日24時間の対話が可能なインターネットでは、その実現が可能である。365日24時間の対話を施行せずして、採決をとるならば、その採決の結果が真実とかけ離れるのは当然である。グーグルのロボット検索は一切の対話を望まない。検索に対話が付随しないから、「日本人がブードルと羊の見分けがつかない」などというデマが、諸外国に伝わることになる。テレビという極めて絶大なオーソライズパワーを持つメディアが誤診したら、その誤診が広がってしまう。グーグルは、テレビ局のオーソライズパワーを無批判に肯定している。私は、川上麻衣子の出演した小堺一樹のサイコロ鼎談番組をオンエアで見ていた。私は、「ペットが通販で宅急便でやってくる」という発言に疑問を思った。このエピソードは、ネイルサロンの楽しいジョークのひとつであり、真実性を持って流通すべき情報ではなかった。もちろん、諸外国のメディアたちも、楽しいジョークとして楽しんでいるに過ぎないのだが…。☆衆愚などというが、異種・多様な人たちが集まっての対話がどうなるか、考えてみればいい。たとえば、政治家・役人・裁判官・弁護士・新聞記者・魚屋・肉屋・パン屋・主婦・こども・障害者のコミュニティーがあったとする。そこで、365日24時間の議論・対話がなされる。たとえば汚職の議題が出たとする。まずは、ステークホルダーから、政治家と役人に対して、新聞記者と弁護士が糾弾する。それを裁判官が裁定しようとする。だが、そのような人たちだけで、過半数を得ることはできぬ。そこで、政治や役所のしくみが分からぬ魚屋肉屋パン屋主婦こども障害者が言論に加わらなければならぬ。そこで、即、採決がとられれば衆愚に堕ちる。だが、ネットではそういう必要はない。365日24時間対話・議論を続ける。…まるで、十二人の怒れる男のように。時を重ねても、魚屋・肉屋・パン屋・主婦・こども・障害者たちが、その能力の限界により、社会学的な真理を理解できぬことはありうる。だが、発言者が、正の言論を司っているのか、偽の言論を操っているのかは、言論の内容を理解していなくとも把握できるはず。障害者たちの直感的人間観察力の鋭さはいうまでもない。そして、政治家も役人も弁護士も新聞記者も対話・コミュニケーションの中で、お互いのステークホルダー(利害関係)を越え、ルサンチマン(過去の怨念)を越えていくに違いない。*もし、読者が、そのようなイメージができぬならば、それは、ステークホルダーやルサンチマンを越えていない、まだまだ時間が足らぬ時期を想定しているに過ぎない…。☆アルゴリズムとは何か。それは、対話を避けて、演算ですませることである。そのような功利主義に騙されてはいけない。そこにこそ、グーグルが、神として君臨できぬ脆弱さがある。グーグルは、人知でも、集合知でもない。単なる恣意的なアルゴリズムの集合体である。追記:ネット時代に衆愚はない。もし、衆愚に感じられるとすれば、それは、対話システムの不備を表現している。
2007年05月05日
時事通信社の湯川さんがNHKラジオ第一放送に出演するとmixiで知り、番組の2/3を聞いた。マクルーハンは、「メディアはメッセージ」であるという言葉を残している。私のキャリアは、ずっとメディアと付き合ってきた。だから、どのような立場に彼がいたか。そのことが推測できる。彼は、何を言うことができて、何を言うことができなかったか…。とはいえ、湯川氏はいつもの親しげのある語り口で、いくつかのエスタブリッシュとして、極めて厳しい発言をしていた。・いまのネットは、西部の荒野が都市になっていく過程である。・メディアがユーザーのニーズに応えていない。・現行・著作権法の不備・匿名・実名論争の不毛(携帯サイト・韓国ネット自殺をとりあげて)湯川氏は、西部の荒野から都市になっていくと形容している。私も最近、「ブログがすでに終った」と論じたアルファブロガー氏に、ゴールドラッシュに群がった金の亡者たちにとってのブログが終わったに過ぎぬと、言論している。私の中の西部は、ジョンウェインの映画だったり、映画「ダッジシティー」「真昼の決闘」でしかない極めて貧しいイメージだ。だが、アメリカ西海岸に長い間暮らした湯川氏には、西部の荒野とロサンゼルスの都市が明確なビジュアルとしてイメージできているのだろう。*最近では、番組の裏事情をリークすることがはやっている。いままでタブーだった、ジャニー喜多川氏のエピソードも、ジャニーズ事務所のタレントたちが、「You...○△□しちゃいなよ」と言われたと暴露し、スタジオの笑いをさそう。二枚目俳優として活躍していた沢村一樹氏は、バラエティー番組でエロ話を披露して話題になると、最近では、トーク番組の出演前の打ち合わせになると必ず、「エロ話をお願いします」とディレクターに懇願されるという。そういえば、ある女性タレント(私の記憶では勝恵子?)は、料理挑戦番組で、誤って重曹を入れてしまい膨らせて、スタジオの爆笑を呼んだ。番組のディレクターは、次からも爆笑をお願いします。と、懇願したようだが、彼女は、報道番組のキャスターでもあったので、料理学校に通い、当該番組で爆笑を呼ぶことはなかった。女医の西川史子も嫌われキャラを作っているというし、磯野貴理も、すべりキャラを演じている。番組の出演者が、すべて小倉優子のようなコリン星のプリンセスを演じてるとはいわないが、すべからくメディアの出演者は高校野球の選手同様、監督の指示によって役割を演じているに過ぎない。そのような予定調和の世界だから、予期せぬ発言が新鮮で、大受けになる。だが、その大受けも、次からは二番煎じよろしく繰り返される…。*では、そのような番組制作者たちが、意図的に何かを行なっているかといえば、そうではなく、まさにマクルーハンが言うメディア(放送枠)からメッセージ(文脈)を感じ、そのストーリーと不即不離の関係にある個別のコンテンツを組みあげることに努力しているのだ。新聞には新聞の文脈・文体があり、テレビ・ラジオも同じ。それぞれのメディアには、すでに読者がいて、その読者のニーズに合致した番組をつくらなければならないのだ。☆そのようなことを思いながら、湯川さんのMIXIに次のように書き込んだ。NHKラジオ第一の休日の午後という文脈が分からないのでなんともいえませんが、湯川さんとしては、思っていることのどれほどを喋られたのでしょうか…。 きっと、20%くらいじゃないかな。 というのが、私の感想です。 ☆ 実名・匿名論争にしても、インテグレーター(引用者・第三者重要度審査員)が介在しないから、問題が起きているに過ぎない。 ネットの最大の利点は、集団の自浄作用であり、そのシステムの現出をエスタブリッシュたちが拒んでいるから、いまのネットの問題が存続しつづける。 その見えざる意図は、労働組合ができるのを拒んでいる企業経営者と同じ。 一人の個ならば、言論に対抗できるけれど、団結されたら、自らの立場が危うくなる。 それが、今、ネットで起きていること。 ☆ 鼎談者の一人のチャーリーさんはネットでは発信しないというし、エスタブリッシュのブロガーでも、コメント欄を閉じたりやTB欄を認証制にする人も多い。 そして事が起こるや、コメント欄が閉じられることも多い。 歌手の絢香。そして、若槻千夏…。 対話を拒絶することは仕方のないことかもしれないけれど、そういう自分を誇らない、少なくとも恥じることは必要ではないかと思っています。 湯川さんの仰るように、対話を粘り強く続けなければならない。 それに尽きるのでしょうね。 ありがとうございました。 追記: 番組で提起されたネットの問題の多くが、インテグレーターの介在と、多様なアルゴリズム(言論の抽出方式の組み合わせ)の並存によって解消できるのに…。 と、残念でなりませんでした。 いまネットで何が起きているか。という議論をする前に、ネット世界がいかにリアルな世界と違う常識によって動いているか。そのことをまず、提示しなければならなかったのでしょうね。 ☆このブログの読者であれば、上記のテキストが、私が思っていることの20%も述べていないことを理解していただけるだろう。何故、そのようなことになったかといえば、SNSというクローズド・コミュニティーというメディアの中で存在するテキストだからである。湯川さんが「対話の重要性」を指摘するならば、私も一言付け加えたい。「発信者は対話を拒んではならぬ」。対話を拒む発信は、ピンボンダッシュでしかない…。*いつか、私のインテグレート論・アルゴリズム論・ステークホルダー論・言論の最小単位論・コミュニティー論・トリガー論たちが、沢村氏のエロ話のように、メディアのディレクターたちに所望される時が来る。そのときが来るまでは、湯川氏同様20%の持論を提出しながら、その時を待つことにする…。とはいえ、言論の妥当性・有効性によっては、ユーコリンのコリン星バナシのようなキワモノ扱いに終わる可能性もある。余談は許さない。
2007年05月04日
サンケイ・エクスプレスを読んでいる。2007.05.02の29面のメジャーリーグというコラムには、「取材でおぼれるな」名記者の教え。というのがあった。記事の内容は、先日、交通事故で亡くなったデビッド・ハルバースタム氏という世界的なジャーナリストの日本滞在中のエピソード・彼が産経新聞の記者である筆者に送った言葉である。以下、引用。「読者が舞台に引き込まれるようなものを書こうとつとめている。それには細部まで取材しないと。野球記者はロマンチックな仕事だから、物語をつくってしまいたい誘惑にかられる。しかし、それでは駄目だ。取材対象のチーム、選手から距離を置け。好きになっても、おぼれてはいけない」。筆者は、ハルバースタムの詩的な文体で紡がれている著作を紹介し、アメリカの多くのスポーツ記者のお手本になったと絶賛している。☆…そうか。と、はたと気づく私。記者は詩的であることは許されても、物語をつくることは許されていない。☆オーマイニュース日本版がスタートすることを知ったのは、有名ジャーナリストである鳥越俊太郎氏が編集長に就任することが決まったニュースからである。その頃の私は、鳥越氏とのメイルのやりとりも始まり、市民参加型ジャーナリズムについて、建設的な対話をしようとワクワクしていたのだが、ひとつの気がかりがあった。それは、鳥越氏が、自らを「ニュースの職人」と誇って憚らないからだ。*私は思う。ニュースとジャーナリズムは違う。彼の言説から、「ニュースの職人」の内容を憶測するに、それは、以下のものに直結する職業的スキルではないかと思えてきた。・スクープ・センセーショナリズム・読者の感情を煽ること。彼は市民記者たちに、「喜怒哀楽驚恐」で記事を書けと言い続ける。私は、私なりに文章修行をしてきたつもりであるが、そこで一貫しているのは、筆者が感情的になるのはよくないということ。感情的になるのは、読者であって、筆者は冷静に淡々と語るべきであって、自らの感情の盛り上がりで、読者の感情を削いではならぬのである。それは、すべての表現の現場での常識でもある。喜劇役者が舞台で笑ってはならぬし、指揮者・バーンスタインは、舞台で感動する演者は3流と言って憚らない。*鳥越編集長と、市民参加型ジャーナリズムについて対話しつづけるならば、そのことを指摘せずにはいられない。鳥越氏から公開討論をしようとの提案もあった。だが、あまりにネットを知らぬ彼と公開討論をすることは、彼を血祭りにすることにしかならず、それがこれから始まる新しいメディアに打撃を与えかねない。私は、公開討論の開催を避けることを提案する。それに彼も同意する。私は、そのようにオーマイニュース日本版の成功をかげながら祈ったのであるが、その後に開催された早稲田大学でのシンポジウムで、鳥越氏は「ネットに関する無知」を無残にも晒すことになった…。彼らとの言論の乖離に絶望した私は、参加することはなかった。☆あれから、1年近い月日が流れ、私は、デビッド・ハーバースタム氏の言葉にふれた。それに感じ入る日本の新聞記者がいる。これが、日本の新聞記者たちの良識であり、必ずしも珍しくない、ありふれた姿なのだと思う。☆そのように鳴り物入りでスタートしたオーマイニュース日本版だったが、鳴かず飛ばずである。鳥越氏は、テレビ出演と健康の問題で注力できない。ナンバー2である副編集長氏も、「物語をつくる」自分を誇っている。そして、軌道修正のためにアドバイスを求められたであろう佐々木俊尚氏も、そのようなルサンチマン(憎悪・嫉み)な言論を批判するにつき、「左翼的過ぎる」という極めてイデオロギッシュな指摘を繰り返す…。*「スクープ」「センセーショナリズム」「読者の感情を煽る」。そんなことを目論んでいたら、言論が左翼的・リベラル・革新的になるのは当然である。石原慎太郎東京都知事が言うように、よいものを残すのが保守であり、悪いものを直すのが革新である。内省的・冷静に現実を見つめることが肝要であり、保守・革新、右・左という価値観はすでに不毛化している。小泉元首相は保守政党にいるが、旧守派でないことは言うまでもない。☆ハルバースタムは、「物語をつくるな」「感情に溺れるな」「対象から距離をおけ」と言う。そこにこそ、あるべき記者の姿がある。そして、それは高邁な理想ではなく、日本中の多くの記者が日々実践しているのだと思う。*そして、私はハルバースタムの言葉を当然のこととして、そこから先を、鳥越氏と語り合いたかった。当事者発信を旨とする市民記者は、「対象から距離をおくことはできぬ」という桎梏をどのように抜けるのか。物語をつくらず、感情に溺れなければ、それでいいのか…。悲しいことであるが、ハルバースタムの言葉を至言とも思わぬ人たちに、私は話す言葉はない…。
2007年05月03日
サンケイ・エクスプレスという新聞を読んでいる。私に、CMでのキムタクのような効果が出ていないことは言うまでもない。☆2007.05.01の22面には、季節風というコラムがあり、舞鶴支局の記者氏が文章を綴っていたので、以下に私の主観において、抜粋・引用する。興味がある人は原典に当たって欲しい。(略)先日も取材を通じて行政に強い怒りを覚え、批判するコラムを書いた。(略)「記者としてこの不正を放置することはできない」(略)コラムでは、怒りに任せて書いた記事が、支局長から、「気持ちは分かるがトーンがきつすぎる」といわれてボツにされたことが明らかにされていた。☆支局長は、当該記事が紙面に露出することによって生じる行政機関との摩擦を予想してボツにしたのだろうか。もしくは、記者の主観があまりに文章に露出していることを稚拙と感じたのだろうか…。コラムを書いた記者は、文章修行が足りぬということを反省しているようだが、一読者である私が感じるのは、「記者としてこの不正を放置することはできない」という自己肯定感の強さである。*自己肯定感といったが、それはほとんど正義と等価ではあるのだろうが、その正義が主観的であることは否定できない。佐々木俊尚氏は、「絶対的正義」などという語を操るが、そのレトリックそのものが、正義という語の脆弱さを印象的に物語っている。私には絶対的正義などイメージできない。絶対的正義など、生きる者が最終解脱者を名乗るようなものである。*「記者として…」そのような特権が、誰でもネットで言論が発信できる時代に、果たして成立しているのだろうか…。民主主義の世の中では、一人の個は、一人の個の限りにおいて発言することのみ許される。代議制によって選ばれた個なら、他者の思いを語ることも許される。だが、一企業の従業員でしかない記者が、他者の思いを語る・騙ることに合理性・論拠はない。一人の個として何物かを語ることは許されるが、それを「記者として…」などと、自らを拡大するならば、傲慢である。*だが、本当のところの問題は、社会のひとつの様相である行政を自分と無関係なものであると認識して、批判するという無責任である。さまざまな問題を孕みつつも、日本の社会が民主主義で営まれていることは事実だろう。民主主義における行政機関は、選挙によって選ばれた代議員によって監査・運営されている。ならば、すべての国民は、民主主義の名において、行政機関の腐敗と無縁ではない。とすれば、その腐敗には、腐敗する理由があり、その理由を突き詰めることこそ、問題解決への途であって、一刀両断に批判・切り捨てることは、問題解決・再発予防にはまったく役立たない。そのようなことを考えれば、当該記者の「記者として…」などというのは、まさに感情的なものであって、それが記事として社会に提示されたとしても、彼を満足させるだけであって、その結果起きることは、事実の隠蔽・トカゲの尻尾きりのような不毛な対応でしかないだろう。☆イベントの打ち合わせで、新聞人の方に、「新聞記者は、最終的には、言論人になりたいんでしょう?」と尋ねたことがある。何故、そのようなことを聞いたかといえば、ライブドアがつくったネット市民新聞が、パブリックジャーナリストという名称を市民記者に与えているのに対して、アメリカでネット市民新聞を提唱するダン・ギルモアは、市民記者をCitizen Reporterとしているからだ。私の語感では、レポーターというと報告者・伝達者という感じ。ジャーナリストというのは告発者・糾弾者という感じ…。そんなことを考えていたら、A社社員の彼は、「私はレポーターでありたい」と仰る。彼は、新聞は政治欄ばかりではないと補足するが、揺ぎ無い彼の言葉を聞いて、私は納得するとともに、少し安心した。記者が言論を発生させるにしても、レポートした結果、自然に発生するのである。言論を発生させるために、レポート対象を選択して、記事を拵えることは、タブーである。新聞の現実にそのようなことが起きているとしても、それは、新聞の中の忌まわしき部分であり、それを新聞界全体が許容しているのではない。5月25日の新たなる新聞人の方々との出会いに期待している。
2007年05月02日
日本新聞労働組合連合のパネルディスカッションに参加することになっている。私は新聞の消費者として参加するつもりだ。と、すると、私以外の登壇者は報道出版界の方だし、会場の参加者も全員、新聞人。ならば、四面楚歌ということになるのか…。☆否、そうではない。私は、新聞人たちの内面にある、「新聞読者としての自分」を顕在化・言語化するためのトリガー(引き金)として、イベント会場に存在するだろう。☆たとえば、佐々木俊尚氏は次のような経験をしたという。(佐々木氏):「ネット君臨」記事ががんだるふ氏を「男性」ではなく「男」と表現したのは、どのような意図だったのでしょうか。池田氏:これを佐々木さんはネガティブな表現だとおっしゃるが、これは単に性別を表記しただけで、特別な意図をもって表現したわけではありません。(佐々木氏):ご冗談を。本気でそうおっしゃっているのですか?池田氏 それは佐々木さんの主観かもしれないですよね。(佐々木氏):通常、相手に対して敬意を持っている場合に「男」と表記するケースは非常に少ないと思いますが。池田氏:たとえば過去、新聞連載で読んでいただければわかるが、普通に女性について「女」という表記を使ったこともあります。繰り返しになるが、特別な意図を持っていたのではなく、性別を表しただけです。(CNET JAPAN BLOGより)※ スポンタ注:池田昭氏とは、毎日新聞の編集局次長であり、記事を書いた本人や校正を加えた人物ではない。)これをして、毎日新聞が死んでいると考えてはいけない。池田氏が間違っていることを言っていると断じてはいけない。池田氏は、毎日新聞の利益を守るために、苦しいディベートをしているだけであって、彼を批判してはいけない。彼の辛さにこそ、私たちは心を寄せるべきだ。池田氏が批判されるなら、この佐々木氏へのコメントに対してではなく、このような言論を発せざるを得ない社内の状況を打開・克服・カイゼンしようしない場合である。もし、ここで、池田氏が佐々木氏の言説にうなずいたたらば、その時点で池田氏は毎日新聞の組織人ではなくなる。そのようにして起こるのは、池田氏の組織からの離脱であり、それはトカゲの尻尾きりであり、組織のカイゼンには結びついていかぬ。このインタビュー記事は、池田氏は組織に忠実・誠実であることしか、表現していない。そもそも、このような質問が、不毛だったのである。*「あなたが一人の読者として、あの記事を読んだとしたらどう思いますか?」「男性ではなく、男とかかれていたら、記者がどのような感情を持って記事が書かれたと感じますか?」と、佐々木氏が池田氏に問いかけていたらどうだろうか。一人の読者として、と聞かれれば、なかなかディベートの奴隷でありつづけることは難しい。そして、ステークホルダーを離れたとき、いかに自分が奇異な読者であることが意識されるだろう。そして、佐々木氏がそのような問いかけをしたなら、池田氏は、沈黙せざるをえなかったのではないか…。否、そのような質問をしたとしても、キャリアを積んでいる新聞人なら、巧妙に論点をずらして行ったに違いない。どちらにしても、このインタビューは、審判員不在のディベートでしかなく、何物も生み出すことはない。☆西欧文明・西欧史・唯物史観的な価値観の変遷として、絶対主義・社会主義・共産主義・市場主義・自由主義などというストーリーが無批判に語られている。そこでは、利己的・利他的などということに注目が集まるようだ。ある経済学者は、「経済学には利他的という概念がない。だから、「冬のソナタ」の利他愛に感動する」と言う。京セラの稲盛氏は、利己的にならずに、お客様重視の経営を貫いてきたと自負している。曰く、利他的な経営をしていると…。*だが、待って欲しい。お客様などというのは、特定の他者であり、特定の他者の利益を求めることは利己的な行為でしかない。ならば、問題は自他の境界領域をどこに求めるか。そこにしかない。世界平和は、現在における自分の境界領域の最大であり、環境問題は、時間における自分の境界領域の最大である。*思えば、経済学者は、「見えざる手」・市場主義などというが、ほんとうにそんな物だけで、世の中が動いてきたのだろうか。ご存知のように、世界恐慌では「見えざる手」によって、全世界が窮地に陥った。当時、アメリカに集まった利己的な意図が世界を破滅に導いたといえる。似たようなことが、日本の1990年代に起きた。バブル経済の崩壊である。だが、本当に世の中のすべての人が痛手を負ったのだろうか。利益を貪ることを望んだ経営者たちは大きな痛手を負ったが、本業重視を貫いたいくつもの企業たちは無傷であった。そのことを想起すれば、世界恐慌のときは、株式市場が未熟であり、健全な経営者も投機的な投資家も一蓮托生で大きな痛手を負うことになったに過ぎないのではないか…。勿論、そのような急激な変化に巻き込まれて被害を蒙った人も多い。私は当時、給与生活者であり、バブルの恩恵は一切受けなかったし、その波に乗りもしなかった。だが、バブル崩壊の波は大きく受けた。その仔細は明らかにしないが、カミサンならば理解してくれるに違いない。どちらにしても、経済社会では、被雇用者は経済市場の範囲外であり、自律した個でさえない。だから、被害を蒙ることはあっても、利得を得ることはない。ここにおいて、プロレタリア言論の有用性を痛感する…。*啓蒙主義以降の西欧の学問では、「我思う。故に我あり」と、近代的自我を謳う。その起源・価値観から諸学問が発展していくなら、どのような学問においても、個の論理に捉われた世界観が展開される他ない。かつて、ソ連では政治や世の中のしくみの部分だけで社会主義が実行されたのではない。文化・学問・言論においても、そこではプロレタリア文学・プロレタリア芸術・マルクス経済学が主流となっていた。だが、それらが極めて主観的・恣意的な文化であったことを、ベルリンの壁が崩壊した1989年以降の私たちは気づくことができる。いまだにソ連がもたらした幻想・妄想を抱くことは不毛である。だが、それが、西欧の恣意的な文化に身をゆだねている日本の文化・言論の有様を肯定するものではないことを、私たち日本人は認識しなければならない。☆私たちは、「消費者は利己的なもの」という妄想から抜けなければならぬ。「縄文の消費者は、けっして貪らぬ」いまこそ、我々日本人は、「縄文の消費者」として、自ら認じよ。自分たちのテリトリーにいる全ての獲物を狩猟し尽くせば、獲物は自己増殖することができず、狩猟者は獲物を失い、獲物と同様に死滅せずをえない。だが、獲物たちが自己増殖できる程度の数を残しつつ狩猟していけば、獲物を継続して得ることができる…。*今、手の中にあるものを全部食べてしまえば、明日食べるものがなくなる。だから、貪らない。それが、「縄文の消費者の論理」である。それは、個においてもそうだし、集団においてもそうだ。集団内の競争がいかにあろうとも、集団全体を死滅させるような乱獲はけっして行なわれない。それが縄文時代である。*右左という分かりやすい論理軸がなくなったので、統制経済・自由経済・新自由主義などというビミョーな語句が流行っているが、要は、いかに「縄文の消費者」であるか。そして、そのときの個の領域を最大限に拡大できるか。ということに他ならない。☆たとえば、トラック業界の構造不況がある。バス業界の不況がある。宅配便の料金が安いにこしたことはない。旅客バスの料金が安いにこしたことはない。だが、それにより、当該従事者たちが悲惨な生活をし、消費者である社会にも悲惨な交通事故を起こすならば、法外な安価は要求しないだろう。勿論、業界の努力があっての上での話。業界の情報透明度が低く、消費者の納得を得ることができぬならば、現状も仕方ないこと…。*マスコミを追求する消費者も同様だ。メディアにはメディアの都合があることは分かっている。だから、読売新聞グループのスポーツ報知を読んでいて、あからさまな巨人軍擁護論があっても、仕方ないことだと許すのである。☆「縄文の消費者」の時代はすでに来ている。問題は、その領域をどこまで拡大するかである。その意味では、稲盛氏の大いなる誤解も過渡的な意味では極めて価値があるといえる。もっとも、「利他的であれ」などと、自らを誇らねば。という限定においてはあるが…。
2007年05月01日
【タイトル】「ネットは新聞に何を突きつけているか」【日時・場所】5月25日(金)13:30開始。(受付は13:15~)第一部は日本教育会館8階第二会議室17:00まで第二部は同会館9階「キザン」17:30開始。第一部は一般参加OK。参加費:500円当日、直接ご来場下さい。100名様までご来場頂けます。満席の場合はご容赦願います。私のブログウォッチャーであるけろやん氏が言及してくれている。彼の指摘は、うっすらとした懸念ということだろう。ネットで自由闊達に言論していたが、リアルな場ではリアル属性(有名になりたい病・発言したい病・周囲への気遣い)によって、予定調和な生ぬるい論者にならぬか…。彼の予想はまったくもって当然のことである。だが、そうなのか…。しばらく考えた後、次のようにコメントした。☆今回のイベントがメインストリートかどうかは分からないけれど、リアルな不特定な客席を相手に発言することは、たしか、川越高校吹奏楽部の定期演奏会の司会以来である。さて、新聞人たちの評だが、巷間のものとはかなり違っている感じ。ましてや、今回はその労働組合のもの。ステークホルダーを逃れれば、極めて内省的で自省的。イベントの担当者は、A社の方なんだけど、社内の書店には、新聞&メディア終末本コーナーがあって、けっこうな人気なそうである。私がプリントアウトしたブログの内容を打ち合わせで提示し、「私の言論の中に、イベントでの禁忌用件は無いですか?」と尋ねたら、問題はないです。と、仰り、内容についても、諾という感じだった。勿論、初対面だったので、反論は控えられたのだろうが…。ま、そんな感じ。よかったら来てください。珍獣・生スポンタを見れます。(^o^)さまざまなリアルデビューがあったのかもしれぬが、日本新聞労働組合連合という新聞人の全国組織のイベントというのは感慨深い。既存メディアとして新聞は本丸であり、その本丸に属する人たちと語り合えることの意義。そして、労働組合という現在の新聞の運営・編集とは微妙な立場にある人たちとの言論交換ができることは、まさに天の配在ともいえるのではないでしょうか。【そして、出演陣の面々を眺めるに、ネットと新聞という対立軸に群がり集う心が透けて見えてしまう*1(just主観的な印象批評とのこと)。それは、薄められた劇薬が載せられた円卓を囲む中世の絵画を私の脳裡に想起させる。(けろやん氏のエントリーより)】との指摘。きっと、生ぬるい新聞批判(薄められた劇薬)を和やかに語るだけの会を想定してのことか…。彼が指摘するようなそんな絵画は見つからなかったが、破滅的な未来を前に、なす術を提示できなかった、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」のような風景かもしれぬ…。それとも、レンブラントが描く、ギルドの集団像か…。※ メディアの死を見つめる新聞人たちの姿をメタファーしている…。でも、きっとそのようにはならないと思うな。*歌川先生は、極めて内省的に新聞を見つめていらっしゃる。だから、「新聞がなくなる日」を書かれた。先生に会うまでの私は、「日本の新聞は、言論の希釈作用のために誕生したのではないか」と、噛み付こうと思っていた。だが、先生は、そんなことは先刻ご承知で、私の言論以上の具体性と明晰さを持って、極めて朗らかな語り口で、自分の出身新聞の誕生間際の欺瞞について明らかにされる。湯川さんは、新聞の危機を危うんで、「ネットは新聞を殺すのか」を書いた。アメリカの現地採用から東京本社の正社員になった湯川氏も、風貌も口当たりも柔らかいが、その内実はかなりの硬骨漢…。その二人がツートップ・ダブルボランチになって、シンポジウムをすすめていく…。*パネルディスカッションというのは、基本的に参加者の内的葛藤を舞台上に顕在化するためにパネラーが存在するのであって、参加者の内面と無関係な利益代表たちが出てきて議論するものではないと思う。私が、オーマイニュース日本版の誕生とほとんど同時に早稲田大学で行なわれたシンポジウムに参加しなかったのは、パネラーの選択にそういう不備が感じられたから。私が、一般参加者に混じって質問をしたり、ヤジをいっても、会場を気まずい雰囲気にするだけで、有効な議論にはなっていかない。そのことをわたしは、すでに嫌というほど経験している。・MSNのイベントでのオ・ヨンホ氏への質問 ・ダンギルモア氏のイベント・ライブドアPJのさまざまなミーティング・JANJANの市民記者交流会唯一、JANJANの市民記者交流会では、パネルディスカッションに2ちゃんねるの西村博之氏がキャスティングされていたので、有意義な会となった。とはいえ、このネット時代に、2ちゃんねるの悪評を知るばかりで、2ちゃんねるを知らぬことを恥ずかしげも無く語るパネラーたちのプライドの有様には驚かされた…。ステークホルダーにまみれた政府がらみの公聴会ではないのだから、対立軸の両極にあるパネラーを据えなければディスカッションの価値はない。*最近のことであるが、私が、第4回ICPFシンポジウム「参加型メディアの可能性」という私の研究領野に近いシンポジウムに参加しなかったのも、必ずしも参加費が5000円だったということにはならない。ブロガー討論会「日本のブログはこれでいいのか」 磯崎哲也(磯崎哲也事務所 代表) 小飼弾(オープンソース・プログラマー) 佐々木俊尚(ジャーナリスト) 原淳二郎(ICPF理事) 司会:池田信夫(ICPF事務局長)日本のブログを語る討論に、一般のブロガーが一人もいない。これでは討論のレベルは知れている…。一般のブロガーとは、IT業界関係者でなく、エスタブリッシュでないこと。勿論、彼らが一般の意見を語ればそれでいいのかもしれぬが、彼らが、そのようなことをするとは思えない…。ユーザーに直接サンプリングできるインターネットの時代に、業界関係者だけで集って語ること、ユーザー不在の言論に何の合理性も、説得力もない。*かつて、永六輔氏のラジオ番組に出てきた「別れのサンバ」で知られる盲目の歌手・長谷川きよし氏が、盲人用のお札の機能に触れ、私たちが使うのに、私たちには何の相談もありませんでした。と、語っていたのを憶えている。お役所ならまだしも、市井のシンポジウムで、そのような予定調和な論壇をつくっても仕方がない。ブログの黎明期ならともかく、普及期になったいまのブログを語る術を彼らが持っているとはとうてい思えない。*パネラーとしての私の立場は、新聞人がプライベートな時間で、読者として新聞を読むときの気持ちを代弁することである。私はそこにおいて、何らの限界があるとは感じないし、その意味では、自分がエキセントリックな人間とは考えていず、フランクに語る人間でしかない。そして、私のようにフランクに語る人間を、ステークホルダーから離れた組合員ならば、あまり反発はないのかもしれぬ…。などと考えているのです。当日は、「読者としての皆さんに聞きたいと思いますが…」などど、何度も口にするのかもしれない。そのようにして、私は、ドラクロワの絵画のように、自由の旗を掲げる女神を目指すのだけど、結局のところ、下の毛を露出して頓死した男性にしかならぬのかもしれぬ…。追記:パネルディスカッションが、シャンシャン総会のようになってはつまらないが、総会屋が跋扈するようなことも最悪。その意味では、イベント運営者が安全策をとるのも理解できるのですが、予定調和の言論を提出してもねえ。
2007年04月30日
日本の民主主義が選挙という匿名システムで成り立っていることを理解して欲しい。永田町が、記名システムによる投票で、永田町の論理に陥り、民意を反映しない議決機関になっていることに気づいて欲しい。匿名による投書を卑劣だと断ずる人がいるが、情報源の秘匿を厳守する第三者(オーソライザ)が不在なだけであって、匿名であることだけが問題ではない。※そのようなバッファとしての価値がある限り、今後も報道機関は存続できるかもしれぬ。そもそも、匿名であることが批判されるのは、その言論の批判の的になる当事者だけであって、匿名であろうがなかろうが、言論自体の重要度は変わらないはずである。そして、もし、言論者の価値によって、言論の価値が変化するならば、それはゴシップという名の大衆の好奇心に応えるセンセーショナルな言論でしかでしかない。☆とても分かりやすいケースがネット市民記者新聞・JANJANに掲載されている。怪文書で離島 座間味の“Dr.コトー”(1)☆市民記者が、Dr.コトーと形容していることからみれば、記事の主は、誠実・洗練潔白・正義の味方な医師であり、なんら恥じることはない。一方、怪文書を書いた人間は、卑劣漢であり、匿名でなければ論じることのできない臆病者だということになる。送りつけられた封筒の写真を公開するとは、その効果を狙ってのことだろう。だが、一方の当事者である医師も顔を見せることはない。私はその事実に、市民記者の心のどこかに後ろめたさがあったのではないかと、邪推する。そして、思う。…そのような単純な話なのか。仔細は知らぬが、たとえ首長や議員たちが不正を行なっているとしても、民主主義で選ばれたものたちなのだから、民主主義手続きで解任されるべきで、一介の医師が影響力を及ぼすべきことではない。*南の島の千人余のコミュニティーに存在しつづなければならぬ住民が、自らの言論によって、家族や友人・知人たちをコミュニティーの異分子として迫害される危険に陥れる可能性を否定できぬならば、匿名で論じることも致し方ないことである。一方、この島唯一の医師はどうだろうか…。彼は、私財のすべてをなげうってこの島にやってきたのではない。公務員ということだから、上司の命令によって、たまたまこの島にやってきた。いうなれば旅人である。そのようなこの地域に対するステークホルダーを一切持たぬ者の言論は、島民たちの一般的なものと乖離しているのは当然のことである。たしかに、彼は、医師であるとともに、当地の住民でもあった。だが、彼は、住民の一人として振舞っていたのだろうか…。この記事から察するに、島唯一の医師としての立場を背景に、首長や、その周囲に影響力を発していたに違いない。言論の自由などというが、彼は眼に見えぬ権力を背景にしており、そこでは、言論の自由が制限されるのは、当然である。☆さまざまな問題を孕みつつも、日本社会は「言論の自由」が成立しているといえるだろう。だが、個(言論の主体)において「言論の自由」が確立されているかといえば、それは疑わしい。否、はっきり言って、Noである。すべての会社員は、公の立場で、自社を批判する言論の自由はない。もし、そのようなことをすれば、職場を奪われることになる。すべての言論人は、過去の自分の言論を批判する自由はない。もし、そのようなことをすれば、整合性・統一性を欠く言論者として信頼されなくなる。そして、過去の言論を扱う出版社などのメディアから総スカンを食らうに違いない。*そのような個の事情によって、拵えられた言論空間は、極めてエキセントリックであり、当事者しかいないヒステリックなものであるともいえる。そのようなステークホルダー(自利益追求者)しか存在しない言論空間では、有効な結論は生まれてこない。なぜなら、ステークホルダーたちに妥協する自由の裁量度はなきに等しいから、結果、ステークホルダーのぶつけ合いで終わってしまうのだ。*しかし、個が匿名を纏うならば、状況は一変する。個は、自らの属性から発生するステークホルダに縛られることもなく、過去の言論の奴隷となることもない。対話・議論の対話の変化にしたがって、自らを自由に翻すことができる。そこには、朝令暮改などという言論とは関係なく言論の発言者を責めるような不毛は存在できぬ。そもそも、個の固有の文脈を提示することは、自分と他者を分けようとする企てなのである。・言論に責任を求める行為は、敗北主義である。そして、多くの場合、責任などとれぬのだから、不毛である。・言論には合理と誠実をこそ、求めるべきである。☆自分と他人を分けようとする意識は最終的にコミュニティーを分断に結びついていく。そのような存在が、コミュニティーの安逸にとって、いいはずはない。南の島の医師が、コミュニティーの合意である首長に背を向けた言論を発するならば、それはコミュニティーを分断に結び付けていく。彼がいかなる正義を主張したとしても、その正義は、彼という固有の文脈のうえでのローカルルール&モラルでしかない。それが南の島のネイティブと対立するのは当然のこと。首長にしても、議員にしても、それぞれが個のローカルルール&モラルと妥協しながら、活動してきたに違いない。でなければ、小さなコミュニティーでは異分子に成り果てる。だが、そのようなこの内面を感じることのできぬ旅人は、個の文脈でしかないものを正義として、斬りつける。個の価値観を背景にした正義と、島民の集合的無意識を背景にした現状と、どちらに軍配があがるかといえば、それは自明なことだろう。勿論、過渡的にはさまざまな問題があるだろう。だが、それが異分子によって拭い去られるというのは、島民たちの将来を考えれば、よいこととは思えない。☆今回、当該医師がした勘違い(自らの影響力の濫用)は、任地替えという上部機関の措置で、訂正される。だが、今回、市民記者が犯した過ちは漂うだけで、気まずさを誘発するだけ。いまの社会的雰囲気では、その卑劣さが指摘されることはない。そして、表面的に記事に接する人たちは、「南の島の人たちは、ムラの論理に縛られ、野蛮人」などと思い込んで終わる。…こんな悲しいことはない。
2007年04月29日
さて、ブログが終わっているという人たちがいる。終わりのはじまり…。と、嘯(うそぶ)く人たちがいる。そして、ブログをなんとかしようと、ブロガーズ・エチケットをつくろうという人たちがいる。ブロガーの行動規範をつくろうとする人たちがいる。それに賛同する人たちもいる…。ガ島氏Dan Kogai氏☆そのような言論の主導者が、ネットを引っ張ってきた来た人たちであることが私は信じられない。インターネットでの発言をエチケットやモラル(行動規範)で縛ろうという考えの不毛さに、彼らは気づいていない。☆インタネットが原始共産主義の理想で営まれていることを、多くのネット関係者たちが理解していると思ったが、そうではないのか…。何故、村井純先生は、政府諸機関がネットを規制する意志と戦ってきたか。それは、インターネットという自由な言論の場所を守るためである。なのに、村井先生の努力に背を向けて、多くのネット者たちが怯んでいる。エチケットやモラルなどというものが、自主規制に過ぎず、根本的な問題の解決になどならぬことを何故、ネット界のオーソリテをはじめとした多くの人たちが理解しないのか。いままでのメディアにおいて、映倫やビデ倫、放送倫理協議会が有効に機能しているとでもいうのか…。そして、いままでのメディアとインターネットを同列に扱うことに意味はあるのか。妥当性はあるのか…。☆インターネットは無限の地平である。その無限の地平全体を統治するものはいない。これが基本思想である。そうでないと主張したい人たちは、ネットから離れるがいい…。ネットはそのことを許容する。ネットはユーザーをあらゆる意味で強制しない。☆無限の地平であり、統治するものがいないならば、そこは、戦国時代なのである。そして、戦国時代の日本では、戦国大名の領地拡大は、近隣諸国との戦争によって達成されるものであった。だが、インターネットは無限の地平であり、戦国大名同士が直接争うことによって、有限の領土を奪い合うようなことは起きない。*頭脳明晰な方は、ネットユーザーという有限のパイを争うのではないか。との疑問を呈されるかもしれない。だが、ネットユーザーは、リアル属性に縛られない。したがって、リアルな一人の個が、ネットにおいて一人であるとは限らない。事実、私はメイルでは実名だが、ブログではスポンタという固定ハンドルネームを使う。そして、匿名で書き込むこともある。アドレスにしても、プロバイダ由来のもの、フリーアドレスがいくつか…。名前が最低でも2つあり、住所は5以上もある。ネットとは、あまりにリアルな世界とは隔たっている…。実は、そのような個を微分(切り刻んで、そのパーツ単独で存在)できることこそ、インターネット最大の特徴である。これにより、すべての生産者が、消費者の立場でも発言できる…。*勿論、戦国時代にあっても、戦国大名の領国内にあっては、御家法があっていい。だが、それは、限定されたスモールワールドの論理であって、その御家法が戦国社会全体に及ぶことなどないし、そのようなことを想定することは不合理である。*既存の文化(固定的な価値観)に安住している我々は、エチケットやモラルという言葉に触れたときに、それが有職故実でしかない。と感じることができぬように出来ているらしい。だが、そうとばかりはいえぬ…。*忠臣蔵の浅野匠の守は、有職故実(儀礼上のエチケット)をめぐって、吉良上野介から傷めらつけられ、刃傷に及んだとされている。その真実性は確かではないだろうが、そのようなストーリーがお芝居の世界でつくられていった庶民感情の裏には、有職故実というような有名無実な文化によって翻弄される浅野匠の守の辛酸が、その後の四十七士の多勢に無勢の復讐劇を肯定させるのである。吉良上野介が悪役でなければ、あの話は成立しない…。そして、昭和の私たちは、美智子妃殿下の母君が、長い手袋にまつわるできごとで辛酸をなめさせられたエピソードを痛恨事として憶えている。私の皇后陛下に対する深い尊敬は、そのような辛酸に会いながらも、ひとつの愚痴をこぼすこともせず、耐えてこられたことにある。その辛酸の強さは、体調を壊され公の場から姿を消していた時期が長かったことからも明らかである。我々日本国民が天皇陛下や皇后陛下を尊敬するのは、彼らの辛い人生を知っているからである。高貴なる人たちほど、文化・伝統・前例という有職故実に縛られ・苦しめられる…。*モラルやエチケット(有職故実)で発言者を縛られることなどに、意味はない。逆に、モラルやエチケットで発言者を批判し、発言がままならぬ状況に落とし込めることこそ、言論の自由にとって忌々しき事態であることを理解しなければならない。モラルやエチケットに反する発言者は叩かれる。そういう現実があるだけでいい。叩かれるという現実がある限り、モラルやエチケットは成立している。それ以上を求めてはならぬ…。*思い出して欲しい。西宮冷蔵の社長は、商業的モラルとエチケットに反して、顧客である雪印の不正を公にした。社会的正義を貫いた彼を、モラルとエチケットにおいて糾弾し、一切の救済を与えなかったのが日本社会である。インターネットで、モラルとエチケットの必要性を唱える人たちの論理思考が私にはまったく理解できぬ…。☆とはいえ、彼らの短慮が何に起因するかといえば、インターネット全体とコミュニティー(SNS)の論理の混乱である。*モラルやエチケットというのは、基本的にスモールワールド(部分集合)の論理であって、母集合の論理ではない。だから、部分集合の論理を拡大解釈して、母集合にまで広げてしまうならば、インターネット全体が死滅してしまう…。☆私は、SNSと違って、ブログ空間(ブログスフィア)は、そのようなスモールワールドの一つではないと考えている。ならば、エチケット&モラルのフィルターをかけることは無意味であり、ブログという混濁水の中の上澄みだけをすくって、それだけが、ブログであるといい気になるようなものである。*私は清酒よりも濁り酒が好きだし、蕎麦屋では、せいろではなく田舎を好む。もちろん、清酒が好きで、せいろをつまみながら一杯やる人がいてもいい。だが、清酒以外は酒ではない。田舎ソバなど雑味が多くてかなわんなどと言う人は、もり一杯千円を越えるような高級店に行かれるがよろしい。*インターネットはあくまでも、有楽町のガード下の立ち飲み屋…。他人に迷惑をすることはご法度だが、エチケット&モラルなどを声高に言う輩は、店の主人に追い出される。近くでケンカが始まれば、それに加わってストレスを発散するか、つまみと酒を持ったまま、隣の店にいけばいい。そして、「火事と喧嘩は江戸の華」。人の不幸を喜ぶような火事は困り者だが、喧嘩は、祭りと同じで胸が騒ぐもの。モラル&エチケットに阻まれて、議論(喧嘩のメタファー)もできぬようでは、インターネットの意味もない。河合奈保子よろしく、「ケンカをやめて」などと嘯く輩は、SNSに引きこもっていかれることをお薦めする次第である。追記:いまは、インターネットの母集合的世界から、鍵を開けてSNSに入っていく。だが、近い将来は、鍵をあけてインターネットの母集合的世界に出て行く。そういう時代がくるのかもしれぬ。すでに、母親たちに管理された小学生たちにとってのインターネットはそうなっているし、それが大人の世界にも拡張されても何の不思議もない。きっとIPV6に積み残された世界が戦国時代・無限のインターネットであり、IPV6が江戸時代・部分集合になる。江戸時代、戦国時代、それぞれの楽しみがある…。*村井先生が尽力されているIPV6に期待するところである。勿論、私は上澄みには今日はなく、IPV5に残ることになる…。なんとも、IPV6と地上波デジタル放送が同じ未来を背負っているようで、興味深い。
2007年04月28日
私は、ライブドアPJの改革をめぐって、MIXIで、「スポンタ倶楽部」というコミュニティーを運営していた時期がある。これは、ライブドアPJの市民記者交流BBSが閉じられたことに伴う暫定的な措置だった。だが、存在告知が出来ぬ形で成立したBBSは、シュリンク(収縮)していく他なく、コミュニティー内の言論が、実効性を期待できぬと参加者たちが自覚した時点で、ほとんど消滅状態になった。*最近のオーマイニュース日本版の話題として、市民記者同士の交流のBBSができたという。だが、私は、そのようなものができたとしても、オーマイニュース日本版が活性化するとは思えない。何故なら、経営・運営・編集に関する議論ができないような現状を、市民記者のためのBBSができたとしても、払拭できるはずはないからである。問題はメディアのある・なしではない。BBSをつくるだけではだめで、それをいかに運営していくか、BBSとしての行動規範・モラル、文化をどのようにととのえていくか。そこにこそ、BBSが活性化する正否がかかっている。その意味では、日本で唯一、明確なBBS内の行動規範・モラル・文化を確立し、繁栄を続けているコミュニティーがある。言うまでもなく、それは2ちゃんねるである。巷間伝えられる2ちゃんねる批判は正しくない。2ちゃんねるの文化の源泉は、「偽悪のダンディズム」なのだ。☆ブログでは「炎上」を問題視する姿勢が一般的だが、あるべきは、それを「活発な議論」することである。手触りのよくないものを、「炎上」と切り捨て、一切の対話を閉じてしまうことは、折角のCGMの機能を排除する浅慮である。私はかねてより、「差分のない個同士のコミュニケーションに価値はない」と指摘している。それは、コピイ&ペイストがもっぱらなネットでは、他者の言論の中に自分の言論を見つけて喜ぶことが馬鹿げているという理由による。SNSの中のコミュニケーションでも、同様な意見が綴られることにより、和むことが目的にコミュニケーションが営まれる。そのような、お互いの気づきを催さない対話に何の価値があるのだろうか。「悩める」「摩擦」「抗争」などという形容がおかしいのであって、論理的帰結に向かうための標準的な手順にすぎない。☆では、グーグルはどうか。たしかに、クローズド・アルゴリズムという主観性を隠蔽しているという引け目はある。だが、IT者たちにとって、グーグルは輝いている。その理由は、グーグルが、オリジナルな情報をそのままやり取りすることを原則としているからだ。グーグルは、情報が加工・変質されたり、要約されたり、質的低下を強いられるなどというフェイズと無縁である。さらにいえば、情報を所有さえしない。そのスタイルが、オリジナルコンテンツメーカー(既存メディア)の機嫌を損ねない。グーグル好きの佐々木氏は、P2Pを End to Endと言い換えているが、まさにその通り。グーグルな世界では、一切の加工・変質がないから、Peerは終端でしかない。ここにおいて、オリジナルコンテンツメーカーの権威は守られる。だが、Winneyに象徴される狭義のP2Pではそうであっても、私が提起する広義のP2Pの時代はそうではない。Peerにおいて、コンテンツは加工・変容する。そして、重要度のメタタグもつく。それは、湯川氏が指摘するようなリモートタグも含まれるだろう。そこにおいて、P2Pは End to Endなどではありえない。ピアにおいて、コンテンツはリボーン&リスタートする。それが、今後のCGMの未来であり、私が前回のエントリーで指摘したConsumer Oriented(Organized) Mediaである。☆だが、質的低下は、利便性の向上の前に許される。という理があそうだ。その実証が、MP3プレイヤーの普及である。良識あるオーディオファンにとって、音質の劣るMP3プレイヤーは悪夢だった。だが、その加工技術によって、データ量は減り、何千曲もの楽曲を持ち歩けるようになった。いまでは、オーディオフォンを任じる人も、MP3プレイヤーを使って恥じることはない。*そう思ってみると、あらすじを読んだだけで、映画や芝居を観たつもりになることは珍しいことではない。古典の文芸大作の要約本がヒットすることも、質的低下がおきても、利便性が向上すれば、有用性は失われないし、逆に、質を落とすことで利便性を高めることが、これからのビジネスにとって重要なのかもしれない。考えてみれば、映画館に行かずに、レンタルビデオですます。そのような消費者が多いことはあらためて指摘するまでもないだろう。アマチュアはプロには勝てぬ。などという理を論ずる人たちがいる。だが、「消費者が求めるのは質ではない。利便性である。」とするならば、それもかなり覚束ない。このユーチューブのガンダムの映像を見れば、観客を楽しませる質とは何かを感じることができるだろう。バックがダンボールであることは質とは関係がないのである。追記:そういえば、バージニア工科大学の事件では、携帯電話の動画画像が、CNNを通じて全世界に流されました。これも、画質なんてどうでもいいケースの一例でしょうね…。逆に、画面の粗さと揺れが、不安感を募らせる。終末的な音楽をBGMにしたフジテレビの演出は許せないが、マスコミ志望の学生の巧まざる演出効果は許容できる。
2007年04月27日
かねてより、固有名詞をあげずに言及していましたが、日本新聞労働組合連合のシンポジウム「ネットは新聞に何を突きつけているか」にパネリストの一人として参加することになりました。【タイトル】「ネットは新聞に何を突きつけているか」【日時・場所】5月25日(金)13:30開始。(受付は13:15~)第一部は日本教育会館8階第二会議室17:00まで第二部は同会館9階「キザン」17:30開始。第一部は一般参加OK。参加費:500円当日、直接ご来場下さい。100名様までご来場頂けます。満席の場合はご容赦願います。基調講演は、多摩大学客員教授で元毎日新聞編集局長の歌川令三さん(「新聞がなくなる日」著者)。歌川先生は、東京財団の「それから」という研究会の座長です。錚々たる経歴の先生ですが、私の言論にすくなからず興味を持っていただけたことを感謝しております。先生の最近のご興味は、ブータン。ダライ・ラマと直接話しをしたこともある、うらやましい方です。GNPではなく、GNH(Global National Happiness)という視点を提案されています。そして、時事通信社の湯川鶴章さん(「爆発するソーシャルメディア」、「ネットは新聞を殺すのか」の著者)。彼は、私がライブドアPJに反旗を翻したときに、興味を持っていただき、今回、歌川先生に私を紹介してくださった恩人。彼が、「ネットは新聞を殺すのか」を出してから、すでに、4年あまり。現在は、湯川鶴章のIT潮流というブログにて、IT業界のキーパーソンの連続インタビューをアップしつづけていらっしゃいます。最近は、それをまとめられた「ネットを進化させる人たち」という本を上梓されました。彼の至言は、「ジャーナリズムは対話を続けなければならない」。立場の乖離は甚だしいものの、学年が同じということもあり、ネットに関する認識は、私と近いと感じています。☆そして、パネラーとしてご一緒するのが、フリージャーナリストの森健さん(「グーグル・アマゾン化する社会」著者)です。彼とは、研究会の対談で議論をさせていただきました。彼はフリージャーナリストであり、市民記者である私とは対立する立場にあるのですが、彼の興味の対象は広範囲に及んでいて、ネットや社会に対する認識について近いものを感じています。きっと世代的にイデオロギーな視点に重要度を感じないのかもしれません。☆パネルディスカッションが2時間もあるので、パネラー同士のディスカッションだけではなく、一般参加者の方々との意見の応酬も大いに期待できるのではないかと考えています。☆私以外のパネラーの方々は、報道出版界の現役の方々。一方の私は、消費者の立場であり、ネット側の人間としての参加。私のような異分子が、このようなイベントに参加させていただけることは画期的なことであり主宰者の方々に感謝するとともに、その中で、いかに有効な議論を生み出すことに、微力ながらも尽力することができるか。その責任を痛感しています。☆このイベントに興味があるネット者の方で、新聞の未来に興味を持つ方は、参加してみるのもおもしろいかもしれません。そこに行けば、生スポンタが見れます。...ORZ否、そんな珍獣を見ることよりも、生・歌川、生・湯川、生・森(敬称略)が見れることにこそ価値がありそうです。よろしければ、会場でお会いしましょう。追記:このブログは楽天なため、アマゾンにリンクが貼れません。皆様にはご迷惑をおかけしていることをご容赦ください。
2007年04月26日
最近の私は、韓国スターのBBSで映画・ドラマ評を書いていた。そのことは、このブログでもエントリーをあげているからご存知の方も多いだろう。私は、誠実に感じたことを書いたし、けっして、作品を否定するようなことはしてこなかったつもりである。だが、そのような言論でも、罵詈雑言のコメントが続発する。私は、発言にはすべからく反論・疑問・揶揄・ひやかし・無関係な発言(言論の希釈を目論む)がつき物であり、それを怖れたり、それを否定することは、よくないと思っている。だから、そのような罵詈雑言から、自分が気づけることを探すとともに、自省のための材料とする。しかし、同じような罵詈雑言が続くことは、相手の中の悪性(マイナスのエネルギー)を誘発することになる。ならば、同じ状況を継続することも、褒めたことではない。とはいえ、反対者ばかりではなく、私の言論を楽しんでくれる人・深い理解と気づきを感じてくれる人も少なからず存在した。だから、私はそのBBSに原稿をアップし続けていた。その後、「私の名前でググれば、私のブログに行けます」と、コメント欄に書いた。だから、BBSの中の住人にとって、私へのトレーサビリティーは確保された…。そして、評論に一区切りがついたとき。私は、ブログという無限の地平に背を向けて、有限のコミュニティーに向けて発信し続けることの不毛感さに抗うことができず、いまは書くことをやめた。☆私はソシアルトライアルとして、そのBBSに加わっていたのであり、そこで営まれているコミュニティーの特徴をあらかた感じてしまった以上、取り立てた理由がなければ、いらぬ摩擦を作ることは控えるべきだ。と考えたのである。勿論、BBSのテーマになるスターへの尊敬と作品への賞賛はつきぬのだけれど…。☆そのスター関連でいえば、テレビ朝日のドラマが、彼を特別ゲストとして、初回を迎えた。そこで、私はひさしぶりにBBSを訪れた。当然のことながら、番組と彼のシーン・演技に対する絶賛のスレッドやそれに対するコメントが多く見られた。番組をご覧になった人ならば、理解してもらえると思うが、提供は、彼をCMに起用した各社である。そして、日本人たちが演じるドラマの展開に無理やり作られた設定のため、彼の登場はドラマのストーリーから遊離しており、それがドラマとしての統一感を欠いていた。勿論、彼のファンにとっては、それでかまわないことだろうし、彼が突出していることこそ、彼の偉大さの証明である。とはいえ…。*そのような絶賛がつづくBBSの状況の中で、「素直な感想」という、というスレッドが立てられた。スレッドの発信者は、私のスレッドのコメントの常連さんでもあった。カミサンの話によると、スレッドの主は、人生も円熟期に入ったご夫人だという。彼女は、言葉を選びながら、スターを批判するでもなく、番組を批判するでもなく、ただただ、複雑な思いになったことを吐露した。しかし、そのようなものでも、コミュニティーの住人たちは、彼女に対する批判コメントを他出させた。私は、彼女の勇気を讃えるコメントをしたのだが、それは、火に油を注いだ結果になったのかもしれない。1日を待たずして、彼女はスレッドを削除した。*偶然にも、このドラマのディレクターは、私の映画学校のときのクラスメートだった。NHK大河ドラマの脚本家を担任教師にするクラスで、彼は強引な自己主張をするタイプではなかった。彼は、クラスは勿論、自主映画のサークルでも、良好なコミュニケーションを築いていたという印象がある。彼はきっと担当ディレクターとして撮影現場にいながらも、局プロデューサーや広告代理店、提供スポンサー関係者たちの意見の調整役としての立場しかなかったに違いない。女性週刊誌の記事には、彼が、スターの撮影現場にスーツ姿で現れた。とあった。スターは、日本のドラマの撮影現場に接することが初めてであり、そのことをとても楽しみにしていたという。だから、スターが彼に、「日本では監督はスーツにネクタイなのですか?」と尋ねるのも当然のことだ。その問いに、私の元クラスメートは、「今日は特別です」と応えたという。そういう特別さが撮影時に起きていたら、それは最終作品の画面に現れるのは当然のことである。*私は、そのような事実を淡々とコメントにし、一切の感想を排したが、私につづくコメントたちの反発は思いのほか強かった。スレッドが削除された今となっては、確認することもできぬが、事実さえも強引に捻じ曲げて憚らない意志が横溢していた。*このような停滞を公式サイトの運営会社も感じていて、ユーザーのヒアリング会議を最近行なったようである。延命措置を施すのか、新しいコミュニティーを作るのか…。あたまの痛いところではある。だが、親衛隊をけっしてつくらないフラットなファン組織を望むスターの意志に従えば、答えは自ずからでているというのが、私の考えである。*『冬のソナタ』が日本で放送されたのが、2003年。ということは、このコミュニティーが発生してから、すでに4年が経過している。このコミュニティーは、規模の上でも、そして、中高年女性がメインボリュームであるという点においても、稀有のものである。ここから読み取れるものは、ネットやITなどという特定のバイアスのかかっていない、コミュニティーが抱える極めて根本的なものを孕んでいるに違いない。☆コミュニティーは時を経て、固定化する必然を持つ。コミュニティーの和がコミュニティーの最大目標だとするならば、コミュニティーの言論は停滞する。固定化したコミュニティーは、その中にヒエラルキーを生み、新規参入者たちの参入障壁となる。考えてみれば、企業はひとつのコミュニティーであり、そこには厳しいヒエラルキーがある。そのヒエラルキー(年功序列制度)がねずみ講に過ぎないと断ずる人もいるくらいだから、新規加入者が増えないのは当然のこと。そのようなコミュニティーが停滞に至る構造を省みることもなく、フリーターの増加を批判する世の中というのも困ったものである。☆いまはまだ島宇宙の生成ムーブメントが始まったばかりだから、気づかれることは少ないが、コミュニティーの寿命はかくも短く、そして、コミュニティーの中にいる当事者たちには、自分達のコミュニティーがすでに死んでいることにさえ気づかない。島宇宙が増えている今はいいにしても、そのような孤立した宇宙が累々と屍のように横たわる時代はすぐそこに来ている。…私はそのように感じてならない。(つづく)
2007年04月26日
まず、ネット上に本当にコミュニティーが広がっているのか。ということを考えてみて欲しい。私には、コミュニティーが広がっているのではなく、島宇宙が乱立し、ネットが孤立感を深めているとしか感じられない…。☆湯川氏は、「爆発するソーシャルメディア」という本で、ソーシャルメディアたちがグーグルに圧勝すると力説されている。だが、現実を見て欲しい。・「ブログはすでに終わった」と言明する極東ブログ氏。早々とブログを撤退したR30氏。ガ島氏は、コメント欄を開けず、TBを認証制にする。・若槻千夏は、コメント欄を閉じる…。・ブログスフィアは、女子大生ブロガーなるバイラルマーケッティングを野放しにし、オープンソースを牽引するアルファブロガー氏も言論者のふりをしながら、実は、アフィリエイト目当てのバイラルなエントリーを連発し、15万円/月を稼ぐという。・YouTubeは、著作権の問題で既存メディアとの間の抗争が激しい。・ミキシィも、普及すればするほど、いままで内側と感じられたものが外側に感じられ、ユーザーが感じる安心感は薄れている。・はてなブックマークは、セルフブックマークという自作自演が問題になる。・価格ドットコムの感想欄は、企業が雇い入れたサクラが記事を書く。・ウィキペディアでは、当事者から事実と違う内容が書かれているとのクレームがあり、削除・変更を巡って摩擦があり、問題になっている。・教えてgooにしても、質問者の「映画監督とはどのような職業ですか?」との問いに、「中小企業の社長さんのようなものです」という答えがあったのを憶えている。映像業界にいる私としては、その言葉が本質を捉えていると苦笑するが、それが、映画監督の実際を知らぬ人にとってのアドバイスになるとは思えない。・また、音楽の授業の第一回で何をするかとの真摯な問いかけに対して、ジョン・ケージの演奏者が何もしない曲「4分33秒」を演じたらどうか。というのがあった。ジョン・ケージの音楽は、コンサートという額縁があって成立するものであり、そのようなものが教室で再現できるはずもなく、起きるのは、教室崩壊でしかない。私は、議論が禁じられている「教えてgoo」で反論に及んだ…。それらは、悩めるCGMの姿であり、過渡的なソーシャルコミュニティーの姿である。☆メディアとしてのコミュニティーは、そのような呻き声を上げているが、その中で営まれている実際のコミュニティーはさらに厳しい。ブログでは、ブログの主は管理人と呼ばれ、コメント欄でコミュニケーションがなされ、コミュニティーが開かれる。だが、コメント欄でのコミュニケーションは、コミュニティー的だが、コミュニティーではない。何故なら、基本的に管理人to閲覧者の間で行なわれ、閲覧者同志のコミュニケーションは、横レス(第三者の口出し)という批判を受けるからだ。SNSのコミュニティーでも、コミュニティーの話題以外の話をすることはタブーである。そして、これが一番恐ろしいことだが、コミュニティーのテーマに対する疑問・反論は決して許されない。結果、コミュニティーの中は、アイランド化してしまい、カルト教団の内部と形容されてもおかしくない状況になる。そして、そのコミュニティーの教祖たる管理人に、実力(威光・運営能力)がなければ、コミュニティーは1ヶ月を待たずに終焉する。コミュニティーが1ヶ月以上つづく場合は、管理人がリアルな権威を持っていて、参加者たちがひれ伏すことに満足感を感じる場合。もしくは、管理人が権威を振舞うことをせず、自由に言論を露出することを許した場合である。☆私が、管理人は、渋谷のハチ公が理想である。というのは、まさにその典型。管理人は、ランドマークであり、そこに集まった人たちを拘束しない。そこにこそ、言論の自由の素地がある。・言論の自由の場の確立。・自律的な個。・対立する言論たちの対照。・対立した言論をアウフヘーベンすること。めざさなければならぬものは多いのである。
2007年04月25日
すでに、私は、「グーグルが死に体」という言論を発している。先のエントリーに対して、ひさしぶりにトラックバックをしていただいた。素直に嬉しい。ほんとうにありがとうございます。☆とはいえ、私の文章の書き方がまずいのか、もしくは、私の中では、いままでのブログの文脈があるのだが、読者の方はそうではないので、そのあたりの齟齬があり…。ということで、LUFT2501さんと私の意見を対照させていただきたい。少し上にもあるように Google の検索精度はその Google 独自の PageRank 理論によるわけなんですが、普段われわれが利用している検索エンジンというのはそのアルゴリズムを理解して運用している「機械」で、その機械自体と機械の操縦者は特に何かの言論を世の中に提出しようしているわけではないんですね。(LUFT2501さん)それはそうですね。しかし、機械が運転されている以上、なんらかの結果を出してしまう。グーグルが、そういう恣意的な作業をしていなくても、無意識のうちにそういう思念が運営に加わることはありうる…。それが真正でないなら、「そんなつもりはなかったの…」「わざとじゃないから、許してね」などという言い訳を効かぬのが、ビジネスの世界。確かさ100%など、そもそもありえないのだし…。*検索結果が、SEO業者にとっては都合の悪いものであれば、彼らは、グーグルが恣意的行動を行なったと訴える。そして、グーグルの悪性を認めたうえで、SEOに秘策を練る。結局のところ、SEO業者が過大評価を望んでいるのか、それとも、適正評価を望んでいるのかは、当事者には判断のできぬマターでしかない。なんて思うのです。*もし、そのような批判から逃れたいならば、グーグルはアルゴリズムを公開すればいいし、セキュリティー費用をかける必要もない。それが公共財としての使命だし、株式会社にもとめられる透明性に従う行為のひとつだと思っています。アルゴリズム、などという言葉は多少なりとも理系のたしなみのある人間以外はそうそう使うものではありません。ましてその内容を理解して有効なツッコミを入れられるひととなればごくごく少数です。つまり、アルゴリズムなんて open でも closed でも内容をちゃんと理解できる人間はいつまでたっても少数派だろうと思うんです。(LUFT2501さん)リナックスのオープンソース。世界中にソースコードを理解する人がどれほどいるのでしょうか。リナックスユーザーは、ソースコードを読み取り、そこに不正がないと判断して、マイクロソフトから離れていったのではない。彼らは、オープンであるという誠実性と日常的に行なわれる進化に期待したのです。それは、アルゴリズムに関しても同じ。…そんなことを思っています。*だが、現実には、SEO業者が不正をしていることを、社会的批判に昇華させることができず、グーグル八分批判が起きている。そうした社会的批判を払拭できる唯一の手段が、オープン化。それができないのなら、グーグルには、後ろめたいところがあるのです。☆検索エンジンにおける Quantity は Quality の判定の近似値になっており、サンプル数を増やせば増やすほど、その近似精度は上がる。(LUFT2501さん)アルゴリズムを勘案しなければ、サンプリング検体が増えることは、結果がボピュリズムに陥るという弊害を持っている。それは、全数検査をした場合に如実に現れる。*読んでいらっしゃらないのかもしれませんが、私はすでにブログで次のように書いています。特殊相対性理論を理解できる人が世界に5人。なのに、アインシュタインはノーベル賞を受賞した。これは、ノーベル賞選考のアルゴリズムが、ボピュリズムを排するシステムを採用していたからです。量的勘案はボピュリズムに過ぎず、質的勘案は多様な評価軸を要するから、結果はひとつになっていかぬ。そのようなダイバーシティー(多様性・主観の多様性)があることを検索エンジンは明確にしなければ、ユーザーは妄信するしかないというのが、現状です。☆→中身のことはよくわかんないけどとりあえず Google とかその他いまある検索エンジンでよくね? という結論。(LUFT2501さん)湯川さんは、ファイアーフォックスを使っていて、検索項目によって、グーグルとテクノラティー、ニューシングを使い分けていると日常を語っています。そのように検索エンジンごとのアルゴリズムのバイアスがあり、それを賢明な使用者は感じ、選択しているのです。そういう状況が、今後は、もっと明確になっていくのではないでしょうか。そのような状況からいえば、総合的な評価を得てしまい、「のっぺらぼう」な存在を強いられているグーグルは、大衆には対応できるものの、分衆には対応できぬ。それが、私が「グーグルはすでに死に体」と論ずる理由です。*私は広告をノイズだと思っていませんし、利益活動を悪だと思っていません。しかし、世の中の多くの人は、広告をノイズと考えたり、利益活動を強欲と感じたりする。そのような後ろめたさの中で、不正な行為(第三者が納得できない行為)が生じるのです。これからのネット者は、そのような批判にさらされながらも、自らを閉じることなく、根気強い対話をつづけながら、自己改革をすすめることが必要であり、そのためには、オープンという概念が必要なのです。☆私は、ウェブ2.0が煽っている個のクリエイティビティーパッション(創造的欲求)について、疑問視しています。多くの人たちにとっての発信力とは、何かをオリジナルを作る発信力ではなく、自分が欲しいものを伝える発信力だと感じています。それは食欲に関してみれば理解できるかもしれません。*おいしい料理をつくることなど、30/100人にしかできぬ。でも、おいしい料理を注文できる人は、100/100の人ができる。否、フランス料理店では、50/100ぐらいかもしれません。自分でオリジナルな何かを作ることでもなく、オリジナルに加工を加えることでもない。万人に存在する個の創造的欲求は、「自分が欲しいもの・したいことを伝えること」でしかない。それが、2007年に言われている創造的欲求の現状であり、そのあたりについては、湯川さんと意見を異にする部分。果たして「爆発など」しているのだろうか。たしかに欲望は爆発しているが、それは欲望顕示でしかなく、創造的欲望はその中に存在するにしても、ほんのひとかけらでしかない…。☆ありがとうございました。LUFT2501さんとの言論を対照することを主眼に言論を展開したつもりですが、読み返してみると、反発心がテキストの中に混じっていることを否定できません。ならば、それを払拭するような書き方をすればいいのかもしれませんが、それもまたそれで、奥歯に物のはさまった言い方になってしまう…。このような書き方しかできませんでした。LUFT2501さんには心よりお詫びもうしあげます。もうしわけありませんでした。あなたは、書き進めることによって私の言論がフォーカスされていったことを評価してくださっています。今回は、あなたのブログの記述によって、私に大いなる気づきがあり、このエントリーになったことを感謝いたします。お互いの言論の乖離が参照されることによって、お互いがアウフヘーベンできれば、素晴らしいことだと思っております。本当にありがとうございました。追記:私はグーグルの無力化を目論んで言論しているのではありません。オープン・アルゴリズム検索エンジンの登場を願って書いているのです。誤解のないように、よろしく、ご理解いただきたいと存じます。
2007年04月24日
ソーシャルメディアという言葉を知らなかった。本著冒頭(p.12)に、主なソーシャルメディアという図が載っている。【主なソーシャルメディア】・SNS (ミクシィ・マイスペース)・ブログ・ユーチューブ(動画共有)・フリッカー(写真共有)・ティッグ・ニュー(ソーシャルニュース)・デレシャス・はてなブックマーク(ソーシャルブックマーク)・教えてgoo・ヤフー知恵袋(Q&Aコミュニティー)・価格.com・ECナビ・@コスメ(口コミサイト)ということらしい。☆思えば、最近のITジャーナリズムの注目先の流れをおおまかに振り返ると次のようになる。ヤフー(ポータル)→グーグル→ミクシィ→ユーチューブ→セカンドライフその方向の中で、グーグルを視野に入れながらも、グーグルそのものを論じようとせず、あえて、ソーシャルメディアという概念を提出したことは意味があると考える。☆湯川氏の提出するソーシャルメディアは、ほとんどCGMに近いだろう。ただ、CGMというような大衆を相手にしたメディアではなく、分衆という言葉に形容されるようなユーザー対象が限定されるメディアを意図したのだろう。湯川氏が感じているインターネットの流れに、私も極めて同意する。ただ、CGMは、Consumer Generated Medaiの略だというが、その言葉の通り消費者(Consumer)は、メディアプロデューサーという運転者によって操縦される自動車のモーター(Generater)にすぎない。そして、ソシアルが気になっている彼の感覚は私のものに近い。マス ⊃ ソシアル ⊃ SNSユーザーをマスと一からげに捉えることは大雑把だ。だから、ソシアルというソサエティーを設定する。マスは烏合の衆のように感じられるが、ソサエティーならば、自律的であり、対話も可能…。ただ、ソシアルなソサエティーもSNSのプライド(求心力・選民意識)の結果にすぎぬ。そのように、ソシアルさえもSNSに過ぎぬと諦観したとき、私たちは、そのようなコミュニティーの寿命が、極めて短いことにも気づかなければならぬ。*思えば、湯川氏の「ネットは新聞を殺すのか」のブログのコメント欄で成立したコミュニティーがどれほどの期間成立していたのだろうか。私はあのとき、彼に、「湯川さんは渋谷のハチ公なんだから、しゃべっちゃだめ。みんなが集まる目印にあなたがいるのであって、あなたが喋りだしたら、みんながびっくりして、ハチ公前広場から人がいなくなっちゃう」と言った。私がそのような非礼なことを彼に言ったのは、彼が、メディア人・ネット者の双方にとってのミーティングポイントとしての価値を持っていたからである。そういう彼への存在への尊敬があったから、あえて「ハチ公」などという喩えを出したのである。勿論、「銀の鈴」でも、「動輪」でも、「パンダ」でも、「モアイ像」でもよかった。たが、それらの中で、彼の存在は、けっして「モアイ像」ではなく、「ハチ公」であり、その存在は輝いている。だが、そういう私の忠告によって、湯川氏がブログにおけるコミュニティーを堪能できなかったのだとしたら、私は反省せざるをえない…。*極めて濃密なコミュニティーの場合、その寿命は長くても3ヶ月だろう。そのコミュニティーが延命する場合は、何らかの「燃料投下」が行なわれた場合である。「燃料投下」は、ほとんど2ちゃんねる用語だろうが、コミュニティーに新たなる話題を提供することにより、コミュニティーの活性化を目論むことである。Consumer Generated Mediaに、Fiel Injection(燃料投下)。なんとも、分かりやすい。☆私が、このところ、グーグルについて指摘している。Googleの本質は、Best5 by Quantityのリストを作ることでしかない。ジャーナリズム2.0:Googleの次にくるものは、新しいジャーナリズムである。 GooGleの次に来るもの:佐々木俊尚氏が指摘するような「特定の主体がトップ5リストを提出する時代」はこない。グーグルの終焉:オープン・アルゴリズムの時代。 それらを要約すると次のようになる。☆グーグルは、Top5 by Quantity メイカーに過ぎない。グーグルの弱点は、クローズド・アルゴリズム・ロボット検索であること。グーグルは、将来登場するであろう、オープン・アルゴリズム・ハイブリッド(ヒューマン&ロボット)検索に勝つことができぬ。☆私がその考察に至ったマーケットの法則を羅列すると以下になる。・量の時代は、質の時代へと変化する。・消費者が質を求めるトレンドの中で、大衆から分衆(多様な質の評価軸)、個へと、大衆の把握単位(消費者コミュニティーのサイズ)が小さくなっていく。・定食型メニュー(社員食堂)から、アラカルトメニュー(お好み食堂)へ。そして、カフェテリア形式(オカズ単位で選べる)へ。・サービス提供型(大工)から、ツール提供型(Do It Yourself)の時代へ。・パッケージ提供からサービス提供へ。そして、ソリューション(パッケージ+サービス)へ。・その中で行なわれる、パッケージ&サービスのモジュール(最小成立単位)提供。・フリーソフトや、リナックスOSに代表されるオープンソースの流れ。・クライアント&サーバー型から、P2P型への流れ。・メディア型から、P2P型への流れ。*【ビジネス界】・大量生産から、小ロット多品種生産へ。(SNSをイメージ)・生産者都合の商品開発から、消費者のための商品開発へ。(所謂CGMをイメージ)・企業経営に求められる透明性。(オープンソースをイメージ)ならば、時代の必然として、次のようなことが起こる。「CGMは、Consumer Generated Mediaの意味である。今後は、それが、オープンソース的な流れの中で、Consumer Organized ( or Oriented ) Mediaと変化していく。☆反証でしかないが、ユーザー(市民記者)同士のコミュティーがなく、運営における透明性を保持できなかったCGMのJANJAN、ライブドアPJ、オーマイニュース日本版は、低迷している。とすれば、湯川氏が提出するソーシャルメディアたちも、進化の過程によって、その運営に対する不満が募り、CGMから、COMという変化を来たしてくるに違いない。*勿論、民主主義同様、直接制をとるか、代議制をとるかという問題は残る。しかし、そのような場合にあっても、運営における透明性がメディアの正否に不可欠な要素であることは変わりない。☆ビジネス界の大きなトレンドでは、雪印・不ニ屋などの生産者都合型経営が腐敗し、消費者利益最優先が推奨される経営形態となっている。*自由な市場では、その評価軸において、企業の自然淘汰が行なわれている。雪印が解散・再構成に追い込まれ、不ニ屋が長期休業に追い込まれるとともに経営者が交代したのは、その一例である。*一方、寡占な市場では、その市場そのものがシュリンク(収縮)している。日本プロ野球が低調なのは、寡占状態なので、球団都合優先型経営が自然淘汰されていかぬことである。Jリーグサッカーは、オープンなので、チーム経営優先型経営では立ち行かぬ。浦和型経営・新潟型経営・甲府型経営など、ファン(消費者)優先のさまざまなスタイルが成立している。*究極の寡占市場といえる、地上波テレビの荒廃はひどい。民放局社員の生涯年収平均は、2位の業界の倍以上だという。広告代理店とともに作り上げてきた、そのような利益構造の歪みだけではない。商品ともいえる番組の荒廃は、「あるある…」だけではない。20年ほど前ならば、土曜の午後や日曜日の午後は、スポーツ中継を楽しんだものである。だが、いまその時間帯は、番組宣伝のために多くが使われている…。…そして、地デジである。地デジがライトワンス(録画は一回だけ)になることで、かなりの混乱が予想されるようだ。地デジの特徴は解像度だというが、そもそも視聴者は解像度を見分けることができない。そういえば私にも思いあたるふしがある。水戸黄門がフィルムからビデオになったことに私は違和感を感じたが、それを感じぬ人も多い。私は映像の作り手の一人であるから、そのような感覚を持っているが、消費者(視聴者)とはそのようなものだろう。☆クリエイティブを発揮するソーシャルメディアの圧勝を予想して、グーグルは、その市場に参入しない。と湯川氏は著作をしめくくっている。私は、ソーシャルメディアがグーグルに圧勝することは同意するとしても、その理由が敗北予想という分析には、異を唱える。何故、グーグルがソーシャルメディアと同じ土俵に経ってゲームを開始できないかといえば、グーグルの最大の弱点であるクローズド・アルゴリズムを払拭しきれぬ限り、ソーシャルメディアとの戦いに出陣することは、「戦う前の死」を意味するからだ。*今はまだ、ソーシャルメディアは、メディアプロバイダー主導でしかないが、早晩、コンシューマー主導に変化する。そのような時代がやってきたとき、コンシューマーの興味が、グーグルの根幹であるアルゴリズムに集まることは必至である。そのとき、グーグルは、いままでクローズドだったアルゴリズムの仕組みをオープンにしなければならない。だが、公共性を奉じてやってきたグーグルといえども、私観・利己的なアルゴリズムが一切存在しないはずなどない。巨大な集合知としてのアルゴリズムである。その微視的な場所に、バグ的・論理矛盾的な合理性をかく恣意的なアルゴリズムが存在することは明らかだろう。ならば、グーグルは、企業存亡に関わる批判をさけるために、アルゴリズムをクローズドさせたまま、屍になるしかない。つまり、グーグルには、グーグル2.0はありえない。ならば、すでに「死に体」である。グーグルは、クローズド・アルゴリズム検索エンジンの金字塔として、屍となっていく運命の選択肢しかない…。☆「爆発するソーシャルメディア」という湯川氏に、「それらの分析とオープンソースの流れはどのように関わっていくのですか」と、私は、彼に聞いてみたくなった。時事通信社ビルの下のスターバックスで久しぶりに、彼にキャラメルマキアートのラージを奢ってもらうことにしようか…。
2007年04月23日
佐々木俊尚さんの「グーグルの次にくるもの」について論じている。☆グーグルの時代がずっと続くような言説が巷間あふれているが、その議論は浅薄である。何故なら、グーグルには明確な不備があり、それがグーグルが現状のままであることを許さないからだ。☆その論脈の中で、私はまず次のように指摘した。Googleの本質は、Top 5 by Quantityのリストを作ることでしかない。 その指摘から導き出されるのは、次に記す、グーグルにつきつけられている目標であり、すでに取り組まれてだろう課題である。Googleは、Best 5 by Quarity(質)にup grade 昇華すべきである。☆量的勘案から質的勘案をすべし。と、書いてきたが、実はもうひとつの視点が抜けていることを、佐々木俊尚氏は指摘してくれる。佐々木氏の言説はこうである。グーグルはPageRankというランキング付け精度が優れているアルゴリズムの検索エンジンでインターネットの世界を席巻したが、この次に来る物は、機械のアルゴリズムによってお勧めされたものではなく、「誰それが」お勧めしているという、情報がより重要になってくるだろうというお話。その他にも色々な話があるけれども。(シバチョ氏の要約)そして、私は気づく。グーグルの本質は、アルゴリズムなのであるグーグルという企業が特定したアルゴリズムによって、ベスト5ランキングをつくっているに過ぎないのだ。私たちは、アルゴリズムという言葉を理解しないまま、グーグル信仰をつくりあげている。SEO業者が、ディファクトスタンダードとなったグーグルを絶対視して、対策を練ることには必然がある。だが、検索者であるネット者が、アルゴリズムに対する勘案なくして、グーグルを信仰する浅薄さを思いいたらなければ、なんともはや…。ということになる。☆アルゴリズムなどという奇怪な単語にごまかされてはならぬ。アルゴリズムとは、仕事を最小にするために仕組まれるシステムにすぎない。☆甲子園大会を、高校野球全国トップを決める仕事だと考えてみよう。トップを決める唯一確かなやり方で、仕事を最小化したのが、夏の大会である。夏の大会では、地方大会と全国大会ともに、トーナメント(ツリー状)をして、日本一を決める。だが、第三決定戦はないから、三位が2校、四位は空位である。もし、夏の甲子園で、全国高校野球ランキングをつくるならば、準決勝で負けた高校が3位になるだろう。全国優勝校は、確かに全国の頂点である。だが、ベスト4では、半分の結果が推測値でしかない。さらに言えば、ベスト3~4位の学校があり、次に、ベスト5位~8位の学校があり、次いで、ベスト9位~16位の学校がある。ならば、トーナメント方式(ツリー状)は、ベスト1を決めるには、効果的な方法(確かさ100%)であるが、それ以外の確かさは、不確定である。つまり、準優勝校と優勝校に破れた3位の学校が対戦して、必ず準優勝校が勝つとは限らないのである。勝負が運気に左右されるような時間軸で変わるものではなく、時間軸で変化しない絶対値を争うようなものだとしても、結果は同じである。つまり、夏の大会で決められるのは、地方大会のトップと全国大会のトップでしかない。それ以外のランキングは、確かさ100%ではない。☆春の選抜甲子園の場合は、そのトップさえも確かさ100%ではない。ここにおいて、アルゴリズムの恣意性はトップ1にも波及している。つまり、秋の地区大会で地区優勝をしたからといって、春の時点で強いとは限らない。そこで、大会審査員の主観によって選ばれた選抜出場校が全国優勝を果したといっても、その時点で、全国一であるかどうかの確かさはない。唯一、権威ある春の選抜優勝大会で、優勝したという価値を持つに過ぎない。このような恣意的な主体である、選抜大会の主宰者と同様な意味で、グーグルがネットに君臨しているに過ぎないのだ。☆日本の高校野球の春の大会と夏の大会の違いをメタファーにしたが、サッカーのFIFAの世界ランキングを思えば分かりやすい。ブラジルが世界一なのは、たしかだとしても、日本のランキングを信じている人たちがどれほどいるだろうか。世界ランキング20番台の日本が、世界ランキング50番代の国に苦戦する。負けることも珍しくない。☆グーグルによってアルゴリズムの詳細が非公開・クローズドされているから、ネット者たちは、それを信じることしかできぬ。だが、ネットが技術進化をすすめていくなかで、ネットにおける公共インフラをめざしているグーグルにも、アルゴリズムの公開を要求するムーブメントがおきてくるに違いない。それは、マイクロソフト(クローズド・ソース)がリナックス(オープン・ソース)の登場によって、翳りをさしたことと同じ状況が起こるに違いない。グーグル(クローズド・アルゴリズム)は、次世代検索ツール(オープン・アルゴリズム)によって、無力化する運命にある…。☆重要度勘案に関する独占権をグーグルが持っている。それが問題である。だが、私は、「グーグル八分」などといって、代替物もないのに批判することを意図しない。「フラット化する時代」の著者によれば、マイクロソフトに対抗するためにIBMはリナックスに資金を出した。ならば、グーグルに対抗するためにマイクロソフトが、次世代オープンアルゴリズム検索ツールの誕生に尽力することは、当然の流れである。これからは、オープン・アルゴリズム検索ツールを用意することが時代のニーズである。さらにいえば、グーグルに席巻されているマイクロソフトの苦境を思えば、そのような企画に、ビルゲイツが参画・助力することを時代の必然とみる。☆FIFAランキングを信じないサッカー者の多くが、ネットでは、グーグルのリストを信じている。私には、そのような時代がいつまでも続くとは思えない…。追記:NHKスペシャルのグーグルを特集した番組では、グーグル本社が、SEO業者に内部情報が漏れないように、厳しいセキュリティーシステムを配備していることが紹介されていた。それは図らずも、アルゴリズムがクローズドであることが、グーグルの根幹であることを示している。*今後開始されるだろうオープン・アルゴリズム検索ツールでは、すべてのネット者に合理性のあるアルゴリズムの選択が求められる。したがって、論理性のない利己的なアルゴリズム設定を行なうものは、開発コミュニティーから追放される。そのようなやりとりによって、極めて合理的で理想的なアルゴリズムを使った検索システムが構築されるのである。
2007年04月22日
インターネットでのマナー・モラルは、リアルな世界のマナー・モラルと同じだということは、多くの人たちが気づいていることだろう。私は、すでに、インターネットの進化は、人類の歴史をトレースするものであり、いまは原始共産の時代にいる。と指摘している。この説は、私がライブドアPJで市民記者をやっていたときに、すでに論じていたことだから、2年以上が経っている。あの頃から、いままで、何度もそのことを書いてきたが、有効な反論をされた記憶がないから、とりあえずは破綻のない論理だと考えている。☆そのように考えるならば、ネット上のビジネスも、いままでのビジネストレンドを追随していくと考えるのが妥当と思われる。だが、「次世代ウェブ グーグルの次のモデル」を語る佐々木俊尚氏は、そのように考えていないようだ。そして、極めて中途半端な形で、論理を展開している。*私は、佐々木氏の言論が世の中に好意的に受け止められていることを極めて表層的な出来事ではないかと考えている。それは、梅田望夫氏の「ウェブ進化論」が出版直後に、そこに書かれなかったことが話題になり、出版後1年以上経って、インプレスが、同著の疑問点を指摘しながら、ビジネス議論を提出する。そのような奇異な現象と同じだ。大人気ない私は、「次世代ウェブ グーグルの次のモデル」の誤謬を、発売後、1年を待たずにして、指摘したいと思う。☆佐々木氏は、Googleの機械的アルゴリズム(情報処理の組み合わせ)によって情報が検索されるのではなく、「誰それが」お勧めする情報が、より重要になるという。彼は、「誰それが」と表現したが、そのような記名された主体によって、情報の重要度が勘案されることはない。それこそがCGMの時代であって、そこにエスタブリッシュな論者である彼の限界がある。*私はすでに、「情報はつねに重要度のタグ(付加情報)をつけて流通しなければならぬ」と論じている。新聞をはじめとする既存メディアたちに、情報の重要度評価の権利が独占・寡占されていた時代は、批判にさらされている。その批判に既存メディアの主たちが対応しなければ、彼らの社会的信用度・影響力・価値は逓減していくに違いない。事実、アメリカのバージニア工科大学の事件報道でも、犯人の写真やコメントを流すことに批判が集まっている。犯人の写真やコメントはセンセーショナリズムを盛り上げて視聴率を上げることには寄与するが、それが被害者の家族は勿論、ごく普通の人たちにとっても、一度観てしまえば、複数回見る必要のない映像であることは明らかだろう。しかし、それでも尚、テレビマンたちは、映像を使うという麻薬から逃れることはできぬ…。このようなエピソードから、テレビマンたちが、独占的に犯人映像に最重要のタグをつけて発信していることが明らかになる。そして、それが視聴者のニーズを相反するならば、批判にさらされる。そのようなことが続いていけば、メディアの力は衰えていく…。*佐々木氏が「誰それ」と表現したものが何であるかは分からないが、その筆頭が、新聞社やテレビ局などのエスタブリッシュな情報企業であることは確かであろう。だが、そのような者たちがすでに空虚化していることを捨象してはならぬ。「誰それ」をそのまま、特定の個人と受け取っても事態は同じことになる。特定の個人に評価が集まるということは、その背後にはマスな個の集団がいることになる。だが、個の文脈が常に、その背後にいるマスな個の集団の要求を満たすことは不可能だから、評価されていた個といえども、その評価はかりそめなものであって、「誰それ」などという固有の固定した個が、評価する個としての実権を持つことはイメージしにくい。つまり、「誰それ」などという固定された主体によって、情報の重要度勘案・評価(Google検索でいえば、トップ5にする判断)をすることが未来であるというのは疑わしい。☆私は、リゾーム的情報インテグレートシステムとして、平成目安箱というものを提示してきた。それは、ツリー状をなしており、上下のヒエラルキーが存在する。だが、佐々木氏の「機械的なアルゴリズムによるお勧めではなく…」という言を受ければ、そのようなツリー状のシステムというのは、極めて主観的であり、ツリー状というものが、多数存在するアルゴリズム(情報処理の組み合わせ)の中のひとつのスタイルに過ぎぬということに気づかなければならない。ツリー状⊂アルゴリズムつまり、「機械的なアルゴリズムによるお勧めではなく…」、やってくるのは、「人的なアルゴリズムによるお勧め」なのだ。決して、特権的な「誰それが」がトップ5リストを制作するのではない。あるべき明日というのは、SEO業者が作成するトップ5リストに妥当性があるかどうかが審議される時代であって、SEO業者が暗躍しながら説得力のないトップ5リストを拵える時代ではないのである。はてなブックマークに代表されるソシアルブックマークが、人的アルゴリズムを期待させるが、ソシアルブックマークは情報がインテグレートされていくような相互評価システムを持っていない。☆メディアをつくることでビジネスを成立させてきたビジネス界も、今後は情報ツールをつくることで新しいビジネスを生み出すことを考えなければならぬだろう。それが、既存のメディア者たちにとって茨の道だとしても、それは指摘せねばならぬ。佐々木氏が持ち合わせていたメディア人・ビジネスマンたちに対する優しさを私は持ち合わせていない。そういう優しさの欠落が故に、私の言葉たちが多くの読者が得られぬのならば、私は反省すべきなのだろう…。
2007年04月21日
日本のメジャー紙は、明治の自由民権運動期において、政府による言論の希釈のために作られた報道機関に端を発することはいうまでもない。在野言論を希釈することが既存メディアの本来の目的であったが、その目的を隠蔽するために、在野言論の活躍の場にもなったことが、事を複雑にしている。また、言論の場に在野言論を流通されることによって、言論のガス抜きを行なう効果も果してきた。*そのように考えてくると、もし、誰かが、何かの機関が、彼の言論を聞いてあげていれば、今回の大量殺人は起きなかったのではないか。と、考えることもできる。アメリカ社会は、彼を狂気の主と断罪し、コミュニティーから追放するのではなく、コミュニティーの構成員の一人として、粘り強い対話を継続すべきではなかったのだろうか。かの国はすでに、被害者を生んでしまった。だから、被害者家族の心情に心を寄せれば、犯人の思いに心を寄せることはできぬ。彼の言うように被害者なのかもしれぬが、それが、32人の死者・被害者を前にして是認できることではまったくない。彼は、32人の屍を前にして被害者であると叫ぶ権利はない。そのことを彼は知っていたから、犯行後自殺したのである。彼の死体をテレビは見せることなく、彼の高ぶった姿だけを見せる。これほど、被害者遺族にとって理不尽なことはない。☆日本社会がピストルによる大量殺人から無縁でないことは、長崎の事件が証明している。だが、その一方で、かの国の惨劇から学ぶことはあるのではないか。*かつて、「話せば分かる」と言って、殺された首相がいた。彼のように、「話せば分かる」という理想を持ち続けることは、日本社会の構成員として、良識のひとつであると思えてならない。勿論、彼が対話の努力をし続けたかどうかは分からぬし、それに不備があったために殺されたのかもしれぬ…。☆大量殺人犯が狂気の捉われ者でしかなくとも、それがNBCネットワークを通じて全米に放映されるならば、それがひとつの言論として成立してしまう。人類史に残る発明家や芸術家のほとんどが、狂気をまとっていたという分析は珍しいことではない。恐ろしいことだが、狂気とて、ひとつの言論であることは確かである。そのようにひとつの言論と認識すれば、犯人が残した映像を使って、彼の言論ばかりを露出するテレビ局は著しくバランスを欠いている。NBSはスクープ性という理由から放映したに違いないが、犯人の言論を放送することは、犯人の言論を追認することでしかない。そして、それは、被害者の家族にとっては、悲痛なことである。CNNは、「犯人は自分が犠牲者であると言っているが、殺された人たちが犠牲者でないとでもいうのだろうか」と、発言した犯行現場の教室で九死に一生を得た女子学生のインタビューを紹介していた。被害者である学生たちには、インタビューに応える肉体をもはや持っていない。にもかかわらず、加害者の言論ばかりが露出されるという理不尽は、あっていいことではない。犯人の狂気の表情や、銃をまとった姿は、悪魔そのもので、事件がまだ続いているとの錯覚を視聴者にもたらす。大学の学部長が犯人の映像を流さないで欲しいとCNNに懇願したことは、理解に値する。☆情報が映像として伝わるのか、文章・コメントとして伝わるのかで、その衝撃度は大きく変わってくる。そして、多チャンネルの時代にあっても、CNNはプッシュ(受け手に選択の余地が低い)のメディアである。プル(受け手に選択の余地が高い)のメディアであるインターネットとは、性格を異にする。悪性と狂気に満ちた映像を流す、アメリカのテレビのやり方を肯定はできぬだろう。この映像を見た同胞たちが帰国を余儀なくされているのは、当然のことだろう…。☆そもそも、犯人は、自分のブログで映像を公開するのではなく、三大ネットワークのひとつに映像・写真を送りつけた。そこにこそ、アメリカにおいても、ブログにはオーソライズ力はないことを示している。三大ネットワークにはオーソライズ力があり、それ以外は泡沫メディアでしかない。リッチマンのすべてを殺すことができなかったCho青年は、挑発的な映像を送りつけ、メディアを利用して、リッチマンのすべてに打撃をあたえようとしている。その企みに、NBCをはじめとする報道機関が加担している…。CNNを観ていると、青年の疑問に答える対話者が、スタジオをはじめとして報道機関のどこにもいないことが奇妙に見えてくる。そこには、伝達者や分析者や解説者はいるが、対話者はいない。日本のニュースワイドのように、総合的な判断と無縁な感情的な言論を操る有名人がいるのもよくないが、そのような主観的主体がスタジオにいないというのも、また、不思議な風景である。☆その構造は、まさに日本のブログの特徴と、アメリカのブログの特徴をもイメージさせてくれる…。
2007年04月20日
アメリカ・バージニア工科大学の大量殺人犯が韓国人だということで、その遠因として、民族性があるという議論が2ちゃんねるで沸き起こった。私は、日本で立てこもり事件を起こした金嬉老を思い出した。彼は、日本の刑務所を出てから、母国に帰り英雄視されたが、のちに精神病院にはいったという。☆だが、考えを改めた。メディアに送られた彼が両手に銃を持ち、ベストを着ている写真を見ると、マーチン・スコセッシの出世作であり、ロバート・デニーロ、ジョディー・フォスターを世に送り出した映画「タクシー・ドライバー」を思い出した。映画では、ロバート・デニーロ演じる貧困の中にいる主人公が、ジョディー・フォスター演じる少女売春をする少女を助けるために、売春の仲買人を惨殺する。デニーロ演じる主人公は、銃を構えた鏡の中の自分にナルシスティックに語りかける部分を印象的に憶えている。その映像が、今回、報道機関に犯人が送った写真に、イメージされる。犯人には、スーパーモデルの彼女がいたという妄想があったようだが、映画にも、エリート女性(シビル・シェパード)に対するストーカー的な行為も描かれていた。☆私は、この映画を高校時代に見ている。だが、どうにも理解できぬ部分があった。それは、2人を射殺したにも関わらず、新聞の片隅で美談として紹介され、少女の両親から感謝の言葉を受け、ロバート・デニーロが演じた犯人が収監もされずに、タクシードライバーとしてのもとの生活に戻るこである。犯人に一面の正義があったとしても、聖書には、「復讐するは我(神)にあり」と書いてあるはず。陪審員制度のあるアメリカであっても、西部開拓時代ではない。あのようなリンチ(死刑)は許されるものではないはず。2人を殺すなら肯定され、32人なら否定される。少女売春仲買人を殺すなら肯定され、学生なら否定される。そんな社会は軋んでいる。人が人を殺さざるをえない状況に陥ってしまうことは絶望的に存在するにしても、すべての殺人は肯定されるべきではない。今回の事件は、犯人以外は拳銃を持って授業をしていないことが証明された。もし、犯人以外に拳銃を持っている人がいたら、被害者は減っていたかもしれぬ。だが、そのようにして被害者が減ることがよいことであるとはどうしても思えぬのだ。☆今回の大量射殺犯の心理的背景には、そのようなものを肯定・是認するアメリカの精神風土があったのではないだろうか。思えば、日本の学者・中沢新一氏は、「もし地下鉄サリン事件が数万人レベルで起きていたら、東京の霊的磁場は変わっていただろう」との悪魔的な言葉を発している。*霊的磁場は、シャーマンでなければ感じることはできぬし、オウムの悪性とともに歩んできた中沢氏が聖なるものと隔たっていることを考えれば、彼は、単に推量したのではない。彼のテキストは反語であり、自らの言論をもとに、そのようなことをする者たちが出ることを煽ったのである。そのような反社会的な分子は、日本のコミュニティーの異分子であり、自由な言論が制限されていい。と、私は断ずる。*実際に33人を殺すことと、東京で数万人を殺すことを煽動することとどちらの方が悪性が強いかどうかは分からない。ただ、どちらも等しく悪であり、たった1つの命で33もの命をあがなうことなど到底出来ぬにしても、チョ・スンヒ容疑者は、この地上から消えることで決着をつけた。だが、中沢氏は、いまだに発言をつづけようと目論んでいる。☆「フラット化する世界」の著者・ゴールドマン氏に言われるでもなく、フラットな時代が到来しつつあるのだと思う。それは、どういうことかといえば、一人の言論は一人の言論として遇せられるべきであり、一人の行動は一人の行動として遇せられるべきだということだ。だが、一人の言論が一人の言論として遇せられることはなかなかない。そして、世の中には、一人の言論に過ぎぬものが、数百万の言論であるかのように遇せられている場合が少なくない。そのような理不尽に接したとき、無名の個が、一人の行動の限界を越えて、行動に及ぶということも正当化されてしまうのではないか。個人的な見解・自己の利益のための論でしかないものを、それがあたかも国民の総意・世論・みんなの意見であると語るエスタブリッシュは、すべからく反省が必要である。☆言論における、一対一というフラットな状況が成立しないのならば、その軋みはどこかで暴発するはずで、そのケースの一つが、浅沼稲次郎氏の事件かもしれぬ。言論の怖さと狂気を感じずにはいれぬ。*ほとんど同時期に起きた長崎市長の犯人も、テレビ朝日に犯行声明を送っていたという。どのような言論をしようとも、殺人は肯定されぬことは間違いないはずなのに、何故、犯人たちはそのような愚行をするのか。その理由は、ひとつ。多くのエスタブリッシュが、言論によって肯定されるはずも行動を、言論の場を使って無理やり肯定させている。それを非エスタブリッシュたちは見ているのだ…。そして、何よりも、対話を継続することでしか、事件の再発防止はない。対話が重要なのは、ジャーナリズムだけではない。監視や管理や隔離や傍観ではなく。世の中のすみずみにまで、「対話」の重要性が突きつけられているのだ。銃が禁止されたら、爆弾を使うだけのこと…。なのだから。追記:土曜ワイド劇場を見ている人であれば理解できるだろうが、「殺人とは人間にとって最大の表現行為である」。だが、現実はドラマではないし、そのようなことでしか自己を表現できぬ輩は、この世に存在する価値はないのだと確信する。
2007年04月19日
私が参加予定のイベントのタイトルが、「ネットは新聞に何を突きつけているか」に決まったという。新聞人の方々が何を突きつけられていると思うかは、分からぬが、私が言い続けることは同じである。「ネットの特徴は、永遠のベータ版であり、ログが残ることである」というのは、すでに指摘していることである。一般的に信じられている「インターネットがインタラクティブなメディアであること」や、「無名者が発信できること」、「ネットで世界と繋がること」は、ほとんどと言っていいほど実現していないことを理解すべきである。コピイ&ペイストがもっぱらなインターネットにおいて、相手の中に自分の言論を見つけることに価値はない。ならば、差分のない個のコミュニケーションに価値はない。☆現在のインターネットにおいて、差分のない個同士の対話(インタラクティブ)は成立しているが、差分のある個同士の対話は成立していない。そこにおいて、インターネットにおいて有効な対話は成立していないと考える。☆私は、さまざまな有名人に対話を挑んだが、ほとんどのケースにおいて対話が成立していない。無名者として私は発信してきたが、それが発信に値するような伝播力・影響力を発生したとは思えない。 私の言論はログとしてインターネット上に溜められていくだけで、それを発信などというのは、おこがましい。そして、語学力のために、ネットで世界と繋がることは難しい。私は、乏しい語学力で、ダン・ギルモア氏の市民記者サイトに書き込んではみたものの、一切の対話は成立しなかった。☆一方、私はブログにおいて、無名氏同士の対話を継続し、コメント者への返礼として、謝罪と感謝のコメントを続発させている。それは、まさに朝令暮改といった永遠のベータ版性を証明しているだろう。さらにいえば、私はかつてバッシングにより震え上がり、誤解を生むエントリーをネット上から削除した。だが、現時点においても、私をバッシングするサイトは、ネット上に数多く存在している。それらを私が不快に思ったとしても、その数は膨大であり、それを削除することができぬ。ログは残っていく…。それがインターネットである。☆一方の新聞は、「永遠のベータ版」などという不完全な形でのリリースは許されない。そして、縮刷版という例外を除けば、昨日の新聞がけっして発行されぬ。という非ログ性を秘めている。この古めかしいメディアのスタイルが、いま、インターネットと対照されることによって、呻吟している…。☆「永遠のベータ版」性と「ログが残る」という特徴が何故生じたかといえば、ネットでは、情報の送り手と受け手の立場がフラットになっているということに尽きるだろう。それは、情報の送り手たちの独占的優位性が毀損される時代になったということに他ならない。それを感じている独占的優越性を毀損されたくない情報の送り手たちは、情報の受け手たちとの対話を一切行なわない。彼らが対話をしているものの殆どは、自分達の擁護者やサクラであって、彼らの中にすこしでも反論・反駁があれば、一切の対話を拒絶する。☆ネットでは、たとえ広告であろうと、事実と違う情報を流せば徹底的に糾弾される。企業が、掲示板などを運営していなくても、そのことは、2ちゃんねるなどで扱われるし、RSSリーダーにつながっていれば、そのような噂が無限につながっていくことになるのだ。そのような事例が枚挙に暇がないことも、優越性を保持したい情報の発信者たちが、一切の対話を望まないことの要因ともなっている。☆オークションとは、メイカー不在の場所である。リセーラーの天国である。そこが活況を呈しているのが、インターネットの特徴である。思えば、ネットオークションにおいて、リセーラー(再販業者)とコンシューマー(消費者)の区別はほとんどないに等しい。そのような状況で、出版界やレコード界などに存在するリセールにおけるダンピング防止システムは、ほとんど機能しなくなっている。いかに書籍に定価が守られようと、リサイクル商品が低価格で流通すれば、定価市場はシュリンク(収縮)していく他ない。コンテンツメーカーがコンテンツの流通に君臨する時代は終わろうとしている…。☆いま日本の音楽ファンが嘆いているのは、i-Podが提供する音楽配信システムから日本が除外されてしまったことである。私は仔細を知らぬが、その最大の理由が、日本の音楽著作権管理団体の存在だというのが、もっぱらの噂である。情報の価値(販売価格)をコンテンツメーカーが一律的に決定するような時代は古めかしいものとなっている。情報の価値は、情報の提供者が決めるのではなく、情報の受け手が決めるのは、当然のことだろう。もし、そのような当然のことが営まれていないのならは、その情報提供者は発信力を失っていくとともに、時代から葬り去られていくに違いない。☆メディアが紙であることは、永遠のベータ版性と相容れないし、ログ性も保持されぬ。新聞が紙にとどまるならば、永遠のベータ版性・ログ性がなくても存続していくことはできる。だが、紙にとどまっていたとしても、ネットに背を向けることが、2007年以降の日本において可能であるとはどうしても思えない…。
2007年04月18日
「定例記者会見の回数を増やせ」と取材記者たちは要求を出したそうだ。「紙面2ページをつかって、記者会見の内容をすべて載せるなら考えるでもないが…」と、知事は反駁したという。それに対して、当該取材記者は、「それは編集権を侵すものであり…」と不快感を表したようである。(テレビ報道による私の印象記憶による)*私が購読している産経エクスプレスには、東国原知事のコメントとして、次のようにある。「定例会見って必要ですかね」「特筆すべきことがないときは、なくてもいいのでは」「あなたたち(記者)が聞きたいことが必ずしも県民の聞きたい事は思わない」「必要なときだけやるか。県民の皆さんに聞いてみましょうよ」*宮崎県が、県民のみなさんに聞いてみる具体策を行なうことを期待する。勿論、そこには言論プロの特攻や工作が頻出するだろう。だが、それをいかに排除するかが正念場である。そのような言論操作を恐れて、県民の意見を抽出するメディアを構築しないことをこそ、インターネットの時代の精神に反することである。まずは、中立的・独立的な第三者機関が、県庁とは一定の距離を持って、県民の意見抽出メディアを構築すべきだろう。☆かねてから私が指摘していることが、宮崎県庁で起こっている。ことの問題は、メディア人が編集権を独占・寡占していることにある。☆ただ、編集権を発信者に渡せというのが、解決ではない。東国原知事は言う。メディア人と県民の意識は乖離しており、県民軽視である。…と。私は思う。メディアのマスディストリビューションという性質上、ある種の独占・寡占はしかたのないことだろう。だが、外を意識しない独占・寡占は、ユーザー無視であり、そのようなもとで営まれたものはひとりよがりになり、ユーザーの支持をなくすことは目に見えている。☆石原東京都知事も、定例記者会見ではさまざまな軋轢があったと記憶している。結果、最近では、定例記者会見の内容がMXテレビで放映されている。若い記者たちに、勉強を促す石原氏の言葉は、時に優しく、時に厳しく、語りかける。短く編集されて放送されるニュース報道とは違って、張り詰めた雰囲気の中にも、和やかなものが感じられた。この放送で、唯一納得できないことがあるとすれば、記者側の映像がいっさいないことである。質問する側も、質問する内容も、ひとつの言論・発言であって、その者たちの映像が一切ない。これは、質問する側の主観性を隠蔽しているひとつのエピソードともいえる。☆昨年だったか、佐賀県知事の記者会見のケースを覚えているだろうか。定例記者会見で、毎日新聞記者が、天皇陛下の来県費用が無駄だと指摘した。そのとき、当該記者は、皇室に関して使うべき用語たちを使わなかった。その後、定例記者会見の内容はYouTubeで流され、ネット上で情報共有されることとなった。そして、当該記者が在日であり、いままでも記者会見で在日的な言論活動をしていたことが、明らかになった。在日の人たちは異民族であり、帰化せぬということは、国民であることを拒否している。だから、天皇陛下に尊敬の気持ちがないのは仕方のないことかもしれぬ。とはいえ、日本国憲法で国民の象徴と規定される対象に対しての国民感情を理解せず、逆なですることに意味があるとは思えない。勿論、そのような者が存在してもいい。ただ、そういうリアル属性を隠蔽して振舞うことは、批判を免れないのではないか。特に、国民の象徴関連に言及するのであるならば、日本国籍を持つか持たぬかを明かすことは、質問者としては必要不可欠なことだと思えている。当然のように、2ちゃんねるで当該案件は話題になり、毎日新聞には電話での抗議(電凸:電話突撃)が行なわれた。そして、電話での抗議の内容が、ネットで明らかになった。☆私は、電凸の仔細の書きこみに接し、当該記者はともかくも、そういう同僚を持ち、世間の批判にさらされながらも、何ら有効な対応がとれない新聞人たちの辛さを思った。それは、私以外のネット者たちも同様で、書きこみたちの多くには、会社内の異分子(日本社会のコミュニティーにとって)に翻弄される日本人たちへの同情・哀れみが、感じられた。リアルとネットという違いはあるが、メディア機関の中で異分子と対峙している新聞人たちも、2ちゃんねるの「東アジア言論」関連掲示板で激論を繰り広げている人たちと同じ境遇に置かれている。だから、ネット者の中に、毎日新聞の新聞人たちの心に思いを寄せるのものが少なからずいた。ただ、その状況に対峙し、その状況を変革していこうという意志が感じられないところに、苛立ちと絶望があったことは否定できぬ…。☆考えてみれば、CNNというのは、「いま起こっていること」を「いま報道する」ことで、人気を集めた。もちろん、それまでニュース専門チャンネルがなかったという理由もある。だが、いままでの3大ネットワークが、情報をさまざまに加工して出していたことに対する反発もあったのではないか。メディアが独占的に行使する編集の主観性を、視聴者は必ずしも好意的でないことの現われだろう。☆松坂投手の取材にボストンを訪れたフジテレビの小倉智明氏が、報道パスで球場に入ったために、松坂に話かけることができなかった。と裏事情を明かした。もし、報道パスでなかったら、客席から応援の声をかけることができたのに…。ご存知の方も多いだろうが、松坂投手に日本からの取材陣が200人以上も殺到しているため、通常はマスコミ人に許可されるロッカールームへの取材が禁止されたという。そして、松坂フィーバー以前からのルールとして、「練習中・試合中に関わらず、取材記者は、選手たちに言葉をかけることは禁止されている」という。取材は、ロッカールームでやるものであり、野放図に、いつでも取材するというのは、マスコミのご都合主義でしかない。というアメリカ社会の合意なのだろう。☆東国原知事は、定例記者会見を受けるし、ぶらさがりのコメントも多々残している。それでも尚、何も報道されていないと彼は不平を言う。現場で何が起きているかは、容易に想像がつく。*まずは、定例記者会見の場をオープン(映像中継)にすることからしか始まらないのだろう。記者会見がオープンになることによって、社会の眼によって、メディア者たちの編集内容の妥当性・合理性が吟味されることになるのだ。ただし、そういう社会の眼が吟味をしたところで、その意見をインテグレートする機関、オーソライズする機関がなければ、批判は単発化し、漂ってしまう。ネットの欠点は、一切のインテグレートシステム・オーソライズシステムを持たぬことである。それにより、既存メディアの専横はつづくに違いない。とはいえ、佐賀県庁の知事会見で毎日新聞記者が浴びたような社会的批判は、今後とも起こるだろうし、そのような構造を払拭しない限り、新聞の崩壊は続いていく…。新聞人が、編集権の不可侵の正統性を主張するのは批判に及ばない。ただ、編集権が行使された紙面が、読み手のニーズに応えないとするならば、編集権を誇ることに価値はない。新聞が社会的な重要度の評価を得ているにも関わらず、大衆・分衆のニーズを満たしていないなら、その重要度の実体が見かけだけである。それが真実ならば、そのような見かけだけの重要度を誇る取材者たちに、首長に対する代表質問権を与える定例会見は、カイゼンが必要である。東国原知事は、そのことを暗に示しているし、芸能界という報道と隣接する業界に長くいた彼でこそ、指摘できたことだろう…。☆すでに、Googleの終焉とともに、インテグレートの時代がやってくるという、必然を、私は指摘している。時計の針をゆっくりにすることはできるかもしれぬが、逆に戻すことはできぬ。今回の東国原知事が指摘したようなできごとが頻発すれば、この流れは一気に加速するかもしれない。
2007年04月17日
どちらとも、Mという頭文字である。M氏は、反社会的な集団に属しながらも、その属性を隠しながら、出版界・ネット界で発言を続けてきた。GripBlog関連のできごとでは、M氏には「言論の自由」があるから、発言してよろしい。という、4人組が現れた。だが、殺人集団に所属しながらも、一切の反省・懺悔を表明しない人間は、この国のコミュニティー構成員ではない。「言論の自由」を以前の問題として、彼は、この国のコミュニティー構成員(国民)ではなかったのだ。☆一方のM嬢…。行状の仔細はあえて言及しないが、日本の司法制度の最終判断である最高裁の決定に従わないのならば、この国のコミュニティー構成員ではない。自分のこどもに「国籍を与えない」ことを誇っている両親は、「虐待」ではないとでもいうのだろうか…。国籍のないものたちに、福祉(コミュニティーの公共財・インフラを提供している)を与えているこの国の温情を彼らは感じないのだろうか。☆インド・ブータン国境では、パスポートを持たぬものは、インド人だという。日本国内でも、日本国籍のパスポートを持たぬものが、日本人でない訳ではない。だが、空港のゲートではそのようなことは許されず、こどもたちの海外渡航の権利が奪われている…。彼らは自称・親子と認めている。それは、日本の司法制度に背を向けていることになる。日本の司法制度に背を向けた・反社会的な人間が、テレビに露出しづづける合理性は何なのだろうか。書類上親子関係が認められないなら、幼児拉致にすぎぬ。かれらがもし、海外に旅行すれば、渡航先の法律によっては、罰せられるに違いない。日本の法律が幼児拉致で告発をせずとも、彼らが行なっていることの反社会性は明らかである。☆私は、そのような反社会的に人間が、日本に存在してはならぬ。などと、私は思わない。ただ、少なくとも、「メディアやメディア人たちを巻き込みながら発言する権利」はない。そして、彼らに、発言権を与える人たちも、非構成員につらなる準・非構成員だと思うのである。☆体温に負けてしまって、大量殺人教団の論理を正当化することは悪である。同様に、視聴率に負けてしまって、最高裁の判決に従わない人をメディアに露出させつづけるのも、悪である。当人たちは、ある種の信念を纏っているのだから、仕方のないことだとしても、その周囲の人たちが、そのようなものに迎合することは、信念あるものたち以上に悪性を持っていると思っている。☆世の中に一定数の悪性なるものの存在は、仕方のないことである。悪性なるものの存在によって、善性なるものを認識できる。だが、悪性に気づかずに、悪を広めることは、容認できない。☆日本のジャーナリズムが自虐史観に満ちているという指摘があるが、その実体が「自虐」ではなく、日本社会のコミュニティー異分子(思想的:私有財産の否定・民族的:国民の象徴の否定)が作り出した、「他虐」だったという分析が専らである。私の言論の根本は、「言論の多様性を認めること」である。だが、日本のというSNS的なコミュニティーを認識するには、外を定義しなければならない。ならば、日本人にとっての外の定義をすることしか、言論の多様性の範囲を決めることはできないのだ。日本のコミュニティーにとって、外の定義は次のようになる。1.殺人集団に属している・殺人集団に属していたなら、自らの過去・過ちを告白し、反省する。2.日本の司法制度に従う。個人的には、愚痴も嘆きも、反駁もあっていい。だが、自分の行動が他者を巻き込むのなら、それには一定の自省が求められる。私には、大量殺人が一般的になり、代理出産が一般的になる日本をイメージできない。
2007年04月16日
【ここまでの総括】Googleが量的なベスト5リストをつくっているに過ぎぬと指摘した。量の時代は、質の時代に取って代わり、それが大衆を分断し、分衆化する。☆メイカー側は、大衆の圧力に手痛い経験をしているため、分衆化したものたちが反抗するツール・手段を与えないように、策をこらしている。結果、反抗的な大衆的な消費者グループは存在するが、反抗的な分衆的な消費者グループは存在しない。*結果、クレーマーは孤立する。それは、私が横丁の雷オヤジをして挫折した現象と同じである。異論提出に関する一切のインテグレートシステムがない…。*そのようにして、メイカー側は自らの優位性を保持しようとしている。☆【本論】マクルーハンは、「メディアとはメッセージである」という言葉を残している。マクルーハンは、柔道でいえば、「あわせて一本」のようなメッセージを想定したと考えるが、メディアの中の部分集合である、メディア企業たちは、理論武装の弊害か、一つのメッセージをつくりたがる。だが、時代は限りなく動いているから、ある時点で現実との整合性が認められた理論も、次第に、その有効性や実効性を減じてくる。それが、いま言論の世界に起きていることだと思われる。それを世代論というのかもしれぬ。専制や帝国主義を肌で感じていた世代は、イデオロギッシュな言論になりがちである。だから、ベルリンの壁が崩壊したからといって、社会・共産主義の旗を下げることは、なかなか難しい。そのような旗をたとえ降ろしたとしても、自由主義を帝国主義・共産主義・社会主義との対象関係の中で論じてしまう。だが、そのような固定的な価値観はすでに不毛になっている。*【言論は、リリースされた瞬間に、発言者を縛る。言論の奴隷にする。】私は、「自由という概念は、不自由であることの自由を許容しない」から不毛であり、多様性という概念がふさわしい。と、指摘しつづけている。いまの日本で、「私は奴隷になりたい」「私に奴隷になる自由を認めてください」と言う自由も・「奴隷になる自由」もないことは自明だろう。私は、それを池田信夫先生に指摘したが、彼はまったく考慮などせず、「君はポストモダンな言論を操るね」と返された。アメリカのリベラリズムが影をさしているのは、アメリカが保守化しているのではなく、自由という概念の被害者妄想的(加害者妄想的)なイメージを、多くのアメリカ人が感じ取っているからではないだろうか。そして、自由なる言葉に代わって、ダイバーシティー(多様性)という言葉が、多く使われるようになった。かの国の言論は、「人種のるつぼ」は幻想であり、「サラダボールの中身」にすぎぬという、極めてリアリズムな人たちを含んでいる。彼らは、その思想の受益者の定義・特定もせず、「自由」や、「正義」を語ることの不毛を感じ取っているのだろう。*ベルリンの壁崩壊後、過去の言論に縛られて居場所のなくなった日本の社会・共産主義者たちは、「格差社会」という不毛の議論を提出する。二大政党制の中で呻吟する民主党は、「きっこの日記」で暴発する。選挙制度や政党の統廃合を経て、日本に二大政党制がやってきたけど、そもそも二大政党制が多神教の日本には不都合だったとは、誰も言うことができない…。*ならば、どうすればいいかといえば、最初から、ひとつの言論など提出しなければいいのだ。ひとつの事象には、必ず、加害者側の論理と被害者側の論理、そして第三者の論理がある。それらを提示することをすれば、言論の賞味期限はかなり延長されるのではないか。それが私の今回提出する「三点買いのジャーナリズム」である。☆【総合】Googleが、The Best 5 line up by Quantityをつくっているに過ぎぬと指摘している。その寿命は、10年ない。とも…。そして、今後、Googleが存命しつづけるならば、The Best 5 line up by Quarityをつくらなければならないとも…。*否、ここで気づいた。日本語ではベストテンだけど、英語ではトップテンなんだ。ベストは質。だけと、トップは量…。だから、今後は、Top を使うことにする。では、論に戻る…。(^^;)*その一方で、既存のジャーナリズムが生き残る道ともいえるジャーナリズム2.0は、「3点買い馬券:利益者・不利益者・第三者の言論の並置」であると指摘する。 つまり、ジャーナリズム2.0とは、The Top 3 by 3 view points .結論を下すのは、読者(自律的な個)であって、それをジャーナリズムの側は強制することはできぬ。そういう自律的な個が情報を伝達するのがP2Pの時代である。そのような、「3点買い馬券」の世界によって、自分に都合の悪いリファレンスを参照しなかったり、対話を拒絶するものは、真偽性が疑われる。それが、アフリカの叡智である真実和解委員会が教えてくれた、「対話こそが真実性をつきつめてくれる」という理論の実験・実践・実証でもある。ここにおいて、「ジャーナリズムは粘り強く対話を続けなければならない」と指摘する湯川鶴章氏の慧眼に思い至る…。☆私には、Googleの存続もジャーナリズムの存続もどうでもいい。だが、ジャーナリズムとGoogleが10年後において、統合・融合されることに必然がある。と考察している。それは、30年前に「壁掛けテレビ」といわれていたものが、実は液晶テレビだったり、当時懸念されていた深刻な大気汚染の実相が、「花粉症」だったのと同じで、固有名詞は違っていても、その機能・実行としては、それほどのブレのないものだと確信する。☆いまは、ステークホルダーにまみれて身動きのとれない新聞や既存メディアも、あらたなるジャーナリズム2.0を纏えば、まだまだ存続が可能であり、それ以外に有効な言論機関はありえないともいえるのである。そして、そういう時代が起きることを願っているし、そのための活動をしつづけるのが私の役目だと思っている。
2007年04月15日
私の主論は、市民参加型ジャーナリズムです。その原体験を共有することにより、私への理解が深まると思います。幻想の市民参加型ジャーナリズム。これには、ライブドアのパブリックジャーナリズムで私が体験してことが書かれています。その他、カテゴリーの「ジャーナリズム(既存・市民)」を閲覧いただけると嬉しいです。ここでは、つねにアウトサイダーであった、オーマイニュース日本版と私の関係を知ることができます。
2007年04月14日
「Googleの次がは分からない…」という議論は、私が接したものばかりではなく、この世界中に溢れているだろう。だが、Googleの欠点は、多くの識者が指摘できるはず。ならば、Googleの時代も10年を待たずに、終わりを遂げるというのが、私の考えである。☆グーグルのやっていることは、情報を量的に解析することでしかない。先のエントリーで指摘したように、量を求める時代が成熟すると、質を求める時代になる。質を求める時代になると、コミュニティーが細分化されていく。つまり、大衆の時代の次に、分衆の時代がやってくるということだ。コミュニティーが細分化されるということは、全体集合の中に、多数・無数の部分集合ができあがることになる。そういう部分集合たるコミュニティーのいくつかは、オープンであったり、そのいくつかはクローズドであったする。クローズドといっても、完全に外界と隔絶したコミュニティーではない。それは、MIXIとて、新会員が登録できること。引きこもりの青年が、社会と断絶しているといっても、両親を通じて社会とつながっていること。テレビゲームやご飯を食べることで社会とつながっていること。カルト集団のオウム真理教にしても、社会の加害者になることで社会とつながっていること…。などと等価だ。だが、そのような繋がりを実感できぬから、そのようなクローズドなコミュニティーを越えて、コミュニケーションの基点としての個を重要視する時代がくる。そのようにして訪れるのが、個の時代ともにいえる。☆個の時代などという乱暴な論理に騙されてはいけない。私は、自らの正義感に従って、横丁の雷オヤジを演じたことがあるが、地域社会から1年近く白眼視された…。ORZ私の痛恨事をひくまでもなく、個をとりまくコミュニティーというのは、存在しているし、それらとの対話を粘り強く行なわなければ、個は敗れ去るという運命にある。個の時代がやってきたといっても、それをとりまく小規模コミュニティー、中規模コミュニティー、大規模コミュニティーがなくなったわけではない。それが重要である。☆Googleの限界は、実はそこにある。Googleは、SNS的なものを捨象して、情報を扱っている。つまり、自他の境界領域が、個の肉体の内外という素朴な考えでいる。母親は、自分の境界領域の内側に自分のこどもをとらえているという分析はよく行なわれる。殺人事件などにしても、自己の境界領域が混乱して、他者を殺してしまう場合が少なくない。つまり、自分の内側と認識していた人間に、自分の思いとは別の行動をされ、裏切られたと感じ、衝動的に攻撃してしまうのだ。小規模コミュニティーの内側と外側では、ステークホルダーが異なるから、「正義」の意味も異なる。☆たとえば、メイカーという小規模コミュニティーを想定してみよう。商品の販売価格を高く設定することは、そのコミュニティーにとって正義・善(コミュニティー構成員の民意を反映した)である。だが、コミュニティーの外(消費者・現実・リアル)では、商品の販売価格が低いことが正義・善(コミュニティー構成員の民意を反映した)である。コミュニティーが成立することは、ある意味、外があることである。結果、コミュニティー内の正義が、消費者という外圧に耐え切れず、メイカーが設定する販売価格がある程度抑えられるのである。それでも尚、彼らは理想・正義を捨てきれないから、「メーカー希望価格」などといううめき声をあげるのである。☆Googleがかかえる最大の問題は、SEO(検索エンジン最適化)コンサル業者対策であることはいうまでもない。Googleは、情報の価値に即したランキングを提出しようと努力するが、SEOコンサル会社は、情報の価値を水増ししようとする。NHK特集のGoogleを扱った番組では、「影響力を行使できるのは、グーグルでBest5までにリストアップされる情報であり、Best10以上はネット上に存在しないに等しい」とまで断じていた。だが、Google make the Best 5 list only by Quantity. に過ぎぬのです。☆思えば、そのようなものとつき合わされているSEOコンサル業者も悲しい存在だ。つまり、SEOコンサル業者は、担当する企業が形成しているSNSの構成員なのである。ならば、そのコミュニティーの論理・正義で事を成すのは当然のことだ。問題は、そのような小規模コミュニティー、中規模コミュニティーを想定しないGoogleのシステムであって、それに誠実に対応する、SEOコンサル業者を責めるのは、実利的ではないと考える。☆Googleが作ったシステムによって、SEOコンサル業者は、いたちごっこ的な不毛な業務に巻き込まれてしまったのである。勿論、仕事があるから、利益もあがる。つまり、一切のコミュニティーを想定しないGoogleがSEOコンサル業という新しい職種をつくったともいえる。だが、それは、過渡的な状況で必要に迫られて成立しているものに過ぎない。☆いま、Googleで一番重要なのは、複数ワード検索だ。この世界こそ、明確なSNSを感じさせる世界である。たとえば、「アンネの日記」とググッてみる。関連(複数)検索の候補には、次のようにある。アンネの日記 感想文 アンネの日記 映画アンネの日記 ボールペンアンネの日記 偽造 アンネの日記 完全版アンネの日記 あらすじ アンネの日記 内容アンネの日記 嘘 ユダヤ問題に第三者である私は、「アンネの日記とは、居住民を放逐してイスラエルを建国したユダヤ人に対する世界中の批判を抑えるための、言論誘導のツール」だと思っている。オリジナルのドキュメントの存在は否定しないが、一切の加工・演出がなされなかったと考えるのは不自然だろう。そのような私は、「アンネの日記 ボールペン」 「アンネの日記 偽造」「アンネの日記 嘘」という情報に価値を見出すコミュニティーに属している。一方で、「アンネの日記 感想文」「アンネの日記 映画」「アンネの日記 完全版」「アンネの日記 あらすじ」という情報に価値を見出すコミュニティーもある。現時点では、後者の方が多数派であり、前者は少数派だろう。そして、単に少数派・多数派ということではなく、この二つのコミュニティーの言論は対立しており、一触触発の危険を孕んでいる。だから、Googleはその火種に油を注ぐことはしない。☆だが、そのようなことでは、有効な言論提出はできぬのである。新聞が、馬券における馬単の一点買いをして、土壺にはまっている。だが、ネット言論が同じ轍を踏む必要はない。ネット言論のインテグレーターは、堂々と、「複式の馬券で二点買い、三点買い」をすればいいのだ。☆つまり、「アンネの日記」というひとつの単語で行なわれるグーグル検索は、一点買いである。それは、正誤の勘案を逃れられない。※これは、Wikipediaも同じ通弊にある。一方、「アンネの日記 ボールペン」というのは、複式馬券である。私は競馬には詳しくないが、メタファーにした馬枠では、帽子やコスチュームが違うのだろうか…。検索の世界では、言論をよりフォーカスすることになるだろう。そして、「アンネの日記 ボールペン」コミュニティーと、「アンネの日記 あらすじ」コミュニティーがひとつの検索結果画面に登場する。それこそが、私がイメージする、インテグレートされた検索エンジンである。☆まとめよう。(なんかtxの日高レポート風…)Google検索の最大の瑕は、コミュニティーの想定しなかったこと。Googleの思想の最大の欠点は、世の中に複数の正義が存在することをイメージしていないこと。である。そして、何故そうなったのかといえば、Googleは、Best 5 by Quantity メイカーに過ぎぬから…。調査対象を量的に勘案するだけならば、それはプロモーターたちの餌食になってしまう。それは、ジャーナリストに事実を指摘され、断末魔の叫びを上げるオリコンとイメージすればよい。では、今後の検索がどうなればいいのか。または、Googleの今後をどうすればいのか。それは、Googleは、Best 5 by Quarity(質)にup grade 昇華すべきである。ということになる。主観的なインテグレートを一点買いすれば、摩擦・衝突は起こる。だが、複数な対立するコミュニティー言論を並置すれば、摩擦・衝突は顕在化し、言論は時を経て、あるべき集束をするに違いないと考える。☆一点買いをするものは、負けるリスクが高い。そして、対話を拒むものは、真実性が疑わしい(アフリカの叡智:真実和解委員会)。ここまで論じてきた私は、もはや梅田望夫氏のことを語る気持ちにはならない…。
2007年04月14日
「Googleの次に何がくるかはわかっていない」との話が出たので、脊髄反射的に、「Googleの次に何が来るかは、すでに分かっている」と偉そうに語ってしまった。なんとも、感情的な私であり、反省しきりである。遮られた方が気分を害されたことは間違いない。ORZそこで、反省を込めて論述する。☆「Googleの次にどんな時代が来るか」を考えるには、Googleの欠点を考察すればいい。Googleの欠点というか特徴は、リンクを量的に勘案することによって、サイトの重要度を評価することである。ここにこそ、Googleの特徴があり、欠点がある。☆【Reference:01】20世紀を代表する科学者・アインシュタインの理論の特殊相対性理論を理解する人は世界に5人しかいなかったといわれる。ならば、もし、Googleを使ってノーベル賞受賞者が決定されたなら、アインシュタインは受賞できなかったはず…。しかし、アインシュタインは、ノーベル賞を得た。その理由は、アインシュタインを評価した5人の科学者もまた、多くの評価を得ていたからだろう。つまり、評価システムのツリーができあがっていて、そのトップにアインシュタインが存在したということになる。そのツリーこそ、Googleの時代の次にやってくる、インテグレートの時代の要諦である。☆【Reference:02】トーマス・フリードマン著「フラット化する世界(下巻)」というベストセラーを読んでいたら、CEOとならぶ、企業の重役であるCIO(最高情報責任者)が、今の私は、最高インフォメーション責任者だが、今後には、最高インテグレート責任者になるだろうと語っていた。(p.21の記述)「InformationからIntegrationへと時代が動いていく」ことを、アメリカのビジネスマンは感じているのだろう。☆情報からインテグレートへの変化が当然の帰結であることの例があることを皆さんは勘づいているだろうか。それはゆうまでもなく、POSシステムだ。といえば、うなづいてくれる人も多いだろう。【Reference:03】一時期、大型店舗やチェーン店などで、POSシステムが導入された。これにより効率的な店舗運営が実現したという報道が大々的になされた。だが、そのような報道は現実を反映したものではなかった。POSを大々的に取り入れたダイエーなどは、「何でもあるが、欲しいものがない」などと揶揄されていたのを憶えている。売れる商品しか置かないことは、小売業側の都合であり、それが消費者のニーズに必ずしも直結しないのだ。【Reference:03A】たとえば、売れる売れないに関わらず、コンビニは祝儀袋・不祝儀袋を切らさない。薄利であり、数量も出ない商品、そんな店舗主の利益に直接的に影響しないばかりか、商品棚を占めることによって悪影響を及ぼしているかもしれぬ商品である。そんな商品であっても、そういう商品を切らさないことによって、消費者に対する信頼感・安心感を与えることができる。それが顧客重視の店舗経営を地域住民たちにアピールし、祝儀袋・不祝儀袋は、遠因として、安定した売上げに寄与しているのだ。*【Reference:04】現在のPOSシステムは、もうひとつ上のグレードにすすんでいる。デパートなどでは、少額商品で売上げに寄与しないとしても、そのような商品を購入する顧客は、別の売り場で高額商品を購入する傾向があるという顧客調査が出ている。このデータにしたがって、アメリカ製の高額・特殊な家庭電気製品の消耗品を扱っているとか、ソーダサイフォンのボンベを扱っているという。情報が量的な充実を持たぬならば、量的な解析にもっぱらになるのは仕方のないこと。しかし、量的な視点だけで情報を解析することには不備がある。情報の量的な質が達成できた時点で当然のように起こることは、多角的(恣意的・主観的)な視点から情報を分析・解析することなのである。Googleの時代の次にやってくるのは、インテグレートの時代である。【Reference:05】それは、「量の時代のあとに質の時代がくる」という必然である。「大衆の時代、分衆の時代、個の時代…」というトレンドの流れと同様である。【Reference:06】松本竜助氏の一周忌の追悼番組で、島田紳介氏は、若かった頃の自分達の漫才について論じていた。「10万円、5万円、3万円、運命の分かれ道…」のいとしこいし。「親亀の背中に小亀を載せて…」の獅子てんや瀬戸わんや。そんな、こどもからお年寄りまでのすべてに受ける漫才の時代があった。落語でいえば、「どうもすいません」の三平。「山のあなたの…」の歌奴。「うちの化けべそが…」の円鏡。そんな時代が続いていた…。だが、その時代はいつか終焉する。*その次にやってくるのは、分衆の時代である。自分達の漫才は、10代から20代。せいぜい35歳ぐらいまでの、男性をターゲットにしよう。そのためには、ヤンキーたちや、成功者として人生を歩んでいない人たちの劣等感を題材に漫才を組み立てよう。そのような大衆から分衆を想定したのが、当時、紳介氏がつくっていた「笑いの教科書」だろう。だが、それは教科書によって学ばれるものでしかなく、アプリオリ(生得的・生まれつき)なものではなかった。そういう根っこの弱さを感じていた紳介氏は、「でも、このやり方で続けられるのは、せいぜい10年だ」と、ブレークする前から、絶望していたという。そして、8年ほど経った頃、ダウンタウンの漫才を見て、舞台袖で紳介は滂沱の涙を流したという。竜助氏は、紳介氏の思いを知っていたから、解散に同意するとともに、記者会見で、紳介氏の気持ちを多弁した。世の中は、紳介が竜助を捨てた。と、批判するが、そうではない。壮大な漫才プロジェクトが終わったのである。それは、漫才が人生の生き様の一つではないとき、その賞味期間が限られるという至極まっとうな結論をしめしていた。演芸界において、つくりものが決定的な魅力を持たないのは、桂米丸や桂三枝やの新作落語が、当人が努力すればするほど、つまらなくなるという構造にまきこまれていることを想起すれば実感できるだろうか。古典落語においては、他者を演じることによって創作は肯定される。だが、日本文化の自然主義の系譜では、自分が主人公でありながら、虚構の世界を構築することは受け入れられない…。「行列のできる…」で、ネタを連発するキリコが批判にさらされるのは、そういうことだ。人生なる漫才とはアプリオリな才能による漫才である。その系譜には、オール阪神・巨人やB&Bの漫才がある。島田洋七氏のテクニカルなしゃべりも、その底に原体験としての「がばいばあちゃん」がいる。そういうものの生きは長く、時代を超えて、ロングセラーとして成立するのだ。一方の紳竜漫才は、10年を待たずに解散するしかなかったのだ。私はここに、大衆→分衆→個の変遷を見る…。そして、個を全面に押し出して活動する現在の島田紳介氏は、究極のロングライフ商品である。彼こそが、インテグレーターとしての個のあり方の可能性を明確にしめしている。叩かれよ。されば、開かれん。それがインテグレーターかもしれぬ。☆このトレンドの流れは、生産者に、大量生産という単純な作業という利益の上がりやすい生産体制を続けることを許さず、小ロット多品種生産という、やっかいで、売れない品種をつくるリスクのある生産体制を強いる。☆企業家たちは、できるだけマージンの高い時代が続くことを望んでいる。だから「Googleの後に何がくるか分からない」などと嘯くのだろう…。だが、誰もが、そのような必然を感じているから、インテグレートな情報商品をつくるための取り組みはすでになされているに違いない。社員たちに本業の他に新しい企画を練ることを強制するGoogleがそのような商品を発売する可能性はかなり高いのではないか。ならば、Googleがインテグレートシステムを構築することにより、Googleの時代は続くことになる。とはいえ、それは私の論理が挫折したことにはならぬ…。ま、そんな感じである。蛇足:言論者のリファレンスの選択は自由である。その選択は言論者の極めて恣意的なものだから、言論者が具体例を持ってこようとも、それが原因と結果の関係にあるとは限らない。だから、私の言論を、フジテレビのスーパー競馬に出演する、競馬評論家の伊崎脩五郎氏の競馬予想みたいな取るに足らぬもの。と、看破することもできる。だが、読者はご存知のように、「インテグレート」の馬券を買っている。そこが違いである。勿論、伊崎氏も馬券を買うことがあろうが、私のように、1年以上同じ馬券を買い続けるなどということはない…。
2007年04月13日
研究論文の脱稿以来、ひさしぶりに、東京財団でミーティングがあった。ミーティングの目的は、今回の執筆者をパネラーにした新聞人が集まるシンポジウムの打ち合わせと、今回の研究論文の書籍化に関する打ち合わせである。☆密室の出来事でもないし、私信の秘匿などという倫理が働くようなミーティングではないので、スポンタという個の文脈で、関係者に迷惑のかからぬ範囲において、否、関係者に利益を及ぼす範囲において、このブログで触れることにする。☆新聞人のシンポジウムは、東京で行なわれ、新聞人だけでなく、一般の人の参加も募るものだという。ならば、固有名詞を語ることは、正式発表のない現在はすべきことではないが、その概要について触れることは悪いことではないだろう。一方の書籍化の話についても、同様であろう。勿論、出版社において、新規企画が正式リリースする前に外に漏れることはタブーなのかもしれぬ。しかし、それが出版物の期待を盛り上げるための濫觴(らんしょう:黄河の源流の最初のひとしづく)としての価値を持つならば、慎重になりすぎるというのも、あまり意味のないことではないかと考えている。勿論、すべての言論発表は私の責任において行なっていることで、批判は受けるつもり…。☆さて、今回、私がとても残念に思ったのは、佐々木俊尚氏との出会いが果されなかったということである。巌流島では佐々木氏が待たされたが、ここでは、佐々木氏が待たすことになる。などという、ジョークを私は考えていたが、そのジョークが披露されることはなかった。お忙しい佐々木氏のこと。スケジュールが合わなかったのだろうか…。新聞人のシンポジウムにも欠席されるようだ。ということは、今後も、佐々木氏と私はけっして出会うことがないのかもしれぬ…。☆数日来、私は、佐々木氏との邂逅を予感し、次のような言葉を用意していた。「最近、島田氏が、中沢新一氏批判の本を出しましたよね。中沢氏がかつてオウム真理教の精神的支柱になり、いまでも教団の脱会を阻む役割を果していることは、日本社会にとって大きな社会悪です。それに比べれば、IT業界で顔見知りだったMさんを擁護したことなど、取るにならぬ話。私は、非力なため、オーマイニュース日本版からまったく持って相手にされていませんが、佐々木さんは、グリップブログ関連であのような経験をなされたのですから、ネット言論がカルト宗教に汚染されぬように尽力されることを望んでいます。私は、そのようなことを目論んで、ブログ活動をしてきたのですが、何らの対話も生み出さぬという恥ずかしい状況。あなたの社会的影響力を尊敬しているとともに、今後のご活躍をお祈りする次第です…」だが、そのような私の言葉たちが音声となることはなかった…。まことに残念である。
2007年04月12日
深夜、NHK教育の高校講座で、アフリカの歴史についての回があり、真剣に見てしまった。そこで気づかされたことは、ヨーロッパ列強は、その地域の第二グループ・少数派に接近し、彼らを支援することで、多数派・第二グループを牛耳るという手法をとったということ。この構造が、アフリカの500年で、ヨーロッパが一貫してやってきた手法だったに違いない。そのことを想起すれば、イギリス人商人グラバーが何故、土佐の坂本竜馬の新婚旅行の費用や、姉への書簡の費用を支払ったかがよく分かる。薩摩・長州という第一グループを抱き込むことが出来なかったイギリスが、第二グループの土佐に眼をつけ、青年竜馬を傀儡として利用しようと思ったに違いない。そして、そのことを竜馬は分かっていたから、上手く利用し、そして、自分の影響力が明治新政府に残ることは、イギリスの介入を許すことになるから、花の京都で華々しく散ってみせたのかもしれぬ。私は、竜馬がイギリス資本の傀儡と知った後、司馬遼太郎と坂本竜馬への評価を見下していた。だが、坂本竜馬は、やはり、西郷隆盛と同じ程度の傑物なのかもしれぬ。それは、米国軍艦に乗ろうとして捉えられ、獄死した人物などと比べるべくもない。☆さて、この講座で、不覚にも、初めて耳にするとともに、感動してしまったのが、ネルソン・マンデラ氏が提唱するやり方・真実和解委員会である。リファレンスにしたブロガー氏も述べているが、問題を解決するにおいて、裁判という、その原因をつくった人を罰することによって解決するという方法は、すべての事案に機能するシステムではない。極めて限定的な条件で機能するシステムでしかなく、それは、西洋的なる主観・文化で育まれたものでしかない。裁判が行なうのは懲罰であり、それは多くの場合、「とかげの尻尾切り」に終わる。これでは、問題の再発に寄与しない場合が多いし、裁判により、新たなる遺恨が生まれることも珍しくない。☆そういう裁判システムの瑕を乗り越えるために、トヨタは「カイゼン」システムをつくり、それが、製造現場のグローバルスタンダードとして、世界中に広がっている。「カイゼン」では、事故を起こした個が罰せられることはない。だから、個が、「懲罰を恐怖して真実を語らぬ」ということは起きない。事故を起こした当事者の個は、自らの過ちを許してくれたコミュニティー・他者たちに感謝し、真実のすべてを明かす。そして、そのことによって、すべてのコミュニティー構成員の前に真実が現出し、その真実をもとに、有効な対話が生まれ、現実的・効果的な再発防止策・解決策を練りだしていくことができる。一方、西洋型の裁判システムでは、個は懲罰・ステークホルダーに阻まれて真実を語らぬ。そのような状況にあって、コミュニティーの側・被害者は批判することでしかできぬ。これでは、有効な解決策・再発防止策は生まれない。そもそも、裁判とは、過去を裁くことであって、未来をつくることとではない。☆真実和解委員会は、被害者と加害者が語り合うことによって、真実を見つけていこうというやり方である。問題のすべてを被害者に帰すのではなく、ことの真実をそれぞれの立場から認識し、辛かったお互いを認め合い、お互いを癒しあうということだろう。真実和解委員会によれば、被害者と加害者は、過去の怨念から抜けることができる。否、この方法によってしか、被害者も加害者も、それぞれのカルマ・因縁を越えることはできぬとさえいえるのではないか。憎しみは憎しみを呼ぶ。だからといって無関心でいることもできぬ。ならば、真実和解委員会のやり方というのは、極めて合理的であり、欧米に学んできた日本社会が壁にぶち当たっているならば、アフリカの叡智に学ぶということも極めて有効なことだろう。しかし、現実は、古びた理想でしかないアメリカの陪審員制度を実行に移そうとしている。あれは、2大政党制とならぶ、わたしたち日本の30年前の理想でしかない。コミュニティー的な異質性が低い日本において、2大政党制が適していないことに、私たちは気づき始めているというのに…。☆真実和解委員会は、対話こそ人間を癒し、真実を現出させると指摘している。考えてみれば、対話できぬ者は、真実を語らぬ場合が多い。☆元巨人軍の桑田真澄投手のように、自分の強欲のためだと批判された不動産関連の不祥事に関して、身内の人間の所作であることを明かさない。沈黙を続ける場合もある。彼の場合は、自分はスポーツマンであり、不動産に関する弁明などという文脈を纏いたくなかったし、親類に財産管理を委託したのは自分の責任であるという自覚があったのかもしれぬ。それがスポーツマンとしての彼のステークホルダーといってしまえば、それまでだが、そういう彼のことを私はすばらしい魂だと思う。つまり、桑田氏の場合。沈黙を保つことが、必ずしも彼の利己的行為ではないからだ。だが、このような例はレアケースであって、ほとんどの場合、対話を拒むものが、ステークホルダーの奴隷である場合は多い。☆いままで、11回に渡って、新聞・新聞人について語ってきた。元電通総研者は、「あと十年もすれば、新聞社は紙ベースでなくなる」と著作で指摘している。だが、私はそうは思わない。それは何故かといえば、出版とは、ある意味原稿を完成することだからである。一方のインターネットとは、永遠のベータ版である。読者と対話することは、リリースした原稿の未完成を確認する作業。したがって、制作者側が対話に応じることはない…。商品を完成するのは、制作者のステークホルダー・ご都合でしかない。のである。☆インターネットの究極の特徴は、オーソライズに関する経費がゼロになったことである。これにより、市井人にも発言が許されるようになった。というのは、ひとつの側面である。情報のプロたちは、このメディアの登場によって、自分達のすべての言論が、完成品としてのアイデンティティーを持たなくなったということに気づかなければならない。窯業であれば、釜から出してしまえば、作品は否応もなく完成してしまう。そこでは、制作者といえども修正を加えることはできず、割ってしまって、作品を世に出さぬか、桐箱に詰め、箱書きをし、完成品として世の中に出すという選択肢しかない。「焼く」という不可逆な作業がオーソライズとして機能し、完成品と未完成品を区別する。紙メディアの場合も、陶工における「焼き」と、同じようなもので、新聞人は輪転機が廻ってしまったら、どんなに原稿に対して忸怩たるものがあったとしても、それが完成品であると、諦めなければならない。(勿論、例外としての版を重ねる上での修正はあるにしても…。)だが、インターネットは、新聞人から「締め切り」という時間的な制約を取り払う。「印刷費用追加」という経済的制約を取り払う。これが、インターネットが起こす本質的な革命。オーソライズコスト・ゼロの世界である。勿論、コンテンツメイキングのコストは、ゼロにはならない。オーソライズのインフラコストは、ゼロにはならない。ただし、オーソライズコストは、限りなくゼロ(相対的&絶対的)に近づくのである。☆もし、元電通総研氏が言うような、「紙ベースでない」新聞運営が行なわれるならば、新聞の言論も、永遠のベータ版にならざるをえない。そして、今後も、新聞人たちがステークホルダーに阻まれて「対話を望まぬ」ならば、新聞が「紙ベースでなくなる」ことなど、とうてい無理なのである。☆作品を完成するとは、制作者のステークホルダーの現出に過ぎぬ。そのステークホルダーに一般性・合理性がない場合、作品の受け手たちは、作品のModify・加工を始める。そして、それが流通する。それだけのこと。それが、P2P、C2Cの時代である。☆そして、なんと、消費者が行なう加工の違法性が高ければ高い程、加工されたコンテンツは、メディアを解さないで流通する。(2ちゃんねる管理人氏が提出したにこにこ動画。)結果、電通総研元社長氏が主張するeプラットフォームは存在するにしても、たいして繁栄などしないのである。それは、ビジネスマンにとって好機として捉えられたセカンドライフが、ネット者にとってはすでに懐疑的に観られていることと同様な現象になる…。同様なリファレンスは、インターネットショッピングモール、フラッシュ、データベースソフト、DTP、DTVなど枚挙に暇がない。そして、反リファレンスとして、i-podに代表されるmp3プレイヤーがある。非インターネット時代の遺産でしかない既存の著作権関連の法律を絶対善とすることで、自作の変質(コンテンツ本体の改訂による修正)を一切許さぬとともに、一切の対話(追加補足情報による修正)を拒否するならば、その言論たちが社会に有効に機能するはずはないのである。
2007年04月09日
インターネットの時代に何が起きているかについて、非エスタブリッシュ(消費者)の立場から論じてきた。巷間ささやかれているインターネットの分析は、すべてエスタブリッシュ(生産者側)のものであって、現実をありのままに形容しているとは思えぬ。そして、産業界において、消費者の意見が尊ばれるムーブメントに従うならば、現在流布されているインターネットの分析のほとんどは価値のないものであることが理解できるかもしれぬ。今回、私が10回のエントリーにおいて提出した言論が、いかに巷間囁かれているものと乖離していることを愕然とされる方も多いのかもしれぬ。だが、アンオフィシャルなコミュニケーションで認識されているインターネットとは、そのようなものであり、ビジネスを排除した言論の場において、私が提出する言論は、とるにたらぬありきたりのものであることを理解して欲しい。*もし、そうでないならば、私の良識ある検閲者であるコメント者・トリル氏から厳しい指摘がなされるに違いない。私は、純粋コメント者であるトリル氏からの無言のオーソライズがある限り、自説がある一定の真正性を持つと理解する。勿論、その言論に価値があるかどうかは、考慮の他であるにしても…。☆10回にわたるエントリーのまとめは次のようになる。・インターネットの特徴は、永遠のベータ版であること。・インターネットの特徴は、ログが残ること。だが、新聞人は、過去の言論の奴隷・ステークホルダーの奴隷となって、対応することができない。*インターネットが普及するまでは、世論の抽出は難しく、新聞は、代議員制ならぬ、代世論制を行なっていた。それによっておきた現象は、アウトサイダー(異分子)ジャーナリズムであり、言論におけるコミュニティ全体の集合的無意識(有意識も含む)との間のデビエーション(偏差)の追求である。*インターネットは普及したが、いまだ一切のインテグレートシステムは存在しない。そのような現状にあって、新聞・新聞人が担うべき重責は、インサイダー(構成員)ジャーナリズムであり、世論からの偏差ゼロ・デビエーションゼロの追求である。ここにおいて、世論とは、市井・巷間の言論を含むがそれがすべてではない。否、正確を期していえば、世論とはコミュニティー構成員の集合的無意識の集積である。それは、市井の言論たちと関連する場合もあるが、言論とはあくまでも、「物を申したい人たち」のバイアスがかかったものであることを留意しなければならぬ。サイレントマジョリティーなどといって、自説にすぎぬものの過大評価を目論む言論者たちの存在は、特に注意が必要だ。☆行動する者たちとの乖離はさらに深い。日米安保のときに、国会議事堂の周囲に集まった学生たちが、国民たちの総意の結集だったのだろうか。ローマ史を綴ってきた塩野七生氏は、デモに参加したあとに家に帰ると父親から叩かれたという。我が妻の父親も、戦前に拷問を受けた共産主義者だったにも関わらず、当時の学生たちの騒動を懐疑的に観ていたという。そして、一歳に満たぬ私は、母の背中で父とともに60年安保のデモ行進に参加したのである。すべては、インターネットがなく、民意の抽出が難しかった時代の出来事。それはいまもって、新聞人にとっても、我が両親にとっても、懐かしい思い出なのだろう…。そして、他でもない私とて、物申す者のデビエーションを纏っていることを忘れてはならぬ。
2007年04月07日
インターネットで直接民主主義が可能になった世の中なのだから、新聞の価値・意味も変化してしかるべきだということで論じている。インターネットによる言論抽出が24時間365日可能になった今、ジャーナリズムは世論の形成システムであり、抽出された世論をオーソライズするのが新聞の役割だと考えている。☆現在のインターネットはまだ、Googleの時代である。つまり、人気投票は許されるが、主観的な情報の統合(インテグレート)・世論形成は、エスタブリッシュの嫌がらせによって、一切成立していない。だが、アメリカのあるビジネスマンは、CEO(最高経営責任者)と並らぶ重役のポストであるCIO(最高情報責任者)におけるイニシアルIの意味が、10年もせぬうちに、InformationからIntegrateに変わると指摘する。ITがInformation technicsの略語だったことが過去のことになり、Integrate Technicsの略語として流通することも遠い将来のことではない。ならば、新聞が世論形成に一役買う将来を想定することは、あながち間違いとはいえないだろうし、そこにこそ、新聞・新聞人が今後も社会的影響力を行使しつづけていく途がある…。☆ここでは、いくつかの言論コミュニケーションのスタイルと比較しながら、今後のジャーナリズム・新聞・新聞人が果すべきことについて、論じたいと思う。リファレンスとして俎上に上がるのは、・教育・啓蒙・洗脳・言論である。-----------------------------------------------------------------------------------☆【視点01:価値観の強制について】○:教育教育において、真理は教育者の外にあり、それはコミュニティー内で共有されている。その言論は現在進行中(真偽の判断が分かれる事象)であっても、教育者たちはその言論を強制することに躊躇しない。○:啓蒙啓蒙者において、真理と個は同化している。多くの場合、啓蒙者は真理の実践者である。ただし、啓蒙される言論は、ある時点での理想にすぎず、啓蒙された時点で、言論は停滞している。その瑕を知っている啓蒙者たちは、新しい真理によって、自分達の心理が汚されることを嫌うのである。○:洗脳洗脳者において、真理の中心に自身がいるという妄想がつねにつきまとっている。したがって、本質的な意味では、集団において洗脳者はただ一人であり、それ以外の洗脳に加わる者たちは、自由を奪われた個・自律的でない個に過ぎぬ。デビエーションの文脈からいえば、洗脳とは洗脳者(教祖)の個のセンタリズムの現出といえるかもしれぬ。○:言論言論人とは、コミュニティーの言論(世論・常識・一般論)との偏差・デビエーションを誇ることによって、言論の必要性が保証されるという立場にいる。凡百な言論は提出される価値はないし、それが固有名詞によってのみ価値を持つならば、それはゴシップであって、言論とはいえぬ。社会的合意との乖離を誇ることが言論人の根本ならば、言論人はつねにコミュニティーの異分子となる危険性を孕んでいる。自虐史観を披露していたメディア人もその多くは、日本のコミュニティーの思想的な異分子・外来分子にすぎなかったことが明らかになっており、日本人の自虐的なものの見方は、実は異分子の攻撃言論に過ぎなかったようだ。×:これからの新聞これからの新聞は、情報の受け手に自らの価値観を強制しない。もし、新聞を読んだ情報の受け手が、新聞から強制的な言論を感じるならば、その情報の受け手が、世論・世の中の集合的無意識から乖離していることを表すにすぎない。政治の実行者・企業のエスタブリッシュメントなど、国民・納税者・消費者との言論の乖離があっていいはずもない。世論・国民の集合的無意識は、すべてのエスタブリッシュにとって重要なリファレンスとすべきものであって、それを声高に新聞・新聞人が強制する類のものではない。勿論、世論が分かれることもあるし、ひとつに収斂するなどということは希なことなのかもしれぬが、仮に世論というもの。国民的な合意というものが明確に存在するとすれば、そういうことになる。☆【視点02:送り手と受け手の論理の乖離】×:教育教育において、教育者と被教育者・学生・生徒の論理の乖離は許されない。つまり、教育とは既存の価値観の伝承でしかないが、同じ真理を追求することが、求められる。×:啓蒙啓蒙者においても同様である。啓蒙者も被啓蒙者も同じ価値観を共有して、啓蒙が営まれる。○:洗脳洗脳者と被洗脳者の乖離は明白である。狂人は自分が狂っていることが分からないというが、洗脳において、洗脳者・被洗脳者の双方が狂っているとしても、その立場の違いは明確である。教祖と信者の違いは、ある意味、主人と奴隷の違いである。同じ信仰に身をやつしているにしても、お布施を支払う側とお布施を使う側の論理は異なるのだ。○:言論言論人とは、コミュニティーの言論(世論・常識・一般論)との偏差・デビエーションによって、存在価値が生じているのだから、言論において、送り手と受け手の論理が乖離していることは当然のことである。そして、もし現実と乖離していない言論を提出しつづける言論者がいるなら、それは商売人であって、言論者ではない。×:これからの新聞これからの新聞は、世論を抽出することを主眼におくので、情報の受け手の価値観との乖離は発生しない。もし、そのような乖離があるならば、それが時間的な要因によって発生しているのか、地域的な要因によって発生しているのか、階層的な要因によって発生しているのか、ステークホルダー的な要因によって発生しているのかを分析すればよい。世論とは、あくまでも個の言論の集積であって、それを追及した先に、ただ一人の個がいたとしても、それは悪いことではない。勿論、それは、個の言論がただ一人の個の言論として、過大評価されずに遇されればという条件においてのことである。☆【視点03:受け手が送り手を越えることを許容するか】○:教育学校関係者は、学校運営において君臨者にならざるをえない。だが、本質的に、教育者は被教育者(情報の受け手・生徒)たちの君臨者ではない。その証拠に、教育者たちは、自分よりも社会的評価を得たかつての被教育者たちを嫉妬しない。そのような者たちを育てる機会を得た自分を誇らしく思う。×:啓蒙啓蒙者は被啓蒙者との間に、階層的乖離を設定する。そして、啓蒙において、自らの啓蒙活動を陳腐化させるような新しい価値観は許容されない。それが啓蒙の限界であり、啓蒙主義が批判される主因である。×:洗脳洗脳も啓蒙と同様である。洗脳者(教祖)は、新たなる洗脳者の誕生を許容しない。それは、洗脳者(教祖)と被洗脳者(信者)の間に階層を生じさせることは勿論、被洗脳者間に階層社会を構築することで巧妙に忌避される。どんなに被洗脳者が洗脳者を越える言論(理想・真理)に近づこうとも、階層がある限り、それは忌避されるのだ。×:言論言論人は、読者と同一視されることを、そのプライドが許さない。私は、いくつかの著名言論人のブログで論戦を試みたが、その殆どは論戦そのものが拒否されてきた。うぬぼれの強い私は、勝機の見出せぬ論戦に彼らが応じなかったと判断している。しかし、彼らの言い分は、きっと、無名の私と論戦をすることに価値を見出さなかった。それだけのことだろう。あたりを払うようなオーラのないスターは、決して客席に降りてはならぬ。自分にオーラが確信できぬならば、ステージを降りてはならぬ。もし、そのようなことをしたら、観客から袋叩きに会うことを覚悟しなければならぬのだ。△:これからの新聞これからの新聞は、情報の受け手の言論と同化しているのだから、越えるも越えないのもない。しいていえば、市井の言論と新聞人としての個が切磋琢磨して世論を作り上げていくということだろう。そして、もし、これからの新聞が、受け手の言論を越えることを許さないとしたら、集団としての新聞人のステークホルダー(利害関係)が、抵抗しているのだと反省すべきなのだ。------------------------------------------------------------------------------------☆仄聞するに、新聞人の栄達の道とは、新人は、まず記者(取材者)になり、次に、デスク(編集者)になり、さらに、論説委員(言論人)になることだ。という。だが、これでは、新聞人がキャリアをアップするにつれて、デビエーションを増大させること(世論と乖離すること)になる。☆私が主張するインターネットの時代にあっても輝きを失わない新聞の世界に同意していただけるならば、新聞人がめざすべきものは明らかである。これからの新聞人の理想は、どのような立場にあっても、デビエーションゼロを目指すこと。したがって、言論人になってしまった個は即刻新聞社を出て行かなければならぬ。そして、そうした言論人との相克の中から、新しい新聞人像が生まれてくる。どちらにしても、新聞人が言論人であることは、論理矛盾ともいえる、あってはならぬことであり、そのようなものと一線を隔す事によって、新聞人としての矜持を得るのが、これからの新聞人のあるべき姿と考える。私は、そのようにして、輝かしい「これからの新聞人」たちの未来を提示している。そのようなものを思ってみると、インターネットが情報の流通を変革するこれからの時代にあっても、新聞人たちは色あせるばかりか、いままで以上に輝きを増すことを確信する。既存のメディアとインターネットが融合していく、これからの情報氾濫の時代にあっても、新聞人たちが言論人(コンテンツメイカー)であることをやめさえすれば、新聞・新聞人は特異的なノード(情報の結節点・コンテンツディラー・コンテンツリセイラー・コンテンツプロバイダー。そして、なんとコンテンツメイカーとしても)として、存在価値を維持しつづけるのです。新聞が朽ち堕ちてしまう前に、自らの存続のために新聞人たちがやるべき意識革命は存在する。今回、このような論を私が提出してしまった以上、やるかやらぬかは、それぞれの新聞人の選択による。そのような厳しい時代が訪れている。それが、他ならぬ2007年4月なのです。
2007年04月07日
私は、ジャーナリズムを、民主主義の代議制をささえる重要な機能であると定義している。つまり、代議制は代議員の選挙によって営まれるが、それは間歇的に行なわれる。したがって、選挙があるたびに、大きな変化が強いられることになる。社会にとって、変化はなるべく小さいものが連続的に行なわれることが望ましいのであって、そのために機能するのが、世論である。新聞が世論を為政者たちに伝える役割をしてきたことは改めて指摘する必要はない。為政者たちが世論を常にリファレンスすることができれば、世の中は連続的に変化していけるし、為政者たちの専横を常に抑止することができる…。ならば、新聞人はいかに巷間に散らばっている現実の端々はしから、世論を抽出・形成することを主活動とすべきであって、デンノッホなどと自説を主張することは、あるべき姿ではないと考える。デンノッホとゴネルことは、自らを社会の第三者(異分子・非構成員)として認めることであって、褒めた話ではない。勿論、彼の心の中には、輝かしい理想やこうあるべきという理念があるのだろうが、それはあくまで言論人としての個のものであって、それが公器である新聞を使って提示されることは、新聞の存在価値を根本的に貶める。☆根本的にいえば、次のようになる。言論人の価値は、世論との乖離によって決定する。つまり、xy座標において、原点0を世論とすれば、原点との偏差が大きい方が、言論人としての価値観を有するのである。言論人の座標と原点がつくる線分が、言論の価値・ボリュームとなる。一方、インターネットが直接民主主義を可能にした時代の新聞人があるべき姿は、メディア人としての個の文脈を離れて、世論を追求することである。それは、新聞人が原点0を目指すことであり、言論人と真逆の行動規範となる。原点(世論)との乖離・偏差・Deviationを誇る言論人は、無限にそれを求めるとコミュニティーの非構成員になってしまう。よって、あまりに言論を主張することは、自らの言論を貶めることにもなり、一定のバランス感覚が働くというご都合主義なものである。一方の原点(世論)を追求する新聞人の営みは、限りがない。新聞人は、Deviation Zeroを目指せ。原点を追求すればするほど、その縮尺は拡大し、原点追及の精度も上がっていく。そのようなあくなき探求が、これからの新聞人には求められているのだと確信する。
2007年04月07日
新聞人がインターネットの時代に理解しなければならないことは次のようである。・インターネットの特徴は、永遠のベータ版であること。・インターネットの特徴は、ログが残ること。しかし、新聞人にとって真理はひとつであって、パソコンソフトのように、バージョン1.0とバージョン1.1、バージョン2.0が並存するような世界を理解できぬ。謙虚なる新聞は、自らのメディアが誤報を発生してしまった場合に、訂正記事を出す。しかし、誤報さえも、その時点での自分達にとって真実であったことを否定してはならぬ。ログが残るということは、そういうことである。インターネットの時代では、過去を捨てることによって、今を生きることはできぬ。過去は過去のまま、今を生きることが求められる…。縮刷版を除けば、今日発行された新聞は、再度発行されることはない。出版物にしても、版を重ねていけば、初期の版が発行されることはない。テレビにしても、再放送は行なわれるが、再加工された再放送が行なわれることはない。それらを考えれば、紙メディア・テレビが長年育んできた文化が、いかにインターネットの文化と乖離しているかを理解することができるだろう。過去の言論のステークホルダーであることをやめなければ、インターネットで生きていくことはできぬのである。☆さて、ライブドアの市民参加型ジャーナリズムに参加して以来、私は少なからず新聞人たちに出会ってきた。そこで、私が気になったのは、彼らが口にする矜持(キョウジと読み、意味は「誇り」)という非日常語である。私に違和感を感じさせた、彼らがその単語をもってする言説の特徴は、次の4つ…。・真実性・匿名性の否定・社会の木鐸。または、ウォッチドッグ。・デンノッホ(それでもなお)☆・真実性すでに、述べているように、ロス疑惑の人が無罪になって以降。司法をも真実を獲得していないことが明白になっている。考えてみれば、密室で行なわれたことを第三者が知ることはできぬ。そして、密室での合意事項が、国民の利益のため・他者のために行なわれたことならば、密室の者たちは、けっして真実を明かすことはないだろう。これは、大本営発表が真実とは異なることであっても、戦死者の減少に寄与するならば、許されるということだ。乗っている飛行機が墜落することが決定したとしても、そのことを全ての乗客に知らせる合理性はないのだ。最近では、ネット言論を「誹謗中傷」の巣窟であるとの批判がある。いうまでもないが、誹謗中傷とは、真実ではないことで他者を批判することである。だが、それは、この世の人間が超越者でもないのに、「真実性」を獲得できるという妄想の上に成り立っている。たとえば今、オリコンが、サイゾーに批判記事を書いた鳥賀陽道氏を訴えている。この訴訟を分析するブログは以下のように記述している。この訴訟には、いくつか露骨なまでの特徴があります。(1)記事を掲載した「サイゾー」および発行元「インフォバーン」を訴訟対象にしていないこと。つまり烏賀陽個人だけを狙い撃ちしている。烏賀陽は前述の弁護士費用、訴訟準備などをすべて一人で負担しなければならないことになります。これではフリー記者としての活動を停止し、訴訟対策に専念しなくてはなりません。みなさん、ワタクシは生活費は一体どうやって稼げばよいのでしょう(笑)。(2)この5000万円という金額は、応訴するために弁護士を雇うだけでも着手金が219万円かかるというおそるべき額です(そんな貯金あるわけないですがな=笑)。裁判で負ければ、烏賀陽はジャーナリストとしての信用を失い、職業的生命を抹殺されてしまうばかりか、賠償金を払えず、社会的生命をも抹殺されかねない恐れがあります。 音楽配信メモより引用 真実というものが、超越者でしか知り得ぬとして、また、密室でのできごとを当事者しか知り得ぬとして、司法裁判において、何が裁かれる・競われるかとえば、双方のパワーでしかないのです。☆・匿名性の否定既存のメディア人もエスタブリッシュも匿名性を否定してやみません。しかし、それはステークホルダー(個の利害)にまみれた発言でしかない。つまり、メディア人もエスタブリッシュもいままで、個の利益を追求するために言論してきた。「人のため…」などと論じている輩にしても、それは特定の個の利益を誘導する言論に過ぎぬ。つまり、貧者の利益を求める言論は、同時に富者の不利益を求める言論でしかなく、そこに何の正当性はないということである。そして、メディア人・エスタブリッシュたちは、「人のシノギに口は出さぬ」とばかりに相互不可侵条約を結び、結託し、匿名者たちを放逐しようとする。だが、考えて欲しい。日本の民主主義は、選挙という匿名制度によって行なわれていることを。国会・政府・自民党が、国民の多数派の意見と乖離してしまったのは、匿名が守れぬ状況だったことを忘れてはならない。郵政民営化のための衆議院解散とは、それを証明するために行なわれた巨大な実験・ソシアルトライアルだったのだ。*すでに、ネット者の間では、匿名の有用性に疑問の余地はない。2ちゃんねるでは、実名で言論する人は、言論で勝負できぬ弱虫であり、ステークホルダーにまみれた者であると批判される。また、ブログの世界でも、HNで活動することが常識になっている。そして、ネットを観ていれば誰でも実感できることだが、ネットで実名をさらして活動している人たちは、すべてが商人(あきんど)ネット者であるということ。女子大生であっても、実名で自分の顔をさらしているならば、バイラルマーケットに属しているか、熊田曜子似の、将来の芸能展開を目論んでいる・夢見ている欲望に満ちた者たちである。*そのような状況で、妄信的に実名を誇り、匿名を拒否する人たちの真意を私は理解できぬ。それは、匿名言論を操ることで、言論誘導してきた自らへの反省かもしれぬ。そして、記者ブログなどで記者個人の意見や記者の実名を晒すようになった新聞が、問題がおきるや、記者の実名を秘匿して対応する事例を見ると、新聞人たちが、ほんとうに実名を望んでいるのかということも、疑問に思えてくるのである。☆・社会の木鐸。または、ウォッチドッグ。このような議論は、第4の権力として、メディアの立ち位置を獲得してきた伝統とでもいえるでしょう。しかし、民主主義が成熟してきた今、三権が国民と乖離して成立するはずもなく、第4の権力としてメディアが権力を行使する合理はどこにもない。インターネットの登場は、情報ディーラー(メディア)を必要とせずに、直接、国民の言論が提出されることを可能ている。そういう時代にあって、社会の木鐸やウォッチドッグであることをジャーナリストとしての矜持とすることに、何らの合理性はないのです。☆・デンノッホ(それでもなお)この言葉は、ライブドアの市民参加型ジャーナリズムの主宰者が、自らの矜持として述べていた言葉である。どんなに批判・弾圧されようとも、「それでも尚…」と言説し続けるのが、新聞人だという。それは、ある意味、ガリレオ・ガリレイの「それでも地球は廻っている」を連想させるが、そのような語感に騙されてはいけない。☆私は、かねてから、「差分のないもの同士のコミュニケーションに価値はない」と述べている。それは、同じ言論を持つもの同士のコミュニティーはアイランド現象といえるものであり、価値は低いことを指摘するものである。さらに、「コピイ&ペイストが専らなインターネットの時代において、他者の中に自分の意見を見つけて喜ぶことは、愚かしいことだ」とまで言う。実は、ここに言論の本質がある。つまり、言論とは、本質的に他者との偏差を誇るものなのである。だから、新聞人が、「デンノッホ」と言って、他者(社会・権力者)との乖離を誇示することは、言論人としては悪いことではない。しかし、新聞人は言論人ではないのである。
2007年04月07日
電通総研元社長の「10年後、新聞とテレビはこうなる」という本を読んだ。私と彼の言論の乖離は深い。☆著者である藤原氏は、インターネットの特徴を次のように指摘する。・グローバル性・双方向性・時間的空間的制約のなさ☆・グローバル性だが、私が指摘するまでもなく、 言語の壁は厚く、インターネットがグローバル性を実現しているとは考えにくい。たしかに、アメリカのYouTubeが日本で流行しているが、言葉の壁は厳然としてあり、真のグローバル性が獲得されているとはいえない。・双方向性インターネットで、これが実現しているなどとはいえるはずもない。ブログが普及・一般化しているが、有名人ブログではコメント欄が閉鎖されていることがほとんどだし、トラックバックも認証制の場合が多い。メディア企業も掲示板を開いたりするが、自社を毀損する言論には無視を決め込む。つまり、形ばかりの双方向通信は成立しているが、それぞれが一方通行であり、対話や御互いの気づきを生むようなことはほとんどない。・時間的空間的制約のなさこれについては、インターネットのシステム上、否応もなく実現している。しかし、「朝まで生テレビ」のような24時間365日の会議の場がインターネット上に存在していない。そして、日本では、理解に苦しむことだが、民主主義にとって一番重要な選挙関連の言論活動がインターネットで禁じられている。最近でも、「きっこの日記」が、すでに提出していた石原慎太郎氏の批判言論を削除するという事件が起きた。これは、かの人気ブログの背後に選挙関係者がいることを暗示しているし、それは日本のインターネットにおいては、「時間的な制約がある」ことを示している。☆日本を代表するシンクタンクのトップの解析・認識と、ネット者としては凡庸な存在でしかない私のインターネットに関する認識が、正反対といってもいいほどにかけ離れているのは不可解である。☆さて、藤原氏は、「大衆→分衆→個」という流れで、消費者(メディアの受け手)を分析している。テレビの全盛期は大衆の時代であり、1980年代なかばから分衆の時代が始まる。そして、インターネットによって個の時代がはじまった。インターネットが登場するまでは、分衆とは、引き裂かれた大衆でしかなかったが、インターネットにより個を主張することができるようになった。というのだ。だが、そのように分析している彼が捨象していることがある。それは、引き裂かれた分衆同士、そして、個同士がコミュニケートすることである。つまり、B2Bの時代(B2Bの都合によって、B2Cが左右される時代)から、B2C(BがCのために活動する)の時代まで、彼は論じることをしたが、C2Cの到来は決して論じていない。☆私とて、今後の新聞とテレビにとって変わってC2Cの時代が来るとはいっていない。C2Cコミュニケーションの中に、B2CやB2Bのコミュニケーションが混じっているというのが実情だと思う。そして、藤原氏が唱えるeプラットフォームのようなものは誕生してくるとは思う。ただし、それは、あくまでP2Pコミュニケーションの中の部分集合のひとつでしかない。そして、電通総研社長の藤原氏が、eプラットフォームに君臨することを念頭に言論しているならば、それは後輩たちに通じ、頭脳明晰であるとともに圧倒的なパワーを持つ電通マンたちは、それを実現するに違いない。しかし、そういう大本営的メディアに電通が君臨すればするほど、そのメディアのサイズは収縮していくに違いない。☆藤原氏は、司法・行政・立法の三権の外に、三権を監視するマスコミが、第4の権力として存在したという。そして、今、ブログの登場によって、第4の権力を監視する権力として、インターネットが第5の権力として登場したと指摘する。たしかに、きっこの日記や2ちゃんねる。そして、さまざまな市民参加型ジャーナリズムの興味の矛先に既存メディアがあることは確かである。しかし、インターネット言論の目的が既存メディアの批判のためにあるなどというのは情けない…。☆そして、彼らがそういう言論をする理由はただ一つ。インターネットがダイレクトに、司法・行政・立法の三権に関わることを避け、第4の権力がボロボロに傷つきながらも、第4の権力としての立場を既存メディアが温存することを願っての言論に他ならない。そもそも、この国は、民主主義で営まれている。ならば、権力とジャーナリズムが相互に監視しながら、世の中を運営していくというモデルは間違っている。インターネットが世論をまとめ、司法・行政・立法の現場に反映させることが、あるべきモデルなのだ。☆藤原氏は、次のように自らを誇っている。(P.165)2005年10月10日、新聞週間特集・読売メディアフォーラム「新聞の新たなる挑戦」において、201X年を境として、新聞は経営に革命的変化が生じ、紙を前提としない新聞経営を迫られる。(既存メディアとインターネットの)「融合」後、新聞社は紙を前提としない経営になる。いま、新聞やテレビに翳りがある今、藤原氏がそのように言うのは極めて自然であり、凡庸な言論のひとつとしか感じない。否、そのようなことを、とりたてて大きな手柄をあげたかのように語る藤原氏の真意というものが、私には理解することができぬ。☆私とて、新聞社の経営が紙主体ではなくなることに同意する。確かに、宅配型の日本の新聞メディアの変化は、広告依存型のアメリカに比べて緩やかなものとなるだろう。しかし、その時代が来るには、ふたつの条件があり、それが満たされぬ限りは、新聞社は紙に固執し続けるだろう。そして、その条件とは以下。インターネットは、永遠のベータ版であること。そして、ログが残ること。だが、過去のステークホルダーに縛られて、新聞人たちは身動きがとれぬ。結果、新聞社・新聞人たちは紙に固執するにしかない。否、紙に固着しつづける人たちが一人としていなくなることはありえない。とさえ思うのである。
2007年04月06日
宗教学者・島田裕巳氏が「中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて」という本を出版されるという。すでに、中沢氏とオウム真理教をめぐる言論は多々ある。滝本弁護士は、中沢氏の著作「虹の階梯」がいまだにかの教団の精神的支柱になるとともに、後継宗教集団の信者の還俗を妨げているとし、中沢氏が自らの言論を自己批判すべき必要性を指摘している。上佑氏の真意はいまもって図りかねるが、少なくとも、一定の距離を麻原教からとることに専心している。それは、過去の言論を一切否定しない中沢氏よりも、2007年という今を生きていると感じられる。麻原死刑囚に対する司法判断が下されるはずの今、2007年こそ、我々の社会が、かのムーブメントの歴史における居場所を決するときである。ならば、私としても、ことのは擁護四人組などという、体温に流されて、要らぬ言論をしてしまったような罪もない人を相手にするでなく、オウム擁護言論の本丸について言論せねばならぬ。☆ドミニク・フォルシェー著「年表で読む哲学・思想小事典」(白水社)のp307には、次のようにあります。*知識人が介入する場は、局地的な次元から世界的な次元まで、ともかく現在の歴史である。それに対して哲学者は、歴史に関心を持っているにしても、まずは存在そのもの、概念、諸原理に仕えるのであり、結局端的にいえば、真理に仕えるのである。☆おもえば、中沢氏は、哲学のフィールドの中に自分の居場所を見つけられずに、宗教学に走った。しかし、その思いの中核をなすものは、哲学への憧れだった。だから、知識(歴史)でしかないチベットの宗教を題材に「哲学ごっこ」をしてしまった。彼の屈折した思いが、麻原死刑囚の興した「真理」をカタる宗教と共鳴する。かの死刑囚も、現世の真理に対峙するでなく、知識にすぎぬチベットの宗教を援用し、ちっぽけな霊感で、体験してもいない秘蹟をカタった。そして、体験していない後ろめたさから、拷問ともいえる儀式や薬物などで、極めて低級な秘蹟たちを信者に体験させることで、彼の集団の活動には至高体験があるかのように装ったのである。☆中沢氏の哲学へ憧れは強い。だが、彼は一貫して、自らを知識人の文脈から離脱させる勇気はなかった。そこが彼の愚劣である。そして、今、中沢氏は知識人として復権を成そうとしている。だが、知識人としての領野を彼が踏み外してしまったことは、すでに歴史になっているし、彼がいかなる言論をなそうとも、その文脈で語っていることを、我々・日本社会は見過ごしてはならぬ。☆ほぼ日からすれば、タモリ氏・糸井重里氏は、中沢氏と親しいようである。中沢氏は、「はじめてのレーニン」(0994.09)というレーニンの大量殺人を肯定するかのような著述をなしている。そのタイトルをもじって、彼は、ほぼ日のタイトルに、「はじめての中沢新一」(2005.07)としたのだろうか。中沢氏は、地下鉄サリン事件の被害者が、あのような少数の犠牲者ではなく、数万人レベルであれば、首都東京の霊的磁場は変わっていた。と、複数人物に語っていたという。私は、今村昌平監督の「復讐するは我にあり」のテーマ同様に、喜怒哀楽の末に、一人を殺すのは、人間として、悲しいけれども仕方ないことがと考えている。だが、個人が複数を殺すことは、いかなるイデオロギーにおいても正当化できぬと考えているし、そのことを肯定する一切の言論を批判する。いまも世界では戦争が起きている。それは事実であり、事実を事実として認めなければならないが、それを肯定する如何なる言論も、この世の中に存在してはならぬのである。もし、大量殺人を肯定するような言論者がいれば、そのような言論者は日本社会の異分子であり、日本の公序良俗に照らし、言論する権利を制限されて当然。なのに、日本のマスコミ・出版会・教育界は、彼を許容し、静かに復権がなされつつある…。☆私は、タモリ氏・糸井重里氏の両氏は、植木等氏に匹敵するような影響力を持っていると考えている。したがって、今後の交流については、留意されるべしと、進言する。勿論、松山千春氏が鈴木宗雄氏に対して行なったような行動のとり方もある。だが、鈴木宗雄氏のような熱い思いが、中沢氏にあるとは思えぬのだ…。
2007年04月06日
電通総研の元社長/藤原治氏が書いた「10年後、新聞とテレビはこうなる」を読んでいる。もし、藤原氏と私の言論が同じであれば、私が言論をする価値はないと、ビクビクしながら、読んでいった。だが、幸い、私が言論を提出する価値はあるということを、この著作は明確に示してくれた。☆改めて、私は主張する。メディアの時代は終焉し、P2Pの時代がくる。それは、メディアがなくなることを意味しない。ただし、メディアの絶対王政の時代が終焉するのだ。P2P型コミュニケーションの中に、メディアが納まること。つまり、民主主義的コミュニケーションの中のひとつの要素(コンテンツメイカー・コンテンツディーラー)として、メディアが、本来そうあるべきであった位置に収まる状態になるのだ。☆電通総研元社長氏は、次のように言論して憚らない。既存メディアとインターネットの融合化とは、eプラットフォームというひとつのメディアの上に、すべての既存メディアが存在する時代になる。だが、その言論が捨象したものは多い。それは何かといえば、「P2Pコミュニケーション」であり、「コンシューマーによるコンテンツの加工」である。☆電通は、ペヨンジュン氏の来日に接し、成田空港に数千人のエキストラを動員し、ヨン様ブームをつくったと豪語するが、彼ら広告代理店とはまったく違うチャネルで、日本の淑女たちは動いている。携帯電話やパソコンのネットワークを駆使して、韓国俳優たちを盛り上げるムーブメントを行なっている。最近でも、韓国の新人俳優が日本に来ることを応援するために、日本中から淑女たちが集まった。それをメディアも広告代理店も取り上げることはないが、そういうムーブメントがマスコミとはまったく違うチャネルで起きている。そして、最近では、そういう淑女たちのメディアスキルも上がっている。いままでは、見知らぬ第三者に著作権物をコピイ頒布することは違法だったが、彼女たちは顔見知りであり、ひとつの家族の一員である。そして、「贈り物のしあいっこ」という、対価を求めぬという女性同士のコミュニケーションがある。このようなコミュニケーションレベルに、著作権法も広告代理店も容易に介在できぬことは誰もが理解できるだろう。そして、ここが最大の重要なポイントであるが、そのようなコミュニティーの存在が、正規・著作権物の販売増加に寄与しているのだ。私製著作権物を一方で流通させながら、その一方で、正規著作権物を購入する。それにより、正規著作権物の販売量も増加する。なんのことはない、レンタルビデオショップの存在が、映画ビジネスの最隆盛に貢献しているのと、まったく同じ構造である。☆アメリカのテレビメジャー資本は、すでにそのことを察知し、YouTubeへの対応を軟化させているのは当然のこと。一方の日本のテレビ界は、いまだにYouTubeを敵視している。だが、それは、日本人が産業構造を理解していないというのが主たる理由ではないだろう。その裏には、寡占状態にある日本の地上波テレビと、コンテンツメイカーとディストリビューターが分離し、ケーブルテレビで多チャンネル化になっているアメリカの放送界の違いが出ているに過ぎぬ。☆日本プロ野球とJリーグの違いとでもいえば分かりやすいだろうか…。どう考えても、日本プロ野球経験者が、それ以外の場所で野球することはおろか、指導することもさえも禁じられる今の状態は異様・異常である。ジャニーズ事務所やエイベックスなど、圧倒的な強さを誇るコンテンツメイカーは、商品がレンタルで出回ることに一定の制限を加えていることは、我々に気づくきっかけを与えてくれるだろう。☆この論理を続けて書かなければならぬが、このエントリーで指摘しなければならぬことは、広告人は自らが抱えている既存のビジネスモデルというステークホルダーに阻まれて、C to Cビジネスを語ることができない。ということである。☆思えば、時代は、BtoB:あの、「華麗なる一族」が描かれた、鉄の時代…。次いで、BtoC:あの植木等氏が活躍したテレビの時代。そして、それに連なる大量消費の時代。そして、(B⊃C)toC:ウェブ2.0のお題目につられて登場しつつある、CGMの時代。と流れてきた。☆だが、これからは、CtoC の時代になる。そのときの、Bの立場は、メディアの提供者ではなく、ツールの提供者。または、オリジナルコンテンツのメイカーである。だが、その到来を、ウェブ進化論の梅田望夫氏はステークホルダーに阻まれて書くことができず、自らをオプティミストと自嘲して、お茶を濁す。そして、ここにおいても、広告人・藤原治氏は、ステークホルダーに阻まれて、メディアが個のコミュニケーションの中のひとつの要素でしかないことを言論できない。☆冷静に考えてみれば、個の情報のパースペクティブの中で、メディアが占めてきた割合など、たかが知れている。それは、グーテンベルグの時代から、新聞の時代、ラジオの時代、テレビの時代を通じても、いっさい変わらなかったに違いない。なのに、「メディアが重大なる影響を世の中に行使してきた」という言論がメディアを横溢してきた。その理由はただひとつ。そのようなものを論じる者たちが、いつの時代にもメディア人だったということに過ぎない。☆P2Pと書き続けてきたが、それは、間違いなくC2Cの世界である。そこでは、C2Cコミュニケーションの中に、Bが含まれている。BtoBやBtoCを論じてきたマスコミが、その先を一切論じない。なんとも日本の言論界のステークホルダーの闇は深いのである…。
2007年04月05日
インターネットの普及によって、情報の価値を司る基準が変わってきていることに私たちは気づかなければならぬ。結論をはじめに言ってしまえば、・かつて、情報の量を気にしていた時代があった。(IT普及期:Imfomation Technics)・そして今、情報の検索を気にする時代にある。(Googleの時代)・次は、インテグレートスキルが重要になる時代がくる。(新IT期:Integrate Technics)☆2007年春、何が顕著になっているかといえば、ネット情報の既存メディアへの拡散である。新聞も、テレビも、役所も、こぞってネット言論を引用し始めた。思えば、2006年は、既存メディアが恥ずかしげもなく、ネット情報の引用を始めた年だった。そのきっかけは、言うまでもなく、「きっこの日記」関連のマンション偽装疑惑事件・所謂アネハ事件である。「きっこの日記」の背後に、テレビコメンテーター氏と民主党の影があるというのは、極めて示唆的だ。数日前、きっこの日記が、石原慎太郎批判記事を削除したのは、かのサイトの発信者の中に民主党関係者がいることの、明確な暗示である。彼らの恣意的な言論は、既存メディアのジャーナリズムとは相容れない。だから、彼らは、裏メディアとして、「きっこの日記」をつくって言論をはじめたのである。とはいえ、「きっこの日記」の存在だけで、単なる個人ブログが影響力を行使できたのではない。情報のインテグレーターとして、2ちゃんねるの存在を無視できない。☆2ちゃんねる。特に、2NNは検索サイトではない。情報のインテグレーターである。情報の重要度の勘案を、2ちゃんねらーという明確な主観者によって定義しているのだ。主観の度合いは、テクノラティーなどとは比べようもない。そして、思想的な求心力を持って、できあがったものでない2ちゃんねるが、極めて明確な思想的な立場を持っていることを、我々は、深刻に受け止めなければならない。2ちゃんねるに固有な思想的立場を感じるということは、既存のメディアがある種のバイアスを持っていることと等価である。つまり、2ちゃんねるの座標ゼロと既存メディアの座標ゼロが乖離しているということ…。☆さて、2007年は、アルファブロガーやエバンジェリストたちが、ブログから撤退する時期らしい。そのときこそ、真のブログの普及の年である。つまり、手段追求的ブログの利用者が去り、目的追求型ブロガーが増えるのである。思えば、商売のために、ブログを書いてきた芸能人・有名人たちが炎上を繰り返していた。さしたる目的もなく、ブログを書く無名氏たちが、傷ついてきた。そういう時代が終わるのである。私のように、伝えたいことがあれば、どのような摩擦があろうと、書くことはやめぬ。経済的な裏づけがあれば、それにこしたことはないが、それが得られぬとしても、私がやりたいのは、娘の世代のために、世の中を少しでも理想に近づけることであり、それができぬとしても、それができなかったと自信を持って嘆くことだから、私のブログ活動が徒労に終わろうとも、それでいい。そして、ある意味、徒労に終わることが、私が厄介なことに巻き込まれぬことでもあるからして、暗にそれを望んでいるともいえないでもない…。(^^;)
2007年04月05日
全419件 (419件中 1-50件目)