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2007年04月07日
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インターネットで直接民主主義が可能になった世の中なのだから、新聞の価値・意味も変化してしかるべきだということで論じている。

インターネットによる言論抽出が24時間365日可能になった今、ジャーナリズムは世論の形成システムであり、抽出された世論をオーソライズするのが新聞の役割だと考えている。




現在のインターネットはまだ、Googleの時代である。

つまり、人気投票は許されるが、主観的な情報の統合(インテグレート)・世論形成は、エスタブリッシュの嫌がらせによって、一切成立していない。

だが、アメリカのあるビジネスマンは、CEO(最高経営責任者)と並らぶ重役のポストであるCIO(最高情報責任者)におけるイニシアルIの意味が、10年もせぬうちに、InformationからIntegrateに変わると指摘する。

ITがInformation technicsの略語だったことが過去のことになり、Integrate Technicsの略語として流通することも遠い将来のことではない。

ならば、新聞が世論形成に一役買う将来を想定することは、あながち間違いとはいえないだろうし、そこにこそ、新聞・新聞人が今後も社会的影響力を行使しつづけていく途がある…。



ここでは、いくつかの言論コミュニケーションのスタイルと比較しながら、今後のジャーナリズム・新聞・新聞人が果すべきことについて、論じたいと思う。

リファレンスとして俎上に上がるのは、

・教育

・啓蒙

・洗脳

・言論

である。








【視点01:価値観の強制について】



○:教育

教育において、真理は教育者の外にあり、それはコミュニティー内で共有されている。その言論は現在進行中(真偽の判断が分かれる事象)であっても、教育者たちはその言論を強制することに躊躇しない。


○:啓蒙

啓蒙者において、真理と個は同化している。多くの場合、啓蒙者は真理の実践者である。ただし、啓蒙される言論は、ある時点での理想にすぎず、啓蒙された時点で、言論は停滞している。
その瑕を知っている啓蒙者たちは、新しい真理によって、自分達の心理が汚されることを嫌うのである。


○:洗脳

洗脳者において、真理の中心に自身がいるという妄想がつねにつきまとっている。したがって、本質的な意味では、集団において洗脳者はただ一人であり、それ以外の洗脳に加わる者たちは、自由を奪われた個・自律的でない個に過ぎぬ。

デビエーションの文脈からいえば、洗脳とは洗脳者(教祖)の個のセンタリズムの現出といえるかもしれぬ。


○:言論

言論人とは、コミュニティーの言論(世論・常識・一般論)との偏差・デビエーションを誇ることによって、言論の必要性が保証されるという立場にいる。

凡百な言論は提出される価値はないし、それが固有名詞によってのみ価値を持つならば、それはゴシップであって、言論とはいえぬ。


自虐史観を披露していたメディア人もその多くは、日本のコミュニティーの思想的な異分子・外来分子にすぎなかったことが明らかになっており、日本人の自虐的なものの見方は、実は異分子の攻撃言論に過ぎなかったようだ。


×:これからの新聞

これからの新聞は、情報の受け手に自らの価値観を強制しない。

もし、新聞を読んだ情報の受け手が、新聞から強制的な言論を感じるならば、その情報の受け手が、世論・世の中の集合的無意識から乖離していることを表すにすぎない。

政治の実行者・企業のエスタブリッシュメントなど、国民・納税者・消費者との言論の乖離があっていいはずもない。



勿論、世論が分かれることもあるし、ひとつに収斂するなどということは希なことなのかもしれぬが、仮に世論というもの。国民的な合意というものが明確に存在するとすれば、そういうことになる。





【視点02:送り手と受け手の論理の乖離】


×:教育

教育において、教育者と被教育者・学生・生徒の論理の乖離は許されない。
つまり、教育とは既存の価値観の伝承でしかないが、同じ真理を追求することが、求められる。


×:啓蒙

啓蒙者においても同様である。
啓蒙者も被啓蒙者も同じ価値観を共有して、啓蒙が営まれる。



○:洗脳

洗脳者と被洗脳者の乖離は明白である。

狂人は自分が狂っていることが分からないというが、洗脳において、洗脳者・被洗脳者の双方が狂っているとしても、その立場の違いは明確である。

教祖と信者の違いは、ある意味、主人と奴隷の違いである。同じ信仰に身をやつしているにしても、お布施を支払う側とお布施を使う側の論理は異なるのだ。


○:言論

言論人とは、コミュニティーの言論(世論・常識・一般論)との偏差・デビエーションによって、存在価値が生じているのだから、言論において、送り手と受け手の論理が乖離していることは当然のことである。

そして、もし現実と乖離していない言論を提出しつづける言論者がいるなら、それは商売人であって、言論者ではない。


×:これからの新聞

これからの新聞は、世論を抽出することを主眼におくので、情報の受け手の価値観との乖離は発生しない。

もし、そのような乖離があるならば、それが時間的な要因によって発生しているのか、地域的な要因によって発生しているのか、階層的な要因によって発生しているのか、ステークホルダー的な要因によって発生しているのかを分析すればよい。

世論とは、あくまでも個の言論の集積であって、それを追及した先に、ただ一人の個がいたとしても、それは悪いことではない。

勿論、それは、個の言論がただ一人の個の言論として、過大評価されずに遇されればという条件においてのことである。



【視点03:受け手が送り手を越えることを許容するか】



○:教育

学校関係者は、学校運営において君臨者にならざるをえない。

だが、本質的に、教育者は被教育者(情報の受け手・生徒)たちの君臨者ではない。

その証拠に、教育者たちは、自分よりも社会的評価を得たかつての被教育者たちを嫉妬しない。そのような者たちを育てる機会を得た自分を誇らしく思う。


×:啓蒙

啓蒙者は被啓蒙者との間に、階層的乖離を設定する。

そして、啓蒙において、自らの啓蒙活動を陳腐化させるような新しい価値観は許容されない。

それが啓蒙の限界であり、啓蒙主義が批判される主因である。


×:洗脳

洗脳も啓蒙と同様である。

洗脳者(教祖)は、新たなる洗脳者の誕生を許容しない。

それは、洗脳者(教祖)と被洗脳者(信者)の間に階層を生じさせることは勿論、被洗脳者間に階層社会を構築することで巧妙に忌避される。

どんなに被洗脳者が洗脳者を越える言論(理想・真理)に近づこうとも、階層がある限り、それは忌避されるのだ。


×:言論

言論人は、読者と同一視されることを、そのプライドが許さない。

私は、いくつかの著名言論人のブログで論戦を試みたが、その殆どは論戦そのものが拒否されてきた。

うぬぼれの強い私は、勝機の見出せぬ論戦に彼らが応じなかったと判断している。

しかし、彼らの言い分は、きっと、無名の私と論戦をすることに価値を見出さなかった。それだけのことだろう。

あたりを払うようなオーラのないスターは、決して客席に降りてはならぬ。自分にオーラが確信できぬならば、ステージを降りてはならぬ。
もし、そのようなことをしたら、観客から袋叩きに会うことを覚悟しなければならぬのだ。


△:これからの新聞

これからの新聞は、情報の受け手の言論と同化しているのだから、越えるも越えないのもない。

しいていえば、市井の言論と新聞人としての個が切磋琢磨して世論を作り上げていくということだろう。

そして、もし、これからの新聞が、受け手の言論を越えることを許さないとしたら、集団としての新聞人のステークホルダー(利害関係)が、抵抗しているのだと反省すべきなのだ。








仄聞するに、新聞人の栄達の道とは、

新人は、まず記者(取材者)になり、
次に、デスク(編集者)になり、
さらに、論説委員(言論人)になることだ。という。

だが、これでは、新聞人がキャリアをアップするにつれて、デビエーションを増大させること(世論と乖離すること)になる。



私が主張するインターネットの時代にあっても輝きを失わない新聞の世界に同意していただけるならば、新聞人がめざすべきものは明らかである。

これからの新聞人の理想は、どのような立場にあっても、デビエーションゼロを目指すこと。

したがって、言論人になってしまった個は即刻新聞社を出て行かなければならぬ。

そして、そうした言論人との相克の中から、新しい新聞人像が生まれてくる。

どちらにしても、新聞人が言論人であることは、論理矛盾ともいえる、あってはならぬことであり、そのようなものと一線を隔す事によって、新聞人としての矜持を得るのが、これからの新聞人のあるべき姿と考える。


私は、そのようにして、輝かしい「これからの新聞人」たちの未来を提示している。

そのようなものを思ってみると、インターネットが情報の流通を変革するこれからの時代にあっても、新聞人たちは色あせるばかりか、いままで以上に輝きを増すことを確信する。

既存のメディアとインターネットが融合していく、これからの情報氾濫の時代にあっても、新聞人たちが言論人(コンテンツメイカー)であることをやめさえすれば、新聞・新聞人は特異的なノード(情報の結節点・コンテンツディラー・コンテンツリセイラー・コンテンツプロバイダー。そして、なんとコンテンツメイカーとしても)として、存在価値を維持しつづけるのです。


新聞が朽ち堕ちてしまう前に、自らの存続のために新聞人たちがやるべき意識革命は存在する。


今回、このような論を私が提出してしまった以上、やるかやらぬかは、それぞれの新聞人の選択による。

そのような厳しい時代が訪れている。

それが、他ならぬ2007年4月なのです。






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Last updated  2007年04月07日 13時36分28秒
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