『夏の流れ』



主人公の『私』は刑務所の看守だ。
普段は囚人の相手をしているが、家に帰れば2人の男の子と父親である。
しかも、妻のお腹には3人目が宿っている。
しかし。。。

『私』は時として死刑執行人となる。
相手がどんな極悪人であろうと、『私』が「殺す。」
殺人犯の殺人と、死刑執行人の殺人。
社会的な意義はまったく違えど、執行人にとってはどちらも生々しい死だ。

死刑制度に対していろいろと討論が行われているが、死刑制度を適用している国、あるいは地域では、当たり前であるが『私』のように死刑を執行する人間が存在する。
彼らは死刑を受ける側ではない。
授ける側だ。
だから。。。人を。。。「殺す。」

「殺す」前にタバコを吸わせてあげる。
「殺す」前に祈りを捧げてあげる。
「殺す」前に最後の言葉を聞いてあげる。
「殺す」前に。。。。「コロス」タメニ。。。

死刑執行だけではない。
平和のための武力行使とか、民族解放運動とか、宗教戦争とか。。。
これまで、いや、いまでも社会的あるいは歴史的「大義名分」によって人が殺されている。
別にぼくは死刑反対派ではないのだが、そこで行われる行為の当事者の気持ちになるとき、やはりいたたまれなくなってしまう。
「華氏911」の監督ムーアも議員の息子を戦場へ送る署名を議員から取ろうとしたことで、その現実の行為を身体的認識の中へと持ち込もうとしたのではなかろうか。

たしかに社会的あるいは歴史的「大義名分」の果たしてきた役割は大きい。
この文明社会もそれなしでは考えられないかもしれない。
しかし、そこに個々の人間の存在が入り込む余地がなくなったとき、ぼくらの「命」は限りなく軽くなってしまうのかもしれない。

© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: