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Jan 6, 2015
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       (足利義輝の死)

 永禄八年(一五六五年)五月十九日、京の都が震撼する出来事が勃発した。

 それは日没とともに将軍御所の二条館に、三好義継(よしつぐ)と松永久秀の

軍勢が押し寄せたのだ。

 これは二人が示し合わせた反乱であった。御所には六十名ほどの幕臣等が

詰めていたが、門扉が破られ反乱軍が御所の敷地内に乱入してきた。

 第十三代将軍足利義輝は剣の達人で知られた人物であった。

 彼は大広間に累代の名刀を数本抜き身とし、畳みに突き立て反乱軍を待った。

 御所の内部では怒号、悲鳴、歓声。鋼の打ちあう音が聞こえてくる。

 反乱軍と幕臣が将軍の命を巡って、必死の攻防戦を繰り返す物音である。

 どっと足音も荒々しく甲冑姿の武者が大広間の義輝を目差し乱入してきた。

 義輝は甲冑のすき間を狙い、大刀を替えては凄まじい働きを示したが、

衆寡敵せず、三十才の若さで壮烈な最期を遂げた。

『五月雨 露か涙がほととぎす わが名をあげよ雲の上まで』 

 足利将軍、義輝の辞世の句である。

 彼は何度も上杉輝虎率いる越後勢を上洛させ御所に呼んでいた。

 その際に一言「三好、松永を討て」と命じたなら、輝虎は喜び勇んで二人

を誅殺したであろうが、義輝は遠慮して命ずる事をしなかった。

 それが義輝を不幸な死に追いやったのだ。

 彼の死でまさに絵に画いたような、壮絶な下克上の世が訪れたのだ。

 この乱により将軍不在の年が、三年間も続くことになる。

 この反乱を信虎は謀略で生き延びた嗅覚で察していたのか?

 止まれ、河野晋作はこれを見る事もなく京を去っていた。

 こうした混沌とした時代背景のなか甲斐では婚礼の式が行われていた。

 この年の十一月に、武田家の四男、四郎勝頼と織田信長の養女で姪にあた

る娘との結婚式が執り行われた。

 この目出度い婚儀の席で信玄の胸中は、苦悩で揺れていた。

 信玄は婚儀を決めるまで悩みに悩んだ、それは嫡男の義信の事であった。

 謀反が顕かとなり、義信は甲斐の東光寺に幽閉されてる。

 信玄は何度となく足を運び、今川家との手切れの意味を説明したが、

義信はがんとして受け付けようとはしなかった。。

 あれほど柔和な眸子の倅の眼の奥に、狂気のような光が宿ってきた。

「義信め、気鬱に成りおったな」

 信玄は義信の精神状況が悪化した事に気付いた。

 これでは武田家の当主には成れぬ、そう信玄は感じとった。

 そうした時期に信長から、婚儀の話が持ち上がったのだ。

 信玄は義信の廃嫡を決意し、勝頼を武田家の跡取りと決めた。

 この背景には武田、織田、両家の思惑の一致があった。

 武田家は今川氏真の腑抜けに眼を付けた、三河松平家の進攻を恐れ、

今川家との手切れを想定した新たな同盟者が必要であった。

 一方の織田家は三河の松平元康の勢力圏が安定せず、安心して美濃攻略が

出来ない情況にあり、それを埋める為に両者の利害が一致したのだ。

 これは信玄の遠交近攻策の一環として意義深いものであった。

 更に関東では北条勢が有利に戦いを進めていた。氏康から氏政(うじまさ)に

代替わりた北条勢は、上杉勢の勢力圏である下野、常陸などの北関東での戦局

の主導権を握り、上杉勢を圧迫していた。

 関東では北条勢に押され、越中では事ある度に本願寺門徒が決起し、上杉勢

は東奔西走していた。上杉輝虎の受難の時期であった。

 信玄がこの情勢をみて動き始めた。武田家の上野地方の侵略を阻止せんとし、

上杉輝虎と手を結んでいた、西上野の中小豪族の盟主である長野業政(なりまさ)

に対し、信玄は西上野の国峰城主の小幡信貞(こばたのぶさだ)を味方につけ、

長野氏に対する包囲網を構築していたが、この年に上杉家の慌ただしい動きを

知り、厩橋城の北条高広、新田金山城の由良成繁(なりしげ)が上杉から離脱した。

 九月二十九日、信玄は二万の精兵を率い長野氏の居城である箕輪城を包囲し、

落城に追い込んだ。

 さらに翌年の二月に内藤昌月(まさつき)を城代として総社城をも攻略し、

念願の西上野一帯を完全に手中に治めたのだ。

 こうした背景をもとに信玄の駿河進攻が現実味をおび始めたのだ。

 それは三国同盟の一方的な破棄であり、今川家はその現実を知ったのだ。

「おのれ信玄、三国同盟を一方的に破るとは、駿河を敵にする積りか」

 今川氏真は八月に武田の進攻を止めるべく塩どめを強行した。これは信玄に

対する報復処置であり、山国の武田家に深刻な影響を与えたのだ。

 この今川家の策は裏目となった、武田家は一丸となり本格的に駿河進攻を

画策しはじめたのだ。

 それは信虎の口癖であった、塩の道と海の道を確保するのじゃ。

 武田家の上洛の為には、どうあっても避けては通れない道である。

 一方、塩どめで甲斐の民衆の困窮を知った、上杉輝虎は宿敵の武田家に塩を

送ってきたのだ。松本市の初市はそれを記念したものだと言れている。

 戦国乱世の時代のひとつの美談である。

 十月十九日、二年間幽閉されていた義信が自害して果てた。毒殺とも言われ

るが信憑性は乏しい。信玄は義元の娘である義信の寡婦を今川家に送還した。

 ここに信玄の駿河、遠江への進攻策が具体化に向かって行くのであった。 

 この年にはさらに乱世の時代を大きく変える事変が起こった。長年に渡り

美濃攻めを繰り返していた、織田信長が美濃三人衆を味方につけ、斎藤家の

居城、稲葉山城を攻略し名を岐阜城と改めたのだ。

 これは信長にとり長年の宿願であり偉業でもあった。


 これにより本格的な全国制覇に向かう記念すべき年となったのだ。

 信長は尾張から美濃に居城を移し、楽市楽座を奨励し城下は繁栄の一途を

辿った。これは誰もが自由に商いが出来る仕組みで、これにより織田家は豊富

な軍資金を得ることになった。

 この楽市楽座とは如何なるものか、初めは近江の大名の六角定頼が楽市楽座を

発令した事が初見と云われていた。

当時は座という商人たちの組合のようなものがあったが、新しく商をしたい者

がいても、なかなか新規参入が厳しいという難問があった。

 そこで座を廃止し、城下町では自由に商しても良いと言う触れをだした。

 しかも税金も安いと宣伝した楽市楽座が、織田信長の考えた構想であった。

 現代風にいえば規制緩和と減税を岐阜城下町で行ったわけである。

 これにより城下町に人々が集まってきて城下町が潤うという訳である。

 また信長は商人達に城下町に宿泊することを義務づけたりもした。

 こうして楽市楽座により流通を集中させて、町を繁栄させ人を集めたのだ。

 まさに経国済民ともいうべき施策であった。


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Last updated  Jan 6, 2015 12:46:33 PM
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