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Mar 2, 2015
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   (信玄、徳川領内を席巻す)

 信虎が将軍、義昭の許で信長に反抗している事を信玄は知らずいる。

 更に最近、父である自分に逆らい、若くして切腹を遂げた嫡男の義信が、

しばしば夢に現れるのだ。

 義信が健在ならば、こうも苦しむ事はなかっただろう。

 武田家の当主を約束された、四男の勝頼は武将としては申し分ないが、

国主として客観的に見ると、その資質には大いに問題がある。

 それ故に自分が健在のうちに武田家の二流の御旗を京に翻すことが、

信玄の悲願と成っていた。

 何としても命のあるうちに遣らねばならない。

 その一念で命を刻んできたのだ。

 信玄は自分の死期を感じはじめていた、最近の躯の疲労は異常である。

 軽い咳払いをしながら、信玄は自分で煎じた薬湯を苦く飲み干した。

 信玄は病魔を抑え合戦に明け暮れることになる。まさに執念である。

 元亀二年(一五七一年)二月、信長の盟友である徳川家康を討つべく、

大規模な遠江、三河侵攻作戦を実行したのだ。

 信濃の高遠城から武田の精兵八千名が出撃し、伊那街道を南下し、

鈴木重直(しげなお)が守る、徳川の足助城(あすけじょう)を包囲した。

 総大将は武田信玄で四郎勝頼も加わっていた。

 伊那街道にある足助城は三河を結ぶ要衝の地にあったが、瞬く間に

攻略された。この城は徳川にとり武田勢の押さえとして重要な城であり、

真弓山城とも言われ、三河加茂郡足助庄(現在の愛知県豊田市足助町)

の真弓山に聳えていた。

 足助城を陥した信玄はその勢いで五月までに小山城、田峯城、野田城と、

徳川家の諸城を次々と落とした。

 この伊那街道とは信濃の松本と飯田を結び,さらに根羽を経て三河の

吉田(豊橋)に達する街道を言う。

 この街道も当時は塩の道として有名であった。

 信玄は病魔を隠し、誰にも悟られず数ケ月の長期遠征を行ったのだ。

 その知らせが浜松城の家康にもたらされた時は、すでに遅く徳川勢が動く

間もない、素早い奇襲攻撃を信玄は見せ付けたのだ。

 家康が岡崎城から浜松城に居城を移した訳は三河地方は安泰と感じ、

遠江支配を重点とする目的で、浜名湖の東の浜松城に拠点を移したのだ。

 それを嘲笑うかのような信玄の戦略であった。更に十日後には浜松城近郊の

吉田城に攻撃を仕掛け、二連木の地で徳川勢を叩きつぶし兵を引いて行った。

 この二連木城は、朝倉川南岸の三河の渥美郡の北の端にあった城塞で、

これだけでも武田勢が、長駆の行程を奔りぬけ攻撃した証拠である。

 まさに風林火山の御旗どおりの、素早い攻撃を三河と遠江の二ケ所にみせ、

武田勢は疾風のように本国に引きあげて行った。

 家康の気持ちは何となく浮かなかった、信玄のこの軍事行動が何を示す

事なのか理解出来ずにいたのだ。

 それに頼みの織田信長が未だ、近江の地に留まっている事にも理由があった。

 その訳が唐突に知らされ、全国の諸大名の間に戦慄が奔りぬけた事変であった。

 九月十二日、突然に比叡山に悲劇が襲った。織田勢三万の大軍が夜明けと

同時に坂本に火を放ち、京の巨刹、比叡山延暦寺になだれ込み、老若男女を

問わず、容赦ない殺戮が行われたのだ。

 高僧、学僧、僧兵、それに三千の堂塔伽藍はことごとく灰燼に帰した。

 先年に浅井、朝倉勢に味方をした延暦寺に対する、信長の報復であった。

 四方を敵に囲まれ、身動きの出来ぬ織田勢の困窮を知りながら、延暦寺は

山頂の堂塔伽藍に浅井、朝倉の連合軍を籠もらせた。その犯した罪は重い。

 信長からみた延暦寺は既に腐りきっていた。古い権威にすがり、僧俗の身で

刀槍を携え弱者を苛め。肉食をなし妻帯なんぞをする者に、なんの庇護がいる。

 玉石混淆ともに砕く、これが信長流の思考法であった。

 ここに八百年の伝統を誇った延暦寺は、この地上から完全に消失したのだ。

 当時の比叡山の主は正親町天皇の弟である覚恕法親王であった。

 そうした天皇の件も承知で信長は、この暴挙を行ったのだ。

 更に比叡山は天下を狙う者にとり、北陸路と東国路の交差点になっており、

山上には数多い堂塔が建ち、数万の兵力を擁する事が可能な戦略的な重要な

拠点である。

 信長包囲網で各勢力から包囲された信長にとり、近江の平定と比叡山の無力

化は戦線打破の重要な課題であった。

 これを知らされた信玄は怒りに身を震わせたという。

「おのれ信長、天魔に化けよったか」

 と非難した。信玄は比叡山延暦寺を甲斐に移して再興させようと図った。

 彼は古い形の武将で権威や信仰心には忠実であった。

 謂れもない口実で比叡山全土を焼き払い、高僧や老若男女を一人も残さず、

殺戮した信長を仏敵として憎んだ。

「人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり」

 これは信玄の有名な軍法の歌で、彼の一面が偲ばれるものである。

 こうした思考を身につけた信玄には、信長の行動は理解を超えていたのだ。

 この年の十月に信玄の好敵手であった、北条氏康が五十七才の生涯を閉じた。

 彼は死に臨み上杉家との同盟を破棄し、武田家と再び同盟を結ぶよう倅の

氏政に遺言した。上杉謙信頼りにならず。

 信玄は曲者ではあるが一旦同盟すれば裏切る事はない。

 この甲相同盟の修復で武田家は念願の北条家の脅威が解消したのだ。

 ここに信玄は心置きなく西上に意をそそぐ態勢を固めたのだ。

 この北条家の方針転換で一人の男の人生が狂う事になる。元今川家の当主の

氏真であった、彼は信玄に追われ北条家の庇護の許で暮らしていたが、甲相同盟

の復活で北条家に居られず、今川家の人質であった家康に庇護を求めるのである。

 皮肉な巡り会わせであるが、武将失格の男の末路は憐れである。

 信玄の上洛に向けた外交が積極的となった。近江の浅井長政に対しては信長の

挑発にのらず、籠城の継続を勧め、越前の朝倉義景には浅井家の救援部隊を

大嶽(おうずく)から撤兵せすに滞陣するように、義昭から密書を発してもらった。

 信玄は朝倉義景が弱腰の武将と看破し、その動向に不安を抱いていたのだ。

 朝倉勢が引き上げないかぎり、信長の小谷城攻撃は不可能と踏んでいた。

 更に越後にも調略の手を伸ばしている。

 上杉謙信の牽制として一向門徒衆の蜂起を石山本願寺に申し送っていたのだ。

 こうして武田家は背後に気を配る事なく、ようやく上洛できる態勢となった。

 併し、人生は皮肉なものであった。信玄が北条家と袂を分かち、悪戯に浪費

した日々が信玄の躰に病魔が宿り、過酷、苦悶な上洛を強いいる事と成るとは、

信玄も宿老も誰一人として気づく事がなかったのだ。


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Last updated  Mar 2, 2015 08:49:08 PM
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