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最近、いろんな人と知り合うようになったんだけど、世の中には、本当に様々な境遇の人がいるなー、と実感しています。離婚寸前別居中の友人や、浮気しまくり亭主に翻弄されつつなんだかわけのわからないうちに子供が熱を出しまくっていつも病院通いの友人、そして生まれたばかりの子を実家に置き去りにしてきてしまった人・・・ぜーんぶ、子供つながりで知り合った方ばかり。すごいなあー。自分ひとりで自由に暮らしてきたころには、考えられないような種類の人々と出会って、つきあっている。わたしはいつでも片方の手を神様につないで、もう片方の手で困っている人をひきあげられるよう、スタンバイしていたいと思う。そのためには、自分の器をでーっかくしておかないと。天理教の信仰ってこんなもんなんだね、なんて言われないように。阿呆になる勉強をするのがこの信仰だと聞かされてるけど、なかなか難しい。たたかれて、「何するの!?」と反撃しないで「大丈夫!?手、痛くない!?」と逆に心配できるような。そんな人間になってはじめてたくさんの人の心にとどく、不思議な何かが備わるのだと。しかしまだまだ私には長い道のりである。だが、日々の心使いが、そういう人間に育っていく種となっているのであろう。そう信じて、少しずつ前進してゆく中にきっといつかみえてくる日がくるはず。その日を楽しみに、今は小さなあゆみを繰り返してゆきたい。
2003年11月29日
私の実家は代々続く天理教だったのは、以前も書いたと思いますが、ここでちょっと・・・。でも私はとにかく信仰ってのが大嫌いで、大学が親元から遠く離れた場所にあったのをいいことに、まーったく信仰とは無縁の生活をしておりました。「何のためにこんなしちめんどうくさいことをしてるの?ウチの家族は・・・。そもそも神なんて存在は、この世にないっつうの!神を作り出したのは、人間なんだから。」大学で哲学系統の勉強をしていた私は、ますますその思いを強めて社会人となり、本当に天理教とは縁が切れたかのように思っておりました。ところが・・・。不思議なこともあるもんです。大好きだったおじいちゃんおばあちゃんが次々と亡くなり(天理教では、出直す、といいますが)、そのたびごとに天理教式の葬儀を行うわけです。妙に懐かしいような気持ちになりました。母方のおばあちゃんがなくなって、50日をすぎたある日、駅前を息子と散歩していたところ、20代前半のギャルママから声がかかったのです。「天理教のものですが」と。私は驚きました。そもそも、信仰なんてものは、老人が人生に疲れきってもたれるものなんだとばかり思ってたから。興味を持ちました。他の教会がどんな様子なのか、のぞいてみたいんですが、いいでしょうか。そう言って私は翌週彼女の行っている教会に初参拝することになったのでした。いやはや、わたしの想像とはまったく違った世界がそこにはひろがっておりました。なるほど、と納得せざるをえない事柄だらけで、なぜ、実家が代々信仰してきたのか、その謎の一部が解けたように思いました。神を、拝むわけじゃなかったんだよねー。生活そのもの、人生そのものがもう自分の力じゃどうしようもないものに支配されてるわけで・・・。私は旅をしながら、ふとした瞬間に、よくはるかな力を感じることがあったんだけど、そういうモノが神なんだということなんだろうなー、と。宇宙の意思、とかそういうもの。教会では、先生が、一対一で、いつも私の中にたまった重たいものをすっきりと吐き出させてくれます。そして、自分中心に考えてゆきづまっていたものを、まったく想像もつかない視点から見て、びっくりするほどあたたかい気持ちがわいてくるような、そんなアドバイスをくれます。「はらたつぅ!ほんとムカツクんだよ、くーっ!!」なんていう思いにとらわれて苦しんでいたはずなのに、お話しているうちに、「相手は、こんなに苦しんでたんだ・・・。そりゃあ、あーいう態度をとってしまっても無理ないよね・・・。今度はもう少し大きく構えていることにしよう」などと思えてくるから不思議。いやー、生きてるっていいもんだねえ、とそこまで思えるときもある。こういうことの積み重ねを、信仰と呼ぶのなら、しかたない、わたしは天理教の人間だというしかない。今の私には必要なんだもの。神も仏もない世の中だと言われるけど、そんなことはないんだな、というのをこのごろ少し実感したりして。精神と健康との関係について、最近やっと科学的にいわれるようになってきたけど、そんな研究がはじまるうんと昔から、心と体の関係を説いてきてるってのもすごいなあと思う。そのひとの、心どおりのものが、そのまんま体に現れてるんだよね。心一つが自分のもの、というこの教えはほんまもんだと思う今日この頃・・・。オウムや統一教会などで、宗教の印象が非常によくない現代において、信仰を持つ、なんていうとうさんくさい不気味な感じがします。でも、本当の信仰は、自然にひとの心に根付いていくものなのかもしれないな。わたしも真実を求めてスタートラインにたったばかり。大勢の人がはやく、本当の信仰のすごさにきづいてほしいと切に願います。
2003年11月23日
トウキはあいかわらずラブリーであります。しかし!そう思ってるのはやはり親だけ?デカイんだよね。1歳児と思ってもらえんくらいに。標準なんだけど、デカイ。しかも強い。2才・3才の子を相手に戦うし、泣かせてしまう…。いつも「うひゃー、ごめんなさい!」とあやまりっぱなし。すぐに相手の持ってるものを奪うしさー。ぜーったい離さないし。やれやれ・・・と思いつつ、母(あたし)は職務放棄状態・・・。ここんとこ、パパ(テルちゃん)が自営業を始めた関係で、一日のサイクルが決まってなくて、それがけっこう私にとってのストレスだった。心が乱れてると、子供に対する態度にモロ出ちゃうからな。パパのことはあいかわらず尊敬してるし、大好きだけど、なんだか私は自営業の妻ってのは務まらないのかもしれません。カタイからねー。柔軟にものを考えられん。夫婦二人だったら、お互いに夢を持って好きにやるってのは思いっきり賛同できたのかもしれないな。でも子供ができると、精神の安定=収入の安定が一番魅力を感じてしまう今日この頃・・・。夢の実現を信じないわけじゃないけど、その博打的なビジネスのことを思うと夜も眠れないほど不安になったりするのも事実。すなわち、いつ、資金が底をついて、食べられなくなるか、ってこと・・・。世間一般で言われてること↑にずーっと反発を覚えてきたのに、今頃こんなことを思うなんてね。男のロマンを解せない世間並みの妻でごめんよ、テルちゃん。でも応援するからね、できることはすべてやるし。ただ・・・。ここんとこ、心がちょっと満たされないんだ。成功したら時間ができるのかもしれない。でもさ、苦しい今だから、二人で思いを分かちあいたいんだけどな。さびしいね。・・・でも頑張ってるテルちゃんは、もっと孤独でツライ戦いの中にいるのかもしれない。私の大事なダンナさま。どうぞお体にだけは十分気をつけて、仕事に励んでくださいね。そしていつか、あたたかーい毛布のように、あなたの、心も体もまるごと包んであげられる器の大きな妻になりたいものです。
2003年11月20日
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