近畿の近場の美術館と歴史散歩めぐりby矢田旅人

近畿の近場の美術館と歴史散歩めぐりby矢田旅人

2006.03.02
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少彦名神社の入り口の注連柱って何んだ?


これは日本書記で「大国主命が少彦名命とともに、国を治め、人々や家畜の病気の治療法を定めて、獣や昆虫の害をはらうまじないを教え、万民にいたるまでその恩恵をこうむっていた」という意味ですよ。
注連柱の著者は(伯爵)東久世通禧です。彼は幕末の公卿で、長州へ七卿落ちした内の一人だったそうです。「なんのこっちゃろな?」と思われた方も、そうでない方も、ちょっと覚えておいていただけたら幸いですね。

くすりの町「道修町」のはじまりとは?

『くすりの町 道修町』はいつからあったのでしょうか?
歴史書を繰ってみると、大坂が豊臣秀吉の城下町であった天正16年1588)に「“道修町”で火事があって町家が20軒焼けた」という記録が残っています。この頃には既に“道修町”があったことはまちがいないようです。また道修町古文書には一番古い事例として、明暦4年(1658)の似せ薬取締りに関する文書が残っており、そこからは、道修町に33軒の薬種屋が住んでいたことがわかります。薬種というのは、草根木皮など、和漢薬の原料になるもの。
でも、道修町が本当のくすりの町となるのは、徳川吉宗による“享保の改革”の時期以降のことです。享保7年(1722)、道修町の薬種屋仲間124軒が幕府から“株仲間”として公認されました。
株仲間とは独占的に商品を扱える同業者団体のこと。幕府は江戸・駿河・京都・大坂・堺に「和薬改会所」という役所をつくり、国産の薬種(和薬)について、これは正しいとかまちがっている、これは使っていいとか使ってはいけないなど、薬の見分けを行わせます。
大坂では道修町の薬種屋仲間が、幕府による講習を受けてこの仕事を担当することになりました。和薬改会所はまもなく廃止されましたが、道修町の薬種屋仲間は、和薬種だけでなく中国から輸入される唐薬種についてもプロフェッショナルでしたから、和薬・唐薬の両方の管理・取り扱いについて、「(和薬改会所はなくても)自分達の“仲間”はお役に立ちますよ」ということを幕府にアピールし、その後も「道修町薬種中買仲間」として存続していきます。また、当時から長崎貿易は幕府の重要な財源でもありましたので、唐薬種も道修町の薬種屋に管理させることは、幕府にとって都合がよかったのです。
これが「道修町薬種中買仲間」の起源であり、“くすりの町「道修町」”の始まりとされています。


皆さん、暖かくなった頃、出かけて見ませんか?♪





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Last updated  2006.03.02 22:47:02
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