躰道∞(無限) 

2005年12月05日
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 武芸と一言にいって「強くて美しいもの」となるのかもしれない。躰道は武芸と呼ばれるが、武と芸を一緒に考えていいものか、一つなのか私はよく分からないでいる。解らないでいる。判らないとかかないのは答えが二つに一つではない気がするからだ。
 全国大会で審判員が並ぶ姿をみて私は芸術を感じる。それは過ぎ去ったその瞬間、次の瞬間というものが芸術であると思ったからだ。審判員の方々でその方の試合を見た記憶はたいして多くない。静岡のK先生が私にとっては一番昔の記憶だ。そういった先生方が並ぶ脇を行進しつつ思うことは有名画が並ぶ美術館のゆったりとした通りを歩いているような感じだなぁ、だ。ていうか、今考えた。いや、さっき風呂に入りながら考えた。
 武道家として生きて猛々しい姿も美しいかもしれない。
 けれども武芸のもとに、人間にもう一人が加わって、という具合に団体になることで人と人の愛の表現に芸術の一つの喜び方があるのではないかと思う。男女の人間関係だけではなく、男同士、女同士、上下関係、応援する側とされる側、どういった関係にもその間に愛があれば美しくなり、それが芸術になるのだと思う。ヨーロッパの彫刻や絵画は宗教画が多く、それは書き手が宗教と自分の間に愛を持っていたからうみだせた結果だと私は思う。誰もがその絵をみて評価できる。それは好みをこえた本当にいいものだからだと思うのだ。
 本当にいいものは好みを超える、は最近聞いた言葉だがまさにそうだ。正直いって躰道の選手もK-1もボクシングもプライドも、芸能界も同じだと思う。あるある探検隊が嫌いな人もいれば笑い飯が好きな人もいる。その辺は好みだ。だけど、ビートたけしや所ジョージはどうだろうか?嫌いな人もいるだろう。だけれど、彼らが真剣にモノを語ったときには誰もチャンネルを変えることはできない。歌も同じだ。好き好み、時代の流れで耳を射止めるミュージシャンも一様ではない。ダパンプや北島三郎、スキマスイッチなど、年齢層で聞きたくなかったりする。ところが、山口ももえ、美空ひばりだったらどうだろうか?顔の良し悪しではない、存在そのものが芸術であることが人をひきつけるのだと思う。
 500年も昔のレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、なんで彼らは今でも美術館にいてその亡き存在を求められるのか。それが芸術だからだ。
 ということは、志村けんの「ダッフンダ」や「アイ―ン」も同じく芸術だと私は思う。
 絵を見て、ギャグを聞いて、スポーツ、格闘技を見て、なんで芸術か、それは生きていくうえで必要がないことなのに、そのことに命をかけられることだからだと思う。あくまで私の勝手な思い込みと考えだが、観て聴いて、だからどうなのだ。そんなもの。興味のない人にとってはそうだ。しかし、興味がなかろうがどうだろうが、その存在を知ってしまった瞬間から、そのものを無視できなくなる。これは大事なことだと思う。そう思われたら、本当にいいものになった時で、一つの芸術だと思う。
 日本には「人間国宝」という言葉がある。指定されるには誰もが知っている風土に関わった人間でなければならないのだろうか。私にはよくわからないが、選ばれたその人は少なくとも芸術と思えるし、そこまでものごとを貫いたという意味では闘わなくとも武芸家となれるような気がする。







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最終更新日  2005年12月06日 00時08分40秒
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