躰道∞(無限) 

2006年01月31日
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 初心=初めに習った気持ち
とある。

 道場に入ると正面もわからない。先生の名前もわからない。知っているのは親の顔だけだ。ろくなもんじゃーない。

 どんなに立派な親でも子供は気がかりで、もうどうしようもない。

 ところが指導者は、ことに躰道の指導者は彼、彼女の将来、孫の代、永久に社会還元が循環していくことを考えてモノを申すのだ。親の顔を「ろくなもんじゃない」と書く私のほうがろくでなしだ。

 道場に入ったら正面、もしくは先生をみていなくてはならない。

 家に帰ってから「あーでもない、こーでもない」と持論を引っ張り出すタイプにその傾向が強いとみている。それはなぜか?私の考えはこうだ。指導者の話を子供が聞いて一発で理解し完璧に行動することは至難の業であるからだ。ただ聞いて話の意味を理解するだけなら親は理解できる。その理解したことを練習後家に帰ってきてから説くのだ。


 指導者の真意を信じずして道場へ足を踏み入れようとすること自体が間違いだ。指導者は武道を志すかぎりどんな先祖をもっていようとも道着に袖を通したもののことは信じぬくからだ。
 子供と指導者の信頼関係が成り立っていたとする。親子はもちろん信頼関係にある。ただ、親の考えと指導者の考えが違えば子供が板ばさみになって「痛い痛い」と双方に互いの片腕を引っ張られ泣くだけだ。私ならまっさきに手を離す。

 手を離す理由は、子供が痛がっているからではなく育てていくのは親だからだ。

 子供が成長していっても、昔の我が子にしか見ていない親は飛べない白鳥のよう。大空をはばたく我が子をみてさえ、その成長は手中の中と思っている。

 礼を一度したら初心にかえる。習い始めたころ、誰にお世話になって、あーした、こーしてもらったを忘れてしまってはならぬと思う。
 親がそれをわすれれば、絶対に子供も後を継ぐ。力が弱まっていくと権力に走る。武道の教えはそうじゃぁない。技に走れだと思う。こういう考えはひとそれぞれだ、だから特定の人に対してこの文章を書いたのではなく自分はこれから、こういう考えを大事にして生きていくということを書いただけのこと。

 人に同情させることを言うな。というのも一つで、すぐ人に同情しかわいそうと考えることを間違いとまでいわないが無責任とはいう。

 本当にかわいそうと思ったら、そこに行くことをすでに選択し救助なり助言なりをしている。そして、そこには最後の最後まで責任を持つということをしている。

「これだけやってあげれば大丈夫だろう」「こういっとけば悪く思われないだろう」偽善とは一つの鏡であって、髪型やネクタイのゆがみを見る前に心のゆがみを見直す必要がある。

 ひとにどう思われるかより、人をどう思いやるかが重要である。





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最終更新日  2006年01月31日 19時33分40秒
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