躰道∞(無限) 

2006年04月29日
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 ピンクという言葉のまえに桜はあった。花びらの存在。仮に生まれたばかりの人間を二十年間コンクリートにかこまれた部屋で監禁し、春のあるとき外界へつれていく。はじめてみる世界にその人間はとまどい、そして、おびえ、人々の目の輝きに不思議さを感じる。左右に動かす首が自然にとまる。目の前のつややかな木の幹を前にし体は静止する。何の力ともなくあごが持ち上げられる。さわやかな風にゆられた花びらが目に入り、ゴゴンと目を通り背中から衝撃がぬけていく。

 指をさす。夫婦がまだ春の象徴の色をした皮膚の赤ん坊をかかえ、桜のさく公園につれていく。その坊やはそよ風の中母親の腕で寝返りをうち、ふいに目をあける。ぼやけた視界の中で花びらが手をふっている。坊やは手をふりかえし、やがて指をさすことを覚える。

 覚えるとは進むべき道で、ひとつの段階、一歩がそのことである。母の顔を覚える。ドクンドクンと打つ脈は山々を流れる清流は雫の集中であり、物の集中を分解することが固体の存在をみとめることであれば桜の開花もまたおなじことである。母の中にいた、あの数ヶ月。感じる音と色は薄いタラコ色。分解すればタマゴとみれるがそれを集中し膜につつまれたものをみると「タラコ一個」になる。そんなタラコの本当の感動は口の中に入りその中で散っていき名残惜しむことで感動が生まれる。桜も同じく満開のときは一目で満足し、花より団子の言葉どおり美味や異性に意識が傾く。そんなひと時がすぎ、気づくと木にボリュームがなくなっている。皮肉なことに満開のときより桜の存在に感謝している。

 バランスを崩すときが、あたりまえに保っていたものへの感謝や絶望を感じるときだ。

 さくら祭り大会で感じることは単に試合をするだけではなくその旬のものを吟味し大きく影響されその空気を吟味することにある。するとルールなどがバカらしく思え、本当の調和が生まれると思うのだ。



 後日写真をおりまぜたかたちでブログで競技の成果について発表したいと思います。





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最終更新日  2006年04月29日 14時02分07秒
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