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2015/04/10…雨上がり…四葉ニンジンの、四枚の輪生の葉の中心に光るもの見っけ!え!?っと思って、そっと触ってみる。 明け方落ちてきた雨露…。いくつもの葉の中心に、大きなもの、小さなもの…。 淀みなく透き通ったこの玉は…スワロフスキーよりもクオーツよりもはるかに明るく、 何処までも深く遠くを見通せる…宇宙空間を想わせる玉。…春になれば、全てのものが一気に芽を出すというものではない。その一つ一つが自分の時期を知っていて、その時が来て初めて芽を出し花が咲き、そして実を結ぶ。 隣の木が芽を出したからといって、自分もそれに合わせて芽を出せば…寒いか暑いか…合わない周りに振り回されて枯れてしまう。…人も、自分に合った時期が来るまで歩き出してはならない。そして、自分に合った時期を逃がしてはいけない。ひたすら力を蓄えて、その時が来たら速やかに歩きだそう。…そう…アイリーン・キャディの言うように、 『常に自分の中に答えを求めなさい。 周りの人や、周りの意見や、周りの言葉にまどわされていはいけません。』ただ、やむを得ず世間に放り出される事がある。これまでの人生で、自分も何度放り出されたことか。…そんな時生き残る術は…ドイツ出身の哲学者ゲオルク・ジンメルの言葉に、 『至上の処世術は、 妥協することなく適応することである』…と。 『適者生存』という言葉がある。…家の庭でも直ぐにこの『適者生存』…生存競争が始まる。…プランタにワサビとツルニンジンが…と思ってたら、 庭は今年も青ジュウタン。 確かに去年も、種が粉雪の様に降り注いでた。 少し経つと、生存競争…生き残りゲームが始まる…毎年の事だけども。…生まれるという事は、即時順応するか勝つかしなければ生き延びられない。 確かに、暖かな春の陽射しは喜ばしい。けれども、裏を返せば弱肉強食の世界をも生み出している。 戦いはカエル、ヘビ、カナヘビの世界だけの事じゃない。どんなもの、どんな世界も裏表、陰陽両面から出来ている。…植物も同じ。 少しでも成長が遅れれば他のものに陽の光を遮られて、その明るく温かい恩恵を受けられなくなる。 寝坊して顔を出さなければ、芽が出る前に雨で流される…。 強い根を張らなければ、より強いものに養分を取られてしまう…。 種が落ち、冬を越し、暖かくなった途端…熾烈な戦い。その環境に適応できるものだけが…先取りしたものだけが生き残る。…自然淘汰 / 優勝劣敗…いろんな言葉があっても、 結局は適合能力を持ったものしか生き残れない。 言い換えれば、適合能力さえ在れば生き残れるって事。 例えば、戦いに敗れた魚の一部が海に逃れ、 川より餌が多い海で大きく育ったなんて言う事もある。サクラマスは…言わば戦いに敗れたヤマメの仲間。 進化なんてものは、 言い換えれば、究極の困難に勝ち残ったものにだけ与えられる称号。…植物、動物、人間…全てのものにおいて、 自分で自分を見限らなければ…諦めなければ…何とかしようと努力している間には…「負け」なんてものは存在しない。 人は、進化した??それとも退化??…自然の法則の中で生きようとしなければ、いつかは滅ぶんだろう。 『どの一片の落葉も、舞い落ちながら宇宙の最大の法則の一つを満たす。』ライナー・マリア・リルケ リルケ…繊細な人。
2015.04.10
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2015/03/30橋の上からは、遠くが見えないくらいに白く霞がかかった朝。フォグランプを点けて走るのも久しぶり。すぐに陽は照って、山ではウグイスがのどかに鳴いている。玄関脇には薄紫のイカリソウ。カタクリが、今年は蕾が10個付いて、今のところ7個咲く。カタクリは、花が咲くまでに7〜8年の『時』が要る。柿の実が生るまでと同じ『時』が…。だけども…だからと言って今種を蒔かないでいると、いつまで経っても花は咲かない。花の咲いているものを植えれば済む事だけども、去年も庭で咲いた花から採れた種を蒔いた。(カタクリの種は、原則、蟻が運んで広げる)思い立った当時、他人に話をしたことがあるけど、時がかかりすぎると言って二の足を踏んだ人。思ったほどの結果は出ないだろうと笑い飛ばした人もいた。けど今、似たような事をしている人もいるではないか。それならあの時始めれば…と。一分でも早ければ一分先。一時間早ければ一時間。一日早ければ…一か月、一年早ければ一年…それだけ人の先を進むことになる。自分の道を歩くことになる。逆をやれば、それだけ人に遅れをとる。真似事の人生を歩くことになる。自分の道を歩こうと思うなら、自分の理念と、それを守るだけの力を持たなければ。思い立ったが吉日。英語ではThere is no time like the present.(現在に勝る時はない)…だそうだが、確かにそうだと思う。最善の機会というか、チャンスはこの一瞬にしかない。一瞬でも後では、もう最善とはいかない。今までに、何度となく思うだけで実行できなかったことがある。すぐにでも出来ることは、直ぐ始めないと最良の結果は得られない…人生…愚痴あり後悔あり…。これが自分のブログのタイトルだと思うと、なかなか上手い事言ってると、自分でも思う。直ぐに出来なかったこと、やれなかった事…。愚かな事の一つに、理念なき行動と行動なき理念があるけれど、「理念なき行動は凶器であり、行動なき理念は無価値である」本田宗一郎さんの、この言葉は的を射ているけれど、考え過ぎたら何にもならない。自分の場合、根本的な考え方から間違っていたから…行動に移せるだけの答えが得られなかったのか。それとも、勇気が無かったのか…今となっては不明。今は少し大人になった(ズルくなった)から、開き直りかな。なんかある言葉を思い出した。大山倍達さんの言葉に、正義なき力は無能なり。力なき正義も無能なりっていうのが在った様な…。虐げる様な力からは確かに何も生まれない。また、正義…或は平和をいくら口にしても、それを何者からも守れるだけの力が無かったら…確かに無能。どちらの言葉も、片方だけでは何の意味もなさない…と言うより、かなり危なっかしい…危険な存在になる。…昨日は十七回忌と一周忌。平成11年5月、事故現場に行った時のこと…去年3月、手を取って看取った時のこと…いろんな事が甦る…ついさっきまでそこに居たかの様に。記憶って不思議…。平面の物は平面に。立体的な物は立体に…感触も匂いさえも甦る。それだけなら思い出に浸ることも出来るのに、それが自分にとってもどれだけ大事だったか、どれだけ掛け替えのない者だったかも甦る。………………取りあえず先に進むしかない…か。進んでいれば…何処かで一つ一つの答えと出会うこともあるんだろう。庭は…今年も新しい命、芽吹きで満ち溢れているいつか私が居なくなっても、この営みは続くんだろう…。
2015.03.30
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2015/03/15…かなりの良い天気。久しぶりの天気の良さに、つい誘われて近くの山へ。今年初めての山歩き…遠く近くに雪解けのセセラギ…滝の音。岩から染み出ている一滴の水にも春を感じる。岩梨の先の方が、少し赤味(?)かな。春のきれいな緑は、今はフキノトウに見られる。常緑の植物も在るけれど、目に優しいのはやっぱり新緑。ホトトギスの声はまだまだ遠い……春を探す…探春。探春…もう少し早い時期に使う言葉なんだそうだけども、ま、いいか、今日は春を探しに出かけたんだし…。戴益という詩人の作に、盡日尋春不見春 杖藜踏破幾重雲 帰来誠把梅梢。或は、盡日尋春不見春 杖藜踏破幾重雲 歸來試把梅梢看 春在枝頭已十分。というのがあった…『探春』要は、チルチルとミチルの『青い鳥』と同じ様な内容。一日中、春はどこにあるんだろうと尋ねたが、春を見つけることは出来なかった。幾重にも重なる雲を踏み分けて探したけれど、あきらめて家に帰り、ふと梅の梢を手にとってみると、蕾はすっかりふくらんで、春の気配を枝の先に、もう十分に示していた。…あまり近くに在るものは見えない。周りの、自分の目の焦点が合わせ易いもの、自分が見たいものに邪魔されて、一番大事なものがそこに在る事にすら気付かない。あまりに幸せが多すぎるとそれは当たり前になり、自分の求める幸せに焦点を合わせられなくなるのかも…近すぎて。看脚下……と、昔、永平寺のトイレにも書いてあったけど、一般には 玄関などに掲げてある場合には「履物を揃えなさい」といった意味でも使われるけど、 元来の意味は「足もとに注意せよ。…真理を外にではなく、自己自身の内に求めよ」。全ての物は…気が付けば自分の中に在るんだろう…気が付けば……因みに…芦山の展望台の『梅』は、風花の様に微かに咲いていた。青い鳥が、青空を飛んでても気が付かないのと同じかも。闇夜に烏雪に鷺って事なんだろうか。惑わされないで、求めるものにだけ焦点を合わせないと。…採ってきたフキノトウは…明日湯がこう。
2015.03.15
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2015/03/03昨日を引きずった午前中の天気。昨日はかなり晴れたが、今日は昼から下り坂…。庭に、カタクリの芽が出ている。葉は巻いていて、小さいときは何かの陰になると見つけにくい。何本も出ている。5センチくらいのものもあれば、1〜3センチくらいで頑張ってるものもある。山で一面に咲いている所では、今頃はどうなんだろう。2、3日中に、晴れたら一度行ってみようか。…毎日の様に…人の『命』を扱ったニュースばっかり。自分の思いだけで簡単に奪ってしまう。一度叩かれて、その痛さ尊さを知る…という命。叩かれて…そう、困難という試練は必ずある。けれど、命を奪う方にこそ、その困難をのり越えなければならない責任があるのではないか…。思想の行き違い、抑え難い感情…。これこそが最大の、誰もが乗り越えなければならない試練。思想なんて…人間の数だけあるんだし、仮に統一出来たとしたら…顔こそ違え、皆が同じものを見、同じものを聞き、同じものを一斉に食べだしたとしたら…何のために地球上に生きているのか解らない。まだ動物の方が正常だし生きる価値があるという事になる。イスラム国…国とは言わないか。ISILと言う方が合ってるかも…犯罪者の集団。こういう犯罪者集団も、国内で起きてる殺人犯も…同じ原理!?『間違っていながら、しかもそれを認めたがらないとき、 人はついには怒り出す。』トーマス・ハリヴァーン…所謂、表現力の乏しい、身勝手な、短絡的な考え方の持ち主って事かも。要は、自分に自信のないものが、少しでも優位に立ちたいときに一方的に行動を起こす。無理やり一方的なコジツケで。三木清さんという人の言葉に、『人は軽蔑されたと感じたときに最もよく怒る。だから自信のあるものはあまり怒らない』…とある。自分の劣等感が強ければ強い人間ほど、陰険で残虐で、後悔というものが無い。犯罪者の言葉の中にこういうものが在る。「オレは精神異常やない。 道徳と善悪をわきまえんだけや」「『悪い』と思って行なわれる『犯罪』は存在しないのです」、「俺には死刑こそが最もふさわしい。俺や俺みたいなヤツから社会を守るには、それが当たり前の事だ」「犯罪者に英雄なんているもんか。はみ出し野郎と無法者にすぎないってことさ」…etc。世界中でいろんな持論をもって死刑になった人たち。「敵のため火を吹く怒りも、加熱しすぎては自分が火傷する。」というシェークスピアの言葉を、少しでも理解していたら…そう思う。犯罪者は犯罪者なりに色々考えるし、正当化もする。一般大衆が必ずしも正解、正義とは限らないけど、それを指摘するのに暴力はいけない。芸術…音楽とか絵画、彫刻で心を表現したり、宗教で導こうとしたり…。万教帰一を唱えた人もいた。全ての宗教は皆同じ…と。着ているものが違っても、言葉が違っても…中身は皆同じ人間な様に、宗教も根幹は同じ…と。宗教…『宗』は大元。物事の根源を表してるし、それを教えるのが宗教。宗教を盾に闘うなんて…宗教じゃない。個人が個人を攻撃することも、大勢が大勢を襲うことも、宗の教では在り得ない。短絡的な考え方は、もう…人間が動物より劣っていることを証明しているのかも。伝える手段は、人には一杯在る筈なのに。
2015.03.03
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2015/03/01昨日からの雨は、法面に残ってる雪を融かす…。しがみ付いている冬の名残を容赦なく追い立てる様に。こうやって、いろんなものが次に移行していく、自然も人の世も…。一瞬でも気を抜くと個人は置いていかれてしまう。昨日は月参り…『去る者は日々に疎し』(古詩十九首)と言うけれど…そうなんだあなァ…。目の前から居なくなる…憶い出も、いつかは人の心の中から無くなるんだろうなァ。 『いにしへを思へば夢かうつつかも夜は時雨の雨を聴きつつ』良寛遠い昔の私と父母の憶い出もこの言葉のとおりに、だんだんと現実と想像、幻の区別がつかない時もある。良い憶い出はより一層良い様に心を過り、辛かったこと、悲しかったことは今は許してしまっている。と言うより、『時』と言うものは浄化作用を持ってるんだろうなァって思う。…来月には、十七回忌と一周忌をやらねばならない。親不幸だったからか…孝行出来なかったからか、もの凄く悲しかったこと…もの凄く辛かったこと…その感覚だけは今でも残ってる。…感傷だけでは…佇むだけでは先に進めない…か。まァ時が解決するんだろうけど、『時が癒やす?時が病気だったらどうするの?』っていう、仏・独の合作映画の…ベルリン・天使の詩…の中の言葉。私の『時』も…少しばかり病んでるかも。…雨ばっかりの中、病院に見舞い。まだ意識ははっきりしないという。酸素マスクは付けているものの、楽そうな吐息が聴こえてきそうな安らかな寝顔…。今の時期に降る雨…春雨ってか??梅雨の雨とか秋雨は、なんかうっとうしいものが在るけど、春雨…って聞くと、なんかロマンチックな声も聴こえてきそうな。『春雨じゃ、濡れてまいろう』なんて言うキザなセリフは、武市瑞山(武市 半平太)けども、女性は違う。女性にとっては、何もかも恋の小道具にすぎないらしい。雨さえもこう使う。しかもストレートに。『春雨に、衣はいたく、通ほらめや、七日し降らば、七日来じとや』万葉集意味は………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………春雨は、そんなに着物をびしょびしょに濡らしてしまうの? 雨が7日間降ったら、7日来ないつもりなの?!…だとか。昔も今も…女性は強い。
2015.03.01
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2015/02/26朝からどんよりとした空模様。時折ぱらぱらと降る雨は、乾いた地面に吸い込まれていく。この時期、鉢に水やりする事なんて珍しい。軒下の鉢には、ウオーターマッシュルームとかナルコラン、スノーフレーク…。去年蒔いたムカゴとかツルニンジン、ワサビ…。乾きすぎるとダメになるので、注意しないと。冬がこれだけ暖かくて雨も少ないと、嬉しい様な困る様な…。冬は冬であってほしいけども、…地軸の傾きが変わったのか温暖化のせいか…鴨居が殆ど下がらないという初体験の冬。…今日は病院に行く。木曜なので、客もまばら。医者も午後から忙しいのか、いつもとは少し違う感じの対応をしていた。最近気付いた事だが、以前行ったことのある病院の看護師さんを、この病院の受付で見かけた。元気でいるならそれに越したことはない。…薬局で待ってる間、窓の外の冬景(?)を眺めていた。遠くに見える越前富士(日野山)の、尾根は黒々として天と地を分けている。雪の残る山肌…黒々とした稜線…灰色の空…版画の世界を観ているような…北陸の冬景色。いつもの年なら、もう少し後の時期の風景なのに。…いつも行くスタンドの女の子が最近見えない。地元ではボードが出来ないのかな…今年は雪が少なすぎる。遠くまで遠征してるんだろうか。…こんなうっとうしい日々でも、一日一日を大事にする事は、自分を大事にする事だし、その日その日を疎かにすると言う事は、自分を捨てているのと同じことと思う。うっとうしい冬の日を明るい春に繋げるには…明日を今日の連続…惰性で生きる様なものにしないためには…気持ちから明るくしないと…楽しくしないと…『おもしろき こともなき世を おもしろく すみなしものは 心なりけり』…高杉晋作
2015.02.26
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2015/02/25もう山歩きを…と、いう天気。窓を全開にしても寒くない。サンスベリアが…今年は失敗。5度以下になったんだろう…大部分がダメになった。まァ…子孫は残ってるから、DNAは保存できる。…『ウチは日本一不幸な少女や…』とは、じゃりン子チエ…竹本チエ。今、アニマックスで好きなものの一つ。なんか、大阪の下町っていうか、ほのぼのとした雰囲気の中で、不幸とか苦労…と言いながらも精一杯生きてる。テツとのやりとりは一見キツイ。けど…親子だから言えることもあるし、親子だから言えない事もある。チエはかなりの分別の持ち主として登場してるけども…かわいい。…苦労する事と不幸は、必ずしも同じものではないし、楽してゴロゴロしてるのが幸せとも限らない。…自分の居場所が。そこに存在する理由、やるべき事が…目標が…誰にでも在る筈のものが解らなかったり見つけらなかったら、それは辛いし不幸と言うんだろう。…昔…勉強のために、ある道場に連れていかれたことがある。毎年というか、何回か行かされた。その一環として奉仕作業をやった経験がある。暑いさなか、重い荷物を運ぶ作業…二人一組で運ぶんだから、我儘は通らない。朝は早いし、夜は宿題をやらねばならない。小学生の時から経験したけども、何故か親を恨んだことはなかったし、辛いとも思わなかった。その時それは、自分の仕事…そう思えたし、楽しさも感じた。人って、考えかた一つ、感じ方一つで、傍から見れば辛そうな事でも、自分の為なんだ…自分は今、この為に此処に居るんだ…と、思えてくる。どう思われてるか、どう見られてるか…そういう考え方をしてたら、世の中の大抵のことは不幸に思えてくるし、目の前にある、自分に一番の幸せを掴むチャンスを逃してしまう。その考え方そのものが、自分で自分を不幸に追い込んでしまう。ベルナール・ル・ボヴィエ・ド・フォントネルの言う、『幸福の最も大きな障害は、過大な幸福を期待する事である。』は、自分には持切れそうもない…御しきれないものを求める態度。チエには、小鉄以外にも味方がいる…忘却という。『どうにもならないことは忘れることが幸福だ。忘却なくして、幸福はありえない』……ドイツの諺…私は忘れっぽいから何時も幸せ…かも。…テツは多分…解ってるからこそ焦りがあるんだろう。『怠けていることは喜びかもしれないが重苦しい状態である。幸せになるためには何かをしていなくてはならない。』マハトマ・ガンジーのこの言葉…テツに贈ろう。…誰でも気が付けば、今ここ、今この時が幸せの瞬間…て、解るはず。制限のある環境では出来ない。本当の不幸は…悩むことすら、苦しむことすら出来ない所に在るのでは。『およそ惨めなものは、将来のことを不安に思って、不幸にならない前に不幸になっている心です。』ルキウス・アンナエウス・セネカ
2015.02.25
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2015/02/24朝から忙しく陽が照ったり陰ったり。アジサイの新芽も一段と大きくなった。ナガバモミジイチゴの新芽からは、一部に、小さな葉がこちらをうかがっているようにも見える…もう…出てもいいのかな…と。 春本番の様な暖かさ。…庭自体には雪こそ無いものの、春の兆しは…いまいち。…毎年春になると、芽が出る…花が咲く…秋になれば実の生るものもある。けれども、何故…と、誰しも想う。『年毎に 咲くや吉野の 山桜 木を割りて見よ 花の在りかを』…と、一休さんが詠んだ歌の様に、その芽も花も…実さえも、一寸刻みにしたって何処にも見つけられるものじゃない。心も、武道で言う所謂『気』さえもこれと同じで、形にならない…出来ない。まして肉眼で見ることなど…。そこに在るのは、ただ単に純粋な命そのものだから。…秋になると葉は落ち、死んだ枯木の様に佇む。それなのにまた…。毎年々々…環境がどんなに変はろうと…踏みにじられようと斧を一振りされようと…暗い土の中でも根が在る限り…命ある限り陽を求めて蘇る。「桜木を 砕いて見れば 花もなし 花をば春の 空ぞ持ち来る」…一休さんらしい悟りの世界。知るのではなく、在るがままを受け入れる…それで好いと思う。もうすぐ選挙…知事と議会議員の。4月まで必死なんだろうけど、福井県は保守王国…だと思う。最近の政治…何なんだろう。人の欠点、粗探…。みんな他の政党の粗はよく見えるらしい。ちょっと違うけど、『「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。」』…イエスさんはうまい事を言う。俗に言う、『人の振り見て我が振り直せ』かも。人は自分のことを棚に上げて、人の欠点ばかりいう。他を攻撃して、自分の欠点から周りの目を遠ざけるため??…アンリ・フレデリック・アミエルスイスは選挙を、厳しく上手く、皮肉って表現してる。『民衆を自分の道具にするために民衆にこびるというのが、普通選挙の手品師・ペテン師の業である』…二流のペテン師の、バレバレの手品の開演まであとわずか。見ている方が恥ずかしい…
2015.02.24
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2015/02/23雨に始まる一日。山の頂は霞んで天地の一体化薄日がさして、徐々に木々の輪郭もハッキリと。病院に見舞いに行く。手術第一段階は無事に乗り切れたが、まだ完全に終わったわけじゃない。健康な…元に近い身体になるためには、まだまだ先は長い。頑張ってほしいけど…『病気は千もあるが、健康は一つしかない』カール・ルートヴィヒ・ベルネTVの中で、海外の個人の畑に、ナースプランツなるものが植わっていた所があった。使い方の正否は疑問だけども、コンパニオンプランツは植えたことがあるから一応解る。ナースプランツ…似ている様で似ていないけど、どちらにも、雑草…という一言で片づけられていた植物も在る。人は直接必要としないものを雑草と言ってきたけども、結局のところ、自然はそのどれもが何らかの関係を持ち、そのどれもが必要とし合い、助け合ってるって事か…。『自然の知恵から見れば、人間の賢さも愚かさもタカが知れている。その僅かな知恵の幅の中で、いささかの賢さを誇り、いささかの愚かさを卑下してみても何になろう。』…と、松下幸之助さんが言ったように、人間のやってることは…最後には自然に還らなければならないと気付く。いくら羽目を外してみても、いくら自然を征服したと驕っても、孫悟空が釈迦の掌から出られなかったように、人間は自然の足元にも及ばないという事だナァ…。人はそれから学んで、それを生かすことなら出来るし、それを知恵というんだろう。最近の生活の道具、工具とか、医療器具…いろんなものの中にも、植物とか昆虫、動物を研究して進化しているものが在る。例えば痛くない注射針。蚊からヒントを得たそうな。人は、自然を分離して効率を高めた…合理性を追求して征服したつもりで、高慢にもなっていた。けど、自然から学ぶものは在っても、押し付けられるような…自然に喜んでもらえるようなものは極稀にしかないというか、本当は一つも無いのかも知れない。もし在るとすれば…ヴィクトル・ユーゴーの言う、『人間は社会に従うか、自然に従うかという二つの方法によって生きている。』…の、『自然に従う』という部分だと思う。…植物が助け合う様に、人間は何故に助け合わない。押し付けさえしなければ…必要としているものを引き離すのではなく…与えれば…自然のままで生きていくのが一番合理的なのに…自然の中に生き、心の中に自然を住まわせれば、風の様に…水の様に…自由になれるものを
2015.02.23
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2015/02/22それほど寒くない朝を迎える今日この頃…。 朝から眩しいくらいの陽射しの中で、例年通りの光景。 山肌に…土砂崩れ!?そうじゃない。あれはイノシシの荒らした跡…痕跡。今年はまだ一度も山に行ってないから、近くで判断するしかない。今年も多分…タケノコとか相当荒らされるかも。今日見た場所は、孟宗と違う…細い、径が20ミリ位のタケノコが採れる場所の近く。この場所のワラビは、緑がとてもきれい。40センチくらいになっても十分柔らかいのが採れる、…イノシシも、子連れで餌探し…大変なのかも。…猪…語源は、『ウィ』と鳴く食用動物『獣(しし)』。…遼東の豕…っていう言葉を発見。(りょうとうのいのこ)。遼東(遼寧(りょうねい)省南東部)で珍しいとされた白頭の豚が、河東(主に山西省南西部)では珍しくなかったという、「後漢(洛陽を都とした漢)書」朱浮伝の故事から、世間知らずのために、つまらない事を誇りに思って自惚れること。また、そのような人のたとえ。所謂、井の中の蛙ってことか…。…猪突猛進…とはよく言われた。2月の頭の方に生まれたから殆どが前年の亥なので、お前はやっぱり向こう見ず…真っ直ぐにしか進めない…って。今思うと、遼東の豕…こっちの方が当たってるかも。…白いカラスを思い出した。…で、騒ぐ人もいたけれど、これだって珍しいかも知れないけど、絶対に居ないというわけじゃない。東南アジアには部分的に白いのも居るし、ずっと前…中国に行った人が、こっちには白いカラスがいた…と話してた事もあるとか。…神話では、初めは白かったカラス。人を裏切ったことで罰を受け、それまで雪の様に白かった美しさも、自由に人と話せた言葉も…取り上げられて、醜い鳴き声と黒く荒んだ色にされた…。これは嘘をつくことへの戒めの話だけども、白いカラスは居ない…神の使い…だけでは遼東の豕…ってことか。『無知であることを自覚するのは、知識向上の大きな段階である』なんて、ベンジャミン・ディズレーリは言ってるけど、知識は使ってこそ意味がある。ただ集めて持ってるだけなら○〇オタクと同じ。所謂知識バカ…こうはならない様にしないと…なりたくない!
2015.02.22
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2015/02/21湯沸かし器が壊れた…分明の利器って云うものが人間をどれだけ無力にしているかって云う事を悟らされる瞬間。…最近は、野外活動にも文明の利器を持って行く事がある。折角自然の中で、生きるという本能を目覚めさせるチャンスなのに…。子供に楽に自然を楽しませるためだと、主催者は言う。自然をホントに楽しませたいなら、その厳しさを先に学ばせねば。…汚れたり、怪我をしたり、とても行けそうにない場所にどうやって行こうか…考えてルートを見つけたり…キツイ勾配を全身を使って登ったり…。仲間を押し上げたり、手を引っ張ってもらったり…。人は、特に子供のうちに窮地に追い込まれたら、それに順応できる逞しさを手に出来るんだけれど…折角のチャンスを生かせない大人は邪魔としか言えない。…それが危ないことを身をもって体験させないと。子供なりに試行錯誤させないと。自分で考えることを覚えさせないと…自分で責任を取るという事を学ばせないと……子供の頃は…足の先から頭の天辺まで泥だらけになったり、怪我した部分が治らないうちにまた怪我をして、膿んでしまった事もある。畔を走り回って芽を踏んでしまって、これでもか…というまで叱られた事もある。本能だけで遊んでたようなものだから、何が危ない。何が安全。これは悪い事。これは喜ばれる事……人生の大部分はこの頃に育まれたようなものだ。文明の利器で守ってやるのもいい…効率よくやる術を教えるのもいい…けど、一旦『何も無い』…かそれに近い状況になった時、文明の利器の弊害が浮き彫りになる。何かあると悉く人のせいにするのも、自分だけはいつも安全圏に逃げ込まれる位置にいるのも…そういう育てられ方をしたから…の結果。カール・ユングの、『健全な者は、他を虐げたりしない。他を虐げる者は、自分も虐げられたものである』クリミナルマインドを観る度に、この言葉を思う。どんな事でも今自分のやってることは、多分に以前の体験からの行動だと思う。…良い体験…楽とかではなく子供には、人間本来持ってるものを生かせる体験をさせないと。…もうすぐ自然を楽しめる時期になる。山でまた保育園児にも出会う。近所でも、街中でも、出会う限り良い体験をさせてやりたい。…大人同士も勉強し合わないと。
2015.02.21
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2015/02/20在る時間帯…地上波もBSもCATVも、ドラマの殆どが中国、韓国のもの。辛うじて他のが在るとしても海外のものが多い。…他を受け入れることは、確かにすばらしい事。日本人には世界に誇れるそれが在る。だけども、これだけでは日本と呼べる国が無くなってしまう。…どんなに優れた通訳をしても、其々の国の…民族の文化は、その国の、民族の言葉でしか説明のしょうがない部分がある。…日本の心…日本人の心…それを本当に表現できるのは日本語だけ。番組にはもっと、日本語を伝えるものが在ってもいいと思う。ニュース自体、外来語が主体みたいなところもある。…日本語で説明できないものは仕方ないけれど。アナウンサーもキャスターも、なんかカッコ良さだけの、受けのいい言葉を選んでいるような。尤も、発音が悪い…明瞭でない、誤解を招くような言い回しのキャスター、アナウンサーも多い。…『愛国心を持たないのは、日本独特の現象と言わざるを得ない。家庭において、両親に敬意も愛情も持てなければ子供は健全に育たない』…って、金美齢っていう人が言ってた。国に愛情を持たれない国民は…言葉も国も疎かにする。…日本には『腹芸』というものが在って、日本をバカにしてる国でさえも寛容の心…で受け入れる。けれども、聞く側も話す側も日本語を間違って理解してるから、その心は伝わらない。…誤解を招くような報道番組からは、言葉どころか、国をも軽蔑視しかねない人を育ててしまう。『政府は帆であり、国民は風であり、国家は船であり、時代は海である』と言ってる、カール・ルートヴィヒ・ベルネの言葉の中の、国家。その価値は、『国家の価値は、結局それを構成する個人個人の価値である。』、といってる、ジョン・スチュアート・ミルの言葉の中にあるように、国民…個人が、しっかりとした表現の出来る人間にならなければ、船は前に進めない。家という船を家族が進ませるように、国家も、強い追い風が欲しいところではないんだろうか。独裁国家と違い、日本は自由の国。けど、このままでは自由というより奔放…勝手になってしまう。自然の大木も枝打ちしなければ、フシだらけの木材になってしまう。フシの無い丈夫な木…強い人を育てるには躾をしないと…言葉は基本だと思う。
2015.02.20
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2015/02/19関わりのある人の病気…そして、助かるかどうかも判らない手術という結論に意見が達した時…立ち場的になにも言えない自分…見守る事しか出来ない自分…心は沈む。近しい人の病気には、自分の怪我や病気以上に心が痛む。『河の氾濫が土を掘って田畑を耕すように、病気はすべて人の心を掘って耕してくれる。病気を正しく理解してこれに耐える人は、より深く、より強く、より大きくなる。』…って言うけれど、お年を召された方には…そうも言ってられない。カール・ヒルティ。スイスの法学者…というより、この場合は哲学者としての発言。心が折れるくらいの年の人にはキツイ言葉かも知れない。けど、若いうちの辛く耐えがたい経験は、病気でなくても人を大きくする。久しぶりの病院。大学病院とはかなり違ってたが、ま…こんなものでしょう。総合病院だから、売店にはいろんなものが置いてある。子供の患者用グッズは気が利いてて面白いけど…なんか思うに、見舞いに来た人用の物が殆ど。当然と言えば当然かも知れないけど、経験から言わせてもらえれば…入院患者は少し良くなると暇を持て余すんですよね…。尤も、暇を持て余すようになったら…退院かな。一日中こぬか雨二十四節気の雨水。雪が雨になり…氷が解けて水になる…。啓蟄までのこの時期、いよいよ植物も準備を始め、山菜好きには待ちに待った季節がもうすぐ。…もう海岸沿いではフキノトウが出ているという情報も。福井県は場所によってかなりの差があるので、一概には言えない。池田とか勝山、大野なんかはまだまだ雪が在る。渓流釣りを楽しむ人は、当分冬用タイヤが外せない。三方とか、敦賀市の杉津(スイズ)なんかは春が早い。見舞いに病室を訪れたとき、無意識に身体を動かしていた。去年…父が昏睡状態になった時、駆け付けた私は…もう、人生の卒業証書をもらう資格は有る…一生懸命に生きた証明は果たした…と、辛いけれども医師にその旨を伝えた。今…もしかすると、私と同じ決断をしなければならないかも知れない人がまた一人…。人は皆、辛い決断を迫られるとき…私と同じ心境なんだろうか。それとも…
2015.02.19
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2015/02/15雨だれ…ショパンだねェ。 止めどもなく、繰り返し…繰り返し…単調な水の滴りは、昔、拷問にも使われた。単調が故、自己暗示をかけるのにも有効なリズム。ただ…こういう日は雪と違い、うっとうしさも感じさせる。陰気な環境は、精神的にもダメージを受けてしまう。精神的なダメージは、身体にも響く。こういう状況では健康管理が優先する。…今年は自分なりの健康法で、今のところ風邪をひいてない。ひいてないというより、軽く治まるってことかも。健康の健(けん)は『すこやか』とも言う。からだが強くしっかりしている意味がある。(したたかっていう意味もあるけど)余談…健肥…すこやかに育つ…俗に言うお菓子の『ケンピ』…だとか。…康は心が安らかな状態。家康…国家の安泰を願っての名かも。これをもって健康という漢字が付けられていたとは…身体が健やかで精神面でも安らげれば、言う事なし。自分なりの健康法1。どんなに鬱陶しい日でも、どんなに寒い日でも、必ず一度は外に出る。…ともすれば、一歩も家から出ない日っていうのがある。正月とか、出張で疲れて帰ってテレビなんか見て過ごす…なんて言う日が無いとも限らない。そういう時、一歩玄関から出るだけでもいい…行動すること。健康法2。風呂から上がるとき、頭と顔、首筋を冷やす。関節という関節の内側も冷やす。関節は急所も多いけど、大きく太い血管が走ってるから、そこを冷やせば身体全体が冷たさを感じたのと同じになって、毛穴が閉じて体温が逃げにくくなる。それと、風呂で緩んだ皮膚を冷やすという事は、皮膚の若返りにもいい。体中どの部分でも同じだけど、皮膚も刺激をしないとダメになる。適度の刺激、適度の苦痛…心地良いものだと思う。健康法3ダイジェスト料理は避ける。これは子供の頃から親にも言われてたこと。決して、食べ易くしたものばっかり食べることはしない。消化し易い、吸収し易いものばっかり食べてると、本来の機能が退化してしまう。2で言った刺激を消化器官にも与える…。あとはアクビも力いっぱいやること。大きく言ってこれが今年やる事。改善の余地は十分あるとは思うけど、徐々に変えていこう。…健康は…薬でだけで維持するものではない事だけは知っておかないと。『一切の病にみだりに薬を服すべからず。病の災より薬の災が多し。』 貝原益軒
2015.02.15
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2015/02/14晴れたり曇ったり…向こうが見えないほど粉雪が舞ったり。最近ややこしい天気ばっかり。学ぶこと…たいていの人は、自分の知りたいことだけを学ぶ。それはそれで間違いとは言わない。現代人は合理主義だから仕方のないことだけど、それは本当に合理的なんだろうか。何かを追及することは良いことだと思う。けど、その、自分の知りたいことは知らなければならないことか…自分のしたい事には必要なことでも、自分のしなければならない事に目を向けたときに、それは果たして必要な事か…知りたいことだけを学んでいても、それがホントに大きい意味で役立つんだろうか。何をするにも、どこかで飛躍する…殻を破らなければならない時期が来る。発明発見で、[道具]であれば限定されてる考え方でも使える。だけれども、「機械」。特に現代の科学、航空宇宙学とか原子物理学の世界では、根本的考え方自体変えていかなければ…広い知識を総合しなければ進化はない。前に進もうとすれば知りたいことだけでなく、まったく関係ない様な事の中からも学ぶことを見つけないと。個々を学ぶことも確かに好い事だと思うけども、それを進化させるためには、可能な限り広く学んでそれぞれを応用することも考えないと。行き当たりばったりで学ぶのではなく、先ずは、何を学ぶかという事を学ぶこと。関係ない世界…知らない世界…そういう世界が多いという事は、それだけ自分の世界が応用の利かない役に立たない…小さな、狭いものだと言う事になる。今、植物とか自然とか科学、哲学とかに興味を持ってるのは…生け花をやってると生ける形をいくら勉強しても、なんか不自然に思うことがあったから。池坊専応の言葉に、『器用でなくもいい 心があれば』っていうのがあるけど、送る心…迎える心…それを生けたいのに、壁に突き当たった時、所謂『なんでだろ…』と、思う。習ってるとき、課題以外に、別にハランの一種とかも視てもらった。毎回これを3枚、5枚。7枚、9枚と練習した。型はなんとか様になってるのに…何かが違う。以前、自然の花だけを持参して習い、本部に越前の国…ていう席を持つまでになった人に出会って、その時初めて『花』というものが、少し解りかけてきた今の心境。全ての事物は単独でなく、全ての事、全ての物が…全体で全てが成り立っているという事を学んだ。人間一人一人も…全体から成り立ってる。一人一人が、全体を成り立たせている。
2015.02.14
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2015/02/13今日は何故か、一度早くに起きてしまった。こうやって早く起きたときは、昔を思い出す。住んでる所は、高速、国道、JR,旧国に挟まれた所にある。だから…早くに起きると遠くを走る車の音とか、JRの電車の音が聞こえてくる。そういう音は、なぜか懐かしい少年時代、青春時代を憶い起こさせる。何故か…父親、母親との楽しかった昔を思い起こさせる。記憶を再生させるのに一番効果的なのは、香り…臭覚を刺激するのが一番と、私は聞いている。だけど…それも人其々、条件次第。静かな世界では、他にもいろんな音が聴こえてくる。ファンの音、冷蔵庫の音、生命体の這い回る音…。耳を澄ませば…いつでもいろんな音が在る事に気が付く。ただ、それらは在って無い様なもの。心静かに…耳を澄ました者にだけ聴こえる世界。過去も現在も、未来さえも同時に在る世界。ときどき人生相談…というけれど。参考意見しか他人には言わない…言えない。もし、こうするべき…という意見、答えをを言いったとしたら、その人は本当の幸せを掴めるだろうか。『ある人に合う靴も、別の人には窮屈である。 あらゆるケースに適用する人生の秘訣などない』…カール・ユングはうまいこと言ってる。いくら経験豊富でも、悩んでる人の今までの人生まで知ってる理ではない。自分の人生は、あくまでも自分だけのもの。歩くのも倒れるのも、自分独り。その人がどんな幸せを求めているのか解からなければ…人の意見を参考にしても、それには一工夫も二工夫要る。軽い人には渡れても、重い人には渡れない橋…船を漕ない人には川も海も渡れない…。力の無い人には重荷は背負えない。それに、もし万能の答えが在ったとしたら…そう、例えに、人に魚を与えれば、その人は一日困らない…釣り方を教えれば一生困らないって書いてあった。答えを教えれば、その場は困らないかも知れないけれど、その人はその都度答えを聞かなければ進めないようになる。私が好きな言葉に、『山水も 木の根岩が根くぐらずば 大海原に如何で出べき』 っていう言葉がある。大海原に出たかったら、狭いところも暗いところも…曲がった道も急勾配も、避けて通る訳にはにはいかない。スー族の言葉に在るように、『どこに行くのか知らないなら、どの道を通っても同じだ』…そう、只ひたすら答えを求めても、自分の行き先を定めないと。私は参考意見しか教えない。名言も諺も、参考にしかならない。来た人と雑談して、その中で自分の体験とか知識は話すけども、どの部分を自分に向いているものとして利用するかは、その人の問題。いろんなものの中から、セレクト出来る力をつけれればそれでいいのかも。午前中は良い天気だったのに、昼から崩れる。夜になってから細かい雪が積もる。量は少ないけれども、かなり凍みている。明日は…どんな天気なんだろう。
2015.02.13
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2015/02/12東の空に、ボーっと雲に隠れていた太陽…小雨で始まった空模様。すぐに自分の存在を証明するかのように、雲を追い払って一気に空を自分のものにしている。夕方からは、またミゾレまじりの雨…。毎日忙しい天気。春かと思えば冬に戻り、まだまだ冬かと思えば、春からの手土産をぶら下げて…なんか気まぐれな…人とと戯れたいかの様にやって来る。これでは裏山のイノシシも、生活設計がやり辛いかも。白菜を食い散らかした犯人が判った。犯人?犯鳥??クチバシから尾の先まで約20センチくらいの黒っぽい鳥。仕方ないかな…新鮮な食料が必要なのはお互い様。これ一株だけでも残しておいてやろうか。面白い言葉発見。『男というものは嘘の国の庶民であるが、女はそこの貴族である』最晩年はナチ協力者として断罪された、オールマイティの作家アベル・エルマン。確かに…男というものは、良い方に解釈すれば、どこまで行っても女性に傅くものなのか…また、それが生き甲斐だったり嬉しかったり。『とかく女は尊きものよ 釈迦や仏をホイホイと生む』なんていう言葉も在るくらいだから。尤も、そういう女性に巡り逢ってこそだけれども…嘘の国の庶民!?貴族!?なんかとてつもなく深い…恐ろしい意味が在ったりして。まァあんまり深く考えないでおこう。最近の世の中…世間は、暗いニュース、辛い出来事ばっかり。人を傷つける…特に、子供を…抵抗の出来ない弱いものの命を奪うなんて。理由はともあれ、私なら極刑を求めたい。アイゼンハワーはこう言ってた『人生における最大の悲劇は幼子の死だ、それはすべてを変えてしまう』…って。そう、子の最大の罪は親より先に死ぬことだけれども、その死を、罪を他人が犯させてしまうなんて…。絶対に許せない。けど…嘆いてばかりでは生きていけない。暗い暗いと寂しく日々を送っても、それは本当に生きているとは言えないかも。やっぱり、どうせ生きるなら…って思う。暗いものは暗いと、そのまま受け入れてする苦労…。暗いなら、何とか明るくしようではないかとする苦労…。苦労すれば人生の達人にもなれるが、その達人の一人に、明石海人という人がいる。『深海にいきる魚のように自ら燃えなければどこにも光はない』とは、苦しんだ短い一生の中で得た真理。自ら燃える…自ら光になるということ。それこそが本当に生きるということだし、自分自身への生きた証明にもなる。暗いものは暗い…と、素直に受け入れられればそれも達人。ただし、そこに不平不満が無ければの話。さて…と、頑張ろう。
2015.02.12
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2015/02/11今日、建国記念の日。海外の人から見ると、日本ほどおかしな国は無い…らしい。独立、立国、そういう記念日を疎かにする国なんて、 日本だけだから。まァ…国旗国歌を認めていない人もいるんだから仕方ないかな。島国根性…平和ボケ…なんだろう。右翼と思われるのも嫌だ、この問題はこれくらいにしておこう。時々曇りはするが、良い日になった。昨日は山の稜と空の区別がつかないくらい降ってたのに、今日は光が雪にとって変わって、空中を占領し飛び回る…遠くの山を望と陽の光がまぶしくて、稜線が見えないくらいに。木の枝々も、暖かさで雪の衣を脱いだ…かな。鉢に植えてあった白菜が荒らされてる。この散らし方は鳥なんだろう。山鳥が時々降りてきているから。芦山公園には、かなりの野鳥が居るらしい。時期になると、バードウオッチングに来ている人もいる。植物の観察、写真を撮りに来るひともいる。時期になったら…今年も行きたい。まずはタケノコから。パーソン・オブ・インタレスト、ブラックリスト、クリミナルマインド…。こういうのを観てると、自分たちの知らない世界…別世界の事の様に思う反面、これに似た事が現実には在るんだろうな…って想う。ただ一般に知らないだけ。知りたくないだけ。人の頭で考えた映画だけども、『人間が頭で考えることは、すべて実現可能である』…と、これもアインシュタインの言葉。政治的にも社会的にも知らせたくない事も在るんだろうけど、<CSI>なんかは、証拠というものを、多分、一般の知りえる最新の技術で暴いてるのかも。『LAW & ORDER:陪審評決』とか『LAW & ORDER』…これなんかは現実のアメリカ社会かも。全て人間の考えたもの…頼もしいというか恐ろしいというか。ただ、微かに希望は持てる。『多くの影を取り除くのには一筋の陽光で十分である』ジョヴァンニ・ディ・ピエトロ・ディ・ベルナルドーネの言葉。今日みたいに、吹雪の後にも陽は輝く。一筋の陽光…多分、誰もの心の中に。G・d・P・d・ベルナルドーネ=アッシジのフランチェスコ。
2015.02.11
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2015/02/10 一転して冬…朝の4時頃から除雪車が走り回り、ビックリして起きてみれば…車の上には25〜30センチくらいの雪。除雪車の通ったあとは雪の塊があるので、6時頃に、まァ、これくらいなら仕方がないかと、玄関、車付近の雪を除ける。遠くの山、近くの木々…まるで版画の世界のようにハッキリと。越前市から敦賀まで渋滞??越前市…私の住んでる所。そんなに多い??教育、家庭問題の講習会。なんていうチラシが入ったり、勧誘に来たり…家の子は…うちの生徒は…躾けることが難しい…教えることが難しいと嘆く親や教師。周りでもそういう声を時折聞いた。なんなんだろ…じゃ、自分たちは躾が行き届いてるとでもいうんだろか。飲酒運転をし、女生徒の隠し撮りをし、生徒との破廉恥な行為にまで及ぶ大人たちは…それを躾とでも思ってるんだろうか。自分の行状を、そっくりそのまま子供たちはコピーしてしまう。よく、あいつが悪いから…会社が悪いから…社会が…と、自分のことを棚に上げて周りを悪く言う人がいるけども、これもそれと同じじゃないのか。『教えることのできない子供というものはない。あるのは子供達にうまく教えられない学校と教師だけである』…なんて、モーティマー・ジェローム・アドラーっていう哲学者が言ってた。大人は自分たちの無能さを棚に上げて、自分達を上手にコピーしてる子供たちを悪く言う。この間話した近所の子供。山で会う保育園児。スーパーでの子供。子供といっても学生さんもいるけど、とっても素直。悪い子なんて一人もいない。それに、それぞれ個性が在って、とても賢い。もし、教えられないと言うのなら、それは自分が子供から学ぼうとしないから。アインシュタインのエピソードの一つに、こういうのが在った。ウイキペディアだったかな…書いてあった。母親が、娘の家庭教師がアインシュタインと知って、慌てて彼の元を訪れたが、そのとき彼は「私が彼女に教える以上のことを、私は彼女から教わっているのだから、礼には及びません」と言ったとか。相手から学ぶ気持ちさえあれば、相手も自分から学んでくれる。お互いを尊重しあう気持ちさえあれば…ってことか。私の所に来る勧誘の人は可哀想。いつも私の説教を聞いて帰るハメに。
2015.02.10
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2015/02/09今日は久々の雪の朝。山茶花の上、ラカンジュの上にと舞い降りる雪。もうすぐ芽を出そうとするツルニンジンの種の上にも…。まだまだ早いと、フキノトウの場所にも白く覆いかぶさる。何日か前、多分その人も知らないであろう潜在的な部分に直接触れた。忠告…すれば疎まれ、しなければ何故にもっと早くに…と、お互いに傷つきかねない危険な代物。案の定、かなり反論された…悪者にされた。その人の為を思って(かなりの思い上がり)っていう事と、その人の考え方を知りたいが為の逆の立場での接し方も。人って、痛いところを弄られるとかなり抵抗する。痛いから当然の事、防衛本能が先に立つから私でもそうする。一度切開して余計なものを取り出さなければ…という時には仕方の無い事だと思う。だけども、受けた痛さが自分の為のものかそうでないか。人を傷つけて、傷害となるか医療となるか。そういう様な判断は、かなり難しい…。それがその時期その場面、そのレベルで絶対正しいものだとは、言えることでもない。干上がってしまう溜りから、大きい池に移そうとして魚を捕まえる。魚にはその真意が解らないから逃げ惑う。また、生け花をやってる人の手伝いを…と、材料の中から老木、枯れ木を取り除く…なんていうのは知らない者の余計なお世話、お節介。何が正しくて何が間違ってるかは、状況次第で変わるもの。真意…。自分を害しようとしているものか、それとも助けようとしているものなのか…。判断は、時と人其々。悪者にされる事自体は構わないんだけども。そうなると、自分も忠告してくれた人にそういう態度をとっているのかも。降る雪と同じ…時期と場所、状況次第でで正否は変わるものかも。何事にも構えないでおこう。構える事は、時として目の前にあるものよりもっと大事なことから目を逸らすことになる。構えなければ、心は自由。
2015.02.09
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2015年2月8日いつもの冬なら、コタツに入って眺める雪景色。今日はそんなに寒くない。エアコンを止めて、窓をいっぱいに開けて空気の入れ替え。側溝に聴こえる水音は、本来なら雪解けの音。今は雨だれの音と重なってうっとうしい感じ。部屋ではカランコエの黄色がささやかに明るさを保っている。玄関のウオーターマッシュルーム。新しい細かな葉になって世代交代完了?なんの飾りっ気も無く、花は咲いても、サンスベリアの花よりも目立たない。カランコエみたいに、赤とか黄色の花はないけれど…地味さを代表しているかも知れないけれど…そこにも命が在る。自分としては、こういう生き方が好きだな。可憐な花を咲かせるものには無意識に、心惹かれるし和みも生まれる。ウオーターマッシュルームにはそんなものは無い。けれども、その丸く可愛い小さな葉が、少しの風にそよぐだけで何かを語ってくれているような…ただそのしぐさだけで心魅かれる。見た目の美しさより、派手な行動より…一所懸命生きてる細やかな心くばりの方が、何故か心の奥深く刻まれる事を知らされた今回の誕生日。暗くなるにつれ、横殴りの雪が降ってきた。明日の朝までにはかなり積もるんだろう。やっと冬らしく(?)はなったが…何が[らしい]というんだろ。らしい…らしい…雪が無くても冬は冬でないかい!?
2015.02.08
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2015年2月7日冬の晴れた日…公園まで散歩。空気はまだまだ冷たいけど、やっぱり気持ちはいい。冬、まだ2月なのに砂埃は立ち、どの家の庭にも雪なんて隅っこの陰にしかない。こんな2月は自分にとって生まれて初めて…だと思う。楽なのは嬉しいが、このまま冬が終わるとも思えないし、そうなったらまた夏は水不足になるのかも。けど、庭の長葉モミジイチゴの芽もまだまだ硬い。日本タンポポの葉もまだ春の葉にはなってないし、フキノトウの芽は去年と違いまだ出ていない。この分ではまだ雪が降るのかな…春は暦の上だけなんだろう。自然の中で、自然に習って生きれば間違いはないんだろうけど、人はつい先走って知恵だけで生きようとしてしまう。明日は、また一つ歳をとってしまうけど…何年生きてきたかではなくて、どう自然に習って生きてきたかを考えればまだまだ。この間から、一つのプランタにぎっしりと小さな芽が出ている。蒔いた覚えがあるのは、去年採取したワサビの種。もしワサビだったら…どこに植えようか。時期が来れば…芽が出て、枝葉は茂り花も咲く。楽しみに待つのが正解か…人工的に時期を無視してでも咲かせて楽しむのが正解か…どっちが心の糧に相応しいんだろ。緑の風…待ち遠しい
2015.02.07
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低く暗く、手の届きそうな雲…。山は雨と靄で幻想的に浮かんで見える。気温は上がってるのに、木々の枝にまだ芽は見られない。………戸ノ口という所に住んでいた頃の或る一日…憶い出す。従兄弟はいろんな事を知っていた。山での遊び方…こういう日の山での雨の凌ぎ方…。家人にもいろんな事を教えてもらった。周り近所からもいろんな事を教えてもらった。………………いろんな意見を聞き過ぎて…悩んで…答を見失った事がある。………………人は、人それぞれ自分の正解をもってる…持たなければならない。他人がどんな正解を説いても、自分にとってそれが正解とは限らない。頭の良い人が理論づけた説明…これが正解、これが見本っていうものがまかり通る。けれども、その正解は必ずしも絶対ではない。頭の中だけの正解。その人の経験からの正解。けれど、自分にとっての正解は…。自分と同じ経験、人生を送ってる人は無いのだから、自分の正解は自分で見つけるより他にない。それが例え、他から見れば不完全でも、自分にとっての正解は其処にしかない。こんなんで良いんだろうか…他から見れば不完全…。でも、そこに生き甲斐、自分の幸せ見つけられるならそれで良い。他と同じ生き方をするだけが成功に繋がる訳でもなければ、幸せに繋がるわけでもない。大きくても小さくても、自分にとっての完全な○は、他から見れば、所謂△だとしても、それで良い筈。誰にとっても、その全ては一つの参考。自分自身の出した答えでさえ、明日になれば正解とは程遠いものになる。そしてそれが成長している唯一の証。誰にとっても正解は…其処此処に在り、何処にも無いもの。在るとすれば、明日への夢の中にだけ………………雪の無い一月下旬…こんな年はまだ経験が無い。生活には都合がいいけれど…後が怖い。ダラダラと…春先が遠のくのか今に一気に降り積もるのか…夏、水不足で困るのか…二つ良い事が無いのが世の条理。雨乞いならぬ雪乞いでもしたくなる。
2014.01.30
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25日…今日からは大寒の次候。沢に氷が厚く張りつめる…とある。昨日は厚い氷が張っていた…今日の朝は…。初候に蕗の薹(ふきのとう)が蕾を出す…なんて事になっているけれども、少しは当たってるかも。庭の日当で雪の無い部分に、今は一個だけそれらしいものが芽を出している。昨日、坊さんが近所を歩いていた。托鉢…煩悩の塵垢を落とし、衣食住についての貪り・欲望を払い捨て、清浄に仏道修行に励むための十二の実践項目のひとつだとか。これを寒にやるから托鉢寒行なんだろう。坊さんが無病息災や家内安全を祈願する托鉢。何かの祈願、報恩講などでの托鉢もある。他人の家の前に立つ…なかなか出来ない。経験があるけれど、構えれば構えるほど心が引いてしまう。飾らない自分でいれば良いんだけども。本当は、足袋に草鞋なんだけど、いつだったか…シューズ履いてるのを見かけた事がある…あ~ァ…南無阿弥陀仏…かも。自然って、命って…かなり強いと感じた光景。蕗の薹の直ぐ傍に、だいぶ前に捨てたサボテンが青々しているではないか。凍りついたりしている真冬になんていう生命力。そういえば去年、この場所にチラッとオレンジ色のものが見えたのは、多分これの花かも。今年は確かめよう。それにしても…執念か。占星術では、大寒を宝瓶宮…水がめ座の始まりとしている。所謂私の星座…なんて関係ない…か。二十四節気、七十二候…昔の人はなんだかんだと言いながらも、上手い事考えるものだと思う。口煩いって言うだけではないって事か。元々中国のものだけども、今は日本の四季に合うように作り替えられた。(意味不明なものも多かったから)そもそも、大陸と島国では同じはずが無い。そう言えば…今日は初天神か…。勉学に励む人にとっては、苦しい時の神頼み。それでも行けば気が済む…けど、何で代理が行く?数を頼りに奉納する人…何なんだろ。合格だけが幸せとも思えないのに、そこまでして形だけの幸せが欲しいんだろうか。そういう気持ちも今の社会の仕組みからすれば、解らないわけではないけれど…幸せって、自分で掴むものではなかったのか…と。幸せを掴む方法…『一日だけ幸せでいたいならば、床屋にいけ。 一週間だけ幸せでいたいなら、車を買え。 一ヶ月だけ幸せでいたいなら、結婚をしろ。 一年だけ幸せでいたいなら、家を買え。一生幸せでいたいなら、正直でいることだ』…と、西洋の諺にもあるけれど、幸せはいろんな形で在ると思う。幸せを追う勉学と、幸せを感じられる人間性と…どちらが先に幸せを掴めるんだろ。
2014.01.24
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今日は珍しく暖かな日。昼近くになっても陰にはまだ氷が残ってはいるが、日当はかなり暖かい。少し動けば汗ばむほどに陽射しが強い。カーテンが引いてある部屋…半分しか開けてないのに、部屋は不自由ないほどに明るい。暫し、廊下の戸は開けて網戸にしているが、少しも寒いという感覚は無い。遠くの山の杉林には雪が見えない。近くに行って初めて確認できるくらいに雪が少ない。屋根の雪は、この暖かさで雨だれとなって落ち、庭のくぼみを小川の様に流れる。冬の日の爽やかな一日…。こういう日の夜明け前は、一段と気温が下がる。今日の朝はかなりの冷え込みで目が覚めた。厳しい朝には、穏やかな昼下がり…こういう冬の日を繰り返し…乗り越えてやがて春が来る。今日から小正月。女正月…。明日には角松も取れるんだろうし、今日または明日はどんと祭。やっと正月気分も抜けるって事だけども、正月…語源が外来語だとは知らなかったなァ
2014.01.14
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今日の朝、車のフロント、ミラー…全て凍ってた。雪が無い分、エアコンだけで解凍はしたものの、やはり寒い。こんな朝…昔、日野川に木造の橋が架かってて、表面の土が凍ってたのを憶いだす。橋は、道路と同じで表面は土。所々に穴があいてて、そこから川面が見えてた。今日みたいな冬の朝早く渡ると、所々に霜柱が立ってて、サクサクしたのを覚えてる。郷愁というか、懐古…ノスタルジア…。今は新しいものを追求するあまり…便利さだけとか個性とか、ウケだけを狙ったものが幅を利かせてるから、なんか物足りなさって云うのを感じてしまう。何千年も前からみれば殆どのものが変化はしていても、根本的には何も変わっていないっていうのが科学的な結論だそうな。言い換えると、過去の人の方が試行錯誤という作業を,惜しみなく繰り返していたということになる。今日は、合理主義を追求するあまりに、『時』というものを限りなく省こうとする。省力化…。だけど、本当に大切なものを合理性だけで求められるんだろうかと思う。一見、無駄に思える事の方が…その中にこそ本当の合理性が在るのではないのかと。インターネットでの買い物は確かの便利だけども、結局そういう物は、作り易く、買い易く、運び易く…って云う事だけを追求したものになってしまう。私はそういう買い物をする時でも、少なくても一度は電話で納得いくまで話をする。品物の確認というより、電話の向こうの人に関心が在るし、その人に納得できなければ買はない。昔渡った橋の様に…今、橋を渡ってる…と言う感じが伝わって来るのと同じで、この人の作ったものなら…この人の売っているものなら…という感覚。合理的に考えれば必要でなさそうなものの中に、本当は一番合理的なものが在るんだろうと思う。洗練されたもの…それは、試行錯誤、創意工夫という膨大な、一見無駄に見える作業の中だけに育つものかも知れない。無駄ばっかりしてる自分は、実は洗練されてる???今日も冗談ばっかりの一日になりそう…。
2014.01.03
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あっという間にこんな時期になってしまった。時の流れは、否応なしに過ぎていく。この間までアゲハが飛び交い、スズメバチが場所取り争いしていた庭。今、動く物はと言えば風に吹かれる枯葉…。舞う雪…。賑やかに咲いていた花々は、今は山茶花だけがひっそりと。年の瀬といっても、なんか実感がわかない。少し土が欲しかったけども、庭はあんまり掘り返せない。何故なら、日当たりの良い場所の柔らかい土は冬眠には絶好の場所。やたらと掘り返すと、折角良い気持ちで眠ってるカエルやヘビに恨まれますからね。仕方が無いから、雨垂れにに濡れながら硬い所の土を掘り返した。植木鉢に入れて、水気を切ってから部屋に入れるとしよう。小さな苗用のポットを、庭の片隅で見つけた。こんな小さな中にも雑草は育つ。ちやほやされて育てられている綺麗な花より、ポットの中の野良で生えている小さな小さな花にはその意気を感じる水も肥料も…根を張るための土さえも殆どない環境で育ってる。このままではいつかは息絶えるのだろう。だけど…選ぶことも無く此処に生れて生きている。誰に認められることも無い一生。この花の一生は、人に植えられた花も同じ、宇宙の計算し尽くされた一部分かも知れない。ただ…人間の意を介さない処にこの意義らしきものを感じるのは何故…。さて…来年は!!!???!?
2013.12.30
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昨日は久しぶりに高速…冬の高速って、ホントはあんまり気が進まないけど、これだけはっていう出来事が発生。予報ではかなり雪が降るとかで、下道を行こうか迷ってたけど…。日頃の行いが善かったからか、雪なんて欠片も無い。だけども、途中からガスがかかって100km/hなんてとても出せない状態。工事で速度制限も。スピード感覚もかなり麻痺した状態で走ってた…かな。平均90km/hくらいで走ってたけども、メータを見なかったら、60km/hくらいの感覚しかないのが怖い。以前に160km/hほど出した事があるけど、あの時はもっと車高の高い車だったからそれほど速く走った感覚は無かった。高速を降りて一般道までの間…制限時速40km/h…。まるで歩いてる様な早さ。人間の感覚って、いい加減なものだって事かも知れない。時間も、或る人にとっては一瞬でももう一人の人には1時間…或いは1日。観念的な支配を受けると、日常がまるっきり変わってしまう。感覚って云うのは、補色効果を狙ったパックのデザインとか壁の色に影響されたり、料理なんかでは、出される料理の順番次第で受け取る味覚も臭覚も騙される。CDなんかでの曲の順番もそうだし、もっとおかしいのは…怪我した反対の手とか足に同等の刺激を与えると、その怪我の痛みが軽減されてしまう…っていうもの。実験でも(犬での実験)片方の前足に針を刺すと、痛そうな歩き方になる。で、もう一方にも針を刺すと、何事も無かったように歩き出す…。子供なんかは転んで泣いてても、お菓子で騙される。高い人…背の低い人から高い人を見れば高いのは物理的に当然だけどもも、威圧されててもそう見へてしまう。俗に言う気迫に押されて…とか。感覚…五感何ていうのは…この五感から得られた情報何ていうのは、絶対ではないし、情報を判断するのは自分の物差しだから、更に不確実なものになってしまう。あやふやなのは五感だけでなく、短くて不正確な自分の物差しで世間を量ろうとするから、フーコーの言うように不躾と無作法を天真爛漫…或いは個性のつもりでいる若者…大人が存在する。また、ルソーの言うように、何時でも何でも手に入れられるようにしてやる事が善い事とと錯覚してるから、子供たちを確実に不幸に導いて…いや、導いてると言うより、悪賢くずるい大人達によって、不幸の方へ追い立てられてる…追いやられてるのかも知れない。子供たちに何をするかによって、その社会のモラルを計ることができる…って、上手い事を言った人がいたけど、なるほどなァって思う。ただ…現象世界は計れても…心の世界には量れないもの、量ってはならないものが在る。笑い話…みたいな話に、橋の上から魚を見ていた二人の会話の中で、一人が魚の想いを話したら、もう一人が、お前に魚の気持ちが解るものかって言う。すると、じゃ、お前に何故、魚の気持ちが私には解らないって事が解るんだ…。自分の物差しで人の心を量るとこういう事になる。心の風景って…そういうものだと思う。観念的な世界…。子供が、・積もった雪にパラソルを立てて遊んでた。上に雪を放り投げて、落ちてくるのを見てキャッキャッ言ってはしゃいでる。どんな光景を心の内に描いてるんだろ…。もっともっと強く…もっともっと優しく…色んなものに触れられたら…守る事も育てる事も簡単なのになぁ優しさより強いものはなく、本物の強さより優しいものはない ラルフ・W・ソックマン
2013.02.03
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冬の陽だまり…あったかい…けど、知らずにいるといつの間にか陰になってたりする。陽は何時も休みなく東から西にと動いて一刻も同じ場所で照らしてくれてる事は無い。屋根に遮られたり雲に邪魔されたり…。常に当たっていたいと思ったら、陽のあたる場所に自分で行くしかない。言い換えると、自分で求めれば何時でも陽の恩恵は受けられる。太陽はあと50憶年くらいは何時でもいてくれるはず。好むと好まざるとに関わらず、夜も昼も…雨の日も吹雪の日も…。人間の高い文明自体が、賢く頑張ってもあと1万年そこそことすれば、人類、或いは生命体が滅んでもまだ太陽はある…はず。それまでに、太陽系の近くの超新星爆発とか極超新星によるガンマ線バースト…それらから生まれるブラックホールなんかで破壊されるかも。ビッグバンみたいな、一瞬よりもっと短い、時間とも言えない時間(一兆分の一秒の、そのまた一兆分の一秒だとか)で宇宙を作る様なエネルギーは無いけれど、いつかはそういうのと遭遇して破滅するか…メテオ(隕石)と衝突して破滅するか…。尤も、今の人類ではそれまでに自滅…かな。宇宙が崩壊したら…人の魂はどうなるのか…って云うのは答は出てる…公案で。私には難しすぎて…言葉でしか理解できてない。【まるっきり解ってないってこと】ディスカバリーチャンネル好いなァ。放っておいたら1日中でも観てる。雑誌はニュートンが好い。当然!!修羅の門、結界師、ベルセバブ、ハンターハンター…好いなァ。頭文字Dなんて…何回観ても飽きない。毎日体罰の話ばっかり…私もスポーツって云うのかな…やりましたよ。受け取り方次第で、柔道なら投げられて怪我したら、暴行??体罰??指導??剣道で竹刀で怪我させたら…指導範囲外??ボクシングで顔面が腫れたら暴行??空手で雪の中裸足で走らせて、凍傷になったら…??度を超えたら…って、どこまでが指導でどこまでが体罰なんだろ。きょう日のは、受け取り側、観てる側がが暴行と言えば暴行。道場とかジムで教えてても、あまりにも行儀のヨロシクない人がいれば…注意を無視する人がいれば…コツンとやられても、それは指導じゃないかと。それを…何でもかんでも体罰としてでしか受け止められない生徒がいたとしたら…それは親の躾の問題もあるかと。自殺まで追い込むのは、教える側の理解度不足。もっと理解してやらないとね。師のとった行動が、自分の為にしてくれた事か単に自分への攻撃かが解らないようであれば、それは育ち方にも問題があるかと。或る時隣の子にちょっかい出して殴った事がある(子供の時に)。その時師は…私を叩きましたよ。知らない人がそれを見たら、あっあれはしごきだ暴行だって騒ぐんでしょうね。叩かれても叩かれても…喧嘩とかちょっかいを止めなかったから、最後には板の間で正座させられて、しばらく歩けなかった。足が痛くて。その時期何回叩かれたか…今だったら、完全に毎日体罰でしょうね。でも、聞きわけの無い者には或る程度仕方ないのでは…と。師が次の日部屋で一言『どうや○○痛かったか…叩いたんやから痛かったやろな。』って。家でこの事を話したら…家でもまた殴られた…痛かった。ガキ大将だったけども、そういう指導が度重なったおかげで、叩かれたり騙されたりした人は痛いんだって事が少しは解る人間になったかもって今は思ってる。虐げと暴行は、人格までも歪めてしまうから絶対ダメだけども、指導で何かを求めるときの痛みなら…と。ここはこう、そこはこう…と竹刀とかで足や手を叩いて位置を直させるときもある。傍から見ただけでは判断できないのが体罰⇔指導。阿弥陀には隔つる心なけれども 蓋ある水に月は宿らじ…ってね蓮如上人ここでは阿弥陀を師に置き換えて、師は誰かれと分け隔てなく矯める心で指導してはいるけれど、心に蓋をしてしまった人には…その気持ちは受け入れてもらえない。私はやっぱり…古いのかなァ…
2013.02.01
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とうとう冬景色…って言っても、この間より少ない。今のうちに多少降らないと、良い『春』が来ないのは毎年恒例なんだけども。四駆に切り替えて…なんて言っても、大道に出れば何の事は無い。春を出迎えるのにはまだまだ足りない感じかな。下水道が完備したのはいいけども、以前の様に雪が溶かせない。以前は側溝に雪を集めておけば、風呂とか台所のお湯が流れて直ぐに溶けてしまう…って云う感じだったのに、最近はそういうのも少なくなって、天気のいい日にしか溶けない。二つ良い事は無いっていうことかな。側溝と言えば、家の近くの側溝には良い感じに落差の付いてる所が在って、上手い具合に囲まれてて…水琴窟の様な音が聴こえる。昔住んでた家の庭の隅にもかなり古いものがあった。子供の頃だから、それの良さもそれが何であるかも解らなかったけど、今にして思うと…先人の風流さっていうのかな、日本人にしか解らないであろう自然の楽しみ方の広さと奥深さが感じられます。水琴窟にはいろんなのが在るから…楽しみ方もいろいろ…かも。風流…言い回しまでいろいろありますよね…雪虫。蝉氷、淡雪とか木の目流し…風花…花冷え、花曇り。蝉時雨、青時雨…雨の月、おぼろ月…etc。俳句の季語には多いのかな。言葉は文化。日本には日本語でしか現わせないものがあり、外国にもその国の言葉でしか現わせないものがある。だから、訳さないでそのまま使う言葉も最近増えたし、新語も時代に応じて生まれてきている。それはそれで良いと思う。そうでなければ表現し切れないものもあるから当然かな。けど…言葉を疎かにしている…というか、意味もあやふやに使ってる場面をテレビなんかでも見かけるのには情けない。(私もかなりあやふやです)一般の人なら仕方ないかな…って思う事もあるけど、公共の場で、しゃべりを職業にしている人達、公の職業の人が堂々と使うのには…なんかなァ…。例えば、不惜身命という言葉を使いながら、あれやこれやと理屈をコネ回して逃げる…責任転嫁する。この言葉に但惜身命という言葉を対で使うともっと深い意味になる。(かなり前のブログで書いたと思う) 言葉を操るだけなら詐欺師でも出来ますよね。小さい子供も外国人も観ているテレビ。言葉と言う日本の文化を、大事に正確に伝えないとね。ヴォルテールの言葉を借りれば…言葉って、何かを正確に伝えるためにあるもの。人を幸せにするためにあるもの。自分を偽るために操るものじゃないから。新しいものを取り入れながらも、日本の風流さを、情緒を表現してほしいな…って感じた今日。
2013.01.26
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冬なのに…キラキラした銀世界ではなく、山も道もむき出しの姿で雨に打たれてた。寒そうではないけれど…いつもの冬の様なはっきりとした山と空の、白と青の境界線がない。ただ白く小雨にけむるだけ。今日はなんだか山が近くに感じた。気象が異常なら…世の中も異常。ただ仕事で外国に行って殺される…非戦闘員なんですよね。道を歩いてても家に居ても、他人にだけでなく身内にまで襲われ殺され火をつけられたり…。学校ではいじめとか行き過ぎの体罰で自殺にまで追い込まれ…校長は加害者をかばう始末。釈迦の言う末法の世は何処まで続くんだろ。何かと言うと加害者の事を、『将来ある…』っていうけれど、以前ドラマの中でこんなセリフが在りましたよね『いきなり何もしてない人を突き落とすような若者を、ここじゃ「未来ある若者」なんて言わねぇんだよ!』って。私も同感。大抵の事件では加害者の人権ばっかり言ってて、被害者の人権、被害者の将来を何にも言ってない。死んでしまったから…?それはおかしい。直接間接問わず、人を死に追いやったりそこまでいかなくても不幸にしたら、その罪は償わせなくてはいけない。『悪を罰しないものは、悪を行えと言っているのだ』とダ・ヴィンチの言葉にもあるんだから。今日も裁判があった。25年求刑…少ない。刑罰はどんなに重くても良いと思う。自分のしたことを思えば、どんな刑を言いわたされても仕方ないと思う。その代り、良い事をした者への賞はもっと多く大きくするべきじゃないのかな。日本人は褒めるのが下手だ。ただ…体罰は全て悪とは言えない。良かれと思ってさせる難行苦行にも痛みはある。それでも身体の苦痛はいつかは消える。それより、体罰からくる精神的な痛みをもっと考えてやるべきじゃないのかな、大人なら…教える側なら。心の痛み、傷は消えない。癒えるのと消えるのとは別物だから。叱っても叩いても、そこに愛情が無い限り単なる暴力になってしまう。今日も一日が過ぎてゆく…。だらだらと坂を転げ落とそうになったり坂の登り口で佇んでみたり。此処だけの平和…そんなもの平和と呼べない。呼びたくない。行政の不備と片手落ちで、介護とか貧困で死ぬ様な思いをしている人たちが沢山いる。暴力で不幸にされてる人達もいる。…心が遠く離れて歪んでるのかなァ人間的に…我々も含めて。靄に包まれても山はそこに在る様に、見えないからと言って、世の中まるくいってる様な錯覚起こしてる政治屋さん達…もう少し自国の事にも目覚めてほしい。人のやる事だから完璧じゃない。今日完璧でも、あしたもっといい方法が見つかれば変えていかなければ。今日の結果は今日の自分から出た答え。明日は明日の自分からもっと良い答えが出せるはず。
2013.01.22
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カウンターで仕事をしている人の此処だけの話し。セールの時期には困った人がかなりいるらしい。その中で、大量に安売り用商品を個別に全部梱包してくれ…と、カウンターの上に並べる人もいるとか。セール品の中には、セール用とかキズものハネ物…在庫一掃商品もある。贈答品用の梱包なんて問題外ってものも中にはある。それを贈り物、引き出物にするとかで、そこの(デパートの)包装紙とか梱包の箱なんかが欲しいんだろうって。お買い得商品なら、包装、梱包も当然だし、元々箱があったりそのメーカーの箱が在ればいいんだけど、○○製のセール用の安物ばかりだと…。常識で考えれば恥ずかしいんですけどね。そういう人に限って良い身なりの人がいるとか。何考えてるんだろうって言うのがカウンターのウチワの話し。或る人の話の中で、包装紙に誤魔化されてはいけない…って言う様な言葉があった。ここで言う包装紙と中身は不完全なものと完全な物って話で、中身を視なさいって事なんだけど。包装紙…人で言うと服装とか言葉、職業、住まい…etc。何処まで行っても不完全な物。人は本来個々に完全なモノ。外見と中身はまるっきり違うっていうのが実感。確かに、見た目そのまんまって言う人も中にはいるけど、大抵違う。五感だけでは本当の姿は見えてこないから、人間関係で失敗するんだと思う。心の目と智恵を働かせないと…。世の中色んな法則で成り立ってるけど、人の心の法則って云うものを推し量る事なく行動すれば、それが一つの非常識…かもって思う。知ってる人の非常識とか、知らない人の非常識っていうのじゃなくて、法則から外れたモノが非常識…!?目の前に居る人…誰かの友達に違いない。誰かの掛け替えの無い人に違いない。自分の掛け替えの無い人…友達を大事に思うなら、知らない誰かも今目の前に居る人を大事に思ってるし皆に大事にしてほしいと思ってる。其々の人を皆が思う…思いやる。それが大事。人は何処かで皆繋がってる…皆友達。『我々は自分の友人に対しては、 自分に対してやってもらいたいように、振る舞うべきである。』 アリストテレス
2013.01.17
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去年に続いて、今年また大事な人を失った。朝早くから携帯が鳴った。その時、私は夢の中で携帯の鳴るのを聞いていた。以前、夢の中で遠くに行った事があったけど、何故かその時の出口が今日の夢の中で出てきて、そこで携帯の鳴るのに気がついた。現実と夢が、最後の所で同時進行してた様な…。今思うと、その光景は彼が以前話してくれてた彼の人生の一場面だったのかも知れない。田舎と都会で苦労して技術を磨いて、地位も力も持ってた彼が…逝ってしまった。私は彼に、言葉では語り尽くせない恩がある。私には絶対勝てない人望と風格があった彼…いよいよ人生を卒業されて次の段階に進んだんだろう。良い人はんどん行ってしまうなぁ…卒業して。卒業と言えば、成人式がありましたよね。成人という意味なんか知らなくても…無難にいれば卒業できる学校と同じで、ところてん式に社会人として押し出されてしまう人もいると思う。ウエブ検索すると、かなりの愚問珍問(?)で一杯の質問コーナー。大人が必ずしも善いとは思わないけど…だからこそここらでそういう大人に、若い人からシッカリした手本を見せてほしいんですよ。可能性が一杯在るんだから。柔らかい…既存の観念に囚われない自由な発想が出来るんだから…。先の事なんか判らないから…なんて逃げる人もいるけど、そうではないと思う。『おまえがいつの日か出会う災いは、おまえがおろそかにしたある時間の罰だ。』と、ナポレオンが言うように、いずれ出会う人生は、良くも悪しきも今の自分の足元に在るものの結果、答。私もこの歳になって初めて…ほんの少し…解った様な…。(遅かった)柔らかくても…自分を見失っては何にもならない。「花は自分の隣に、どんなきれいな花が咲こうとも妬まない、姿を変えない」って言葉がある様に、妬まず羨まず…。世の中に、いろんな形といろんな色、いろんな思考が無数にあるのは、そのどれもがお互いを構成するのに必要不可欠なものだからだと思う。自分を生かす事が出来れば、妬む事も羨む事もないどころか自信さえ出てくる…かも。此処に書いていることは…その日の自分への贈る言葉。自分が自分であるための反省と教訓。今日も…少し彼に近づけたんだろうか……安らかに…
2013.01.15
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エホバの勧誘が来た。あの人たちはノルマでもあるんだろうか。例の如く…神を信じますか…から始まってどう生きたらいいのかっていう話。人がどう生きようと勝手でしょって言いたいけども…。神を信じれば、神は進むべき道をお示しになり…導いてくださる…ってね。じゃ、信じない者は救ってくれない? 信じれば道標だけでなくどの道をどう行ったら良いのかまで教えてくれる??死ぬまでそんなんでいいんだろうか…手とり足とりで。剣心との戦いの中…自分の生き方を見失った宗次郎に、剣心は答を教えてやらなかった。答はこれからの人生の中で見つけるものだ…として。何が正しいのか何が間違っているのか…自分の歩いてきた人生を見つめ直せるものにしか…本人にしか判らない。宗教家が、こうしなさいああしなさいって…それが絶対的正義、絶対的正解、そこにしか答えが無いように言う事がある。けど、それは単なる道しるべ。絶対この道を行かないとろくな事にならないなんて誰にも言えないと思うし、間違わなければ学ばれないこともある。全ての道はローマに通ず…ってよく言うけれど、人によっては遠回りする人もいるし(気付かずに)疲れて立ち止まる人もいる。逆戻りする人もいる。それでも…もがき苦しみながらでも自分の道を見つけて進む。自分の足で歩ける道を進む。教えられた道を進むのも良いけれど、それは自分に合ってるんだろうか。自分で切り開いた道を『進む』のが本当の意味の答えかも知れない。川の様にいつしか大海に出るのであれば、何処をどう流れようと、溜まって澱んでしまわない限り一つの人生の在り方じゃないのかな。宗教なんて、方向を示すだけで十分。手とり足とり…金を取りでは話にならない。神がいるのであれば…努力するものを見守ってくれているのが神だと思う。私はアニメ大好き人間だから、明けても暮れてもアニメ三昧。アニメの世界には色んな神が出てくる。奇跡を起こしたり悪を懲らしめたりするけれど、私に言わせれば難しい環境を乗り越えて生きてる方が奇跡です。答は…生きてる中に在るのか、答の中で生かされているのか…。 明日死ぬがごとく生き、永遠に生きるがごとく学べ マハトマ・ガンジー
2013.01.10
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新年会…なんでこうも話の解らない者が集まるんだろ。話をまるっきり聞く事をしないで、中途半端な推量で物事を決めようとする。話が真っ二つに割れたので、会はお流れ…淋しい。少しの情報で解ったような顔して批評する。本でも映画でも、まして人ともなれば、一部だけを見て批評するものではないと思う。人によっては、本の表紙だけ見てとやかく言う人もいるけれど、それは自分がその表紙と同じくらい薄っぺらい人生を送っている事を説明しているのと変わりないのが解ってないのかな。人生も人そのものもそうだ。最後まで…全部見ないと解らない事ばかりで出来ている。そのどの一片をとっても、長い人生を構成するための一瞬間。身体に例えると、一つ一つの細胞の様なものだと思う。以前のブログの中で、自分自身に言い聞かせた言葉が一杯あるけれど、その一つに。『その一瞬一瞬は次に来る一瞬の為のプロローグだし、それもまた次に来るはずであろう一瞬の為のプロローグにすぎない』っていうのがあったと思う。一つ一つは次元の無い『点』にしか過ぎないのに、一部を見て批評するなどは、その『点』をみて全体を推し量るのと同じだと思う。点は無限の軌道を描いて線になるし、その軌道は無限に移動して『面』になる。その『面』も千変万化し移動して立体になる。点だけ見て推し量るのは、砂一粒を以って地球を論ずるのと同じくらい…地球上の論理だけで宇宙を推し量るくらい…それ以上に無茶な論法だと思う。確かに推し量るという作業は大事だし、それが無ければ進歩は無い。けれど、それも自分の知識と経験の範囲からはなかなか抜け出せない。部分だけで批評するなんて…自分の器の小ささを他に推し量らせるだけの材料にしかならないと思う。昔から、偉人、賢人は、人の言う事に口を挟まない。最後まで黙って聞く事で、情報を出来るだけ多く取り入れて、それから判断をした。全部聞くだけの度量が無ければそうもいかないが、少しでも正確な判断をしようとすれば、より多くの情報が必要だと思う。尤も、情報に振り回されるようならそれも出来ないだろうが。此処で一番大事な事は、もし相手が自分より少しでもより正いものに近いと判断したら…それを認める事だ。近づき過ぎても全体が見えない…。かと言って離れ過ぎれば個々を判断できない。対象から離れず付かず…一番の答は中から感じ取る事かも。唯物論では…正解は無理かな。仏教でいう理解…悟り的な感覚が欲しいです。
2013.01.07
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なんか冬らしくない冬…雪解けの様な山を見ていると、なんか早めに植物の芽が出てしまいそうな感じがしてくる。現に、この間の温かさで蕗の薹が少し見え隠れしていた。今は雪の下になって、もうひと眠り…なんて言ってるのかも知れないが。或る程度の寒さがないと、春に芽が出ないものもある。例えば蔓人参。私は採ってきた種を野菜ボックスで冷やしておいたから、去年はこれでもかというほど発芽したけど、それを知らずに春先蒔いた人の中には大失敗した人も多い。植物に限らず、人にも同じことが言えるのかも。過保護すぎるほど大事にしてないとダメになってしまうもの。寒い中で雪の下になっていないと芽を出せないもの。一年中、何時蒔いても我が物顔で大きく育つもの…。……ホントに人と似ている。そのどれもが其々の味を持って育っていくんだから、どれが良いとも…こうでなくてはいけないとも言えない。土壌さえシッカリ作っておけば、あとは其々の生き方は自分で見つける…というよりシッカリと自覚してると思う。一から十まで見てる訳にもいかないんだから、程々に手をかけ、程々に生き方は任せる…人も植物も、これが一番。私には、野原を駆け回った時期もあった。ガキ大将で近所の顰蹙をかった時期もあった。それでも、今年の冬みたいな中途半端はなかったと思う。思いっきり駆け回ったし、思いっきり悪さもしたし…。私は…あんまり手をかけない方が育つ種類かも知れない。型にはまった四角いスイカ。型で育てられた四角い竹…赤い遮光板で育てられた黒い植物。編み込んで育てられた南天…。見た目は良いけど…変わってて楽しいかも知れないけど…もしそれが人間だったらって思うとゾッとする。自分の思惑で相手を変えるな…と、言いたい。持ち味を存分に発揮する人間は扱いにくいけど、盆栽の様な形だけの人間は役に立たない。今年の冬…こんなのもアリかなって思ってるのが良いのかも。その時々に合わせた生き方も面白いのかも。色んな冬があって…色んな春が来る。色んな風が吹く…色んなものが飛んでくる…。(殆ど落ち葉…たまに花びら。時に万札…は無いか)
2013.01.06
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今年は巳年…。『戌亥の借金 辰巳で返せ』なんて言う言葉があるというけど、去年は何なんだろね…福沢さんは出張だし他の人も忙しいらしくて寄り付きもしない。今年は去年の倍返し…なんて思うのは甘いかな。まァ…今年こそはなんて言わずに、毎日コツコツ地道にやるのが一番かも知れないな。去年は、心の友というか安らぎの場というか、ソアーベの創立者を失ってしまったけど、人生何事もプラスマイナスゼロ。何事も受け取り方次第で、人生プラスばっかりになるかマイナスばっかりになるか…。暇も忙しさも、その人に必要だから在るモノだと思う。時間のある時にしかやれないモノ。忙しさの中だから工夫できるもの…在るものを、現実をどう使いこなすかが次に来る瞬間を幸せに過ごせる為のカギになるかも。誰かが言ってたなァ…『過去の何処かで、大事にした時間。過去の何処かで疎かにした時間。その結果が今である』
2013.01.05
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もう9月といっても、生活が一変するわけじゃないけど。今年は‥とくに8月は、少し裏山を散策して、いろんな事を経験する事が出来た。。最大の収穫は山菜とか知識じゃなくて、いろんな人と出会った事‥憩いの時間を共有出来る様になったこと。歩くという事は、場所を移動するための一番の基本だけど、走るよりも遅いし、車とか電車、飛行機なんかと比べたら問題外。重い荷物をもってたら尚更の事。だけど‥前にこんな光景を見た事がある。重く嵩張る荷物を目の前にして、駅で途方にくれてる人を。人って、自分以外の力も自分の物だと過信してしまうことがある。車も何も無い所に行った時、初めてその事に気がつく。それでもまだ自分の力では持てないモノを手放せなくて・・自滅してしまう。自分で、自分の歩ける道を歩くって‥大事なことじゃないかな。自分で持てるだけの物を持って。まだまだ高い山には登れない。けど、人生と同じで、楽しくないと意味が無い。人生は、富豪になるのが目的じゃないんだから・・幸せになるのが目的なんだから‥。今歩いてる道・・。今は私に似合ってるかも。・・と言う事で、少し自分発見の8月でした。
2011.09.02
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朝早くから響く蝉の鳴き声…。昔の梅雨は、しとしとと降りつづく雨…。垣根越しにのぞく紫陽花の葉に群れるかたつむり…と、情緒って言うものがあったのに…。きょう日の梅雨はなんか変。叩きつけるように降ったかと思うと、夏を思わせるような陽射し…今の世の中を象徴しているような変な空模様。ストーカー…逆恨み…いろんな事件、犯罪が後を絶たない。そのうえ警察の行動は、制約があるとは言へ後手に回ってるのは否めないのが現実。警察内部の収支が着かないからか、公官庁内でも犯罪者は出没するからか…。処分は民間と同じ…と思っていたら、なんか諭旨退職とか依願退職が多いのは合点がいかない。税金で退職金が支払われてる以上、経費節約、無駄遣いをしないと言うなら、一般と同じ懲戒解雇にしてほしいものだと思うのは私だけ?そういう事ばかりやってるから、真面目(?)にやってる他の職員の方々にまで冷たい視線を浴びせかねないですよ。つくづく私も了見の狭い人間だなァ…って考えさせられる事に関しては、感謝してますけどね。この頃の犯罪…警察なんかに任せておけないのなら、個々に考えないといけない事が在る。それは、何時自分が被害者になるかも知れないという考え方。これを、日本人はなんか軽視している。まさか自分だけは…っていう考え方から始まって、触らぬ神に祟り無し…に終わる。まるで別世界の出来事のように思ってるから心に隙が出来てしまう。全ての物事は、全ての人に平等に降り注ぐ…良い事も悪い事も。ただ一つ平等でない事は、どう思い、どう受け取るかだけ。自分だけは安全とか、逆に被害妄想に走る考え方は修正しないと…。もう一つは、いつ自分も加害者になるか知れないという事。これが最も大事な事だと思う。まさか自分は…なんて思ってる人、普通の人が犯罪を犯してしまう現実。誰も初めからそうしようと思ってる訳ではない。誰しも、普通の幸せを願い思ってた筈なのに…。ただ仲良くしたかっただけなのに…。ただ好く思われたかっただけなのに…。私にはこういう思いが一度も無かったと言うと嘘になるし、大抵の人が経験してる事だと思う。この思いどう伝えたらいいんだろ…なんて考えて、眠れなかった事もありますよ。辛くて、ホントに何も喉を通らなかった事もあります。今ならダイエットに最適かも知れないですけどね。けど…どんなに強い思いでも、それは自分の問題。決して人に押し付けるべきものじゃないと思う。なんでこんな思いつめる事になるんだろ…って思った事もありますよ。その度に、誰かに迷惑かけたんだろうな…って、後悔も反省もしています。煩悩の在る状態…。これって人間本来の自然な姿なんだと思う。何かが欲しい…。何かをしたい…。こういう欲望が無かったら、私なんかは正に生きた屍…そう思ってしまう。けど…釈尊の言葉にこういうのが在る。「私にも感受性はある。美しい花を観れば美しいと思い、足にとげが刺されば痛さに顔をしかめる。悟った者と言えども、生身の肉体を持った人間にちがいはないのだ。だが、私と、まだ悟りを得ていない者との差は、第二の矢を受けない事にある……」美しい…とか痛い…とかいう感情。これは第一の矢で射られた時感じるもの。この後で、悟っていない我々はモタモタしているから、第二の矢で射られて致命傷を受けてしまう。止めを刺されてしまう。美しいものを観て自分の物にしたいと思ったり、痛さを感じて後、怒りを感じたり……これが第二の矢…らしい。前のブログで書いた、「わび」とか「さび」にも通ずるものが在る。綺麗なもの、可愛いもの見たら、純粋に綺麗だなァ…可愛いなァ…それでいいと思う。気持ちを押し付けるのでもなく我慢するのでもなく、自分の心の中で素直に思う事で、思いつめてストーカーに走ったり逆恨みする行為には繋がらないと思う。そういう素直な心で居られる人だけが、人に押し付ける事なく、人から好かれるんじゃないのかな。桃李もの言はざれども下自ずから道を成すの例え。そういう雰囲気は必ず現れますからね。誰しも、被害者になると同時に加害者にもなれる。どちらにもなりたくなければ、心を自由にする事で素早く第二の矢をかわす事が出来るし、自由に、素直にしていれば自然に桃とか李という自分を導いてくれるものを見分けられる様になるはず。あの頃…こういう気持ちで居られたなら…あんな辛い目には遭わなかったんだろうなァ…。今は…少しは自由ですよ。美化することもなく、そのままの姿をそのままに観る努力してますよ。美化する事は、相手にとって失礼だと思う。そのまんまで受け入れる事が出来ないっていう事になるし、別の面を認められなくなる。美化する事によって、余計な思い入れが強くなってしまって、本当の姿を見失う。ストーカーなどというのは、相手も自分も見失う所から始まる。犯罪全てがそうである様に。心は直ぐに凝る。肩が凝るよりはるかに性質が悪い。肩は人に解してもらう事も出来るけれども、心の凝りは…自分自身でしか解せない。
2009.08.06
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7月7日は二十四節気の一つ「小暑」本格的な夏到来。暦の上での話。暑中見舞い出さないと…勿論出しますよ。ハガキは出さないけど、アドレスの解ってる人にメールで。なかなか逢えない人…大切な人…世話になった人…そういう人にだけですが。……………ホントに事件が多くて、テレビで知る度に手を合わせる毎日になってしまってる。(こんなこと言ってても、私は宗教家ではないですよ)何なんだろ…この現象。そういう人たちが口をそろえて言う言葉。誰でもいい…殺したかった。世の中…或いは人に冷たくされたから…いじめられたから…構ってくれなかったから…etc。殆どすべてが人のせいにしてる。以前…体罰って言う言葉が蔓延した事がある。確かに、先生方が悪かった場合もあるだろうけど、叱るという行為に対して全て先生方の責任って事にして、我が子をかばうと言うか溺愛する親が続出した時期があった。(今もその傾向はあるけど)そういう育てられ方をした子供は、何かしても誰かがかばってくれる…相手のせいにすれば自分は無罪放免っていう考え方に慣れ親しんでしまって、そのまんま大人になってしまったかの様な…。自分で考えるっていう事を止めてしまって、何かをされたら、なんで自分はそうされたのか…とか、これをしたらどうなるか…とかいう事を考える思考回路が、子供の頃に除去されて、代わりに埋め込まれたのが責任転嫁、要領の良さ。ユダヤの格言にこんなのがある。人が転べば坂のせいにする。坂が無ければ石のせいにする。石が無ければ靴のせいにする。人はなかなか自分のせいにしない…と。責任転嫁は人の常…。けど、転んだ原因には自分も関わっている事に気がつかないと、いつまで経っても転ぶことになる。わざわざ坂を登ろうとしたのは自分の意思。石に躓くのは自分の不注意。合わない靴…壊れた靴を履いたのは誰…?ってことになる。所謂自業自得。…あ…自業自得って言っても、本来の意味はここで使ったようなものだけじゃない。良い事も悪い事も、全て自分のところにはね返って来るという意。釈尊が…「湖に石をいれて、それが浮くように皆で祈ったとする。石は浮かぶだろうか」と、問いかけたら、人々は「勿論浮くわけがありません」と答えた。「では、油を湖に投げ込み、油よ沈めと祈ったら?」「沈むはずがありません」という答えが返ってきた。釈尊…「一生悪い事ばかりしてきた者は、いくら祈ってやっても浄土には行けないし、逆に善行を重ねた人を、皆で地獄に落とそうと呪っても、地獄に落ちることはないのだ」…というのが本来の意味らしい。尤も、一生悪い事ばかり…でなければそうはならない…と信じたい。そうでなければ…私も救われないから。これに似た言葉で、因果応報っていうのがある。いろんなサイトでいろんな意見がありますよ。それらに振り回されないでおこうと思うと、かなり努力が必要ですね。因果応報…善因楽果悪因苦果っていうことらしいです。確かにそうですよね…親切にすれば喜ばれるし、自分自身も気持ち良くなれる。けど、叩けば…叩き返されるか恨まれるか…。良い種も悪い種も…刈るのは自分。今から良い種を蒔いたら…私でも良い収穫出来ますかね…神様
2009.07.07
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もう5月も終わりに近い。周りの色も、なんか梅雨に近い色になってきて・・それなのに・・車の中はムンムン。エアコン・・は、少しもったいないかな。窓を開ければなんとか凌げる。それももうしばらくの事だとは思うけど。テレビ(ケーブル)で、BALTOを偶然観る機会があった。実話で、その犬の像もちゃんと在る。今の世の中・・キャリァーとか血統がまかり通ってるけど、物事を成し遂げるのにはそんなもの何の役にも立たないって言う事。必要なのは名誉もなにも関係なくて、ただやり遂げなくてはならないっていう責任感・・思いだけ。昔・・そういえば犬そりのレースの映画があったけども・・そのレースは、このバルトの勇気と精神とを称えてのレースだとか。・・・・・私もなんのキャリァーも無いし、血統も・・けど、それでも勇気を与えてくれる物語。機会があったら観てほしいです。この間・・というか少し前、車の中でラジオを聴いてたら、「父親も子育てに参加・・」っていうのがあった。大変良い事だとは思うけど、そんなのは昔から在ったんじゃないか・・っていう疑問が出てきた。子供を育てるのに、今の父親は参加してない?そうこう思いながら聴いてたら・・母親と協力して、子供を風呂に入れたりオムツを替えたり・・etc???じゃ・・父親のいない子供は育たないのかってことになるし、父親だけの子供は今までどうして生き延びたかって事になる。それに ・・なんか育てるって意味を履き違えてるんじゃないかって思う。無事に大きく・・確かにそうだけども、・・度々見かけたり、耳に入ってくる光景・・化粧品売り場で、子供が商品に触ったり汚したりしていても、何にも言わない母親。パン売り場とか総菜売り場で、子供が突いていても一言も注意しないどころか、旦那とああだこうだと言い合ってる母親。子供が公共の場所で大きな声で騒いだり走り回ってても・・ソファーの上を土足で歩いていても、自分は雑誌に夢中・・携帯に夢中の母親。挙句は・・普通は、汚れては困る商品売り場には食べ物を持ち込まないというのが常識・・である筈なのに、子供が食べた後のゴミを、ゴミ箱が無いからと言って、商品の陰に隠す母親。或いは従業員に捨てるようにと持ってくる母親。育てるという事が、単に大きくするという事だけならこういう母親だけでも十分だし、旦那の出てくる幕はない。オムツを替えたり食事をさせたりするだけなら、親でなくても出来る。私が以前、あるメーカーの募集に、私の父親・・というので応募したことがある。「・・・・私の父親は、ある時は周囲から家族を守ってくれる強い兵士でした。また或る時は、私が好きだからと、自分の分までくれた事もある優しい人。中学の頃コルホーズについて口論して、私には足元にも及ばないことを思い知らされた教師。ある時は・・悪さをしたからと、雪の積もった庭に窓から放り出した厳しい師匠。あ或る時は、工作を手伝ってくれた友達・・・・」確かこういう内容の文でしたが、父親っていうのは、母親と同じことをしていたのでは全て負けますよ。それくらい、母親とは尊いもの・・の筈なんですよ。父親の子育ては、母親と同じことをするもんじゃない・・と、私は思う。母親にしか出来ない事があるように、父親にしか出来ない事もあるんです。当然、夫婦が協力してやらなければ・・角突き合わせていたのでは、良い子育ては出来ないんですけどね。前のブログにも書いたけど、子育てって・・大木を育てるのと同じ。オムツを替えるように、下刈りもしないといけない。落ち葉も掃除しないといけない。食べさせるのと同じ、肥料もやらないといけない。そのうえで、枝打ちもしないといけない、それも早め早めに。押さえつけてはいけない。形を整えすぎると勢いが無くなってしまう。・・・・・父親も子育てに参加する事に異義はないけど、その意味をはっきりと自覚しないといけない。・・・・・・親が無くても子は育つ・・って言うけど、有っても無くても、育ちます。みんながその意味を十分に理解していたら・・。先に言ったような母親は母親の役割を果たせない。母親と同じことをする父親は、父親としての役割を果たせない。・・・・それらを理解して、其々の役割を曲がりなりにも果たしていたら、多少は犯罪の低年齢化も防げるかも・・。そのうえで、自分の時間・・余暇を楽しむのは良い事だし大事なことだと思う。母親も父親も、親であると同時に一人の人間。女性であり男性でもあるんだから。・・・・・・久しぶりに、なんか・・言いたい事を言ったら、少しスッキリした・・かな。独りよがり・・なんでしょうが。・・・・・・・私も・・もう少し育っていたら・・って思うきょうこの頃
2009.05.25
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この間の15日日曜日。天気も良いし・・って事で、ちょっと海まで。北陸の冬の海っていうのは暗いイメージがあるけど、これだけ天気が良くて暖かいと、やっぱり海っていう感じが強い。それに、越前海岸、若狭・・やっぱり関西の奥座敷。冬でも食べに来ている人の車を見る事ができる。暖冬の影響かな・・海が穏やか過ぎて、冬の荒々しさを少しばかり期待していたけど・・ま・・いいか。帰りに、一度も行った事がなかった『ん』に行った。聞いた事はあるけど、行くのは初めて。喫茶・・?レストラン・・?どっちなんだろ。こじんまりした、落ち着ける感じが気に入った。・・・なんか書いてある・・・堅い茶碗と茶碗がぶつかれば・・・そう、どっちかが欠けるか、両方欠ける。暫く読んでて、確かに柔らかければ傷つかないなァって思った。ただ・・柔らかくなるということは、我慢する事ではないと思う。叩かれた時、『なんで叩くんですか・・痛いじゃないですか。痛いのは我慢しますよ。けど・・なんで?』こうやって頭で物事を捉えてしまうと我慢はしていても腹が立つ。仕事が終わって帰ってきても、まだ食事の準備が出来ていない。『何でだよ・・仕事して疲れて帰ってきたのに飯もまだ出来ていないのか』って思いつつも出来ていないから仕方なく、ブツブツいいながらも我慢する。TVを見たり、他の事で気を紛らす。こういうのは柔らかいとは言わない。この時点で心は傷だらけ。何かの拍子に、この鬱憤が爆発するから、衝突の衝撃波に襲われるのが早いか遅いかだけのはなし。本を読んでたらこういうことが書いてあった。日本文化には、『わび』とか『さび』とかいう素晴らしい心の世界を表現した言葉がある。淋しい時、それを我慢したり何かで紛らわしたりするのではなくて、淋しいままに静かに居る。これをさびというらしい。わびしい時はわびしいままにいる。これがわび茶のわびの精神だとか。こういう素晴らしいものがあるのに、今の日本人は何故か頭で受け止めてしまう。悲しい時は悲しいままに声をあげて泣き、嬉しい時は身体中で笑う。この、在るがままの精神を大忍と言うとか。我慢は、忍・・しのぶだけで苦しさしか残らない。挙句の果てにビッグバン並みの爆発をおこし、自分だけではなく周りの人までも傷付けてしまう。例え人に馬鹿と言われようと、その不愉快さ、ムカツキを頭にまで上げて、考えに移して怒りというものにしない限り・・それはムカツキのままで消滅してしまう。怒りになってしまうと、我慢と言うものをしなければならないし、それが所謂ストレスの原因。俗に言う頭に来た・・というのも、この大忍の枠からはみ出して衝撃を頭にまで伝えてしまった時の言葉だと思う。気は長く心は丸く腹立てず口慎めば命ながらむ・・って言う言葉が在るけど、これも私なりには我慢するって言う事ではなくて、大忍の意だと思う。とかく理詰めでものを考える、受け止める。たかだか1400gそこそこの脳だけで考えるからストレスも溜まる。口論も日常茶飯事で、テレビでは毎日のように事件事故のニュース。ことこれが国家の問題となると、戦争と言う名に変る。主張も議論も大いに賛成。脳をフルに活用してもらって結構だとは思うけど、脳を介した言葉ではなくて、心を介した言葉がほしいと思ったひと時。そのあと、偶然にもすぐ側の公民館で、地区の華展があるということで見学。やはり立華は好いですよ。砂物も良かった。素直に堪能させてもらいました。素直に受け止められた事、これも大忍・・?今ははなんか寒いです。心も風邪引かないように・・温かく・・温かく・・我慢は、押さえ込むだけで解決にはならない。我慢の元を作らない・・鈍いのがいい。
2009.02.17
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きょうは吹雪くし寒いし・・それでもちょっと出かけてベルまで・・と、思いつつその前にシピィによった。この前頼んでおいた物が入ったとの事で。で・・行って良かった。2階に上がると、ホールで何かやっている。保育園とか幼稚園児の作品展だった。三歳児から幼稚園児までの、いろんな作品が並んでる・私も今、ワイヤーでもの作りを楽しんでいるので、作る楽しみというものは解ってるつもり。子供って、とんでもなく自由なんですよ。型にはまってる子も中にはいるけど、大抵は・・何!?これ・・って言うくらい自由。見ていて羨ましい感じでした。中には、これなら部屋に飾ってもいいって思うくらいのものとかあるんですよ。只・・悲しいかな大人としてのプライドが邪魔してるからそれが言えない。色も形も、配置、バランス・・子供って良いですね。なんであそこまで自由になれるんだろ。見ていて教えられる事ばかりでした。こういう子供達が、いつしかいじめとか非行に走る。これってなんか、とんでもなくおかしい気がする。子供達の世界を垣間見て思うことは、限りなく自由だって事。それに制限を加えたり歪めたりするのは、本当は導くはずの大人達。自分の都合だけで子供の世界を制限してしまう。今から伸びようとする草木でも、型にはめられたり押さえつけられたら、本来の姿とは程遠いものになってしまう。色付きのガラスやセロファンで囲えば、色まで違った植物が育つ。子供も同じ。大きく、自由で個性ある人に育てたかったら、きょう私が見たような世界を時々でも見て、学ぶ事が大事だと思う。子供自信、教える事よりも先ず習う事を優先にしている。大人も押し付けの教育で満足してないで、自分も子供の頃にもう一度戻ってみるのがいいのかも。お母さん、教えていらっしゃるあなたがまっすぐ歩いてください。そうしたらあなたを見てそうなりたいと思うでしょう。これはイソップの言葉。口を酸っぱくして言うよりも、子供は素直ですよ・・見て学びます。もう一つ気が付いたことがある。子供の名前。最近はかなり変ってきている。もし、きょうの名前が漢字で書いてあったなら、多分殆ど読めなかったかも知れないくらい。・・・親の気持ち・・解るんですけど・・ねェ。ここで名前は書けないけど、想像もしてないくらいの変化です。羨ましいくらいカッコ良いのもあれば、少し同情するのもありますね。例えば仮名ですが、はやしだ れおって言うのがあったとします。間隔を、はやし だれおって書くと名前はだれお。こんなのもいじめに繋がりかねない。実際、もっと深く考えないと子供は苦労するかも知れないのがありましたよ。ほのぼのとした空間・・時の流れの中で考えさせられました。こんな言葉がありますね。いくつになっても解らないのが人生というものである。解らない人生を解ったようなつもりで歩むほど危険な事は無い。松下幸之助さんの言葉ですが、そう思います。解ったつもりでいても子供に接してみると、なんか自分の居る所って作り物って諭される。理屈をこねくり回して解ったふりをして、手垢だらけの論理で子供を育もうなんて、おこがましいのにも程がある・・って思い知らされた一日。人と接するのにも、同じ道理が成り立つと思う。人生・・解ったと思った時は多分、出発点にやっと辿り付いたとき。小手先だけの・・頭だけの人生は疲れますよ。余計な手間隙かけて疲れ果てるより、子供のような心でいた方が幸せかも。
2009.01.24
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今年も早始まって半月が経った。雪も、何となく冬タイヤが役立ってるくらいの降り。やっぱり冬と言うからにはこれくらいはあってもいいのかな。世紀、一年、一月、一日、時間・・・。区切りの単位だけど、その他にも区切りは在る。誕生日、とか入学、入社・・・etc。人間はこういう区切りをつけているけど、自然界は常に変化してはいるものの、過去と今、そして未来・・。在るがまま。けど、人間生きていくのにはなんか区切りがないとダラダラと・・。私もいろんな区切りを付けてきたけど、『なんだ、そんなことにまで・・』って言う人もいる。些細な事でも変化は変化だし、そういう些細な事を疎かにしていると、そのうち慌てなくてはならない事が多い。人それぞれ・・。・いろんな出来事の度に変化していく自分を応援したり褒める事が出来たら、人にどう言われようと思われようとそれを一つの区切りにしていけば、自信ももてるし次への励みにもなってくる。子供の頃、将棋なんかでよくマッタをしていた頃があったけど、ある日突然マッタをしなくなった。そしたら、物凄く褒められた事がある。それからマッタはしなくなった。絶対に。それで負けてもマッタはしない・・そういう区切りを付けてから、相手は増えるし教えてもくれる。第一に物事をよく考えるようになった。あの時区切りを着けなかったら・・今でも言い訳ばっかりしているんだろね・・キット。友達とでも、親子でも、会社でも、仕事でも勉強でも・・ちょっとでも良く出来たなら、そこで今までの自分と区切る事が大事なんだろうな・・って思う。些細な事・・って、自分で判断する事じゃないし、人から言われる事でもないと思う。今の自分から子供の頃の自分を見たとき。反対に、子供の頃の自分に返って今の自分を見たとき・・どう思うんだろ。子供の頃・・迷ったり苦しんだりした事も、今思えば些細な事でもそのときは重大事。かと言って、子供の頃の自分から今の自分を見れば、大人ってなんでそんな事するんだろ・・って思うかもしれない。物事、価値観次第で千変万化してしまう。それが些細なものかどうかは、結果が教えてくれる。人生いろんな事がありますよ。けど、行動していればぶつかる事もある。問題も抱える。それが当たり前。その度に何かを掴めてるはずなんですよね、気が付かないかも知れないけど。些細な事・・そう思ってしまったらそれまでだけど、人の目を気にしていたら出来ないけど・・形振り構わずって言う言葉・・あるように、小さい事に気付いて、昨日までの自分と今日の自分・・区切るのが一番。今年はどんな自分と区切れるんだろって思う。だらだらと、何にもしてなくても時間は過ぎる。一日という区切りも一年と言う区切りも、自動的にやってきては急き立てる。そのうちに、もう直ぐ人生卒業ですよ・・っていう声が聴こえてくる。昔から・・正月や 冥土の旅の一里塚 目出度くもあり 目出度くもなし・・こういう人生の区切りだけでは、なんか淋しい気もするし、それさえも気付かなかったり。掲示板で案内されても迷うんじゃないかな・・経験不足・・で。・・・・・・さ・・ガンバロ!明日からと言わず今から。
2009.01.15
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昨日は待ちに待った日で、私の中では一年の疲れを癒す時間が持てた。前にも書いたかも知れないけど、福井ソァーベ児童合唱団の定期演奏会。ハーモニーホールふくいの大ホール・・。高校生から乳児まで居るから、楽しいというか・・約2時間があっという間に過ぎてしまう。今年もまた、東京から来てくれた新八王子ウインドオーケストラの演奏も聴けた。やっぱり・・私としては好きな演奏スタイルだから楽しめたし、合唱との共演も、どちらも生き生きとして素晴らしかった。海外でも結構人気がある合唱団。上手っていう事もあるけど、それよりも楽しいっていう事。県内外は勿論の事、遠くは台湾からもお客さんが来るくらい楽しいですよ。この合唱団・・早退、遅刻、欠席なんでもあり。叱らない。それでも、怠けて休んだりはしないんだそうです。まだ言葉も話せない・・音楽っていうものを理解してない・・自分で動けない・・そういう生まれたばかりの子も入団してくるし、少々天真爛漫な子も・・。それがいつしか一緒に歌い踊れるようになるし、皆と協調できるようになってくる。先生曰く、生まれた時からみんなの中で歌声を聴き、楽しい雰囲気に包まれる事で、人として大きく育つ・・とか。年長の団員は下の子を可愛がり、後輩は年上の子に懐く。知らず知らずのうちに人としての自分のあり方っていうものを見につけていってるんですよ。大人は、子供に教える・・って言うけど・・いろんな方法でコミュニケーションをとろうとしてるけど、先生はそんな事しない。一緒に楽しんでるだけ。音楽を通して会話してるって感じかな。人間の行動は思考の最上の通訳者だと、哲学者ロックが言ってるように、教えるのも、育てるのも・・行動でしか伝えられないと思う。解ってもらえないと思う。躓いたら・・それを隠さずにそのまま見せること。なんとかごまかそうなんてするから・・その行動が強調されて伝わってしまう。非行・・犯罪・・。その度に国も学者もやっきになって方法を論じ理論上の環境を作り出す。統計から結果を導こうとする。・・・そんな暇があったら、行動する事だと思う。人に見せられるような行動が出来ないのなら、まずは自分から正さないと。子供が・・教えを請いたい者が求めているのは、体裁で繕ったややっこしいものではなくて簡単な・・『そのまま』のものなんだと思う。・・・と言う私も、人様に見せられるような人生を送っていないし・・どうしたものか。こういう先生方と子供の頃に出会ってたら、もう少しましな人生を・・なんて。出会いも、結局は自分の心が招くんですけどね。今回のは、去年入院中知り合った人のお孫さんもソロで歌ってました。その人同様に、なんか・・優しくて・・って感じでした。環境は人を育てるんですよ。環境って言うのは自然だけじゃなくて、我々大人の行動も話す言葉も、育てられてる本人さえもその一部だと思う。人を暗くする言葉は自分自身も傷付けてしまうし、一番恐ろしいのはそれに気付くことが出来ない。その反対に明るくする言葉は自分をも楽しくさせてくれる。一日一善というけど、一つの良い事は無限に広がっていくものですからね。今回もなんか、奇跡に近い出会いが多くて・・。一つの繋がりが無限に繋がってく思いのひと時でした。
2008.11.16
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夏バテもなんとか治まリかけて・・やる気が出てきたのか、そろそろ散らかり放題の部屋が気になってきた。片付ける基本は、やっぱり思い切りって事になるんだろうけど、そう簡単に思い切れるものばかりではない。有ると便利なもの。有った方がいいもの。憶い出の有るもの。ほかのものでは代用が出来ないもの・・・・。こうやって考えてると、捨てたら後悔するんだろうなァっていうものばかり。・・・・・・・・で、考えました。何が一番大事なのかを。そして、その次に大事なもの・・・・。・・・・・・場所を広く使う。合理的に使う。きれいに使う・・・。自由に動けるように・・。・・・・・・・これって、良く考えたら人生にも当てはまるんじゃないのかな。余分なものを一杯背負い込んで、身動き取れずに苦しんでる人。今にも押しつぶされそうな人。余計なものまで持ってるから、それに振り回される人・・。昨今の事件、出来事を省みてるとあの人たちは何を一番に思ってるんだろ・・とか、何を大事に考えてるんだろ・・って思ってしまう。なにも、深い意味を追求しなくてもいい。私にはこれが一番っていうものを決めたら、次はそれに必要なもの・・付随するものを加えていけば良い。例えば、友達が大事だとしても、家族が大事だとしても・・仕事を一番に選んだとしても、次にくるのはそれに見合う自分って言うことになる。好かれるために、守るために・・成し遂げるために自分を育てなければならない。次にくるのはその手段って事になる。一番大事なものを選ぶ事、何にするかをさえ間違わなければ、余計なものを持つことも無く、邪魔される事も無い。本当に必要なものが見えてくるから。だけども・・やっぱり捨て難いものってありますよ。合理性だけを追求すれば、確かに身軽にはなれるけど・・躓いて始めて気が付く事も有るし・・。人の弱いところって・・躓いてもまだ気が付かないというか、気が付く事自体を不安に思うというか・・。現状に甘えるところかな。今までの生活の流れに愛着が在るのは誰しも同じ。けど、執着しては、折角気が付いても何にもならない・・というか繰り返しになってしまう。・・・・・・・・・部屋の片付けも、心の整理も同じだと思う。残すのは一番大事なもの、それに必要なもの・・付随するもの・・。憶い出に浸るのもいいけど、過去にしがみ付いていては進歩が無いばかりか、折角のチャンスも無駄になってしまう。一気に整理するなんて、辛い判断を強いられて当然なんだから、出来れば気が付いた時・・その都度片付けなおしたり整理したりするのが一番。一度整理したらその上には物を置かないこと。つい、一つくらい・・は、いつの間にか山になってしまう。いつしか・・下になったものは忘れ去られて・・・・ある日突然思い出し、それを引っ張り出そうとすれば、上に積み重ねられたものが音をたてて崩れ落ちる。部屋では片付ければ済む事だけど、心の中ではそうはいかないと思う。いつでも手が届くように。いつでも見ることが出来るように・・整理したいです。・・・・・・・私の心の中は・・・雪崩寸前・・・かもね。私の一番大切なもの・・・一番大切にしているもの・・・間違ってはいない・・・と、私は思う・・けど・・・・・・・・・・きょうも良い日・・・私の周りの人(メールくれる人も来てくれる人も)にとっても良い日でありますように・・
2008.09.04
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この頃の事件を見ていると、呆れるというより情けない思いとか悔しさ、憤りで胸がつかえる思いで一杯になってしまう。なんなんだろう・・。昔・・戦国時代に下克上という、身分の上下も親兄弟という関係も無視。権力を手にするためには、邪魔になるものは全て薙ぎ払う・・という社会の風潮があった。そういうのは良い事とは言えないまでも、野望というか目標があった。動機というものがハッキリしていたし、手段も短絡的なものではなかった。だから、曲りなりにも防御・・という手段も取れた。・・・突然、憂さ晴らしというか、自分の感情を他人にぶつけてくる。突発的な行動に対処出来る人なんてそんなにいない。以前までは、自分の問題は自分の中で処理して、人を傷付けるという行動に出る事は少なかったのに、最近は衝動的に・・人もやってるから・・という考え方で行動する。それにつけて思うことは・・。真実はこうだった・・という報道が多すぎる。我先に、新しい情報として伝えてくる。確かにそれは真実かも知れない。けど、家庭の事情、交友関係、利害関係・・・そして事件までの経緯。いろんな情報の中で、たった一人でもそれと似通った状況に置かれている・・意志が弱いというか思考能力の乏しい者が、それに共鳴して行動をとった時どうなるか・・全く考えてない。・・常識で考えたらそんな事はないでしょう・・と、思ってるんでしょうが、事件は常識から逸脱したところに在るって事。私は真実を伝えただけ・・・と。それも仕事かも知れないけど、私が言いたい事は、真実を暴く事、伝える事は簡単だけど、それが果たして正解かどうかって言う事。いつも何かあると、真実はこう・・。だからこうなった。それならこうした方が良い・・と、討論もやり、評論もする。けど、それなら類似した事件が増えているのは何故?一人の加害者を作るのには十分すぎる程の、真実という名の情報。それに引き換え、被害者になりうる人を守るのには不十分な、答えになるべき情報。均衡をとろうとするならば、多い方を控え、少ない方を補わないと使い物にならない。此処で言う真実は、人の作り出した真実。事実を支えるためのものだから、いかに真実でも、どんな場合でも正解を生み出す万能薬ではないと言う事になる。情報に振り回されて不幸になる・・とはこの事だと思う。人が喜ぶ事なら・・それが裏切りでない限り、真実より方便をとりたいと思う。真実を教えるより、真実に近づくための力を与える方が正解・・かも知れない。尤も、何でもかんでも知りたがるこの風潮自体がおかしい話。自分で消化出来ないものを受け入れても、自分のものになるどころか身体を壊すって言う事さえも解かっていないのかなァ・・。欲しかったらそれなりの力を付けないとダメだと言う事に気が付かない限り・・これからもこういう事件は続くと思う。人との会話、家族との会話・・いろんな会話の中で、真実よりもっと力のあるものに気付いた時、言葉の力を知ることになる。・・・人を褒める事・・本当はそれが真実を言ってる事なんですけどね。・・・・地蔵祭り・・去年は何にも見れなかったけど、今年はいろんなものが見れた。初めての参加で、一生懸命習ってる子。訳が解からずきょろきょろしている子。慣れた手つきで教えている子・・。本当は、この子達の方が本当の真実って言うものを知ってるのかも知れない。余計な事は何も知らないから振り回されない・・。大人は余計な事ばっかり知りすぎて真実を見ようとしない。目の前の・・偽りの真実に振り回されて、きょうものたうつ・・かな。
2008.07.24
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雨は降るし・・予定が変わってしまったので、材料でも・・って思いながらショッピングセンターとかをウロウロと。この頃は大抵の所にキッズコーナーっていうのが在るけど、その側で暫く楽しそうに遊んでる親子を眺めてた。子供って・・気持ち良く眺めてられるんですよ。しばらくして、飽きてきたのかな・・それとも興味が無くなったのか・・思うようにならないからか・・物に当たるようになった。物を叩きつけるように投げる。独り占め同様にして遊んでて、思うようにならないからと・・また投げつける。親は、それを子供のストレス解消・・とでも言うかのような目で眺めてるだけ。・・・この間テレビで観た『キングコング』を思い出した。人は・・好奇心とか、金儲け、名誉とかいったもののために、自然の中で育まれてる生命を文明というものの中に引きずり出してくる。ただ、珍しい・・お金が儲かるかもしれない・・他に何かに利用できるかも知れない・・そうなれば名声も思うまま・・。探検・・という美名に名を借りて、したい放題。その結果は、キッズコーナーで見かけた子供同様、興味が無くなれば放置するし、金儲けできなければ・・思うようにならなければ・・人に害を及ぼせば、虐待と惨殺。人は大人になっても変らない。自分の身勝手だけで自然界の秩序・・生命を壊してしまう。形あるものは、何故にそこに存在するのかという疑問を持たない限り・・いつまでも大人にはなりえない。自然界に生きているもの・・。知りたければ、なにも連れてくる事は無い。自分がそこまで行くべきだと思う。敬意をはらって教えを乞うべきものではないのかな。人の思い上がりは、子供の時に作られるものではないんだろうか。何をやっても叱られない、何でも思い通りになる育て方。生きるもの同士は平等だと教えない限り、形あるものはそこに存在する意味があると教えない限り・・自分に物を合わせようとする子供は大きくなって・・いつの日か必ず自分自身を傷付ける事になると思う。そこに自分が存在する意味すらも知らないんだから。父親は、生き方を教えるかも知れない。けど母親は、その根本になる在り方を教えられると思う。高いレベルの話でなくてもいいと思う。アリが列を作ってたら、殺虫剤をかける前に、アリはきれいに掃除してくれるんだよ・・って話す事も大事。洪水の場面を見たら、水の恐ろしさだけでなく、水もコップ一杯くらいが良いね・・って、物事の適度さも教えないと・・。・・・私も考えてます・・私の存在ってなんなんだろうって。聖人君子になるつもりはないですよ。普通に楽しく生きていけたらそれだけでいいです。なかなか道の真中(ずっと前にブログに出てきた言葉だけど)を歩く事は難しいですけど。時にはきれいな花に心奪われても、それを引き抜くような事はしたくないですね。眺めたり・・いい香りを楽しんだり出来ますからね。
2008.06.22
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この間・・7日・8日・9日と華展を観に行ってきた。・6日から始まったそうだけども、今回は知らなかったから、、偶然鑑賞出来た事になる。3日間とも偶然というよりは、何かに引っ張られた出来事のような気がする。初日・・。用事があって神明まで行ったのだが、何故かそこの店で親戚の注文した商品を預かって親戚へ。親戚で足止めされてロスしたが、その後時間的なロスを取り戻すためにシピイまで戻って買い物・・と・・2階まで上がったらなんと華展をやってるではないか。で、入り口まで行くと、そこには入院中知り合った南越支部の幹部の方が居るではないか。まだ身体が本調子ではないからと、顔だけ出しに来たのだけど、もし・・親戚にも行かず、ロスもなかったら、行き違いになるところだし、シピイにも行く必要が無かった。お茶席の券まで貰ってしまい・・話しにも花が咲いた。次の日、後半の花になるというので午後から行こうと思ってたら、昼から知人の家に行かなければならない用事が・・。どうしても今日来てほしいと言われて、午前中に鑑賞・・と、早い時間にと思ってたら、一階の靴屋でつかまり(最近靴買ったから)その後メール着信。メール読んでたら声かけられた。聞き覚えのある声に、え!?って見たら、入院初日と退院の前日にも世話になった看護師さん。暫く話してて、伝えたかった事とか聞きたかった事・・完了。最終日・・さっと見流して帰ろうか・・と思ってたら、写真撮ってない事に気付いて携帯で撮ってたら、また後で声が・・。京都の華展で知り合った人・・。そして今日華展も終りその疲れが少したまったので(私は鑑賞しただけですが)病院に。通院している所でも良かったけど、時間が無いので近くの病院へ。そこで腰掛けてたら・・あら、○○さん・・と、声かけられた。この人も入院中に知り合って、元気が無い時に励ました人の中の一人。この4日間の出来事・・偶然と言えば偶然。親戚へ行った事から始まり、どれをとっても人為的には不可能なタイミングの出来事。この四人の人とは連絡をとる手段がないから、長い間気にはなってたんですけどね。時々こういう事があるけど・・これは誰にでもあることだと思う。モノ、人、物事・・強く求めれば、必ず巡り逢うことが出来る事を知らされた4日間だった。華展・・あの雰囲気は大好きです。以前は私も教授席に出した事があるけど、観る側から生ける人の心を汲み取るのも勉強。ただ・・ここ数日の間に嫌な事件、事故が相次いだ事には心が沈みます。面白くないというだけで人を傷付ける。人や物に当る前に、何故そうなったか、何故そう人に思われるのかを考える心のゆとり・・現代の教育には欠けてるんではないのかな。人としての基礎を、3歳までに教えなければならない事を・・七歳までに教えなければならない事を・・親そのものが知らない現代ではムリなのかも知れない。・・五年間は王子のように、十年間は奴隷のように、そのあとは友のように、息子を扱え・・という言葉があるけど、今の親は、最初っから友達感覚。それでは年上を敬う事も、人の意見を聞くことも学べない。まして命の尊さなんか考えた事もない子供に育ってしまうのは当然。もう少し・・触れれば散ってしまいそうな花を労わるような・・優しさがほしかった数日だった。
2008.06.11
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今日でちょうど事故から一年。色んな事がありました。そして、色んな勉強させてもらいました。そこにいて初めて解ることばかり。救急車で搬送されているあの時間の長かった事。自分が大怪我をして、初めて解ります。車が止まる度に思った事は、まだなのか・・まだ着かないんだろうか。このまま逝ってしまうんではないんだろうかと。実際は事故は大事故だったけども、そのわりに怪我は軽かったですけどね。手術の説明を受けたとき、それが何のためか解ったのも、手術と言うものを体験してからの事。如何に先生方が慎重に、全力でされても、危険は紙一重の所に在るという事。手術が終わって苦しい時、看護師さんがどれほどの気を使ってくれているかという事。苦し紛れにコールするんですよ、無意識に。けど、仕事とはいえ仮眠中でも飛んできて処置してくれる。夜中には、ベッドから落ちる人も居れば、徘徊する人もいるんですよ。それでもきちんと面倒見てくれる。リハビリが始まれば、どんなに汚れていても・・どんなにわけの解らない人でも、看護師さんと同じで、根気良指導してくれる。介護の人も同じです。仕事というよりも、人として扱ってくれるんですよ。半年居てやっと解る事ばかり。外からでは絶対に解らない、感じる事の出来ない貴重な体験でした。テレビのニユースとかドラマで見る様な、そんなものではなかったです。見舞いに行ったくらいで解る様なそんな生易しいものじゃない。生と死が同時に存在する空間なんですよ。患者は何かが欠けていて当たり前の世界なんですよ。けど・・仕事に対しての気持ちは、少しでも、ほんの一瞬でも欠けたらダメな世界です。良くなってくると、知らない者同士が話をするんですよ。自分の事、家族の事。悩み・・復帰してからの事・・。リハビリのやり方とか、いろんな事話すんです。年寄りも子供も女性も男性も関係なく、来る人全てと話ししましたよ。それまでの私は、そんなに行動的ではなかったです。けど、打ち所が悪かったのか良かったのか・・それとも、未知の空間を目の当たりにしたからか、変わりました。一生の間に、大きい怪我とか病気ををした事がない。或いは、事故に遭遇した事が無い・・。本当はそれが一番良い事だし、それが一番の幸せだと思う。生まれて・・順調に育って、何事も無く社会に出て、何事も無く一生を終れたら・・。一般に言う幸せってこういう事なのかも知れない。一度も躓いた事が無いなんて・・運が良いとしか言えないから。けど・・それだけが幸せかな。何かにつけて、自分は不幸だ・・と言う人が居る。事故、怪我とか病気も・・確かに不幸な出来事だとは思うけど、半年の入院、この一年を振り返ってみたら、これだけの貴重な体験をさせてもらって、尚且つ友達もたくさん出来て、退院してからでも行き来したり、メールのやり取りしたり、時にはTELしたり・・。それに、心の友っていうのかな・・。この人なら何とかしてあげたい・・っていう人とも出会えたし・・。これも考え方一つで幸せな事なんじゃないのかなって思うこの頃です。自分の身に起こる事は、心が招いた事だと前に言ったけども、ある意味、その人に必要な状況だからこそ起こるのではないのかな。必要でない人には何も起こらない。どんな事でも、自分が体験しなければならない状況になった時、こう考えたらどうだろう。仕事の訓練をするように、『これこそが自分だけの特訓なんだ』って。『とうとう自分にもチャンスが回ってきた』って。『やっと自分もここまで来たのか』って。前にも言ったけど、壁にぶつかった人は幸せですよ。そこまでも来れない人の方が多いんだから。神は、固いパンを与える時は、丈夫な歯を与える・・ってドイツの諺です
2008.05.06
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