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2008年10月22日
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テーマ: 中学生日記(475)
鹿鳴館のともしび
第1次伊藤博文内閣の外務大臣になったのは井上馨である。彼は条約改正を実現させるためには、日本の欧米文化を取り入れ、これを欧米人に見せて、日本も欧米並になったと思わせなければならないと考えた。そこで思いついたのがダンスパーテイーである。しかし、当時の流行歌に「上辺ばっかりりっぱだが、政治の思想が欠乏」と批判された。鹿鳴館の舞踏会で前代未聞は、1887年4月20日の伊藤首相主催の仮装舞踏会であった。伊藤首相はイタリア・ベニスの貴族、夫人はスペイン・士官の妻、山県有朋内務大臣は長州藩奇兵隊長などの姿となった。

ノルマントン号事件
1886年10月23日、イギリス人38名、日本人23名、インド人1名を乗せたノルマントン号が横浜から神戸に向かった。その途中、25日午前1時頃座礁して沈没した。船長及びイギリス水夫はボートに乗り和歌山県串本に着いたが、残りのイギリス人・日本人・インド人はおぼれ死んだ。船長は、「日本人に英語でボートに乗るよういったが、英語が分からないのでそのまま見捨てた」と語り、日本国民をばかにしているとし、抗議した。しかし、治外法権を認めていたこともあって船長は無罪となった。また死者に対して賠償金すらなかった。国民は子の井恨みを忘れなかった。

朝鮮人の抵抗 
朝鮮では日本との不平等条約(日朝修好条規)に反対する声がおこったがかえって日本は、日本・清・朝鮮とともにアメリカと手を握りでロシアに対抗しようと説得にかかった。さらに、朝鮮では米が日本に流出したため米不足のため米価が値上がりし、朝鮮人民の怒りが日本公使館焼き討ちになった。この暴動に対して、清国も日本もは軍隊を出動させた。清も日本も戦争する準備はしていなっかたので、日清で天津条約を結び、将来もし、朝鮮で重大事変が起こったとき、どちらかが出兵するときは、お互い通知し合うという約束をした。

東学党の人たち
1860年頃に朝鮮で「東学党」という農民軍が反乱を起こしていた。朝鮮政府は農民闘争が高まってくると和解を申し入れたが朝鮮政府は、上辺にしかすぎなかった。朝鮮政府は東学の農民を鎮圧することを清国軍に依頼した。このとき日本軍も居留移民保護の名目で出兵した。しかし農民の闘争も収まると日清とも出兵の名目がなく、清国軍代表・袁世凱が日清の朝鮮撤退を提案したが日本は聞き入れず結局、両国とも撤兵しなかった。こうしたなか、ロシアが日本に撤兵の要求をし、苦しい立場に追い込まれた。この緊張のなかで、日本は、イギリスと手を組む交渉を行い見事成功した。そして、日英の間で治外法権が撤廃された。 イギリスが日本を認めたことは国際社会の中で影響は大きかったし、日本の朝鮮出兵をイギリスが保証する事も意味し日本政府を勇気づけた。1894年7月16日、日英通商航海条約の調印3日後、日本は朝鮮で事実上作戦行行動に入った。

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最終更新日  2008年10月22日 21時26分33秒
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