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高尾すみれ

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緑と清流 神秘家の庵さん
2010.05.30
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カテゴリ: 戦国武将と城
オキシペタルム
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岡山城の天守閣も、昭和20年に焼失し、現在ある城は復元されたものである。
岡山城は別名烏城と呼ばれ、黒々とした外観は重々しい風格がある。
この城の軍事、海運上の重要性は、築城から時が経るほど高まっていった。
それに目をつけた宇喜多直家は、謀略をめぐらして城主の金光宗高を殺してしまい、戦もしないで城を手に入れてしまった。
直家は領地を拡大し、城の改築をして、城下町を整備し、その上山陽道の道筋まで変えてしまった。
直家は勢力を広げたが、織田家と毛利家がしのぎを削っている中で、呆気なく病死してしまった。
跡継ぎは、僅か9歳の八郎で、策士であった直家を失った家臣たちは、城主の急死を翌年まで隠し続けた。

やがて、織田家の家臣羽柴秀吉が城を訪れた時、八郎の母であるお福は、我が子の将来を秀吉に託そうと考え、秀吉を歓待した。
八郎は秀吉の側近となり、名前の一字をもらって秀家となった。
前田利家の娘、豪姫を娶り、備前から美作、備中東部、播磨西部を領地とし、五十七万四千石の大名になった。
秀吉は、天下平定に一息つくと、秀家に城を改修するように勧めた。
秀吉の縁者として「相応しい城にしろ」というわけだった。
五層六階の威風堂々とした烏城が築かれたが、秀家はこの大事業を楽しむ余裕はなかった。
3年後には、関が原の合戦になり、秀家は西軍の副将として戦ったが、敗れて八丈島へ流されてしまった。
岡山城には、小早川秀秋が入城した。
秀吉の甥で、幼児の頃から秀吉の養子として育てられたが、関が原では東軍に寝返った男だ。
秀秋は、城をさらに改築した。
しかし、入城して2年ほどで若死してしまった。死因は不明で、色々な説が取り沙汰された。






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Last updated  2010.05.31 06:00:50
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