パクス・ジャポニカ Vol.2

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2017/05/06
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テーマ: 史跡めぐり(507)
戦いの舞台は 長篠城 の攻防戦から、設楽原の決戦へと移ってきました。


鳥居強右衛門がまさに命を懸けて 岡崎城 に着いた時、すでに徳川家康の援軍8千も岡崎に到着しており、織田信長も自ら3万の大軍を率いて岡崎に到着していました。

長篠城の救出という局地戦から、歴史を変える大決戦への転換点となったのが、この設楽原です。
設楽原古戦場連吾川 (2).JPG
連吾川を挟んで西側(画像左側)に織田・徳川連合軍、東側(右側)に武田勝頼軍1万5千の布陣です。


徳川家康が本陣を置いた弾正山の近く、陣頭指揮を執った八剣山の陣所には、「長篠設楽原決戦場」の碑が、ひっそりと建っていました。設楽原古戦場碑.JPG
徳川家康からすると、この戦いは娘婿である奥平信昌の長篠城を救出するための援軍だったかと思います。


その徳川家康の援軍である織田信長の本陣は、徳川家康の本陣から北へ約2km、茶臼山にあったようです。
設楽原古戦場茶臼山方向.JPG

織田信長にしてみると、これまで恐れていた武田信玄亡き後もなお最強を誇る武田軍との間で、雌雄を決するための出陣だったかと思います。


そして織田信長の敷いた布陣と戦法は、合戦のありかたまで変えてしまったと思います。
設楽原古戦場馬防柵 (5).JPG


設楽原古戦場馬防柵 (1).JPG
復元された馬防柵

かつて馬防柵が置かれた織田・徳川軍の陣地に目を凝らすと、削平地と土塁のような跡が見られました。
設楽原古戦場 (13).JPG


設楽原古戦場大宮前激戦地 (1).JPG


土塁と馬防柵による野戦築城に鉄砲の一斉射撃。
この前例のない戦法に着想するだけではなく、当時最強の甲州武田軍との決戦で実践するあたり、改めて織田信長には畏敬を感じます。


それでも織田信長にも不安はありました。
設楽原に布陣したところで、果たして武田勝頼が長篠城の包囲を解いて決戦を挑んでくるかどうかです。

岡崎城での軍評定の時、徳川四天王の一人である酒井忠次は織田信長に一つのアイデアを進言しました。
それは長篠城を包囲する武田軍の砦の一つ、鳶ヶ巣山を夜間に背後から急襲し、武田軍を設楽原に誘き出すという妙案です。
長篠城武田軍砦.JPG
長篠城から見た鳶ヶ巣山


実はこれは織田信長の本心ではなく、敵方の間者に漏れるのを恐れて、あえて軍評定では一蹴したものでした。
軍議の後にすぐさまこの案を採用すると、酒井忠次は500丁の鉄砲隊と共に、鳶ヶ巣山の砦へと急行しました。

鳶ヶ巣山には、その当時の砦跡が残っています。
長篠城 鳶ヶ巣.JPG
武田軍の背後を急襲すると共に、長篠城の救出戦まで実行したのが酒井忠次隊です。

ところで鳶ヶ巣山の砦跡には「天正杉」と呼ばれる倒木があり、樹齢は300年を超えていることから、この合戦の当時には現存していたとされています。
長篠城 鳶ヶ巣天正杉.JPG



そして設楽原では徳川家康配下の大久保忠世・忠佐の大久保兄弟が囮となり、馬防柵の外に出たり内に入ったりしながら、武田軍を誘きよせるための陽動作戦を展開していました。

設楽原古戦場馬防柵 (2).JPG
徳川軍の馬防柵
織田軍と違って、出入口が設けられています。

徳川家康にしてみれば、娘婿の守る長篠城を救出するために自身の援軍8千では、到底武田軍1万5千に立ち向かえなかったことでしょう。
織田信長の援軍3万によって救われた戦いにあって、酒井忠次と大久保兄弟の功績で借りを返した感じでしょうか。


これまで小説等で見聞してきた長篠設楽原の戦いですが、実際にその場所に立ってみてみると、初めて当事者それそれの思いがわかるような気がしました。

以下司馬遼太郎さんの「功名が辻」の一節より

「柵外を見よ。
 武田の騎馬隊が、押し太鼓を天地にひびかせながら、寄せてくるのである。
 多くは、
 武田の赤備え
 と称せられる朱具足である。
 赤い津波が、伊右衛門(山内一豊)らの陣にひたひたと寄せて来る。」

設楽原古戦場馬防柵 (3).JPG
馬防柵の内側に立つと、武田軍の陣地は目と鼻の先のように思え、その恐怖がわかるような気がします。


歴史の知る通り、この戦いは織田・徳川連合軍の圧勝に終わりますが、山岡荘八さんは「徳川家康」の中で、この戦いについて次のように述べています。

「いかに駿足の騎馬武者に対しても、鉄砲さえあれば足軽の集団でこと足りるという、戦術上、思想上の一大革命がなしとげられた」
「かつては一粒選りの大将勇士らを必要とし、そのために高禄を惜しまなかったのが、今では鉄砲さえあればよく・・・」
まさに歴史を変えた一戦だったと言えるでしょう。

それにしても後の歴史を考えると、設楽原に集結した織田信長軍の陣地には、錚々たる面々が並んでいます。

織田信長、織田信忠、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀、羽柴秀吉、佐久間信盛、滝川一益、佐々成政、前田利家、稲葉一鉄・・・

徳川軍も含め、この人たちと同じ場所にいるというだけで、感慨深いものがありました。


徳川家康 颶風の巻 7   / 山岡荘八 著 - 講談社

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最終更新日  2017/07/03 08:06:51 PM
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