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2007年12月05日
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カテゴリ: 読書
 上手く続きになるかどうかわかりませんが、前回の続きです。

 「うさんくさいもの」というタイトルからすると、超能力者であるとか超常現象であるとか、そういったものをネガティブに捉えていると思われてしまうかもしれませんが、実のところ、基本的にそういう「うさんくさいもの」は大好きです。ただ「うさんくさいもの」はあくまで「うさんくさい」から素晴らしいのであって、それが色々な意味を付与されすぎてしまうのは良くないと思うのです。前回の『職業欄はエスパー』に絡めて言えば、例えばスプーン曲げは是非見てみたいと思います。でもそれが、「人類の新たな能力」を発露であるとか、「物理法則を覆すもの」であるとか、そういう意味づけは正直どうでもいい。多分、そういう過度な意味づけをするから、今度は「トリックがあるに違いない」とかいった「否定派」が活気づくのです。不思議なこともあるもんだ、とそのくらいでいいではないですか。「うさんくさいもの」は「うさんくさいもの」のままにしておきましょう。理由がわからなくてもいい。いや、理由がわからないからこそ面白いのです、きっと。だから極端な話、「超能力」にトリックがあっても全然かまわない。僕の中では手品もスプーン曲げも、そして大道芸も「うさんくさい」ことにおいては変りないです。もちろん、手品だろうとスプーン曲げだろうと、パフォーマンスとして素晴らしければ、賞賛を送るべきなのは言うまでもありません。

 とても極端な言い方をすると、「うさんくさいもの」とは「無意味だけどとにかく凄い」もの」と言い換えてもいいです。例えばあらゆる「見世物」は全て「無意味だけどとにかく凄い」ものでしょう。反発を覚える方もいるかもしれませんが、僕にとってはスポーツもまた、その「見世物」の部類に入ります。だって100メートルを9秒台で走ろうが、49.195キロを2時間ちょいで走ろうが、昔ならともかく現代においては全く意味がないのですから。スポーツから何か人生の教訓を学ぼうとか、そういう態度はとても苦手です。イチローにしたってちっとも面白いことを言っているとは思いません。それよりパフォーマンスに徹している野村監督の方がずっと面白い。小沢昭一という俳優なんかは、「役者というのは所詮、河原乞食である」という意味のことをよく言っています。極めて肯定的な意味において。その段でいくと、スポーツ選手もまた、河原乞食の類いでいいではないかと。だいたい、身体能力の高さ、とか自己管理能力の高さ、という点で言えば、中国の雑技団とかサーカスの人たちなんかすごいですよ。でも誰も彼らから人生の教訓を学ぼうなどとはしないわけです。



 身体能力のことばかり書いていますが、実のところ、人間の想像力の中にも「限りなく無意味だけど凄いもの」というのはあると思います。そしてそういう想像力のあり方を、実のところ「オカルト」というのではないかと。例えばレイラインというものがあります。考古学的ないしオカルト的に重要なものが同一線上にある、という考え方です。正直、同一線上にあるから何なんだ、と思いますが、少なくともそういうことに気付いてしまう想像力というのは凄いと思うのです。もちろん人間の想像力のすることですから完全に「無意味」にはなりえない。でもそこに付与された意味は限りなく「無意味」です。少なくとも、僕たちが日常的に生きている世界においては「無意味」。僕は『ダヴィンチ・コード』とか、それに続いて出版された数々のオカルトチックな長編冒険小説の類いをそれなりに読んでいますが、その理由もまた同じです。アーサー王の墓を捜すとか、聖杯の正体を突き止めるとか、そもそもいつになっても達成できないとは思うのですが、そういう限りなく「無意味」なものに向かう想像力というのは、とても魅力的だと思うのです。「荒唐無稽」っていいではないですか。



あと、そういう「うさんくさい」想像力を一挙に集めたマンガ『イリヤッド』も、話の大雑把さと合わせてとても好きです。もちろん『イリヤッド』と同じく長崎尚志の原作による『MASTERキートン』も。



 「オカルト」的想像力は、確かに厄介なものにもなります。とりわけ宗教的なものと結びついた時には、意味が膨らみすぎてしまう。リン・バーバーというイギリスの社会史家が書いた『博物学の黄金時代』という本には、18世紀から19世紀にかけて続々と登場する地質学的な証拠が聖書の記述を否定するのに対して、教会側が用意した涙ぐましいまでに荒唐無稽な説明が書いてあります。それは今読むととても微笑ましいけれど、同様の事態が、現在のアメリカのように「進化論を教えるな」という話になってしまうと笑うに笑えない。やはり『博物学の黄金時代』に書いてあったと思うのですが、ネス湖のネッシーというのは、科学者の間で「想像上の動物」と「実際に存在する動物」との区別がほぼ完全になった19世紀後半から生まれてきた話だそうです(ちなみにそれ以前には、グリフィンなどという動物まで「実際に存在する」と考えられていたらしい)。言うなれば、常識では説明のつかないものが存在してほしい、ないしは常識ではどうにもならない事に説明をつけてくれるものがほしいという思いが「ネッシー」を生み出した訳です。そういう思いをむげに否定したくはない。だからこそ、そういう思いは「ネッシー」くらい「うさんくさい」ものであってほしいと思うのです。そして「うさんくさい」という言葉を何度も使ったのはそういう訳だったのでした・・・。

 まとまったようなまとまってないような、でもいい加減長くなったのでこの辺にします。最後に「うさんくさいもの」を、正しく「うさんくさいもの」として扱った「博物学」の本。荒俣宏の『怪物の友』を紹介しておきます。本当にこのくらいがちょうどいいんですけどね(あ、これはリンク張ってません)





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最終更新日  2007年12月05日 22時49分45秒
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