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『事を謝するは、まさに正盛の時に謝すべし。身を居くは、よろしく独後の地に居くべし。徳を謹むは、すべからく至微の事を謹むべく、恩を施すは、務めて報いざるの人に施せ。』(官位を去るのは全盛を極めている時がよい。退任後に身を置くのは名利などの争いのないところがよい。善行を積むのは極力小さなことから積むべきだし、恩を施すのは恩返しのできない人に施すがよい。)現職から退くのは正盛の時とあるが、言い換えると、最も退き難い時でもある。責任ある地位から退いて気楽な余生を送りたいという人は少ないようで、まだ、働ける、我輩が退いたあとが心配だ、などと自分勝手な理由をつけて居座ろうとしている。周囲では、退いた方が会社のためと思っているが、本人は去った後が心配と考える。多くの場合、去った方が安心なのである。近年、よく大企業のトラブルの責任をとって去っていく人もあるが、中には去るべき時に去らなかった悔いを残した人もいるのではないか。現在上場している会社の社長だが、社長らしからぬ態度に退任を迫ったが応じず、株主総会の決定によることになった。それでも社長の椅子にしがみついて離れようとしない。結局、株主総会の決議で退任を余儀なくされたが、第三者から見ても当然の決議としてむしろ歓迎されている。天下に恥をさらすために社長になったようなものである。別記したように、私は第二の会社へ再建目的で入社したが、達成完了後ではなく達成見込みがついた段階で退いてしまった。銀行の任務は経済社会への奉仕にあると考えていたからで、会社再建に奉仕すれば事は終わりと考えたからである。先日講演先で中堅会社の社長から相談を受けた。「今度社長を退いて長男に譲ろうと思うが、会長になったら、どういう仕事をしたらよいでしょうか」ということであった。私はこう答えておいた。「会長になったら、相談に答えるだけで会社の経営はすべて新社長に一任し、あとは趣味、社交で時間をつぶし、気楽に暮らすことでしょう。ただ、こういうことは心に留めておくことも必要です。昔、豊臣秀吉に仕えた黒田如水は引退後に急に短気になり、些細なことで家来たちを叱りとばすようになった。見かねた城主の長政が、『家臣たちが困りきっておりますから、今少し穏やかに願います。』すると如水は『わしが口うるさくすれば、その分おまえを慕うようになるだろう。わしがうるさくしているのは、おまえと、黒田家のためにやっていることなのじゃ』と。会長の任務といえば、社長を立派に育て、会社の発展を希うだけでよいのではないでしょうか。」さて、私自身の引退後だが、別に述べたように、文字どおり「晴耕雨読」の生活。その間、飢えれば食い、眠けりゃ休む、一日一回昼寝一時間、晴れれば、鎌かスコップを手にし、疲れれば捨て石に腰を降ろす。そうした時、自然に出てくるのが、白楽天の詩。「日高く睡り足りてなお起くるにものうし。小閣に表を重ねて寒さをおそれず」と詠いだす。遺愛寺の鐘は聞こえず、香炉峰の雪を見ることはできないが、たわわに実っている柿やミカンを見ることができる。この項の終わりに、銀行員の頃の思い出話を一つ。スポーツ用品メーカーの美津濃の創立者、水野利八元社長と対談した時、社長から、「あなたはんは学校も出なんで、よう大銀行の専務さんになられましたな」と、名刺交換の際に言われ、返事に戸惑ったことがある。今にして考えると、学歴のない私は単純な知識、言い換えれば物事の基本となることを学ぶにしかずということで、たとえば人の用い方の基礎である「仁」、処世の基本である「礼」を身につけるよう努力した。経営に当たってはその基礎である「徳」に徹した。これが自分の肩書につながったのではなかろうかと、自己採点、自己満足しているわけである。 <終> (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.24
『日すでに募れて、しかもなお姻霞絢爛たり。歳まさに晩れんとして、しかもさらに燈橘芳馨たり。ゆえに末路晩年は、君子さらによろしく精神百倍すべし。』(日が暮れても夕映えは美しく輝き、年の瀬が近づいてもダイダイやミカンは、さらに芳香を放っている。このように、晩年になっても精神を百倍にも奮いたたせるべきだ。)私はまだ93歳(2003年)で老いを語る資格はないが、よく長寿の秘訣を聞かれるので答えの用意だけはしているのである。私の秘訣はたった一字“予”である。予定の予、予備の予で、「あらかじめ」とも読む。何事かの目的を定めてその目的を達成するための準備である。準備するためには、頭も使えば手足も使い、結果を希んで楽しみも得られ、生きがいも得られる。こうしたことの日常生活が心身の健康を保たせてくれる、と自分なりに考えているわけで、格別の長寿技術を施したわけではない。そうしたことで長寿の方法を聞かれても答えようがなく、“予”の一字で言い逃れているといえるのである。『中庸』という本に「事は予めすればすなわち立ち、予めせざればすなわち廃す」とある。事はあらかじめ準備すれば成功するし、しないと失敗するという意味である。この本を読んだのは30歳の時だったが私の準備は20歳前からで、借金返済が遅れ、内容証明郵便で驚かされて返金準備の必要を知ってからのことである。生涯信条を借金から得たということで、恥じ入った話だが、これが事実なのである。私の家の物置きには、20キロ入り肥料が、常に十数袋置いてある。「何に使うんですか」と聞かれ「このまま食べるわけじゃないんです」と答えた。私の書棚を見た人が、「誰が読んだ本ですか」と聞く。中国の史書古典が並べてある。これも私の準備品である。篤農家(?)としての準備も忙しい。春は除草に種まき、夏は灌水から除虫、果物の袋かけ、秋は収穫、冬は果樹の枝の剪定など、野菜と果物が私に強制労働を命じる。これが健康を助ける。年をとると動くことも億劫になってくるが、彼らの命じる強制労働に対しては立ち上がらざるを得なくなる。いわゆる経済人に「創造とは」と尋ねたら、「それは準備である」と答えてくれた。目的を定めて達成しようとしている時、何かのヒラメキをおぼえる、と。なるほど、経営戦略・戦術にしても、画期的な目的を抱いて思考を重ねている時、ふと頭に浮かんでくるものがある。それが案外目的にかなっていることも少なくない。別項でも述べたが、私はよく、疲れをとるため、また気分転換のため、最近では声を張り上げて吟詠、演歌から昔の軍歌など、思いつくまま歌い出す。とうとうボケが始まり、頭にきてしまったと人は思うかもしれないが、自分としては頭にこないための準備なのである。白頭を怨む詩も悲恋の演歌も、私にとってはすべて長寿の妙薬。心の持ちようで長命にもなれば短命にもなる。自分の心に責任をもたせ、別の自分の心を気楽にしておくことも長寿につながるのではないか。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.23
『士君子は貧にして、物を済うことあたわざる者なり。人の癡迷(ちめい)のところに遇いては、一言を出してこれを提醒(ていせい)し、人の急難のところに遇いては、一言を出してこれを解救(かいきゅう)す。またこれ無量の功徳なり。』(学があって徳の高い人は、自分が貧しいから人を物質面で救うことはできない。しかし、愚かで迷っている人に会った時には、助言して苦や悩みから解放してやることができる。これも、計り知れない功績というものである。)学があって徳の高い人は、貧しいから人を物品で救うことはできないが、助言で救うことができるという。私は、その助言で助けられた。夜学へ通っている時であった。「君は夜学へ通っているそうだな。夜の次は朝だ。昼の者より早く朝がくるからな。」こともなげにいっているようであったが、私にとっては励ましの一言であった。会社が借金苦に悩んでいた時、ある人に話したところ、「借金なんかでくよくよすることはありませんよ。あんなものは返せばいいんですから。」なるほど言われるとおり、悩むことはない。会社がその日暮らしの状態で、社員を経済的に救い喜ばせることができなかった時のこと。そこで思いついたのが分社経営。営業店を中心に40部署を独立会社にしてしまった。いずれも株式会杜であるから、一社3人の取締役にしても120人の取締役。その中から40人の代表取締役が生まれることになる。3人、5人の会社でも名刺はマンモス会社の社長のそれと変わることはない。これこそ本項にある「無量の功徳」といえるだろう。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.22
『彼富ならば我は仁、彼爵ならば我は義。君丁もとより君相(くんしょう)の牢籠(ろうろう)するところとならず。人定まれば天に勝ち、志一(いつ)なれば気を動かす。君子もまた造物の陶鋳(とうちゅう)を受けず。』(彼が富でくるなら我は仁徳をもって対抗、彼が爵位でくるなら我は道義をもって対抗す。そこで仁義道徳をもって立つ君子は、富貴によって立つ君主や宰相などの言うままになることはない。人は一念を通せば天にも勝つし、運命を開くこともできる。志が専一であれば気を率い動かすことができる。君子たる者は君主や宰相はもちろん造物者によっても、型にはめられ意思の自由を束縛されることはない。)中国の故事に「一念岩をも通す」というのがある。前漢の李広は強弓の名人として知られ、誰にもおくれをとることはなかった。ある時、草原の岩を虎と思い込んで射たところ、矢鏃(やじり)がかくれるほど石に深く突きささった。その後で再び射たが、今度は突きささらなかったという。石と知っては弓を引く力もにぶるからである。この故事の教えるところは「集中の力」ということもある。『孫子』の兵法に、「激水の疾(はや)くして石を漂わすに至るは勢(せい)なり。鷙鳥の撃ちて毀折に至るは節なり」とある。すなわち、せき止められた水が激しい流れとなって大きな岩を押し流してしまうのは、流れに勢いがあるからだ。猛禽が獲物を一撃のもとに打ち砕いてしまうのは瞬発力があるからだ。何事に対しても、あれもこれもと力を分散しては、成ることも成らなくなる。志を一点に集中して当たることが成功の近道である、と考えるべきである。知人に「地下足袋社長」といわれていた社長がいた。学校にも行けず、読み書きさえ不自由。服装はいつも詰襟服に地下足袋。もとの仕事は屑物集め、いまでいうバタ屋。その人が戦後、溶接棒製造に挑戦し、公の規格に合格すべく研究を始めた。参考書が読めるわけでなし、経験があるでなし。ようやく国立大学の先生を訪ね薬剤配分などの教えを受けた。先生にメモ書きしてもらい、奥さんがそれを読み社長が配分する仕事であったが、公式規格には、大手メーカーに次ぎ全国二番目に合格している。それを生産するための設備資金として20万円の借金を申し込まれ、私がその稟議書を書いたが、それが銀行屋として初めての貸出稟議書となった。その時、「私の当面の目標は年に法人税と借金利息を一千万円ずつ納めることです」といっていたが、何年か後には、その額に○を一つ重ねるほどになっている。まさに一念岩をも通したといえるだろう。“根性”とは「一つの目的を達成するために全知全能を傾注し続ける気力である」とは自分の借金返しの体験から出た文句だが、目的達成の執念さえあれば、李広ならずとも石に矢を通すことができるのである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.21
『徳を進め道を修むるには、個の木石の念頭を要す。もし一度欽羨(きんせん)あれば、すなわち欲境に趨らん。世を済い邦(くに)を経(おさ)むるには、段の雲水の趣味を要す。もし一度貧着(とんじゃく)あれば、すなわち危機に堕ちん。』(徳を進める修養や道を体得するには、世の中の富貴に対して木石のように冷淡な考えをもつことが肝要である。もし一度、それを羨ましく思ったり頼ったりするとたちまち欲の虜(とりこ)になってしまい、修養ではなくなってしまう。また、宗教家として世を救い、政治家として国を治めるには、その去就に対して、行雲流水のような無心な心になることが大切である。もし一度去就に執着する心をもったが最後、たちまち危地に陥ってしまうだろう。救世も治国もあったものではない。)会社経営とは徳の実践であるともいえるもので、大いに発展を期すべきである。しかし、いったん徳を離れた行為をすれば、積み上げてきた徳はたちまち失われることを知らねばならないだろう。土地投機がさかんに行われていた当時、ある会社から土地投資について相談を受けたが、強く反対しておいた。ところがその社長、土地がだめなら土地に関係あるゴルフ会員券をと、何千万円かで買った。それが仇となって四苦八苦の状態に陥ってしまった。先日、私のところへやって来て、その処置について相談を受けた。そこで皮肉にもこう言ってしまった。「そのうち会社へ出勤しなくともいいことになるだろう。そうなったら、買ってあるゴルフ会員券を利用してプレーして回ったらいいだろう。」その社長が私を訪ねた理由は、倒産を防ぐために何か起死回生の儲け話はないだろうか、と聞きたいからに相違ない。そこで先手を打った。「一攫千金を夢見るより一躍千尋(いちやくせんじん)の谷を想え」と。つまり、一度に大金を得ることを考える前に、その結果は深い谷底に落ちることを考えるべきだ、という意味である。希望や夢がかなえられるなら、これほど幸福な人生はない。しかし、希望や夢は現実となって優く消えてしまうものである。その時、私は社長にこうも話しておいた。「最も頼りがいのある一人に頼みなさい。千人万人より大きな力を出してくれるでしょう」社長は、「それは私自身のことなんですね。やってみます」と手を上げて帰ったが、今もって便りがない。会社が手を上げてしまったのではないか、と心配しているのだが。とかく、窮すれば通ずというが、詰まるところまで詰まってしまうと通じなくなる。藁をもつかみたくなる気持ちもわからないではないが、一攫千金の道だけは選びなさるなといいたい。千尋の谷に通じていると思われるからである。別記したと思うが私は20歳で生涯計画を実行に移した時、これを貫くために、勝った、負けた、損をした、という趣味娯楽を断った。つまり一攫千金の道も塞いだことになっているが、たった一度だけ投機に手を出したことがある。すでに書いたことだが、朝鮮動乱不況の昭和30年に借金して株式投資をし、約2倍半に殖やして自宅を新築してしまったことである。それに、現役を退いてからは投機に明け暮れの生活といえるほどだが、それは賭博でもなければ、競馬、競輪でもない。天を相手の投機である。野菜の種をまき、施肥、除草など、資本と労力を生育に賭けることになるが、天候、害虫などに左右される。まさに投機である。当たればその処分に悩み、外れれば投下資本は皆無となる。これでは大型耕運機の分割払いにも支障がでてくる。ここでこう書くのも、夢にもならない夢のまた夢。広大な農地といっても駐車場の半端な土地、それも4ヶ所で150平方メートルほどのもの。大型耕運機どころか手押し一輪車も入らない。それを、専業農家だ、農繁期だと口にしているのであるから、他人様から見れば投機ならぬ頭が逃避してしまっていると思うだろうが、当たらずといえども遠からずである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.20
『小人(しょうじん)を待つは、厳(げん)に難(かた)からずして悪(にく)まざるに難し。君子を待つは、恭に難からずして礼あるに難し。』(小人に対して、いくらでも厳しくすることはたやすいが、それによって、その人間まで憎みやすい。つまり、その行いを憎んでその人を憎まないということは難しい。君子に対しては、その長所、美点を尊敬し、自分でへり下り恭(うやうや)しくすることはたやすいが、卑屈に陥らないで礼を尽くすという点は難しいことである。)私には、人の欠点、過ちなどを報じた人の言葉や活字に拒否反応を示す特異な神経があるらしい。欠点だらけの人間であったためかもしれない。誰々にはこれこれの長所があるといえば、いや、あの男にはこれこれの短所があるといい出す。あの人にはこういう功績もあるといえば、これこれの失敗もあるという。格別の魂胆があってのことではなさそうであるが、人を良い者にすれば自分がそれよりも劣る人間と思われやしないかとでも思うのではなかろうか。人が人をほめたら自分もほめる気持ちになるのが、大人といえる人間ではないかと思う。過ちを犯した人間にしても、まったく反省していない者は稀といえるだろう。少なくとも心の隅にでも自責の心が働いているに違いない。とすれば、他人まで責める必要はないといえるだろう。人が人の短所を指摘したら、その長所を見いだし、あるいはその人の心になって同情の心を注ぐことも欠かせないのではないか。そうあってこそ、その人も反省し心から改めようという気になるのではないか。銀行のあと、メーカーに勤めていた頃、生産部員が失敗したということで担当部長が私に報告にきた。私からすれば、現場で処理できる問題である。そこで「そこまでは目が届かなかったな」といっただけでことはすんだ。生産部のことなど目が届いていてもわからない私だったが、後で、大事にならなくてすんだ失敗社員に出会ったらニコニコ顔で、私のわからない目を見ているようであった。これは、また銀行時代の話である。ある行員が社内規則に違反した理由で退職を命じられた。人事部長であった私は、今後のこともあるので注意だけはしておいた。その行員が退職した後に、私は再就職先探しに努め、ようやく内定を得て本人に通知したところ夫婦でとんできた。「部長さんも監督不行届きということで頭取から怒られたという話を聞き、私は部長から憎まれ怨まれていると思っていました。就職の世話まで・・・」といって涙を拭いていたが、私は当人を憎む前に、当人の将来が気がかりでならなかったのである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.19
『人情は反復し、世路はきくたり。行きて去らざる処は、すべからく一歩を退くるの法を知るべし。行きて去るを得る処は、務めて三分を譲るの功を加えよ。』(人情は掌を返すように変わりやすい。人生の行路もまたけわしい。こうした困難な世渡りの秘訣として、人に譲る心が必要になる。たやすく通れない道は一歩退いて他人を先に通すようにすることである。また、たやすく通れるところでも、そのまま行かず十のうち三を他に譲るようにすればよい。)会議などで見られる風景だが、主題とかけ離れた論議になった時、それが発展して感情が加わり、ついにはけんか沙汰にまで発展することさえある。会議が論争になると互いに理性が失われ、会議の目的などは投げ出されるようになる。「わけのわからないやつだ」などと言い出す。わけのわからないのは、実は自分であることも忘れているのである。もし、会議の目的に外れていない意見なら素直に賛同すべきである。それが組織内の和を保つ一助ともなるし、自分の仕事を進めるための道にも通じてくるものである。私は銀行の課長時代、ある計画書を常務会に提案したが審議未了で6回も返され、7回目にトップとの直接交渉で承認を得たことがある。トップが承認印を押しながら「井原君は東京から北海道へ行くのに九州回りするような人間だな」といわれ、「世界一周をしても北海道へ行きます」と答えたことがあった。目的は計画の承認にあると考えていたからである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.18
『径路の窄(せま)き処は、一歩を留めて人の行くに与え、滋味の濃(こま)やかなるものは、三分を減じて人の嗜(たしな)みに譲る。これはこれ世を渉る一の極安楽(ごくあんらく)の法なり。』(狭い道では自分が一歩よけて相手に譲り、うまいものは三分減らして相手に食べさせる。こうした心掛けこそ人生をわたる上で一つの安楽の法である)歩いては他を追い越し、乗っては人を押しのけ、シルバーシートを若者が独占している。バイキングでは欠食児童さながらに振る舞い、自腹はきらぬが招待酒は斗酒をも辞さぬ、という御仁にとっては、本項の言葉は耳ざわりな文面であろう。シルバーシートに20・30代の翁が座っている。高年者が来ると目を閉じて狸になる。目を閉じるところを見ると、幾分良心が残っているらしい。もし、あるなら、さっさと席を立つべきである。こうしたことは電車内に限らない。立派な組織内にも見られる。出る杭を打ち、伸びる人の足を引っぱるなど、よく見かける手合いである。銀行員時代、トップを引きずり落として次席を担ぎ出そうとする運動が起きた。株主総会で演説するやら、飛行機でビラをまくやら大運動を展開していたが、結果は不首尾に終わっている。終わるはずである。主謀者たちの目的が、自分たちの野望を遂げるためであったからである。「邪は正を侵(おか)さず」という言葉がある。いかに策を弄しても結局、邪悪は正義には勝てないという意味である。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.17
『面前の田地は、放ち得て寛きを要し、人をして不平の嘆きなからしむ。身後の恵沢は、流し得て長きを要し、人をして不きの思いあらしむ。』(現世に処する心構えとして、何人にも公平にし、不平不満を嘆く人のないようにしたい。死後に残る恩恵については、長く後世に残して人に乏しい思いをさせない。いい換えれば豊かな思いをさせるようにしたい。)よくいわれる文句に「籠に乗る人、かつぐ人、そのまたわらじを作る人」。人が変わり、仕事は変わるけれども、この一つが欠けても仕事にはならない。人は皆同じ、職業に変わりはない、人は皆同格という意味である。ところが実際は、肩書や職業によって差別し、貧富によって見る目を異にし、態度、服装によってまで差をつけたがる。昔は士農工商などといって差別したし、男女の差別も著しいものがあった。私が銀行に入ったのは大正12年の4月で、関東大震災の半年前であった。当時、背広を着ていたのは役人と銀行屋ぐらいであった。おカネを取り扱っていた銀行屋などは、人々からおカネぐらい値打ちがあると見られていたらしい。ある銀行マンが、「葬式後の食事の時、坊さんの次に僕が座った」と自慢していたほどである。こうした銀行屋の考えは、太平洋戦争後にさらにエスカレートし、慇懃無礼の代名詞として陰口の種になっている。そうした中で私は昭和24年5月に本部の課長になったが、周囲から、年が一番若い、学歴なしの課長は初めて、などと言われて、それまで抱いていた劣等感はどこへやら、優越感が高まってくる。ある時、秘書室長だった島田竜郎という先輩に「私の長所はなんでしょう」と聞いたところ、「それが君の最大の欠点だ」と一喝され目が醒めた。さて、芽生えたうぬぼれ根性をどう斬り捨てるか。そうした時、思いついたのが、うぬぼれたくてもうぬぼれることのできない人たちとの交際ということだったのである。その手始めは、上野公園の、モク拾い(タバコの吸いがら拾い)、次いで、バタヤ、流し、石焼き芋屋、仲居、ホステス、競馬の予想屋、虫売り、サンドイッチマン、花売り娘から2人の乞食など40人近くにもなろうか。それを38歳から60歳の専務で終えるまで続け、その間、NHKテレビの「交際術」という番組に、こうした街の友人2人と共に出たこともある。また、取締役になった50歳の時、徳間書店から『やかん談義』という本を出版したこともあった。自分のヤカン頭と夜間をかけた書名である。これは街の人たちとの対談を中心に書いたものだが、実は他に目的があった。その第一は、銀行屋は、自分たちはエリート人種と思っているが周囲からは慇懃無礼人種と思われているので、中にはこういう銀行屋もいるのだという気持ちを知ってもらいたいと考えたからであった。その二は、自分に芽生えてきたエリート意識を根絶したいという願いである。その三は、当時から私は銀行は大衆化すべし、今言われているように中小企業、一般大衆を取引先とすべしという主張を強調してきたが、そうするためには、エリート意識を持たない人々と同じ心になる必要があると思ったからである。その四は、街で働く人々は苦労は体験ずみ、世間をよく知り、甘い辛いも知り尽くしずみの人だからである。仕事も、儲けるための商売ではなく、生き抜くための商売、真剣さが違う。私が対談中「商売の秘訣は」と聞いて即答できなかったのは、老女の乞食一人だけであった。今でも、時間を見ては道端の小さな畑に出る。通りがかりの人が目礼しても近所の中学生が言葉をかけてきても、こちらは帽子を取って礼をすることにしている。家族のものたちから、わざわざハゲ頭を見せることもなかろうに、と言われる。しかし、自然に手が帽子を取ってしまうのであるからいかんともなし難い。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.16
『貧家も浄(きよ)く地を払い、貧女も浄く頭を梳(くしけず)れば、景色は艶麗ならずといえども、気度はおのずからこれ風雅なり。士君子、一度窮愁蓼落(きゅうしゅうりょうらく)に当たるも、いかんぞすなわちみずから廃弛(はいし)せんや。(みすぼらしいあばら家でも庭をきれいに掃除し、貧しい女でも髪をきちんととかしておれば、見たところはあでやかではないが自然の趣もあり気品も感じられる。これは人も同じで、万一失意のドン底に落ちても、やけを起こして投げやりになってよいものか。)ここに、大槻磐渓作「太田道灌蓑を借る」と題した詩を引いてみる。孤鞍(こあん)雨を衝(つ)いて茅茨(ぼうし)を叩く小女為に遺(おく)る花一枝(いっし)小女は言わず花は語らず英雄の心緒乱れて糸の如し太田道灌が狩に出て夕立にあったが雨具がない。一軒のあばら家を訪ねて雨具を借りようとした。これにこたえるかのように一人の少女が山吹の花一枝を差し出した。が、道灌はその意味を解しかね心は千々に乱れてしまった。帰城して聞くと「七軍八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞ悲しき」山吹は、花は咲くけれども実はつけない。実と雨具の蓑をかけた歌であることを知り、以後歌の道に励んだという。英雄の心緒の乱れは、少女の粗末な姿の中に秘められている高い教養によって、さらに増したのではなかろうか。この思いは、着飾った女よりも紅襷(べにだすき)姿の茶を摘む乙女が美しく見え、田植え姿の女性にたのもしさを感ずるに等しいのではなかろうか。外は粗末でも心は錦を思わせるからであろう。演歌「王将」にも「破れ長屋で今年も暮れた、愚痴もいわずに女房の小春、つくる笑顔がいじらしい」。夫・坂田三吉に尽くす女房の心根が知れて、破れた長屋も瀟洒(しょうしゃ)な家に見えてくる。そこへいくと、三千年も昔の話だが、太公望の女房は夫が読書に明け暮れて稼がず、食にもこと欠くというので家出してしまった。後に太公望が出世して大名になると帰ってきた。そして言うには、「私はもともと、あなたの妻、これからも妻として仕えさせていただきます。」この時、太公望はだまって器の水を地上に投げ、「あの水をこの器に戻しなさい」といったという。「覆水盆に還らず」のいわれだが、気の短い男なら器の水を地上に投げず、女の顔に投げつけたであろう。本項の最後に、「万一失意のドン底に落ちても・・・」とあるが、まさにこのとおりで、一度や二度ドン底に落ちたからといって、自分の気持ちまで落としてしまうようでは、片隅にも置けないといわれるだろう。「やると思えばどこまでやるさ、これが男の魂じゃないか」 -「人生劇場」の一節だが、敗北を悔いるより自分が生まれてきたことを悔いよ、といいたい。敗れても破れても、やると思ってどこまでもやり抜く、これが男の魂じやないか、である。武田信玄は「成せば成る、成さねば成らぬ成る業を、成らぬと捨つる人の浅はか」と詠んでいる。やればできるのに、できそうもないと言ってやらない、馬鹿げたことだ、という意味だろう。私の失意貧困時代の最盛期といえたのは20歳前後であったが、当時悟ったことは、もし失意のドン底に落ちたなら、一切の依存心を断って自分一人だけとなる。なれば、自分の心身の力が蘇ってくるということであった。『言志四録』には「一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂うることなかれ。ただ一燈を頼め。」とある。要するに、暗いドン底に落ちても心配しないで、ただただ自分一人を頼りにしなさい、という意味である。ドン底に落ちた人間のセリフは捨て鉢的なもので「神も仏もあるものか」であるが、神も仏もいないわけではない。ただ、自分一人の力でドン底からはい上がろうと努力している人だけに手を差しのべているだけなのである。近年のように不況で失意の人も増え、神も仏も多忙を極めているのだろう。そうそう手もまわりかねているらしい。こう考えると、私という人間は幸福だったと思う。なぜなら20歳のいわゆる青春時代に脱毛症でヤカン頭になった。いまだに治療法が見つかっていない難病、神や仏でもさじを投げているほどのもの、これでは頼みたくても頼めない。そのため、ヤカンを抱えてヤケになるか、それとも、ヤカンを忘れて力を尽くす道を見つけるか、二者択一となる。毛はなくても目は見え耳も聞こえる。聞いて学び、見て学ぶことはできることに思いつくことになる。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.15
『家人過あらば、よろしく暴怒すべからず、よろしく軽棄すべからず。このこといい難くば、他のことを借りて隠にこれをほのめかせよ。今日悟らざれば、来日を俟って再びこれを警めよ。春風の凍れるを解くがごとく、和気の氷を消すがごとくして、わずかにこれ家庭の型範なり。』(家族の者に過失があっても荒々しく怒ってはならない。といって何も言わず、ただ捨ておくのもよくない。もし、言いにくいことなら他の事にかこつけて婉曲に話すことである。一度で効き目がなかったら、時が過ぎてから話すがよい。そうすれば春風が氷を解かすように、穏やかなうちに家庭の円満を保つことができる。)周朝を開いた武王の弟の周公が、兄の子である幼い成王の教育係となっていた。周公としては、幼いといっても国王の子、厳しく教育するのもはばかることになる。そこで周公は自分の子伯禽を鞭打って、暗に成王を戒めた。伯禽が成長して大名に封じられた時、周公は次のようにわが子を戒めた。「自分は文王の子であり、武王の弟である。現在の国王である成王の叔父である。しかし自分は一度髪を洗う間も、洗いかけた髪をつかんだまま何度も人に会い、一度の食事中でも、何回も口中の食物を吐き出し、待たせることなく、すぐ会うようにして人材を待遇した。これほどにしても天下の賢人を失いはせぬかと心配している。おまえも魯の大名になったならば一国の君であることを自慢して、人民におごりたかぶってはならないぞ。」「三度哺(ほ)を吐いて王師(おうし)を迎う」の故事である。直接戒めては反発されるであろうことも、婉曲にさとせば素直に聞き入れられる。現役時代、ちようど石油ショック後の不況時であった。担当部長が全店各部門に対し節約指令を社長通達で出した。幾日か後の会議の際、部長が、「節約指令を出したが実行されていない。社長通達を無視している。先が思いやられる。」と苦情を述べている。会議が休憩に入ったので、私はそれとなく雑談の中でこう話した。「私は何度も中国へ社用で行ったが、暇をみては農村地帯にまで足を運んだ。実りの秋というのに雀が一羽も見当たらないので案内の人に聞いたところ、雀が降りてくると鐘太鼓で音を立てて追い払う、また降りようとすると音を立てる。雀は長く飛んでいられないので落ちてしまう。そこを捕まえて全滅させたと話してくれた。実力行使作戦といえるし、日本ではかかしを立てるが、雀は見馴れてくるとかかしに止まって羽休めをしている。」と。くだんの部長が「我々をかかし、と言いたいのでは」と聞き返したので、それが分かればあとは言うまい、と話しておいた。間接説法の方が効き目があると思われる。そのあとで、次の話をつけ加えた。「私が銀行の証券課長時代、時折り兜町の空気を吸いに出かけた。ある時、取引のあった三木証券へ立ち寄り、社長に敬意を表すべく面会を求めた。社長は鈴木三樹之助さん、和服に前掛けをし、社員と変わらない机に向かい、机の上には古封筒、ハサミ、ノリが置いてある。古封筒を裏返して再利用している。それに和紙を細く切って紙縒(こより)を作っている。何かを綴じる準備だろう。そこへ和菓子を二つ出され、召し上がれとすすめられたが、社長の前に菓子はない。食べるわけにもいかない。挨拶だけで帰ったが、送り出してくれた外務担当の社員。「あのお菓子は地下の売店で二つだけ買ってきたものです。食べなくてよかったですよ、社長は次に来た客にも出すつもりですから。客が来なければ自分で持ち帰る。私も一度だけ伊東温泉へお供したことがあるんですが、駅前の果物屋さんへ寄って皿盛りの果物を買って旅館へ行くんです。ナイフだけは持って行きます。安い皿盛りは少々傷がついています。それを削り取るためです。」この三木証券、昭和40年の証券パニックの時、証券会社発行の小切手は誰もが警戒して受け取りを拒絶したといわれた中で、四大証券のうち三社と三木証券だけは現金並みに扱われたという。その頃、故大平正芳総理大臣は、池田勇人総理の秘書官だった。三木証券社長の紹介で大平さんと二人で飲んだが、社長の娘が大平さんの奥さん。いずれも慧眼であったことは間違いない。封筒の裏返しが婉曲に大きな信用につながっている。社長はそこまで考えていたかどうかわからないが、結果は確かに事実を証明しているのである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.14
『飽後に味を思えばすなわち濃淡の境すべて消え、色後に婬を思えばすなわち男女の見ことごとく絶ゆ。ゆえに人、常に事後の悔悟をもって臨事の痴迷を破らば、すなわち性定まりて動くこと正しからざるはなし。』(満腹した後は、うまいまずいの区別もなくなり、情事の後では男女の欲も消えてなくなる。したがって常に終わった後の気まずさ、味気なさなどを思い浮かべ、事に臨んで、そこで起こる愚かな迷いを醒ますように心がければ、本心が定まって行動で過ちをおかすことがなくなる。)ここで教えることは、誰しもわかっているのであろうが、一瞬のブレーキがきかなくなる、人間の性である。「わかっちゃいるけど止められない」と言わず、わかっていたなら止めるべきだ。一瞬の心のゆるみが、大事の元となるのであるから。『荘子』には「小惑は方(ほう)を易(うつ)し大惑は性(せい)を易す」(小さな惑いならせいぜい方角を間違える程度のことですむが、大きな惑いは生まれながら持っていた本性まで取り違いかねない-つまりやり直しのきかないことを招きかねない。)とある。さらにいえば、小さな惑いが身も国をも亡ぼしてしまうものである。殷の紂王は象牙の箸のぜいたくから発展して国を亡ぼし、これを亡ぼした周の武王は、逆に犬一頭の溺愛を捨てて周朝の安泰を約束している。いずれも一瞬の判断が明暗を分けているといえよう。会社や団体などの公私混同などにしても、最初は法も許すであろうほどの小さな額から出発しているものである。現役時代、ある会議の休憩時間に唐の太宗の「肉を割いて、もって腹に満つ」の話をしたことがある。太宗はあるとき側臣にこう語ったという。「人君は国のおかげで立っていられるものであり、国は民によって立つものである。それなのに民から重い税金を取りたてるのは、ちょうど、自分の肉を切りさいて、腹一杯食べるようなものだ。腹が一杯になったときには、わが身は死んでしまい、君が富んだときには国が亡びてしまうだろう。」この戒めは会社にも通じることで、会社のカネで私的に飲み食いすることは、会社を食っているのと同じ、会社を食いつぶすことは、自分たちを食いつぶすのと同じ結果を招くだろう。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.13
『餓うればすなわち附き、飽けばすなわちあがり、あたたかなればすなわち趨き、寒ければすなわち棄つ。人情の通患なり。君子はよろしくまさに冷眼を浄拭すべし、慎んで軽々しく剛腸を動かすことなかれ。』(飢えている時はつきまとうが、満腹になると飛び去ってしまう。こちらが裕福の時は寄り集まってくるが、落ち目になると見捨ててかえりみなくなる。これが人情の通弊である。こうした現実に対して、君子としては目をぬぐい清めて冷静に直視すべきだ。軽々しく世間の人情にふりまわされてはいけない。)中国の戦国時代、中小国の燕・趙・韓・魏・斉・楚の六ヶ国を歴訪して同盟を結ばせ、強国の秦に対抗させた男がいる。蘇秦である。この時の口説き文句が「鶏口となるも牛後となるなかれ」、すなわち「強国秦に屈して臣となるよりは、同盟を結んで独立を維持し名誉を保ちなさい」である。この蘇秦、一回目は失敗し、哀れな姿で家に帰り、家族の冷たい仕打ちにあう。つまり妻は織機から下りず、兄嫁は食事の仕度さえしようとしなかった。二度目には成功し、六ヶ国の宰相を兼ね、大名行列に劣らない盛大な姿で帰ってきた。妻も兄嫁も地に平伏して頭も上げない有様。蘇秦がその訳を尋ねると、地位が高くなり金持ちにもなったからだ、と答えた。蘇秦は「同じ人間なのに貧富によって差がつくのか」といって、持っていたカネを与えたという。「花開けば万人集まり、花尽くれば一人なし」は詩の文句だが、たとえ花は尽きても、そこに隠れている来年のつぼみを見いだすことができたら、心も和んでくるのではないかと思う。戴益(たいえき)作「春を探る」の詩の中に「春は枝頭に在りて已に十分」(春は梅の木全体を見なくとも、小枝の先に現れている小さなつぼみを見つけただけで十分である)とあるが、人の心の片隅にでも相手を思う心がありさえすれば満足するものである。ある会社へ入った時、創立以来の社員までが去っていく。退職届を郵便で送り届け、他社へすでに移っている、という話まで耳に入ってくる。去る人を追う気持ちにはなれなかったが、淋しい気持ちは続く。引き留めても留まらなかったと嘆く担当部長と飲んだ時、こんな話をしたものである。「『淮南子』という本に『一葉落つるを見て、歳のまさに暮れんとするを知り、瓶中の氷を見て、天下の寒さを知る』、木の葉が一枚落ちるのを見たら年の暮れはもう近いことを知り、瓶の中の氷を見たら冬の寒さを知るということで、小さな現実から大きな変化を知るという意味だ。坪内逍遙の芝居『桐一葉』は、豊臣家の衰亡を見越して「賎ヶ岳(しずがだけ)七本槍」の一人片桐且元が、疑いをかけられて大坂城を去っていくのを、木村長門守が見送り別れを惜しむ場面だ。今、会社の人たちが去っていく。部長が別れを惜しんでいる。しかし、長門守が別れを惜しんでも且元は帰らなかった。去る人を追って経営はできない。ここは、去った人間の穴をどう埋めるかを考えるのが、任務に忠実ということになるのではないか」 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.12
『家庭に個の真仏あり、日用に種の真道あり。人よく誠心和気、愉色婉言もて、父母姉妹の間をして形骸両つながら釈け、意気こもごも流れしかば、調息観心に勝ること万倍なり。』(家庭の中にも一個の真正の仏様がいるし、日常生活の中にも一種の真正の道がある。一家中が誠実おだやかに心を解け合わせて暮らすことができれば、呼吸をととのえ坐禅を組むよりも万倍の効があるものだ。)人間社会で最も美しいものは、と聞かれ「家庭の和」と答えたことがある。この美しさは家庭に限らない。会社内の和に、国民の和、いずれも代え難いあたたかさと力強さを与えてくれるものである。それならそうした和は、どうすれば築かれていくのかの答えは、お互いの思いやり、言い換えれば礼を守ることといえるだろう。つまり、自分の置かれている立場を考え、それにかなうよう努めることではないかと思う。かつて、長男が結婚して数年たった頃であったろうか、その嫁の叔母という方と出会った時、「私の姪がお宅へ嫁に行っていますが、よくやっているでしょうか」と聞かれ、こう答えたことがある。「あれには一つ欠点があります。私は仮にも親。親として時には注意をしたり叱ってみたくもなるものですが、それが一度もできないでいるわけです。これが一つの欠点です。」と。あれから30年近くになるが、その欠点はいまだに改まっていない。改められて一番困るのはこの自分なのであるが・・・。先日、あるところで「90過ぎまで長生きして、一番幸せであった時代はいつごろか」と聞かれ、「35歳から55歳までの20年間」と答えた。そのわけをこう説明しておいた。「35歳は太平洋戦争が終わり私が復員した年だが、その年から、銀行の常務取締役までの25年間、母の膝に頭をのせ、風呂敷を首に巻かれ、手動バリカンで散髪してくれた一回2、30分間の幸せは、どんな幸せにも及ばないものであった。その頃、少し伸びてくると母がバリカンと風呂敷を持ち出してくる。50を過ぎた銀行の常務が母の膝の上に頭をのせる。手動バリカンは毛を切り終わるとバチッと音がするが、母はすでに老人性難聴症、その音が聞こえない。音なしのまま離すから毛が挾まれて痛い。私が声を出すと母が笑い出す。その笑い声がいまだに耳に残っている。幼な子が母親の乳房をつかんで母を見上げている。感謝の心からではなかろうか。中年男が乳のみ子の心になる。これほど心を和ませることはない。」 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.11
『功名富貴の心を放ちえて下せば、すなわち凡を脱すべし。道徳仁義の心を放ちえて下せば、わずかに聖に入るべし。』(誰しも富貴を望まぬ人はいないが、これを求めようとする心を流し去ることができれば、凡俗の域を脱することができる。同様に、形式ばった道徳仁義の心を流し去ってしまえば、逆に多少なりとも立派な人間に近づくことができる。)老子は「天地が悠久なのは長く存在しようと思わないからだ。聖人が人の先に立てるのは先に立とうとしないからだ。成功者は自分を没却するから成功するのである。」と述べている。私は私なりに「自分を捨てきれない者は、会社を捨てるか自分が捨てられる」として自ら戒めている。歌謡曲の「柔(やわら)」に「勝つと思うな、思えば負けよ」とあるが、試合前から勝ちを意識しているようでは真の力は出ないし、臨機応変のとっさの知恵も出なくなるだろう。私がある投資名人に「株式投資で儲ける秘訣は?」と聞いたところ、「無念無想の境地」とたったの二言がハネ返ってきた。私は起床は四時、そのあと三百まで数えながら全身体操を続けている。朝食は遅くとも五時までに済ませ、食器を洗う。そこに家族のものがあれば、すべて洗ってしまう。「そこまでしてもらわなくとも」と家族はいうが、見ると放っておけなくなる。私の持病だ、といっておくが、これを家族のためと考えたら、そう長続きはしなかろう。丹精して育てた野菜や果物が時々盗まれる。惜しくないのか、怒りたくないのかといわれるが、自分が道楽したものの余り物と思っているから、頭にくるなどということはまったくない。渋沢栄一翁の話の中に「父からよくいわれた話だが、隣村に九十郎という70になる老人がいた。若い頃から商売に精を出して、カネも土地も多く蓄えた。あるとき孫たちが集まって『うちにはおカネも田畑もたくさんできているから、そんなに働かないで、伊香保温泉でも行ってノンビリしてきたら』といったところ爺さんが怒って、『おまえらはそろってわしに道楽を止めろというのか、この不幸者たちめ。おまえたちは、なんぞというとカネだ土地だというが、あんなものはわしの道楽のカスだ。』皆さんもせいぜい道楽をして、そのカスをたくさん貯めてはどうか」と。次の話を小冊子で読んだことがあった。ある男、食べたいものも食べず、高利貸しまでやってたくさんカネを貯めた。病気になり臨終も近くなった頃、奥さんが、「一生懸命おカネを貯め続けたのに、使わずに死んでしまうのはさぞ心残りでしょうね」と言ったところ、「いやいや、わしはたくさんカネを殖やし貯めることが道楽で、貯めたカネにはなんの興味もない。おまえに全部やるから存分に使いなさい」といって息絶えた、とあった。その頃から私は椿の花に興味を持ち、五百種類の挿木で殖やして何千本かになっていた。女房曰く「『私は椿を殖やすのが道楽だ、殖やした椿には未練がない、おまえにやる』といわれても困りますよ」と。その椿、毒毛虫の発生に負けてしまい、今残っているのは何本だろうか。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.10
『父兄骨肉の変に処しては、よろしく従容たるべく、よろしく激烈なるべからず。朋友交遊の失に遇いては、よろしく剴切(がいせつ)なるべく、よろしく優ゆうたるべからず。』(親兄弟の異変に対処するときは冷静沈着であるべきで、決して激しく感情に出してはならない。友人が過ちを犯したときは、親切に忠告するがよく、それをためらってはならない。)別項で友人との例として、管仲、鮑叔牙の交友を述べているので、ここでは「糟糠(そうこう)の妻」の故事をあげてみたい。後漢の祖・光武帝には未亡人の姉・湖陽公主(こようこうしゅ)がいた。姉は、かねてから大司空の要職にあった宋弘と再婚したいと願っていた。それを知った帝は、なんとか姉の望みをかなえてやりたいと考え、ある日、姉を別室に控えさせ、宋弘を呼んでこう切り出した。「よく、『富みては交わりを易え、貴くしては妻を易う』(裕福になったら友を替え、位が高くなったら妻を替える)といわれているが、貴公はその辺のことをどう思うかね」いかに帝といえども、姉と結婚してくれとは言いかねたからであろう。宋弘は、これは姉と結婚しろ、という意味だろうと考えたが、はっきりとこう答えた。「貧賎の交わりは怠るべからず、糟糠の妻は堂より下さずというのが本当の道だと思います。」すなわち、「貧乏時代の交友は忘れるべきではないし、糟(かす)や糠(ぬか)を食うような貧乏を共にした妻は、たとえ名利を得るようになっても、捨てたり粗略に扱うべきではないと考えるのが人の道だと思います。」と。光武も姉も、この一言であきらめたということである。兄弟仲にしても、その多くは親からの遺産相続が原因で悪くなっている場合が多い。事情はどうあれ、第三者から見ても醜いものである。「泣く泣くも良い方を取る形身分け」という川柳があるが、泣く泣く取っても後々までしこりが残る場合も少なくない。親の遺産争いで一生の角突き合いほど馬鹿げたことはない。私は女房にも長男の嫁にも相続権を辞退させた。いずれも高価な放棄であったようだが、将来の感情的なしこりに比べれば安いものであったと思う。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.09
『人の悪を攻むるときは、はなはだ厳なることなかれ。その受くるに堪えんことを思うを要す。人を教うるに善をもってするときは、高きに過ぐることなかれ。まさにそれをして従うべからしむべし。』(人の悪を責めて善に導こうとするときは、あまり厳し過ぎてはならない。相手がそれに耐えられるかどうかを考える必要がある。また人に教えて善をさせるにも、あまり目標が高過ぎないようにすべきだ。その人が心服し、実行できるように心がけるべきである。)組織内で部下を教え導く目的は、非を是に、悪を善に改めることが目的であって、怒り叱ることが目的ではない。もし、権力を笠に着て力に依るとしたら、結果は威服はするが心服する者はなくなるであろう。また、職場は上司の威厳を示す場ではない。威厳を伏せる場である。現役時代、会社の会議室の前を通ったところ、生産部の課長が頬杖をついて新入社員に講義しているのが目に止まった。さっそく人事部長に電話して注意するよう話した。しばらくして人事部長を伴って現れたので、こう言った。「課長が今日頬杖をついて講義していた件は永久に忘れよう。すぐ、ここに来てくれたことは永久に記憶しておこう。私から言ことはそれだけだ。帰って仕事をしてもらいたい。」これだけであったが、私が退職した頃、この課長は海外の子会社の責任者に出世している。好意ある一言は百言の効を示すものだが、敵意ある百言は一害をも除き得ないものである。ある部長を訪ねたときである。一人の部下を直立不動のまま、多数の部員の前で叱りつけている。「君のおやじの顔が見たいほどだ」とまで声を張り上げている。どのような過ちを犯したのかわからないが、父親まで引き合いに出すことはなかろうに。中に入って私は「部長のお父さんの顔を見たい」と皮肉まじりに言っておいた。部下に注意するにも一対一ですべきである。街道一の親分といわれた清水次郎長は、人前で子分を叱ることは決してしなかったという。名親分の誉れが高いのは、厳しい中にも思いやりがあるからなのである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.08
『人は名位の楽しみたるを知りて、名なく位なきの楽しみの最も真なるを知らず。人は餓寒(きかん)の憂いたるを知りて、餓えず寒えざるの憂いのさらに甚しとなすを知らず。』(世の中の人々は名位、名声があることを幸せだと思っているが、それらから離れた人の楽しみ、幸せこそ最高なものなのである。世の中の人々は飢え、寒さに凍えることを不幸と思っているが、富貴にとらわれた者にこそ、一層深刻な悩みのあることを知らない。)『書経』に「五福、一に曰く寿、二に曰く富、三に曰く康寧(こうねい)、四に曰く好むところは徳、五に曰く終命を考(な)す」とある。すなわち、幸福の五大事とは、長命であること、裕福であること、達者で安らかであること、道徳を好むこと、長命天寿を全うすること、という意で箕子(きし)が周の武王に告げた言葉とされている。また、北宋のていいの言として、弟一に年若くして優等で官吏登用試験に合格すること、第二に父兄の権力によって良い官職につくこと、第三に優れた才能があって文章がうまいこと、この三点を三つの不幸とし、その理由として学問の未熟、騎慢、徳の不足を招いて、人間としての大成を妨げるとしている。いずれも理にかなったもので噛みしめるべき言葉であるが、幸不幸は自ら求めるもので、他から求められるものではないということである。だいたい、苦と思えば苦だが、苦は楽の種と考えれば苦もまた楽しということになる。何度も書いたように、私は苦から出発しているためか、苦は楽のタネとだけ考えて歩んできた。そのため、理屈に合わないことまで苦を楽に置き換えてきたためか、それほど苦を苦と考えないようになっている。借金は苦か楽か。私は素直に楽と考えるという具合である。人生の楽とは何か、と聞かれたら「苦は楽と考えること」と答えるだろう。苦を苦と考えるから、今述べた五つの福をも逃がしてしまうのではないか。その昔、会社の借金をゼロにし、不動産の権利書と社長個人の保証書を銀行から取り戻して社長に返した日、帰宅して女房に、「今日は、若い頃親からの借金返しをしたのに続く、会社の借金を返済した楽しい日だ。一本余計につけてくれ」と話したところ、「二本つけましょう、二度あれば三度あるといいますから。もう一度借金返しの楽しみなど味わってもらいたくないですから」という返事であった。しかし、借金返済を志して次第に減っていく借金残高を見ていると、体を押さえつけている重い石がだんだん軽くなっていく気がしてくる。この楽しさは、重い石をハネのけた経験者でないと分からないものである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.07
『世を蓋(おお)うの功労も一個の衿(きょう)の字に当え得ず。天にわたるの罪過も、一個の悔(かい)の字に当え得ず。』(世に知られた大きな功労も、これを誇る心が出てはなんの値打ちもなくなり、有名な大きな罪過でも悔い改めるようであれば、それも消滅してしまうことになる。)組織ぐるみの功績を独り占めしようとすると功は無になるが、組織全体の功とすれば将一人の功と見てくれる。前漢の劉邦と争って破れた項羽を、かつての部下であった韓信が評している文句がある。「項羽が怒ると部下は恐怖にかられてひれ伏してしまい、部下に事を委(まか)すことも知らない。部下を信頼できない者は、いかに威厳を見せても一凡夫の勇でしかない。それに、部下に恩賞を与える時も手に汗がにじむほど握って離そうとしない」と。この言葉からも、項羽は力も手柄も独り占めしているかのようである。功は部下に譲り、責は自分で負う心であれば、かえって己の功は認められるものである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.06
『桃李は艶なりといえども、何ぞ松蒼柏翠の堅貞なるにしかん。梨杏は甘しといえども、何ぞ橙黄橘緑の馨れつなるにしかん。まことなるかな、濃夭は淡久に及ばず、早秀は晩成にしかざるや。』(桃やすももは美しい花を咲かせるけれども、常に青さを保つ松や檜の見事さには及ばない。梨や杏の実は甘いが、橙やミカンの高い香りには及ばない。そこでいえることは、きらびやかだが長続きしないものは、地味だが長続きするものには及ばない。早成は晩成にしかず、である。)中国・宋の司馬光は『資治通鑑』で「もののにわかに長ずるものは夭折し、功のにわかに成るものは亟壊す」、すなわち突然、だしぬけに成長したものは早いうちに失敗するといっているが、これは会社、個人にも見られることである。たとえば、堂々と華やかに開店した大型小売店が行きづまり、右から横書きにされた古びた看板を掲げた小型店が繁盛を続けている。桃李を看板にしたか松蒼柏翠を用いたかの差にたとえられよう。私が、ある会社の再建に当たったときである。その会社は、なんぞというとストライキに入り、赤旗が立ち並び、ストビラが張り出される。営業中であるのに空き地に集まっては気勢をあげている。その勢いは強く、幹部の連中さえ会社に向かって職務を尽くしているのか、労組に向いてしているのか判断に苦しむほどであった。そのため組合の幹部ともなると、その態度たるや天皇と呼ばれるほどのものであった。毎朝本社ビル、工場入り口で組合幹部がビラ配りをしている。そうした中で一人の若い社員がほうきを手にして庭掃除をしている。その社員は夜学にも通っているという。誰から命ぜられたわけでもない。彼を見て知っていた者は工場の守衛と、組合のビラ配り員、そして就業時間の一時間前に必ず出社していた私だけであったろう。会社の非を攻撃する者もあれば、工場の美に努める者もある。異様な光景を目の当たりにして、同じ働く青年社員の様々な心根を思い、うれしくもなり、悲しくもなったものである。しかし、この両者の将来の違いは予測することはない。現在すでに決定しているようである。一人は昨年の暮れに、社用で一時ドイツから帰国して浦和の私を訪ねてくれた。今、ドイツの子会社で竹ぼうきは手にせず采配を手にしているという。一方の、ビラ配りでわが世の春を謳歌していた者は、工場の隅で仕事じまいの片づけにほうきを手にしているのではなかろうか。まさに「桃李は艶なりといえども、何ぞ松蒼柏翠の堅貞なるにしかん」である。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.05
『富貴の地に処しては、貧賎の痛養を知らんことを要す。少壮の時に当たりては、すべからく衰老の辛酸を念うべし。』(地位や財産を築き上げたら貧賎であった当時を思い、現在、恵まれずに苦しんでいる人のことを理解することが必要である。若くて盛んな時は、年をとり弱り衰えた時のつらさを思いやるべきである。)前にも書いたが、銀行の青年行員といわれた当時、書家でもあった老行員が唐の詩人劉庭芝(りゅうていし)の詩を書いて説明しながら、「ここにある『宛転たる蛾眉(がび)能く幾時ぞ。須臾(しゅゆ)にして鶴髪(かくはつ)乱れて糸の妖し』(美しい眉を誇るのも幾時の問ぞ。たちまち鶴のような白髪が糸のように乱れかかる。)井原君だって、今若さを誇る眉毛をしているが、そのうち、私のような雪眉毛に変わってくる」と言われたことがある。自分だけは例外だ、と思い込んでいたものであったが、今では眉毛さえなくなっている。時折りペンを止めては天井を見据えることがある。そんな時、無意識のうちに頭に浮かんでくるのが、唐の政治家張九齢(ちょうきゅうれい)の詩「鏡に照らして白髪を見る」である。「宿昔青雲の志、蹉だたり白髪の年。誰か知らん明鏡の裏、形影自ら相憐れまんとは。」(昔、青雲の志を抱いていた自分も、つまずき、今は白髪頭になってしまった。その白髪頭を自分が鏡に映して淋しく悲しく思うとは、考えてもみなかった。)唐の詩人杜甫は「春望」と題した詩に「白頭を掻けば更に短く、すべてしんに勝えざらんと欲す」(白髪頭を掻くと短い毛ばかりが残って、今では、冠を止めるかんざしも差せなくなってしまった)と詠んでいる。時代が変わり、人が変わっても人情は変わらぬもの。白髪を悲しむ思いは同じである。この春だったか、農作業に疲れたので捨て石に腰を降ろして休んでいた。すぐ前を、幼い子供を中にして若夫婦が通り過ぎた。思わず「人生の黄金時代ですね、大事にしたいもんですね」と声をかけた。そして「もう一度私もその坊やのようになってみたい」思わず巧まず出た言葉だったが、張九齢は鏡を見て自ら憐れみ、私は幼い坊やを見て自ら憐れんでいる。といって、老いて悲しみだけを残しているわけではない。張九齢にしても官にある時は、安禄山に反相ありとして、反乱を予想して忠言をあえてしている。不幸なことに、事は忠言どおりになったが「尽くすべきことは尽くした、やるべきことはやった」という自分の心の満足は残ったに違いない。これは比較にもならないことだが、私は銀行員時代、特に終戦後から、銀行は大衆化すべし、リテールバンクに徹せよと主張し続けてきた。もし、その方針が貫かれていたとすれば、今日の銀行は姿を変え、国破れて山河ありの悲哀を招くことはなかったろうと思い返してくると、自分なりの誇り、自己満足だけは得られる。また、現在老いの不自由はあるが、20歳の時に自分なりの人生計画を立て、70余年たった現在もそれに従ってきていることにも、自分だけの誇りを感じているのである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.04
『欺詐(ぎさ)の人に遭わば、誠心をもってこれを感動し、暴戻(ぼうれい)の人に遭わば、和気をもってこれを薫蒸(くんじょう)し、傾邪私曲の人に遭わば、名義気節をもってこれを激礪(げきれい)す。天下、我が陶冶の中に入らざるものなし。』(詐欺師のような人間に会ったら真心をもって接して改心させ、乱暴者に出会ったら温和な態度で感化させ、心のねじけた小悪人に会ったら人間としての道を教えて改めさせる。このように心がけると、天下の人の全てを正しくすることができる。)銀行員として勤務していた時代、それも戦後間もない頃のことである。当時は電話接続のため電話局には電話交換手がおり、銀行や会社などにも交換室があった。交換手はだいたい女性であったが、その応対ぶりは直接顧客に知れ渡るため、交換手の態度で銀行の接客態度そのものが評価される。当行の態度が悪いという評判が立ち、その是正をどうすべきかが問題になった。交換手は窓口担当とは違い、銀行員とは見られず、単なる交換手として見られ、本人たちも劣等感を抱いていた。そこで私は、交換室を店長室の隣にするよう献言し実現させたところ、たちまち改まって、優秀交換手として中央から表彰を受けるに至った。もちろん銀行の名誉として頭取表彰も受けている。これは次に移った会社でのことになる。ある時、人事部長が社長に呼びつけられて大目玉をくらっている。理由は本社の受付係の態度が悪いということであった。人事部長の教育が悪いからという理由である。私は見かねて「私に任せてください」といって、その場はすんだ。翌朝から受付嬢の前で立ち止まって「おはようございます」と一礼することにした。それを受けて彼女たち二人も立ち上がって挨拶してくれる。私を訪ねてきた人から「おたくの受付は相当訓練されていますね」とほめられたので、彼女たちにケーキを買って渡した。十日ほどたった時、社長が独り言のように、「最近受付の態度が変わりましたね」といっていたが、上が礼を示せば下も礼を返す。孟子ではないが「人の性は善なり」なのである。昔から「人のふり見てわがふり直せ」と教えられてきた。他人の立派な態度を見て自分の悪い点を直しなさい、という意味だが、上に立つ者が自ら改めれば下は自ら直ることになる。現役時代、私は埼玉県の浦和から東京・池袋へ行き、西口ヘ降り、タクシーに乗っていた。その際に必ず「おはようございます。お願いします」と言って乗り込むことにしていたが、同じ運転手さんに出会ったことが何度かある。一人の運転手さんから「どちらのお寺さんですか」と聞かれて面くらったことがある。坊主頭からも、どこかのお坊さんと思ったらしい。池袋西口で朝の挨拶をして車に乗る人は二人いるが、もう一人もどこかのお坊さんとか。私のようなお経も知らない頭だけ坊主も、口のききようによっては本物に見えることもある。人を正そうとするならまず己を正すことである。己を正せば、いわず教えず人も自ら正すことになる。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.03
『念頭の寛厚なるものは、春風のく育するがごとく、万物これに遭いて生ず。念頭の忌刻なるものは、朔雪の陰凝するごとく、万物これに遭いて死す。』(心が寛く、あたたかい人は、春風が万物を育てるように、そういう人のもとではその恩恵で成長する。これと反対に心の冷たい人は、北地の雪が万物を凍結してしまうように、すべての物が死滅してしまう。)『大学』に「富は屋を潤すも、徳は身を潤す。心広くして体ゆたかなり」とある。財産は家屋敷を立派にするだけであるが、徳というものは自分自身を立派なものにする。その心持ちは広くゆったりとし、その体つきは丈夫で健やかである、という意味である。現代の職場でも見られることだが、部下を指導する場合、上に立つ者が自ら手本を示し、つまり部下を教え導いて感化する者と、部下を厳しく教え導こうとする者とがある。前者には、心からそれを学び従おうとする気持ちが起こるが、はじめから厳しく教え感化しようとする者には、まず厳しさに反発する心が先行するため、心から従い学ぼうとする心が遅れ鈍くなる。「身をもって教うる者は従い、言をもって教うる者は訟(あらそ)う。」『後漢書』にある言葉である。イソップに、太陽と風が旅人のマントを脱がせる寓話があるが、経営にも通用する話であるといえよう。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.02
『道はこれ一重(いちちょう)の公衆物事(こうしゅうぶつじ)なり、まさに人に随(したが)いて接引すべし。学はこれ一個の尋常家飯(じんじょうかはん)なり、まさに事に随いて警てきすべし。』(道徳は万人共有のもの。誰もが接近して行うがよい。学問は三度の飯のようなもの。誰にとっても欠くことのできないものだ。怠ることのないよう戒めよう。)空腹は自覚するが、空脳にはそれがない。ないわけではないが、なくとも生き続けることは可能である。そのため空脳を満たそうという気持ちも遅れがちになる。その遅れや不便も、他から責められることがなく生活をおびやかすことも少ない。ついつい、考えてはいるんだが、どうも、となっているようである。しかし、『言志四録』に「朝にして食わざれば、すなわち昼にして飢え、少にして学ばざれば、すなわち壮にして惑う。飢うる者はなお忍ぶべし、惑う者はいかんともすべからず」とあるように、若い時より中年になり責任ある地位についてからの空脳は、己一人の悩みに止まらない。たとえば日々の決裁、命令、指導にしても学んでいなければできかねることになる。狭い机の上に未決・既決の箱を置いているのをよく見かけるが、何か平素の不勉強を語っているように映ることさえある。時間短縮、高能率、コスト引き下げなどと叫んでいるが、学問ほどこれらに役立っものはないようである。『論語』にも「われかつて終日食わず、終夜寝ねず、もって思う。益なし、学ぶにしかず」、つまり、「私は昼夜寝食を忘れて考え抜いたが、たいして得ることがなかった。やはり読書を通じて先賢に学んだ方が早道であった」と述べている。私なども文字忘れが激しくなり、使いなれている字さえ忘れることがある。いくら思い出そうとしても思い出せない。手もとにある辞書をめくるとすぐ知ることができるが、たった一字を知るにさえ時間が必要。まして難問ともなると、終日どころか何日考えても名案が浮かんでこない。しかし、史書は、ただちにそれを明らかにしてくれるものである。しかも史書は問題を示すとともに結果の可否まで教えている。だから、自信をもってことに当たることができるはず。よく、昔の人の言ったことなど、今の世には役に立たないという人がいるが、それは読んで楽しかった、つまらなかったと批判するだけで、何を教えているか何を示唆しているかを考えないからである。活字を数えているだけで、活字を読み何を自分に教えているかを考えないからである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.01
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