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先日、とある下半身に節操のない変態色魔のような男と話をしていたとき「もし自分の子供が性同一性障害になったらどうするか?」という話になった。ちょっと話は飛ぶわけだけれども、おそらく皆さんご存知ないかと思いますが、人間には、二つの性があるんです。男性と女性。この二種類あるんです。で、この性別と言うのは、もちろん表層上にはチンコの有無や、遺伝子にも違いがあり、またホルモンの多少など、いろいろと違いがあるわけなんですが、「男性的であること」と「女性的であること」言い換えれば、「男性的なふるまい」と「女性的なふるまい」というのがありまして、例えば、男は勇ましく、女はお淑やか、などという悪い意味での過去の遺物から、男は論理的で女は感情的という、これまた悪い意味での過去の遺物ですが、そういう「男性的な性質」や「女性的な性質」が、社会的にあるわけです。で、男性と女性という二つの性差が、いつできるのか? ということですが、まぁ、皆さんご存知ないかとは思いますが、二種類の説あるんです。で、一つは、「セックス」説です。いやいや、あの行為の最中に、女が逝ったら男で、アクメに未達なら女、とかそんな都市伝説な産み分けの話ではなく、生まれつきの身体的な、まぁ、早い話がチンコの有無などと同様に、男の身体に生まれたときに、性意識も「男」として生まれてくる、というもの。これが「セックス」説です。で、もう一つが、「ジェンダー」説です。こちらは、生まれてから、家族や社会が、それぞれの性らしく振舞うように、「男は斯く在るべし」とか「女らしくしなさい」などと振舞うように刷り込むことにより、性意識が出来上がるというもの。これが「ジェンダー」説です。つまり、生まれつきの「先天性」である「セックス」と育ちで養われる「後天性」である「ジェンダー」の二種類です。で、今のところ、この二つの説以外は、他に説がないんですね。さて、性同一性障害ですが、肉体的にはチンコがあり、周囲からも男として扱われるが、本人の意識は女。あるいは、その真逆ということになるわけですが、性同一性障害では、「先天的」にチンコが生えている以上、「先天的」に男の意識を持っているはずで、「セックス」説では説明できません。また、周囲から男として扱われている以上、「ジェンダー」説でも説明できません。つまり、二つしかない説の、両方とも説明が不可能なんですね。それで、性同一性障害の説明をするときに「神様が間違えた」という言い方をする人がいるんですよ。それが嫌いでね。神に失礼ではないか。少なくとも、神が間違える可能性よりは、人間が間違える可能性のほうが高いはずだ。性同一性障害と認識している人間の間違いの可能性は考えないのか?これは「ジェンダー」の考え方に近いんですけどね。「後天性」という意味で。つまり「後天性」である以上、その逆の「後天性」を与えれば、戻るのではないか?そのように考えて、下半身に節操のない変態色魔のような男に、そのように答えたのだが、たまたま手元にあった本に、性同一性障害について書いてあった。主旨はおおよそ以下の通り。・性同一性障害は、ホモセクシャルやバイセクシャルと勘違いされやすいが、別物である。はいはい、わかってますがな。そんなことは。・性的自己認識は、母語と同じように、変更をするのは困難である。なるほど。それはそうかもしれん。・自分が女の身体を持つと想像せよ。男のチンポを舐めれるか?す、すみません。無理です。できません。私は、「後天性」である以上、戻せるのではないか? と答えた。私は、自分が絶対にできないことを、他人に強要するところであった。私が間違っておりました。
2004年07月08日
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織姫と彦星が7月7日に、年に一度だけ会えるという七夕ですが、織姫と彦星という名前のほかに、織女星と牽牛星という名前もあります。まぁ、おそらく支那か何処かからの言い伝えで、支那での名称が「織女」と「牽牛」なのでしょうね。織姫が、機を織る女性ということで、織女星から来ているわけでしょうが、彦星という名称は、おそらく「彦」は、単に男を意味する名前ではなかろうか、と。牽牛というのは、牛を牽く仕事の人間、だわな。なんだか随分とブルーカラーなイメージを与えるこの名称が、織「姫」には相応しくないことから、男の神様の名前などに使われる「彦」の字を使い、織「姫」と「彦」星という、まぁ、御内裏チックなメルヘンへと変わったのではないか、と思われるわけです。ともあれ、まぁ、おそらく現在確認されている中においては、最長不倒の超長距離恋愛であり、事実、私と同じうする遠距離恋愛でラヴラヴでピースなバイブスどもは、自分達の遠距離恋愛と、機織りと牛牽きの遠距離恋愛をレイヤーで重ね合わせ、安上がりなロマンチックを堪能して、脳内薬物をドバドバと噴出させて飛んでいるのでしょう。I can fly!!ところで、織女星と牽牛星というところから考えるに、コイツら、支那の神か人か、なんですよね?ということは、おそらく、旧暦、即ち、太陰暦で約束しているのでしょうね。随分と古い方達のようですし。万が一、日本の織姫と彦星であるとしても、コイツらは、明治五年十二月三日に、それまでの大陰暦から太陽暦に変えるという律儀なことをしたのだろうか?とまれかくまれ、早い話が、コイツら、今日、会ってないですよ。霊が帰るお盆や七夕など、神や霊、過去の人物に関わるイベントは、太陰暦でやるべきだ。太陽暦でやるぐらいなら、やらないほうがいい。私は、七夕であろうがクリスマスだろうが誕生日でも、それに合わせては逢いに行きません。そういう奴なんです。この場を借りてお詫びしておきます。よく五年も耐えた。そしてこれからも……
2004年07月07日
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裁判員制度が導入されることになった。まぁ、陪審員制度ですよね。これは、どういう意味があるかというと「司法の民主化」です。国家権力の、三権というのが「立法」「行政」「司法」ですね。「立法」というのは、国会のことですから、国会議員は代議制ですが、国会議員を選択する部分において「民主化」はなされているわけです。そして、このたび、「司法」つまりは、裁判所の「民主化」です。今までは、最高裁判所の裁判官を十年に一回、信任・非信任で投票できましたが、更に大幅に二歩三歩と進んで民主化がなされたわけです。民主主義に懐疑的な私は、陪審員制度に呼ばれたら、堪らないと思います。裁判所に通うことぐらいは、我慢すればまだ我慢できます。裁判官並みに法律の勉強をするのが嫌なんですよ。陪審員になるということは、他者の罪を判断し、その結果、他者の人生を大きく左右する役割になるわけです。他人の人生を大きく左右する。当然、被害者のことを考えれば、無罪にすればいいというものでもないし、なんとも考えられないほど嫌であり、重大な任務である。そんな重大な任務に、法律もわからず参加して良いはずがない。「司法の民主化」というのは、どういうものであるのか?裁判官は、法律と判例だけをひたすら勉強した専門分野に非常に優秀な人間である。その裁判官が、専門莫迦であるがゆえに、「世間の感覚」との間に乖離が生まれる。それ故に、「世間の感覚」を入れるため、「司法」を「民主化」する。まぁ、その大きな一つが陪審員制度、となるわけです。つまりこれはどういうことかというと、時代に逆行してるんですね。現在、日本国家は法治国家、ということになっている。法治国家ですよ。人が人を支配する、金正日が国民を支配するのではなく、憲法が、刑法が、民法が、法律が人を統治するのが法治国家です。法治国家こそ、近代国家が目指す、政治体系といえるでしょう。それが、法律ではなく、「世間の感覚」で人を裁くとなると、これはもう「魔女狩り」ですよ。イラク人質事件の際、人質家族は、その言動により世間から大いに批判され、大バッシングを受けました。それが「世間の感覚」です。で、私は「世間の感覚」は大切で、バッシングも適正な行動であると判断しています。例えば、かく地域で行われているであろうオウム真理教バッシングも、理解できます。しかし、それは飽くまでも、世間で行われる行為に限ります。松本智津夫の三女が、その周辺住民に嫌がらせを受けるというのは、嫌がらせをする側が、ある一面では可哀想だと感じられる正常の感情を持っていれば、嫌がらせをする側の感情も理解できるし、適正な行動であると判断できます。しかし、自治体が、三女の就学手続きを拒否した。これは明らかに不正であり、大問題ですよ。これに対して、裁判所は、就学を認めるように指示したわけですが、当然です。義務教育であるならば、なおさら当然でしょう。法治国家というのは、そういうものなのです。しかし、同級生になるかもしれない親達の「世間の感覚」ならば、絶対に反対するでしょう。反対はすればいい。法治国家がまともに機能しているならば。しかし、「民主化」され「世間の感覚」が取り入れられた裁判所で、「世間の感覚」が取り入れられた判決が出たときには、それは「魔女狩り」です。本人が、犯罪を犯したわけでもないのに、親の行為により未就学児童になる。これは、近代国家では起こり得ない出来事です。つまり、世間は、世間の感覚で、世間を守る権利がある。しかし、国家は、法律によって「人権」を守る義務があるのです。よって、世間の感覚を持ち込むと「人権」侵害が発生する。ならば、それでも陪審員制度を実行するにはどうしたらいいか?魔女狩りにならぬように、そして、他人の人生を大きく左右するのであるからには、全ての国民が、裁判官と同等の知識を持ち、世間の感覚ではなく、法律と判例によって、被疑者の罪状の有無を判断しなくてはならない。法治国家たるためには、須く国民は法律知識を身につけなくてはならない。いやだよ。でも、恐ろしいことに拒否権はない。つまり、「死刑」であれ「無罪」であれ、殺人に加担することを強制されているわけだ。人の生き死にを左右するのに、不勉強であって良いはずがない。だから、「司法」の知識を身に付けなくてはいけないのならば、ならば、ならば、ならば、人間一人の生き死にの左右どころか、国や自治体の運命を左右しかねない選挙は、当然ながら「立法」の知識を身に付けなくてはいけない。選挙に逝くのも良いでしょう。でも、国や自治体の運命を左右するのに、人間一人の人生を左右するほどの意識もないでしょう。国民にとって選挙は娯楽に過ぎません。そして、被選挙民にとっては、選挙は自らの正当性を受ける儀式にしか過ぎないのです。古代、シャーマンが神に憑依されることで正当性を得たような儀式と同じです。人間一人の人生を左右するほどの意識も覚悟もないまま娯楽で選挙に逝った人間が、横山ノック知事を生み出したりしながら、選挙に逝かないものを高圧的に批判する。選挙なんか、選挙民にとって大した意味も力もないんですよ。自己満足以外は。影響力も、消しカスほどもないかわりに、リスクもない。憲法の無記名投票の項に、投票結果によって「責任は問われない」と書いてあります。つまり、選挙に逝く人間は、微弱な権利を行使しても、無責任である、ということ。選挙に逝く人間って、無責任で選挙に逝ってるんですよ。無責任で選挙に逝っている無力の人間が、選挙に逝かない人間に、何を偉そうに。ということで、選挙に逝く人間なんて、何にも偉くないんですよ。選挙に逝かないことも、当たり前ながら、何にも悪くない。時間と労力を使って無意味な行動しないという点では、逆に自信を持って良い。選挙なんか、全然逝かなくていいんですよ。しかし、「立法」と「司法」が民主化されても、「行政」=官僚だけは、民主化されないんでしょうね。してもらったら困るし。国防の民主化=国民皆兵=義務兵役=徴兵とかもね。これだけ民主化が叫ばれていながら不徹底な。
2004年07月06日
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選挙に逝かない奴は政治に文句を言う資格がないと、未だに言う莫迦がいる。「棄権する奴は政治に関心を持とう」というが、本当に政治に関心を持って勉強する人間は、そんな莫迦なことは言わない。言う人間こそ政治に関心がないか、関心があっても考えていない。今週末に参議院選挙があるわけだが、当たり前ながら選挙に逝く必要などない。「選挙に逝って白票を投じよう」という主張もある。阿呆か。そもそも、一票の価値自体が、1/90000000の価値しかない無意味なものであるのに、白票なんか、そのカスのような1/90000000の価値すらないのに、何をしたくてわざわざ時間を使って、暑い中とぼとぼ歩いたり、あるいは、ガソリン使って温暖化に貢献しながら選挙に逝ったりするのだろうか?全くの無駄な行為だと認識できないのだろうか?自己満足以外に何か自分の得になることがあるとでも言うのだろうか?無駄と認識して敢えて行きたい人は逝けばいいんですよ。勝手に自分だけ。他者に「選挙に逝け」「選挙に逝くべき」という人間は、何を根拠にいうのだろう?で、最初の「選挙に逝かない奴は政治に文句を言う資格がない」というお莫迦なお題目で折伏できると勘違いしている阿呆の多いこと多いこと。おめでたいことですよ。どちらかと言えば、選挙に逝った奴こそ、政治に文句を言う筋合いはない。選挙に投票する以上、選挙というシステムに乗かったわけだ。そのルールに参加した以上、そのルールに従って決まった決定には、そのルールの参加者全員が、ルールに従うべきであって、その責任は全うするべきである。ルールに参加して、勝ったら相手にそれを認めさせるし、負けたらルールには従わないなんて、こんな甘えた考え方で、他者に「文句を言う資格がない」とは、一体なんだろうか?確かに、現政権の正当性を認めたうえで、個別政策に反対意見を出すことはできるでしょう。しかし、それなら、選挙に逝かずに正当性を認めなかった人間は、もっと堂々と言えるでしょう。そもそも、「選挙に逝かなければ何も変わらない」などという。これでよく「選挙に逝こう」などと言えるものだ。変えなきゃいけない、という前提である以上、現政権の自民党に入れないわけだ。そして、「投票率が低いと共産党や創価学会の組織票が云々」などともいう。共産党や公明党にも入れないわけだ。だったら最初から「民主党に入れてください」と言えばいい。選挙に逝って欲しいのではなく、民主党に入れて欲しいんだろ?その意図を隠して「選挙に逝け」などという奴は、全く信用できない奴と断定して差し支えない。投票を義務付けるという話も出たりする。総一郎とか。阿呆ですか?民主主義が「思想の自由」を標榜する以上、「投票しない選択」は認められるのは自明だ。それを正義面して「選挙に逝かない奴は云々」などと投票を強要し、脅迫する奴が、民主主義の大事な建前である選挙を大切にしていても、根幹の民主主義が死んでいる。行動や思想を強制する社会で、投票率が高いのが好きなら、北朝鮮に逝けばいいよ。選挙なんぞ、意思表示のための、最も簡易だが最も弱小なチャンネルの一つに過ぎず、そんな軽微な、そして安易な、屁のような行動をとっただけで、何を得意気に、逝かない人間に非難ができるというのだろうか?投票率の低下が、これだけ大きく社会問題かのように言われているのは、投票率の低下が、そこそこ大きな社会問題だからだ。それは、国民に政治への関心がないからではなく、投票率が、選ばれた政権の正当性に関わってくるから、社会問題なのだ。つまり、選ばれるであろう政権に、正当性を貶めたい人間は、棄権するのが、一番、自分の意思表示が功を奏するわけであり、また、代議制度への批判票もまた、棄権をすることで可能である。そして、民主主義に批判的な人間も、当然、選挙に逝かない。政治に関して、少しでも興味を持ち、少しでも考えれば、選挙に逝かない選択や、選挙に逝くよういう愚かさなど、わかるはずである。それでも選挙に逝きたい奴だけが、無力を感じながら投票に逝けばいいんですよ。
2004年07月05日
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先日、ある女性から電話がありました。まぁ、長崎佐世保小六美少女カッター首切り殺害事件の影響もあって、小中学生のネット利用について調べていたら、面白くて面白くて、と。事件の加害者被害者その友人とカフェスタを使っていたわけですが、カフェスタが「小学生でも使える出会い系サイト」という役割だったのは、事件があってから知りました。なるほど、ここ楽天でも同様の使い方はできるわけです。よね?ぱど厨と呼ばれる人たちがいるとの事で、その話でした。早い話が、小中学生のネットのルールは、大人のルールと違う世界だ、と。そんで、「素通り禁止サイト」というのがあるという話を、今頃になって知ったんですよ。必ず足跡(書き込み)をしなきゃいけない。しないと荒らされたり、ブラックリストなんぞに載せられて、シベリヤかアウシュビッツに送られる。楽天でもあるというではないですか。ランダム機能で飛びまくりましたよ。なかなか当たりませんでした。ホントにあるんかいな、というぐらい。ずっとヒットしなくて、やっとひとつ、当たりました。高校生らしいんですけどね。「素通り禁止」とともに「しないと押しかけてくからぁ(ぇ・・・ぅざぃょ・」とのこと。もうね、やっと見つかってね、嬉しくてね。もちろん素通りするつもりですが、素通りするなりの仁義で日記を読んでみたんですよ。読んでるとね、なんだかわからないけど、面白いんですよ。いや、面白がる話ではなくて、大好きな彼に実は女がいて、貢がせ屋の酷い男だったり、おばあさんが亡くなられた話だったり、なんか、読まされてしまったんですよね。あぁ、負けたなぁ。と、素直に認めて、やっと見つけた「素通り禁止」サイトに足跡を残してしまいました。で、楽天の日記の「テーマ」に、「素通り禁止サイトについて」というのがあったんです。読んでみると、素通り禁止サイトは、叩かれて、減少傾向にあるのだそうです。道理で探してもなかなか見つからないわけだ。やっと見つけた「素通り禁止サイト」の高校生、時代に流されず頑張り通せ。応援します。
2004年07月04日
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6/20の日記に対するコメントへの返答です。在る助平さんまず、人権についてですが、私も、いわゆる『人権』については、否定しますし、いわゆる『人権』=基本的人権は、必要ないとの認識でおります。そして、憲法によって保障される「人権」ですが、これについて、簡単に概要を。憲法とは、権力を規制するために、国に対して義務を負わせるものであり、その拘束により、国民に対して生まれるものが自由であり人権である。ここまでは賛同いただけると思います。では以後は、人が生まれながらに有するという基本的人権を『人権』日本国憲法が規定する人権を「人権」と、分けて記入いたします。国家権力に拘束されている加害者に「人権」が認められるのは当然ですよね。では、被害者のほうに「人権」はないのか?言うまでもありませんが、『人権』については、どっちもありませんよ。私は「人権」については、どっちにもあると考えております。というのも、マスメディアは、第四の権力と呼ばれて久しいですよね。実質的に、マスメディアの報道被害は「人権」侵害と認められているといって差し支えないでしょう。誤解なきように言うと、ネヴァダがお手洗いさんを殺害した行為は、「人権」侵害ではありません。メディアが、加害者及び被害者の報道をすることは「人権」侵害と成り得る、ということです。今のところ、判例においては、事件に関係あると思われること、の報道は、「人権」侵害とは認められておりませんが、事件に関係なく不当にプライバシーを侵害される、即ち、植草教授の場合などの検察側証拠は一部、かなりグレーゾーンであるわけです。まぁ、判例とて、国民への娯楽提供のためなら、一定範囲で「人権」侵害を認める、という話ですが、そもそも憲法や刑法の定める「人権」なのですから、恣意的であって当然です。最近、メディアリテラシーという言葉を聞いたり、うっかり使っちゃったりしますが、情報の取捨や情報の裏を読む能力だけではなく、山口母子殺人事件とか北朝鮮拉致事件、イラク人質事件を見ると、メディアに如何に報道させるかという緊急時の能力も、必要なのかもしれません。
2004年07月03日
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まあ衝撃の初公判も過ぎて、何なんだが、植草先生の件である。未だに2chでは、冤罪説が流れていて、政治的謀略に嵌められた、ということなのだが、なんというか、冤罪を主張するという気はないのだけれども、政治的謀略と言うのは、強ち的外れとばかりは言い切れないのではないか、と。まぁ、本人が否認しているので、冤罪の可能性もなくはないのかもしれないが、個人的には、やっているような気がするので、やってる前提にて書く。今更ながら事件の概要であるが、横浜駅でエロ眼をした植草教授を、テロ対策で横浜駅にいた神奈川県警の警察官が発見し、後を尾けてみた。一時間ほどウロウロした植草教授は電車に乗り、品川駅で降りた。品川駅のエスカレーターで手鏡をかざしたところを現行犯で逮捕。という具合である。その被害者の女子高生というのが現在は存在していないので、なんともかんともだし、まぁ、被害者の女性がメディアに名乗り出ても、後ろから鏡で見られては、被害状況など自分ではわからないだろうから、まぁ、それはおいておく。まず最初に、神奈川県警である。あの「神奈川県警」である。あの神奈川県警が、やけに熱心だ。一時間以上も尾行を続けている。しかも、テロ対策で配備された神奈川県警が、何故か警視庁管内の品川駅という、越境してから二駅目まで追いかけ、東京都の迷惑防止条例で現行犯逮捕。あの「神奈川県警」が、越境するほど頑張って、東京都迷惑防止条例で逮捕。エロ眼した植草教授が、テロでもすると思ったのだろうか?まぁ、テロ対策で配備された警官が、持ち場を離れて有名人を追いかけていた、という意味においては、非常に「神奈川県警」っぽいので、それはいいとして、鉄道警察隊なき今、大好きな警視庁管内で、越境して逮捕するとは、縄張り意識、縦割り行政と批判を受ける桜代紋も、随分と風通しが良くなりました。まぁ、良くなったことなので、それはいいとして。植草教授というのは、まぁ、民主党にとって、自民党の竹中大臣のような、そんな位置付けにいる人物で、自民党の金融改革に批判的な人です。まぁ、だからなんだという話ですが、小泉首相には、靖国神社のご利益、という話があります。小泉に楯突く者は、靖国神社のご利益で、次々と失脚する、という話です。田中真紀子、鈴木宗男、辻本清美が政界から消えていきました。まぁ、ゾンビ化して帰ってきますが。そして、小泉の盟友である山拓を選挙で落選させたペパーダイン古賀も学歴詐称疑惑であぼーん。小泉内閣閣僚の年金未納問題を追及していた管直人も年金未納自爆。そして小泉の幽霊社員疑惑を追及した岡田も、「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろ。岡田さんの所だってそうでしょ?」という、まぁ、明らかにイオングループを意図した発言をされた翌日、岡田の通産省時代に、イオン子会社の役員を務めるという「公務員法違反」が発覚。そして、民主党の経済知恵袋の東京都迷惑防止条例での逮捕と、斯様に小泉の神通力、いや、靖国神社のご利益は効果覿面である。これまで、野中のやり方は「こういう情報があるんだぞ」と、相手のとげを抜いてきたのだろう。しかし、小泉は、情報公開の方式をとっているのではないか?まぁ、情報公開というのは、正しいと世間では言われているようなので、それはいいとして。小泉は、ミニプーチンという可愛い呼称をプレゼントしたい。
2004年07月02日
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また、二日前の日記からなんですが、物事を二分法でしか見られない、という部分に関してですが、「左派」=反戦 平和主義 非武装という等式が、日本においてはかなりの割合で成り立つのですが、少なからぬ「右派」の莫迦どもは、逆もまた真なりと思い込んでるんですね。私は、民族自決という、極めて右翼的wな観点から、アメリカによるイラク攻撃にまぁ、当初からですが、批判的であったわけです。つまり、イラクの石油がほしいからイラクを攻撃したのであれば、イラクによるクエートの侵攻となんらかわるところはなく、また、人道や人権のためにイラク解放を目的としてイラクを攻撃したのであれば、キリスト教を布教するために南米をはじめ、世界中を席巻したのと、一体全体、何処に違いがあるのかがわからない。少なくとも、キリスト教であれ人権思想であれ、イデオロギーを理由にあげて戦争を始めてしまった場合、それは戦争の無限拡散を意味する。尤も、無限拡散をするほどのお金はないわけで、実際には無限拡散にはならない。代わりに、イラクの石油のように、儲かるならば、恣意的に選んで拡散できるわけで、即ち、人道であろうが人権であろうが、イデオロギーを根拠にすれば、侵略戦争はやり放題という時代に『逆戻り』してしまったわけだ。その中身の「イデオロギー」が入れ替わっただけで。早い話が、イラク人がフセインの独裁に我慢がならないなら、イラク人が命を賭して革命をやればいいのであって、アメリカ人が地球の裏側まで出しゃばって、人道を回復する必要もなければ、その権利もないわけで、さらに言えば、植民地化する権利もないわけですよ。極めて簡単な民族自決の原則です。つまり、この度のアメリカによるイラク攻撃は、アメリカに何の大義もなく、不正義なイラク侵攻であるが故に、イラク攻撃に批判的なのですが、民族自決という右翼wな理由で、攻撃に反対していようとも、何故か返ってくるレッテルは、「言ってることはサヨクと同じじゃないか。なんでも戦争反対と言えば良いと思ってる」いやいやいやいや。どう読んだ?まぁ、確かに民族自決を言う左翼もいるけどね。少なくとも、「対侵略戦争」や場合によっては独立戦争など、民族自決のための戦争には、全く反対するはずもなく、明らかにこと今回のアメリカの「イラク攻撃」に限定して、反対しているのは、読めば充分にわかると思うのだけれども、という反応が返ってくる。少なからぬ「右派」の莫迦どもというのは、よく社民党などに対して「なんでも自民党に反対すれば良いと思っている」という物言いで批判するわけなんだけれども、なんのことはない、自身も、「なんでもサヨクに反対すれば良いと思っている」に過ぎない状況なのです。なので、サヨクが「なんでも戦争反対」と言えば、少なからぬウヨクの莫迦どもは、「なんでも戦争賛成」と言いさえすれば、正しいと思い込んでいる。主体性がないんですね。サヨクがなければ、自分の意見を決められない。個別に吟味する能力もないわけです。全ての戦争に反対か全ての戦争に賛成、どちらかしかないんです。そうでも思わなきゃ、理由を限定して反対しているのに「なんでも戦争反対」と誤読できないでしょ?
2004年07月01日
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イラク人質事件で、普段の主張と逆の主張、つまり、・個人主義者 → 国が責任を持って・自己決定権否定論者 → 自己責任という不思議な構図が、見て取れるわけなんですが、これについて、次のような指摘を受けました。「本音を隠して、建前の議論をしているから、そうなる」ヴォランティアをやっちゃうような人やプロ市民なんかを擁護したい、そういう人達は、擁護をするのに便利な「国の責任」を『建前』として利用する。ヴォランティアをやっちゃうような人やプロ市民なんかを快く思わない、そういう人達は、叩くのに「自己責任」という『建前』を利用している。つまり、人質にされたのがプライヴェートで勝手に視察中の石原慎太郎だったら、彼らの論拠は逆になっていた。まぁ、そうでしょうね。実際に、2chのニュース議論板にて、面白い設問がありました。・有本さんも自己責任で自腹帰国になるのか?有本さんは、まぁ、亡くなっているという北朝鮮の公式発表になっていたと思いますが、もし、有本さんが日本に帰って来られることになった場合、帰国費用はどうなるのか?というのも、有本さんは、自分の意思で北朝鮮に行っているからだ。もっとも、よど号犯妻に騙されたということなのだが、それにしても、退避勧告の出ているイラクに甘い判断で入国するのと、国交すらない北朝鮮に騙されて入国するのと、どれほどの違いがあるのか?と問われれば、客観的には、有本さんだけを擁護するのは難しいだろう。にもかかわらず、「拉致被害者と今回の人質を一緒にするな」という反論?が並んでいた。もちろん、このような反論をする人達は、朝日新聞が「北朝鮮は楽園」と書いているのに騙され、北朝鮮に行った、いわゆる日本人妻達に、同じことを言うはずがないわけで、よど号犯妻も朝日新聞も、似たようなもので、何処に区別をつけるのだろうか?
2004年06月30日
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で、ようやく今更ながらのイラク人質事件について、です。私は、ある「左派」の討論サイトに久しぶりに議論をしに行きました。最初に書いた主張を要約すると以下の通りです。自己責任論が言われているが、自己責任論に組みしない。何故なら「自己責任論」というからには、その前に「自己決定権」があるはずである。「無限責任」を考えると「自己決定権」は認められず、それ故に「自己責任論」もない。「自己責任論」を認めれば、逆に、責任さえ取りさえすれば、何をやっても自由、ということになりかねない。(無限責任は、本来は責任を取れないものです)しかし、人質家族の行動は醜悪であり、叩かれるべきである。何故ならば、人質及び人質家族の行動は、日本の「世間」、即ち「世間知」に反した行動であり、かかる行動を見逃せば、かの行動が許容されていることになり、日本という「世間」を守りたい人間が、人質家族を叩くのは、「世間」を守る戦いである。人質3名やその家族及び支援者に対する、世間の「ちょっと違う」という嗅覚の鋭さによる、社会的に健全な異質排除装置の働きとみています。以上のように、明白に・自己責任論には反対・被害者及び被害者叩きには賛成という、極めてわかりやすい主張をしました。にもかかわらず、摩訶不思議な現象が起きたのです。「右派」からは、被害者家族の主張が如何に不当であるかを訴えられ、「左派」からは、自己責任論を問うのはオカシイと訴えられました。なんで?「私は自己責任論は否定していますよ」と説明してもなお、理解が得られないのです。最後には、紛らわしいことを書くなと注意を受けました。ワケワカラン。彼らの頭の中は二分法なんですね。1. 自己責任論否定=被害者家族擁護2. 被害者家族批判=自己責任論肯定このどっちかしかありえないと思い込んでいる。その結果、どういう現象が生まれているか?普段は自己決定権を否定している「右派」が、自己責任論=自己決定権を肯定し、普段は国家の枠組みを否定している「左派」が、個人ではなく国家が後始末すべし、という、普段の主張との逆転が起こっている。まぁ、この「右派」と「左派」の二分法も大まかなのですが、少なくとも、この枠組みから外れて議論している人間は、ほとんど見ませんでした。(自己責任論を認めながら、無限責任を分けて考える作業をしている大学院生はいましたが)まぁ、イラク人質事件に関しては、「自己責任論」を述べている人間は、裏に意図がない限り、莫迦だと言えるでしょう。しかし、莫迦は仕方がないんですよ。信じられないのは、事実を捏造する人達です。「自己責任論は、メディアや政府がミスリードして沸きあがった」大嘘です。事件直後からありました。浅田彰も、こんな明白なデマを書くようになってしまいましたか。感慨深かったです。
2004年06月29日
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討論においては、撤退戦すらままならぬ玉砕で散華した「左派」ですが、彼らには諸刃の剣ながらバックボーンがあった。「人権」「自由」「平等」かれらの理論の背景には、これらの理念を見せる振りができた。それに対する「右派」は、それぞれ「保守派」といいながら、一体全体、何を保守しているのかが、全く見えない。未だに見えない。「資本主義経済活動下においての自由」を主張し、社会主義下や共産主義下での「不自由さ」を糾弾するだけで、主張する側の「右派」の「自由」も、別の意味での「不自由」であり、飽くまでも、「左派」の「自由」へのカウンターでしかなかった。「保守派」が保守しているものは「伝統」など、言っているほうも具体的には何なのか良くわかっていないのが現状で、あがってくる具体的な「伝統」のほとんどは、国旗や国家や天皇制など、近代になってから、明治時代に発生した百年そこそこの薄い「伝統」でしかなかった。アメリカという若輩国家よりも歴史の浅い代物を「伝統」と保守するのだそうだ。私は「右派」に対して何度か、何を保守するのか、論戦を挑んだのだが、どうも「右派」は、「左派」を攻撃することのみを好み、結局は、「右派」とは、実は「左派」のネガとしてでないと存在し得ないという、実は弱い存在なのではないかと、そう思わされる状況であった。まぁ「ネット右派」に限った話ではあるのだが。
2004年06月28日
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世の中には不思議な世界というのがあるものです。社会的地位があったりする人間が、専門化の知識を動員した挙句に、相手を否定し罵倒し合うという世界。そしてその中には、社会の最下層の、知識もない暇人も混ざっている。それが「ネット議論」という世界です。私は、歴史・政治・社会系の討論サイトに出入りしておりました。主に参加していたのは通称「日本茶」および「歴真」というサイトでした。前者は今もあります。http://www.nc4.gr.jp/ この辺の話題については、後日、詳しく書きたいと思うのですが、簡単にさわりだけ。歴史・政治・社会というのは、思想信条というアイデンティティにかかわる話になるので、「反論を受ける=人格の否定」と勘違いをして受け取る人間が多いのです。普通に考えれば、事実関係や論理などは、訂正や修正など起こって当然であり、大きい場合などは、転向という事態も考えられる以上、討論において認識が変わることは、簡単に起こるはず、なんですよ。しかし、ROMという観客がいるからか、実生活に支障を及ぼすほど本気で怒り、自己の人格が否定されたと、ネット上とはいえ、縁を切る。一つの事に意見が合わないだけで、口も利かなくなるという異常な事態が、実は大して高くもないかわりに、決して低くはない知性の大人によって行われる。「議論」を「試合」として認識できない人間が、討論サイトに参加していいのか?というネットリテラシー?の問題は、小学生がネットに参加してよいのか?という問題と同様に、討論サイトで議論されるべきだろう。ともあれ、私が参加していた時代の歴史・政治・社会系の討論サイトでは、「左派」と「右派」が、相手のことを阿呆だの莫迦だのと罵るという生産的な娯楽が果てしなく行われておりました。「左派」というのは曖昧な概念で、進歩派、人権派、戦前暗黒史観、非武装平和主義、護憲、戦後民主主義、そういったものの総称です。「右派」というのも曖昧な概念で、保守派、尊王派、大東亜肯定論、現実主義、国益主義、そして、自由主義史観の人達です。勿論それぞれ一枚岩であるはずはないのですが、便宜上二つに分けます。「左派」というのは、現在の社民党や共産党のように、かなりの絶滅危惧種です。まぁ、民主党に一部生き残っているので、決して少なくはありませんが、討論サイトでは、圧倒的に少数派であり、弱者でした。かといって、「右派」が強者かというと、伝説の男・アドルフなんばなど少数を除けば、実はそれほどの強者ではないけれども、「左派」よりは若干強者であり、なんといっても多数派でした。見かけ上は「右派」の圧勝だったわけです。しかし、現実はどうなのか?現実と言っても、政治権力ではありません。思想討論上の勝敗、です。実は私は、「右派」には大きな落とし穴があると、ずっと思っていました。そして、事実、何度も揺さぶりをかけたこともあります。
2004年06月27日
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加害者が特別だった、という説明が一番簡単なので、そう流れてしまいがちです。ネヴァダのサイトの「ピンクの熊が小動物か何かを襲っている」gif画像を見て、犯罪心理学の大家は「自画像」と言っていたらしいんですが、ピンクの熊が襲っているのは小動物ではなく「飼い主」であって、もちろん小学六年生のオリジナルではなく、森チャックの『グルーミー』でした。まぁ、グルーミーを選ぶ行為が「自画像」と言い張れないこともないのでしょうが、その「自画像」のキーホルダーやヌイグルミを持っている人は、私の周りには、私を含めて大勢いますが、残念ながら誰もカッターで首を切ったことがなし、おそらく、当の森チャック本人も、カッターで首は切ったことがないでしょう。カボチャ頭のアバターを、心理を隠すなどの精神分析も行われていましたが、アバターガチャガチャで、ランダムで当たったと本人が言っていたという証言がありました。この証言が事実かどうかわかりませんが、ネヴァダが異常なだけだという最も簡単な犯人探しは、簡単であるが故に、多くの「犯人」を生み出しかねず、(グルーミー好きやカボチャ頭アバターなど、それこそ犯罪心理学者より大勢いる)そのくせして、簡単に空振ってしまう。同じ境遇であっても、やらない子はいる反面、ネヴァダの境遇が違っていたら、やらなかったというのも、容易に想像が付く。本人の資質のみを考えたら、マイノリティリポートになってしまう。本人の資質は変えられないわけですが、環境は、周り、特に家族の努力で、何とか抵抗が可能であると思われる。つまるところ、こんな地道な処方箋しか存在していないように思える。地道な処方箋を実行するのは面倒くさいからこそ、安易な犯人探しをやりたくなるのかもしれない。
2004年06月26日
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3. 学校について その2 校長は、カッターの刃が出ていないという情報は伏せ、よりネヴァダに風向きが強くなるように会見をした。 本を横から覗かれただけで、(刃が出ていないとはいえ)カッターを振り上げるのは、明らかにやり過ぎなので、ネヴァダを擁護する気はないけれども、この少年にとっては、この校長の会見は裏切り以外の何物でもない。ネヴァダは異常であるのだが、その上で言わせて貰えば、この校長は、ネヴァダの異常性に全ての責任を押し付け、子供(少年も含む)を盾にして保身を謀ろうとしているようにしか見えない。 少年がこの件を言わなかったのは、この少年の落ち度では断じてなく、子供の助けを求める声すら、普段は聞く耳を持たずに放置していた村里担任にあるのは間違いない。 このクラスには、女ボスと呼ばれる女子児童がいて、その親もかなりのDQNな親らしく、五年生時の女性担任が、クラスをよく改革しようと努力したが、力及ばず挫折した大きな原因の一つというのが、この女ボスとその母親らしい。 この女ボスも、ネヴァダと同じバスケット部で、ネヴァダは、女ボスに排除されてバスケット部を辞めたという側面もあるとの事だ。 家族、学校、地域、全てで子供を育てる。 育った子供が不当な殺人を犯した場合、DNAに還元する話は、研究者の仮説以外は、厳に慎まれるべきだろう。 かといって、環境が影響を与えていることは確実で否定できないにしても、安易な犯人探しはすべきではないわけだが、ただ、これらのどれか一つでも悪い方向に向かわなければ、事件は起きなかった可能性が充分にあるので、いつ起きるかわからない事件のために、それぞれのコミューンで、それぞれにマシにする努力が必要となる。 担任や校長の職務放棄という職業倫理。コーチの配慮の無さ。そしてなにより、事件を起こした加害者を前に、ただただ泣く事しかできなかった母親。まぁ、婿養子の父親の姿は良く見えないわけなんだが。 とりあえず、4・ ネットとバトロワについて は、テーマとして、かなりデカくて深いので、後日に改めて考察したいです。今までのようなメモ用の殴り書きで纏まる話ではないので。
2004年06月25日
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3. 学校について その1 またも、ネットに登場した地元民の証言になって恐縮だが、校長も担任も、かなりのハズレだったらしい。 この手の事件が起きるとき、通常であれば、メディアで学校叩きや先生叩きがおこるものなのに、今回は担任が早々にPTSDという理由で退場して行ったこともあり、初期においてはメディアではほとんど叩かれなかった。 出崎校長は、学校内で問題が起こっても放っておき、苦情があると「学校だけでは解決できないんだから仕方がない」と逆ギレする人とのことで、まぁ、校長のいうことも尤もなのだが、応急処置すらせずに、姥捨て山といわれる大久保小学校に飛ばされた、という。 担任は、率先して、特定の生徒を口撃することで、その他の生徒から笑いを取って人気者と勘違いする幼稚な先生だったというのが、地元では有名な話だったらしい。授業参観の父兄の前でも、そのスタンスは変えずに、特定の生徒の人格を否定するような行動をとっていたというのだから、一貫したものである。 少なくとも、地元の反応としては「あの先生がPTSD? 逃げたな」という評価であり、校長が、あの担任に話をさせるわけにはいかないと保身のために逃がしたのではないか? という穿った見方もあったそうだ。 校長や担任叩きに関しては、他のケースでは、学校を叩いていれば良いってもんでもないだろう、と思ってしまうのだが、この件に関しては、校長と担任に不快に思う出来事があった。 ネヴァダが以前、男子児童に向かってカッターナイフを振り上げたことがあった。事件の約1週間前、ネヴァダが読んでいた本を少年がのぞき込んだところ、嫌がってカッターナイフを振り上げたという。読んでいた本は「世界の中心で愛を叫ぶ」だったとかいう話もある。 この件に関して校長は、この少年が報告しなかったので、事実を把握できていなかった、というように答えているらしいのだが、あまつさえ、報告しなかった少年に批判的ですらあるのだが…… この少年は、クラスでイジメにあっていたらしい。ネヴァダではなく、他の少年からなのだが、イジメられ出血することもあったらしい。イジメで出血し、担任のところに行くも「六年生なんだから自分で解決しろ」と取り合ってもらえなかった。 ネヴァダがカッターを振り上げた件について、少年は「ネヴァダはカッターを振り上げたが、カッターの刃は出ていなかったから、怖くなかった。いつものイジメの方が酷かったのでわざわざ報告はしなかった。自分が本を覗いたから悪いのだし、これでネヴァダが起こられるのは可哀想だから言わなかった」と言っているとの話だ。
2004年06月24日
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2. バスケット倶楽部について その2 ネヴァダが去年の年末にバスケットを辞めてから、ネヴァダは助っ人としてバスケットチームに呼ばれている。そこで「試合に負けたから体育館周りを百周」というペナルティを言われ、ネヴァダは走りにいったところ、誰もいなかった、という疎外感を感じる出来事があった。 それは、ネヴァダにだけ「そのペナルティはやらなくていい」という連絡が行かなかったために、ネヴァダが一人だけ、ペナルティに行ったとのことだ。 何故にネヴァダにだけ連絡が行かなかったか? ということだが、助っ人であったために連絡簿に載っていないという説と、母親が他の保護者に敬遠されているために連絡が行かなかったという説があり、私には真相は不明であるが、バスケットのコーチの、驚くべき証言があった。 チームメンバーの都合でネヴァダに助っ人を頼んだが、別段、チームにとってネヴァダは必要な選手というわけではない。しかし、助っ人を頼まれたネヴァダは自分が必要とされていると思い込み、そこの温度差があった。 なんだかなぁ。 必要な戦力だとは思っていないが、試合のために、チームの頭数をそろえる目的で、大泣きしながら脱腸の思いで退部の意思を伝えた子を、自分の都合で安易に呼び戻す声をかける無神経さ。 もう一度バスケットをやらせてあげるために声をかけたわけではないのは明らかだ。「試合に負けたから体育館周りを百周」というペナルティともども、阿呆かと思う。
2004年06月23日
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2. バスケット倶楽部について その1 ネヴァダはバスケット好きな少女で、バスケットの倶楽部に所属していた。そのバスケット部を辞めてから、素行や態度が悪くなったという。わかり易過ぎる話なので、そのまま信じていいのかどうか不明ながら、そういう証言がいくつかあるらしい。事実、バスケットをしているときのウェブの日記と、辞めてからの日記では色合いが異なる。まぁ、影響を受けやすい年頃の子が、その間に影響を受ける本や映画を見ただけかもしれないけど。 ネヴァダがバスケット部を辞めた理由は、成績が落ちてきたので勉強するために母親から辞めるように言われた、というのが原因らしい。ただし、本当の理由は別にあるという。父親が軽い障害があり仕事も開店休業中であるため、母親が働いて生計を立てている。送り迎えなど親に負担がかかる地域のスポーツクラブは、母親にとっても負担が大きかった、という点と、母親の性格上、周りの母親と反りが合わなかった、という理由があったようだ。 とまれ、ネヴァダは好きなバスケットを辞める際に、大いに泣きながら、辞めなくてはならないというのを言いにいったらしい。 ネヴァダは、もともと五人しかいないレギュラーのうちの、またまた一人しかなれない司令塔のポジションのレギュラーをやっていたらしい。母親が、お金がないからという理由で、バスケットシューズを買ってあげなかったという話だが、バスケットシューズを無しでレギュラーを取るというのは、並大抵のことではないらしい。
2004年06月22日
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1. 被害者とその父親について その4 おそらく性格が良いであろう被害者である娘さんは、独り善がりな価値観であんな写真を出し、娘を利用した語り掛け口調のポエムを発表するのを許すかもしれない。 だが、その五日後、再び毎日新聞佐世保支局長は食傷気味といわれる手記を発表した。その中で、毎日新聞佐世保支局長は「ニュースや記事で怜美の名前や写真が出ると、事件のことを突きつけられるような感覚になります」「勝手なことなのですが、『もう名前や写真を出さなくてもニュースや記事として成り立つのでは』と思ってしまいます」と書いている。 本当に勝手な話だ。 私は鬼子母神の話を聞いて、鬼子母神に同情や支援をしたくなるようなおめでたい感性は持ち合わせていない。 毎日新聞佐世保支局長は、自分の事件でショックを受けるのも結構だが、これまで自分が加担してきた、自分と同じ被害に遭って来た人たちに対し、どのような慙愧の念と改悛をもっているのだろうか? 残念ながら、メディアの人間としての毎日新聞佐世保支局長も、娘さんと同時に死んでしまったといえるだろう。今後、どうやって食べていくのか、本気で心配になってしまう。
2004年06月21日
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1. 被害者とその父親について その3 被害者であるお手洗いさんは、きっといい子だったんだろうなと思わせるエピソードがある一方、何故に最初の瞬間風速で、加害者贔屓の空気が一部で吹いてしまったかを考えると、復讐賛美が大きいと思うが、加害者が可愛いというだけではなく逆に、最初に出されたお手洗いさんの写真が、ちょっと引いた、というのもあるように思う。 「ニッ」という顔で、歯茎を出して両手でピース。 おそらく日本中の家庭で「他に写真なかったのかよ!」と突っ込んだに違いない。毎日新聞の佐世保支局長である被害者の父親があの写真を提出したのであろう、という極めて常識的な推論と共に、何故にあの写真を選んだのであろうか? という疑問は、徐々に心の中でひっそりと身を潜めていたのであるが…… 毎日新聞佐世保支局長である被害者の父親が手記を発表した。しかし、それは何故か、被害者である娘に呼びかけるという不可思議な内容であった。幸運にして「お父さん、娘さんはもう亡くなってしまっていないんですよ」と教える輩はいなかったが、殺された娘に語りかける内容の手記を、メディアに向けて発表した。キモい。 ある特定人物に対する語り掛けを、その本人ではなく第三者に発表することを前提にした文章で書くということが、もうそれだけで信用に足らない人間であると断定できる。第三者に見せることを前提にしながら、ある特定の人に語りかけるのは、必ずどちらかに無礼な行為だ。というのも、第三者を証人に利用するためか、あるいは、語りかけられている特定の人間をダミーとして利用するか、であるからだ。 もちろん、読み手への効果を考えて、敢えて語り掛け口調を利用するというのは、それは文章の書き手の技術であるが、自分の娘が殺されたという手記において、読み手への効果を考えて、殺された娘へ語りかけるなど、常軌を逸したやりすぎであるし、娘の死に対する重大な冒涜であり非礼である。時と場合を考えるべきだろう。そう、ポエムを書いている状況ではないのだ。 あの被害者の父親の書いたポエムで感動している人が、意外に少なからずいて、驚いたわけだが、それと同時に、毎日新聞佐世保支局長のキモい自意識が感じ取れてしまって、非常に気分が悪かった。 そう、最初の疑問が氷解したのだ。 おそらく、ついうっかりポエムを発表できてしまう毎日新聞佐世保支局長は、「ニッ」という顔で歯茎を出して両手でピースの写真を、娘らしい一番生き生きとした表情の写真と思い、独り善がりな善意であの写真を使った、というのが、もう私の中の事実として確定してしまった。 独り善がりな感情であんな写真を出し、娘を利用した語り掛け口調のポエムを発表する、履き違えた独り善がりを見せられると、被害者である娘さんが不憫でならない。
2004年06月20日
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1. 被害者とその父親について その2 週刊誌やネットに登場する自称地元民の話によると、被害者のお手洗いさんは、非常に素朴な大人しい感じの印象を受ける。まぁ、殺されなきゃならないようなタイプの子ではないようだ。 真偽不確かなチャットの内容についても、まぁ、他人のIDで荒らすようなことがあれば追求を受けるのは当然で、友達だから庇ったが、庇いきれなくなったから一緒に怒るというのは、普通にある話で、何も落ち度があるわけでもない。私も以前に、騙りをやって無反省な人間を庇っている人を見た。もしあの人が、庇い切れなくなったからと掌を返したとしたら、殺されていたのかもしれないなぁ、命拾いしたね、なんて思ってしまうわけだが。 前にも書いたように、まぁ、お手洗いさんは、決して可愛いというほどの容貌ではなかったけれども、お手洗いさんが書いたという「私はジャガイモがあれば生きていけるよ」という表現を聞くと、可愛くないなら可愛くないなりの、それなりの幸せを手にすることが出来た子であろうな、と想像する。天然ののほほんな性格を自覚し、自分のキャラを受け入れ、世の中で受け入れていかねばならない身の程を幼くして自分の役割と受け入れられる子が、小市民の幸せになれないはずがない、と断言できそうな性格の良さが滲み出ている。 ネヴァダよりも、生身でもネットでも、友達が多かったというのは十分に理解できる話だ。 お手洗いさんは、ネヴァダと同じく、バスケットの倶楽部に入っていたそうだが、ネヴァダよりも先に辞めている。辞めた理由は、父子家庭故の家事手伝いということらしく、ここでも「きっといい子なんだろうなぁ」と思わせる。 被害者に、死人に口無しで、ネヴァダをイジメていたという風評を立てられるには、可哀想過ぎるように思う。
2004年06月19日
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1. 被害者とその父親について 被害者と加害者の関係についてだが、一学年一クラスしかない学校の同級生ということであり、必然的にクラスメイトということになる。まぁ、いわゆる仲の良い友達であり、ネットのウェブページや交換ノートなどの交流を行い、例のネヴァダ集合写真でも隣同士で写っている。ネヴァダ本人は、捕まってから「特別に仲が良いというわけではない」というような発言をしているが、そのあたりは割り引いて考える余地がありそう。 動機に関しては、お手洗いさんがネヴァダをいじめていたという、ことにしたい人がネットには沢山居るようだが、どうもそんな感じではなさそう。初期の報道で「ネットに嫌な書き込みをされた。止めてくれといったが止めてもらえなかった」という、加害者側からの一方的な言い分が、ネット上での理想として語られている「いじめられっ子は、自殺するぐらいなら、いじめっ子に復讐すべき」という意見に合致していたからだろう。ところが、よく聞いてみると、その「嫌な書き込み」にしても、ぶりっ子と言われた、髪型が似合わないだのなんのと、全くもって大した話ではなく、どう考えたところで殺害に到るような話ではない。こんな程度で殺されていたら、いくつあっても命が足りない。また、明白な事実を遠慮したところで意味はないので書くと、容姿に関しては、明らかに加害者のほうが被害者より遥かに優れているわけで、容姿を悪く言われていたと仮定しても「鏡みなよ」で済む話だ。 で、本当の殺害動機は何かというと、これはソースを保存している人間が確認できていないので、事実であるかどうかの認定は出来ていないのだが、前日のチャットが原因ではないかという話がある。そのチャットの内容というのが、ネヴァダが他の人のIDを使いチャットを荒らしていたがバレて、チャット参加者がネヴァダをキツく批判していた。お手洗いさんが、ネヴァダの肩を持つように庇っていたが、ネヴァダの態度に他の参加者の批判は容赦がなく、お手洗いさんは庇いきれなくなり「私が間違っていた」と発言し、怒った参加者と別のチャットルームに移動した。残されたネヴァダは夜中までそのチャットルームにいて、「続きは明日学校で話そ」と書いて落ちたらしい。 というのが、ネット上で言われている。先程も書いたように、肯定するソースもないが、まことしやかに書かれていても、否定されてもいないようだ。
2004年06月18日
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長崎佐世保の事件、いわゆるネヴァダ事件であるが、何故に佐世保がネヴァダなのか?という部分はおいといて、この事件について、なんとなく書き綴ってみる。1. 被害者とその父親について2. バスケット倶楽部について(母親とコーチ)3. 学校について(担任と校長)4. ネットとバトロワについてという、まぁ、加害者に影響を与えたであろう、事柄について書いていく。ただし、加害者に影響を与えようが、それが直接犯罪に結びつくわけでもないし、結局のところは、マスメディアで、大学教授などが金を貰ったからには、止むを得なく、それらしく理由付けをせねばならなくて、恥を承知でこじつけている精神分析やら児童心理などを、酔狂にも金も貰えないのに書くというわけで、早い話が相当におめでたい。だが、「少女がネットに書いた文章は、他人の目を気にする文章であり、自己顕示欲求の云々」などの、アンタこそ、そのメディアで発表している言説に他人の目を意識したほうがいいのではないか、と思われる阿呆な分析が大手を振っているので、許されるであろう。そもそも、何らかのキーワードと犯罪を安易に結び付けてしまうやり方の精神分析は、非常に怖い。例えば、ネヴァダが書いた絵を見て「大きな目は自己顕示欲求の云々」とか詩の文章から分析などしているわけなんだけれども、考えてみればわかることで、小学六年生が、全てをオリジナルで生み出しているはずがなく、いくつかある何らかの定型の中から、自分の好きなものを選んでいるだけに過ぎない。となれば、ネヴァダと同じセンスを持つ少年少女、文章については、かなりマセてたとは思うが、ネヴァダのような少女漫画のような絵を描いている子は、ゴマンといるわけで、ネヴァダ本人は置くとしても、定型の少女漫画絵を描いたが故に「自己顕示欲が強い」だの何だのと言われて、殺人者予備軍のように分析されたのでは、たまったものではない。少なくとも、そこから殺人に結びつけるのは明らかに無理があり、同様な嗜好やセンスを持つ少年少女たちに対して迷惑であり、害悪でもある。因みに、この事件テレビでは、お手洗さんは「首を切られて死亡した事件」といわれている。「殺す」とか「殺害」という表現は、控えられているようだ。<続く>
2004年06月17日
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