タコ社長,オーストラリア・メルボルンのスローライフな日々

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タコ社長1952

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「タコ君、12月に部品部、サービス部を引き連れてインドにキャンペーンに行ってくれ。君は一番若いけど、営業なんだからバカにされないようしっかりやらんとな。」

「はい、分かりました。」私は28歳だった。

建設機械会社の海外営業部2年目の時、後に社長にまで昇進した当時のA部長にそういわれた。この部長、本当に怖かった。そして、誰よりも仕事の能力のある人だった。

同じ年の7月に、この部長から「君なんか、クビだ!」と200人くらいいた部屋中に聞こえ渡るくらいの大きな声で怒鳴られて飛び上がってしまったことがあった。香港の青木建設に導入しようとしていた35トンダンプのサポート体制を敷くために、現地出張を準備するように言われていたのだが、それが遅れていてとうとう部長のお目玉をくらったのだ。実は、その同じフロアーに当時付き合っていた彼女が業務部で仕事をしていた。

「タコ君、部長に睨まれたもう終わりだぜ。必死でやれよ!」4つ先輩のKさんに言われた。私は必死になって香港出張の準備をした。

「やれば、できるじゃないか。」出張からもどって報告したときにA部長に言われてクビが繋がった。しかし、後にも先にも褒められたのはこの1度だけだった。

インド出張は、サービス部のYさん45歳、部品部のNさん42歳、販売促進部のKさん33歳と私の4人編成。これに現地事務所長のIさん、サービス員のMさんが加わる。

それにしても、こんな先輩達を私がまとめ営業として引っ張っていかなとならない。本当に気が重かった。

「タコちゃん、俺ね女房に顔は綺麗だけどケツが汚いってよくいわれんだよ。」好男子でナイスガイのKさんが言った。汚いケツとは、あの絆創膏の貼られた栃錦のお尻のようなものだろうかと想像したが、あまり突っ込んで想像するのも控えられた。



「おい、ホテルの部屋のウイスキーは何のためにあるか知ってるか?飲むためじゃないんだぞ。あれは、悪い病気の消毒用に使うんだよ。知ってたか?」Yさんと話しているといろいろと勉強になる。ジェスチャーつきで念入りに説明してくれた。

コンドームにしてもウイスキーにしても私にはまったく白人女性だった。白人女性?スタイルが西洋梨の形の瓢箪形。西洋梨、洋梨、ようなし、用無しだった。

Yさんとは会社を辞めるまで本当に親しくつき合わせていただいた。

「おいおいタコ君、あのカウンターに座ってる白人女性いるだろう。あの隣に座ってなんか話かけてこい。」ゴアのホテルでこんな難題を私にふっかけてきたのはNさんだった。どうすりゃいいんだ。この人はちょっとクセが強くて苦手だった。営業は男ゲイシャ、行かないわけにはいかなかった。ジントニックをあおってカウンターに行って声をかけた。二言三言会話を交わしただけだったが。何でも、アメリカ人でダンナを待っているということだった。あがっていたのであまり覚えていない。それでもNさんは、「タコ君、よしよし、上出来!」とにっこり笑って迎えてくれた。因みに彼女も白人女性だったからようなしだったわけだ。

こんな方々に囲まれて、緊張しきっていた私もインドでのチームリーダーとして仕事を無事にしっかりこなすことができた。出張の目的である新製品の販売も上々だった。

20代の若造のときに、こういうちょっと変わった先輩達の教育を受けられたことは幸せだったと思う。そして、これらの方々は自分の専門分野においてはとんでもなく仕事のできる方々ばかりだった。

こうしてインドには都合3回ほど出張し、最後の出張の翌年1984年にいろいろと考えた末脱サラすることになった。







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Last updated  2007年03月22日 19時10分12秒
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