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いつものように目を覚ましたものの、その日の授業に準備するものが思いだせなかった。確か、国際関係論のレポートがあった。忘れずに書いてこいよと念を押した先生の顔は鮮明に浮かんでくるのだが、それがいったい今日までだったのか、明日までに書けばよかったのか、まるで思い出せない。いや、それ以前に、何について書けばよかったのか、何も覚えていない。 それどころか、今日がいったい何曜日で、国際関係論の授業がどの教室であるのか。そもそも、私は今何年生で、どこの大学の学生だったのか。 宿題が出たのが1週間ほど前のことで、何やら気乗りせず、もしかしたら、これで単位をもらえないかもしれず、ここで単位を落としたら、せっかく就職が決まっているのに、卒業に必要な単位がそろわず、いったい親に何て言えばいいのか。そんな不安を抱えて、いつもはあまり部屋に呼ばない友だちを呼んで、二回ほど飲んだ。昨日も飲んだ、ような気がする。部屋の隅に焼酎の壜がころがっているから、きっとそうなのだろう。銘柄が初めて見るものだということは、友だちが初めて連れてきたやつが持ってきたものにちがいない。そう言えば、初めて見る顔が何人もいた。 一人や二人じゃなかった。四人はいた。 そうだ。友だちに焼酎を飲むやつなんかいなかった。いや、そもそも、大学に入ってこの方、焼酎なんて飲んだことはなかった。 いったい、焼酎を持って来たやつはだれで、私はいったい何年生なのだ。 それよりも何よりも、体が動かなかった。途轍もなく深い眠りに落ちていたようで、なかなかそこから這い出すことができなかった。部屋全体が重力場に囚われていた。私の体にかぶさる布団も、部屋の隅に押しやっておいた机も、何もかもが重く、そこからたどろうとする記憶も、それどころか時間すらも重く、自分自身の日常を取り戻す作業が遅々として進まなかった。
2006.11.30
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この4月ベルギーで開かれた「日欧出版交流セミナー」に参加した作家の池澤夏樹さん(49)に欧州で翻訳文学の現状を聞いた。 翻訳文学の米国偏重は欧州でも問題になっている。各国の出版界は米国製「エアポート文学」(空港で買えるペーパーバック)の肥大に警戒感を強めていた。 ベルギー、ドイツの米国作品への偏りは日本よりもひどく、アジア、アフリカの作品はおろか他の欧州作品の出版さえ思うようにならないという。 20世紀は「アメリカの世紀」と考えれば、米国作品が伸びるのは当然だが、作品内容よりも計算ずくの商法でマーケットを広げている印象だ。 米国の価値観を相対的に見るためにも他国の作品は必要なのだが、そういう「お勉強」をするように読む人がいなくなった。
2006.11.30
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文芸評論家の川村湊さんは近著「戦後文学を問う」(岩波新書)で、日本文学のアメリカ化を論じている。村上春樹さんの作品をはじめ70年代後半以後の日本の文学に出てくる「アメリカ」は、「夢の世界」でも「日本を覆う影」でもなく、空気のような存在になった。もはや構えて挑むような「海外」ではなく「日本人が内部に抱え込んだ普遍的な世界になった」と指摘する。「若い読者層は米国作品を違和感なく受け入れ、海外作品という感覚もないのではないか」と言う。 米国以外の「海外作品」は減り、文学の世界は米国に偏り続けるのだろうか。「現代中国の文学は読まれなくても『ワイルド・スワン』がベストセラーになるように。非米国世界は今後、米国の移民文学というフィルターを通して読まれるようになる」と川村さんはみている。
2006.11.30
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アメリカの台頭は同じ英語圏の作家にも容赦はしない。 モームの作品は74年に32点あったものが94年には9点に減っている。「アシェンデン」、「剃刀の刃」、「劇場」、「作家の手帳」 ロレンスの作品は74年に14点であったものが94年には4点に減っている。「虹」、「息子と恋人」、「恋する女たち」
2006.11.30
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こうした「文学離れ」が進むと同時に出版界にアメリカ文学偏重が進んできた。文庫の世界でもこの十年、欧州文学の衰えと合わせるように米国文学の台頭が際立ってきた。 角川文庫の郡司聡さんは「宣伝力、情報量の圧倒的な違い」を挙げる。「日本の出版社が買い付けに行くフランクフルトのブックフェアでは、常に米国作品が展示面積の大半を占めている。欧州の代理店も米国作品を売り込み、米国以外の国の作品でも、米国で売れたものが紹介される。他の国にも「金の卵」はあるのだろうが、探すのが大変なので、結局、米国作品に傾く」という。「本の雑誌」発行人の目黒考二さんは、「要因は読者の衰退」と言う。「読書情報はあふれているが、内容は画一的で貧困になっている。読書情報は友人同士の口コミが理想。米国ものに偏るのは、みな情報交換を怠り、映画のヒットやマスコミの話題に流されているからではないか」 ハリウッド映画の原作がベストセラーになるのも80年代後半からの傾向だ。日米のベストセラーは90年代に入って、トム・クランシー、スティーブン・キング、シドニィ・シェルダンの作品など奇妙なほど一致するようになった。
2006.11.30
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フランス文学、ロシア文学、ドイツ文学ばかりではない。イタリア文学の作品も少なくなっている。モラビアの作品は74年に9点あったものが94年には2点に減っている。「潰えた野心」、「ローマの女」、「夫婦の愛」、「誘惑者」、「軽蔑」
2006.11.30
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ヘッセの作品は74年に45点あったものが、94年には16点に減っている。「青春時代」、「若い日」、「旋風」、「孤独な魂」
2006.11.29
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フランス文学やロシア文学だけではない。ドイツ文学の作品も消えていく。 リルケの作品は74年に16点あったものが、94年には5点に減っている。「ドゥイノの悲歌」、「ロダン」、「愛と死と祈り」
2006.11.29
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ショーロホフの作品は74年に6点あったものが94年にはゼロになっている。「静かなるドン」、「人間の運命」、「開かれた処女地」
2006.11.28
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ゴーリキーの作品は74年に19点あったものが94年にはわずか1点に減っている。「幼年時代」、「世の中へ出て」、「私の大学」、「海燕の歌」、「母」
2006.11.27
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ツルゲーネフの作品は74年に18点あったものが94年には4点に減っている。「猟人日記」、「ルージン」、「貴族の巣」、「その前夜」
2006.11.26
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気がつくと、私は若者たちの輪の中にいた。もちろん、もはやその範疇に入るとは言い難い者たちもまざっている。「それじゃあ、明日また迎えに来ますから」という声を最後に、ロヒカの姿がみるみる遠ざかっていった。 私は無性にこの国の人たちといっしょに大きな声を出して叫んでいたかった。かつて、学生運動に参加した頃も、これほどの気持ちにはならなかった。あれはやはり、自分の意思で選んだものではなかった。こんなつまらないことのために、喉をつぶしてしまったらばかばかしいと思った。デモ行進の間、こんな砂ぼこリを吸いこんで大丈夫なのかと、自分の体のことばかりが気になった。 でも、今はちがう。 喉なんかつぶれてもいい。この国の人たちといっしょに声を枯らして叫び続けていたい。
2006.11.25
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ロヒカといっしょに砂漠の中を若者たちのいる方に向かって歩いていくと、それまで轟音にしかすぎなかったものが、言語として聞き取れるようになった。 ふざけるな。 オレたちは、フランス文学を読んで育ったんだよう。 オレたちは、ロシア文学を読んで育ったんだよう。 オレたちは、ドイツ文学を読んで大きくなんったんだよう。
2006.11.24
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フランス文学ばかりではない。ロシア文学の文庫点数も大きく落ちこんでいる。 ゴーゴリの作品は74年には13点あったものが94年には2点に減っている。「隊長ブーリバ」、「死せる魂」、「検察官」
2006.11.23
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ロマン・ロランの作品は74年に19点あったものが、94年には5点に減っている。「愛と死の戯れ」、「トルストイの生涯」
2006.11.21
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モーパッサンの作品は74年に24点あったものが、94年には10点に減っている。「ベラミ」、「ピエールとジャン」、「死よりも強し」、「ある女の告白」
2006.11.17
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マルローの作品は74年に6点あったものが、94年には1点に減っている。「人間の条件」、「王道」、「征服者」
2006.11.16
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ボーヴォアールの作品は74年に4点あったものが、94年には2点に減っている。「他人の血」、「招かれた女」
2006.11.15
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バルザックの作品は74年に15点あったものが、94には3点に減っている。「ウーシェニー・グランデ」、「従妹ベット」、「従兄ポンス」
2006.11.15
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フローベールの作品は74年に6点あったものが、94年には2点に減っている。「感情教育」、「三つの物語」
2006.11.14
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記事はさらに、作品点数が減った海外の作家を一覧にしている。 小見出しはすばり「私たちの作品が消えていく」。 そのひとり、モリエールは74年に10点あったものが、94年には3点に減っている。「いやいやながら医者にされ」、「タルチュフ」、「町人貴族」
2006.11.13
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仏、独、露など名作は衰退 出版科学研究所によると、戦後から70年代までは欧米作品をそろえた「世界文学全集」が売れた。世界の名作を網羅した文学全集を書棚に並べている家庭も多かった。だが、「かつてのように『十九世紀のフランス文学』、『ロシア文学』というように系統だって文学を読む人が減った。古典にさかのぼったり、自分の好きな作家と同じ時代の作家を読み比べたりする全集時代の読み方をする人は少数派になり、人気は軽くてわかりやすい米国ものに移った」と集英社版「世界の文学」シリーズを手がけた綜合出版の篠勇さんはみる。
2006.11.12
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トラドキスタンでは、実社会での経験のない者は教員になることができません。教員の資格を取得するには、最低2年実社会での就労経験が必要です。
2006.11.11
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私は動揺を隠さずにはいられなかった。なにしろ、その新聞記事の見出しが「文庫の世界地図 米が席巻」となっていたのだから。「少なくとも1980年ごろはまだ、フランス文学、特にヌーボーロマンを読まないと学生じゃないというムードがあった」――。筑波大専任講師の今橋映子さん(比較文化文学専攻)は振り返る。「今の学生は『読め』と言われない限り、フランス文学どころか何も読みませんよ」。筑波大では現代思想、マスコミ論、宗教学に押されて文学専攻の人気は最下位だという。
2006.11.09
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言語博物館を出るとき、ふと目に入った部屋があった。そこには「文庫の世界地図」と書かれていた。 ロヒカがちょっと館長に断ってきますねと言ってぼくを置いていった隙に、部屋に展示されていた文面を携帯に収めた。 そこには、とても重大なことが書かれていた。 なかでも「トラドキスタン建国のきっかけとなった新聞記事」という文字が目に焼き着いて離れなかった。 毎日新聞 1995年4月20日夕刊 文庫の世界地図が変わっている。ヘッセ、モーパッサン、ジイドなどかつては中高生の世界文学の入門書だった翻訳文庫はスペースオペラ、青春恋愛、ファンタジー文庫の陰でひっそり。名作、古典の人気は薄れ、翻訳文庫の米国作品に席巻されそうな勢いで、文庫読者の嗜好もアメリカに酷似してきた。
2006.11.09
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トラドキスタンの義務教育は小学校の7年間だけで、それもカリキュラムがあるのは4年までです。この4年間で、母語と数学の力を養い、どのような本でも自分で読んで学ぶことができる力、自ら学ぶ力を身につけます。 この基礎学力が身につかない生徒には、あと3年かけて徹底的に指導します。 4年間で基礎学力が身についた生徒は5年生からは自由研究に入ります。 小学校で英語を教えることは法律で禁止されています。
2006.11.08
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ふいに、音とも振動ともつかないものが伝わってくるのを感じた。耳ではなく、体全身で聴き取ることができるような音、民衆の底知れぬエネルギーを感じさせるような響きだ。途轍もなく大きな何かが、はるか遠くから、地殻の中を通って伝わってくる。 ロヒカは私の驚きを察して「あれば、若者たちですよ」と言った。「若者たちですか」「そうです。博物館の向こうは砂漠です。その砂漠に大きく凹んだところがあって、夜になると若者たちが集まってくるんです。もう少し、お話したいことがあるんですが、ホテルに帰ってからにして、ちょっと見にいきましょうか」 何ものともつかなかった体感が、こめかみから上顎のあたりに集中し、次第に音として認識できるようになってきた。博物館の裏に広がる砂漠に足を踏み出すと、やがてその音が、低く重々しいものであるけれども、まぎれもない人間の声であることがわかるようになる。地底から響いてくる声は、もともとの意味が擂鉢の中でぶつかり合い、すりつぶされて、時に打ち消しあって消滅し、時に融合して途轍もなく大きな塊となって、これまでだれもが想像だにすることがなかった新たな意味を獲得し、星空に届かんばかりの轟音となって響きわたった。 その音は怒りと憤りを帯びながらも、あたかもあらかじめじっくりと練り上げられた旋律に導かれるかのように、確かな川筋に沿って流れ、この先濁流となって荒れ狂うようには思えなかった。 一人一人が思い思いのことを叫んでいる。時にことばそのものは、卑俗そのものであるのに、こうして全体として荘厳な楽曲のように響き渡っている。「叫んでいる内容が聞き取れますか。日本国への不満をぶちまけているだけなんですよ。日本国では高校の履修漏れが問題になっていますから、今はそのことで日本国に抗議している者がいちばん多いでしょうか」「抗議ですか」「この砂の窪みに向かって叫ぶと、訴えが日本国に届くという伝説がいつの間にかできてしまいました。それ自体、他愛のない伝説なんですが、若者たちはこうやってストレスを残らず発散して帰っていくんです」「何て言ってるんですか」「そうですね。もちろん、一人一人ちがいますが、大学受験のバカバカしさがやはりいちばん大きいですね。トラドキスタンには、自ら亡命ということばを使って日本から逃げ出してきた子どもたちもいます。その子たちにとって、日本でいちばん問題だったのは、勉強したいのに、受験というものがあってそれに時間を取られるのが惜しくて惜しくてたまらないことでした。親が物わかりがよければいいのですが、そんな親は何十人に一人しかいません。ですから、その子たちにとって、受験というものは学問の自由を侵害するものであるわけです。自分たちはそのなかでいかに受験に時間を取られないで勉強するかということを考えてきたのに、日本国では親も教師も寄ってたかって、いかに受験に費やす時間を確保するかということを考えている。バカバカしくて、夜こんな砂漠にでもやってきて大きな声で叫ばないとやってやれませんよ」
2006.11.07
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「では、日本の映像を見てみましょうか。ちょっと正視するに堪えないところもありますが、よろしいでしょうか」「まあ、ある程度は想像がつきます」「その前に、もう一度、○や□の意味するものを整理しておきましょう」 〇 一般人 ● 大卒者 □ 法人 お上 ■ マスコミ関係者 △ 学者、研究者 ▲ 医師 ☆ 翻訳者 ★ 英語サービス業者 そう言えば、スペインでは〇、□などの形に関係なく、どれもとてもきれいなカプセルを運んでいた。 日本の画面に移る前にしばらく説明があった。日本語は白、英語は赤で表示されるらしい。一般人のカプセルはほとんどが、全体にとてもきれいで真っ白な色をしていた。大卒者のになると、カプセルの尾部の方だけかすかに赤い色をしているのがほとんどで、同じように尾部だけが薄桃色をしているもの、全体が薄桃色になっているもの、白と薄桃色のまだらになっているものなどがあった。 私は思わず噴き出してしまった。 しっぽの方だけかすかに赤い色をしているのが何とも滑稽で、しかも残りが真っ白ならともかく、まるで炎症を起したように発色し、形までぶよぶよと膨らんでいる。 ロヒカは、私が落ち着くのを待って、こう言った。「説明するだけ野暮ですから、何も言いませんけど、でも言いたくなりますよね。これだけ赤い粒子を体内に取りこめば、本当ならカプセルが真ん中からきれいに分かれて、赤と白の二色にはっきりわかれるんですけど、そうはなってません」 一般人や大卒者はまだしも、■や▲になると、さながら病理標本を顕微鏡で覗いているようだった。 「赤い粒子に対して異物だという認識がないんですね。ですからどんどん取りこみます。仮にあったとしても、あの人たちの青い眼や脳みそまでほしがっているわけですから、免疫抑制剤をじゃんじゃん使うんです。所詮、異物は毒ですから、処理し切れないものが老廃物みたいにいっぱいたまってきて、ぶよぶよになってしまうんですよ。全体に英語サービス業者のがいちばんひどいんですけど、▲を見てください。見事に両極端に分かれていると思いませんか」 見ると、▲が運んでいるカプセルには、ただれたような色をしてぶくぶくになっているものもあれば、きれいな形を残して、ちょうど真ん中できれいに色分けされているものもあった。
2006.11.06
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私の目はスクリーンに釘づけになった。人の往来の激しいところでは、カプセルからさまざまな色の粒子が放出されて、それが別のカプセルに入っている。粒子を取りこんだカプセルは、色のちがう粒子を手際よく仕分け、もともと自分のものであった粒子から隔離してしまう。「これが言語の免疫機構です。スペイン語とカタルーニャ語のように非常によく似た言語であっても、ちゃんと異物であると判断し、もともと自分たちの体をつくっている文や情報子に害が及ばないように、ここに見える細胞内小器官のようなところに貯蔵しておきます。そのまま排出してしまう人もいれば、貯蔵したものを再構築して、もうひとつ言語をモノにしてしまう人もいます」 陸路を移動する白い円から粒子が出ているだけでなく、空からも粒子が降り注いでいる。言語は人の移動によって運ばれるだけでなく、電波に乗っても遠くへ運ばれる。 なるほど、画面を見ると、陸路をはるかに超える量の粒子が降り注いでいる。「でも、よく見てください。これだけの粒子がひっきりなしに降り注いできても、見事に異物を選り分けて処理しているでしょう」 カプセルをさらに拡大すると、赤い粒子が次々に黄色い薄膜で覆われていくのが見える。「こうすれば、無害なものになります。そのまま外来語として定着することはめったにありません。外来語というものは本来、人の往来の結果、庶民と庶民の交流のなかから生まれてくるべきものです。マスコミが恣意的、人工的に創り出した外来語や造語はほとんどが有害です」 ここヨーロッパの風土では、その有害な粒子を異物と判断し、体内で無害なものにしてゆくさまが、目の前に映像から手に取るようにわかった。 トラドキスタンに来てよかった。と、私は心の底から思った。
2006.11.06
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スバーハワダルマヤの言語博物館には、人とことばの動きを映像として捉えることができる部屋があります。 画面に粒子のように見えているものを拡大していくと、円や楕円、正方形、三角形、星形など、白い色をした図形と、細長いカプセル状の図形とが見えてきます。 白い図形の大半は円形をしており、一般人を表します。いちばん多いのがこの白い円です。 白い円のひとつひとつが細長いカプセルを引き連れるようにして動いているのが見えるはずです。まずはスペインを画面に映して説明することになっています。カプセルのほとんどは黄色い色をしているはずです。これがスペイン語です。なかに緑色のカプセルが見えるのがフランス語です。薄緑色がカタルーニャ語、青がドイツ語です。 色はたまたま選んだだけで、言語の本質とはまったく無関係です。 ひとつのカプセルでも二色や三色になっているのは、たとえば黄色と黄緑ならスペイン語とフランス語、これに薄緑色が加わるとさらにカタルーニャ語ができることを意味します。 このように、舞台をバルセロナに移してみると、黄色と薄緑色の二色でできたカプセルがたくさん目につくようになります。 カプセルを拡大しますから、よく見てください。輪切りにしたような横縞が見えるはずです。これがひとつひとつの文です。さらにその横縞は、いわゆる単語、トラドキスタンで情報子と呼んでいるものから成っています。 カプセルから微粒子が出ています。これは、カプセルのなかで複製され放出されている文や情報子です。現実には、その人が話したり、文を書いたりしているということになります。 このスクリーンでは、それぞれの地域の人の動き、たとえばスペインとのフランスとの間にどれだけ人の動きがあって、どのような言語を話す人たちが、どのような言語を運んでくるかを映像として捉えることができるようになっています。 ボタンひとつで倍率を自由に変えることができます。しかも、たとえば地図だけを小さくして、白い円やカプセルの大きさをそのままにすることもできます。もちろんその場合には、それぞれの図形が全体に占める割合を正しく反映する映像に切り換わります。 ですから、仮に全人口の九割をスペイン語人口が占め、一割をフランス語人口が占める地域があるとすれば、カプセル100個のうち90個が黄色いカプセル、10個が緑のカプセルになります。 これまでの言語分布地図が単に静止画として、それぞれの地域でいちばん優勢な言語の分布を表すのにすぎなかったのに対して、この部屋のスクリーンでは、人の動きと、それに連動することばの移動、さらには一人一人が話すことができる言語までも、映像として見ることができます。
2006.11.05
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食事を終えてコーヒーを飲んでいると、約束通り現地ガイドが現れた。 ここスバーハワダルマヤの言語博物館はホテルのすぐ近くにあるが、全館をくまなく見てまわるには何日も通わなければならないと言う。「まだ、名前を申し上げてしなかったですね。ロヒカと申します。よろしくお願いします」「私は安く泊まると書いて、安泊。あばくと読みます」「では、参りましょうか。博物館は11時まで開いていますから、これからいつでも好きなときに来ることができます。一度に全部見るのはムリですから、240の言語の音声を聴くことができる部屋もありますが、今日は安泊さんにぜひともお見せしたいものがあります」 博物館は砂地の上に立っていた。月明かりの下、平城の姿をしてどこまでも伸びており、あたりに高い建物がないせいか、夜空がすぐ真上に迫っているように見えた。 城門をくぐってすぐ左の部屋に入ると、いきなり夜空がそのまま続いているようなスクリーンが現れ、大きな世界地図が映し出された。「この地図はリモコンのボタンで、自由自在に操作することができます。 ロヒカがそう言うと、画面が一気に変わった。全体に黄色っぽい画面に、何やら粒子のようなものが降りそそいでいる。「これが、まさかニュートリノというわけですか」「ここは物理学の博物館ではありません。とりあえず、テープの説明を聞いてみましょうか」 テープの説明が始まると、画面は自動的にヨーロッパを映し出し、やがて倍率が小さくなってスペインがすっぽりと収まったかと思うと、みるみるうちに大写しになって、もはやどこの土地を写したものかわからなくなった。
2006.11.04
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わが国には至るところに言語博物館があります。スバーハワダルマヤにはトラドキスタン最大の言語博物館があり、実に340に及ぶ言語の資料が展示されています。 その全容は短時間ではとても語り尽くせるものではありませんが、まず目につくのは、世界240の言語を音声で聴くことができる部屋です。どの言語も老若男女数名の音声が録音されています。これは、発音する人によって、その言語の音に対して誤った先入観をもつことがないようにするためです。 トラドキスタンの小学生は、この言語博物館が製作しているCDで、世界中の言語の音を真っ白な状態で耳にします。こうして、わが国では国家権力が操作した言語世界地図ではなく、できるだけ世界全体の実情を反映した言語像を自らのなかに作り上げることができるようになっています。
2006.11.03
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わが国は現在、シグノバスナーヒラに暫定首都を置いておりますが、数年後にはスバーハワダルマヤに移転する計画です。 トラドキスタン潜入記の記者が降り立ったのは、このスバーハワダルマヤです。
2006.11.03
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ちょうど階下のレストランに降りて行こうとするときに、トラドキスタン放送のニュースが始まった。 厳しい口調で抗議するものと思っていた私は肩すかしを食らった。 言語研究所主任の会見は一言、「日本国文科省発表の敬語5分類は黙殺する」でお開きとなった。 そのあと、急いで研究所に戻ろうとする主任に、記者らがマイクを向けた。「なぜ、黙殺なんですか」「そんなことどうでもいいじゃないですか」「どうでもいいというのは、」「同じ日本語を公用語としている国として、バカバカしすぎて、抗議する気にもなれない。そういうことです。そんなことよりも、」 主任はそう言うと、深々と頭を下げて記者団に謝罪した。謝罪の内容は次の通り。つい最近、日本国から奇妙な非文を、まったく検知できないままわが国に流してしまいました。まだまだわれわれの努力が足りないということです。生徒がいじめで自殺した学校の校長が「ウザいということばを利用して」、「そのようなことで動揺するような姿の生徒ではない」などと言っているのを、現在の装置では検知することができませんでした。 利用するというのはそんな使い方をするものではありません。「ウザいということばを使って」か、せめて「用いて」でしょう。姿に至ってはまったく意味をなしません。日本国では、日本語で思考することができない人間を校長の座に据えているというが、よくわかると思います。それを、字幕を入れてもっとはっきりとさせたかった。 現在われわれが採用している方法では、「利用する」自体はまったく問題のない情報子ですし、「姿」だってそうですから、また別の情報子とつながって非文になるような場合には、検知するのが非常にむずかしくなります。 今後の課題にさせていただきます。
2006.11.02
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わが国では、日本国からひっきりなしに節操のない西ハワイ語が流れてくるので、日本国のラジオ放送を受信することはできません。 トラドキスタンでは特殊なテレビ受像機が普及しており、現在日本国から流れてくる西ハワイ語の8割近くを瞬時に日本語に「訂正」し、字幕で流すことができるようになっています。あらゆるウイルスに対応できるよう、現在研究が進められています。現時点では、ウイルス濃度がテレビ受像機の処理機能を上回ると、自動的に電流が遮断される仕組みになっています。
2006.11.01
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私には気になることがあった。日本語を公用語とするもうひとつの国で、文部科学省が敬語5分類を発表した。これに対してトラドキスタン政府が動かないはずがない。 いったいいつ、どのようなかたちで抗議するのか。 ホテルに着くとさっそくテレビをつけて、ニュースの始まるのを待った。
2006.11.01
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