歎異抄を学ぶ

歎異抄を学ぶ

2006年06月22日
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建長八年(1256)になって表面化してきた善鸞義絶事件は、慈信房善鸞聖人の息子でした。

しかし一説では、正応五年(1292)に81歳で殉したともいわれています。のちに覚如上人に真宗の法義を伝授する如信上人は善鸞の長男です。

善鸞がいつごろ京都から関東へ赴いたのかはわかりませんが、乗専房の書いた覚如伝「最須敬重絵詞(さいしゅきょうじゅうえことば)」巻五(「真宗聖典全書」三・八三九頁)につぎのような記述があります。

初(はじめ)は聖人の御使(おんつかい)として坂東(ばんどう)へ下向(げこう)し、浄土の教法(きょうぼう)をひろめて辺鄙(へんぴ)の知識(善知識=教授)にそなはり給けるが、後には法文(ほうもん)の義理をあらため、あまつさへ巫女の輩(やから)に交(まじり)て仏法修行の儀にはづれ、外道尼乾子(げどうにけんし)にておはしければ・・・。

これによれば、彼は聖人の使者として関東へ下ったというのです。
それよりさき、建長四年(1252)に、聖人が常陸(ひたち)の門弟たちに与えられたお手紙のなかに、「浄土の教(きょう)もしらぬ信見房(しんけんぼう)などが申すことによりて、ひがさまにいよいよなりあはせたまひ候ふらんをきき候ふこそあさましく候へ」(「御消息」第二通=「註釈版聖典」七三八頁)という一文があります。
信見房がどのような人物かわかりませんが、浄土の教えを正式に学んだこともない念仏聖の一人だったと考えられます。こうした人々の邪説にまどわされた人たちに聖人は、

煩悩具足の身なればとて、こころにまかせて、身にもすまじきことをゆるし、口にもいふまじきことをもゆるし、こころにもおもふまじきことをもゆるして、いかにもこころのままにてあるべしと申しあうて候ふらんこそ、かへすがへす不便におぼえ候へ。酔ひもさめぬさきになほ酒をすすめ、毒も消えやらむに、いよいよ毒をすすめんがごとし。薬あり、毒を好めと候ふらんことは、あるべくも候はずとぞおぼえ候ふ。『御消息』第二通=『註釈版聖典』739頁


こうした聖人のお手紙によって、建長三、四年ごろから関東では、「悪人を救う本願があるのだから、悪を造ることを恐れるな」といい、「悪は思うさまにふるまえ」というような邪な説教をして、人々をまどわす、いわゆる造悪無碍の邪義がはびこりはじめていたことがわかります。そうした状況をうれえた門弟たちの要請をうけて、聖人は善鸞をつかわし、正しい念仏の法義を伝えさせたようとされたものだと考えられます。おそらく善鸞は三十代の後半か、四十歳までの年齢だったと思います。善信房親鸞という父の名を二文字も与えて慈信房善鸞と名づけられていたところからみても、聖人は彼を信用し期待しておられたにちがいありません。

参考図書
・歎異抄をよむ:河田光夫 1998.乗雲寺本堂再建十周年記念行事実行委員会
・聖典セミナー歎異抄:梯實圓 1994.本願寺出版社





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最終更新日  2006年06月22日 17時29分20秒


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