以前の記事を参考 )。
それより以前、安土桃山時代には、ここから500メートルほど北側に「淀城」がありました。江戸時代の淀城と区別するために「淀古城」と呼ばれることもあります。
明治時代の資料には堀跡などの記録があるようですが、現在では農地や宅地ができて、詳細なことはよくわかっていません。地名にその名を残すのみです。

豊臣秀吉の側室となった茶々は、天正17年(1589年)、棄丸(鶴松)を産みます。このとき、懐妊を喜んだ秀吉が産所として贈ったのが淀城(淀古城)です。それ以来、茶々は「淀の方」などと呼ばれるようになりました。
ちなみに、「淀君」「淀殿」などと呼ばれるようになったのは後世になってからなんだそうです。
天正19年(1591年)に鶴松が死去したあと、甥の秀次が秀吉の養子となります。しかし文禄2年(1593年)、淀君が拾丸(秀頼)を産むと、後継者問題が絡んできます。
文禄4年(1595年)、秀吉は秀次に謀反の疑いをかけ、切腹を命じます(秀次事件)。このとき、淀城の城主だった木村重茲(しげこれ)は秀次を弁護したため、嫌疑がかけられて自害に追い込まれます。そして淀城は廃城となりました。
梅が咲き出していました 2018年01月21日 コメント(2)
実りの秋(山田池公園にて) 2017年10月01日