京阪宇治駅の東、宇治橋東詰近くに「橋寺放生院(はしでら・ほうしょういん、または、ほうじょういん)」という名の寺院があります。

真言律宗のお寺で、山号は「雨宝山」、寺号は「放生院常光寺」ですが、「橋寺放生院」あるいはたんに「橋寺」と呼ばれることが多いようです。「橋寺」は、このお寺が宇治橋を守ってきたことから付けられた名前だそうです。
寺の由来では、推古天皇の12年(604年)、聖徳太子の発願により秦河勝(はたのかわかつ)が建立したとされているそうです。秦河勝といえば、治水や織物などの技術を持った渡来人で、聖徳太子の側近としてよく知られております。宇治周辺の治水にも関わっていたのかもしれません。(秦河勝については→ こちら をどうぞ)
江戸時代、このお寺の境内から「宇治橋断碑(うじばしだんぴ)」と呼ばれる石碑が見つかりました。見つかったのが一部だけなので「断碑」と呼ばれます。欠けた部分を他の史料で補って読めるようにし保存されているとのことです。石碑は奈良時代のものと推定され、国の重要文化財に指定されています。
この石碑には、宇治橋が宇治川に最初に架けられたのが大化2年(646年)と記されているそうです。秦河勝が建立したとする時期より40年も後のことになります。このずれは何なのでしょう? すなおに考えれば、橋寺が最初に建立されたときには、橋を守るのが目的ではなかった、ということになりそうです。
だけど、秦河勝が宇治橋を架けようとしていた可能性はないのでしょうか? ひょっとして、架けたけどすぐに流されたとか、、、。おっと、勝手に想像が広がっていきそうになります。
実際、宇治橋は過去に何度も流失し、そのたびに掛け直されました。
弘安9年(1286年)に宇治橋が架け替えられたときに、奈良・西大寺の叡尊(えいそん)上人によって橋寺が建立されます。橋寺が実際に創建されたのはこの時期であるとも言われています。
叡尊はこのとき、塔の島に十三重石塔を建立するとともに、大放生会(ほうじょうえ)を営みました。このことから、橋寺が「放生院」と呼ばれるようになったということです。
橋寺のすぐ近く、宇治橋東詰にあるお茶屋「通圓(つうゑん)」も、橋寺放生院も、それぞれの立場で宇治橋を守ってきたということです。それほどに、宇治橋は交通の要所として必要な橋だったということでしょう。 (通圓については→ こちら を参考に)
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