Tarsha's Trace

Tarsha's Trace

2008.06.18
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とっくに崩壊・・・笑

今は、「ふつうぅぅ」のタイムスケジュールに戻った。朝6時~7時の間に起きて、夜12時半には寝ている。

やっぱり、私は「極端」は無理なようです。




以前、ゼミ合宿で赴いた長野で出合い、心ときめいた言葉がある。島崎藤村だ。


誰でもが太陽であり得る。わたし達の急務は、ただただ眼前の太陽を追ひかけることではなくて、自らのうちに高く太陽をかかげることだ。


以前にも、ちらりと書いたことがあっただろうか。藤村は文壇では嫌われているそうだ。でも私は、彼の生き様と作品をわずかでも少しずつ知るにつれて、藤村が好きになった。

研究者の書いた論考が、作品に対して「誠実」でないと、怒りを感じる。「理論」で作品を「裁断」すると、みんな似たような解釈になってくる気がする。作品に沿っているように見せて、実は理論が提供する「論理」「図式」に照合するところだけを作品から捨象して、「執筆者が言いたい」ひとつの物語にしている。これが、作品を「捻じ曲げる」ということに違いない。

そんな場合、どんなに執筆者の言っていることに正しい部分があろうとも、不思議なのは、そこに作品の面白さの深みが現れていないことだ。

作品を論じる研究者は、第一に、作家と作品に対する「尊敬」を忘れてはいけないのだと思う。そうでないと、結局は嫌な傲慢さが鼻につく論展開になってしまう気がする。



Tarsha's papa は、私が一時帰国中、こんな言葉を教えてくれた。

「理論を事実で洗え」。

理論は「捨象」し「抽象化」するけれど、その理論が提示する視点からものを見るとき、「事実」や「作品」の持つ「複雑性」をないがしろにしてはいけないのだと思う。

理論の提供する分析視点から見えてくるものを、その場から「切り取る」のではなく、さらにもう一歩深めて、「全体との関係において」考えていくことが大事なのかな。


それにしても、ものを書く人には大きな責任がある。それが作家であれ、研究者であれ。いや、書く人だけでなくて、言葉を用いるという行為それ自体に、責任があると言ったほうがいい。

「言葉」の持つ力の大きさ。





4月のディフェンスの折、ウェン先生より、私が扱う作品が、当時と現在の「批評家」と「一般の読者」にどう評価されているかを調べるよう言われた。しかし、批評家のは分かるけれど、一般の読者はどうしたら分かるんだろうか?

売り上げ部数? 学校でどう扱われているか? 読書感想文? Amazon に書き込まれている感想? 

それに、当時の一般読者って・・・ 日本で集めた資料には、一般読者の反応など載っていないのだ。

これは対策を練らなければいけないなり。

でも、このことを指摘してくださったウェン先生に、心から感謝している。それは、この「評価」について調べていく中で、「今」の視点・評価軸を「絶対視」し、「不動化」してはいけないということを学んだから。作品の評価も批評も、時代とともに変わる。だからこそ、文化や文学の向上に果たす研究者や批評家の責任も重大なんだ。


常に「自分の立ち位置」を、「自明と思われているもの」を「相対化」することが大事なんだな。






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最終更新日  2008.06.18 21:01:40
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