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生きてるよ!
2010.04.19
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「東方儚月抄 Cage in Lunatic Runagate.」を読んだ。 神主ことZUN氏本人が執筆した、公式外伝のさらに外伝的小説である。ちなみに、今回音楽CDは付属いたしません。 一応、漫画作品である「儚月抄」本編の補完という位置づけなので、概要だけでも知っておいた方がよりお話を楽しめるのは間違いない。 ストーリー自体は……何と言うか、そもそも紫の企図した第二次月面戦争自体が、かつて月に敗北した際の個人的意趣返しでしかないため、はっきり言ってしまえば派手さには欠ける。本作を評して「小説版と言うよりファンブック」というものがあったのも頷ける内容では、ある。しかしながら、いつものゲーム本編での派手な弾幕勝負そのものも、根っこの部分は「女子供の遊び」である。 明確に儀礼化したホモ・ルーデンス的な決闘が前提になっている、どこかのほほんとした牧歌的な物語なので(原作者本人が執筆しているので当然と言えば当然だが)、東方の世界観に忠実に則っているとも言える。 やはりラストでは宴会を開いて酒を飲みながらアレコレと総括しているので、やはり、これは幻想郷を織りなす幻想郷の一部なのだ。 なお、「永夜抄」以降、音沙汰のまるで無かった慧音と妹紅のエピソードが収録されているのもまた良し。後者は仇敵たる輝夜に対して良い具合にツンデレしている。 また所々で神主の思想的なものも窺い知れるという気もする。 公式設定に拠れば、蓬莱山輝夜が地上に追放されたのは、蓬莱の薬を飲んで不老不死となった=魂が穢れたためだとされている。 本作で語られるところによると、月の住人達は長い生存が限りなく確実に保障されているため、生存闘争そのものに興味を持っていない。日々適当に働いて、暇なときは碁でも打っているのが理想的な生活なのだそうだ。 しかしながら、『彼ら』の言う穢れとは、すなわち彼らの本来において持ち得ない観念――つまり、生への執着であるという事が推測される。 月人の価値観に拠れば、生とは他者を蹴落とす競争である。 その結果として現れる敗者の死を糧にして生は継続されるのであるが、死の誕生によって、また穢れも生まれるのである。つまり、生を永続させることの可能な月人にとって、短命ゆえに他者の死を喰わねば生きられない生物の支配する地球は、生存そのものが死と穢れを産み出す土地なのである。 月人たちが地上を穢土と呼ぶのはそれに由来するという。 が、輝夜は永遠の命を保証する蓬莱の薬を口にした。 本来、生への欲求は地上の生物しか持ち得ない観念だ。であるにもかかわらず、輝夜は生命の永続を促すものをその身に取り込んだ。すなわち、生への執着と見なされ魂は穢れた。結果的に、輝夜は地上に住まう幻想郷の一員たる道を選ぶ訳だが、おそらく『欠乏』を克服したのであろう月人の中にあっては、動機はどうあれ飢渇に基づく行動を起こした蓬莱山輝夜は確実な“異形”であったことは想像に難くない。 輝夜が月での生活に退屈を覚えて追放さるべく罪を犯したように、著者の語るロマンとは、等しく欠乏の救済という面があるのではないだろうか? あとがきによれば、現実の人間が幻想郷にロマンを感じているように、幻想郷の住人は、外界の科学技術に基づいた文化に対してロマンを感じているという。「神隠し」という現象は大正時代あたりまでは東京でも当たり前に事実として受け止められ、高度経済成長を境に狐に化かされたという怪異譚は消滅していったともいわれる。幻想であれ科学であれ、ロマンの追求とは、内なる精神に根差した未だ見ぬ世界への欠乏を、好奇の手が満たす行為であるとも考えられる。 であるならば、幻想郷内部の常識に依拠した形で、神の力を借りてロケットを飛ばし、月の住人と一悶着を起こして来る霊夢たちは、やはりロマンではなく現状で知り得る最先端の力の行使を為したに過ぎない。 かつて科学技術は不可能を可能にする手段であり、薔薇色の未来を約束する夢のようなものだと思われてきた時代があった。 しかし、実際は兵器の発達によって戦争の悲惨さが増し、公害や環境汚染で地球そのものの命脈も危ういと言われるようになっている。神秘を捨てた結果として選びとった、科学という新たに欠乏を回避するための手段は、決して万能ではないという事実が露呈してしまったのである。 近代以前に放棄してきた幻想という可能性を現代人が夢見るように、幻想郷の住人たちもまた、別世界の観念たる科学を夢見ている。そのどちらも欠乏を好奇心で満たすための手段であるのなら、幻想郷という架空の世界と現実の世界とは、ロマンという点で意外と似通っている部分があるのかもしれない。
2010.01.30
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諸事情により東京に行ってきました。一泊二日。 一日目、やるべき用事を全て終えて秋葉原へ。 この時点で6時を回っていたのであるが、せっかく来たので色々と見て回る。 しかしやはり東京は豪壮だ。仙台は東北一の都会のはずだが、それでさえ見劣りするほどにきらびやかである。ビルにアニメの巨大ポスター貼ってるなんてそうそう無いだろう。たまに地方でも見るけど。 トップにリンクを貼っている、twitterのアカウントを覗いている好事家は、「アキバなう!」などと呟いていたのを見ていたに違いない。 で、ソフマップでCDを漁ったり、とらのあなでエロ漫画を立ち読みしたりなどした後、ようやく、寝泊まりする場所を探すという暴挙。 普通、こういうのは出発前にある程度の検討をつけるべきものなのだが、「まあ、ネカフェでも探せば良いか……」的な生来の無精が顔を出し、当日に捜索を開始。どう見ても馬鹿の所業である。でも結果的に何とかなったんだから問題は無いのだ。 なお、この時点で実家から「東京はどうだい」的な電話がかかって来て、秋葉原に居る旨を伝えると、「ああ、あのオタクの街」と帰って来た。たぶん、家族が受話器の向こうで失笑していたに違いない。 さて、どうにか中央通りから少し外れた所にあるネカフェ『R』の一室を確保する事ができた。ネカフェに泊まるのはおろか利用も初めてだったのだけれど……。 ネットが軽い! フリードリンク飲み放題! 映画・アニメ・ドラマが無料で観られる! などと、なかなかサービスが良いなあとは思った(とはいえ、最近はみんなそんな感じなのかしら)。 とりあえず東京都内の路線図やら地理やらをある程度確認し、無料配信中だった「仮面ライダー剣」で剣崎がオンドゥルルラギられたり、ダディヤアァーナザアァーンのカダダガボドボドになったりする様子を鑑賞した後、寝に入る。 ベッド代わりなのは、いわゆるリクライニングチェアーだ。 半分寝転がった様な状態でラクにネットが楽しめるという代物……なのだが、 寝れるか、こんなモン! 椅子としてはともかく、上手いこと身体が伸ばせないうえ、地味に硬いため、落ち着いて睡眠をとれないのである。しかし、まあ何とか寝つけはしたのがもっけの幸い。 ナイトパック(12時間)で、出ていく予定が翌日の朝8時。 悲しいことに、この時間帯には大抵の店はまだ閉まっている。 ええ、歩き回りましたよ。ひたすらにアキバをぐるぐると……。腹ン中がパンパンだぜ(疲労で)。 一日目はタワーレコードでひとまずスケルトンズのCD2枚を入手した後、神田は神保町へ。実は秋葉原よりもこっちの方が最大の目的だったりする。 世界最大の古書店街であるこの場所は、まさに軒を連ねるという言葉はこのために存在しているのではないかと思うほどにたくさんの古書店が存在している。 駅から下りて十分ほど歩けば、もう4~5件の古書店に出くわした。 面白そうな本を買ったり買わなかったり、店先で冷やかしたり熱心に見入ったりしながら、某店でジョルジュ・バタイユの哲学書と小説を3冊ほど発見した。一冊1,000円ほどだったので希少価値は高くないと思われるが、何より欲しかったものがようやく見つかったのは嬉しいものである。もちろん購入。 なお同じ店にはバタイユの「眼球譚」初訳本がガラスケースの中に大事そうに陳列されていた。ちなみに価格は25,000円……。 さて、この辺りで俺はそろそろ切り上げて帰り支度を始めてしまう。 新幹線の時間までには若干の余裕があり、実のところはもっと遊びたかったのだけれど、荷物が多くなって身動きが取りにくいのと、何より疲労が俺の体力的キャパシティを遥かに凌駕し始めていたため、やむなく諦めたのであった。 そういう訳でどうにか東京から生還した次第。 ところで、俺が今回の東京行きで最もキュンってなったのは、神保町で五十代後半くらいの婦人が、古書店の店員にバタイユの訳書に関して熱心に質問していた光景だった。言葉の端々からお得意様らしいところが垣間見られたのだが、彼女があと数十年も若ければ、俺は恋をしていたに違いない。
2010.01.25
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ある大会に出場するべく、明日は新幹線で東京に遠征してくる。 一泊して土曜の夕方に仙台へと帰還する予定。 よって、現在ipodを充電しつつキーボードを打っているというわけ。 その大会そのものは半日もかからずに終わるので日帰りも可能なんですが、何で一泊するかって言うと、むろん遊んでくるために決まってる。まず秋葉原に行きたい。あと神保町で古書を漁ってみたいなど。区で言えばどちらも千代田区? だっけ? 迷わないと良いねえ。 もっとも、あちらの鉄道は東北とは「比較にならぬほど乗り換えが複雑」だと聞き及んでいるので、どうなるのかは実際に行ってみなければよく解らない。 そういえば、どこに宿泊するかが未だに決まってないんだけど……。 俺の中では、ネカフェに泊まり、難民が発生する現代日本の病理を疑似体験するというコースが有力なんですけれども。 ああ、もう。とりあえず、純粋な旅行なり遊びなりで行く訳でないのが惜しいわ。 東京って、暑そうね。
2010.01.21
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小松和彦「神隠しと日本人」(角川ソフィア文庫)を読了。 昨年末、ちょっと松島まで電車に乗って行ってきた。 休憩をしようと思って駅の椅子に座ったのだが、俺の居た場所の真正面には掲示板が設置してあり、今後に催される予定の行事や指名手配犯の情報などがいくつか貼り付けられていた。 その中の一つに、「小学二年生の女の子が行方不明になっている」というものがあった。 今となっては細かい部分は失念してしまったけれど、どうやらキャンプの最中に忽然と姿を消し、未だに見つかってはいないそうだ。 本書「神隠しと日本人」によれば、日本国内での行方不明事件の発生件数は、警察が認知しているだけでも万単位に上るのだという。我々が日々平穏に、極めて呑気に、あるいはあくせくと生きているうちに、“ここではない、どこか”に消えてしまった人々は、想像以上に多いのだろう。けれども“ここではない、どこか”――すなわち広義の『異界』『他界』と呼ぶ事のできるいずこかの空間――に消えると言っても、『神隠し』という思考方法が未だ当たり前に信じられていた時代と、合理性の推進された現代社会とでは大きな隔たりが確かに存している。 祖母は子供時分、「遅くまで外で遊んでいると、人攫いにさらわれてサーカスに売られる」 などと親に戒められたそうである。 この戒告がまだ根強く残っていた時代は、すなわち定住せざる者は異界よりの使いであり、彼らの旅する先こそが異界であったのだろう。それは、あるいは畸形児を売り物にした見世物小屋の住人たちであり、固定されたはずの日常から剥離するささやかなりし恐怖を、どこか他人事として、娯楽という次元にまで落としこむことが可能な時代であったわけだ。 そんな、アウトサイダーじみた排他的思考を持ち出すまでもなく、ある場所に固定化された日常から、突如として人間が消え去ってしまったことを、古人は確かに『神隠し』と称していた。 神隠された“彼ら”は結局、帰ったり帰らなかったり、あるいは死体となって発見されたりしたようだが、共通しているのは、居なくなってしまった者に対しての『異界からの介在』という要素が混じり込んでいるという点ではないだろうか。天狗であり、山の神であり、山人であり、山姥であり……多様に言い伝えられてはいるけれど、それらの大概はただの人間には如何ともし難い超自然の産物であり、彼らに囚われるというのは、多く、彼らが本来の住居としている“ここではない、どこか”、すなわち異界を構成する住人の一人と見なされるのに他ならない。イザナギが、死したる妻のイザナミを取り戻すべく黄泉の国へと赴くも、既に妻の肉体は腐り果て、死の世界の住人と化していた。女神デメテルの娘・ペルセフォネは、冥界の支配者・ハデスによって死の世界に連れ去られ、そこでザクロを食べたために生者の世界に完全な復帰を果たす事ができなくなる。 もっと判り易い例を挙げてみる。 竜宮城より帰還した浦島太郎だったが、故郷から離れているうちに数百年が経過しており、親しかった人たちも、自分の元居た住居でさえも、何もかもが消滅していた。彼をとりまいてているのは、海底に存在する竜宮城なる異界の時間である。一時的にせよ、そこに存在した=神隠された浦島太郎は、既に異界の論理に囚われていたのである。「神隠しにあうということは、失踪者が異界に去るということであった。そして、そこに留まるということは、失踪者が異界の住人になるということでもあった。失踪が長ければ長いほど、失踪者は異界の『モノ』の属性を帯びることになる。」(p33)のである。 再び元の日常へと帰って来ることのできた者たちは良い。 けれど、帰って来なかった者は、もう二度と共同体の人々が会うこと叶わない。 すなわち、神隠されたまま帰還せぬ者たちは、そのまま異界の住人となったというように解釈され得るのであり、つまり、それは――ひとつの『死』を意味する事でさえ、ある。古い時代の葬送とは、死者のための儀礼であるというよりも、むしろ生者のための儀礼とも言うべき側面が存在している。日常に侵入した死なる不測の事態である非日常に区切りをつけ、また翌日から当たり前の生活を手にするために営まれるべき祭儀だったのである。かつて信じられていた神隠しという思考の方法は、いわば死者なき葬送であるのかもしれない。唐突に喪われてしまったであろう行方不明者の存在は、確かに共同体において発生した恐るべき非日常だ。現実的に考えれば、家出・事故・恋人との駆け落ち……など、いくらでも原因は考えられる。しかし、共同体に侵入した異界を振り払うためには、彼らの失踪や蒸発を超自然的現象の仕業と考えてしまった方が、遥かにやり易い。 言うなれば『神隠し』という解釈は、共同体内部における行方不明者へと、緩やかな死を与えるための葬送だったのである。「『神隠しにあったのだ』という言葉は、失踪事件を向う側の世界=異界へと放り捨てることである。それは、民族社会の人びとにとって、残された家人にとって、あるいは失踪者にとって幸せなことだったのだろうか、それとも不幸なことだったのだろうか。」(p115)。 現代よりも村落共同体としての結びつきが顕著だった時代には、互いに顔見知りである村内からの逸脱は、きっと忌まれていたのではないだろうか。どこの誰が居なくなっても騒擾となる狭く閉じた世界だからこそ、神隠しというシステムは機能し得る。それは、まだ葬送が地域社会の営みだった時代の産物であるのに違いない。「神隠し信仰は消え去ってしまった。このために、現代社会における失踪事件は、ほとんどすべて人間世界の内部に原因と結果が求められることになった。『神隠し』のヴェールを剥ぎ取った失踪事件は、むき出しの愛と欲に彩られた人間世界の出来事のクライマックスの一つとして描き出されるものといっていいだろう。」(p203) 石と鉄で造られた大都市が誕生し、全国から地縁も血縁も無い人々が続々と集まって、モザイク的な様相を帯びた社会こそが、現代であろう。もはやその地においては、死の知らせを受け取るのは共同体よりも家族、社会よりも個人と考えた方がちょうどいいのではないだろうか。そして、『異界』もまた、我々人間が知り得る範囲でのみ存続している。 今でも、人は居なくなる。 何の前触れも無しに、ある日突然、「たしかに、失踪者は日常生活の“向こう側”に消えてしまったといっていいだろう。しかしながら、現代人にとっての“向う側”は、家族や知人にとっての向こう側、つまり彼らの知らない、見えない世界ではあっても、そこもやはり人間の世界の内部なのである。そこは神々の領域としての“向う側”ではないのだ。」(p204)。 神隠しという見立てが未だ許されていた時代、それは社会的な死であり、緩やかな死であり、そして何より甘やかな死の形であった。見えぬが故に、異界での安息を祈る一抹の希望であった。 異界が顕界と地続きになり明確に可視化されてしまった現代の方が、実は、行方不明者の悲劇を受け容れるうえでは、鵺の如き不可解な不気味さに覆われているのかもしれない。
2010.01.13
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お久しぶりです。 死んでないです。 更新のネタが無かった訳ではなく、単にキーボードを叩くだけの意志に乏しかっただけ。考えるという行為は、意外とエネルギーを喰いますよね(はぁと)。 最近は、かの東方創想話様に投稿したりしてました。たぶん、俺のHNで検索すれば引っ掛かります。未だ二作しか投稿してないですけど。 それ以外だと、「道徳の系譜」を読んで、ここ数年、他人との関係において感じていた靄めいた不快の正体が知れたり、未だに就職先が見つかって無かったりです。 ひとつ、気が付いたことを上げるとするならば、思考とは、より憂愁・憂鬱に近い感情を抱くほど(少なくとも俺の場合は)より明敏になるという事実。 それは恐らく、自身に到来している不快や不幸の原因が自分自身にあるのをよく理解していながらも、他者にその責任を転嫁しようとする子供じみた欲求に起因している。つまるところ、俺は言い訳の醸成と他者の粗探しの時にこそ最も精神の活発さが発揮されるという事なのです。故に、憂鬱な時こそ思考は暗い意志と転化し得る。 反対に、陽気という感情は、理性から解き放たれた祝祭的・忘我的・恍惚的なものであり、そうした状態に陥った思考とは、最良の意味で冷静さを欠いたものである。何かを成功させるには、この状態が最も望ましい。 とはいえ、初詣で引いたおみくじは「吉」でした。どうやら今年もそこそこの年になりそうでは、ある。
2010.01.12
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最近の近況。 テーブルマナー講座なる行事にて、仙台市内の某ホテルでフランス料理のフルコースをいただいた。 あくまで眼目は「テーブルマナーの講習会」なので、食事開始前にホテル職員による説明が行われたが、あとは普通の昼食会だった。 俺は一般庶民出身の一般庶民なので、こうした「格式ばった」というか、「ちゃんとした」マナーを気にするべき所で食事を取るのはたぶん初めてなのだが、案の定、生来の不器用さをいかんなく発揮する羽目に。 ……端的に言えばね、こぼしたのよ。 誤解の無い様に言っておくと、汁を少し。 具をまるごと盛大に落としたりはしなかった……と思いたい。 料理自体は美味しかったと思う。 ああいった「量より質」の料理は、空腹の補完よりも舌を楽しませることが主目的だと思っていたのだけれど、フルコースで食べると結構、腹は膨れるものですな。 もっとも、俺の今後の生涯においてフランス料理を食べることなど天地がひっくり返って太陽が西から上っても有り得ないことだと思われるので、今回の体験は割と良い思い出にはなったと思う。マナーを活かす機会があるかどうかはわからんし。 それにしても、米ってうめえwwwwwwww
2009.12.18
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新井円侍「シュガーダーク 埋められた闇と少女」(角川スニーカー文庫)を読んだ。「涼宮ハルヒの憂鬱」以来、6年ぶりの大賞受賞作ということで読んでみたが、なるほど面白いと思った。話の舞台がごく狭い領域に限定されている割には、上手い事まとまっている。 ただ、各所で評されているように、流行の潮流を左右する程の魅力があるかと訊かれれば「?」だなあ……と。 たとえば「ブギーポップは笑わない」がヒットしてからというもの、それまで異世界ファンタジーが主流だったラノベに現代劇という一ジャンルが誕生したと言われるが、あるいはそのように斬新な基軸と言うものは、本作には無いと言わざるを得ない。 強いて他と違う点を探してみるなら、主人公の職業を墓掘り人夫という地味なものに据えたところとか……? しかし、「シュガーダーク」にはラノベに多く特有の爽快感みたいなものは乏しく、むしろ暗い場所から明るい所へようやく這い出たかのような、湿り気を帯びたささやかな情動がある。こうした物語の傾向が、たくさんの読者の感情に(また感傷に)訴え得るものかどうかは知らないが、これだけをもってしてラノベ界のメインストリームに成り得るか否かは未知数だ。というか、ある意味で本作はその試金石か? 散々「ハルヒ以来の大賞受賞!」って宣伝されてますし。 しかしながら、昨今、おそらく商業的な事情からやたらと萌え主体のラノベが氾濫している現状を鑑みると、こうした作品でもむしろ(個人的には)大きな充足みたいなものを感じるね、俺は。 巻末の著者あとがきによれば、既に続刊の刊行が決定しているらしいのであるが、一巻の時点で十分にお話としては完結していると思うのだけどね。これ以上続けるのはヘタをすると蛇足に成りかねないとも考えてしまった。無理に続きを出すくらいであれば、一巻の密度をもっと高くすべきですらある。 が、やはり回収し損ねた伏線が残っているのだし、色々な大人の事情も絡んでいるのであろうとも思う。世の中ってままならないわー。
2009.12.14
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バリバリ! やめて! 12月16日に、テーブルマナー講習会とやらで、某ホテルでフランス料理を食べて来ます。要するに昼食会的な。 当日はスーツらしく、夏に購入したまま使う機会の無かったネクタイ二号の出番になりそうだ。赤いの。 たぶん俺の一生で、この先フランス料理を食べる経験など一度としてあるはずは無いので、然とカッ喰らってきます(←既に失格)。 しかしながら、個人的な話をするなら、俺はどこかのレストランで作法だのマナーだのいちいち気にして食べるより、場末のラーメン屋で淀んだ空気を飲み込みながら、濃すぎるくらいのスープと伸びかけた面を無表情で啜っている方が性に合っていると思う。肩肘張った食事は苦手だ。 そういうわけなので、当日はマナーの悪さを露呈し、世のブルジョワジー共を震え上がらせてやろうと思う次第である。―――――― どうでもいい追記。 デスクトップやらIEのお気に入りやら、要らない・見ない無駄なファイルやらが多過ぎる。おかげで即時検索性が損なわれ、本当に必要な情報が取り出しにくくなっている。 どうやら俺のPCにも事業仕分けを行う時がやって来たようだ……。
2009.12.10
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「坂の上の雲」を観た。 第一話「少年の国」を見逃してしまったので、第二話「青雲」から観たのだが、これが、大層おもしろかった(ちなみに、司馬遼太郎による原作小説は未読である)。 聞くところによると、本作は大河ドラマとは比較にならないほど莫大な予算が投ぜられているのだとか。だからという訳でもなかろうが、映像や演出の造りが丁寧で安心して楽しめる。NHKの、異様なまでの力の入れようが窺い知れるというものだ。 第二はでは、やはり、主人公である秋山真之と親友の正岡子規が、学友たちと無銭旅行を敢行するくだりが最も印象深い。山一つ越えた先に見える広大な大海原は、理想に燃え自己の生き方に苦悩する青年たち――ひいては列強諸国と対等の地位になるべく必死にもがく近代日本が見つめる『世界』の像だ。 解りやすいといえばあまりに解りやすいメタファーだが、だからこそ、映像を通してストレートにメッセージが伝わってくる。素晴らしい場面だった……。「坂の上の雲」で思い出したのだけれども。今日の授業で、先生が人材育成に関して山本五十六の有名な「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」を引用されていたのだが、その際、「秋山真之は山本五十六の部下」という旨の発言をしていた。 おそらく、東郷平八郎と言いたかったのではないかと思われる。
2009.12.07
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pixivって格差やばくね?―――――― 何で、こんな一年も前のスレッドを引っ張り出してきたのかというと、数日前にpixivに登録したから。少し前にトレス騒動とかあったいだけど気にしない。 ちょっと小耳に挟んだ情報によると、あそこは描かずにROMる人:実際に描いて投稿する人の割合が、だいたい7:3くらいなのだそうである。 俺自身は絵を描かないっていうか描けない人間(ド下手クソ)なので、必然的に7割のROM専というマジョリティ形成に与する立場になってしまう訳なのであるが、短い時間ながら色んな絵を見て回ったところ、上記スレッドに挙がっている『格差がヤバイ』という意見に対してフト思った事があった。 しばしば、pixivにランキングに載るのは東方だのボーカロイドばかりだと嘆く意見がある。それは、まだ良いのである。その時々の流行り廃りはいつの時代にもつきものだ。ある文化の中で何かが爆発的に流行してメインストリームと化し、世間に浸透すると、たとえ短時間であってもそれ以外の潮流は脇に押しやられるか、あるいは忘れ去られるか、ひどい時には攻撃の対象になって破壊されてしまうものである。 だから、東方やボカロがいくらpixivを席巻しようが、それはそれで「そういうものか」と許容し納得する余地は、まだしも有る。 しかしながら、『ヤバイ』格差というものは、容易に解消し得るものではあるまい。 単純に絵の上手い下手で比べるのは早計である。 何かの技術――とりわけ芸術に関するものは、ある一定のレベルにまで到達すると、“ここから先は個人の思考と判断に基づいて評価すべき”という領域が確かに存在するからだ。 では俺がいったい何を言いたいのかと問われるならば、要するに、『ヤバ』さについて嘆かれるという点において、見る側が創る側に対して無言のうちに求めているのが『解り易さ』ではないのかという事なのである。 東方・ボカロの人気が出る理由については、『流行』『知名度』という事で大方の説明がつくと思われる。が、同じテーマを扱っていても人気・不人気の差が存在する事もある。それにも増して深刻なのは、誰にも顧みられないまま埋もれていくハイレベルな作品の存在だろう。 悪い例ではあるのだが、いわゆる『携帯小説』を例にとって考えてみたい。 携帯小説が一時期爆発的にヒットしたのは、それがかつての文学作品にみられた様な小難しいテーマを内包するでもなく、かといって現代的文芸としての面白さを追求するでもなく、ひたすらに恋愛恋愛セックスセックスセックス難病闘病病没という、明快といえばあまりにも明快すぎる構造を有していた故のことではないだろうか? つまり、アレで感動した読者は、非常に単純な形式で感動というカタルシスに至る道を提示されるという、『解り易さ』の恩恵に浴していたのだろう。 pixivに、これと同じ考えが通用するかどうかは未知数のような気もするのだが、当該SNSにおける人気とは、つまり100%技術的な部分の上手さに比例する訳ではない。 それが何であるのか、何が自分の欲求に対して鋭敏に働きかけてくるのか。 見る側が、見てみたかった何かに対する漠然とした欲求を十全に満たしくれる、良かれ悪しかれ『解り易さ』に左右されるのかもしれない。 見る側の欲求を即時に満たしてくれる可能性の高いものの方が、評価される機会が多いのだ。 言うなれば、芸術志向の作品というものは、どちらかと言えば人目に触れにくく評価自体も少なくなってしまう傾向にある、ということだろうか。 だから、上手いにもかかわらず正当(と思われる)評価を下されずに燻っている絵師というのは一定数が存在するのだと思う。 そういった点では、文学や小説と同じで、絵画やイラストにも難解さ・明快さいう要素は確かにあると言えると思う。 しかしながら。 こうした趣味のSNSで評価が云々、人気が云々といった点を気にするよりは、自分の好きなようにやり続けるのが最も健全という気がするのも、また確かではある。 それが難しいから苦悩するのだろうけれど……。
2009.12.03
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大賞に選ばれ「ありがたい」=鳩山首相 まあ、妥当な所なんじゃないでしょうか? 普段、聞いた事も流行っている形跡も無い様な単語が当たり前に大賞取ってたりしているのだし。実際、今年は自民が下野して民主による政権交代が成った訳だしね。その是非はともかくとして。 しかしながら、いったいどういう基準で選ばれているのか甚だ不明瞭な賞だなあと、毎回、思う。受賞しているのは「流行語」でなく「流行して欲しい語」ではないのかと(これも毎年行ってるような気がするなあw)
2009.12.01
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昨日、母と電話で話していて、「三連休はどこか行ったの?」と訊かれた。 俺は、「興味本位で仏陀再誕を観に行った」と真実を答えたのだが、母の口から帰って来たのは「ああ、あの無料の映画ね!」という驚愕の返答だった。「え? なにそれ? 俺が映画館で見た時は有料だったけど」「そうなの? こっち(地元)だと、スーパーなんかで無料券を配布してて、広域交流センターで上映してたんだけど……」 そういうことらしい……。 そういえば、俺の地元においては映画館と言えばジャスコに入ってる小規模なシアターしか存在しない。 そのため、市民会館なんかでときおり催される映画の上映イベントを頼るという手がある訳だ。 しかし、まさかスーパーで無料券配布が行われるとは甚だ予想外である。 確か、「仏陀再誕」の上映が始まるか始まらないかくらいの頃、秋葉原で教団のコンパニオン(こういう表現が正確か否かは知らんが)が秋葉原で道行く人々にチケットを配布し、速攻で捨てられていたという愉快な出来事が話題になったこともあった。 製作する教団側が、信者のための内輪向け作品と言うわけではなく、それ以外の外部の人間に向けた映画作品としてのアピールをしたいという意図もあったのだろうが、まるで奏功していない……他人事なのに悲しくなってくる。 ――が、わざわざ劇場に足を運んでお金を払って見てきた俺は、大川隆法にささやかなお布施をしてしまったと言えない事も無い。 教団が悲しいなら、俺は愚かである。
2009.11.28
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観て来ましたよ。「仏陀再誕」。 笑いを押さえるのが困難な映画だった。 とりあえず、劇場でエンディングが始まった瞬間に速攻で帰った親子連れは、信者じゃなかったんだろうなって思った。 詳しいストーリーに関しては、散々あっちこっちでレビューされているのでここでは詳しく述べない。 しかしながら、中盤までは、「唯物論者が霊界で裁判にかけられて地獄に落ちる」などいつも通りの幸福の科学である。再誕した仏陀である聖☆おにいさん空野太陽も登場し、少しずつ盛り上がりを見せてくる。 少なくとも、ストーリー的に破綻をきたしているという訳ではない。 が、敵役である荒井東作なるキャラクターの陰謀が明らかになってから一気に雲行きが怪しくなって来る。 荒井は全世界に信徒を持つ巨大宗教組織「操念会」のトップ。 この世は弱肉強食、自分に従う者だけが生き残れるという。マキャヴェリストに近いと言ったらいいだろうか。大川総裁の絶対的正しさを際立たせるためとはいえ、あまりにも解りやすい「悪役」像ですなあ。 荒井は主人公の弟に悪霊を取り憑かせて死病を患わせる。 しかし大川総裁……もとい空野太陽先生のお力によって悪霊は退散し、弟は助かった。 ここまで観てて思ったが、荒井と空野って方向性が違うだけで、胡散臭さはどっこいどっこいではないのか? なお主人公の仲間になるキャラクターとして一人の女優さん(CV:三石琴乃)が登場するのだが、彼女は空野が主催する団体の信者だった。 彼女が空野の語る仏法真理に触れて涙する場面は、危ない宗教の怖ろしさをまざまざと見せつけてくれる。本作屈指の名場面である。 そして初めは宗教に懐疑的だった主人公も、空野に感化されていつの間にか信者に。なん…だと…。 どうでもいいが、この映画は空野太陽が登場するとほとんど例外なく仏法についての講釈が始まるため、途端に説教臭くなる。 束の間の平和。 主人公とその彼氏が夏祭りを楽しんでいると、 突如として夜空に無数のUFOが出現! ビームを放って街を爆撃し始めるという突拍子もない展開に。巨大なビルが屋上にビームを浴びて、最上階から順番に爆発していくという場面は「インデペンデンス・デイ」のオマージュだろうか? 実は、このUFOを操っていたのは荒井だ。 日本国民を宗教によって支配せんと目論む彼は、念力を発してUFOの幻を見せ、それを自分が撃退したように喧伝する事で人々の信仰を得ようと企んだのである。 が、仏陀の加護を得た主人公が不思議なパワーを発するとUFOは消滅してしまう。荒井のマッチポンプ作戦はあっさり瓦解。 作戦が失敗した荒井は、テレビ各局をジャック。 今度は念力で巨大津波の幻を見せ、日本中に「私を信じた者だけが助かる!」と放送する。恐怖に駆られて信心し始める国民の皆さん。 が、またもや主人公と仏陀の力で幻は消え去る。 荒井の目論見は再び失敗した。 度重なる失敗に、操念会の幹部も次々と荒井を見限った。 教団本部で屈辱にのたうつ彼の前に、怪しげな囁きが……。 しばし行方をくらましていた荒井は主人公を誘拐し、5万の観客で埋め尽くされた東京ドームへと空中浮揚する謎のメカに乗って出現。 このメカの原理に付いて、劇中では全く説明されない。 荒井の元には主人公が! 二度とも荒井の陰謀を破った彼女は、マスコミが取り上げたことで謎の美少女として国民のカリスマとなっていた。彼女に「荒井こそ再誕した仏陀」と宣言させることで、今度こそ野望を成就させようともくろむ荒井。 東京ドームの各所に爆弾を仕掛けた、観客の命が押しければ荒井こそが真の仏陀と言え! 荒井はそんな要求を突き付ける……って。えっ? もしかして一人で爆弾を仕掛けたのか? それとも逃げ出したのは幹部だけで、下部構成員はまだ彼に付き従っていたというのか? その辺が少し不明瞭。 しかし、主人公は「空野先生こそが再誕した仏陀!」と敢然と言い放つ。 おめでとう! 主人公 は 『女子高生』 から 『信者』 に 進化 した! 信仰は人命よりも尊いのだッ! 激怒した荒井、彼女をメカ上から突き落とす。 彼氏が受け止めてことなきを得るが……。 と、そこへ我らが空野太陽先生のご登場である! ついに勃発する聖☆おにいさん教祖同士の大決戦。 荒井が黒いオーラを放つと、空野は黄金に輝く剣(どこから取り出したのか)を振るって攻撃を次々と切り伏せる。CGをフルに使った大迫力のシーンである。いったいコレは何の映画なんだ? また上述の通り、空野が登場したのでまたもや説教が始まった。 次第に劣勢なる荒井。 すると、彼の体内から悪魔『覚念』が出現する。 荒井は、この悪魔に操られていたのだ! とりあえず、デザイン的には「陰陽座の瞬火あたりに僧衣を着せて、思いっきり目つき悪くした」感じだ。ちなみに、中の人は三木眞一郎である。 なおも戦いは続き、覚念は空野によって封印された。 空野は悪魔を断罪するも、荒井本人は「そなたもまた仏の子」と言って赦した。 全てが落着すると、何故かCGで描かれた天使が大量に出現。 空野はついに自らが再誕した仏陀であることを宣言するのであった。 仏法真理を説く映画で天使が登場するというのも解せないが、もっと不可解なのは、この場面のCGがとんでもなく適当なことだと思う。喩えるなら「一昔前のゲーム」。 ついさっきまであんなにバンバン派手なCG使ってたのに、何があったんだろう。 そんなこんなでエンディングだ。 EDテーマは韓国人歌手が歌う「悟りにチャレンジ!」。 曲名の時点で十分過ぎるほどアレである。 案の定、宗教色全開の歌詞なのだが、曲自体はまともなのでそれなりに聴けてしまうのが怖ろしい……。 うーん……何て言うかねえ。 再誕の仏陀=大川総裁の正しさを主張したかったのはよく解る。 だから、極端なまでの勧善懲悪と、敵にも慈悲をかける仏陀の姿が描写されもしたんだと思う。 何かの正しさを見せるためには、勧善懲悪の思考によって物語を彩ることが必要ではあると思うのだけど、この映画では悪役である操念会は無論、唯物論者まで(ささやかながら)攻撃の対象となっている。閉じられた世界観における価値の正しさを構成員が確認するには、外部の敵を徹底的に叩き排除する事が重要だ。 カルト組織の特徴として、「外部の者に対して異常に排他的」という部分が挙げられるという。 本作「仏陀再誕」は、仏法真理だの正義だのと美辞麗句を並べ立てた勧善懲悪ストーリーだが、よくよく観察すると他に対して非常に攻撃的な点が見出せそうでは、ある。 そして、彼らが追求したいのは「幸福の科学の正しさ」「大川総裁の正しさ」である。 少なくとも、外部のものを敵と見なして徹底的に叩き潰そうとするこの映画の思想が信者ではない者への共感を呼びはしないだろうし、ただでさえ現代日本で異物扱いされ、そのうえ寛容さを持たない宗教が永劫の信頼を得ることなど到底不可能だと言わざるを得ない。 だから幸福実現党は一議席も取れなかったんだ。 そんなだからこの映画。 今は野党に甘んじているものの、連立与党として国政に影響を及ぼすまでになった公明党の支持基盤・創価学会の映画でさえそうなんだから、この先ン十年も、ずーっとネタ映画扱いされるんだろうな。 余談。 今回、俺が足を運んだ映画館へ行く道の途中に、リアル幸福の科学の事務所があった。 行きはともかくとして、帰りは相当にヤバかったです。 ずっとニヤニヤしっぱなしなんですものwwwww
2009.11.25
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連休最終日である23日、「仏陀再誕」を観に行く予定。当日、映画館がメンズデーなので安いのですよ。 楽しみ過ぎて今から解脱しそうな勢い。 某友人の言によると、「失笑所満載だが、後半不覚にも感動してしまった」とのこと。彼が勢い余って帰依とかしてしまいそうで、大層心配です。 そういえば俺の親戚には、熱心な創価学会員さんがいらっしゃるのです。 選挙の時には「公明党をよろしく!」と頼んできたり、我が家に善意から何かを贈って頂いた時など、オプションとして聖教新聞も付属します。そんな実家は、彼女(女性なのです)の頼みを断り切れず、一か月だけ聖教新聞を取っていた事もあります。 紙面に、創価大学に進学した小学校時代の同級生が誇らかな笑みで載っていたのを見た時の衝撃、たぶん一生忘れない。 そんな学会員さんから、かつて、道徳教材として池田大作先生が監修したというアニメのビデオを頂いた事がありました。 内容的には、自分勝手な性格である小学生の女の子が、色々な経験を得て自分勝手な振る舞いを改める……という宗教色の微塵も感じられないものでした。 しかしながら当該作品における真の恐怖は、このアニメが当時の文部省推薦というお墨付きを得ていた事だと思われます。ズッブズブやぞ! いつの間にか話が逸れましたが、とりあえず23日が楽しみ、ということで。 追記 そういえば、先日受験した企業から本日お祈り通知が届いたのですが、俺がなかなか内定を取れないのは、ひょっとしてエル・カンターレ様を散々バカにしまくった事に対する仏罰だったりしますか。
2009.11.21
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PC用として使っているイヤホン(800円)が一年ほどでついに天寿を全うされたため、ipod用として使用中の別イヤホン(4890円)を、新しいのを購入するまでの代替としてブッ挿したところが、何だか音質がとんでもなく良いぞ。 800円 → 4890円という、極端に過ぎるグレードアップが功を奏したのでしょうか。怪我の功名というのはこういう事態を指すのかもしれなひ。―――――― ある人と、「幽霊とか見たことある?」という話になった。 俺は基本的に幽霊の実在を信じていない人間なのだが、かといって唯物論者という訳でもなく、まして「一番怖いのは人間です」などという陳腐な文句を唱えようとも思わないが、『そういう話』に触れるとやはり恐怖が兆してしまう。 で、俺自身は幽霊だの心霊現象だのに遭遇した経験はただの一度も無い。 経験は無いのだが、俺の周囲には(真偽のほどは別としても)心霊現象に遭遇したという話は枚挙に暇が無い――とまでは言えないが、たびたび耳にすることもある。 これは祖父が亡くなった時の話。 病院で医師から祖父の臨終を宣告され、諸々の手続きを終えた父が、車に乗って家に帰って来た。 実家の駐車スペースはお向かいさんからはよく見える位置にあるのだけれど、その時たまたま向かいのAさんが外に出て、父が駐車するところを目にしていた。 ……後日、Aさんが語ったところによると、車の中に、死んだはずの祖父の姿が見えていたという。 多くの人々の口の端に上る怪談というものは、現象において不特定多数の者から「信じられる」ことで初めてコミュニティ内部における信頼性・信憑性を獲得するものだと思う。いわば語られる怪談や心霊現象とは、有るか無きかは人々が『そうだ!』と確信した結果として誕生する共同幻想に過ぎないとも考える事が出来る。 これをよく表しているのが、いわゆる口裂け女の興亡である。 一時は、警察が出動してパトロールを行わざるを得ないほどに全国の小学生を恐怖のどん底に叩き込んだこの怪談は、しかし、小学校が夏休みに突入して子供たち同士の噂話ネットワークというコミュニティが崩壊・消滅するに至り、結局はブームが過ぎ去ったといわれる。 しかしながら、上記の話のようにどこまでも個人のレベルとしてしか語られない現象というものも、一定数、存在しているのも確かなのだと思う。 自慢げな、時には忌々しげな「語り部」の言葉に対して、我々のような「聞き手」の成すべき仕事というものは、内心で胡散臭いと思っていても、とりあえず表面上は従順に恐怖に飲まれる仕草をすることである。 それが、『物語』を育むための第一歩かもしれない。
2009.11.17
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現代の我々は、過去の我々に対して無意識のうちに「時間」を貸し付けている。 結論から言えば借主である過去の我々は、貸主である現代の我々に対して必ずしも返済の義務を負わないため、貸し付けた「時間」は帰ってこない事も多い。しかしながら、「時間」という資産を有効に運用して財産を増やした者は、莫大な利子を伴って現代の我々に返済することもできる。 だが、「時間」を借り受けた過去の我々は、その重要性に気付かずに乱費すること夥しい。結果として、大抵の者は、過去の我々に対して回収不可能な不良債権を負うことになる。
2009.11.16
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用事があって、仙台市営地下鉄を降りた所の地下通路を延々と歩くことになった。 むろん、人の通りが多い所なので装飾が色々と施されているのだけれども、基本的には全面が灰色だ。何となく、エヴァンゲリオンの旧劇場版で戦略自衛隊がネルフ本部に侵入する話を思い出してしまった。しかしながら、昨日、スターリングラードの戦いを扱ったノンフィクションを読了したばかりというタイミングだったので、仮に市街戦なんかが起こったらどうなるのだろうという益体も無い空想が……。 よし。 今度から、あの場所を「総統地下壕」と勝手に呼ぶ事にしよう。俺の心の中でだけだが(それ以前に、地下壕云々はベルリンの戦いだけど)。――――――「××君ってガンダム好きだったっけ?」「うん。まあ、好きだと思うよ」「この間、コンビニでジュース買ったらガンダムのキャラがデフォルメされたフィギュアがオマケで付いてきたんだけど、それが、すごく可愛いの!」「へえ、そうなんだ」「アムロと……誰だったっけ、“ザクとは違うのだよ”って言う人」「ランバ・ラル?」「そうそう、その人」 ……そう言って、E子さん(仮名)が俺に見せてくれたのは、シャア・アズナブルでした。
2009.11.14
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数か月ぶりに就職試験を受けてまいりました。 笑ってください。すでに2011年卒の就活も本格的に始まっているというのに、2010年卒の俺は未だに就職先が決まっておりませぬ。 今日、受験してきた企業は、ひとまず筆記(作文・適性検査・一般常識)と面接(面接官2 対 学生1)だった訳ですが、作文のテーマが鬼畜でした。「昨今の就職氷河期の要因と、その理由を考えて書きなさい」 …えっ? ていうか、今、すでに氷河期突入してたのっていう。 いや、それは別にどうでもいいんですけど、あまりに変化球すぎたもので、危うく取りこぼしそうになったんだ。しかしながら既定の原稿用紙1枚以上をどうにかでっちあげる。一人につき三枚配布されていたはずなんですが、何故か俺にだけは幻の四枚目が存在しました。使いませんでしたけど。 さて、鬼門は面接。 何故だか知りませんが試験日程の告知がなされた日からというもの、どういう訳か俺の精神は異様なやる気に満ち溢れていました。もしかしたら、時期が時期なので焦りが心の中で化学変化を起こしていたのかもしれません。 以前までは面接はしどろもどろになって落ちまくっていたのが、今回はニコニコの修三動画にでも知らず知らずのうちに感化されたのか、俺の心は終始Hot knowsなフジヤマヴォルケイノ。上手いかどうかはともかく、ようやく人並みに喋れるようになったとは、思った。 あー……でも、2人の募集に対して10人が受験してたので、倍率5倍なのよね。 むしろ全てが終わって賢者タイムっぽくなった後に猛烈な不安に襲われる\(^o^)/
2009.11.10
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前回の。 ―――――― それは、本当の意味で『容喙』であった。 まるで突き刺すような接吻だった。 輝夜の四肢に力がみなぎる。対して妹紅の手足は腑抜けてでもいたのか。前者が仕掛けた突然の行為に後者が驚いたという事でもあったが、幾夜も行われ、また求めてきた、ありふれた営みでもあったからだ。輝夜は妹紅へ自らの全体重をかけて倒れこむ。妹紅もまた、さして拒む気配も無く受け入れる。二人の少女は音も無く倒れこみ、妹紅のすぐ上に厚い単衣越しの輝夜の小さな肉体が重なり合った。輝夜は妹紅の唇に自身の唇を浸し続け、妹紅は自分の顔に真っ直ぐ落ちかかって来る輝夜の髪を、自身の手を櫛に代えて梳くようにした。その手が、やがて髪を通り抜けて輝夜の額や頭頂を撫で回す。犬の頭をぐしゃぐしゃとするような力の籠ったもので、輝夜は肌を越えて奥の奥まで達しそうな妹紅の身体が放つ体温を、快楽の黒い先触れと解釈した。 互いの衣服がするすると擦れ合う音に対して、輝夜は期待というより不安を覚えた。この先に何が待っているのか。また自分がいったい何をしようとして、妹紅もそれを承知しているのか。むろん解りきった予測だ。けれども二人の結びつきを奥底まで導こうとするこの熱情の試みを、冷静に眺めているもう一人の蓬莱山輝夜が居た。次第に互いの着衣が乱され始め、夜気に冷え冷えと露出の度を深めていく少女たちの様子を、遠くから『蓬莱山輝夜』が、その両の眼を光らせながら見ているのである。その瞳の色が何であるのか、妹紅に抱き締められている輝夜には解らない。普通であって良いはずがない。あるいは、あの天にかかる瞳が化身して地上に顕れたのかもしれない。 終局に向かうほどに昂ぶっていく肉体とはまるで裏腹の冴えた心を輝夜は自覚した。しかし、飽いているのとは違う。確実な酩酊の中に自分を落とし込んでいたはずだ。彼女は、妄想に向かって醒めようとしていた。現実と空想とを、繋がろうとする肉体に一体化させようと目論んだのだ。 既に互いの半身は丸裸に近い。布切れが身体に引っ掛かっているような状況だ。輝夜は妹紅の唇から頬、首、乳房へと唇を滑らせる。その度、妹紅は何かを言った。呻いていたのか。泣いていたのか。 胸に隆起する二つの山の稜線をふと指でなぞり、天辺を指で強く押すと、妹紅の口から吐息混じりの何かが漏れた。輝夜、と、言っているのが解った。衣服と同じくらいに乱れた白い髪の向こう側に、月光に照らされた額が見える。光っているように見えるそれは、恋人が今まさに輝夜を受け入れているという、電流じみた快楽の何よりの証拠だ。薄く閉じられかけた瞼から、濡れそぼった両眼が輝夜の顔をじッと見詰めている。艶めかしさへの感慨を、輝夜は新たに思った。きっと、自分も同じような顔になっているに違いない。「ねえ……妹紅」「ん……なに」「私、あなたが好きなのよ」「私も――だよ」 わざわざ言葉を弄しなければ、相手が自分から離れてしまうのではないかと、輝夜は不安になる。結び付くという事は、全てを共有できるということ。しかし共有するという事は、自分の分を譲って相手と共存しなければならないという現象でもあるのだった。 妹紅の熱い手がゆっくりと、残った輝夜の衣服を取り払い、彼女の裸身が蒼々と月に照らされた。何の瑕疵も存在し得ない完璧な美しさ。否、あまりに完璧すぎる。瑕疵の存在が認められた瞬間にこれまでの世界は絶対に回復できない過去のものとなってしまうくらい、輝夜の全ては美しい。妹紅の手が、今度は輝夜の乳房を不器用に弄び始めるに至って、ようやく輝夜の心は妹紅との本当の共有を手にする事ができるような気がして――外貌にはまるで反する醜い満足が、彼女の精神を満たすのである。 輝夜は妹紅が欲しかった。愛玩ではない。恋情という言葉には、最も近い感情である。『好き』の一言は方便か? それは、違うと断言できる。たとえ、醜さの一念が偶然にも恋情とよく似ていたとはいえ、蓬莱山輝夜は藤原妹紅を愛していた。だからこそ欲しかったのである。蓬莱人である故に彼女らは永遠に一つに成れない。世界が滅びてしまうまで、あるいは世界が滅びても、互いに独りであり続けなければならないのが宿命なら、肉体という外殻を捨て去る事での融合など夢物語という言葉ではまだ足らぬ。永遠に生きていては死にきる事ができない。しかし死という地平に等しく歩けば、少なくともその間だけは破滅的な悦びを共有し続ける事が出来るのだ。そして、輝夜には破滅する事しかできないのだろう。それを知る限り、輝夜は進んで死に続ける。二つのものが一つになる可能性――常人であればまだ模索ができたはずの可能性を放棄した彼女にとって、破滅とは明確な願望だった。何故ならそれは、絶対に手に入らない藤原妹紅という少女を求め続けた蓬莱山輝夜の、『たった一つのもの』への憧れを、束の間、叶えてくれるかもしれぬ望みであったから。 ――そして、『たった一つのもの』に成れない二人が、唯一共有できるものこそが、何より死ぬ事であったから。 輝夜は、妹紅の腹を撫でた。 言われなければ気付かないほどにひっそりとした撫で方ではあったが、しかし半身に対して再三の刺激を受けた妹紅の感覚は十二分に発達している。それだけでも大きな快楽へと連結されてしまう様子で、彼女は顔をかッかと赤くしたまま口を二、三度ぱくぱくとやった。ああ、何だか魚みたいね、と、輝夜は可笑しみを禁じ得ない。臍の周辺を少しだけ強く押すと、細かな産毛が指に触れた。月の光は小さな変化すらも明瞭に描き出してしまう。暑熱から逃れて冷たい川の中に手を浸しているような心地よさの中から、輝夜はさらに明瞭さが欲しくなった。 急に、片手に握られた抜き身の短刀が思い出された。短刀を握る腕は、肘から先が造り物であるかのように神経に直結しない不出来な錯覚に支配されていた。何ものにも左右されず、ただ情念と眼前の光景にのみ突き動かされる挿入のための器官。女である自分には解らないが、いわゆる男根とは、こんな感じなのだろうか……と、彼女は考える。 柄を握る掌に、じとりとしたものが走った。 汗のように水に近くも、同時に血のように生臭くこびり付く不快感のために、輝夜はひどくクラクラとした。そして、確信した。自分たちが束の間の破滅を共有するために、これを使わねばならない。出来損ないの男根を真似た欲動で、妹紅を貫かねばならない。これを行っていいのは蓬莱山輝夜ただ一人。何ぴとも、いかなる王や皇帝も、神ですらも自分たちの儀式への介入が許されて良いはずがない。 輝夜は空想の中で立ち上がる。遠くに見えるもう一人の自分の素っ首を短刀でスパリと断ち落とすと、奇妙にも流血は起こらない。血糊が刃を濡らす気配もない。妹紅と交わる本物の輝夜は僅か横たえた我が身を落とした。屹立する裸身の像を、感情の無い、快楽だけに支配されかけた妹紅の目がじいと見入る。 また、不安になった。 妹紅は、もう自分一人だけの存在ではないように思われてならない。どこかに行ってしまったのではなく、これから離れて消えてしまうというのでもなく、ただ漠然とした寂寥が、彼女の頭に蜘蛛が巣を張るようにして陰影を刻もうとしていた。早くしなければ、何もかもが間に合わなくなってしまうのだと。 妹紅の両眼が、閉じられているのを見、輝夜は「ああ、良かった」と心底から安堵する。これから冷たい刃を相手の心臓に突き入れる自分の顔は、まるで肉の交わりとは違う惨憺たるものへと変ずるに違いなかったから。 塔のように真っ直ぐ、切っ先が少女の胸へと触れようとした。心臓を一突きにしなかったのは、あるいは慈悲でなかったのだろう。ただ殺すのでなく、融けるように自分と一つになる様が見たかったのである。妹紅が輝夜の頭を撫でてくれるように、輝夜もまた妹紅の魂魄(たましい)まで、撫でつくしたいという願いがあった。 噴き出した血は案外と勢いを持たなかった。輝夜は少々、拍子抜けの体(てい)である。黒々と妹紅の肌を濡らす血の溜まりは、これから崩壊する世界――擬似的で悪質な諧謔の扉だった。妹紅の両眼が飛び出さないばかりに見開かれ、痛みを感じたであろう刺突の跡へと、芋虫が這うように視線が動いた。 これで目的を果たした……そう思うと、無情の悦びが沸々と湧き上がって来る。輝夜の手から既に放られた短刀は、刀身を月光に嬲られながら自分の役目を果たした事への誇りを抱いているようですらあった。 ごぼ……と、血の泡立つ音が聞こえる。 妹紅の喉を遡った血が、気道を塞ごうとしているのである。「やっぱり――嫌な奴だよ、輝夜(おまえ)」 妹紅は笑った。胸だけでなく頬まで切り裂かれたような顔を無理矢理動かすようなぎこちないものではあったけれど、鋭い苦痛に圧されて、それでも喘ぎ喘ぎ、精一杯の笑顔を作って見せていた。憎む相手に、まして千年余りの仇敵に見せる笑顔にしては、あまりに正と陽の濃密さに満ちた笑みだ。「これが、始めっから目的だったのか……私を殺す事が」「違う」「違うモンかよ。ずいぶん、何の躊躇いもなしにぶッ刺してくれたじゃない」「違うのよ……私は――」 失敗。不能の男が自身から欲動を放ち得ないように、妬(うまずめ)の胎より何も見出されはしないように、目的は失敗したのだった。 嗚咽が始まり、輝夜の頬を一つ、二つ、蒼い光を吸い取った涙が伝っている。 寂しかった、と、言い差して、輝夜はようやく自身の心情を見詰めている事に気がついた。それは、理性や激情といった類のものではなかった。一片も言語化され得ない、ただそれのみで構成される不可視の世界が築き上げられていたのである。空想の中で確かに首を刎ねたはずのもう一人の『蓬莱山輝夜』が、遠くに立っているのが見えるような気がする。“彼女”は無表情のまま、静かに、怜悧に、現実を観察している。――否、全ては胡蝶の夢なのだろうか。月に狂わされた残忍な試みをもたらす女が幻想で、軽蔑を覚えながらひたすらの嫌悪を抱き続ける女が現実なのか。何一つも、解らない。「――なあ、輝夜。私は、お前が好きだよ」「……うん」「なら、殺してくれ。完全にさ。極楽よりも極楽的な死に落ちるんだ。そうして、地獄よりも地獄的な生のど真ん中に、また二人で叩き落とされようじゃないか」「……………うん」 だって、互いを殺し尽くす馬鹿みたいな恋を、私たちは幾百年も続けてきた…………。 血混じりの苦しい告白が、夜気に吐き出された。 それをまじまじと見つめる間もろくに与えられぬまま、喉を圧される熱の塊を輝夜は知った。妹紅は哭いていた。おそらく、輝夜も哭いていたに違いない。先刻、輝夜の頭を撫でた両手が、今度は頸を圧迫している。永遠の生と須臾なる死の合一に向かって、ゆっくりゆっくりと歩み始めているのである。それは、冷たくざらついた快楽ではなかった。優しさに満ちた苦痛だった。 身体の奥底に響く、何かが崩れる音を意識して、輝夜の精神は完全に閉じられた。これが束の間の融合でしかなかったとしても、彼女は幸福――だと、信じたかった。 ゆっくりと閉じられる両の瞼の向こう側に、やはり『蓬莱山輝夜』は立っている。 何も語らず、笑みすら浮かべず、彼女は、赤々と血の涙を流していたような気がする。 眼下に満ちた赤い情景の感覚から遊離した何かが、ごく短い間だけ眼の珠になった月を介して、芳しい匂いが立上り始めた地上を見下ろしている。 数刻ののちにそれが離別の宿命に気がついたとき、東の空は全ての寂寥から解放され、白々と再生を始めていた。
2009.11.09
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俺のクラスでも着々と新型インフルエンザの感染者が出始めている。 怖ろしや。いや、怖ろしや。 元はと言えば、S君が来るな来るなと言われていたのに「皆勤を逃したくないから」と意地を張ったために蔓延したという説が濃厚である。本日もmixiのボイス機能で、同じクラスのマイミクさんが「検査の結果、新型インフルだったよ」宣言。 そろそろ俺もヤバイかしら。 何だか身体が熱っぽい気がしないでもないのは、恐怖で身体が温まっているだけなのだと思いたい。 が、本当に不味いのは、感染が発覚すると実家に強制送還されるという点なのだ。 実は、来週の火曜に某企業の入社試験が控えているのでして……せめてそれだけは切り抜けておきたい所なのである。バカは風邪をひかないという古老の格言を信じたいが、さて。
2009.11.06
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唐突に、韓国料理を食べに行った。 所用があって外出し、帰宅の途次、マックにでも寄ろうかと思ったのだが位置的にたまたま通りかかった場所にあったもので何となく。 狭く細い路地の中にある非常に小さな店で、店が建っている場所自体は目立たないというか、パッと見で何か犯罪行為が行われても露見しにくそうだなあという無責任な空想を抱いてしまいそうな小汚い地味な所だった。 いわば、「場末」の一言で片付けられそうな。 比例して店もかなり小さく、出入口の段差につまづかぬよう気をつけて入ると、やはり店の中は狭かった。 何となく昭和の30年代という言葉を彷彿させる木造の建物である。 あるのは数席のカウンターと二つのテーブルで、正確な数を数えた訳ではなかったけれど、おそらく10人も客は入れないに違いない。メニュー表に目を走らせ、とりあえず無難に700円の「ビビンバ」を食べることにした。いや、ほら、あんまり慣れないもの頼んで食べられなかったら困るし。作った側にも失礼だし。つーか、メニュー表に写真が載って無くて不安だったっていうのが最大の理由なんですが。 髪の毛を茶色に染めた、片言の女性店員(たぶん在日コリアンだろう)にその旨を注文し、数分後に料理が出てきた。むろん、韓国料理店なので使用する箸は金属製。 料理そのものは非常に美味しかった。辛いので水を飲みつつだったけれども。 しかし、特筆すべきはビビンバと一緒に出されたワカメの入ったスープである。 これが、何故か味が薄い。 というか、本来は普通の味付けだったと思うのだが、先に濃い味付けであるビビンバを食べてしまったために、スープの味が全く感じられなくなってしまった。こうなると、もはや「スープ」でなく単なる「湯」である。これは誤算。 しかし、とりあえずはそれだけで平穏無事に終わったのだけども、さすがに辛口で味が濃いと美味しいとは感じるが、常食するかどうかと問われれば首を縦に振りかねる。ひとまずたまに食べに行く程度がちょうど良かろうが……。
2009.11.03
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カミュの戯曲「カリギュラ」を読んだ。 物凄く適当に要約するなら、中二病の皇帝が人生の意義を見出そうと悪戦苦闘する話――では、ないか。さすがに。 難解な物語だと思うが、巻末に付された解説を手掛かりに考えるなら、主題は人の生きることにおいての不条理なのだろう。その不条理とは、「人生に意味は無い」という、虚無的なものになる。 主人公であるローマ帝国皇帝カリギュラは、実在の人物である。 帝国臣民を殺し、財産を奪い、近親相カンや不義密通を楽しみとし、自らを神とさえ称した末に……最後は、彼の傲慢さを疎んだ親衛隊の裏切りにあって暗殺された。 さて、戯曲においての彼は、ひどく孤独な「闘い」を世界に向かって挑もうとしている。 むろん、彼は上述の如く悪行を重ねに重ねて最後には暗殺される。それは不変である。しかし、彼が求めたのは個人だけの歓楽でなく、人が生きることにおいての意義を、放埓な残虐さの中から見出すことだった。 カリギュラ帝は実妹であり愛人でもあったドリュジラの死をきっかけにして、天空に掛かる月を地上にもたらそうとする。この世界に生きるのはあまりに虚しい。だから、そうした幻にさえ人間はすがらねばならないのだという。彼は、真の苦しみとは苦悩の永続性が存在しないという事実に気付く事だと唱える。故にそこに意味は無く、「真実など存在しないのが真実」なのである。 虚無を見、虚無に相対したカリギュラは、やはり史実同様、家臣に裏切られて殺される。他者が目を逸らすもの、無意識のうちに折り合いをつけているものにあえて立ち向かった皇帝は、もはやその酷薄な行為のために暴君以外のなにものでもなかったから。 けれども真実の不在ということを抉るような悲痛から飲み込んで、世界に知らしめようとしたカリギュラは、剣を自らの身体に浴びせかけられもなお確かに「俺はまだ生きている!」と絶叫したように、明白に『存在』しているのである。 人の一生は、真実の不在を飲み込んで『存在』することしか許容されないのである。 それこそが本作「カリギュラ」の主題であり、痛切さから目を逸らし、そのために人間の意義について苦悩する者に向けた、“狂った”皇帝の思想だったのではないか、と、思う。
2009.10.30
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前回の。――――――「輝夜」 と、突然に妹紅より声をかけられて、輝夜は考えを途絶させられた。 気が付けば、直ぐ隣に懸想の相手の両の瞳が煌々とあるのである。むろん、輝夜と妹紅の位置関係からすれば、それは言うまでも無い事実なのであるが、ふつふつと考えを巡らしていると、そんな疑いようのない状況でさえも意識からは抜け落ちてしまう。けれど、それも蓬莱山輝夜の藤原妹紅を恋いうるが故の事であったろうか。そもそも自分にとってどうでもいいものが隣に居ても、あれこれとその人物についての考えを巡らす機会というのは決して多くはあるまい。 そのまま二人は、互いに何を言うでもなく見つめ合うだけであった。 が、やがて冷え冷えとした夜の風が彼女らの身体を容赦なく刺し貫いた。そういえば、未だ冬ではないとはいえ日の無い夜間は当たり前に冷えるのである。それを忘れるほど二人が逢瀬を楽しんでいたと言えば聞こえは良いが、要するに感情の昂るあまり、呆気に取られていただけであるのだろう。はッとした顔で妹紅が瞼を見開いた時には、既に輝夜は恋人の身体に抱きついて、自身の頭を妹紅の預けてしまっていた。「お、おい」「何よ――いつもしていることじゃ、ないの。何をいまさら」「そうじゃなくってだな……お前ン家の連中に見つかったら何て言われるか」「皆、私たちの関係については知り過ぎるくらいに知っている。特に永琳はね。“月の頭脳”の異名は伊達ではない。どのイナバよりも、彼女が一番最初に気が付いたのだから。子供みたいに泣いて私を引き留めた時の鬼気迫る様子ったら……。それより、妹紅の方こそ、あのワーハクタクの先生さんはどうしたのよ?」「アイツは……慧音は、友達だよ。他よりも親密な。でも、今の私たちみたいな関係じゃない」 頼りないながら、それでも断定を旨とする妹紅の口ぶりを輝夜は嬉しく思った。 歴史に関与し、人里の守護者であるワーハクタク・上白沢慧音。藤原妹紅との付き合いは蓬莱山輝夜の方が幾層倍も長いながら、慧音と妹紅の親密さといえば彼女の耳にも届いていた。というよりも、妹紅に関する事だからあえて耳にもしたと言った方が正確だったろう。二人の親しい間柄に、かつての輝夜が内心で嫉妬を覚えていなかったと言えば嘘になる。けれど、今では妹紅とここまで深い交わりをしているのは自分だし、二人があくまで友達であるという言質も取ったのだ。いつかの劣等感は、今や優越の感情へと変化して輝夜の心を端まで満たさずにはおかなかった。 ……安心のため、輝夜の拍動は次第に落ち着きを取り戻し始めた。が、今度は輝夜の頭を胸に預けられた妹紅の鼓動の方が早まりつつあるのを、輝夜はすぐに気が付いた。薄いシャツ越しの体温が異常に温かく感じられ、膨らみかけた少女の柔らかい胸が頬を押し返そうしている。 輝夜とは、何から何までまるで対照を成す妹紅。持てる者と持たざる者。黒い少女と白い少女。今、この二人が同じ一つの時間と空間を許容し、共有している。既にして諦め続けてきた二者が、夜気を胸一杯に吸い込んで熱い身体を冷ます閑暇を潰す麗人が如く、どことも知れない死の匂いを嗅ぎ分けようと、その肉体を共に昂らせていた。 しかし、鏡に写った自らの像がいくら明瞭であっても、決して手を触れることができないように、二人の運命とは交わる事が決して有り得ない。共有とは、果たして自己を瞞着する事と紙一重である。手に入らないものを遠ざけて、あえて半分は相手に譲ってしまう事なのだ。 けれど、それは臆病だからではないだろうか。 そう、輝夜は考える。何かを手に入れる事で、今までの自分が際限なく破滅してしまう事を、どこかで漠然と怖れているのではないか――――と。「ねえ、私と――蓬莱山輝夜と“死ぬ”つもりは、あるの」「……私たちが、蓬莱人がいま生きてるってことが、もう死んでるも同然じゃないか。“死”によって完成されない“生”は、いつまで経っても止まる事を知らない腐敗みたいなものさ」「私は、貴女と一緒に死ぬ準備が出来ているわ」 言うと輝夜は妹紅の胸から身を起こし、懐に腕を差し入れて一振りの短刀を取り出した。 蒼い月光を一杯に反射する鞘には黒い漆が塗られている。他には装飾といって何もそれらしいものは見受けられないが、どうにも長さだけは少女の肘までに少し足りないくらいであったろうか。胸に突き入れようと思えば、実に容易いはずである。「やめとけ、やめとけ。痛いだけで楽しくなんかないっていうのは、お互いによく解っているじゃないか。そういう大事な物は、もっと……こう、有意義な事に使おうぜ」「でも、刀は人を斬るための道具だわ。人を斬らない刀はただの棒切れよ。死なない人間が、ただの死体と趣をそれほど異にしないように」「それじゃ――。ちょっと生首を狩り集めて“首遊び”でもするかい?」 極力、妹紅はおどけて言った様子だった。 生首を狩り集めるということは、言うまでも無く人殺しを推奨している。藤原妹紅らしからぬ冗談である。普段の彼女ならば、相手がそんなたわごとを発するや否や、烈火の如く怒り狂い(おそらくは本当に烈火を噴出させながら)、殴りかかりでもしたことだろう。けれど、自ら進んでそんな冗談を口にする彼女は、いつもとは幾分か様子が違うように輝夜には見える。月の光は、人間の意識をさえかくも酷薄さの領域へと引きずり込むものか。「いやね。そんなのは鈴鹿の山で桜の毒気にあてられた奴のする事よ。悪趣味だわ。それよりも」 と、輝夜は笑んで、答えた。 短刀がいつの間にか、鞘から抜き払われ、刀身を明々と暗夜に晒している。輝夜自身、その動作をいつ自分が行ったのか記憶に無かった。月光を受けて銀色のはずの刃は金色に輝き、まるで自分がどんな目論見に使役されるかを予見しているかのように怖ろしげな悦楽を放っていた。「――それよりも。首遊びよりも、もっともっと悪趣味で、もっともっと苦痛に満ちた楽しみを、私たちは知っているじゃない」 金色の刃を、まるで捧げる様にして然と片手に握り締めたまま……。 輝夜は再び妹紅元まで身を伸ばして、何が起こったか解らないとでも言いたげな妹紅の唇に、すぐさま『容喙』し始めた。―――――― 続きます(たぶん次で最後だと思う)。
2009.10.28
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全国のペプシファン、および好事家が待ち望んだ変態的ペプシコーラの新作、「あずきペプシ」を飲みました。 画像を見てもらえれば分かる通り、ひとまず色合いの上ではまだまともです。 前作「しそペプシ」が、何を混ぜたらそうなるんだと言いたくなるような思い切ったグリーンだったのに比べると、まだ自然界、というか清涼飲料水界で普通に存在してそうな赤茶色。 という訳で、とりあえず匂いを嗅いでみる。 ……薄らと、小豆の香り。 けれども、さすがに鼻を覆ってしまいたくなるような凶悪な臭気を発してはいない。ほどよい、あの小豆特有の植物性の甘さを含んだ香りだ。 というか、清涼飲料水で口をつけるのが躊躇われるほどのヤバイ臭気を発していたら、そもそも商品としては成り立たないか。 次には、もちろん飲んでみる。 男、否、漢だったら口をつけて二口、三口、一気に飲む。 昔、某STGのキャラが「勇気はゲーム攻略なんかじゃなくて人生に使いなさいな」 という至言を残していました。 ので、俺もここで発奮しなけれあなりません。やっぱり使い所を間違ってる感はどうしても否めませんが。 そして肝心の味の方ですが。 すごく、普通でした。 炭酸飲料本来の爽快感が、味覚に貼り付こうとする小豆の甘ったるさをちょうど良い程度まで抑制し、非常に飲みやすく、かつ美味しいです。 正直、しそ味の時みたいな変態性を期待していた人にはお勧めできません。 が、本当に美味しいので、何となく喉が渇いたなあと思った時にちょっとコンビニで手に取るくらいには、飲み易いモノなんじゃないかなあ――と、思いました。 以上。 ……しかし、光の当たり具合によっては、ペットボトルのジュース本体が有り得ないぐらいに真っピンクに見えてしまい、「アメリカの食べ物かよ!」的な印象を抱いて口に入れるのを躊躇する人も出かねないので、飲むときはひと思いにグッと行った方が楽です。 しかし大丈夫、日本にはサムライという文化があります。 皆、心は少なからずもののふの血が流れているはず。 いっそのこと腹を切る時のような決然たる覚悟を固めましょう。 介錯してくれる人が居ないので、口に合わないと地獄の苦しみだと思いますけど。
2009.10.25
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前回の続きです。―――――― その恋情が、いったい、いつ頃から兆してきた感情であったのか。 輝夜本人には、いつの時期あの頃の年とは明確に把握しかねるくらい、曖昧な記憶しか無かった。果たして自分と妹紅が初めて顔を合わせたその日からか。それとも数百年に渡る殺し合いを通しての事なのか。もしや、永夜異変の折に博麗の巫女らを肝試しと称して妹紅の元へけしかけたのがきっかけでもあるまい。 けれども確実なのは、そのような事実を通してさえ何らの確証も、輝夜の妹紅に対する心の内をより高める結果にしかならないといった事なのだ。 同時にそれは――遥か千年の齢を経てもなお消えぬはずであった昔日のわだかまりを、一時の忘却に供すほどの幸福を、妹紅と共にあるという事実が保証しているという事でもあった。 最初は、いかに“そういった”間柄に結びついたとはいえ、輝夜自身にも恥じらいらしきものが確かにあった。むろん、最初は八意永琳や鈴仙・優曇華院・イナバらは諫めもした。特に前者など、手塩にかけて育て上げた娘が他所に嫁ぐ親のような気持ちでさえあったかもしれない。滝のような、という比喩では足りぬぐらいに大量の涙を流し流し、必死に説得を試みたものであった。 だが、それも結局は無駄骨。 二度、三度と逢瀬を重ねるうちに、永遠亭の家臣たちにはもはや公然の秘密のように黙認されるようになったのであるが。 本来、蓬莱山輝夜と藤原妹紅の関係とは、男を弄んだ悪女と、父の仇を討とうとする健気な少女……とでも表現できようか。二者の間に横たわる因縁を極限まで単純化してしまえば、そう言えぬこともない。顔を合わせれば血飛沫が飛び散り、肉が斬れ裂けて、互いに骨まで粉微塵に砕け散らす。元々が共に不老不死という逃れられぬ道を歩く者同士、彼女らの殺し合いは時とともにより遊戯性の高い『弾幕ごっこ』なる決闘に変化はしたけれど、根の部分にあるのは常に変わらぬ生そのものへの諦観に違いはなかった。 生きることが死までの一時の暇潰しと同義であるならば、永遠に生きねばならぬ蓬莱人とは全てが滅び尽してもなお存在し続ける悠久の有閑者であろう。つまり、それは、『生』なる消費現象をはじめから諦めきった腐敗なき死体と同じだと、輝夜は、口に出さず文字にも表さぬながら、いつからか思うようになっていた。 だから、蓬莱山輝夜は藤原妹紅を『誘惑』した。 その日もまた、月の蒼々とした、冷たく澄み切った晩だった。 退屈を共有する者同士で――今度は疑似的な『死』を共有してみよう、と。 まるで何かの芝居のように作り事じみた動作と口ぶりだった事を、輝夜は今でもありありと覚えている。 具体的に、自分が妹紅と恋仲になるのを望んでいると伝えた時の、相手の阿呆面の可笑しさと言ったらなかった。いま思い出してもゆうに数分間は笑うのに易い。 妹紅は妹紅で、千年来の因縁がどうの、慧音がどうの、と顔を真っ赤にしながらも決して首を横に振るような真似はしなかった。突然の事態で冷静な判断が追いつかなかったのもあろうが、結局は承諾してしまったところを鑑みるに――彼女もまた、この新式の『死に方』というものに少しの興味をそそられたものに違いはなかろう。 幾分か、策略めいた伝達ではあったけれど……それでも輝夜は自身の目論見が成功した事を、朝な夕な、運命に感謝した。 何よりも妹紅に対する好意の無くば、その意思は容易く好き嫌いを伝え合う、幼い子供の他愛の無い、ほんの遊びでしかなかったのであるから。 ―――――― それにしても……と、最初に口を開いたのは輝夜の方である。 家屋の縁側に、彼女と妹紅は、寄り添い合いながら座っていた。 どちらがどちらに大きく、ということもないが、輝夜の方が妹紅より少しだけ背が低いので、傍から見れば輝夜の方が妹紅に体重を預けている様子に見えただろう。妹紅の右隣に輝夜が座る、という状態であった。 蒼い光がまるで幕のように地上に降りてくると、それは少しずつ銀色に変わり始める。まるで大地や岩石の成分を吸収して自ずと成長したかのように、白銀の暗幕が黒髪の少女と白髪の少女を余さず包み込むのだった。「今更ながら、幻想郷って退屈よね。私たち若い連中が楽しむ様な娯楽なんて、ほとんど無いのだから」「そうか? 外界から色々と入って来て、最近は何だかんだと賑やかだと思うけどな」 話しながら、言葉を交わしながら、いっそう、輝夜がその小さな体を妹紅へと近づける。冷たい空気が頬に当たり、緊張の賜物である汗をひやりとさせた。ぎし……と梁が音を立てて鳴り、まるで彼女は誰かに咎め立てでもされているような気分になってしまう。 輝夜の頭の天辺は、彼女が身体を傾かせたために、妹紅の頬に近い位置にあった。 ……突然、妹紅が腕をどけ、身体を預ける場所が無くなった。かと思うと、次にはぐッと相手の方に引き寄せられた。途端に、心臓が強く暴れ回る。自ら近づけてくれるくらいには、妹紅は輝夜を憎からず思っている。それは、好きという感情とは違うものかもしれないが。嬉しくはある、しかし不安でもある。 こうして近くに居ると、互いに胸や腹に大穴を開けて血を吐き合っていた殺し合いの日々が、まるで他人がものした御伽話でしかないように感じられるな、と、輝夜は思った。 いま妹紅が輝夜を抱き寄せている腕が、かつては輝夜を縊り殺したというのに。 かと思えば恋人に寄り添う歓喜にむせぶ輝夜の胸が、昔は妹紅が全身から血を噴き上げ苦悶にのたうつ光景に対し、無上の興奮を覚えていたというのに。 こうして別の喜びにとって代わられた現在となっては、そもそも“無上の”という言葉を使う事さえ滑稽味を感じずにはおれないけれど。 「妹紅はずぅっと山の中を駆け回っていたのだから、そう思うのも当然でしょうけど……絶望するには希望を知らなきゃいけないものよ」「もっともらしい事を言ってるようだけど、要するに、都会の人間に田舎暮らしは合わない、って?」「おおむね、そんな感じだわ」「千年前からずーっと思ってたことが、今ようやく確信に変わった。やっぱ嫌な女だよ、お前は」 そう言うと、妹紅はカラカラと笑った。 言葉こそ非難の色を帯びてはいたけれど、何の屈託も無い笑顔には、輝夜に対する一片の敵意も宿ってはいないはずだ。本当に親しい者のみが互いに交わし得る、戯れとしての悪罵であったのだろう。輝夜は妹紅から罵られるという事にさえ、幸福を感じずにはおれなかった。誤解の無いように一言しておけば、決して被虐的な快楽が彼女の胸に兆していたという訳ではない。こうして純粋な好意のみによってに成り立つ冗談や皮肉を、何気なく遣り取りできる関係に自分たちがなっているという喜びこそ、彼女の感じていたものだった。「酷いわね。私はこんなにも綺麗なのに。身も心も」「身の方はともかく、心の方には全くもって同意できかねるなあ私は。輝夜のは真っ黒だろうが」「あらあら。千年も前の恨みを今に至るも引きずっている誰かさんよりは、純粋という自身があるわ」「よく言うね……」 呟くと、返す言葉がうまく見つからなかったのか、妹紅は黙り込んだ。 その間隙を埋める様にして、輝夜がさらに妹紅への密着の度合いを高めてしまった。今度は妹紅の身体の方がぴしりと強張る。それというのが輝夜の方にさえよく伝わって来るくらいに。 ――何て、華奢な身体なのだろう! 輝夜は改めて、藤原妹紅の肉体の、少女らしい部分に驚嘆せざるを得ないのだ。 抱きしめられた事ももう幾度あったかは知れないが、その度に思う事を、今回もまた考える。 幾度もの戦いを経験してきた人物なのだから、当然、分厚い筋肉が骨を取り巻いているものだとばかり思っていた。そうでなければ戦いの際に、こちらの弾幕を敏捷な動きで掻い潜るなどできるはずも無いと思えたからだ。 けれど妹紅の少年にも似た痩身は、とてもではないが筋肉の存在を感じさせるほど鍛えられているようには到底思えない。布越しに掌に触れる柔らかな皮膚は、呼吸とともに小さく蠢きながら輝夜の愛撫に微小な反応を返してくる。指で押せば、まるで小動物の腹を思わすようなとろりとした柔らかみがよくよく伝わってくるのだ。 冷静に考えてみれば、不老不死なのだから、蓬莱の禁薬を飲んだ時点で成長も老化も、それどころか太るのも痩せるのも、あらゆる肉体の変化は完全に停止するのだ。つまり、千年前と妹紅の身体は寸分も違う所が無い。 それが解っていながら、輝夜は妹紅の肉体に嫉妬さえ覚える。 恋情ゆえの嫉妬である。 ただ、今この時に、その肉体の全てを自らが所有できていないという事実への嫉妬なのである。 もう何度、自分はこの少女を蹂躙し、また蹂躙された事だろう……不可能な回想を試みる度に、輝夜の手は、妹紅の身体に触れる度合いを高めていく。……続く。
2009.10.23
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学校の前に「けいおん!」秋山澪の痛バイク……だと!?
2009.10.22
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ソフォクレスの有名なギリシャ悲劇「オイディプス王」を読了した。 アポロン神の神託によって『父を殺し、母を娶る』という呪われた宿命の下に産まれた青年・オイディプス。彼は一度は捨てられ生家から離れるも、旅の途中に出会った無礼な老人を実父とは知らずに諍いを起こし、激昂して殺害する。 旅の果てに赴いたテーバイ市で、難解な問題に答えられぬ者を喰い殺す怪物スフィンクスを退治した後、人民に請われてテーバイ王となる――というのが本編が始まるまでの過程である。 物語は、先王の死により寡婦となった王女を実母と知らずに娶り、しかし後にオイディプス治下のテーバイに悪疫が流行するという不幸に見舞われるという場面から始まる。 はじめオイディプスは悪疫を退治すべく、アポロンの神託を仰ぐ。その結果としてもたらされたのは、「テーバイに不幸が起こっているのは、父を殺して母を娶った悪人が居るからだ」 という事実だった。 激怒したオイディプスは、すぐさまそのような悪人を探し出すよう命ずる。むろん、自分自身がその張本人であるとは知らずに、である。 ……基本的に、ギリシャ人は人間の一生に訪れる運命を「神によって定められた逃れ難いもの」と解釈していた様子がある。「我々人間が何をしても、運命女神おひとかたに負けてしまう」という言葉の出典が何だったかは忘れてしまったのだが、かのトロイ戦争もまた神の思惑の元にパリスがヘレネを略奪した事により始まった。 オイディプスは自身に降りかかる悲運を必死に否定しつつも、最終的には現実に屈して自らの両眼を何度も潰し、王位すら捨てて進んでテーバイから去って行った。 それもまた宿命論のような思想に支えられたものであるのだろうけれど、徹底的なまでの不条理に支えられた彼らの世界観は、見るだに悲哀に満ち溢れて目を背けたくなるほどである。 だが、あえて忍従の道を選ばねばならぬような彼の姿は、高潔である。はじめから卑屈に全てを受け容れるのではなく、勇気を鼓舞しながらも虚しく敗残した者のみが抱き得る哀しい忍従を、盲となった王は背負っているのである。
2009.10.20
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ゲーテ「若きウェルテルの悩み」(竹山道雄訳・岩波文庫)読了。 作者曰く、「もし生涯に『ウェルテル』が自分のために書かれたと感じるような時期がないなら、その人は不幸だ」そうだが、俺は別に自分のために書かれたようには感じなかったので、どうやら不幸な人間らしい。 それはともかくとして、これは非常によくできた小説だ。 親友の婚約者に恋慕する悩み多きウェルテル青年が、苦悩の果てにピストル自殺を遂げるまでの物語である。著者たるゲーテの失恋体験が色濃く反映されていると言われており、もはや病的なまでにロッテ(つまり、主人公の片思いの相手だ)への恋情を燃やす様は、何か一つに専心し続けるものしか持ち得ない熱情の化身であろう。 さらに特筆すべきは、ときおり挿入される情景描写の細密さと美麗さであるかもしれない。人間の想像力が、自然の風景をここまで文字に表現し得るかと読んでいて感嘆せざるを得なかった。 ところで、自殺するまで何かに苦悩するというのはひとえに若者である故なのだろうか。死を眼前にするほど何かに身を焦がした経験の無い人間としては、ウェルテルの思考は理解し難い部分がある。けれども、常に自分自身を新たにし続けなければならないのが若さとすれば、ウェルテルの失恋は古い世界が完全に破壊され、かつ修復不可能なほどの甚だしい苦痛にほかならなかったのかもしれないのだ。 この作品がヨーロッパで大ブームになった当時、青年がウェルテルを真似てピストル自殺するという事例が相次いだらしいが、何か崩壊寸前の自己の認識にさらなる確証を与えてしまうものが、この小説には蔵されているのかもしれない。 少なくとも、哲学的煩悶であれ恋の悩みであれ、弾を込めるべきピストルも、飛びこむべき華厳の滝も、見出せないまま大人になる人間の方が遥かに多いのだとは思うけれど……。
2009.10.19
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輝夜と妹紅がキャッキャウフフする話し(たぶん)を書こうと思う。 それと、読みにくいかと思って行間をある程度、開けようかと。―――――― 不気味すぎるほどに輝いて夜天にかかる月を、蓬莱山輝夜の両の瞳が見上げている。かつて玉石にも比されて称えられた眼の珠は、暗中にあってもなお黒を超える黒の輝きを有してさえもいた。住まいであるところの永遠亭の庭先に立ちて、冷え冷えとした夜の風が大河にも似た長い髪をさらさらと流さんとする。 その日は、星ひとつも見えぬ黒々たる暗夜であった。 けれども、その中にあってもなお座する美姫が如くに、独り善がりに姿を見せる月の蒼さというものを見……すなわち彼女は、この地上において矢よりも鋭く降り注ぐ数え切れぬ光の筋が、地上の穢れを望んでその身に享けた魂魄(たましい)までも突き刺さる。そのような確信をもって、空中を見上げることしかできない。 何度となく――――輝夜は、蓬莱の禁薬を口にして不滅の存在と化すより以前の、自らの故郷でもある月を見上げて幾千年の時を過ごしてきた事であったろうか。 それは、果たして望郷の一念であったのか。 手紙を届けるというあの鳩か何ぞのように、自分には古巣を懐かしむ気持ちも、あったものではあるまいに。そう思うと、些細な事でしか――否、些細な事すらも可笑しむ気持ちを抱き続けなければ、やがては生の戦慄と千年の退屈の前に磨り潰されてしまったであろう自分の境遇をふいと思いだして、輝夜は、くッ……くッ……と、ただ嘲りの笑みを漏らすのである。それは自嘲でもあったのだし、また、ただ自分をこの世界に留め置こうとする世界の規定そのものへの嘲りでもあった。 神でさえ、死と忘却を同義として消え去る時がやってくるというのに、輝夜のような蓬莱人は、肉体も魂魄も、世界がいかに醜悪な変容を迎えようとも絶対に変わる事の無い玲瓏さを蔵している。いや、玲瓏などとはおこがましいな、と、彼女は思った。はじめから蓬莱人は『そうなってしまった』からこそ、全てに順応できるのだ。 許容などという言葉は、あるいは諦観の言い換えに過ぎぬ。 常に自らを取り囲む全ての事象に諦めの念を抱き続ければ、ただ笑い、笑い、笑い、嘲りながらでも存在し続けられる。だからこそ、「ああ――今夜も、来たのね。妹紅」 千年来、自分に憎悪を燃やし続ける相手とも、あえて逢瀬すら重ねることもできるのだ。「なに言ってんだ輝夜。お前が私を呼んだんじゃないか」 わざわざ“使い”まで放ってな……と、白髪の少女――藤原妹紅が、片手で頭を掻き掻き申し訳の無いと言った風に答えた。がさがさと音声(おんじょう)を上げながら垣根を破って入らんとする光景は、まるで押し込み強盗と変わらないようにも見える。 何と言っても、長きにわたって田夫野人どころか山野を飛び回る猿(ましら)も同然の生活を送ってきた女。人様の家に裏から入り込むなど、心情の上でそれほどの大事とは思っていないのかもしれなかった。 それに、蓬莱山輝夜と藤原妹紅の間に存する『関係』そのものが、家人にとって都合がよろしくないという事情もある(それを知って、輝夜第一の家臣である八意永琳が、幾夜も枕を涙で濡らしたほどであったのだ!)。正面玄関から堂々と入るのはさすがに気が引けて堪らなくもあったのであろう。 仮に、輝夜が別宅を用立てて妹紅を囲うという手段もあっただろうが、それは妹紅自身が嫌がるはずだ。黙って一つの場所に居続けるという事を、彼女は、嫌う性向の女でもあったから。 ようやく垣根を突破して庭先に進み出た妹紅を、輝夜はまじまじと、それこそ頭のてっぺんから爪先まで眺め渡した。もう何度も見慣れているにもかかわらず、夜には会うたびにそうしてしまうのが、彼女の癖みたいなものなのだ。 真白なシャツに赤いモンペをサスペンダーで釣り、頭部から輝夜に少々足らぬくらいの長髪を垂らしている姿の藤原妹紅。が、奇妙な事にはその髪が、異常なまでに『白い』のである。自然界で、何らかの偶然が作用して白い体色を持った生物や人間というものは度々見られる現象である。けれども、妹紅の白髪三千丈は、一般にアルビノなどと称されるそういった存在とは一線を画する。 彼女もまた、輝夜が如く蓬莱の禁薬を飲んだ一人であり、千年の齢を得た蓬莱人なのである。 が……元来が月人である輝夜らの体質に合わせて調合された禁薬は、地上人たる妹紅の肉体を強く苛んだ。全身の骨格が熱せられた剣にすり替わった挙句、内部から肉を切り裂かれるような激痛を味わった後。妹紅に遺されたのは尽きる事の無い無限の生命と、一夜で数十年も老いたかの如き見事なまでの白髪と、そののち千年以上に渡って苦しみ続ける事になる不死人の境遇だった。 そのように、輝夜は、妹紅本人から聞いている。「だいたい……私たちの関係はお前の家臣たちにも筒抜けなんだろうが。優曇華院、とか言ったか? あの月の兎。私に輝夜からの手紙を渡す時、顔中が真っ赤になってたぞ」「あら、そう。それはイナバに気の毒なことをしたわ。あの娘、もう数百年も生きているのに結構、ウブなところがあってね」 単に年齢(とし)を重ねるという事が、つまり成熟すると同義ではないのね。と、輝夜は呟いた。妹紅は何も言わずに目を細めた。まるで悪戯をした後、何らも悪びれる所の感じられぬ駄々っ子に、業を煮やしている風にも似ている。「――もっとも、年齢と成長が必ずしも比例する訳じゃないのは、私やお前が一番よく理解しているだろ」 何たって、いつまでも若いってことは阻むんだよ、終わりを見据えた生き方ってモンを。 そう言うと、妹紅は一歩、また一歩と輝夜へと向かって近づいて来るのであった。そのたび輝夜の魂魄は高鳴った。精神の拍動が肉体を操り、期待にむせぶ心が、冷静さを維持しようと目論む身体の作用をまるで無に帰してしまう。それだけ、輝夜は妹紅の姿を目に入れると、自身の感情を抑え付ける事が不可能になる。 蓬莱山輝夜が、藤原妹紅に対し、強い恋情を抱いているという事実を、で、ある。―――――― 続きます。 ひとまずハッピーエンドには、ならない予定。
2009.10.17
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小清水亜美の絶対に許されないリストに新たなる歴史を刻んだことで話題の宗教アニメ映画「仏陀再誕」。 子安と銀河万丈って、たしか前も幸福の科学の映画に出演してたような気がするんだけど、その辺は色々な大人の事情があるのだろう……。 この手の映画は、おそらく多数の信者と少数の物好きしか観に行かないのではないかと思われるのだが、俺はどうやら後者に分類されるのかもしれない。 というのも、ある友人が冗談か本気かは知らないが、「『仏陀再誕』観に行こうぜwwwww」と言い出したからである。 公式サイトの上映館情報を確認すると、仙台では二か所。どちらも足を運ぶのが難しくはない場所である。 けれど、こういったアレな経緯で制作された映画は、不用意に観に行くと凄まじいアウェー感に苛まれそうで空恐ろしい。隣に座った信者から、澄んだ両の瞳を向けられて説法でもされたらどうしようかと要らぬ心配さえ兆してしまう。 けれど、DVD化なんかはしなそうな気がするし――実際に観に行ってみたい気持ちはあるんだけど。 というか、作画といい声優のキャスティングといい、気合と金を突っ込んでいるのだろうというのが観る前からありありと解りそうだというもの。 さすが、全国に候補者を立てたにもかかわらず、一議席も取れなかった政党の母体になった宗教は違いますね。 ところでひとつ疑問である。 仏陀は悟りを開いた存在なので、本来は輪廻転生のシステムから外れて永遠の存在となったと仏教では言われているように記憶しているのだが、それを勝手に再誕させて問題はないのだろうか? ……と思ったが、そもそも大川総裁からして仏陀の生まれ変わりを自称しているので、幸福の科学的には何ら問題ないものと思われる。 エル・カンターレ・ファイト!
2009.10.15
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そらのおとしもの 第2話の “パンツ” が2ちゃんねるで大絶賛!!! マジキチ 最高の技術で最大の馬鹿をやってしまうという点で、アサウラのライトノベル「ベン・トー!」によく似た何かを感じる。 日本人って、よくよく力の入れ方を意図的に逸らすのが好きですよね。 ていうか、終盤で明らかに超音速じゃねえか、パンツ編隊……。
2009.10.13
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休日はブックオフに行くというのが定番化している今日この頃。 cali≠gariの「第7実験室」と手塚治虫「奇子」(全三巻)を買ってしまった。 手塚治虫といえば、かつて親戚からタダ同然で譲り受けた「火の鳥」と「ブッダ」が実家にあるのだが、何故か親父が「これ、売ればかなりの金になるぞ」としきりに言っていたのが今思い出しても可笑しみがある。おとーちゃん、ブックオフは古い本を安く引き取って高く売るという阿漕なところなんだよ。 何か帰ってきたら漫画を読む気力すら無いほどに疲れていたので「奇子」未読だが、パラパラと眺めてみた限りでは、改めて手塚治虫の引き出しの多さに驚かざるを得ないと思う。「天才は99%の努力と1%の霊感」とは、エジソンは「どんなに努力しても閃きが無けりゃ意味がねーんだよwwwww」的な意味で言ったらしいが、かといって努力が無為だとも言ってない。 創作を行うには多様な経験や知識が必要だというのは色んな人が言ってるけれども、手塚の漫画を読んでいると漫画描きとしてのアイディアと多彩な題材を読み込んで作品に昇華しているというのがアリアリと伝わってくるのである。「火の鳥」における古代史の解釈や、主人公が抱えるテセウスの船のパラドックス、そして作者の死によって未完に終わったゲーテの戯曲「ファウスト」の翻案「ネオ・ファウスト」など、いずれも個人の霊感では成し得ない仕事であったに違いない。 つまり霊性によって閃く天啓と、人が成しうる努力の融合が、個人の「才能」を構成しているとでもいう事になろうか。
2009.10.10
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どうも、台風のおかげで臨時休校の精髄を味わった者です。 七時少し前くらいの時間に起床した時は、雨が少々パラつく程度で風はそれほど強くなかったのだけれども、9時を回ってから雨風共にたいへん協力に。 Yahoo!ニュースのヘッドライン見たら、まるでゴジラ襲来並みの勢いで台風の動静が語られるような事態に。ここ十年の中では最も勢力強大だったらしい。 そりゃ、学校も一コマだけで休校になります。 そういう訳で、運良くたいへん残念な事に、本日は臨時休校に。 とは言っても外出する訳にもいかず、冬籠り中の熊の如くに寝たり読書してたりしたんですけど。いかん、これではいつもの休日じゃないか(あと、履歴書書いてたら二回も書き直す羽目に……ふざけんなクソが)。 とりあえず明日は台風一過で何事も無かったかのように学校があるはずだ。 ……台風よ、お願いだから戻って来てくれ。
2009.10.08
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どうも俺が所属している科の方で、芋煮会が催されるのだとか……。 別に有志による企画とかではなく、学校のパンフレット、その「年中行事」の欄にも乗っているれっきとした校内行事らしい。 そういえば東北の一部では、毎年秋の恒例行事として芋煮会が存在しているというのはそれなりに有名な話だとは思うが、少なくとも秋田県でそういう話は聞いた事が無かった――のだが、wikiを参照してみると、県民として色々と思い当たるフシがあったのである。 しかし、やはり本場といえば山形や宮城という事にでもなるんではないかと思われる。 モロに「芋煮会文化圏」とでも称すべきこれらの地方では、このローカル行事はどうやらかなりメジャーであるらしい。 先日、買い物のために電車を数駅乗り継いだ先にあるホームセンターに行って来たのだが、そこで秋の行楽シーズンに備えた芋煮会コーナーが出来上がっていた……。 さ、さすがだ。
2009.10.06
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アナトール・フランス「シルヴェストル・ボナールの罪」(伊吹武彦訳・岩波文庫)を読んだ。 主人公であるところの老学士院会員、シルヴェストル・ボナール氏は、駄目なインテリの割と典型というか、頭でっかちで世間知らずの所を持った、少々子供じみた人物であるように思える。 ボナール老人の日記という体裁で進行するこの作品には随所に古典文学や哲学書が行われ、一種、衒学の様相さえ呈しているのだけれどもそれを以てしても彼の精神的に未熟な側面が垣間見られるのが面白いところだろう。 それの何が悪いという訳でもないのだけれど、彼が行う自分自身の理屈に従っての振る舞いは、何だかどことなく苛立たせられるものがある。 見識豊かな人物であるはずのボナール氏の子供じみた振る舞いは、彼の持つ教養と比較すると一見して不自然な組合せのようにも思えるが、けれども、実は意外と違和感が無い事に気が付くのである。 つまり、彼の持つ知識とは彼自身の内なる精神を見つめる事に他ならない。それは人間の心を富ませるが、しかし眼を外部に転ずる事が必ずしも上手くはない。ボナール氏は、決して人付き合いの下手な方とは思えないのだが、それでも自分の目的を最優先し続けて、他人から自分勝手にも取られかねないような行動に出ているのは、つまるところが老境に至ってなお、ある種の未熟さが抜け切れてはいないという事ではないだろうか。 内向きの知識と外部を見据える目と、両方の調和が欠けた人物を描写する事は下手をすれば単なる社会不適合者に成りかねないが、しかしあえてそれ行うのは、そのどちらに偏り過ぎても人間は成熟できないとでもいう所なのだろうか……人間は何かを得るために何かを捨てねばならぬ時があるのだと思わせられる。 物語終盤において、ボナール氏が後見人を努めた少女と、また彼の教え子の青年は結婚する。ボナール氏が二人の幸福を神に祈って物語は幕を下ろすが、これによってようやく彼の精神は成熟へと到達したのかもしれない。
2009.10.05
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【鳩山首相終了のお知らせ】収支報告書虚偽記載問題で参考人聴取 麻生内閣 鳩山内閣 9/16 鳩山内閣成立 9/24 麻生内閣成立 国連総会出席 年金関連法案提出 三六協定見直し案提出 9/25 国連総会出席 9/29 所信表明演説 第一次補正予算案提出 テロ特措法改正案提出 9/30 居酒屋で羽目外す 10/1 サモア地震で何ができるか考える(午前) 電話がうるさいから夫人とホテルに宿泊(夜) 10/2 IOC総会でコペンハーゲンに出発 10/10 北朝鮮制裁延長 10/16 第一次補正予算成立 10/24 金融機能強化法改正案提出 10/26 臨時国会開催予定 10/27 日印安保共同宣言に署名 11/14 大陸棚拡張を国連に申請 12/12 改正テロ特措法成立 改正金融機能強化法成立 昔々。 あるところに、一度も「絵画」というものを見たことが無い人が居ました。 “彼”は食べ物として、一個のお餅を持っていましたが、どうにもおいしくないような気がして、毎日、不満を抱いていました。 ある時、一人の怪しげな商人が彼の前に現れました。 彼は荷物の中から一つの絵を取り出し、その中に描かれた餅を指します。 “彼”は、描かれた餅がとても奇麗なのを見て、ひどく心を惹かれました。 すると、商人は“彼”の持っていた餅と、絵画の中の餅を見比べると、顔中に出来損ないの造り物みたいな笑顔を一面に張り付けて、「この餅おいしいから! マジおいしいから!」「今、アンタの手元にある餅は古くなって食べらんないでしょ?」 と、ひたすら自分の持っている絵の餅を持ち上げ、同時に“彼”の手元にある餅を散々にこきおろしました。 “彼”は商人の言葉に乗せられて、気が付いた時には元の餅を捨て、絵の餅を購入してしまっていたのです。 その晩、“彼”はたいへん幸福に思いました。「何だか良い買い物をしちゃったな! 明日も頑張れそうだ!」などと、よくわからない希望がむくむくと湧き出てきます。「ところで、あの商人から買ったこのお餅は、どうやって食べるのかな……?」 ためつすがめつ絵の餅を捻くり回してみましたが、どうにも“彼”は食べ方がよく解りません。しかし、あの商人が熱心に勧めてくれたのだから、きっと美味しい食べ方があるに違いないと思って、彼は眠りにつきました。 ――――“彼”が、世の中に「絵画」というものがあり、そこに描かれているものは、どんなに美しくても、口に入れた所で食べ物ではないので食べられないし、よしんば飲み込んだとしても決して美味しいものではないと知るのは、まだまだ先の話でした。 しかし確かに言えるのは、“彼”が商人の口車に乗せられて絵画の購入を決めてしまったとき、とても大きな高揚を味わっていたという事。 そして、購入した「餅」の正体が食べられもしない存在だと気付くまでの間は、少なくともたいそう、幸福に過ごせるのだ……と、いう事なのです。 めでたし、めでたし。
2009.10.03
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なにやら天下のサントリーが、「しそペプシ」に続いてまたもや「あずきペプシ」なる変態的飲料の発売を予定しているそうで……。 前作「しそペプシ」は、遠慮会釈の一切が全くと言っていいほど感じられない着色料全開の爽やかグリーンに、とてもではないが合成とは思えない迫真のシソ味で我々の度肝(主に味覚)にセカンドインパクトをもたらしてくれた訳なのだが、次なる「あずきペプシ」は、果たして。 しそ味はしそ味で、あまりにもシソ風味としての職分を全うしていた味だったので、今回もまた随分ハッキリした感じになるのではなかろうか――と、個人的には思っている。 「しそペプシ」の時の世間的な評価は、おおむね「意外と美味しいよ」派と、「サントリーは腹を切って死ぬべきである」派に分かれていたと思うのだけれども、再び賛否両論、議論の余地が大アリな、アブノーマルにしてインモラルな味わいに出来上がってくれる事を期待して止まない。 いっそのこと、先ごろ期間限定で復活したマクドナルドのチキンタツタと共に和風セットとでも称して一所に腹に収めてみるのも面白いのではなかろうか。俺は絶対にやらないと思うが。
2009.09.30
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RPGに壮大な物語は必要なのか? 毎回人類存亡の危機を救ったりするのもう飽きた やっぱゲームって娯楽だから、ある程度は非現実的な要素が無いと楽しくなさそうな気がするんだよね。 プレイヤー全てが現実から逃避するためにバーチャルに浸ってる訳では当然ないと思うけど、方向性がどこを向いていてもやっぱり現実ではできない事を楽しめるというのが求められている訳で……。 とことんまで描かれる世界を縮小するなら、それこそ線路を辿って死体探しをしてみるなんてのも、小さな世界しか知らない子供の目線からすると幼い世界観を自ら突き破ろうとするほどの大冒険なのだ。だから、多かれ少なかれ現実を突き破る空想への憧れという物を皆が持っているという事だと思う。 要は、楽しければ人類が滅ぶか田舎の瀬戸際だろうが、駅前に出店してきたショッピングモールに対抗するんだろうが、「今現在」の自らが味わえないであろう興奮を、キャラクターを操作するという、ある程度の主体性を持ちつつ疑似的に体験できるのがゲームという娯楽の楽しみだと思う。けれども明らかなマンネリに陥りつつも、やっぱり人類や世界の危機を救いたがるのは、常に空想には英雄願望が伴っているからなのだろうな。 その英雄願望さえ上手く満たすことができれば、世界とかご近所とかあんまり関係が無くなりそうな気もする。 かといって、人類の存亡がかかっているとは言いながら戦場がその辺の路上だったりする、低予算の特撮番組みたいな事にはなってほしくないけど――あれ? ゲームじゃないけど、主人公とヒロインを中心とした所謂「セカイ系」の話って、人類の存亡をかけた、ご町内で進行したりするお話じゃね。 ということは、やはりゲームという媒体そのものがある程度の縛りを課している面もあるのだろうか? でも、「今までにない新感覚!」とか銘打って世に出た作品ほど、どうしようもない駄作だったりするのよね。
2009.09.28
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起床 ↓ 朝食 ↓ 読書 ↓ 寝る ↓ 読書 ↓ 寝る ↓ 読書 この繰り返しだった。リアルに。 俺の肉体は食事よりも性欲の解消よりも、まず睡眠を第一に求めているらしい。 睡眠といえば。 最近、伊藤潤二のっぽい醜悪なご面相の女の性奴隷にされたり、「不安の種」あたりに出てきそうな謎のクリーチャーに将来について説教をされたり、かと思ったら何の夢を見ていたのまるで覚えていないのに、目を覚ましたら大粒の涙をボロボロ流して大泣きしてたりするんだけど、いったい何が起こっているというんだい。
2009.09.26
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地方都市の衰退っぷりクソワロタwwwwww【廃墟】廃れゆく風景画像スレまとめ 滅びゆく地方都市。 俺個人も地方都市出身者として、何か解るわあ。 都会というほど繁栄しているのでもなく、さりとて完全に田舎と呼べるほどに未発達でもない。ただ、かつての繁栄の面影を古い記録の中にのみ留め、緩やかに残余の生命力を燻らせ続けるだけの街並みってやつが。 とにかく、魅力が無いんだよね。 都会も田舎も、それが美か醜であるかは別として、多分に色々なナニかを含んでいる。 だが、地方都市にはそれが無いのだと思う。 かつては都会並みに人口の輝石を身にまとっていた街並みは、時の流れとともに朽ちてひび割れていく。けれども、そこに都市が栄えていた頃の栄光を忘れられない街は、今さら山野に戻りたいと考える訳が無い。必然的に、繁栄でも素朴さでもない、ただ中途半端な燃えカスだけが遺される。 これは個人的な感慨に過ぎないんだけれども、衰退しかかった地方都市というのは色彩に乏しい気がしてならない。何やら知らんが灰色っぽいか、あるいはやたらと単色の気配が。 それは、ひょっとしたら少しずつ衰えつつある時代の死臭であるのかもしれない。あるいは毒々しい人口と荒々しい天然の狭間で苦悩する、老いた街の顔つきに刻まれた深い皺か。 衰えた街が再び多彩な色を取り戻すのは、都市から失墜し、悦楽も苦悩も遠い過去に変化した遥かな先の事なのだろうか。
2009.09.24
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何やら、口角が痛い。 たぶん連休中、ほぼコンビニの弁当しか食べていなかった事が原因と思われる。つまり、栄養が偏っているのだ。 実家に居た頃は栄養状態がマトモだったのでこういう事は起きなかったのだが、実家を出て寮に移ってからは食事の出ない日もある。そういう時は言うまでもなく外食かコンビニ(あるいは買い置きのインスタント食品)になってしまうのだけれども、本格的に口角が痛くなるなどという事態になるのは初めてだ。 食事の出ない休日、「たまにはコンビニ弁当も良いかな!」的な発想に入ってしまう時もあるが、日曜の夕食時にはもう既に「普通の飯が食いてえよ……」状態。 自炊ができれば良いんですけどねえ……ウチの寮は火気厳禁だし。 健康にも財布にも優しくない。 実家に帰ってる連中が多かったので、入浴制限が一時解除になったのは嬉しいけど。
2009.09.23
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何だかんだで登録してしまった。 ……あ、mixiの話ね。 とりあえずURL貼っときますか↓ http://mixi.jp/show_friend.pl?id=24755695 実際問題、楽天の方とmixiと、どっちがこれからメインになるかは判らないけど、ひとまず飽きるまで。
2009.09.22
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革命に勝利しても、戦闘で殺されなかった革命家は、仲間の攻撃によって倒される可能性がある。自分の意思で革命に参加する戦闘的な革命家が、最後に幸福になるとは、とても考えられない。結局のところ、それぞれの人間がさらに快適に生きられるようにするという革命の当初の目標は、目的というよりも、行動するための口実のように見えることが多い。 いま読んでるジョルジュ・バタイユから、気になった個所を引用。「民主党」「政権交代」といった言葉がふと浮かんでくるのは何故だろう。
2009.09.22
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舞阪洸「狗牙絶ちの劔1 ―刀と鞘の物語―」(富士見ファンタジア文庫)を読んだ。 先日地雷だと思った「化物語」よりもさらに爆発力が強かったので、どうしても書かなければなるまいという勝手な使命感に突き動かされてキーボードを打っている。 ライトノベルは、未だごく狭い範囲の世界しか知らない中高生を主な対象とした娯楽小説であるためか、扱っている「世界」そのものも比例して狭いものであることが多いように感じる。そこでは主人公とヒロインという「君と僕」の出会いが重要な役割を果たしている事が多く、往々にしてストーリー上の重要人物である「君」に相当するヒロインたる美少女は、何か尋常とは違う特殊な能力を持っていたりするものである。 つまり、それまでごく当たり前の存在であった「僕」たる主人公が初めて物語として成立する非日常の住人となるには、「君」との繋がりを得なければ物語がそもそも始まらない。何でもない普通の男子学生の生活を切り取ってみるのは、覗き見的な下卑た好奇心を満たしてくれるのでそれはそれで面白いのだろうが、エンターテインメント的には明らかに方向性を間違えている。 通常、日常生活に無縁な物を見つけると、人は多かれ少なかれ違和感を抱くものである。例えば、本作で描かれているような「セーラー服の美少女が日本刀」を抱えていたりすると。この書き方だと「灼眼のシャナ」以外の何物でもないが、そもそも「君と僕」という展開の如く、「セーラー服に日本刀」は定式化されている感さえあるので深くは詮索しない。 主人公の少年は、ある朝、通学路の途中にある公園でセーラー服+日本刀というあまりにもあざとい異様な格好の美少女と遭遇する。……たったこれだけの説明でも、大体のラノベ読みには先の展開の大部分が予想できるのではなかろうか。 その通りである。大正解(たぶん)。 案の定、美少女は人間社会に仇なす「狗牙」(くが)なる怪物を討つ裏世界の人間だった! わあ、すごい。そして秘密を知った主人公は自らもまた戦いの世界へと――というか、ラノベによくあると思しきこの手のテンプレート的導入が、まるまる本作にも当てはまってしまう。 それは、まあいい。「暴れん坊将軍」が最後は必ず斬り合いになってしまって穏便に事件が解決しなかったり、戦隊ヒーローがポーズを決めてる間は怪人が一切手出ししてこなかったりするという、物語における“お約束”みたいなものだと思ってまだ納得できる。 そもそも先述の如く、ラノベにおいては「君と僕」の関わりの中から物語における世界を動かす要素が紡ぎ出されるのである。だから、主人公がいきなりヒロインを17個の破片に解体しようが、大太刀を振り回す少女に「お前は人ではない。モノよ」と衝撃的な宣告をされようが、それが機械のスイッチのように物語をいい具合に回転させてくれるのである。 だが、忘れてはならないのは、それはあくまできっかけでしかないという点ではないだろうか? いきなり謎の美少女に襲撃されて……などというのは常識で考えて有り得ない。その有り得ない展開が起こってしまうからこそ、彼の「日常」は「非日常」へと遥かに遥かに脱線を開始する。そう、全てはきっかけなのだ。毒にも薬にもならぬものが音を立てて崩壊する様を見せつけるのが、「読者をこの先には何があるのか」と期待させる原動力となる。 つまり、「日常」が「非日常」へと決定的に変わる様が無ければ期待されない。 だが――崩れた後の瓦礫でもがき苦しむ人をただ見るのと、瓦礫が元の立派な建物だった姿を知りながら見るのと、どちらがより悲惨だというのか。 本作「狗牙絶ちの劔」における最大の問題点は、まさしくここにある。 つまり、「日常」と「非日常」の対比が成立していないのである。 踏み外す前と後、その両面を描写する事によって、物語が物語足り得る「非日常」の姿がより鮮明になるはずだ。だが、この作品では主人公がヒロインと出会ってからのあからさまな「非日常」めいた何物かばかりを性急に追い求め過ぎているように思える。彼の何が日常か、ヒロインと出会ってから日常がどういった形で変質していったのか。その過程がまるで無視されており、“日常のその後”=“非日常”を不用意に重視しているように思えてならない。平凡さの実体が何らも見えずに曖昧模糊とし過ぎているし、日常から非日常へのシフトを謳うのであれば、二つの異なった状況を明確に対比させて描写すべきだと思うのである。 例えば、橋本紡の「半分の月がのぼる空」という作品がある。 これは度々「日常を描いて成功した」と評されるが、その実、我々の知っている世界そのものの延長線上に位置する非日常を描いて成功しているとは言えないだろうか。この小説の舞台は病院であり、ヒロインは難病に侵された少女だ。舞台設定そのものは病院という日常で耳にする言葉でしかないが、その裏面には常に生と対置化された死が滞留しているのは言うまでもない。表面上に出ないだけで、彼の地には死が満ちている。それは人間の生命の営みのうえでは致し方の無いことである。そして、ヒロインもまたそうした悲しい日常の延長線上としての非日常に絡め取られる危険性を匂わしながら、「君と僕」を中心とする物語は進行していく。 常に対置化された生=「日常」と死=「非日常」のせめぎ合いのようなものが、崩落の悲劇とカタルシスを何層倍にも魅せるのだ。 だが、「狗牙絶ちの劔」はその対比を放棄してしまっている。 辛うじて存在する日常描写のようなものも、非日常の象徴たるヒロインたちと出会ってからの場面でしかないし、しかもそれ自体が僅少だ。バトルの爽快感さえも殺されてしまっている。 仮にも「日常から非日常」へのシフトを謳う作品であるのなら、何がどう変わっていったのか、それを明確にすべきではないだろうか。ただ「変わった」と言い続けているだけでは読んでいる方には何が何だか伝わらない。世間の評判はどうか知らないが、俺はこの作品の続刊を読む気には到底なれない。
2009.09.19
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明日からシルバーウィークか。 何も、ゴールデンウィークの二番煎じ的連休だからってお爺ちゃんお婆ちゃんの日みたいな名前付けなくても……と思ったけれども、間に敬老の日が入ってるから何の問題もありません。ダブルミーニング。 かの紀貫之は「土佐日記」を執筆するに当たり、「男もすなる日記というものを、女もしてみんとてするなり」と書いている。当時、日記を書くというのは男のする事で、女がそれを書くのはとても珍しかったらしい。貫之は、自身、女に成りきって、その珍しい事を行ったのが「土佐日記」だという。 そんな土佐日記並みに珍しいような事態ではないような気もするが、世にリア充の牙城と恐れられるmixiの招待メールを知り合いからもらってしまった。「リア充もすなるmixiというものを、非リア充もしてみんとてするなり」である。とりあえず、メールもらっただけで未だ登録すらしてないんだけど。 通常、ネットでの人間関係というのは、余程の事が無い限り茫漠とした殺伐さを伴う乾いたものだと思うのだが、果たして俺はしっとりと濃い(予想)mixiの人間関係に耐えることができるのだろうか。実はtwitterの方が性に合ってたりするような気もするけど。 そう言えば、mixiもtwitterに対抗したのか似たような新規サービスを打ち出しているようだけど……どうなるのかしら。
2009.09.18
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昨晩の話。 ツイッターで色々とリンクを辿ってみたら、ある人のアカウントを見つけた。 どうも読んでみると、その人は物書きをしているらしいのである。著書は何ぞと思って確認してみた所が、俺がかつて読んで、その後あっけなく売ってしまったある小説の作者様だと判明した。 見てはいけないものを見てしまった……というよりも、何だか急に、非常に申し訳ない事をしてしまったような気がしてきたので、気が付いた時には自分のアカウントとリンクを繋いでしまったのであるが、そんな理由でリンクされる先方もいい迷惑であったろう。 しかし、それにしてもネットとは恐ろしい世界である。 あまりに広すぎ、そして明晰でも茫漠でもそのどちらでもないが故に、自分が放り投げたイシ(石・意思・意志・遺志)がどんな風に煽られてどの場所に落下し、誰の頭に命中するものであるのか到底知れたものではない。あるいは当然ながら、その逆もまた然りだ。 皆が皆、独自性を保ったまま薄く乾いた繋がりを保てることが、ここまで奇妙な縁を作り出してしまうという事実を、その時ほど深く実感した時はついぞ無い。「十分に発達した技術は魔術と区別が付かない」と、ある有名な作家は述べているが、得体のしれない魔術的ブラックボックスと化しているのは技術そのものだけでなく、それによって構築される世界観もまた当てはまるのかもしれない。
2009.09.16
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女性と1回のS○Xで50万以上の高額報酬!! ← 200人が騙され被害金額約10億円超 楽天の宣伝エロ書き込みなんかでも、こういうのは、よくある。終いには出会い系そのもののブログなんかも跋扈している始末だ。 スレでも出てるが、こういうのが一向に無くならないのは、毎度毎度かならず誰かが引っ掛かっているがための事だ。たしか早川いくをが「へんないきもの」の中で雑誌の巻末に載ってる怪しげな開運アイテムを指して「この手の広告がなくならないのは、こういうものに引っ掛かるかわいそうな人が常に一定数存在していることの証拠」だと書いていたが、まさにその通りなんだろう……。 具体的に、出会い系に限らずこうした怪しげな広告の類がいつ頃から日本社会に誕生し始めたのかは知れないが、電柱に張り付けられて幾度となく雨風に晒されながらも、健気にその役目を全うせんとする色あせたピンクチラシの如く、何か――見ているととても切なく感傷的な気分になってしまうのは俺だけではあるまい。 それにしても最大の謎は、あの手の怪しい広告を打ってる企業が(殆ど引っ掛かる相手も居ないだろうに)どうやって儲けを捻り出しているかという点だと思う。とは言え、そこは数少ないバカな貴重な顧客からしっかり稼ぐビジネスモデルが確立されているのかもしれないが。もっとも、そのビジネスモデルとやら自体が詐欺……おっと、誰か来たようだ。
2009.09.15
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どうも割と昔から有名な所らしいのですが、俺は昨日知ったばっかりなので色々と弄り倒してみた。永遠なるショウジョの部屋 少女の形をした人形に、手足をくっ付けたり服を着せかえたりアクセサリーを付けたりして遊べるという。見る限り、ゴシック趣味の人なんかはこういうのが好きなんじゃないだろうか(適当)。 せっかくなので、俺が作ったモノの7枚ほど、スクリーンショットを撮ってみた↓一枚目。眼帯は基本。キャラクターとしての容貌を際立たせる意味での小道具としての眼帯は、女に可憐を、男に侠気を宿らせる素晴らしいものです。眼帯は基本。大事なことなので2回言いました。二枚目。踏まれたいと思う。三枚目。特に何も無いです。四枚目。何だこれ。貞操帯というアイテム自体の存在に、この着せ替え遊びを作った作者のこだわりを感じる。五枚目。京極夏彦の「魍魎の匣」ってこんな話だったよね。モツは出てなかったと思うけど。六枚目。何だこれ2。七枚目。真希波・マリ・某。眼鏡が無いのが実に惜しい。というか、同じような事をして遊んだ奴は掃いて捨てるほど居ると思う。 何というか、コレは個人の好みや趣味、かてて加えて性癖の類が多分に反映されるんじゃねえのと思った。 個人的には一枚目と五枚目(性癖的には二枚目も)が気に入ってるんだけど、四枚目を作っている時に言い知れぬ興奮を覚えていたのはここだけの秘密である。
2009.09.14
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コンビニに弁当を買いに言ったら、応対した店員のネームプレートに書いてある名前が「ごうけ」だった。 ……いったい、漢字で何て書くでしょうか。 近年、アタマの悪い親による珍妙な名前――いわゆるDQNネームをつけられた可哀相な子供がたびたび話題に上りますが、苗字というのは先祖代々受け継がれていくぶん、ある意味では名前よりも事情が難しいのではないだろうか……。基本的に(現行の法律では)養子に入るか結婚しなければ変わらないのだし、というか、それが××の氏族や○○の家という血に基づいた種別であるからそう簡単に変えられる訳も無い。 漫画やアニメ、さらには中学生が考えた小説に至るまで、人間の想像力は色々と奔放な苗字を思い描いているが、実は個人の帰属を決定づける重要な要素なのだということを、ついぞ思い描かずに接しているように思う。もっとも、いちいちそんな所まで考える奴のほうが少数派だろうけど。 追記 俺の苗字は関東の下級武士? か何かの姓らしいのだが、実家は普通に農民である。
2009.09.13
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