サリエリの独り言日記

サリエリの独り言日記

2009.08.30
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テーマ: 古典の日(312)
カテゴリ: 文学
 さてこの帖では、最後に意外な展開が待っていました。

― 入り給ひても、みやの御事を思ひつゝ、大殿籠(おおとのごも)れるに、夢ともなく、ほのかに見たてまつるを、いみじく、うらみ給へる御気色にて、
 「「もらさじ」と、のたまひしかど、うき名の、隠れなかりければ、はづかしう、苦しき目を見るにつけても、つらくなむ」
と、のたまふ。「御応へ聞こゆ」と、おぼすに、おそはるゝ心地して、女君の、「こは、など、かくは」と、のたまふに、おどろきて、いみじく口惜しく、胸の、置き所なく騒げば、おさへて、涙も流れいでにけり。今も、いみじく濡らし添へ給ふ。女君、「いかなる事にか」とおぼす。うちも身じろかで、臥し給へり。 ― (山岸徳平校注、岩波文庫()筆者)

 (御帳台に)お入りになっても、(藤壺の)宮のことを偲びつつ、お寝みになっていると、夢ともなく、ほのかに(宮の)お姿をご覧になって、(それが)たいそう、お恨みなさっているご様子で、
「『(あれほど、他には)漏らさない』と、おっしゃったのに、(私の)浮名が、隠れもなくなってしまって、恥ずかしく、(今だに)苦しい目に合うのは、辛いです」
と、おっしゃる。「お答え申上げよう」と、なさるが、ものに襲われるような心地がして、(側にいた)女君は、「これは、どうして、こんなことに」と、おっしゃるが、(源氏は)ひどく名残惜しく、胸が、身の置き所もなく騒ぐので、押さえられるが、涙まで流れ出てくる。今もなお、ひどく(涙で、衣を)濡らしていらっしゃる。女君は、「(これはいったい)どういうことなのかしら」と思われる。(源氏の君は)じっと身じろぎもせず、臥せていらっしゃった。

 この故藤壺の宮が、源氏の夢枕に現われるというのは、亡くなった人のことをあれこれみだりに噂すると、あとで祟りがあるという昔物語の筋をなぞっているように見えますが、むしろこれは光源氏の不安心理から出てきた心象風景と見るべきでしょう。
 彼の不安心理というのは、藤壺の宮との不倫が露見するかもしれないとか、故宮がこの世に恨みを残した結果、成仏出来ずにさまよっている、といったよくある話ではないと思うのです。じつは源氏自身も勘違いしていて、このあと御誦経(みずきょう)を故宮のために、あげさせたりしているのですが、この不安の内実は、まっすぐに彼の内心から出ているので、自分自身という存在が、すでに以前とすっかり変わってしまっている、という事態に基づくものなのです。


 むろん彼自身はそれをキチンと理解できているわけではなく、藤壺の宮没後の喪失感を穴埋めするかのように、斎宮の女御や朝顔の宮に懸想したのですが、とくに桃園邸のくだりで気鮮やかに示されたように、過ぎ去った過去は二度と戻ってこない、去ったものを探しても、結局現れてくるのはセピア色に変色した化石ばかり、という痛い認識であったわけで、「胸の、置き所なく騒げば、おさへて、涙も流れいでにけり」というのは、この世に生きて在るものは、すべからく逃れがたい時間の相のもとに在る、という、いわば生命そのものの不安心理であったでしょう。

 彼がその時、そうした自身の根本的な存在理由について、うまく説明できないのは、無理からぬところで、まして彼が胸をかきむしって涙を流す姿を見た紫の上が、その理由をまったく理解できないのは当然だったでしょう。しかしこの時期、紫の上も大きな岐路を迎えていたわけで、我が身が光源氏という磐石の後見に守られてビクともしない、というのはかりそめで、そんなものは、じつはいつ壊れてもおかしくはない、というこれまた別の根本的な存在基盤の不安感に迫られていたのです。そしてその不安は十数年後、もっと残酷な現実となって、彼女の前に現れるのですが。

 というわけで、「薄雲」と「槿(あさがお)」の帖は、こうした二度と取り返しがつかないという、時の流れをメインテーマに、なかなか感慨深い物語だったと、私は思うのですが、その中で光源氏と紫の上は、自ずからお互いをある距離を置いて見る(隔てを置く)関係になっていくわけで、これはある意味、成熟した夫婦の関係といってもいいのです。根本的な隔ては置きつつも(そのことは事荒立てず、一応棚上げにして)、表面的には平穏な生活を営んで行くというのは、すぐれて大人の知恵というべきでしょう。

― 源氏1000年 槿(あさがお) おわり ―





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Last updated  2009.08.30 08:37:00
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TNサリエリ @ Re[1]:Kyoto Tachibana High School Green Band 10.(09/07) ナガノさんへ  コメントいただき、ありが…
ナガノ@ Re:Kyoto Tachibana High School Green Band 10.(09/07) 2年遅れで、この文章を読んで泣けてしまっ…
TNサリエリ@ ふたたび、コメントありがとうございます。 cocolateさんへ 私自身、彼女の演奏に刺激…
cocolate@ Re:エレクトーンというガラパゴス 1.(06/17) 再びおじゃまします。 826askaさんのYouT…
cocolateさんへ@ コメントありがとうございます。 三年ほど前に826asukaさんのことを知り、…

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