サリエリの独り言日記

サリエリの独り言日記

2016.07.04
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カテゴリ: クラシック
「奇道」を為す人

 ヒトの集団においても、その種族維持のために異分子を置いておくのは、日本のように農耕社会という平準化への淘汰圧が恐ろしく強い地域でも、古来普通に見られたことでした。古代神話に登場するアメノウズメ、サルダヒコの兄妹、中世の修行僧とか江戸期の歌舞伎者などがこれにあたるでしょうか。多数者から常に差別されバカにされつつも、もう一方で彼らは「奇道」を為すものとして、「畏れられ、有り難がられていた」のです。

 あるいはむしろ社会全体が貧しいからこそ、そうした「異物」の価値をよく知っていたのかもしれない。日本人が飢餓のリスクから逃れられたのは、たかだか敗戦後の60~70年前からのことで、祖父母の世代ぐらいまで、「飢え」はかなり身近なものとして写っていたはずです。
 そういう社会では絵画や文学や音楽を為す人間は、私たちが想像する以上に「畏敬」されていたのではないか?あるいはまた、それを志す人間のほうも、かなり大マジメにそれに取り組んでいたのではないか?今やこうした「大マジメな構え」は、少なくとも現代日本では、ほとんどギャグの対象になってしまいました。

 私は芸能、芸術行動というのは、生き物一般にピルトインされた多様性因子の、人間的発現の一つだろうと思っています。アルタミラの昔(一万五千年以上前!)から、ヒトは絵を描かずにいられなかった。絵画そのものは生存に直接には何の役にも立たないけれども、少数でもそれを為す「異分子」が集団に存在することは、多様性=生存可能性の証しの一つに他ならなかったのです。
 洞窟の壁に「 野牛の絵 」を描いているのは、間違いなく「選ばれた少数者」であり、多数者にとっては「奇道を為す人」として深く畏怖されていたでしょう。で、それはおそらく絵画だけでなく、音楽や占いやさまざまな芸能芸術、宗教行動を為す少数者という形で、集団の一角に存在していたはずです。

 さてさて、今どきのように「飢え」から開放された(ように見える)時代では、そうした「奇道を為す少数者」の存在が、それこそ集団の生存に関わるような仕方で、「畏敬」を以って扱われるということは、すっかり難しくなってしまいました。今や芸術に携わろうとすれば、多かれ少なかれ愛想良く振る舞わざるを得ないというか、素のまま「強面」で表に出るということは不可能でしょう。明日の食い物を心配しなければならないほど、今の世の中は、表向き「切迫」してはいないのです。
 断っておきますが、だから人類はもともと保持している因子を損ねないように、もっと「飢えるべきだ」と言っているわけではないですよ(当りまえです)。そうした生き物としてのヒトの過去と現在を踏まえたうえで、最善の道を(もし、あるのだとすれば)何とか探すしかないだろうということです。イチローや村上春樹は、そういう芸能的身振りを巧みに逃れて、「奇道を為す少数者」になり得ている稀有な例なのでしょう。


 一言で云えば、エゴイスティックに見える彼らの振る舞いには「我意」がない。「他者に伝えるべきこと」を最優先にしたら、結果的にそうならざるを得なかった、という経路を辿っているように見える。たまたま選挙中なので、このあたりの違いがよく分る。愛想の良い「皆さん(他者)のために」という素振りの裏から、「我意・我欲の塊」が丸出しじゃないですか。こういう面表や言葉を「卑しい」と言うのです。せめて選挙では「卑しくない人」に投票したい(ほとんど、いないけど)。

 このあたりの経緯について、武満や村上は「そうすべきだ」と思った瞬間のことを、非常にハッキリとエッセイなどで語っていますね。
 武満が音楽に開眼したのは、戦時中、兵舎でたまたま流れて来たシャンソンを聴いた瞬間だったそうです。今ではとても想像できない事態ですが、彼の上官で無類のシャンソン好きがいたらしい。その時彼は「戦争が終ったら(「一億一心火の玉」を呼号していた時代に、「戦争が終ること」を想像できるのもスゴイですが)、何が何でも音楽家として生きて行こう」と決意したらしい。
 村上の場合はもっと唐突で、30歳の頃(本人はその日、その場所まで特定していますが)神宮球場でヤクルトの試合を観ていて、ヒルマンという選手がヒットを打ったとき、「小説家で生きて行こう」と決心したとか。
 イチローはそれほど明瞭なコメントをしていませんが、やはり似たような瞬間を、おそらくメジャーとの交流戦などで経験したことでしょう。

 これらに共通するように思えるのは、「召喚性」ということです。我から「そうなろう、そうなりたい、そうあるべきだ(我意)」と思ったというより、何ものかに突然「呼び出された」という仕方で、その決意や決心が意識されているということなのでしょう。
 「お前が、それを他者に伝えよ」という「声」が、唐突にどこかから降りて来る。自身のまだ不可解なTalentが、じつは自分の占有物ではなく、「他者との共有物」であると分った瞬間、どれだけ誤解を受けても、その我が身固有のTalentを磨き抜いて行こう、という決心がついたのではないか?洞窟の壁に野牛を描いていた人たちも、もちろん「我意」で(好きで)描いたわけではない。まさしく「集団の存続」をかけて描いていたのです。
 人のパフォーマンスは、こうした「他者性の意識」によって、「最大化」されるのかもしれませんね。





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Last updated  2016.07.04 17:05:21
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TNサリエリ @ Re[1]:Kyoto Tachibana High School Green Band 10.(09/07) ナガノさんへ  コメントいただき、ありが…
ナガノ@ Re:Kyoto Tachibana High School Green Band 10.(09/07) 2年遅れで、この文章を読んで泣けてしまっ…
TNサリエリ@ ふたたび、コメントありがとうございます。 cocolateさんへ 私自身、彼女の演奏に刺激…
cocolate@ Re:エレクトーンというガラパゴス 1.(06/17) 再びおじゃまします。 826askaさんのYouT…
cocolateさんへ@ コメントありがとうございます。 三年ほど前に826asukaさんのことを知り、…

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