2002年08月12日
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 宿の窓際まで伸びた枝先で、小鳥の美しいさえずりが続いている。
教会の鐘の音が、遠くから、近くから、思い思いに伝わってくる。
 昨夜は、一度は訪ねてみたいと思っていたフランスのル・マンに、宿を求めたのだった。テレビで見るあの、喧噪の街、自動車レースで賑わう街とは、全く違った静かな佇まいが、意外な印象だった。
周囲を広い農園地帯に囲まれた、小さな田舎町だったのである。

 小鳥の声を目覚ましがわりにして、心地よい朝を迎えることができた。
 何気なく窓から通りを見下ろしていると、向かい側のパン屋さんに駆け込む、宿の奥さんの姿が見えた。彼女はやがて、バケットいっぱいのパンを手にして、宿に戻ってきた。
 あのパンが、今朝の食卓に上るのだろう。何気なくそんなことを考えながら、朝の食堂に向かった。

 食堂には、バケットに盛りつけられたパンと、小さいバター、小さいジャムが、用意されていた。
 私の他には、家族連れが一組と、会社員らしい人が1人だけ、小さい食堂に座っていた。その人たちは、食事が済んだ所らしく、まもなく部屋に引き上げた。


「コーヒーにしますか? それとも紅茶?」
と、奥さんが訪ねてきた。
「コーヒーをお願いします。」
と頼みながら、
「暖かくて美味しいパンですね。」
と褒めてあげた。
 宿で作ったパンでもないのに、急に奥さんの表情が、にこやかで親しげなものに変わった。握手までを、求めてきた。
「この街では、ル・マン・グランプリが開かれるのでしょう? コースはどこですか?」
と訪ねると、得意そうに、
「このホテルの前の道を真っ直ぐに突き当たりまで行って、そこから左にまがって・・・。」
と丁寧に教えてくれた。

 レースがない時期は、ただただ静かだった。

 ホテルを出発してから、奥さんに教えていただいたばかりのコースを、ゆっくりと車を走らせてみた。他には走る車もほとんどなく、のんびりと景色を楽しみながら走らせても、邪魔にはならない。道路脇の並木も、なかなかの風情である。
 そうして走らせているうちに、ふと、ル・マンレースのコースが解らなくなった。左に、右に・・・と教えられたとおりに走ってきたはずなのに。
 そこで話の内容をもう一度思い返してみた。
そうだ。たしか、レース専用のコースがあるようなことも言っていた。そのコースは閉ざされているのだろう。そこで、コースが解らなくなったのだ。


 ルマンまで来て、町並みだけを見て帰ったのでは、きっと後悔したに違いない。郊外の花畑は、広々として見事なものだった。

 ルマングランプリのコースを走ることができたのも、あのパンのお陰である。確かにフランスパンにしては柔らかくて、暖かくて美味しかったが、それを褒めるきっかけになったのは、部屋の窓から、偶然にパンを買いに行った奥さんを、見たからである。

 日本のパンに比べて、特別な味がするわけではない。だがあの味は、あのふぅわりと軽く暖かい味は、ル・マンの直線道路とともに、今も意識の中に残っている。





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最終更新日  2002年08月13日 03時22分50秒


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