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煮物のツユが残ったそれに鳥肉・長ねぎ・うどんを入れてうどんを作ったでも、まだツユと具が残った(煮物の)それを鍋に移し今度は、玉子を溶いてそこに入れ煮物の卵とじを作ったコンソメスープを作りポテトチップが合ったのでそれをス-プの上に乗せたならこれ美味しい豆腐と卵を混ぜ出汁ツユを入れて玉子豆腐を作った作りすぎて食べきれずお隣さんに上げて自分の食べる分が無くなった(^^;
2004年03月31日
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ここの所お祖父のことばかり書いていたからこれからはレシピで息抜きしよう・・・と言っても料理とは程遠いけど・・・・今日賞味期限が切れてしまったお煎餅を見つけたそれをこなごなにしてお茶漬けの素と一緒にご飯にかけお茶漬けを食べたこれ 超いける(^o^)丿封を開けたカールがあった一口食べたならしけていたそれをまたこなごなにし、今度は、コーンスープに入れてみたこれもいける・・・(^○^)これは、グラタンやサラダにも賭けて食べられる思わずふたの付いたタッパに全部こなごなにしいつでも使えるようにしておいたイチゴは、みんなそのまま食べるだろうか?わたしは、つぶして食べる片手なのでイチゴ様のスプーンが使えないそこで、考えたのが、まな板にラップをひきその上にイチゴを乗せ包丁の平らな所でイチゴをつぶすこれならまな板は、汚れずイチゴも一気に3個位つぶせたこれは我ながらいいアイデアだと思った30日の日記 (PM 11:44)----- Original Message -----From: To:
2004年03月30日
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昨日は、自分のことばかり書いてしまいました今日は、紫最終章です 紫 最終章昭和47年、10月19日次男の英二郎が、風邪をこじらせ、心臓発作を起こし、亡くなりました。その前、昭和35年に白血病で、長女のいき子を亡くしていました。子供が、自分より先に逝かれてしまうと言う事は、この世で一番辛い事です。祖父は、大正12年に始めての子・政夫を亡くしているので、3人の子の死に立ち会って来ました。また、戦争などで、多くのきょうだいを亡くし、想像できない位の哀しみを背負いながら生きてきました。祖父は、7人兄弟の長男に生れ、栃木の家族のモトで自分の兄弟と暮らした事は、無かったも同然の寂しい人でした。だからこそ、気を紛らわす為にも いや、それだけじゃない、自分のしてきた事への罪滅ぼしでも遭ったのでしょう。自分の城を作り、そこに親族を集め、自分の孤独と戦っていました。再婚した祖母が20歳違いだったので、やはり、歳の差が生じ、遊び方も考え方も違いだし、義祖母のお姉さんと、遅くに出来た自分の子供の世話ばかりで、祖父は、家に居る事を好まなくなって、映画館は、父に任せ、自分は、競輪 競馬に走り、福島の湯本の温泉地に居る事が多く、祖母は、旅行や株に走り、大損したり、祖父が年老いてからと言うものあまり、傍に居た事がありませんでした。祖父と言う人は、わたしが、「おじいちゃん」と言うのを嫌がり、自分は、若いのだと言いながら、従業員や家族に「おとうちゃん」と呼ばせ、わたしも子供の頃からずっと『おとうちゃん』と呼ばせられていました。そんな祖父が、子供の中で唯一自分がお妾さんと暮らしていた時、何も知らず遊びに来てくれていたもっとも可愛がってた子・次男(栄次郎)が亡くなった2年後、昭和49年に倒れ、その年の10月25日祖父は、78歳で「大動脈破裂」で壮絶な人生に幕を下ろしました。それは、想像を絶する波乱万丈の人生を送った。祖父の死でした。これは、後でわかったことで、とても、不思議な事ですが、祖父は、戦争と言う希望も夢も無くなって暗くなってしまっていた時代に多くの人々に映画と言うもので、夢と希望を・・・そして、自分がピエロ(チンドンや)になり、みんなに明るさを持たせてくれたひとでした。祖父は、明治30年、映画が初めて日本に上陸したその年に生まれたのです。その祖父が、映画館を始めたのも、祖父の生まれた年に関係があったのでしょうか。人力車を引いたり、珍問屋をしていた祖父なので、年老いてからも、赤が好きで、良く赤のセーターを着ている意気のある祖父でした。暗い時代を乗り越え、生きてきて、でも、希望を忘れず明るい世の中をと、望みながら生きてきた。自分がどんなに何を言われようと自分の信念通りに生きてきた人でした。本当だったら栃木の八木節源太の13代目になっても可笑しくない位、若い頃から祭り好きだった祖父だったので、老年、庭先にお正月になると、獅子舞、夏は、家へ八木節保存会の人をわざわざ呼び、庭の縁側にすわり八木節のはやし太鼓などを聞いていました。ですから、祖父のお葬式は、祖父の血と汗と涙が詰まっている祖父が、祖父の愛した映画館(相賀館)をお葬式の式場にしました。その式場には、生前、祖父は、ボーイスカウトの団長を勤めていた事もあったので、ボーイスカウトの鼓笛隊が演奏をし、映画館の式場には、約250人の人が集まり外には、100人ほどの方々が参列してくれました。上州の八木節のお囃子も来、祭り好きだった祖父には、とても相応な式でした。『おとうちゃん、大変な人生だったね。「おとうちゃん」わたしは、「おとうちゃん」が居たから 今のわたしが居るんだよ。「おとうちゃん」が居なかったら、こんなに色んな体験をする事が出来なかったんだ。病気も治せなかったかもしれない・・・本当に、ありがとう・・・わたしは「おとうちゃん」の事尊敬しています。 わたしの前では、絶対心配してるそぶりなど見せなかった・・けど、聞いたよおとうちゃん、「おとうちゃん」を良く知ってる人から、「おとうちゃん」がわたしの事すごく心配して、病気治してあげたいって言ってたって 知らなかった本当にありがとう!・・・わたし病気こんなに良くなったよ!わたしお父ちゃんの事大好きだよ!』 《完》不思議な事で祖父は明治30年映画が日本に来た年に生まれ、映画館を始め、父と母が映画をきっかけで知り合い最初に生まれたわたしの名をくじ引きで決めイニシャルが「E・T」ゆくゆく『E・T』と言う映画が出来た・・・これは、映画に絡んだ家系の運命でしょうか・・・
2004年03月29日
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今日は、祖父を心配させた自分の事を書こう 紫 11章わたしは、満二歳の時まで、風邪ひとつ引かない健康優良児だったそうです。でも、ある日、突然、風邪を引き、高熱四十度の熱が三日間続いたそうです、その熱のビールスが脊髄を通り右頭部に入ってしまいました。始め、熱がひどいので、町医者に連れて行ったなら、ただの風邪だと言われ薬を貰ったけど、三日目になっても熱が下がらず、ひきつけを起こし日立で一番名医が揃った日製病院(日立製作所病院)へ行ったなら、四十度の熱で熱のウイルスが脊髄の水(髄液)をぼろぼろにしてしまったのです。その時、両親は寝ずの看病をしてくれました。その時の思いは大変なものだったでしょう。病院で、「髄液を取り換えないとこのままでは死んでしまう。」と言われ、身体の髄液を全部採ってしまい、一度仮死状態にし、新しい髄液を入れ換え生き返りました。その時、一度わたしは、死を経験している事になります。医学と言うのはすごいモノです。でも、その頃、テンカンと言う病気はまだ知られて無く、「この病気は移る病気だ。」と言われ、隔離病棟に入れられた事もありました。そして、病院の先生に言われた事は、「この子は後、二十歳までの命です。」そんな事を言われた父は、諦め切れず、いい病院があると聞いては、わたしを連れて行きました。でも、どこの病院に行っても同じ検査のやり直しでした。そして、思春期と言うのは、考えなくてもいい事を考えてしまいます。わたしは、小学校の頃からあまりに多くの病院を廻り、中学生の頃で、12箇所は病院を変えました。親に負担をかけている事やいじめに会った事、将来の事、を考えすぎて不安になり、自殺未遂を3回しました。「自分が好きで病気になったのではじゃない。親だって好きで病気にさせた訳ではない」と言う事を子供ながらに解っていたのにもかかわらず、中学の時にすごい反抗期を迎えました。今まで口に出せなかった事を爆発したように 親に対して暴言を吐き、女なのに父親との取っ組み合いのけんかをし、昭和45年には、今で言う、家庭内暴力をしていました。その中学の時に、友部の病院でもう一度精密検査をし、死ぬ病気ではないことが解りました。でも、病名が解らずその頃、かかっていた水戸の病院に週一度、東京の大学病院から先生が来ていました。その先生に、病名をつけて貰った事がありましたその病名は「瞬間間接麻痺症(しゅんかんかんせつまひしょう)」なんと長い病名なのでしょう。ただのテンカン病だと言うのに・・それでも、13年間かかってやっと自分の病名が解ったのです。わたしは、ただのテンカンを持っていると言うだけで、子供の頃から随分差別されながら生きてきました。小学生の頃は、「移る病気」と言われ、わたしを相手にしてくれるのは、男友達が多く、男の子と言うのは、そういう事に無頓着なのか発作なんか気にしないで遊んでくれたのです。その頃の女の子の親は、テンカンと言う病気を知らない人が多かった為、「移るから遊んじゃいけない。気持ち悪い病気なんだから」と差別され、わたしが、一度でも発作を起こしたものなら女の子達は、気持ち悪がって遊んではくれませんでした。それが、原因でしたが、自分が病気を持っていてみんなにいじめられている事を親にも言えず、とても悩み、十円はげができ、毎日、はげてしまったところ(20箇所)に注射を打ちに行って居たことも有りました。わたしは、子供の頃から注射などする時、泣きそうになると『こんなことで泣いたら親に迷惑をかける』『親が悲しむのは見たくない』『発作が出ると親は悲しむ心配させちゃダメ』だから、発作が出ても親にはいつも『発作出てないよ』と嘘をついていました。そう言う風に強がって居れば親は喜ぶんだなどと思っていました。ですから今でも、その癖が直らず元気じゃなくても元気なフリをする・・・そんな癖がついてしまったのです。皆を悲しませたくない・心配させたくない・・・でも、そこから学んだ事は、「元気な人には人はついてくるけど暗いと人はついてこない」と言う事を学べました。ですから、子供の頃の遊びと言ったら、木登り、めんこ、自転車などで、みんなの前では、昔で言うガキ大将と呼ばれていました。でも、一歩家に帰ると自分と同じ背の高さの人形と遊ぶと言う、子供の頃からみんなの前では、粋がる自分と、何故なのかとても、シャイな自分と使い分けていたので、今もそのクセが直りません。人の前では、粋がって、家に帰ると大人ばかりに囲まれていたので甘えん坊に変わっていたのです。そんなガキ大将で居た頃の事です。ブレーキの利かない自転車に乗り、神社で遊んでいた時、崖から落ちたのは・・・もう時効ですので話しますが、自転車のブレーキが利かず、気が付くと車のボンネットの上で失神していたこともありました。ボンネットが引っ込んでいるのを見て、慌てて壊れた自転車をひきずりながら帰ってきた事を覚えています。そんな事があったのに良く生きていたと思います。それと、家が、映画館だったので、映画館の入り口のところに屋根を支えている鉄の柱がありました。わたしは、男の子達と木登りをしてたので、その鉄の柱を登ったりもしました。みんなが危ないと言うのにも聞かず、それで、股が擦り切れるまで登るのです。また、映画館のキップを買う処に鉄棒がありました。そこで、逆上がりをしたりして遊んでいたのですが、キップを買う処がちょっと出窓になっているので、大人たちは、危ないと言いましたが、人の言う事を聴かないわたしは、上手く廻る事ができる時はいいのですが、失敗した時と言うのは、その石でできた出窓に頭をぶつけ、大人たちに心配をかけてしまう。それでも、鉄棒を登ったり、逆上がりをしたりするのです。人並みはずれたおてんばでした。幼稚園に上がる前、人が乗っているブランコに頭をぶつけて、七針縫ったことも有りました。こんな子ですので、祖父もわたしのことを見て見ぬ不利はしていましたが、孫の中で内孫と言う事もあり、とても心配し、病院と言う病院に連れて行くよう父に言ったのです。ですから、わたしは、家族には、感謝しきれないほど感謝しています。 《つづく》今日は、「紫」とは関係ない事を書いてしまったが、これで人生には、皆ドラマを持っている事が解ってきたでしょう・・・いよいよ明日は「紫」最終章となります
2004年03月28日
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誰でも、ドラマを持っているそれは、自分が造ろうとして作るものではなく、作られていくものなのです。 紫 10章毎年家では、祖父のお祭り行事が沢山有りました 年中行事・漬物漬け冬、従業員・家族総出で、毎年恒例の漬物漬けをしていました。200個の白菜を10個の樽に漬けるのです。従業員・家族を合わせると約30人もいた為、その口数を数えても、200個の白菜の漬物を作っても、すぐ無くなってしまうのです。 年中行事・新年会新年会は、毎年、祖父の家のふたつの和室の襖をはずし、一人一人30人分のお膳が並ぶ、見事な新年会でした。そして、みんな集まると祖父は、従業員、家族一人一人にお年玉を渡すのです。この日ばかりは、祖父の家は無礼講で、みんな飲み明かしていました。 年中行事・餅つきお正月前になると臼と杵を出し、一度洗って、一日干した後、一回に3升(約5k)のもち米を10回搗くのです。わたしは、餅つきの日が、楽しみで楽しみで仕方がありませんでした。その頃、マキを燃やし、大きな釜でもち米の炊く香りがあたり一面にし、つかれた餅は、すぐ、お正月用の鏡餅を作り、その後、四角の餅を作るのに木の箱に平べったく伸ばされ、その数、50枚~100枚と言っても、想像出来ないでしょう。一家族で、昔でも、2,3枚しか作らなかったと思いますが、わたしの家は、30人も、居たので普通、想像できない位の餅つきをしていました。近所でも、有名で餅つきの時、見物に来る人達が絶えませんでした。 http://tonosan3.hp.infoseek.co.jp/のコラム 参昭和34年、水泳で日本代表選手(田中聡子)が、300m背泳ぎで2.57 400m自由型で4.16と言う世界新記録を出し、第一回レコード大賞が始まった年、母は、20歳でした。そして、美智子様と皇太子(現・平成天皇)が結婚し、現・皇太子成人殿下が誕生し、何かと巷で賑わっていたそんな時、わたしが、生まれました。大人ばかりだった家へ光を指すように、初めて内孫が誕生した事を皆とても、喜びました。しかし、その次の年の昭和35年10月、父の一番慕っていた一番上の姉「いき子」が、35歳の若さで白血病に冒され、ふたりの子供と夫を残し亡くなりました。父の一番上の姉は、わたしが生まれた時、良くわたしを抱いてくれたそうです。 その「いき子」伯母さまにわたしは、一番似ているそうです。わたしは、大人の中に生まれ、子供の頃、人形のように可愛かったそうです。その為、写真好きだった父が撮ったわたしの写真は、無くなっている写真が多いそうで、子供の頃の写真と言うのはあまりないそうです。 《つづく》明日は、少し自分の事を書こう
2004年03月27日
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紫 9章今日は、エピソードから話そう ベッドのエピソード美空ひばりが来た時、休憩する時の為にベッドを購入したそうです。それを 父は、自分のベッドとして大切に使っていました。わたしが、中学に入った時、父は、とても大事にしていたそのベッドを入学祝いにと貰いました。わたしも父の臭いのするそのベッドが好きでとても大切にしていました。中学3年生までの3年間、わたしはそのベッドを使用していましたが、15年間使用していたベッドは、スプリングがダメになってしまい新しいベッドに買い換えた後、母に教えられ知った事ですが、ベッドに何かいたずら書きがしてあると思っていましたが、まさかそれが、美空ひばりさんのサインだったとは知りませんでした。まして、それが、美空ひばりさんが、家に来た時休憩の為使用したベッドだったとも、そんなすごいものとは露知らず、わたしは、ただ、父の香りのするベッドで寝起きをするのが嬉しかったのです。父と母の出会った思い出がたくさん詰まってるベットだったとは、もう、ありませんが、あのベットを処分する時、父はどんな思いだったのでしょう。父にとって、家宝とも言えるモノでしたのにどんなに辛い思いをした事でしょう。父は、たまに『今あのベッドがあったなら・・・』とつぶやく事があります。まさか、あの頃、美空ひばりと言う人物が、こんな偉大な人になるとは、思っても居なかったそうです。今、そのベッドがあったなら大変だったのでは無いでしょうか。父と母の出会った時の思い出の品があったなら父も寂しい思いをせずに居たかもしれません。美空ひばりさんが袋田の滝に泊まって「さしみ騒動」を起こしたエピソードがあります。美空ひばりさんが袋田の滝温泉で「刺身が食べたい」と言いったそうです。でも、袋田は山なので刺身と言ったなら「刺身こんにゃく」しかありませんでした。それを出したなら「わたしの食べたいのは本当の刺身」と言い、町まで本当の刺身を買いに行かせたそうです。このエピソードは、もしかしたなら、その頃ではないでしょうか?祖父は、母と義母がいとこ同士だったことも有ってか、母が嫁いでから、今度は、母の別のいとこを父の弟(息子)と結婚させました。母の遠い親戚をお手伝いに雇い、後妻の親戚の子供達を映画館で働くようにと福島から呼び寄せて、映画館の仕事を手伝わせました。祖父は、母達の親族を集め、一つ屋根の下で共に暮らしました。祖父は、早くに栃木の家を出、家族を捨てる様に日立に来て、自分の両親や兄弟の血縁者を失いひとりになって感じた事とは、「家族の団結」だったのでしょうか。ですから、親族を思う気持ちが人一倍強いかったに違い有りません。自分が、20歳も違う女性と一緒になり、老後を迎えた時、やはり、歳の差で考え方も違って行くのが解っていって、寂しかったと思います。だからこそ血のつながりを大切にし、傍に親族を置きたかったのかも知れません。早くに家を出、好きなことをしてきた祖父でしたが、寂しさと言うモノは、いつも抱いていました。その寂しさを拭う事と親族を大切にしたい気持ちというのが、活動写真館をやる事だったのかもしれません。映画館を成功させる事で、バラバラだった親族の絆を深めさせたかったのでしょう。昭和34年現・天皇陛下が、結婚する年です、巷では、皇太子明仁親王殿下と正田美智子様 今の天皇陛下と皇后陛下が結婚すると騒いでいる最中、同じ年の1月11日父と母は結婚しました。この年は、日立の平和通りが出来た年で、今では毎年、桜の季節になるとNHKでも、撮影に繰るくらいの桜が日立にあります。同年その桜が植えられた年でもありました。その結婚式の事を母は、生前、わたしに語ってくれました。これは、わたしの心の中で、今でもエピソードとして残っています。 父と母の結婚のエピソード祖父のキップの良さを買われて興行師と出逢った事は、前にも書いたと思います。その為、父方の参列者は黒塗りの車に乗った人たちばかりでした。父と母の結婚式の当日、その黒塗りの車が、日立駅前の旅館前に並んだそうです。母方の親族は、網元をやっている生真面目な親族ばかりだったのでさぞ驚いたのでは無いでしょうか。新婚旅行のエピソード エピソード 1昭和34年、父と母の新婚旅行は奈良でした。その時、母は二十歳でした。奈良に行くのに電車が、小田原で、車両切り替えがあり止まった時の事だそうです。母は、お土産を買おうと電車を降りたなら、父の乗っていた電車が動き始まってその場から居なくなってしまいました。その時、母は一人になってしまい心細くって泣きじゃくってしまったそうです。ただの車両切り替えで一時父の乗っていた車両が動いただけなのに戻ってきた父に母は抱きつき泣きべそをかいたというのです、父はきっと、そんな母の姿を見て、あきれるほどの愛しさを抱いたのでは無いでしょうか。 エピソード 2結婚式の時からおしりに異常を感じていた母が、向かった先は奈良でした。観光に入っているのが奈良公園でした。そこで父と母は鹿に餌を上げて居たそうです。もう、おわかりかと思いますが、その鹿に母は結婚式の時から異常を感じていたおしりを角で刺されてしまったのです。旅館に帰った時、新婚だと言うのに母は、自分のおしりを父に差し出し、見てもらったなら おできが出来ていたので、父に薬をつけてもらったそうです。 エピソード 3昭和34年の新婚旅行の服と言ったなら、とてもツバの広い帽子をかぶり、レースの入ったドレスを着、そこにハイヒールと云うファッションが、十八番でした。電車などに乗るとそんなカップルがたくさん乗っていて、あのカップルは新婚だとすぐ解ったような頃がありました。母も、新婚旅行に帽子をかぶって、すてきなドレスを着、馴れないハイヒールを履いて、新婚旅行に行きました。まだ、履き慣れない靴を履き、奈良で歩きすぎたのか、足にマメが出来てしまいました。靴屋に入りサンダルをと見たなら、男物しかなくて、その新婚旅行用の帽子に服、そこに男物のサンダル、新婚旅行なのでそれなりの旅館に泊まったそうですが 旅館を入ったならその旅館の人たちが「いらっしゃいませ!」と頭を下げたと思ったなら、その瞬間、頭がビクともしなかったそうです。旅館の人も驚きすぎて笑いをこらえるのに大変だったのでは無いでしょうか。母は生前、わたしの友人に恥ずかしがる事をせず、こんな話を自慢下に話していました。母は、そんな自分を愛してくれた父を誇りに思って、自慢話の様にしてたのでしょう。 新婚旅行を終え、帰ってきたのもつかの間 現実の結婚生活は、甘いものでは有りませんでした。当時、長男である父は、従業員10人、お手伝いさん3人、そして、祖父母と実弟と義理の弟、お姑さんのお姉さんの18人が、ひとつ屋根の下で暮らしていました。今では、誰も想像の付かない処へ嫁入りをしたのです。 普通ならふたりで甘い生活を送れたでしょうが、嫁いだ先が映画館を経営しているでは、甘い生活など考えられません。従業員やお手伝いさん達のトラブル、お姑さん達の世話、父は、7人兄弟で皆 結婚はしていましたが、お正月になると各家族が勢ぞろいするのです。 これだけ人が居たなら、何も無いのがおかしいです。母は、新顔と言う事もあり、お手伝いさんに嫌がらせをされ、いとこである義母に善いように使われ、色んな事を耐え抜き20年間、家庭、従業員、お手伝いさんの顔色を伺いながら生活してきました。 《つづく》
2004年03月26日
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紫 8章昭和30年11月8日、30年間、日陰で6人の子供を一生懸命育て、苦労をし続けた正妻「かん」は、52歳と言う短い一生を終えました。その後、異常事態が起きてしまったのです。なんと自分達の母親の葬式に 妾の女性が出ると言う今では考えられない異例な事態が、子供達は、早くに亡くなってしまった母の事を悔しがり悲しみました。でも、その一方で正妻の葬式に出た妾への驚きと憎しみが交差し、祖父を責め 自分たちには、どうする事も出来ない悔しさで一杯だったと思います。昭和31年、父が22歳の時、正妻の一年忌が終ってすぐ、その妾である女性は、正妻の後釜に入り子供達の継母になりました。祖父とは、20歳も年の差がある女性でした。母「かん」が亡くなって子ども達はまだ、亡くなった悲しみとショックから立ち直れないでいた時だったのにもかかわらず、父「源一郎」が妾と結婚、子ども達は驚き、自分達から父親を奪った女性への憎しみと母親を亡くした悲しみと、どうして良いか解らない空しさと悔しさ、口には出せない思いが交差したと思います。母親の葬儀にお妾さんが出、今度は、その女性が自分達の母親になる訳ですから、その継母になる女性が、興行師を父親に紹介してくれ、そのお陰で生活できた事など、子ども達は、知らずに離れて暮らしていた子供達は憎しみ以外、考えつく事など出来なかったのでは無いでしょうか。でも、その継母が居なかったなら 子供達はどうなっていたでしょう?「源一郎」は、女遊びをしていた人でした。きっと女子供達はあの時代(昭和初期)です。売られていてもおかしくなかったのでは無いのでしょうか。その為か、祖父は、子供達に三味線や踊りの習い事をさせたそうです。(その頃の習い事と言うとお琴や書道そういうものしかありませんでした。)それにわたしが、多くの病院を回れたのも義祖母が、祖父に興行師を紹介してくれ、祖父が、映画館を営んでくれたおかげだとも思っています。祖父が、再婚した年の昭和31年1月「源一郎」の母「イナ」は自分の息子が子供達と住むようになった事を知り安心したかのように77歳で眠りにつきましました。その8ヵ月後、後を追うように83歳の源一郎の父「留吉」も他界し、7人も居たきょうだいも戦争などで亡くし、残されたきょうだいは、栃木から追いかけてきた弟「定治」ひとりになってしまったのです。ひいおばあちゃんのエピソード昭和30年のある日、駆け落ちし日立に来、成功をした祖父に栃木から母危篤の知らせが来ました。7人兄弟の長男だった祖父は、父と急いで、栃木の母親「イナ」の所へ行き、「母ちゃん死ぬな」と、言いながら3万円を持って行ったそうです。その頃の3万円と言ったなら、映画が55円で見られた時代ですから今なら、約100万円位のお金だったのです。そのお金を見たわたしのひいおばあちゃんは、とても驚き、危篤状態を脱し、その後、1年間長生きたそうです。お金の力というのはすごいものです。その源一郎の両親が亡くなった年の昭和31年、白黒テレビが家庭で普及し始めた頃の事です。市内で街頭テレビが設置され、まだ、家庭などでは、高価すぎてテレビの買えない時代に 市内で一番、最初にテレビを買い、わたしの家は、近所の人たちが並んでテレビを見に来ていたそうです。 わたしが、幼稚園に上がる(昭和40年)頃にもまだ、近所の人たちがTVを見に来ていた事がありました。何人かが正座しテレビを見て、拍手をしたりしていたのを覚えています。 祖父は、良く役者を映画館に呼びました。昭和33年、父が24歳の時、美空ひばりが映画館に来ました。前にも書きましたが、美空ひばりさんは、昭和23年、祖父が映画館を再建したその年デビューしました。その10年後の事です。わたしの父と母は、その時出逢ったのです。福島県江名、母は、妹ひとりと弟4人の6人兄弟の長女でした。本当は7人兄弟で、母の兄が居ましたが、昭和15年戦争が始まった時、2歳だった兄・善一は、その頃思うように栄養が取れず体が弱りこの世を去ってしまっているのです。母は、江名港では知らない人は居ない位、名の知れた網元の家で育ちました。が、母親が脳卒中で倒れ、学生の頃から幼い兄弟をおぶりながら家事一切を手がけていました。エピソード ロカビリー時代 昭和31年、母は、小名浜の家政女学校に行っていました。 その頃、日本でロカビリーの全盛期で母は、家政女学校に行っている事もあり、ピンクのレースでワンピースを作りロカビリーの追っかけも少しかじったそうです。 ※ロカビリーは、1954年にサン・レコーズ・スタジオで、エルビス・プレスリーやスコティー・ムーア、ビル・ブラックが「That's All Right Mama」をレコーディングした時に誕生し、その音楽はカントリー・ウエスタンとR&Bの衝突によって確立された。どこまでも「白人的」で、「南部的」なロカビリーの特徴は、しゃっくりするようなヴォーカルと高速のギターだ。なかでも独創的なアーティストとして挙げられるのはサン時代のプレスリーやカール・パーキンス、ジョニー・バーネットのロックンロール・トリオなどである。※昭和30年日本でも、ロカビリーが流行りだし、平尾昌明 尾藤いさお 山下敬一郎ミッキーカーチス などのメンバーで日本を一斉風靡しました。昭和32年、ある日、「ねえセイちゃん映画見に行かない?」母は、家政女学校の友人を誘って『いわき』の映画館に「慕情」と言う映画を見に行きました。映画を見た帰り、『泉』と言う駅で降りないと江名には帰れないのに『泉』で下りるのを忘れ映画の話に夢中になり、1時間喋り続けてしまい、気が付いたなら『日立』と言う駅迄来てしまったのです。帰るのにお金のない母は、母親の姉の娘(いとこ)が、この「日立の映画館に後妻として嫁いだ」と言う事を母親に聞いていたのを思い出しました。そして、その頃、日立に映画館が六軒あったので、どこの映画館にいとこが居るのかわからず、駅前のそば屋に行き、尋ねたところ、後妻の入った映画館が相賀館である事を教えてもらい、そこを尋ね、帰りの汽車賃を借りに行きました。そして江名に帰えろうとしたなら、いとこに『今度、美空ひばりが日立に来るので手伝いにおいで』と、言われ、手伝いに行ったのが、父と母の出会いでした。父は、「なんかチョコマカチョコマカ行ったり来たりしている 見慣れない子が居るなぁ。」と思っていたそうです。母は、映画館の手伝いを終えた時、いとこに「ここに丁度、年頃もお前と似合いそうな息子が居るので付き合ってみないか?」と言われました。きっと、いとこも、誰も知らない所にひとり、後妻に入ったので心細かったのでしょう。その後、父と母は付き合い始め、昭和33年、テレビ喫茶と言うのが出来始め、ふたりは良く、小名浜のテレビ喫茶に行ったそうです。そして、一年後の昭和34年、母が女学校を卒業すると同時に結婚する事になりました。でも、母方の親は反対をしました。それはそうです、相手の男性には不満はありませんが、赤線から身請けしてもらい後妻に入ったのが、母の「いとこ」と言う事は自分達の姪っ子が娘の母親になる訳です。それにその頃、いくら世間で認めたと言っても相手の家は、映画館をやっています。その頃、興行師や映画館などにはやくざが絡んでいると言われていた時代でした。それにみんな驚く大家族なので、娘が苦労すると言う事は目に見えていました。でも、「源一郎」は、結婚を反対していた母の両親を説得し、父と母は、結婚したのです。祖父は、美空ひばりが日立に来た時、手伝いにきた母を一目見て気に入り、「この子を息子の嫁に」と思ったのでしょう。父と母が結婚後、祖父は、母を本当の娘のように可愛がりました。何か有ると「チー子、チー子」と親族の中でも一番頼りにしていました。※その為か、祖父と母の命日は月こそ違いますが、同じ25日なのです。
2004年03月25日
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紫 7章戦争が終わり、映画館が起動に乗り始め、子供達も大きくなり「源一郎」も肩の荷を下ろし始めた。自分に一番なついてくれた「栄二郎」も大きくなり、自分のところへ来なくなり、子供達が巣立っていく・・・「源一郎」にも寂しさが・・・そんな時・・・昭和22年、相賀館が再建されてすぐ女学校を卒業した三女「千代子」は、姉「イキ子」に呼ばれ、家を出、神奈川の美容師学校へ行きました。その頃の祖父は、もう、チンドン屋などとは誰にも馬鹿にされませんでした。皆、そのチンドン屋の祖父の後を追いかけて来て喜んでいたのです。笑顔が戻って来てくれたのです。その時、祖父は、とても嬉しく今までとは、反対に自分がチンドン屋をやる事にプライドを持っていました。自分がバカになる事で些細ですが小さな幸せを多くの人たちに持たす事が出来たと自分の中で大きな喜びを感じてたのではないでしょうか。弟達の命を奪った戦争が終わった事を心から喜んでいたと思います。その裏側で戦争で亡くなった兄弟を惜しみながら、暗かった戦争の終わりその喜びをみんなに分け与えていた様でもありました。『みんな良く戦争を乗り切った』と喜びを隠せなかったのでは無いでしょうか。祖父「源一郎」は、戦前、戦中、戦後と人々に『努力と根性、明るさと思いやり』をそして『誰でも、やれば出来る』と言う事を教えたかったのではないでしょうか。多くの人に光を灯した人でした。戦前、小学校は、8年生までありましたが、戦後、昭和22年六・三制教育が実施され小学校は、6年生までになり、その後の3年間は、新制中学校となりました。祖父は、戦前小学校へ子供達を通わせ、その後、祖父は、父の通っていた新制中学校となった現・日立市立助川中学校に子供達がお世話になったと感謝の意を表し学校のブラスバンド部に全種類の楽器を寄付したのです。離れて暮らさせてしまった子供たちに苦労をかけたその罪滅ぼしでもあったのだと思います。また、4人の娘の通った家政女学校(裁縫女学校)【現在・明秀学院】にも、子供達がお世話になったからと国旗掲楊塔を寄付しました。祖父は、苦労をかけた子ども達への愛情をそんな形でしか表せることの出来ない人だったのではないでしょうか。今でも、その国旗掲楊塔は、明秀学院に栄え立っています。昭和24年この頃になると子供の頃遊びに来ていた「栄二郎」は15歳になりお妾さんと父親「源一郎」の所には行かなくなっていました。でも、今度は「イキ子」の子 初孫の「栄作」が来るようになり、今度は、孫 祖父はとても喜び自分の子より「栄作」を可愛がったのです。まだ3歳で何も知らない「栄作」は、お妾さんにあめ玉を貰っては喜び、学校に行くようになり反抗期を迎え家出をした時も祖父を頼って行った事もありました。祖父はそんな自分を頼ってきた孫に自分の子供には表せなかった愛情を注いでいました。昭和23年頃、邦画では、「王将」が上映され、洋画では、「ターザン」や「美女と野獣」が上映された頃、祖父の始めた邦画専門の映画館「相賀館」と洋画専門の映画館「セントラル」2館とで、約30人の従業員が居ました。わたしが、覚えているのは(昭和40~1年頃)狭い女性従業員部屋に三段ベッドがに6つほどあり、部屋に入るとベッドでひしめき合っていたのを覚えています。また、男性従業員部屋には、木のベッドが10個もありました。また、お手伝いさんが、4人ほどいました。が、前は、もっと従業員部屋が大きく、ベッドのない時代だったので、その従業員部屋は、人でひしめき逢って夜になると芋洗いのように皆重なり合って寝ていたのではないでしょうか。ですから、もちろんお風呂場も大きく一度に大人7人は入る事の出来る大きなお風呂でした。(一度に7人入れましたがイモ洗い状態でした。)わたしは、その広いお風呂の一番湯に祖父と入るのが唯一の楽しみでもありました。 わたしが子供の頃、 学校から帰ってくると、お手伝いのおばあさんが、残ったご飯で焼きおにぎりを作ってくれました。わたしは、その焼きおにぎりをおやつ代わりに ほお張るのが、唯一の楽しみだったのを覚えています。また、お勝手(キッチン)の地下に2・3畳ほどの倉庫が有り、醤油やお味噌などの調味料などが置いてあり、木の階段を上り下りし良く、倉庫に醤油やお味噌などを持って来る人を見かけました。あれは、業者の人だったのですね。子供だったわたしも、興味本位で暗い倉庫に、恐る恐る階段を降り、倉庫の中に降りていった覚えがあります。話は、ずれましたが、昭和25年、朝鮮戦争が始まった年、挑戦動乱により、特需景気が広がっていたそんな中、次女「たけ子」は、映画館に映写技師として働いていた男性と結婚し、家を出て行きました。※映写技師とは、映画のフィルムを回す仕事の事です。昭和のまだ、車が今の時代のようには普及していない頃、市内で車が数台しか走っていない時代、「栄二郎」は、整備工場を商いたいくらい車が好きでした。また昭和になり大八車からリヤカーになりましたが、重い看板を乗せリヤカーを引くのは大変だろうと祖父が買い与えたのです。ダットサンのトラックとダットサンの箱型スカイラインダイハツの3輪自動車ミゼットがありました。※ダットサンとは、日本の車会社ブランド第一号で、1926年に日本に着、1984年にダットサンから日産自動車に名前を変えました。日本が平和を取り戻し始めた頃の昭和27年、この年、テレビが開局され、NHKで「君の名は」が放送開始され、その時間に成ると人々は黒だかりになって街頭テレビで「君の名は」を見ていました。その年、家を出、川崎で美容師の勉強をしていた三女「千代子」は、「イキ子」の紹介された男性と結婚し、川崎で美容室を始めました。同年、町で、「リンゴ追分」の歌が流れ、洋画では、「第三の男」「殺人狂時代」などが上映された年、長男である父・壮直は、高校を卒業し、大学に行きたかったそうですが、祖父に「家業を継いで欲しい。」と言われ、大学は、受かったのですが断念し、東京へ見習いに行くことになりました。 昭和27年父の修行エピソード 父は、映画の見習で東京に居ました。父の見習い生活で一緒に住んでいた人とは、大変な人だったようです。今だから話する事が出来ますが、3畳一間の部屋に ふたりで居たそうです。相手の人は、山口組の人で、夜、その人が部屋に帰って来、「今日は、何処に言ってきたのですか。」と聞くと「今日は、東京湾に独り沈めてきた。」と、何とも凄まじい人と寝起きを共にしていたのです。昭和28年、洋画で「シェ-ン」「禁じられた遊び」が公開され、前の年に始まった「君の名は」が巻き起こした「真知子巻き」ブームが町中吹荒れていた、そんな中、四女「正子」は、次女と同じく近所に住んでいた男性が、映画館に映写技師として働いていて、次女は、その男性と結婚しました。男性は、とても、真面目で、技師を辞めた後、公務員になり、家族で東京に行きました。※『真知子巻き』とは、マフラーを頭からかぶり、襟元は普通にマフラーを巻くといった巻き方です。栄二郎は、学校卒業後、整備会社に勤めました。その年、お妾さんに男の子が生まれたのです。当時、お妾さんは37歳でした。祖父は、57歳を迎え、祖父の孫「栄作」は7歳でした。ですからその孫から見ると自分より年下の叔父が出来たのです。なにも知らない「栄作」と、叔父「省吾」は友達の様な兄弟のような関係で育ったのです。その後、そのお妾さんがわたしの母の従姉妹だったという事は、後でお話しましょう。ですから、ゆくゆく義祖母になったそのお妾さんは、わたしの伯母さんで、そのお妾さんに出来た子供は、わたしにとって鳩子であり叔父にも当たる訳です。叔父は、私とは、6才しか離れていませんでした。その叔父が、わたしの名付け親なのです。名前のくじを引いたのが、彼だったのです。※始めに書きましたが、わたしの名前は、くじ引きで決められました。
2004年03月24日
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紫 6章昭和21年子供を産んだイキ子は、「源一郎」に任されていた映画館が、戦争でなくなってしまったので子供の為に手に職を付けなければと生まれた子供を連れ合いの男性にまかせ、神奈川の美容室に美容師の勉強に行きました。「源一郎」は、敗戦し、映画館も焼けてしまい、敗戦した日本と資力もなくなって呆然としてしまい半分諦めてヤケクソになっていました。その頃の建物と言ったなら焼け野原で新しい木材などは無く、人家などは、焼け焦げた木炭のような木材で家を建てていたのです。そんな時、「源一郎」のところに市や県当局から「戦後の娯楽という物が無いので、もう一度映画館を建てて欲しい。戦後、暗くなってしまったこの日立にもう一度娯楽施設を再建するよう」にと要請があったのです。「源一郎」は、迷いました。でも祖父は暗くなった人々を黙って見ていられず最初映画館を始めた頃と言うのは、資力が無かったので大きい映画館を建てる事は出来ませんでした。「相賀館が再開されると、娯楽に飢えていた市民がどっとつめかけた。客席の腰掛は腰の痛くなる代物で、四人掛けだが、詰めれば五人ぐらいは坐れる木製の長椅子である。椅子なんか上等でなくていいじゃないか、戦争は終ったのだ。空襲のサイレンにおびえる事も無く、ゆっくり映画を見られるのだから―テレビのなかった時代、唯一の娯楽として大人も子供も映画を楽しみにしていた。やっとささやかな庶民の幸せを手にしたわけだ。」(『日立街史』 P71)「源一郎」は、新しく映画館を建て直したかったのですが、資力が有りません。「源一郎」が、思い悩んでいると、日立で名の知れている鈴昇組の頭領・鈴木昇氏に「月賦払いでやろう」と言われたのです。祖父は、興行師の意地を見せるように、戦争が終わった一年後の昭和21年に月払いで二階造りの建坪二百余坪の劇場を建てたのです。昭和22年、日立の桐木田に桜の木が植えた年、もう一度、新道(現・銀座通り)からちょっと路地を入った所で、映画館をはじめました。この時代、「源一郎」と言う人は何と思い切った事をしたのでしょう。鈴木昇氏に言われるまで月払いなど人の思いつきもしませんでした。それを即実行したのですからすごい行動力のあった人でした。「建物南側の正面入り口を入ると、下足番が居り、下駄を預けて下足札を受け取って上がると、舞台正面が平席になって居り、左手は花道で、その向こうが桟敷席、右手も同じ桟敷席になっていた。二階は右手階段を上がって左、右正面と階段席であった。」(『旭町の今昔』から)「戦後、日立で新材で建てられた建物の最大のものといえば、昭和二十二年に再建された映画劇場『相賀館』である。全市の七割が無惨な焼け野原となり、荒涼たる焼け跡には、拾い集めた木材と焼けトタンにコールタールを染ったトタンかこいの黒いバラック、粗末な板切れを打ち付けた掘建小屋が多かった」 (『日立街史』 娯楽の殿堂から)祖父は、その頃の日立が暗くなってしまったのを見ていられなかったのだと思います。「暗くなってしまった人々を明るくしたい、みんなに笑顔を」ただそれだけの為、「やってみなければわからない」と心機一転し、もう一度、「多くの人に明るさをそして笑顔を取り戻して欲しい。」大きな賭けでしたが、ただそれだけの思いが「源一郎」を動かしたのです。皆心に余裕が持てず暗くなっているそんな時だったからこそ、祭り好きの陽気な祖父の出番でもあったのだろう・・・その相賀館の裏に吉田正の生家がありました。祖父と吉田正は顔見知りで、後、作曲家の道を進めたのは、吉田正が学生の頃、良く顔を出していた旅館「海洋館」の女将だったそうです。その頃、戦争を免れた「京樂館」は、芝居小屋を再開し、戦後、映画全盛の一時期で、第一映画劇場・日立東宝映画劇場・日立キネマが出来、「源一郎」は、もう、ひとつ、商店街の協力を受け、洋画専門の映画館を建てました。その後、松竹映画劇場が出来、相賀館を含む六つの映画館が競い合いました。そして、その1年後の昭和23年相賀館が起動に乗り始めた頃、福島で生まれた「千恵子」と同い年だった9歳の美空ひばりが、横浜国際劇場で「リンゴの歌」などを歌い、天才少女歌手と評価を受け、全国デビューしたのです。その頃、子供たちは、「源一郎」の意地も実り普通の家庭では通うことが出来なかった女学校へ通える様になりましたが、映画館を再館したばかりだったので、そんなに生活費は貰えず、子供たちは、お弁当は、日の丸弁当(白いご飯の真中に梅干があるだけ)で、おかずなど無く、えんぴつは、親指の長さになるまで使っていました。バナナは、病気にならないと食べられず、とんかつ等と言ったなら飛び上がって喜んだそうです。とにかく食べ物がなく、学校の帰り道、人目をヌスミ、人の畑の作物(大根)を取って生のままかじりながら帰って来ていました。今は、日立の駅前がにぎやかになりましたが、戦後は、駅から離れた所に新町・上町・中町・下町と商店街が一斉に並ぶ繁華街(現・銀座道り)があり、とても、賑わっていました。また、戦前、今鹿島神社があるところに鹿島通りと言う町並みがあり、今は、町並みがありませんが、商店街が軒並みになって賑わっていて、その通りの一本違う道に(相賀館の真裏)「相賀通り」と言う繁華街があり、そこには、ダンスホールなどがあり、多くの人たちが群がったそうです。その一角に正妻「かん」と子供たちは住んでいました。
2004年03月23日
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紫 5章昭和20年、終戦の年、日立は、三つの襲撃を受けました。6月10日、一トン爆弾の被害を浴びたのです。午前八時五一分頃「関東東部を旋回中のB29役100機の最後尾が東京を通過し、鹿島灘および九十九里浜より遁走中」という報道がされました。でも、それは遁走中ではありませんでした。やがて九時少し前のは、大甕海岸から海岸沿いに北上しB29二九機が、日立上空一万メートルに現れ、海岸工場めがけて多数の一トン爆弾を投下したのです。この攻撃は、二,三分でした。その十分後、第二波B29二十九機が来襲、更に、その六分後には第三B29三十三機、そしてその十八分後の九時半に第四波B29三十四機が来襲、約三十分余の間に五百八発の一トン爆弾を投下し飛び去って行きました。一トン爆弾は、工場を襲撃し、工場の90パーセントが破壊され、被害者数は、886人の死者、210人の重傷者、506人の軽傷者、29人の行方不明者を出したのです。家屋被害は、破壊家屋は、全壊1486世帯、半壊866世帯に及び、この時は、まだ、相賀館の建家は、半焼で免れました。その後、7月17日鑑砲射撃を受ける。7月15日、アメリカ機動部隊は釜石を鑑砲射撃し、翌16日は室蘭を砲撃しました。そして、7月17日午後11時14分には、日立地区に対する鑑砲射撃が開始されたのです。この作戦に参加したの隻は、アメリカ第三艦隊第34、8,2の任務部隊で、戦艦五隻(ウィルコンシン、ミズーリ、アイオワ、ノースカロライナ、アラパマ)、軽巡洋艦二隻、駆逐鑑九隻計一六隻でした。砲撃は二十数分で終わり、11時58分には勝田地区への砲撃が開始され、12時11分には、全砲撃が完了したのです。日立地区でこの砲撃のの目標となったのは、やはり、工場でした。四カ所の工場に870発の16インチ砲弾が撃ち込まれたのです。また、同時にキングジョージ五世など三隻の戦艦からなるイギリス艦隊は、アメリカ機動部隊の北方六マイルの地点で作戦を開始していました。目標は、日製高萩工場でした。7月17日は、朝から小雨が降っていた。この中を鑑載機グラマン(F6F)機の一隊が浜の宮から低空で侵入、機銃掃射をしながら日立中学、山手工場、大雄院を経て本山方面へ飛び去り、朝から不穏な一日でした。この砲撃で、被害に有ったのは、破壊家屋の被害だけで済んだが、全壊が、637世帯、半壊が、1059世帯にも及びました。また、これによる被害者数は、死者、317名 重傷者、123名 軽傷者、253名 行方不明者、9名を出したのです。7月19日の空襲(焼夷弾)マリアナ基地を発進した第七三飛行団のB29一二七機は、硫黄島を経て九十九里浜から関東に侵入、霞ヶ浦を北上して目標の日立市街地上空に達しました。日立上空に進入した先導の一二機は、午後11時20分から36分にかけて爆弾を投下、続いて本隊の一一五機が、11時25分から翌日の0時53分まで1時間28分に亘って各種の焼夷弾約13900発を投下したのです。艦砲射撃があった、その三日後、今度は、日立で一番被害の大きかった焼夷弾が落とされたのです。6月に一トン爆弾、3日前に艦砲射撃とあったが、どちらの時も、民家の焼失は免れました。でも、焼夷弾攻撃によって日立市街はほとんど全滅状態となり、住民の多くは、海岸に避難しました。焼け残った住宅は数えるほどでした。焼失家屋は、10478世帯が、全焼し、 214世帯が、半焼するという被害を受けたのです。被害者は、少なかったが、それでも死者63名、重傷者17名、軽傷者84名居ました。その三つの攻撃で出した死者は、1266名でした。この焼夷弾が落とされたときには、日立は、焼け野原と化し、みんな生きる術を見失ったのです。その約一ヶ月後の昭和20年8月13日「二日後に重大な放送がある」との情報が流れました。家庭にラジオなどあったでしょうが、その頃、電線の復旧が遅れていて、毎日、停電の日々を送っていました。その頃、東暁館が焼け残っていて、そこの別館に常陽銀行が仮営業を開始していました。その常陽銀行には、一般家庭とは異なり、電源が入っていたのでラジオが聞くことができたので、15日には、工場の従業員から勤労動員達にも「あそこ(東暁館)はラジオがあるから、正午の放送を聞くように」といわれ、東暁館別館内の常陽銀行仮営業所に大勢の人たちが集まりました。昭和20年15日正午、ラジオの騒音の中から終戦を告げる天皇陛下の声が流れました。無条件降服による戦争終結。そこに集まった100人にも近い群集の間から呻き声と嘆き声が響きわたったのです。※今の天皇制があるのは、戦争で敗戦してしまった日本軍は、天皇制を反対したのですが、この戦争に賛同した、アメリカから日本を任されていた「マッカーサー」(日本全権大使)が、天皇は、日本の象徴なので無くしてはいけないといい、天皇制を残しました。戦争エピソード・いき子この空襲の時、イキ子たちは、「源一郎」に任された映画館を守るため日立にいました。二つの防空壕が合ってそのひとつに逃げ込もうとしたなら「コッチへ!」と言われ入った防空壕は助かり、いき子が入ろうとした防空壕は、爆弾を落とされ危なく命を落す処でした。「コッチへ!」と言葉をかけてくれた人に命を助けられたのです。その一言を信じ他の防空壕に逃げこんだのが紅一点だったのです。祖父の商っていた映画館(相賀館)も、一トン爆弾、艦砲射撃には何とか免れる事が出来ましたが、最後の焼夷弾で、日立は、焼け野原と化し、「イキ子」の任せられていた映画館も相賀館も焼けてしまったのです。唯一焼け残ったのは、「京樂館」だけでした。ですから、「享楽館」は今、大正15年に建てられ戦争を逃れた芝居小屋と言う事で国の文化財になっている。敗戦を迎え、昭和20年、並木路子の「りんごの唄」が流れていた頃、昭和19年から栃木に疎開していた正妻と子供たちが、日立に帰る年、「かん」の母親「みの」は、実の娘と5人の孫達の元気な姿を見、疎開してきた孫と娘達を無事、戦争時を乗り越えさせる事が出来たのとその戦争が終わりを告げた事に安心したかのように永眠しました。その後、疎開していた正妻と子供たちが日立に帰ってきましたが、また相も変わらず「源一郎」は、正妻と子供達とは、一緒に住まず、お妾さんと一緒に住むと言うまた元通りの生活が始まりました。そんな中、長谷川町子のサザエさんが大流行し、NHKで、のど自慢素人音楽会(演芸会)が放送開始され始め、戦争を終え一年、世の中が変わろうとした年の昭和21年、「イキ子」に長男が生まれ、「源一郎」に始めての孫が出来たのです。祖父にも明るい兆しが差しかかり始めました。この年、経団連・商工会議所が設立され、ソニーや本田技術研究所(現・本田技研)など会社も設立され、本田技術研究所(現・本田技研)で初めてポンポンオートバイが作られた年でもあり、日立に昭和天皇が訪れた年でもました。でも、大坂では、発疹チフスが発生し、天然痘・コレラ等の伝染病が流行し死者6880人を出した年でもあったのです。
2004年03月22日
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紫 4章離れ離れに暮らさせている子供達の為一生懸命に働いた「源一郎」4人の娘に恵まれた「源一郎」に朗報が・・・それは、大正12年以降恵まれなかった男の子の誕生だった。その後、「源一郎」達を襲ったのは、戦争と言う悲劇だった・・・昭和12年、日中戦争が勃発し、太平洋戦争が始まる2年前、町で「人生の並木路」「愛国行進曲」が流れ、日立の助川町職業紹介所が開設された年、次男「栄二郎」が誕生しました。この頃、日中戦争に出て行った兵士達の為にと千人針慰問袋作りが盛んに行われていました。女性達は、「戦争に行った兵士達の千人の命が助かるように」と、千人針に心をこめて一人一人ひとつずつ白い布に赤い糸で玉を作るのに街角に立ち街を行く女性たちにひとり一個赤い糸で玉を作って貰っていたそうなのですが、寅は強いので戦争に勝つからと言う意味もあり、寅年の女性は、自分の歳の数、玉を作ったところもありました。女学校でも学生達が千人針の玉を作るのにひとりひとつずつ赤玉を縫い中でも寅年の女学生はせっせと自分の歳の赤玉を作っていました。祖父は、正妻に子供が出来ても妾と一緒に住み正妻と子供たちとは一緒に住まなかったので、正妻が亡くなるまでの31年間、子供たちは、何にいくらかかったか(鉛筆などの金額など)生活に掛かったものと金額を紙に書きその一ヶ月間に使っただけのお金を祖父の居るお妾さんの処に貰いに行ったそうです。子供たちは、どんな思いでお妾さんのところにお金を貰いに行ったのでしょう。屈辱に耐え、「いつもお父ちゃん家にどうして居ないの?」と始めは、思っていたでしょうが、子供たちが大きくなるに連れ不信感が抱かれるようになって、それが何時しか憎しみに変わって行ったのではないでしょうか。父も子供の頃、お妾さんにお金を貰いに行った事もあったそうです。当時、子供だった父やそのきょうだいそして、正妻であるわたしの祖母「かん」は、とても、人には、想像もつかない位の屈辱的な生活していたのです。でも、そんな生活をしていても「かん」は、愚痴ひとつ漏らさず、そんな屈辱を受けた事などひとつも顔に出さないで、いつも明るく、近所付き合いを大切にし笑みを忘れる事はしませんでした。でも、歯を食い縛りながら陰で随分泣いていた事でしょう。「かん」は、31年間子供達の為に、祖父と離れて生きてきました。何が「かん」を支えたのか。それは、子供が、居たからそう言う生活も耐えられたのだと思います。「かん」の家族・・・それは子供たちだけだったのではないでしょうか。『子は宝』と言います。始め、一人暮らしだった「かん」は、子供達を守る為、また、その子ども達に支えられながら生きてこられたのだと思います。昭和12年、子供たちも育ち長女「イキ子」14歳、次女「たけ子」13歳、3女「千代子」11歳、4女「正子」9歳、長男「壮直」6歳、次男「栄二郎」3歳になりました。小さな頃から映画館を切り盛りしている父「源一郎」を見てきていたので、14歳の「イキ子」は父親「源一郎」と一緒に住めないそんな生活をしていても父の映画館を一生懸命手伝いました。「源一郎」にとって「栄二郎」は、遅くに出来た子供でしたので、何の事情もわからず育ったまだ3歳で幼かった「栄二郎」は、お妾さんのところに遊びに行っては、アメ玉を貰っては喜んでいました。行く行く自分の継母になるとは知らず『良いおばさんだ』と思っていたのでしょう。お妾さんとの間に子供が居なかった祖父は、何も知らずに遊びに来る末っ子の「栄二郎」をとても可愛がりました。そして、子供達が、学校へ通う歳になった頃、活動写真、いえ、映画は、誰も知らない人など居ないくらいになり、学校指定で映画を見に来るくらいにもなったのです。でも、昭和14年、祖父「源一郎」43歳、映画法が公布され、二つの町(日立町と助川町)が合併し、ひとつになり、日立市となった年に第二次世界大戦(太平洋戦争)が勃発しました。この頃、街には、「上海の花売り娘」の曲が流れ、その横では、「兵隊さんよありがとう」などが唄われて、街の路地では闇取引なども行われ、戦争に町も染められてしまったそんな暗い時代の幕開けでもありました。昭和10年に日本に来たパーマネントも『パーマネント追放運動』がはじまり、「パーマネントは止めましょう」等と言うキャッチフレーズが出来、女性達は、着飾る事さえ出来なくなってきてしまい、食べ物も無く、米ぬかさえも食べ物に変わってしまった時代に突入したのです。その年、昭和14年福島の江名と言う小さな漁村で、「千恵子は、産声を上げました。江名の一層大きな船を持ち、何人か人を雇っていた小さな網元の長女として産声をあげたのです。この年、日立では栄座と市民会館(松竹館が改称)と相賀館の従業員30余人が毎月5日間の休館日に館主以下総員で盤城セメント日立工場に勤労奉仕を行ってもいました。映画館では、客席の後などに警官席が設けられ、その頃の映画とは、もう子ども達は映画を見る事は許されず、学校の補導係の教師などが目を光させていました。子ども達が見れるのは、学校の引率のあるものだけだったのです。ですから、引率無しで映画を見たい子ども達は、学校の補導係や警官の目をごまかして映画をどう見るか、一種のスリルを味わっていました。この時代の映画とは、陸海軍情報部の将校や翼関係者による戦況報告会や戦争昴場の講が盛んに行われ、その講演が終わるとお目当ての映画を見る事が出来ました。「ハワイ沖海戦」やドイツの記録映画の「民族の祭典」「美の祭典」などで、ベルリンオリンピックを通してナチス・ドイツの有様を人々に見せていました。そんな時代でも、相賀館では、劇映画が多く、上原謙や佐野周二の二枚目によるメロドラマ調から藤田進の兵隊物と変わって行きましたが多くの人が求めていた物は、喜劇物で、エノケン・柳家金悟楼・古川ロッパ・エンタツ・アチャコなどによる映画が多くの人々の心を和ませませていました。その頃と言うのは、今のように市民会館などの様に講演する場所が無かった為、相賀館は、選挙の講演 演説などに使われる事もありました。また、昭和18年の映画と言うと、「海軍潜水艦西へ」「望楼の決死隊」「決戦の大空へ」などが上映されている中、相賀館では、「無法松の一生」や「姿三四郎」などが上映されていました。その年の4月、祖父の弟の「兼吉」が31歳で戦死しました。その5ヵ月後の9月もう一人の弟の「金四郎」が、26歳の若い命を戦争に焚くしたのです。この頃、日本の女子達には、軍事教練が行われ、国民唱歌運動がはじまっていました。また、燃料不足で入浴など、ろくに出来ない時代を迎え、『(1)入浴時間は30分以内(2)男女とも洗髪禁止(3)使えるお湯は1人7杯まで』と言う燃料が配給制となってしまい、多くの人達はシラミやノミに悩まされる(清潔にする事が出来なかった為ノミやシラミが身体に付き体中かゆくて仕方ない)日々を過ごしていました。今では信じられないそんな時代だったのです。 その年、中国から帰還して来た、一人の男性が良く映画を見に来ていました。祖父は、その男性を「良く戦争から無事帰って着た。」と、長女「イキ子」の結婚相手に選んだのです。祖父「源一郎」は、18歳になったばかりの長女「イキ子」達に小さな映画館を任せました。イキ子は、「やーい チンドン屋チンドン屋の娘」などと他の人に馬鹿にされながらも14歳の頃から映画館の仕事を一生懸命手伝っていたので、祖父は、そんな「イキ子」に「良く手伝ってくれた」と、結婚したお祝いに相賀館とは別の小さな映画館を任せたのです。そして、空襲が酷くなって来たので正妻と子供たちは、昭和19年から20年まで、栃木に疎開しましたが、「イキ子」は、祖父に任された映画館を守るため疎開はせず、日立に残りました。「かん」は、駆け落ちをしてから栃木に帰るのは初めての事でした。戦争中の疎開の出来事でしたが、「かん」の母親は、駆け落ちをし、ずっと会えずに居た娘と初めて会う孫達にどんなに喜び感動した事でしょう。昭和20年、映画のフィルムの配給にも影響を及ぼし、相賀館は、無期限の配給業務停止館になって兵士達の食料配給所として使われる事になったのです。 その為「源一郎」と弟「定治」達は戦争の現場には行かず、兵士達の配給に精を出していました。 《つづく》 今日は、ここまでにしておこう戦争の最中福島で生まれた「智恵子」とは?妾と住んでる「源一郎」の所には、子供達は寄り付かなかったそんな寂しい中「現一郎」の処に訪れるようになった祖父がもっとも愛した子次男の「栄二郎」そして、長女の結婚・疎開・・・明日は、戦争がピークに達する・・・
2004年03月21日
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昨日は、大正13年~昭和4年の頃までの事を書いた。お妾さんに興行師を紹介され活動写真の小屋を始めたまででした。いよいよ大正~昭和に入ります活動写真が映画と呼ばれるようになったのは、昭和7・8年の頃です 紫 3章初めは、栃木から来たヨソ者が始めた活動写真小屋で、それもその土地には、芝居小屋しかなく始めての活動写真小屋だったので、町の人々は、画面に移る人が動いてるのを見て動揺もあり、予想以上に人は入らず、「源一郎」と栃木から追いかけてきた弟「定治」は、チンドン屋をしながら客寄せをしました。祖父を知っている方の話では、「あの頃にしては、とても、カッコいい(粋の在る)チンドン屋だった。」と、語ってくれました。でも、その頃、傍では、チンドン屋などは、偏見の目で見られていました。皆さんチンドン屋を漢字でどう書くか知っている人は少ないと思うのですが、ご存知でしょうか。チンドン屋とは、『珍問屋』と書くそうです。字の如く、珍しい商売屋と書くのです。その時代でもチンドン屋は珍しい商売だったので、偏見の目で見る人たちも多かったのです。でも、祖父は、自分の子供達が「チンドン屋の子供」と馬鹿にされていた時、「いつかは、馬鹿にした人たちを見返してやる。」と言う硬い意志と『言いたい人には言わせておけ解ってくれる人は解ってくれる』と自分に言い聞かせながら、チンドン屋を恥じず、その頃、普通女学校などいけない時代でしたが、「源一郎」は、小さいながら手伝いをしていた娘達をその頃「誰でもみんなは行けないと言う女学校へ絶対行かせてやる。」と、男の意地を持ったのです。それと同時に「それが一緒に住まなかった子供たちへのせめてもの罪滅ぼし」とも思っていました。そして、戦中『暗い世の中で、娯楽を必要としている人々の為、芝居や活動写真を通して明るい世の中になってほしい。』と言う思いを募らせ、その為に人にも笑われながらもチンドン屋までやって活動写真で夢と希望を多くの人たちに分け与えたいと、無我夢中になり働いたのです。自分がピエロのように笑われる事で、『笑われたっていいじゃないか戦争で暗くなった多くの人が笑顔を取り戻してくれるなら』祖父は、そんな思いで一杯だったのではないでしょうか。自分の家族を犠牲にしてまで『多くの人たちに笑顔を』と必死に働いたのです。芝居小屋を始めた頃の事です。看板を大八車に載せ、重い思いをしながら大八車を引いていた時、その大八車を押してくれた人など居たなら、必ず、みかんやりんごなどを1個でもお礼だと言い、渡さなければ気がすまない、そんな祖父でした。しかし、ある日の事、お礼をしたくても、お金が無くてお礼が出来ない事がありました。その頃、唯一、日立で名の知れた卸問屋がありました。日立でお金を貸して貰えそうな所と言ったならそこしか無かったのです。祖父は、そこでお金を借りてまで、手伝ってくれた人に御礼をしたのです。とても、義理人情に篤く感謝の気持ちを忘れない人でした。 昭和6年、活動写真が映画と呼ばれ始め、「月形龍之助」が人気を浴び、のらくろ二等卒(田河水泡)の漫画がブームになり始めた頃、素人演芸大会もピークを迎えていました。そんな中、四女「正子」が誕生しました。その年、その女子供たちが行くことになる日立私立助川高等家政女学校(現・明秀学園)が開校した年でもありました。また、満州事変勃発した年でもあり、東北、北海道が、地方冷害により、大凶作になり、娘の身売りが急増していた年でもありました。活動写真が、映画と呼ばれるようになったのは、その次の年の「満州行進曲」や「東京音頭」また、ヨーヨーが大流行したトーキー時代と呼ばれた昭和7,8年頃です。 ※「トーキー」とは、今まで無声映画でしたが、音声映画になった時の事を「トーキー」と言います。1952年に放映されたジーン・ケリーの『雨にうたえば』で紹介していますレコードに俳優の声を吹き込み映画の女優俳優達の口に合わせてその女優俳優達の声が始めて世間に知られはじめ、今まで声など聞こえないから善いと思ってた女優俳優達にとって大変な事で、この頃、声優学校がとても流行しました。声を出すのが苦手な女優俳優達の声はその本人以外の人の声で吹き替えされた事もあり、その為、声と口の動きとがずれると言う事も良く有りました。昭和9年、東京に地下鉄が通り始めた年、大正12年に駆け落ちをして日立にきた時、ふたりの間に初めて出来た「政夫」を亡くしてからというもの長い間女の子にしか恵まれませんでしたが、二人の間に念願の男の子が誕生したのです。大正時代、栃木から逃げる様にして日立へ着てしまったので、本当は、長男だった「政夫」の戸籍届を出す事が出来なかった為、12年ぶりに生れてきた男の子を長男として、戸籍に入れました。この年、漫才ブームで、三代目三遊亭金馬が人気を集め、吉本興業で特選漫才大会を模様した年でもありました。男の子が出来るのを待ち焦がれていた「源一郎」は、息子の名前をどういう名前にして良いか解らずお寺のお坊さんにつけて貰い「壮直」と書き、「ソウチ」と名付けました。わたしの父の誕生です。この年、南満州鉄道に特急アジア号運転が開始し、日中戦争が勃発し、日立に常陸セメント(株)の工事が完成した年でもありました。上4人の姉は、初めての男子の誕生に皆喜び、とても可愛がりました。この年洋画が見られるようになり、チャップリンの「街の灯」「にんじん」などが上映されていました。その次の年の昭和10年、もんぺ姿の「もんぺ」(現代の土木作業ズボンはもんぺをデザインしてあります)が出来た年、大工を営んでいた正妻「かん」の父の「甚蔵」が、駆け落ちをして行ってしまった娘達の事を案じながら、栃木の地で静かに永遠の眠りにつきました。その頃、無声映画からトーキー時代に入り、映画館では、「国定忠治」「雪之丞変化」などが上映され、今まで無声映画しか見られなかった人々は、誰が喋ってるのか?映画の画面から声が出るのを見てとても不思議がり驚いた事でしょう。その為、この年、松竹映画館の弁士と楽士全員解雇され、祖父の弟の杵鞭も終わりを告げたのです。+また、この年、文藝社で芥川賞・直木35賞を設定した年でもありました。この年の芥川賞は、石川達三の「蒼亡民」直木賞は、川口松太郎の「鶴八鶴次郎」が受賞しました。 《つづく》今日は、ここまでにしておこうこの後「源一郎」にまた朗報と悲劇がのしかかる・・・
2004年03月20日
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昨日は、祖父が駆け落ちをして来たが赤線通いをして、一人の女性を身請けしてしまった所まで書いた今日は、大正13年からの事を書こういよいよ祖父が一大決心をし始めた。 紫 2章大正13年、日立製作所総合病院が設立された年、いつも、人力車で旅役者を乗せて走っていた祖父は、前々から芝居小屋や活動写真と言うモノに目をつけていました。そして、お妾さんを通し、興行師と出会いました。お妾さんは赤線に居たので、興行師の知り合いもいたのです。「いつかは自分もこの日立の地に役者を呼べるような人間になりたい」そう思っていた祖父の転機でもありました。その年と言うのは、チャンバラの活動写真の全盛期を迎えていて、子供達の間では、チャンバラ遊びが盛んに行われていました。大正14年12月27日、祖父は、28歳で、人力車を引いていた時に貯めたお金をはたいて、そのお妾さんに紹介された興行師を通し、日立初の活動写真を始めました。その頃と言うのは、芝居小屋はありましたが、活動写真を上映する所は、日立にはありませんでした。その年、活動写真で、「板東妻三郎」の人気がうなぎのぼりになってきた年でもあったのです。芝居小屋の催し物には、旅回りの役者の芝居が主でしたが、時には活動写真や浪花節、或は連鎖劇といったものもありました。でも、芝居小屋では無く、活動写真専門の小屋はなかったのです。大正14年その芝居小屋を開業した年は、満州事変勃発の兆しが見えてきて、米穀・木炭が配給制度になっていましたが、それでも、ラジオが始めて放送され「あの町この町」が町に流れ、町には活気があふれて居ました。そんな中最初の男の子を亡くして、1年間、祖父と離れひとりで暮らしていた正妻「かん」に、長女「イキ子」が誕生しましました。かんは、一人暮らしから解放され、新しい家族を持つ事が出来たのです。それまで一人ぼっちだった「かん」はその時ほど喜んだ事はなかったでしょう。「かん」にとって生きる希望が出来た瞬間でもありました。大正時代から昭和の初め頃の娯楽と言えば、芝居や活動写真しか有りませんでした。日立には、日立鉱山があって毎月、14日が給料日でその時には、芝居小屋の前に屋台や出店が出ていました。大正15年、昭和元年を迎えた年に、次女「たけこ」が誕生しました。この年、NHKが設立され、金融恐慌幕開けの気配をさせ始める一年前でした。また、歌人・島木赤彦が日立を訪れた年でも有りました。活動写真では、「紫頭巾」が上映され、東京の銀座には「モダンガール」と言うオシャレな洋服を身にまとい、髪はパーマネントをした女性たちが出始め、多くの人たちは珍しがったものです。この次の年(昭和2年)、県立日立中学校が、今の日立一高の場所に創立され、助川裁縫女学院が設立されたのです。またその年、大正15年、享楽館と言う芝居小屋ができました。(享楽館は今は、国の文化財になっています。)大正15年、活動写真は、最盛期を迎えていました。祖父の始めた相賀館に続き、享楽館 栄座 第一劇場(日活) 松竹と五軒の芝居小屋が競い合っていました。また、映画館は、内外装も競い合っていました。周りの芝居小屋は、とてもりっぱな芝居小屋でしたが、祖父の始めた活動写真の小屋は、戦後二階建ての映画館を作りましたが、その頃はまだ平屋立ての小屋だったそうです。その頃の活動写真とは、無声映画で、杵鞭氏と言って、活動写真の動きに合わせて、吹き替えのように面白おかしく、活動写真にあわせて話す咄家がいました。その杵鞭氏を祖父の弟「定治」が、手伝っていました。祖父の弟と言うのは、栃木から兄を追いかけて日立に来てしまったのです。ふたりは、この活動写真の為、夢中で働きました。ふたりで大八車を押しながら活動写真のポスター貼りに行き、チンドン屋のカッコをし、チラシくばりなどもしたのです。その頃の活動写真と言えば、目玉の松ちゃんこと尾上松之助の全盛時代で、彼らの演じる「チャンバラ物」「忍術物」は、コミカルで毎週休みになると子供達は、相賀館にその活動写真を見に来ていました。昭和10年弁士が解雇を迎える年まで、祖父の弟「定治」は、祖父の営んでいた相賀館で活動写真の杵鞭氏を手伝っていました。その後、昭和になって、戦争が終わってから浅草の舞台で猿回しをしていたくらいなので、それは、コミカルでとても面白い杵鞭氏だったのでしょう。弁士が解雇になってからは、弟「定治」は、しばらくの間、映画館の中で飲み物やお菓子等を入れた箱を紐で首につるし、劇場で「ジュースいかがですか?煎餅いかがですか?」などと言い移動売店をしたそうです。昭和4年、活動写真や芝居小屋が、繁盛し始め、「大尉の娘」と言うトーキー映画が始めて上映され、多くの人は、映画から声が出るのを不思議がっていました。国産初の交流式ラジオ受信機が出来、街角にラジオが設置され、ラジオからは「ラジオ体操の歌」や「玩具の唄」が流れだした年、三女「千代子」が誕生しました。この年、日本鉱業株式会社が日本産業(株)から独立して創立した年でもありました。 《つづく》
2004年03月19日
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人は、誰しもドラマを持っています。ドラマのない人などいないと思います。人生は、ドラマ・・・生まれてきた時からドラマは始まっている。ある人は、未熟児で、ある人は、ふたごで・・・そう実を言うとわたしは、ふたごで生まれた。でも、母のお腹の中でわたし一人が育ち、もうひとりの子は、生も受けず、黒い塊になって生れてきた。みんな何かしらドラマを持って生きてきているそれに自分が気づくか気づかないかなんだ今日お墓に行って来た。祖父や祖父の親・兄弟 わたしの母も眠っているひとりで、片腕で、3時間掛けてお墓を磨いて来た。今、わたしは、祖父たちの事を書いている 調べていたなら思っても見ないドラマがそこにありました。今日から少しの間、祖父のドラマのような人生を事を書こう祖父は、活動写真(映画)が日本に来た年明治30年に生まれた。 紫 1章大正時代 (大正11年)栃木県の思川近辺に、肩に刺青をした粋のいい一人の男が居ました。いつもは、人力車を引きながら祭りの時になると、決まってその男は、バチで音頭を採りながら八木節の樽を叩いて居たと言うくらい祭り好きの男で、本当だったなら、今でもある思川の『八木節源太』の13代目になると、噂されていた男でした。男は、3人の女性と付き合って居て、一人はやくざの親分の娘、もうふたりの女性の一人は、大工の娘、後一人は町娘でした。ある日、極道(やくざ)の親分に男は、そのキップの良さを買われ、「家の娘婿になって家業を継いでもらえないか。」と、言われたのです。しかし、その頃、キップはいいけど、やくざなどには興味の無かった男は、一人の町娘を身ごもらせ、もう一人の大工の娘と、逃げる様にしてその地を後にしました。栃木に置き去りにされた女性は、『あの男の子なら自分の子として育ててもいい』と言う人と結婚したそうです。大正12年、『旅人の唄』が流行っていた頃、そんな置き去りにされた娘が妊娠した事など露知らず、ふたりの間には、ひとりの子供が出来、その子を抱いてふたりは、その『旅人の唄』の如く駆け落ち同然で茨城県の日立にたどり着きました。その時、男は、26歳 一緒に駆け落ちした相手の女性は、19歳でした。その男「源一郎」こそゆくゆく、わたしの祖父になる人物です。そして残念ながらわたしは逢えませんでしたが、「源一郎」と一緒に逃げる様に駆け落ちした女性「かん」はわたしの本当の祖母なのです。その後、栃木に残された女性に「源一郎」の子(女の子)が生まれた後、もう独り男の子が出来、その女性は、ふたりの子を授かりとても幸せに暮らしていたそうです。ですから、わたしには、栃木にまだ逢った事の無い従姉妹がいるのです。その祖父たちが駆け落ちした同じ頃、わたしの母方の祖父母も結婚しましたが、その頃の結婚と言うのは、親が相手を決め、式の当日まで相手の顔を見たことがなかったと言う時代でした。ですから、「源一郎」と言う人は、その頃にしては、垢抜けた結婚をした事になります。大正12年、「源一郎」と「かん」のふたりは、栃木から男の子を連れて駆け落ちして来ましたが、日立にたどり着いた年の9月に関東大震災が三人を襲ったのです。一緒に連れて来た男の子は、時代が時代でろくに栄養も摂れない時代なのにもかかわらず、長旅で身体も弱ってしまって居ました。そこに追い討ちをかけるように震災があり、大正12年10月栃木から連れて来たふたりの間に出来た初めての子「政夫」は、やっと1歳になったばかりと言うのにその小さな命はこの世を去ってしまったのです。「源一郎」は、栃木で慣らした人力車の腕前を活かし、日立の人力車小屋で働きながら、生計を立てていました。その頃、芝居小屋と言ったものの全盛期で、日立に旅役者が来ると、日立の町中を 旅役者を乗せた人力車が行列になって走ったのです。今で言えば、パレードのようなものです。祖父は旅役者を乗せ、その人力車の列の先頭になって走っていました。人々は、ひと目役者を見ようと黒集りになって集まりました。その先頭を走る祖父は、人力車を引いている自分にほこりを持っていました。でも、その一方では、「いつかは自分もこの日立の地に役者を呼べるような人間になりたい」そう思っていたのです。その頃、日立の駅前の近くに赤線街がありました。祖父は、駆け落ちして日立に来ても女癖が直らず、仕事が終わると赤線通いをし、等々一人の女性を身請けして来てしまったのです。 二人は、正妻の住む家の目と鼻の先の家で、暮らし始ました。そして、祖父は、その身請けしてきてしまった女性と正妻の居る家を行き来すると言う奇妙な生活を始めました。でも、そんな生活をしていても、妾には、子供を作らず、妾の家と正妻の所を行き来し、正妻「かん」に6人の子供を作ったのですが、それでも祖父はその後30年間と言うもの正妻と子供達とは住む事をしませんでした。 《つづく》この続きは明日また書こうそこに今では、考えられないドラマが待っていた。みんなも自分のルーツをたどると面白いかも
2004年03月18日
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わたしは、満二歳の頃、「二十歳までの命」と言われました。するとわたしの両親は、「二十歳までの命」と聞き、絶対死なせない死なすものかとわたしが、中学までの間に10箇所以上の病院を回ってくれました。そして、中学の時に「この子は、死ぬ病気じゃない」と10箇所目の病院で言われた時の喜びは、大変なものだったでしょう。命とは、「親からの贈り物」親は、その自分達の結晶を無くさないように大事に大事にして育てる親と言うのは、子供に手をかけ手を焼きながら育てるのです。困らせられた子供ほど愛しいと思うそして、子供から学ぶべき事が多い親と言うのは、子供に教えられる事が多い。「命生む事より 命育てる事が大事」子供を産むのは、簡単 でも、その命を育てる事が命を守ってあげる事の方が大切なのだ。この世に生まれてきたと言うのは、奇跡的なことなのだから・・・育てると言うのは、難しいかもしれないけれどそれをクリアした時の充実感と言うものは、人知れずすごいものなのだろう・・・ここまで、育ててくれてた両親に・・・支えてくれた人たちに・・・ 感謝!
2004年03月17日
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【言霊】言霊と言うのを知っているだろうか?どんな言葉にも魂があるということを・・・言葉使いや言葉ひとつひとつには魂があってきつい言葉を言い過ぎると物事と言うのが、どんどん回りを変えてしまい自分自身が大変な思いをする事になるそうです。そして、言葉に柔らかみがあって物事の一生懸命さがあるとその魂がつたわり回りも変わってくるですから、言葉使いには、本当に気を使わなくてはいけないそうです。言葉使いが変えるだけで自分の周りもどんどん変わっていくのです。善い方に変えるか?悪い方に変えてしまうかは、自分次第なんです。言葉と言うモノには不思議な魂がある事を知って頂きたいです。昔のわたしは、ひどいもので親を「あんた」等と呼び暴言を吐いていました。その頃のわたしを見て人はどう思ったでしょう・・・姉妹や親戚からは見放され、行き場のなくなった自分をどんなに哀れみもう一生みんなに見放されたまま生きていかなくてはいけないんだと思いまわりも暗く荒んで見えてしまっていました。そして、7年前言霊の話を聞き“ハッ!”としました。そして、言葉使いを変えたなら、バス停や電車の中で多くの知らない人と話せるようになりメールでも知り合いや友人も出来ました。姉妹や親戚は、わたしの昔の事がトラウマになっていてわかって貰うのには時間が掛かると思いますが、わたしは、URLや日記を読みに来てくれる人達がいて解ってくれる人は必ずいる・・・それがわたしの励みになっています。姉妹や親戚は、わたしのURLは見た事ありません。それなのにURLを閉めろと言う・・でも、わたしは、多くの人にわたしの書いたのを読み何かを感じて貰えればそれでいいと思いURLを作り日記を書き始めました。 【名前】みなさんは、自分の名前がどういう意味で付けられたのか知っていますか?名前にも魂が有るのです。名付けた親がどんな気持ちで付けたか?実は、名前に魂が有るのは、人の名前ばかりじゃないんです。「ラブ」と言う牛乳があります。父はその頃、糖尿で、低脂肪の牛乳しか飲めませんでした。わたしの母は、低脂肪のその「ラブ」と言う牛乳が出たばかりの時、父にといつも飲ませていました。わたしは、低脂肪だから飲ませているだけだと思っていたのですが、違う意味もあったようです。その頃は何も気づかなかったのですが、母と父は愛称が悪かったのですが、ラブの意味を知ってるかのように欠かさず「ラブ」を買って来ていました。そして、母が、亡くなった時、驚いた事に父は火葬の前に母に口づけをしたのです。わたしは、それを見て、涙を隠せませんでした。また、母が亡くなる前にわたしは、「おかあさん」と言うお味噌が麹をカビと間違え捨ててしまったのです。そうしたなら、その1週間後母は亡くなりました。昔、マルコメ味噌の「おかあさん」と言うお味噌が流行りました。その頃、子供で「おかあさん」と言うお味噌ばかり使った料理を食べていた人多かった。そして、今「マザコン」になってしまっている人が多いと言う事はどういうことなんでしょう?低脂肪の牛乳ばかり飲んでると生活自体も自分にも元気がなくなってくる食品など買う時は、名前にも注意が必要だと知りました。名前にも言葉にも魂があること知って欲しいです。
2004年03月16日
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『母さんありがとう 私を生んでくれて 母さんの子としてこの世に生れてすごく嬉しいです。でも、私のことでは、心配心配の連続で休む暇がなかったでしょう。私が、満二歳の時、熱を出しテンカンになってしまった時、どんなに自分を責めたでしょう。自分を責めて責めて責めまくって苦しかったでしょう。ごめんなさい。そして、ありがとう。家族の中で母さんだけは、どんな時でも私の事かばってくれた。もう、私もオペをさせて貰ったおかげで元気になりました。ありがとう。これから、自分の事少しずつ出来る様になるから安心してください。母さん、私の友人知人にすごく気を使ってくれありがとう・・・自分の事の様に喜んでくれていろいろな事をしてくれたよねもう、これからは、気を使わないでゆっくりして下さい。人の事ばかり考えないで!自分の事考えよう!何もしなくていい私を見ててください。元気に笑っていて下さい。今まで、母さんに頼りすぎてしまっていた。自分が恥ずかしいです。今回、母さんに倒れられて 家事ってこんな大変な事なんだ。よく母さん30年間以上もやって来たな すごいなぁ!と思いました。母さんの偉大さが、最近すごく解るようになってきました。母さんに教えてもらいたい事、山ほど有ります。病気が治ったなら、その山ほどの事、教えてください。左腕が利かなくても何処まで自分で出来るのか・・・何処まで自分で出来る様になるのか。それを母さんに教えて欲しいのです。そして、見てて欲しいのです。母さんは、椅子に座っているだけで善いから・・・早く元気になって、母さん利奈(孫)に昔話を聞かせて上げて下さい。私の知らない昔話を利奈も勉強になるでしょう。自分のおばあちゃんって人が、どんな生き方をしてきたのか。私が、テンカンになった時、皆に励まされ、元気付けられ、頑張れた。人生ってこんなにもすばらしいものなんだって事を・・・だから、早く元気になってください。母さんが元気になったら又旅行に行きたいです。私も車の免許を取り、今度は、私の車の隣に母さんを乗せ、母さんが、おばあちゃんを乗せて上げたように私も母さん・父さんを車に乗せ、いろいろな所に一緒に連れて行きたいです。私の作った料理も食べて貰いたいです。もう、母さんには、いろいろやってあげたい事が沢山あります。だから、早く元気になって下さい。』その4日後こんな手紙を書けるようになったわたしに安心したかのように母は逝ったこの手紙がわたしにとって最初で最後の親孝行だったのかもしれない
2004年03月15日
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良く回りの人に親孝行をしたいという話を聞きますわたしは、もうほとんどの人は親孝行をしていると思う親孝行とは?親を安心させることが親孝行だと思う誰しも親は、「自分が死んだ後この子はどうなってしまうんだろう?」と言う不安を持っています。その不安を取り除いてあげる事が親孝行だと思うのです。そして、自分を生んでくれた事に感謝をし、「ありがとう」と言う言葉を一番待っている。わたしは、子供の頃からずっと親を苦しめて、安心させたことが有りませんでした。そんな親不孝な事は有りません。安心させることが親孝行だと言うのに・・・そんなわたしが、ある日、母に「ありがとう!」と始めていった時の母の驚き様はすごいものだったと思います。そして、夜母は、自分の妹に電話をし号泣いていました。そんなに喜ぶんだったならもっと早く言えばよかった・・・親にとって自分が産んだ子に「ありがとう」と言われることほど嬉しい事は無いはずなのです。 子供は自分の分身であり、結晶なんですその子に「ありがとう」を言われるほど親にとって名誉な事は無いと思うのです。だって子は宝なんだもんその結晶に光ってもらいたい明るく生き生きとして貰いたいはずみんな光る原石なのだから・・・自分を光らせるそれが親孝行母は、わたしのこれからの事をとても心配していました。その事もあって、本当は、母が生きているうちに家を出、自立し自分で出来る事を知って欲しかった・・・でも、病気を持っていたので家を出るのは難しかった。いつまでも、心配かけてばかりじゃいけないからもう大丈夫だよひとりで生きていけるよと安心させたかった。それもあって、母の居ない今一人暮らしをしているだから、何か親孝行したいと考えているのなら親を安心させて上げてください・・・それは、何でもいい・・・今まで料理をした事なかったなら料理を作ってあげるのも親孝行自分がやった事ない事にチャレンジして「ほらできるよ 大丈夫だよ」と・・・喜ばせてください。わたしには、妹が二人居ます。彼女らもひとりは、結婚し10年間子供に恵まれませんでしたが、母の亡くなる1年前に初孫の顔を見せる事が できた。そして、わたしと11歳違いの妹は、仕事も安定しひとりで食べる程度の生活が出来る様になった。そして、わたしは、オペをし病気を治すことが出来る様になった。それぞれ母には、親孝行が出来たと思っています。子供が元気がないと親は、もっと沈みます。わたしは、子供の頃から虐めに合っていたのでとても暗かったそんなわたしを見て母は、自分を責め苦しんだでしょうそれから、わたしは、元気がなくても元気な不利をしました。すると、母は段々明るくなってくれたのです。だからこれからは、明るく生きる事・・・生きて生きて生きまくるそれがわたしの亡くなった母への親孝行
2004年03月14日
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わたしは、8年前4回にわたる頭部のオペをしました。前頭葉と言うのは、運動中躯の部分で、側頭葉と言うのは、言語障害や記憶力の部分です。わたしは、右前頭葉を3回オペをし右側頭葉を1回オペをしたため右前頭葉をオペした時、一時左半身不随になり、筑波山を頂上までひとりで登り、それがリハビリとなり障害者手帳7級ですが、今は普通と変わらず歩けるようになり口は、ろれつが回らなくなってしまいましたが、カラオケと人と話すのが好事今では、普通の人より話せるようになりました。腕だけが利かなくなったのですが、片腕が利かない事で、利いていた時より、新しい発見をしています。「ナ~ンダこんな事もひとりで出来るじゃん えっ!嘘出来ちゃった」っと言った感じです。 そして、今度は、右側頭葉をオペした時、オペの前IQテストをしました。そして、オペ後IQテストをしたなら案の定記憶力が低下していました。その後、わたしは、ペンとノートを持ち歩き人と話した事を書き留める様にしたなら2年後なんとIQテストをしたならオペ前よりもIQが良くなっていたそうです。それからと言うものわたしは、ひとりで居るとたまに頭に浮かぶ言葉を書き記すのが癖になってしまいました。今日、思いついた言葉を書きます ・騙された事は、勉強だと思えばいい ・後悔なんて思い出にすればいい・・・ ・人を好きにならないと 楽しく生きられない・・・ ・どんな人でも いいところは持っている それを好きになってあげよう書くという事は、頭の回転を良くします何でもいいから書き留めるのを癖にしてみては?
2004年03月13日
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どうして生きてるのか?何のために生きてるのか?悩んだ事がありました。そんな時、母の眠る墓地のお坊さんに会ったときに言われた事です。「目的も目標もなく自分は何のために生きてるんだろう?・・・」すると、そのお坊さんから出た言葉は、「いいんだよ人は、生きる事が目的でもあり目標なのだから」という言葉が返ってきたのです。前にも書いた事がありましたが、自分が存在している事で多くの人たちが学べる事がたくさんある。だから、生きて生きて生き抜くことが、大切なのだとそうする事で、自然に自分の生きてきた足跡が残るのだ・・・考えてみるとすごい事かもしれない・・・ただ生きていても自然と足跡が残る だから自然体で生きていけばいいのだと12日の日記 (AM 12:35)----- Original Message -----From: To:
2004年03月12日
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わたしは、子供の頃から「あれをしちゃダメ」「これをしちゃダメ」「こうしなくちゃ」そういわれるたびそのようにしなくちゃといけないんだ思い生きてきました。でも、ある日「これじゃダメだ・・・親の引いたレールの上を歩いているだけじゃ自分に秘めているものを失ってしまうのでは無いか?」「本当の自分を出せないままこのまま生きていくのか?そんなの嫌だ」わたしは、親の引いたレールからはずれ、ちょっと違う方向に行ったのです・・・そうすると今まで自分の中に秘めていたものに築いたのです。何も出来なかった自分にやれば出来る事を発見しました。親は、心配して「いいよお前は、出来ないんだから、やらなくていい・・・」わたしを頭から何も出来ないと決め付ける・・・わたしは、それにとても反発してわざと親の言う事の反対の事をしたならいい方向に行った事もあったのです。その時わたしは、「人には、それぞれ個性がある自分に秘めた可能性に向って歩き出すのもいいんじゃないか?親の引いたレールの上ばかり歩いていても、ちょっとレールから外れて見ると綺麗な花を見ることも出来、そのレールを踏み外して見て自分と言うものを見つめ進むべき道を見つけるのもいいんじゃないか?自分に出来る事をやれるだけやってみよう」と思ったのです。それは、道端に捨てられているゴミを拾う事でもいい なんにでも勇気を持って物事をしていれば必ず人は見ていてくれる。そう思って誰がなんと言おうとまだ、自分に隠されている可能性に向って生きているのです。子供と言うのは、「3分しつけて7分誉めてやる」人と言うのは、誉められると頑張ろうと言う気になります。子供を叱ってばかりだとひねくれた大人になってしまうのではないでしょうか?だからといってほっとくのも考えもの・・・でも、子供を一杯誉める事により子供のうちから自分に自信の持てるようになるんじゃないだろうか?だから子供を持っている人達に今のうちもっと一杯抱きしめてあげて、誉めてあげて欲しい・・・そうする事で、自信を持つ事が出来る でも、悪い事をしたならひと目を気にせずしかるのも必要!そうする事で子供が、独り立ちした時、やっていい事と悪い事の区別が出来て、人の気持ちが分かるような子供になるはず親は、子どもより先になくなる事になっているのだから少し遠くで見守るのもいいと思うそれじゃないと残された子供は、いつまでたっても開花できないまま終わってしまう事もあるんじゃないだろうか?いつまでも子供は、自分の親がどんな生き方をしているか見ている・・・子供は、自分を抱きしめてくれた事は忘れない そして可能性というモノを探しに羽ばたいていく
2004年03月11日
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わたしは、子供の頃から入院生活をしていました。病院と言うと注射ですが、その注射をされるたび泣きそうになると親が「我慢しなさい。そんな事で泣いていたらどうするの!」虐めに合った時もそうでした。「そんな虐めなんかされたからって泣いててどうする。大きくなったらもっと大変な事が一杯あるんだからそんな事で泣くんじゃない!」「分かってくれる人は分かっててくれるんだ」からそんな虐めた人の事ばかり考えちゃだめだよ」その言葉が、励みにもなったが泣けないと言うことがプレッシャーともなった。どんな悲しい事が合ってもどんな苦しいときでもないちゃダメなんだ。自分が泣くと親が悲しむそう思って生きてきました。だから、わたしは、悲しい辛い苦しいそんな時は、泣けない人間になってしまったのです。でも、子供は、泣きたい時に泣かせてあげないと大きくなってから冷たい人間だと思われやすくなってしまう。わたしは、母がなった時泣きませんでした・・・と言うより泣けなかったのです。わたしは、自分で自分の命を絶とうとしました。子供が親より先に死ぬ事以上親不孝な事は有りません。それなのにわたしは、親不孝ばかりしてきたので、自分を責めて責めまくりました。その一方でわたしが泣いたら母さんが悲しむ悲しませちゃいけないなどと思い母が亡くなった時も泣かなかったのです。それが他人から見たならどんなに冷たい人間なんだろうそう思われても仕方ないかもしれません。わたしは、亡くなった人と言うのは、いつでも自分を見守ってくれているそう思うのです。だからみんなも知り合いが亡くなったからといって泣いてばかりいないでこれから見守ってくれる亡くなった人に感謝をしたいものです。そうすれば、必ず守ってくれるからこれは、友人に聞いた話です。運命をひとつの輪だとすると半分が宿命で、1/4が自分の力 後1/4は亡くなったご先祖様の力だと言うまさに見守っててくれると言う事にスギなら無いのではないだろうか?そこに自分の頑張りかたで人生を変える事ができるのだと言うのです人は泣きたい時に泣かないと感受性のある人間にはなれないので子供を持っている皆さんは子供が泣いたなら抱いて泣かせてあげて欲しい・・・
2004年03月10日
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「プライドをもて!」電気屋をやってる叔父に言われた事がある???叔父は、日立のメーカーの電気屋をしてるのにもかかわらずわたしは、他電気製品を買っている わたしは、電気屋をやってる叔父のところからは電気製品を買ったことがないというより障害年金で生活してて銀行からもお金を借りて生活してるのでそんな高い電気製品は買えないのだそれなのにもかかわらず自分の所から買ってもらえ無いと言うだけで「もっとプライドをもて!」と言う・・・それじゃ他電気製品を持つ事はプライドを捨てる事なのだろうか?みんなそれぞれプライドを持って商品作りをしてるみんな頑張っているのだそれなのにどうして???わたしのプライドとは今こうして生きている事・・・10回以上も生と死と背中を合わせながら生きてきたそのたび母は身の切り裂かれる思いでわたしを見守ってくれた。その母は、7年前わたしが、オペを済まし退院した次ぎの日安心したかのように亡くなった・・・母さんありがとうわたしが、満二歳の時40度の熱を出した時寝ずの看病してくれて、二十歳までの命と知らされて死にもの狂いでいろんな病院を一緒に廻ってくれたそして、病気に嫌気をさして荒れて自殺未遂をした時「一緒に死のうか?」と言ってくれた母・・・子供の頃から友達の居ないわたしが友人だと言って家に連れてきた人達をすごく喜んでくれて、どんな友人知人でも快く招いてくれた母・・・二十歳までの命じゃないと知った時あんなに喜んでくれたそしていつもいつもわたしのそばに居てくれた母・・・母さん今まで本当にありがとうこんなわたしを最後まで心配して逝った「あんまり無理するなよ」最後に言った言葉頑張りすぎてしまうわたしの事を見通していたかのように他人の事でも一生懸命になっていた母その母に教えてもらった事は、生きる事母はどんな時でも何も言わずに見守ってくれた。二十歳までの命と言われたのにもう倍も生きてきただからどんな事をしてでも生きろとだから、わたしは周りに何を言われても奇跡的に自分がこの世に存在している事をプライドだと思っている宇宙の片隅に自分が存在している事 事態奇跡なのだだから人が何を言おう「言いたい人には言わせておけばいい」もっと自分に自信を持って生きていけばいいのだ
2004年03月09日
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いつも行くファーストフード店があります。そこは、いつも笑顔で迎えてくれます。みんな同じかもしれないけれどわたしは、いつも、その笑顔で一日頑張ろうと思えます。でも、たまに元気のない時があります。そんな時、気になって手紙を書いて渡す時が有ります。「いつも、笑顔をありがとう その笑顔がわたしを和ませるその笑顔がわたしの活力の源 元気のある人には人は付いてくるけど元気のない人には、人って付いてこないんだよ 今日はどうしたのかな?素敵な笑顔を見せてください笑顔でお客さんを安心させて」と書いてお店の人に渡すとみんな元気になってくれるのです・・・わたしは、入院生活が長かったので周りが明るくないと気がすまないのです・・・それじゃないと自分も落ち込んでいくような気がして 皆が笑顔になってくれる事それだけが願い・・・
2004年03月08日
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昔、シンナーがすごく流行り始めた事時の事です町でキャンペーンをやっていた事がありました。そこには、シンナーをやると脳の活性がどうなるのか?子供への影響は?このままシンナーをやっていたなら何歳まで生きられる事細かに写真付きで町に張り出されていました。その時、『あなたは、人間止めますか?』というキャッチフレーズを見、怖くなった事がありました。今覚せい剤とかのキャンペーンをやっていますが、昔ほどキャンペーンに力を入れているようには思えません・・・前は、TVのCMで「人間止めますか?」と耳が痛いほど聞いた時期があったのにそんなCMが無くなった今、覚せい剤がオープンになっているのではないでしょうか?「あなたは、人間止めますか?」命を大事にしてください
2004年03月07日
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人は、皆だるまだ 転んでも転んでも起き上がり生きていくわたしは、みんなを上回る困難に遭ってきた。満二歳の頃に高熱40度の熱を出し脊髄の水(髄腋)を熱にボロボロにされて髄液を取替える為一度仮死状態になりながらも生き返った。その後二十歳までの命と言われ、中学の時には、10箇所の病院を渡り歩き思春期に虐めに合い自殺未遂を3回繰り返しそれでも生きている。その後、4回の頭の手術をし一時半身不随になった。転んでも転んでも起き上がってもう数え切れないくらいに・・・わたしは、みんなに転んでも転んだままになって欲しくない転んでも起き上がるだるまのように転んでも転んでも起き上がって強く強く生きていって欲しい6日の日記 (AM 02:21)----- Original Message -----From: To:
2004年03月06日
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こんな事がありました。わたしは、築40年のアパートに住んでいるのでお風呂が狭くてゆっくり入れません。だから、今銭湯に凝っていて外に行く時は、いつも100円均一で買ったお風呂セットと下着を持って行くのです。それは、いつでも銭湯に行けるようにです。今銭湯では、タオルを無料で貸してくれるので、いつでも何処でも足を伸ばしてお風呂に入れるように・・・先日夜中パソコンをいじっていて、寒いのでお風呂に入りたくなったのです。でも、夜中築40年のこのアパートは、物音にとても気を使うので入る事が出来ませんでした。友人に話すと「スーパー銭湯があればいいのに・・・ボーリングはボーリング・銭湯は銭湯・食事は食事って全部別々にお金を払い入れるところ・・・そんな施設を作れば大学生とか夜中パソコンやってて急にお風呂入りたくなった時行けるそんなとこあるといいね!」わたしは、知り合いの会社(パチンコ屋でのし上がった)に提案として言いに行きました。すると返ってきた言葉が、「この会社は、今高級レストランに手を出しているので無理!そんな庶民的な事言いに来ないでほしい」と言われたのです。人は、偉くなると根本的なことを忘れてしまう。『我我人為人人我為』と言う事を知らないのか?その会社は、始めパチンコ屋しかやっていませんでした。パチンコと言う庶民の人達の娯楽場をみんなに提供して今の会社があるのです。それなのに「そんな庶民的な事言いに来ないでほしい」わたしは、庶民の人の為にやっていた会社が、鼻を高くしてる事が許せなくなりました。パチンコをする人たちが居たから今高級レストランにまで手を出せるような会社になったのに・・・その会社は、パチンコをしてくれた人達の為に何かしてやろうと言う気がなくなってしまった。何故「人人我為」と言う事を人は忘れてしまったのだろうか?わたしは、みんなに聞くと「サウナは入りずらい」と言う声が多いのです。わたしの居る所は、大学のある町なので、パソコンをしてて夜、息抜きに出かけるところがあればみんな喜ぶし年を越えたコミュニケーションの取れるんじゃないでしょうか?わたしは、そんな場所がひとつでもあればと思うのです。銭湯は、11時までです。24時間やっている銭湯があればみんな喜ぶのに・・・わたしは、人の喜ぶ顔が見たいだけ・・・初めて銭湯に行った時の事・・・銭湯が開く時間がわからなく近くの交番に銭湯の開く時間を聞いた事が合ったのです・・・24時間銭湯がやっていたなら恥を掻かなくてすんだのに・・・わたしは、左腕が利きません。ある日、ガストに行った時の事ドリンクバーは、自分で水・ミルク・砂糖全部持ってこなければいけないのですが、わたしは、一回でそんなにひとりで持って来れないのです。そして、「お客様相談室」に電話をし「トレーがあったなら嬉しいのですが」と言った事があります。すると、次ぎの日なんとガストに一人用のトレーが置いてあったのです。わたしは、とても嬉しくなってしまいました。ちょっと勇気を持って言うだけで、物事がうまく行くこともあるわたしは、もっと勇気を持って欲しい「口は物を食べるためだけに有るのでは有りません 物事を伝える為にもある」のだと思う喋れるうち言いたいこと言っちゃえ!スーパー銭湯出来ると嬉しいな(^_^;)
2004年03月05日
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人は出会いによって成長するものです虐めという出会いでも、その虐めを乗り越えるられたというのは、その虐めによって自分は成長したと言う事に成ります。リストラでも仕事上のトラブルでもそれを乗り越えて自分は変わる事が出来る それってすごいことなんです。だからわたしは、自分を変えてくれた人達にありがとうと言いたい中学の時虐めにあって挫折を乗り越え、今のわたしが居るその虐めてくれた人が居なければ今のわたしは、存在していませんでした。出会いによって色んな仕打ちを受けたけどそれに絶えられるようにしてくれたのは、学校時代に出会った友人達だと思います。わたしは、その友人達に「ありがとう」と言いたいあの虐めがなかったならこんなに強くなりましたと・・・色んな出会いをしました。新幹線ホームがわから無いと言う人に教えてあげたなら喜んでくれて名刺を貰って見たなら社長さんでそれから15年間手紙のやり取りをしたり、病院で緑内障になりかけたおばあちゃんと話が合いおばあちゃんの手縫いのコートを貰ったり、病院で知り合った左半身不随の男の子と知り合って勇気も教えて貰いました。彼は、左半身不随なのにバイクで甲府から茨城に来てその後仙台~青森~北海道をツーリングして甲府に帰って行ったのです。わたしは、彼から色んな事を教えられました。勇気・チャレンジ精神・優しさetc・・・いい出会いでも悪い出会いでも感謝を忘れないでほしい・・・何かを感じるという事は自分の中でプラスになっているのだから今のこの一瞬も宝物になるはずひとつの出会いもいつしか思い出という宝物になるそんな宝物を持って人は一生を終えるのだと思います素敵な出会いをしましょう
2004年03月04日
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だるまは、ころんでもころんでも起き上がるわたしはみんなにだるまのようにになってほしいちょっとしたことで落ち込んだりしちゃうの見てられません先日エアメールが届きました。それは、入院中一緒に入院してた子からでした。彼女は、「学校の先生になったばかりで休職願いを出してきたので今そんなに休んだら職が無くなってしまうから3ヶ月で直して欲しいと言う・・・」これには、先生も看護婦さんも手のつけようが無くて困っていました。その時、自分は「病気の事に対して一方的な見方しかしていないんじゃない?ひとつのものがあるとしたらそれは、左右上下角度を変えて見ると全然違うものに見えてくるじゃない・・・病気や物事も同じだよ先生は病気を治してあげたい、そう思ってるんじゃないの?看護婦さんだってそうじゃない?病気に対してどう思ってるか分かって言ってるの?友達は?親は?それを総合して自分はどうしたら言いか考えないとダメだよ」その次の朝彼女は真っ赤な目をして、わたしのところに来、「トノさん昨日寝ないで考えたのなんか光が見えてきた」と言い彼女とは、それっきり逢った事がありませんでした。風の便りでオペをした事を聞いたことがあったがその後は知りませんでした。すると突然イギリスからエアメール・・・その彼女からでした。ケンブリッチ大学を出、今ボランティアの学校に行ってると言う・・・それにもう薬を揉まなくても良くなったと言う葉書でした。わたしは、自分の事の様に嬉しくなってしまい涙が止まらなくなってしまいました。あんなにきつく言ったのに彼女はだるまのように起き上がり今教職とは縁遠い世界で活躍をしているのです。
2004年03月03日
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9月から公開した戸崎亜美のURL(http://tonosan3.hp.infoseek.co.jp/)が1400人を越えた多くの人たちに希望と勇気を持ってもらいたい私は、周りが明るくないとダメになりそうで怖い15年間暗い入院生活をしてきたのでもう回りには暗くなって欲しくない!周りが暗いとどうしても昔を思い出してしまうのです
2004年03月01日
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