それまでは、どちらかというと映像美にこだわっていたラース・フォン・トリアー監督は、『奇跡の海』を撮るにあたり、その撮影手法と縁を切る。
ヴィム・ベンダースやジム・ジャームッシュの作品で知られる名キャメラマン、ロビー・ミューラーを迎えた彼は、手持ちキャメラを駆使し、フィルムに荒涼とした魂を焼き付けようと試みる。
もちろん、監督にその選択を迫らせたのが作品のテーマであることはいうまでも無い。
『奇跡の海』で夫に対する、いびつともいえる純愛の極致を描いてみせたトリアーは、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』では母性愛の極致を描く・・・。と、とりあえずはそういえる。
1960年代。アメリカのミュージカルに憧れチェコから移住したセルマ(ビョ-ク)と息子ジーン。遺伝性の病のためほとんど視力の無いセルマが工場での危険な仕事に従事するのにはわけがあった。
このままだと息子ジーンも彼女と同じ運命を辿ってしまうのだ。彼女は、内職までして息子の手術費用をたくわえる。
そんな苦境に彼女が耐えられるのも、ミュージカルで踊る自分の姿を夢見ることで喜びに浸れたからだ。
しかし、そのかけがえの無いお金を親切にしてくれていた隣人ビルが盗む。返して欲しいと激しく迫るセルマ。揉み合ううちにセルマはビルを銃で撃ち殺してしまい、裁判で死刑の宣告が下される・・・。
悲劇を構成するのに事欠かないモチーフに敷き詰められたこの作品は、悲劇であることを拒絶する。それどころか、ラース・フォン・トリアーは救いのない人間の魂をまるであざ笑うかのように、絶望的に描いてみせる。
ラッセ・ハルストレムやジェームズ・アイボリーなら、審美的なキャメラワークで、観るものの感情移入を沸き立たせ、詩情溢れるウエルメイドな作品に仕上げたであろうし、マーティン・スコセッシなら、キャメラの構図設計に演出を費やし、滅びの美と醜を内包した心理的な作品に仕上げていたかも知れない。
が、『奇跡の海』の監督は、そのどちらをも否定する。潔いまでに叙情性を断ち切ってみせるのだ。
なぜなら、この『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は、前回とり上げた『ALWYS続・三丁目の夕日 』と最も遠い位相にある映画だからだ。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を語るのに、『ALWAYS続・三丁目の夕日』を引き合いに出すとは悪い冗談だといわれそうだが、冗談ではない。
『ALWAYS続・三丁目の夕日』を批評した際、この作品は、大衆演劇の骨格を模倣した物だと述べた。そこにおける楽天的な善意は、大衆演劇に裏打ちされた物であったからだ。
それに対して、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は、ドイツが生んだ偉大な劇作家ブレヒトの「 異化効果
」をそっくり援用し、換骨奪胎させた映画だからだ。
つまり、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』に対する賛否両論は、ラース・フォン・トリアーの意図するところだったのである。その意味において彼のもくろみは見事に成功したといえるだろう。
ゴダール流の、手持ちキャメラと荒々しいジャンプカットで観る者の感情移入を断ち切り、そうすることで物語を叙事的に表現していたかとおもうと、セルマと登場人物が一体となってミュージカルを繰り広げるセルマの幻想(白昼夢)シーンでは、うって変わって律儀なまでの固定キャメラで端正な構図と審美的で、躍動感溢れる絵をつくる。
現代において、純粋無垢であることは、ある意味狂人に等しい。
狂人という言葉が相応しくないなら、聖なるものに憑かれた人と言い直してもよい。
この世界で、自分自身に潔癖であり続けることなど不可能であろう。
人間は処世術を身につけることで現実世界と折り合いをつけ生きていく。
それを頑なに拒む者は、ハムレットのように死を選ぶしかない。
憑かれた人。憑かれた顔・・・。『奇跡の海』のエミリー・ワトソンや、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のビョークの夢見るような表情はもちろん偶然ではない。
聖なる愛に憑依された者だけが許される特権的な顔なのだ。
『奇跡の海』で重篤の夫を自分の死と引きかえに救ったエミリー・ワトソンのようにビョーク演じるセルマは、息子ジーンの視力と引きかえに自身の命を捧げようとする。
そこには、母性愛と自己犠牲の極致が存在しているようにも見える。
子供に遺伝するのを知りつつ息子ジーンを生んだセルマは、その贖罪として自身の命を投げ出そうとしているようにも見える。
しかし、相変わらずキャメラは怜悧な視線で彼女を客観的に捉えるばかりで、救い=和解の感情を些かも滲ませたりはしない。
むしろ、母性愛でも自己犠牲でもなく、自己愛に陶酔しているかのようにセルマを描く。
死刑執行の日。死の恐怖のなか、息子の名前を呼び、泣き叫ぶセルマ。
現世での最期の歌を未来にとどかせようと悲痛な声で歌うセルマの歌声も途中で途絶える。
公開執行を傍観するしかなかったセルマの友人たちの視線を遮断するように閉じるカーテン。あたかも、ブレヒトの芝居の幕が下りたかのようなラストシーンの構図と劇中劇を思わせる構成。
突き放され、異化された観客の心に重い錨が沈んでいく。
芸術至上主義的な純愛の極致が、はたして現実世界で可能だろうか?
映画作家ラース・フォン・トリアーは、その問いと厳しく向かい会っている。
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