あけやんの徒然日記

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あけやん2515

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2021年10月26日
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カテゴリ: 広告・表示
先日、堺へ仕事に行った際に利用した大阪メトロ御堂筋線の新金岡駅で見つけたポスターです。



 ポスターの下の方に「大阪検定」と書かれていますが、最近ではこのような地域ごとの検定があってなかなか面白いものです。

 さて、このポスターにかかれている問題は、「堺市立金岡中学校は、1970年代日本一のマンモスこうでした。全校生徒の数は何名だった?」とのことです。
 1970年代、私はギリギリ中学生ではなかった(1980年に中学一年でした)のですが、1970年代から80年代前半にかけては、中学校だけでなく小学校もマンモス校というところは多かったですよね。子どもの数が多かったこともあるでしょうね。私も同じ堺市内でしたが、小学校は2000人くらいいたんじゃないかな。急激に生徒数が増えたことから、教室が足りずに運動場にプレハブを建てざるを得ない状況になってしまい、運動会なんかは低学年は午前中、高学年は午後なんていうことをしたことがあったと思います。ちなみに、中学校はマンモス校から分離された新設校だったし、堺市内での40人学級の最初の方の取り組みだったこともあって、教室はゆったりしていたし、運動場もとても広かったです。

 話がそれましたね、先のポスターの選択肢は4つあって、約2000名、約3000名、約4000名、約5000名となっていました。この手の問題はとても多いか、意外と少ないかのどちらかが相場なのですが、どれが正解かわかりますか?
 正解は約3000名だったそうです。どのくらいの敷地に3000名が入っていたのかわかりませんけど、とても多いですよね。一学年1000人で一クラス50人としても20クラスですよ。三年間で顔を見たことがない、っていう人もかなりいることになりそうですね。

 ちなみに、金岡中学校というのは1977年に金岡北中学校と改称と同時に、金岡南中学校を分離したことによってマンモス校ではなくなったそうです。マンモス校になったのは、今でもそうですが団地が多かったんですよね。そのために急速に生徒数が増えたのが原因かと思いました。

 現在では、どこも子どもの数が減ってしまって、一学年が3クラスなんていうところがあったり、学校自体が統合されてしまうケースもあるようですけど、私が子どものころは本当に運動場で遊ぶのも大変なくらいだったことを考えると、どっちの方がいいのかなって思ってしまいますね。

 そんな学校当時のことを思い出してみました。





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最終更新日  2021年10月26日 22時35分53秒
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