さすらいの天才不良文学中年

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男たちの大和 20世紀 この世界の片隅に

男たちの大和

 映画「男たちの大和」が評判という。鑑賞券を応募したら運よく当選した。昨日は13日の金曜日でゲンが悪いとも思ったが、映画を観るのに昨日しか調整がつかない。ま、おいらは仏教徒ゆえ無視することとし、みなとみらいまで出張って観てきた。


大和


 案の定、泣いてしまった。正当な本(脚本)作りであり、これは成功した映画であると評する。大和が玉砕せざるを得ない状況を一つずつ積み上げ、その周りにちりばめたお涙頂戴の設定が見事に決まっている。極端なことを言えば、戦闘シーンなどなくても大和ものは作れることを証明した。

 もう一つ成功した理由は、観客も主人公(乗組員)達が死ぬことが分かっているからだ。水戸黄門や心中もののストーリ-と同じように、次の展開が分かっているから感情移入へのスタンバイが早く、まだ登場人物が死んでいないのに涙が出てくる始末である。

 断言する。今後、大和ものというのは、ミュージカルや芝居(舞台)ものでも、充分観客が取れる定番になっておかしくはない。ただし、そのときのタイトルは女たちの大和にした方が良いと思うが。



本日と明日はお休み

 本日と明日は休日につき、お休みです。


20世紀少年


 昨日、時間を作って、浦沢直樹の「20世紀少年 最終章」(三部作の最終作)を見て参りました。これまで第一章、第二章を映画館で見ていますので、今回も見逃せない一品。

 感想は、エンターテイメントとして良く出来た作品であるということです。

 でも、この映画での一番の売りは、T・レックスのロックでしょう。何と云ってもこのロックのイントロ部分が良いねぇ。

 しかし、この映画は長い。上映時間は3時間近くありますなぁ。最近の映画でこれ程長いのは珍しいのでは。ただし、長さを感じさせません。テンポが速くて見る者を釘付けにします。

 ここで一つ、ニュースを。映画が終わって、最後におまけがあります。このおまけは、試写会では上映されなかったと云われます。このおまけ部分が何とも情緒があって良い。中身は話さないのがエチケットですが、浦沢も恐らくこの部分に唸ったのではないでしょうか。


 月曜日よりブログを再開いたしますので、皆様よろしゅうに。


 平成21年9月26日(土)


 謎の不良中年 柚木 惇 記す


原作使用料100万円は安いか

 先日、地上波でオンエアされた映画「テルマエ・ロマエ」の原作使用料が約100万円だったことが分かった。


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 原作者本人が明かしたから分かったのだが、実はこの映画、興行収入が60億円と云う大ヒットであったのである。

 では、なぜ、こういうことになったのだろうか。まず、この映画の原作はヤマザキマリエさんの漫画である。

 ヤマザキマリエさんの原作使用料については、出版社と映画製作者との間で原作使用料が交渉されたという。つまり、原作者はこの間の交渉に参加しなかったのである。

 しかも、この原作使用料については、日本文芸家協会に著作物使用料規定があり、映画化の場合は1千万円が上限であるとされているのである。

 驚いたのは、これら全てが業界慣習と云う名のもとに行われていることである。著作物の二次的利用について、著者から出版社が委任を受けた形にして、出版社は原作者のことを勘案しながら交渉するのだろうが、所詮は組織と原作者との利害は別である。

 このことについて、映画評論家の品田雄吉氏が業界の裏話を披露されながら、作品がコケるリスクを考えれば安くはないと擁護しておられた。

 しかし、それは、業界人の理屈である。60億円も興行収入をあげておいて100万円では、それを世間は欲張りというものだろう。

 映画産業は興行の世界と同様、未だに近代的な産業ではないのかも知れない。

 それともう一つ。出版業界も旧態依然であり、「同じ穴のむじな」の可能性がないとは云えないのではないだろうか。出版社と作家は一心同体と云いながら、実は出版社も自らの権益拡大ばかり考えているとしたら残念なことである。

 この問題は、そういうことを思い起こさせてくれる事案である。


「この世界の片隅に」を観て大泣きしたよ(前篇)

 いい映画を観るとおいらは泣くのである。


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 最近では、「ラ・ラ・ランド」を観たときも泣いてしまった。不覚であるが、経年によって涙腺が緩んでいるのかもしれない。

 さて、広島横川「おちょこ」の続きを続ける。

 Oくんとの話しの中で女性が使う広島弁のことが話題になったのである。

 おいらは多感な少年時代を福山、つまり、備後で過ごした。備後なまりは、早い話しが岡山弁に近い。

 岡山弁の代表は「三匹の侍」で一世を風靡した長門勇の決め台詞「おえりゃぁせんのぅ」である。

 ユーモラスではあるが、どうにもやぼったい。それに備後弁は「早くしろ」を「早うしぇ~」と云うので、し(si)をしぇ(she)に発音する。これでは、言葉がきつくなる(岡山の人、ごめんなさい)。

 他方で安芸弁(広島弁)は、いいよん。

「早くしろ」は「早うしんさい」となるのである。

 これをうら若き女性がぽつりと「早うしんさい」と云えば、あたかも京都言葉のような上品な響きになるのである。

 この持論をおいらがOくんに伝授すると、Oくんは突然「この世界の片隅に」の映画を話題にしたのである。

 彼は、この映画でいかに広島弁がやさしくて、ほっこりして、心に響くかを力説したのである。

 しかも、アニメの主人公の吹き替えはあの「あまちゃん」を演じた「のん」である。おいらは、あまちゃんが広島弁を喋るともう絶品になるのは間違いないと膝を叩いたのである。

 おいらはこの映画がキネ旬の今年度第一位であることも知っていたし、映画評論家S氏もこの映画を絶賛していたので、観たいとは思っていたのだが、いかんせん、もう上映していないだろうと諦めていたのである。

 そう云ったら、Oくんは「何を云うとるんか。広島ではロングランでまだやっとる。明日観に行け」とのたまうではないか(この項続く)。


「この世界の片隅に」を観て大泣きしたよ(中篇)

 そうとなったら、おいらは雨が降ろうが槍が降ろうがこの映画を観たい。


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 翌日の所用が午後早い時間に終了したので、上映していると聞いていた「八丁座」(福屋八丁堀本店8階)に出向いた。やってる、やってる。嬉しいのぅ。

 だが、当日の上映時間を聞くと夕方から開始なのである。おいらは自宅のガスの開栓を夕方5時に依頼しているので、戻らなければならない。

 う~ん、残念。

 しかし、捨てる神あれば、拾う神ありである。

 広島最終日の月曜日の朝一番からの上映であれば、八丁座の向かいの東急ハンズビル8階にある「サロンシネマ」で上映していると分かったのである。

 おいらは月曜日の午後からも広島市内で所用を予定していたので、スケジュールはドンピシャ。

 観覧後、所用で面談したSさんに映画のことを話したら、「よかったでせう」と間髪を入れずの回答が返ってきた。

 おいらは驚いたのである。普段、映画など観そうにないSさんがこの映画にメロメロである。おいらが会う広島人は皆、この映画を褒めるのである。

 ここまで書くと、もっと書いちゃえ。

 今回の広島最終日、おいらは実家の戸締りをする前に家庭ごみをまとめてゴミ収集場に持って行ったのである。

 そこで近所のEさんにお会いしたのである。Eさんから声をかけられたので、何気なくこの映画を観に行くと話したら、大盛り上がり。絶対に観なさいとエールを送られたのである。

 おいおい、広島人は全員がこの映画を観ているではないか。

 しかも、Oくんからもわざわざ上映スケジュールと上映館を調べたメールを連絡してくれたのである。

 こんなに愛されている映画なんてないよ。

 おいらは気合を入れてサロンシネマに向かったのである(この項続く)。


「この世界の片隅に」を観て大泣きしたよ(後篇)

 さて、映画の感想である。


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 文句なしの名画である。Oくんの話しのとおり、広島弁サイコー、のんサイコーである。

 実は、映画を観る前にOくんからこの映画が物言わぬ反戦映画だと教わっていた。

 反戦映画にもかかわらず、ひと言も反戦と云わない映画なのである。

 おいらはそういう先入観を持ってこの映画を観たのだが、その概念は吹っ飛んだのである。そういうチャチな映画ではない。

 骨太の、人生とは何かを考えさせてくれる、映画なのである。

 人生とは、つまるところ、仕事と家庭(伴侶、家族)というのがおいらの持論だが(このブログの「人生とは」参照)、生きるとは何か、家族とは何か、夫婦とは何か、がぎっしりと詰まった珠玉の作品である。

 また、悲しさを表現するのに悲しいということを云う必要がないことも分かるのである。本当の悲しさとは、何も云わないことによって伝わるのである。

 しかも、登場人物のキャラが際立っている、特に主人公のお姉さんがいい。最後のシーン(浮浪者の少年が登場)もいい。救われる。

 また、空襲のリアルさがアニメで表現可能かとも思ったが、しっかりと描かれている。おいらはアニメ映画は苦手だが、そんなことは上映時間中、一度も考えることがなかった。

 戦争が不可避の時代、戦争中だから何が起こってもやむを得ないという考えは誤りだと分かるし、戦争は犯罪なのだと改めて思うが、そういうことを一切云わないで、淡々と主人公の日常を追うこの映画は人生とは何かを改めて知らせてくれるのである。

 もう一度観るなら、愚妻と一緒に観に行きたいと思う(首都圏でもロングラン上映を続行中と分かった)。

 Oくん、Sさん、Sさん、Eさん、改めてありがとう(この項終り)。


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