さすらいの天才不良文学中年

さすらいの天才不良文学中年

人生の達人たち 坂崎重盛

野毛で坂崎重盛氏と一献を傾ける(前篇)

 このタイトルだけで中身が想像できる人は、酒の通である。


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 まず坂崎重盛氏。不良隠居(本職不明なるもエッセイスト)として知られる。

 おいらは嵐山光三郎氏の大ファンであり、氏のエセーを読むと必ず出てくるのがこの坂崎氏なのである。

 だから、おいらは若いときから坂崎氏のエセーを読み漁り、「豚もおだてりゃ木に登る。河童もけなせば溺れ死ぬ」などの人を喰ったタイトルのエセーににんまりとしていたのである。

 そうしたら先日開催された吉田類さんの某句会(おいらも参加メンバー)で、類さんが坂崎氏と知己であり、氏のことを人生の達人と褒めておられたので、おいらもそりゃそうだろうと膝を叩いていたのである。

 類さんのたまわく。

 坂崎さんのご実家は墨田区の酒屋(武蔵屋坂崎商店)。だから、幼少のころから酒に馴染んでおり、酒は筋金入りです。

 アルフィーの坂崎幸之助さんは氏の甥っこであり、幸之助さんによれば、坂崎重盛さんは自由人で法事などがあると隅で一人酔っぱらっていることがあったらしいのですが、愛すべき人で幸之助さんにとってのあこがれの人だったらしい。

 ね、いいでせう。

 その坂崎氏が講師を務めるカルチャーセンター講座「坂崎重盛の酒場のある街散歩」(17年10月21日。於・NHK文化センター横浜教室)があるというではないか。

 聞いてみると、氏による約1時間の講話のあと、参加メンバーと野毛を散策するという。参加人員はグループで移動するので、少人数(約15名)とのこと。散策の後は、氏を囲んで吞むことになる。

 しかも、野毛は知る人ぞ知る、横浜のディープな飲み屋スポット。かつての色街と隣合わせであり、酔っ払いのメッカである。

 おいらがその講座に参加したのは当然のことであった(この項続く)。


野毛で坂崎重盛氏と一献を傾ける(中篇)

 その坂崎氏による講話である。


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 氏は昭和17年生まれで千葉大学園芸学部(造園学科)を卒業され、昭和41年に横浜市役所(公園部)に勤務される(上の「野毛あらましMAP」は坂崎氏作製)。

 大学時代から銀座、有楽町、上野、渋谷、新宿、横浜などに出入りされ、銀座7丁目のシャンソン喫茶「銀巴里(ぎんパリ)」(90年閉店)では、当時午後6時まではモダンジャズがかかっており、コーヒー一杯50円でその後も居続けることが可能であったというお話しから始まったのである。

 氏は横浜市役所に採用され、三ツ沢公園北部事務所に配属、当時は久保山に下宿していて、勤務先から歩いて帰っておられたそうだ。

 関内の横浜スタジアムはボロボロで(遊郭跡地に建設)、当時の黄金町は黒澤映画の「天国と地獄」そのままで怖くて近寄ることができなかったという。

 伊勢佐木町も人気になる前のザ・ピーナッツが唄っていたり、現在の「ウインズ」のある場所には「横浜国際劇場」が建っており、美空ひばりがデビューしたなどの話しが無造作に語られるのである(美空ひばり主演映画「悲しき口笛」の舞台は野毛)。

 ま、都市の生き字引だね。

 横浜のディープな場所の歴史は戦後、良いところが米軍に占領され、見向きもされない場所に人が集まったことから始まったという。

 その一つが野毛で、野毛に行けば飯と職にありつけたというのである。

 氏によれば、山に人が集まれば「仙」=建物になり、谷に人が集まれば「俗」=飲み屋になる。その集合が街である。人間にも頭脳と下半身とが必要なように街にも同じ機能が必要。飲み屋の存在は許されてしかるべきとのたまわれるのである。

 で、ご自身は市役所勤務で児童公園等を設計されるのであるが、3年で退職。居心地はとてもよかったのに辞められた理由は、役所にいると人生の先が見えてしまうからという悟りを開いたお釈迦様のような話しである。

 また、街が時代を経ることによってどんどん綺麗になっていくのはツマラナイと平気でおっしゃられる。おいらもそのとおりだと思う。

 そして、横浜の反町公園が昔は遊郭だったとか、本牧にあった「チャブ屋(ちゃぶや)」にまで話しが及ぶのである。チャブ屋とは谷崎潤一郎の「鍵」に登場する横浜、神戸にあった売春宿のことである。

 要するに氏は一時期であれ、都市を設計するという観点から街を観ておられたので、街の在り方の視点が歴史観と都市論と人生観によって成り立っておられるのだと見た。

 さて、そういう話しが次から次へと鉄砲玉のように出てくるものだから、あっという間の1時間。氏はさっさと話しを切り上げて野毛へ繰り出そうとされるのである。そうこなくっちゃ。

 さあ、いよいよ野毛散策である(この項続く)。


野毛で坂崎重盛氏と一献を傾ける(後篇)

 あいにく外は雨である。


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 坂崎氏と講座担当のWさん、それに生徒の合計20名弱が集団となって、横浜ディープエリア迷い道散歩の始まりである(上の「横浜ディープエリア迷い道散歩」も坂崎氏作製)。

 おおまかに云うと、桜木町駅と関内駅と黄金町駅の三つの駅を囲むトライアングル(逆三角形)エリアがディープスポットである。

 そのトライアングルの中央に大岡川が流れており(桜並木)、この川には8つの橋がある。川と橋のセットがこの街の風情を醸し出しているのだ。

 一行は桜木町からスタートし、まず野毛を南方面に縦貫する。

 宮川橋を渡り、福富町の川沿いを南下する。ここは昔の青線で現在ではソープ街である。

 長者橋にさしかかると今度は日の出町駅方面に向かって橋を渡る。

 日の出町から黄金町の川沿いはかつて「大岡川スラム」で悪名をはせた一帯である。

 1階は飲食店だが2階は売春宿という特殊飲食店がバラックのように林立し、昭和33年の売春防止法施行以後はヒロポンやヘロインなどの麻薬密売の温床でもあったという怖い場所である(その雰囲気は前出「天国と地獄」にリアルに再現されている)。

 しかし、2005年、浄化作戦によってこの街は現在、アートの街に変貌しつつある。

 さて、一行はその後、黄金橋を渡り、イセザキ・モール(青江三奈で有名となった伊勢佐木町)を北上する。

 そして、吉田町を経由して都橋を渡り、お目当ての野毛「都橋商店街(マーケット)」に午後5時半ごろ到着。


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 ここのマーケットの「ホッピー仙人」が坂崎氏の行きつけのお店で午後7時まで貸し切り。


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 スタンドは7、8名で満席となるので、皆で壁にも並んで角打ちならぬ立ち吞みで大盛り上がり。


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 マスター、ありがとうございました。美味しいホッピー(おいらはラムで割った)、また呑みたい~(写真上はマスター)。

 さて、おいらは坂崎氏の真後ろに陣取ることができたので、氏と多くを話すことができた。幸せである。

 その中の一つ。アラーキー(荒木経惟)も千葉大なので、氏にそのことを伺ったら、千葉大はアルチザン(技術師、職人)を育てる気運があるとの由、おいらはなるほどと唸ったのである。

 もう一つ。色気と食い気、先生はどちらでしょうかと尋ねたら、間髪を入れず、色気ですとの回答。いいよねぇ。

 坂崎重盛氏、ダンディでオシャレで(当日もステッキ傘を持参)、現在75歳であられるが全く枯れてはおられず、年齢を感じさせない魅力たっぷりのお方であった。誠に男の色気は70からである。

 おいらも氏のように生きてみたいものである(この項終わり)。


野毛で坂崎重盛氏と一献を傾ける(番外篇その1)

 坂崎氏から聞いた「チャブ屋(ちゃぶや)」という言葉を知らなかったので、番外編はそのお話し。


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 調べてみると、チャブ屋とは明治後半から昭和初期までに横浜市中区本牧の小港地区および石川町の大丸谷(現在のイタリア山中腹)に集中していた外人(日本在住の外人や外国船の船乗り)相手の売春宿のことである。

 1階にはバーカウンターとダンスホールがあり、ピアノの生演奏や蓄音機による伴奏があり、2階に売春用の個室が並んでいた。

 横浜独自の風俗といわれるが、神戸や函館などの港町にも存在していたと云われる。

 なぜチャブ屋かというと、英語の軽食屋「CHOP HOUSE(チョップ・ハウス)」が訛ったという説が有力である。

 このチャブ屋で有名だったのが、小港地区の「キヨホテル」。

 谷崎潤一郎の「鍵」(写真上)にチャブ屋の記述があるが、彼は大正9年(1920年)に横浜に移り、彼の家の隣がチャブ屋「キヨホテル(屋号はキヨ・ハウス)」であったという(当時のキヨホテルの女給「メリケンお浜」は売れっ子で有名)。

 さて、チャブ屋を語るには当時のジャズを理解しなければならない。

 大正から昭和初期にかけてのジャズは、聴くための音楽ではなく、踊るための音楽だったのである。

 要はダンスが踊れる場所としてチャブ屋が存在していたのである。

 チャブ屋ではビール一本を注文すれば、チャブ屋の女と好きなだけ踊ることが出来た。また、市中のダンスホールは夜半には営業を止めてしまうが、チャブ屋は明け方まで営業していたのでジャズやダンス好きが集まったのである。

 このため、ジャズやダンス愛好家の間ではチャブ屋は貴重な存在となり、ジャズや映画、ミステリーの評論家であった植草甚一は独身だった昭和10年代、チャブ屋に泊まり込み、ジャズ浸りになったことが何度もあったという。

 そのJ・Jは後年、「チャブ屋で聞いた洋楽がジャズへの愛の入り口となった」と述懐している。

 だから、純粋に食事やダンスなどの目的でチャブ屋の1階に遊びに来る客もいたわけであり、必ずしも売春宿とは云えなかったようだ。

 いやぁ、世の中にはまだ知らないことがイッパイある(この項続く)。


野毛で坂崎重盛氏と一献を傾ける(番外篇その2)

 次に、黄金町のお話し。


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 坂崎氏が市役所勤務時代、黄金町は怖くて近寄れなかったと云う話しをされたのが意外に思ったのである。

 なぜなら、あれだけ好奇心の強い氏が行かないと云うにはそれだけの理由があるはずだと、これも黄金町の歴史を調べてみるとさもありなん。

 そこは、青線地帯のみならず麻薬の巣屈だったのである。

 そもそも黄金町は、戦前から大岡川の船運を活用した問屋街として栄えたのである。

 しかし、戦争の惨禍で横浜も空襲で焼け野原となり(昭和20年5月29日の横浜大空襲)、福富町や長者町方面は「戦時住区」とされ立ち退き命令が出た。

 その命令によって戦時住区に住んでいた人たちは黄金町や日ノ出町方面に移り住み、今までの街並みが変わってしまったのである。とにかく空いている所に皆が転入したのだが、時が時なので地主も入ってしまった人に立ち退けとは云えず、結局、住んだ者勝ちとなった。

 このため、黄金町周辺や日ノ出町付近の大岡川沿岸にはバラックが建ち並び(大岡川スラム)、さらに、はしけを転用した不法水上ホテルまでが浮くことになる。

 さらに、終戦後は高架下のバラック小屋が飲食店に変わり、そんな店の中から女性が客を取る店、いわゆる「ちょんの間」が現れ、黄金町はいつしか関東でも屈指の青線地帯となったのである。

 しかし、それだけではない。戦後の黄金町はヒロポンやヘロインなどの麻薬密売の温床でもあった。

 特に昭和20年代は、大岡川を境界に密売組織による縄張り争いが頻発し、警察官すら身の危険を感じて巡回が出来ない街になったという。

 これでは、さすがの坂崎氏も黄金町には行けないなぁ。

 昭和33年の売春防止法施行に伴い一旦は売春宿の火が消えたが、その間隙を縫って麻薬の売買が盛んとなった。

 その臨界点が昭和37年7月6日の事件である。

 警察の取締によって麻薬の供給源を断たれた200人あまりの中毒患者が路上に飛び出し、禁断症状による阿鼻叫喚となったのである。ひえ~。

 さすがにこの騒ぎは社会問題とされ、バラックの撤去や街灯の整備、麻薬更生施設の設置などが行われ、麻薬禍は過去のものになったという。

 なるほど、黒澤映画「天国と地獄」の黄金町のシーンは只者ではないと思ったが、こうしてみると当時の黄金町は半端ではない。

 坂崎先生、よくわかりました。行ってはいけません、ハイ(この項終り)。



人生の達人その2

 生き方が気になる先輩、その全ての人が人生の達人である。

 さて、そのうちの一人にミニコミ紙を発行しているSさんがいる。これまで何回かこのブログでも紹介をしてきたが、一言でいうと、人生を愉しむ達人である(写真は05年12月号「情報の缶詰」(通巻第116号(A4版14頁)。セキネットワークス株式会社発行))。


情報の缶詰


 Sさんの人となりを述べよう。昭和16年生れ。一部上場企業をおいらと同じ54才で早期退職後、セキネットワークス株式会社を設立し、社長に就任。損害保険代理業の傍ら、月刊「情報の缶詰」を10年前に創刊。

 アイデアマンでもある。ミニコミ紙の購読者を一同に集めてパーティを開催する。新らし物好きで、何にでもすぐ手を出す(NHKのテレビにも出てしまう)。ちょっと海外までと言ってトルコやエジプトへ入ったり、写真家の萩野矢慶記氏とは2度もウズベキスタンへ足をのばし写真紀行集を発刊する。北欧にはオーロラ見物に行く。気の合う若い連中との酒席を愉しむ。奥方思いで、休日は若いときに日光へ建てた別荘でゆっくりと家族とすごす。神出鬼没、自由奔放と言うべきか。飄々として、見事にご自分の世界を確立されている。

 そのSさんの言葉に「小生はもとより金はないが、「カネが無い」と思ったことは一度も無い。贅沢はできないが、晩酌をやれるだけの金さえあれば十分だ。だから「カネは有る」と思うようにしている。こうした心理状態の人が本当の金持ちであろう。」(情報の缶詰05年3月号「諸事雑感」)というのがある。

 唸ってしまった。足るを知る立派な哲学者である。達人に爪の垢でも煎じてもらおう。




恐怖のパとフェ(人生の達人その3)

 「パとフェ」だが、パフェの話しではない。日本カレー党党首M氏の話しである。

 M氏は、飄々とした、人生の達人である。

 カレーを3ヶ月間続けて食べても平気という。もっとも本人の弁によれば、オムライスを1ヶ月間昼ごはんに続けても平気らしいから、ただのものぐさか味覚偏執狂の可能性もある。


印度神


 おいらより2年先輩である。博学・博識で、英語・仏語に堪能。特に語学には強く、語源や発音にはこだわる。共通1次試験(今はそう言わないらしい)の発音やアクセントの試験問題を解くのが趣味である。オリコン・ヒット・チャートにも造詣が深い。未だにモー娘全員の顔の区別がつく。最近の情報によれば、M氏は史跡(特に古城)にも興味の輪を拡げておられるらしい。

 最近は仙人のような風貌をしておられ、飄々としたその性格は、慎重だが大胆、大胆だが繊細という2面性も持ち合わせている。般若湯も嫌いではない。併し、おいらとの飲みあわせはdangerousで、いつか二人で短時間にボトル2本相当分を空にし、お互い前後不覚になったこともある。

 尊敬すべき人で、ロンドン出張時には大変お世話になった。相性が良いのかもしれない。それは、おそらくM氏がパでおいらがフェだからであろう。

 この場合、パとは、パラノイア(偏執狂)を意味し、フェはフェティシズム(物崇拝)を表す、二人で酔ったときに怪論するときの符丁である。上述のように、M氏のパ振りは筋金入りである。このM氏のパに対しおいらのフェと共に酒を飲むと二人の話題はあまねく尽きず、さりとて一つの話題にいくら掘り下げてもお互いの話しは先へ先へと進むのである。

 ハブとマングースのように、パとフェは相性が良いのかもしれない。どちらがハブでどちらがマングースかは不明だが、パとフェのセットで価値が出るような気もする。

 パとフェでまた飲みたくなってしまうお人であり、これからも仙人のようなM氏の達人振りを見習いたいと切に願う。




カーブ愛好会(前編その1)

 発端は、人生の達人である「日本カレー党」党首M氏と飲んでいるときであった。


白楽駅


 おいらが、東急東横線の謎をふと口走ったのである。

「東急東横線の東白楽駅は、白楽駅の西側に位置しているのに、何故『東』白楽駅という名前が付いているのだろう」(写真は白楽駅ホームから東白楽駅方面を望む)

 この独り言をM氏が聞き逃すことはなかった。

「確かにそれは不思議だ。しかし、そういう例はあるもので、京急線の北品川駅はJRの品川駅の南にあるのに『北』品川駅という。これは、JR自らの威光により(早い話しが官尊民卑で)『品川』と定めたからではないかと推測している。ところで、記憶によれば東白楽駅は白楽駅よりちゃんと東に位置していたのではないか」とM氏の蘊蓄が披露されたのである。

 M氏は日本カレー党党首の傍ら、「鉄(てっ)ちゃん」でもおありになるのだ。

 実は、この謎を解くべく、おいらは既に東急東横線の某駅で駅員にこの謎を訪ねていたのである。

 駅員は、

「確かに白楽駅が渋谷寄りで、東白楽駅は横浜寄りだから東白楽の名前は不思議だが、昔から東白楽駅と呼んでいた」

 と、意味不明の回答を得ていたのだ。

 そのM氏から、翌日、次のようなメールが届いた。

「昨深夜ふと思い出して地図を見たら、やはり東白楽 is easter than 白楽

 While

 品川 is norther than 北品川でした」

 すかさず、おいらは地図を広げてみると、のけぞった。

 確かに東ではある。しかし、これを東と呼んで良いものだろうか。南に位置しているのではないか。何故、敢えてそう命名しなければならなかったのか。

 疑問は募るばかりである(続く)。


カーブ愛好会(前編その2)

 そこで、おいらは次のようなメールを返した。


白楽地図


「御意。

 小職も地図を取り出して調べましたが、地形的には『南白楽』と云っても良いですね。駅名は、柳田國男ではありませんが、歴史と由来で出来上がっているので、もっと深い理由があるのかも知れません(大学がないのに、未だに『学芸大学』とか『都立大学』の名前にこだわっているが如し)。

 と、ここまで書いて、Wikipediaに何か書いてあるのではと開いてみましたが、見当たりません。分かったのは、『白楽駅』が大正15年に出来て、昭和2年に『東白楽駅』が出来たことです。だから、後に出来た駅名に東を付けたという推理が成り立ちます。

 そこで、由来を東白楽の駅員に直接尋ねてみます(前回は違う駅の駅員に聞いたので)」

 このメールの応酬は続く。

 M氏からの返信メール。

「是非そうしてください。『北品川駅』は『品川駅』より後に作られたので(←『品川駅』は日本最初の鉄道=『新橋』(つい何年か前までの『汐留』)・『横浜』(現『桜木町』)間が開通した時に設けられた)、京浜急行が駅名をつけるにあたって既にある『品川駅』より南なのに「強引に」『北品川駅』と名付けたことになります。

 何故か。駅の所在地の地名が『北品川』だったからか? 恐らくそこが品川宿の北の方だったからではないかと推測します(宿場の中の北の方なのか、宿場をはずれて北の方だったかは知らない)。

 要するに、官設鉄道の駅は品川宿をどえらくはずれて北だった(高輪に近い)のに、『北北品川駅』などとせずに『ここが品川駅じゃ。何が悪い。』としちゃったんじゃないでしょうか。

 で、京急は、後からにしろ『北品川にある駅に『北品川駅』ってつけて何が悪い』と意地になったのかも知れません。以上、調べもしないで書いているので間違っている恐れあり。

 で、何だというと、『東白楽駅』も地名の東白楽から来ているかもしれないということ。地名の東白楽はおおむね白楽の東側っていう感じ、とか。

 でなきゃ、駅だけの位置関係を考えたら、貴職が言われるように、どう考えたって、南白楽ですよね。 以上単なる推測」(続く)


カーブ愛好会(前編その3)

「東白楽駅」の謎は果たして解けるのか。


東横線2


 おいらの返信メールである。

「東白楽駅周辺の地名の調べてみましたが、現在の地名表示に東白楽はないようです。しかし、昔の地名に東白楽はあった可能性はあるので、それも考えながら、東急東横線の横浜駅で東白楽駅の謎を尋ねました。

 運良く、その駅員は東白楽詰めの駅員でもあることが判明したのですが、結論は不明だとのことです。『良く聞かれる質問ではあるが、昔の人でも知らないのではないか』と自分の勉強不足に気付いていない回答でした!

 しかし、その駅員、曰く、『東急お客さまセンター』に電話して聞くと分かるかも知れないと『東急お客さまセンター』のチラシをくれました。

 この電話がいつも通話中(しかも0120ではない)だったのですが、遂に本日午前中繋がり、聞いてみることが出来ました。オペレーターは若い女性で勿論回答不能でしたが、折り返し自宅に電話くれるということで待つこと10分、電話が鳴りました。

 結論。

 その昔、今の『東白楽駅』の西側は小高い丘で、その名を白楽山(丘)と地元の人は呼んでいたとのことです。その丘(山)の東に駅を造ったので(だから線路が無駄に蛇行している)、東白楽となったそうです。つまり、『大倉山駅』と同じで、『東白楽山駅』または『白楽山東駅』が正しい駅名なのかも知れません。今度、念のため、東白楽駅で下車し、白楽山に登ってみます。

 いやあ、永年の謎が解けてスッキリ!!」


 M氏からの回答メールが直ちに届いた。

「謎の不良中年特派員殿

 調査お疲れ様でした。

 なるほど、あのカーブは山裾を巻いたカーブだったわけですね。神田山の裾を巻いた靖国通りと一緒でカーブの形が結構きれいですね。

 ところで、白楽山から見ると正確には東北なので(多分)、『東北白楽駅』とすべきところ、これでは東北地方にあるという誤解を生む恐れありということで、やむなく断念したものかも知れません(→ありえない)。

 ともかく地図上のカーブはアタマに焼き付きましたので、今度東横線に乗るときは運転席の真うしろに張り付いて地形を凝視することにしましょう。

 東横線については横浜駅をもぐらせる前(もぐらせることを知らなかった時点で)、東海道線を高架で越えたあといったいどうやって地下に突っ込ませMM線につなげるのかと、真うしろ張り付きをやったことがあります。

 M張付人(はりつきびと。はりつけ、ではない)」

 無事、駅名の謎は解明されたのであるが、このメールを頂いたお陰で、おいらには新たな疑問が生じたのである(後編に続く)。


カーブ愛好会(後編その1)

 新たな謎とは、地下鉄道のカーブである。


 後編はおいらのメールから始まる。

「M大兄

 先日、小職も東急東横線(渋谷行き)の最後尾の張付き人になって、東白楽駅の左側を凝視したのです。


東白楽から望む


 なだらかなカーブに沿って白楽山が申し訳なさそうに丘を築いており、丘の上は住宅が密集していました。白楽駅に近づくと、もう丘はなくなっていました。

 堪能しました。知る人ぞ知る、醍醐味です。

 ところで、ご存知のとおり、東横線は反町の手前から地下にもぐります。地下なので、線路は直線であっても良さそうなものですが、反町の駅舎はこれまた、なだらかなカーブになっています。


反町駅構内


 何故なのでしょう? 地下だから真っ直ぐにしなさい!

 他の地下鉄があるから? それともでかいガス管でもあるのかなぁ?

 これも某駅の駅員に聞いたら、「すんません、分かりません」でした。

 M探偵、真相をご教示ください」


 すぐに返事が入った。

「白楽山、すぐにでも見たい、見たい。

 貴兄もとうとうカーブ愛好人になっちゃいましたね。「カーブ研究会」でも作りましょうか(何でもすぐ作っちゃう)。

 反町の件、もちろん確証はありませんが、多分地上を走っていた時のカーブがそのまま地下にあるっていうことじゃないかと思います。

 他の地下鉄やでかいガス管がなくても、モグラじゃないんで、まっすぐ行きゃ近いという理由だけで他人の土地の下を通ることは許されません(ただし、○○メートル以下の超深度の地下は地上の所有者とは無関係に掘れるはずです)。

 つまり、トンネル入口から横浜駅あたりまでは、もとの東横線が通っていたところのちょうど真下を通っているということ。横浜駅を出発してすぐは、かつてはジェットコースターまがいにカーブして、その間に東海道線と京急をまたいで、そのあと京浜東北と並んで走っていましたが、今は地下でどのあたりでどう曲げてみなとみらい線の新高島駅方面に持って行っているかは大いに興味のあるところです。

 新設「カーブ研究会」の最初のテーマにちょうどいいものではあります。えっ、そんな会まだ出来てない?あっ、そうか」(続く)


カーブ愛好会(後編その2)

「カーブ愛好会会報

 M探偵さま

 なるほど、そういうことでしたか。流石に名探偵!

 確かに地上権の関係があるので、むやみには掘れないですねぇ。しかし、そうだとすると、地下鉄を掘るのに、地上権を取得せねばトンネルが掘れないことになり、合理的ではなくなるのではないでせうか?

(ま、皇居の下は理由の如何を問わず、掘れそうにありませんが…)

 地下鉄道に関しては、何か特別法があるような気がしないでもないのですが?

 どうも地下鉄でのカーブは、必然性があるときのカーブでないと気持ちが悪い気持ちがするのです(恣意的にカーブを作る楽しみは逆に分かりますが…)

 すんません、どうでもいい話しになってしまいました」


クライスラービル


 これに対するM氏の意見

「地下鉄はって云うと、おおむね道路の下を走るんですよ。だから結構90度曲がるっていう場所もあります(例えば、新橋・汐留あたりの地図で地下鉄センロの位置を見てみてください)。

 もちろん自動車じゃないんでそう鋭角には回れませんので、少し丸みをつけています。だからミチがあまり広くなかったり、はみ出してもそこが公園だったりの場合は、かなり道路でない部分を通っているところもあります。そういう時はやはり、勝手にはやらずOKを取っているんでしょう。

 特別法か何かもありそうですね(知りません)。

 NYなんかは、道路の作りがああいう感じですし、道幅も広いんであまり道路からはみ出さないで走っています。先頭車両で『はりつきびと』になってると『おっ、90度曲がったな』というのがよく分かります。

 なお、NYの先頭車両は運転席が片側3分の1しかなく、反対側の3分の1との間は、乗客が車両前面のぎりぎりまで貼りつけるのでなかなか迫力があります(それだけに競争は激しい。1回そこにおさまったマニアはなかなかどかない)。

 NYのカーブで思い出しましたが、地下鉄が地上を走っていることも多いクイーンズやブルックリンは先頭に乗っていて飽きることがありません。

 グランド・セントラルから出ている7号線(ややうろ覚え。以下同様)=オリエント・エクスプレスなんかは、川を渡ってクイーンズに入ってすぐ地上に出、空中に上り、それこそジェットコースターのようにキイキイ云いながら、90度左折します。それからしばらく北上して、今度はクイーンズ何たらという駅に入っていくところでまたもやコースターばりに今度は右に90度。一番前になど乗っていたらすごい迫力です。

 どんどん思い出しちゃいますが、そうそう昔は2NDや3RDにも高架鉄道が走っていて、脱線して高架線から下の道路まで機関車が落っこったりしていました。危ないですね。怖いですね。とつぜん終わり」(外伝に続く)


カーブ愛好会(外伝「広軌」とは)

 カーブ愛好会が好評であったので(ほんまかいな)、外伝を披露する。


東北新幹線


 カーブについてM氏とメールでやり取りしていると、氏から新たな蘊蓄が披露された。

 M氏から、「京急の北品川駅とは関係ありませんが、京急は新幹線と同じ『標準軌』(JRより広い)なんですよ」という話しを聞いたのである。

 おいらが、「そうですか、それにしても京急が『広軌』だとは知らなんだ。げに、この世は面白い話しで一杯ですなぁ」と伝えたところ、直ちに次のメールが届いた。


「京急は『広軌』ではなく『標準軌』です(つまり、新幹線も『標準軌』)。

 てっちゃんの世界では、両者は峻別されています。1435ミリが『標準軌』、それより広いのはすべて(10メートルであっても→そんなのはないと思いますが)『広軌』です。

 スペイン、ポルトガル、ロシアなどが『広軌』。ヨーロッパ中心部から直接鉄道で兵隊が乗り込んでこないようにするため、とか云われています。

 スペインとポルトガルは、3ミリくらい違うけど無視して乗り入れを行っているみたいです。ただ、フランス・スペイン間はそのままでは乗り入れられないので、直通の列車は途中駅で台車を履き替えたり、自動で変換する機械を通したりしています。

 で、スペインで高速鉄道(新幹線)を作った時は、将来他国と相互乗り入れできるようにということで、日本とは逆に、在来線より幅の狭い『標準軌』で作りました。

 おっと。この世界にのめり込んでいくと止まらなくなるので、京急の『標準軌』の話しは色々おもしろい話しがあるんですけど、やめときます」


 そうだったのか。おいらの眼から鱗がポロリ。

 では、何故、おいらがレールの広さを「狭軌」と「広軌」の二つに分けて考えていたかというと、その昔、「少年マガジン」か「サンデー」、はたまた「ボーイズライフ(こんな雑誌、皆、知らねえだろうなぁ)」を小学生のときに読んでいたとき、「今度、東京大阪間を走る新幹線は従来の『狭軌』ではなく、『広軌』です」と表示してあったのを覚えていたからである。

 これは、思うに、当時の小学生にとって、いや、日本人にとって、「新幹線のレールは今までの鉄道と違って広いんだ」という伝達の仕方で十分だったからではないかと推測するのである。

 もし、「標準軌」というものを説明するとなると、新幹線は夢の超特急だから標準より広くなければオカシイと、当時の日本に無用の混乱を招いたかも知れないからである(そんなことはないか)。

 いずれにしても、M氏のお陰で「狭軌」「標準軌」「広軌」の3つの区分を知ることになった次第である。ディープな世界は怖いのぅ(この項終り)。



人生の師(人生の達人その4)

 人生で仕えたと思う師は二人いる。そのうちの一人を紹介する(写真とは関係ありませぬ)。


坂本竜馬


 スケールがでかく、一国一城の主(あるじ)たる人である。大枠を決めたら部下にまかす。それでいて、細かいところまで眼を通している。懐が深い。同時にダンディで、洒落が通用する人でもある。

 欠点は、悪人になれきれぬところであろうか。悪ぶっていても、根は善人である。


 さて、師としての重要な要素の一つに、部下を守るというのがある。
スケールがでかかったり、人物であったりしても、いざというとき部下を見殺しにするのでは、師としての資格などない。

 今の世で、リーダーといわれる人で部下と一蓮托生にならぬ人の何と多いことか(某国の総理もそうではないか)。しかし、氏はその点からも問題がない。

 清水の次郎長が何故大親分であったかというと、部下の面倒をみたからである。山本五十六が日本を束ねることが出来たのも同じ理由からだ。しかし、面倒を見たからと言って、私利私欲で徒党を組むのではない。来るものは拒まず、去るものは追わずの精神である。

 しかし、えてしてこういう大人(たいじん)は男の嫉妬によって足をひっぱられやすい。

 おいらはこれまで敵わないと思った器の人物を三人知っているが、氏はその内の一人であった。しかし、社内の女の腐ったような権力争いに嫌気がさし、つまらないポストへの未練などないから、潔く会社を退職してしまった。如何にも惜しい。

 今でもこの人の生き方はおいらの人生訓である。




仏のKさん(人生の達人その5)

 友にもいろいろあるが、この年になると、一緒にゆっくりとお酒を飲みたいと思う友が一番である(写真は先日一緒に飲んだ店)。


仏のKさん


 気を遣う相手では駄目だ。自分をひけらかす人も嫌いだ。偉ぶる人も敬遠したい。当然、仕事しか頭にない人など御免被りたい。心を許した相手と馬鹿を言いながら、盃を傾ける、そういう友が最高である。併しながら、なかなかそういう友人はいないものだ。

 おっと、仏のKさんがいる。おいらはこの人が大好きだ。

 人との付き合いで難しいのは、距離感である。Kさんは、さりげなくそれをうまく保つ。デリカシーに溢れている。情けも深い。勿論、義理堅い。人間に幅と味があり、部下を可愛がる。バランス感覚も優れている。それでいて押すべきところはきっちり押す。当然仕事も出来る。経理・財務に強く、得難い人材でもある。藤沢周平の描く、人情味溢れた武士のようだ。

 ユーモアにも長けており、ネアカなところも良い。Kさんが怒ったところを見たことがない。そういう仏のような先輩だからファンも多い。親父にしたいナンバー1と言っても良いだろう。

 同郷人でもあり、広島カープのファンというところも良い。酒が強いところも良い。欠点は相性が良過ぎて、お互い翌日を忘れるほど飲みすぎてしまうことか。そう、完璧でないところがまた良い。


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