さすらいの天才不良文学中年

さすらいの天才不良文学中年

母倒れる 母が亡くなる

「自由人」事始め(母倒れる)

母倒れる

 夜の8時を過ぎていた。母の隣家であるKさんから電話が入ったのだ。実家に一人で住んでいる母と連絡が取れないという、胸騒ぎがした。

 一ヶ月前にも同じようなことがあった。毎週日曜日には安否の確認も含めて定期的に電話を入れていたのだが、何度連絡しても母と繋がらないのだ。いやな予感を払拭したのは、電話口からの母の元気な声であった。近所のおばあさんのところに泊まりに行っていたという。喜寿を迎えた母は達者で、疲れを知らないタフマミーである。

 予感が的中しないようにと母の姉に連絡を入れると、一昨日会ったときには予定はなかったはずとの返答。距離的には少し離れているが同じ広島県内のおいらの実弟にも電話をする。義理の妹が電話に出て、聞いていないと言う。これはさすがにおかしい。しかし、本人が確認できればいい分けであるから、直接自宅に電話を入れてみた。驚いた。知らない人間が実家の窓口に出た。電話口から救急車の音が聞こえてくる。

 母は、自宅2階の布団の上で倒れていた。隣家の人が鍵のかかっていない風呂場の窓から自宅に入り、母を発見したのである。救急車で脳外科に搬入された際、母は気丈にも担架に自分から乗ろうとしたらしい。しかし、病院に着いたときには安心したのか、反応が良くなかったという。直ちに、近所に住んでいる叔父(母の弟)夫婦と実弟に電話連絡を入れ、病院に急行してもらう。母を発見した近所の人たちへの電話でのお礼等もすませ、おいらも翌日朝一番の新幹線で病院に直行した。

 新横浜から広島まで約3時間半の車中、思い巡らすことは33年前の父の他界である。同じように深夜に電話が入り、父が亡くなったことを知らされた。翌朝、新幹線で実家に帰る車中、親父のことが片時も脳裏から離れず涙が止め処もなく流れたことを同じ様に思い出していた。縁起でもないことだが、電話連絡によれば最悪のケースも有り得るとのこと、母の安否と今後の対応を含めて、終始おいらの思考は混乱した。

 一人で離れて暮らしている母が寝たきりや車椅子での生活となった場合、今後の生活はどうしていくのか、一命を取りとめたとしても後遺障害が残るとすれば、今後どう対応すれば良いのか、それ以前の当面の看病の問題、今後の具体的な介護の問題、その際の経済的な問題、当方も横浜での新スタートを切ったばかりで動きが取れないことなどである。難儀やなあと、これらの問題がおいらの思考回路の中に一挙にしかも無秩序に押し寄せてきた。

 併し、冷静にならなければならない。まずやらなければならないことは事実の確認である。病院で母の容態を自分の目で確かめ、さらに先生の話しを聞いてしかるべき対策を打つしか方法はない。インターネットで調べた病院も、脳外科では広島で1,2を争う専門病院ということが分かり、安心する。新幹線の車中で冷静になれと自分に何度も言い聞かせた。


病院


病院2


病院3


 母は救急病棟のICU(集中治療室)に酸素マスクや心電図の配線などを体に巻きつけて静かに寝ていた。ICUに入るには、当方もマスク、キャップ(帽子)、病人への感染防止のガウンを着衣しなければならない。

 母を呼びかけると眼は開き、意識もしっかりとあった。知覚もはっきりとしている。左半身は自由に動くが、右半身(特に上半身)が不自由で、言語障害もある。

 病名、脳梗塞。日頃から心臓に疾患があったので、心臓内で出来た血栓が左脳の血管に詰まったらしい。医師によると、この1週間がヤマで脳の腫れがさらにひどくなるようであれば最悪のケース(脳幹圧迫による死亡)を避けるために開頭手術も有り得るという。親戚も呼んでおいた方がいいとのことであり、嫁はんと娘も直ちに広島に呼び寄せた。

 併し、幸いなことに危機的状況を脱出し、奇跡的に入院3日目から回復の兆しが出始めた。頭部の腫れも引き、顔色も断然良くなった。完全看護の病院であるが、朝から夕方まで付き添いとして看病していると、1日1日良くなっていくのが実に良く分かる。入院5日目にはとろみ茶(お茶のジェリー状のもの)を食べ始め、7日目には酸素マスクや心電図をはずして一般病棟に移動、8日目からは遂にリハビリを開始するまでに回復した。

 自我意識もしっかりあり、まだ言葉ははっきりしないものの左手を上手く使って自己主張も繰り返す。脳梗塞にありがちな顔のゆがみもない。表情も生き生きしている。自分が治ろうとする意識が強い。この分だと車椅子に乗る日が思ったより早く来るかもしれない。まったく看病のし甲斐がある病人である。不謹慎だがタリウム事件の女子高生の気持ちが分からないでもない。日々(回復していくことを)観察するのは楽しいことだ。ただし、一喜一憂はしない。恐らく最低でも3ヶ月の入院となる見込みなので、順調に回復しているという方向感を確認することが重要なのだ。

 叔父(母の兄)から、自分も脳内出血で3日間昏睡状態だったと激励の電話がある。医者は寝たきりになると見立てていたが、半年後に退院し、1年療養して今は完全に回復している、したがって心配しないようにとの見舞いの言葉である。心強い。

 母も最低でも車椅子、出来れば杖をついてでも歩けるようになって貰えればと願う。歩行回復可能であれば、実家に帰っての生活も再び出来る。その場合には介護の認定を受けて、在宅看護(デイケア)の道も開けよう。また、歩行が無理でも車椅子の回復が出来れば、この病院は施設を併用しているので施設への入所も検討が可能である。幸い、今回を契機に実家の資産状況を確認したところ、経済的には亡き父の恩給(公務員共済年金)とある程度の蓄えがあることが判明したので、当面金銭面での問題もないことが分かった。

 また、この病院の院長先生が弟と高校時代同じ学校の同級生であることも判明した。叔父(母の弟)の息子(おいらの従兄弟)も医者であり、今回の病院搬送時には尽力を尽くしてくれたことが分かった。感謝。また、母の近所の人たちも続々お見舞いに訪れてくる。まったくご近所の底力だ。

 ともあれ、入院10日目で回復は順調であり、快方の目処がたったので、ひとまず広島を後にすることにした。完全看護の病院ではあるが、今後は三人兄弟が適宜交代で看病しようと考えている。特に末弟が来月から長期間広島に帰っての看病が可能とのことなので、一安心である。おいらも再来週、また看病のため広島に戻る予定である。

 病院を去ろうとしているときに、またサイレンの音が聞こえた。こころが痛む。救急処置室の前で手を合わせている女性が遠くに見えた。




 母重篤(その1)

 5月28日(土)、関東は前日から梅雨入りし、その日の朝も早くから小雨が降っていた。


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 10時頃であった。おいらの携帯に電話が入った。母(82歳)が入所している施設からの電話である。母が今朝から意識が戻らないと云うのだ。

 救急車でこれから広島市民病院に行くという。ただ事ではない。直ちに広島に帰る準備を始めた。

 広島市民病院に電話を入れた。主治医が電話に出てきた。

「脳梗塞です。左側に過去の脳梗塞があり、今回は右側の脳梗塞です。今、昏睡状態で、今後目を開けられることは難しいと思います」

 おいらは手短に前回の脳梗塞のことを話した。

「6年前に左側の脳梗塞で右半身不随となり、言語も不自由になりました。そのときは、病院搬入当日の夜が山で、親戚を呼ぶように云われました。また、脳圧が上がるようであれば頭部を切開するとの話しでしたが、幸いそれをせずに二日後、意識が戻りました。先生、今回は親戚を呼ぶ必要があるでしょうか」

「それは分かりません」

「先生、母の回復のため全力を尽くしてください」

「そうします」

 そういうやりとりがあって、おいらは新幹線に飛び乗った。車中は辛い。いろんなことが思い出された。

 つい先日、母とマツダスタジアムに行ったばかりだ。

 母の大好きな広島カープを一緒に応援した。とても喜んでくれたのだ。

 底抜けに明るくて、太陽のように周りを喜ばせてくれて、それでいて涙もろい母さん。

 おいらの親父が49歳のときに親父をガンで亡くして、45歳のときから女手一つで子供三人を育て上げてくれた母さん。

 絵を描くのが大好きで油絵を一杯残してくれた母さん。

 おはぎやカレーを作って、近所に配るのが生きがいだった母さん。

 ラテンのノリで、周りを励ましてくれた母さん。

 母さんの息子であったことがおいらの誇りだと、心底思う。

 新幹線は広島に到着する(この項続く)。


 母重篤(その2)

 広島駅からタクシーに乗車し、市民病院まで急行した(写真は市民病院屋上から見る広島城)。


広島城


 母は救急病棟にいた。既に弟二人が到着し、母のベッドの傍にいる。

 母と対面だ。母が横たわっている。今回の病気のことを知らなければ、普通に眠っているように見える。

 涙がこみ上げてくる。

 おいらが母の耳元で声をかける。反応がない。昏睡状態である。少し顔の表情が硬い。

 看護師さんがテキパキと母の隣で血圧を測ったりしている。体中に線が巻かれている。酸素マスク、心電図、酸素、血圧、点滴などの線である。

 おいらが到着したので、若い主治医が様子を説明すると云う。先ほどの電話のお礼を云い、話しを聞くことにする。

 説明室に入り、CTスキャンの映像を見せて貰う。新たに右側の脳が黒くなっている。

 結論は先ほどの話しに変わりはなく、脳梗塞になったばかりで危険な状態だが、このまま様子を見るという。

 医師によれば今晩と明日の晩がヤマの様である。ICU病棟に末弟が泊り、母の容態を見守ってくれることになる(この項続く)


 母重篤(その3)

 さて、結論から述べる(写真は実家の上空で見付けた飛行機雲)。


飛行機雲


 入院二日目から、呼びかけると母は目を開けるようになった。

 入院早々から末弟が母の耳元で母に話しかけ続けてくれたため、脳が刺激されたようである。

 容態はその後安定し(熱も下がった)、救急病棟入院4日目には一般病棟へ移ることにもなった。

 まずは最悪期を脱したのである。

 今後は、母の回復力とリハビリに頼ることになりそうである。

 主治医の話しによれば、市民病院は急性期のための病院であるから、平均入院期間は2週間から4週間とのことである。また、その性格上、リハビリは弱い。

 だから、リハビリの充実した病院への転院を勧められたので、母が最初の脳梗塞になったときのH病院への転院紹介状を書いてもらうことになった。

 現在の予定では、市民病院に3週間程度入院し、その後、母はH病院でリハビリを行う予定である。

 今回の脳梗塞で母の左半身も不自由になりそうだが、命さえあれば道は開ける可能性がある。

 おいらが母の耳元で声をかければ、目を開けてくれる。また、ベッドの上で目を見開いている時間も日々多くなっている。

 頑張れ母さん、リハビリで脳梗塞なんてぶっ飛ばせ!(この項、終わり)



広島のこと

 残暑お見舞い申し上げます。


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 広島の大災害、痛ましい限りです。おいらが広島出身なので「実家や親戚、友人知人は大丈夫か」と案じるお見舞いを少なからぬ方々から頂戴しました。

 広島はもともと三角州の上に成り立っている都市ですので、雨には弱い地域です。

 今から約30年前の話しですが、やはり台風のときに大規模な土砂災害があり、おいらの実家の菩提寺の住職が避難指示の出ている住民を助けようとして車ごと川に流されて殉職されたことがありました。

 まだ若いにもかかわらず、人物ができていた素晴らしい住職でした。惜しい人でした。広島に災害が起きるたびにその住職のことを思い出します。ご冥福をお祈りするばかりです。

 今回の未曾有の災害では、不幸中の幸いですが、小職の地縁のある人の災害やご不幸はなさそうです。お見舞いありがとうございました。

 ただし、日を同じくして8月20日(水)の午後、広島で寝たきりになっている母の容体が悪化し、一時、危ない状態となりました。それで、広島に急遽帰る一歩手前までとなり(家内を帰広させました)、慌ただしい数日となりました。

 医者によるとその日の夜がヤマのようでしたが、母は幸いそのヤマを越え、現在では小康状態を保つまでに回復いたしました。安堵していますが、時限爆弾のスイッチは入ったものと覚悟しております。

 実は、そういうこともありまして、この日曜日からの秋田への夏休み旅行(藤田嗣治の大作が置いてある秋田県立美術館(旧平野政吉美術館)探訪)は中止としました。母の容体を考えると、当分、旅行は差し控えるほかありません。

 なお、風邪は3週間目でやっと治りそうです。お盆明けにかかりつけの医者から抗生物質をもらい、大量服用してかなり良くなりました。この暑さで体力が消耗していたのが原因のようです。

 しかし、まだまだ厳しい残暑が続くようです。また、豪雨災害も全国で起きているようです。皆さまもお体くれぐれもご自愛ください。合掌。


母が亡くなるということ(前篇)

 母が亡くなって、通夜、告別式、火葬場での別れ、弔問、初七日が続き、その後、役所などへの手続きなどで忙殺され、昨日の15日に二七日(になのか)を迎えました。


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 これまでの経過は、母が重篤となった8月20日からあっという間の出来事でした。

 この連休は静養に勤めましたので、少し落ち着きました。ご安心ください。

 ある先輩から「ご母堂とは、いつのときでも生の球根で繋がっています。ご自愛ください。」という温かいエールをいただきました。生の球根という表現に心を打たれました。

 母とは、やはり切っても切れない、偉大な存在です。

 本来は四十九日を過ぎて活動するのがしきたりのようでもありますが、現代ではそういうことも云っておられず、このブログも再開します。

 さて、今回の母の死を考えると、9年前に母が脳梗塞で倒れたときまで遡らなければなりません。

 そのときに母の死を考えなかった訳ではありませんが、懸命なリハビリと3年前に脳梗塞が再発して寝たきりになった後でも母は健在でした。したがって、母が死ぬということを真剣に考えることはありませんでした。

 しかし、肉親の死は予期せぬ形で突然やってきます。

 前述のとおり、8月20日に母が重篤だと医師から告げられたのですが、その月の半ばに介護に出向いており元気な母を見たばかりでした。

 いくらなんでも年内は大丈夫だろうとタカをくくっていましたが、容体が悪化してからはあっという間の出来事になってしまいました。

 その間、主治医と延命について話し合ったこと、もし亡くなったら葬式やお寺さんへの連絡をどうするかのこと、亡くなったことを誰に連絡するかのこと、通夜や告別式をどうするかのこと、弔問のこと、墓のこと、役所のこと、相続のこと(空き家となる見込みの実家をどうするか)などの問題が一気に押寄せてきました。

 皆さんの参考になるかも知れず、また備忘録として、おいらが喪主となってどうしたかを簡単に述べてみたいと思います(この項続く)。


母が亡くなるということ(中篇その1)

 8月20日(水)、朝から広島は土砂災害で大変だというニュースが流れていた。


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 おいらの実家は土砂災害のあった場所から離れてはいるが、同じ広島市内である。もともと広島は三角州の上にできた街だから、住宅街は山へ山へと裾野を駆け上がっていくのである。おいらの実家が同じように目にあっていないとも限らない。

 しかし、その日の実家は遠距離介護の谷間で誰もいない。近所の知り合いに電話したところ大雨に問題はないが、それよりもお母さんの具合はどうですかという返事が返ってきた。

 お陰さまでおだやかな状態ですと答えた。おいらは先週広島に帰省し、4日間、母の介護をしている。

 珍しく発汗する(ただし、熱はない)ので体を冷やして欲しいと看護師さんにお願いしていたが、それ以外は問題がなかったからである。

 実家が無事と聞き安堵したところ、携帯電話に母の入所している施設から電話がかかってきた。

 母の容体が急変したと云うのだ。実は二日前から呼吸が苦しそうなので個室に移動したばかりである。

 要点は一つ。

 このまま施設に留まることとさせるか、それとも大事をとって病院に移すかである。

 このポイントは、施設は病院ではないから危篤になっても応急処置は必要最低限しか行えない。他方で、入院すれば危篤時にはあらゆる処置が可能である。

 これは、裏返せば延命措置をとるかどうかである。このまま施設にいれば延命措置はしない。しかし、病院にいれば延命措置を行うことが可能となる。

 軽々に判断はできない問題であるが、兄弟3人の考えは延命措置をしないことで一致していた。

 それは、母自身が元気なときに延命措置を嫌がっていたこと、1回目の脳梗塞の後はまだリハビリで元気であったが、2回目の脳梗塞の後は寝たきりになっていたことから、これ以上母につらい思いをさせたくないという理由からであった(この項続く)。


母が亡くなるということ(中篇その2)

 延命措置をとらないこととし、施設には引き続き施設に入所しながら様子を見ることをお願いした。


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 同時に、愚妻を広島に返していたので、直ちに施設に行かせることにした。

 幸い院長先生に会うことができ、詳しい話しを聞かせてもらったところ、思った以上に容体は悪く、今日明日にも亡くなる可能性があると云う。

 おいおい、先週おいらが介護帰省したときには発汗していたが、そういう素振りはなかったのである。

 半信半疑だが、医者は万一のことを考えて最悪のケースを云わなければならないのだろう。親族を集めておいた方がよいとのサジェスチョンも貰った。

 実は、これと同じ話しが先月、同室の入所者にもあった。親戚一同を呼んだのだが、皮肉というか何というかその後回復されている。

 しかし、それでも楽観視ができないことに変わりはない。おいらは、弟二人に連絡を入れ、母さんのところに行くように頼んだ。おいらは翌日広島に帰る準備を始めた。

 次にしたことは、親戚への連絡である。「母が生きているうちに母に会って下さい」と電話をかけまくった。

 愚妻が夕方まで母のそばに付きっきりとなり、夜、一番下の弟が施設に入った。その日は寝ずの番で、母のそばにいてくれた。

 幸いにも翌朝、母は持ち直し、小康状態となった。ひとまず、おいらは横浜に留まり、いつでも広島に帰ることができる体制のまま、万が一の場合の手配を進めたのである。

 それは、葬儀屋と菩提寺への連絡である。

 葬儀は、母が加入していたH互助会の葬儀場で行うことに決めていた。実家の近所の方が亡くなられたときもそこで行われていたから無難だと考えたからである(今般の広島の土砂災害で亡くなられた方たちの多くもこの斎場を使われていた)。

 葬儀屋がいざというときに用意して欲しいと云ったのは、3点。「遺影」と「認め印」と「死亡診断書」である。後は、餅は餅屋、全てをまかせるしかない。

 なお、家族葬のことは全く考えなかった。理由はいろいろあるが、母の交友関係から家族葬にすると後で弔問をさばくのが大変だと思ったからである。

 菩提寺の住職にも連絡を入れ、万が一の場合にはお願いをすることを依頼した。

 そうしたら、母の容体が改善したのである(この項続く)。


母が亡くなるということ(中篇その3)

 母の容体が安定したのだが、気にかかることがあった。


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 誤嚥(ごえん)すれば肺炎になる恐れがあるので、栄養分はソリタ水(水分やブドウ糖、電解質の補給薬)しか与えられていなかったのである。カロリーが低いので、このままだと母の体重は確実に落ちていく。

 おいらはせっかく体調が安定しているのだから、流動食に戻して貰えないかと考えたのだ。そうしないと「座して死を待つ」の例えのようではないか。

 特に母を毎日観ている弟にしてみれば、日に日に劣えていく母を観ることが耐え切れない。ソリタ水から流動食に戻して貰えないかと真剣に考えるようになっていた。

 弟の要請も受けて、おいらは広島に帰った。主治医と今後の治療方法について相談するためである。母が急変した翌週のことであった。

 そして、結論から述べると、主治医の指摘は残酷だった。栄養分を与えるのなら、家族の手によって与えて下さい。医者の私は、患者が誤嚥して肺炎になるのが分かっているのに栄養分を与えることなどできません、と云うものだった。

 つまり、母の容体は引き続き重篤の身に変わりはなかったのである。

 一時的に快方に向かっているのは良いとしても、流動食を与えて肺炎になるより、肺炎にならせないようにして現状維持とするのが最善の策だとの医師の判断である。

 これは理性ではよく分かる話しである。しかし、母のことになると感情が湧き出てくる。知と情がせめぎ合い、母を長生きさせるためには栄養分が必要だと思ってしまうのである。悶絶して、おいらが主治医にお願いしたのは、母がリカバリーして体調が戻ることになったら再び流動食に戻して欲しいということであった。

 医師もそれなら問題ありませんと快諾された。

 母は小康状態を保っていたが、その5日後、他界することになった。結果的に母に何もすることができなかったが、最後まで母に生きてもらうために兄弟で何ができるかと自問し続けていたのである(この項続く)。



母が亡くなるということ(後篇その1)

 9月2日(火)の朝6時半だった。枕元に置いている携帯が鳴った。


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 早朝の電話だったので嫌な予感がした。母が入所している施設からの電話だったので、母が亡くなったのだと思った。

「お母さんが先ほど亡くなられました」

 礼を云い、弟が直ちにそちらに向かうと告げて電話を切った。弟二人に母が他界した旨を伝え、葬儀社と菩提寺に電話した。

 葬儀社は手慣れたもので、通夜と告別式の日取りをどうするかと尋ねてきた。母が亡くなったその日を通夜とすることも考えたが、横浜から広島に帰るのに半日つぶれる。余裕があるに越したことはない。友引が少し先なので、通夜を明日、告別式を明後日と決める。

 告別式の時間は10時からをお願いしたいと頼んだが、火葬場の関係で11時になることもありうると云う。仕方がないと了解したが、結果的に10時となった。

 続いて、母が亡くなったときのリストを作成していたので、順番に電話をし、通夜と告別式の時間と場所を伝える。皆、一様に驚くが、無駄な質問をする人は誰もいない。

 続いて、施設に電話して、母を引き取りに霊柩車を迎える時間が何時ならよいかと尋ねた。10時ならOKということなので、葬儀社に10時に施設に行ってくれと頼む。母の遺体は直接斎場(通夜の控室)に安置して貰う段取りとする。

 おいらはそれらをてきぱきとこなして、新幹線に飛び乗ったのである。

 のぞみの車内でしたことは一つ。

 母の遺影を決めることであった。弟たちと話し合っていたのは、アラーキーに撮ってもらった母の写真を遺影にするかどうかであった。母の笑顔が素晴らしい写真であるが、カラーではなく白黒であり、リハビリ中であるから化粧抜きであった。やはり、元気なときの写真がよいかとパソコンに入れていた母のスナップ写真を探す。

 幸い、那須御用邸そばのつつじが綺麗な公園に母と弟で旅行したときの写真を見付けた。この写真にしようか。

 母の写真を見ながら、その風景が昨日のことのように思い出された。

 太陽のように明るい母だった。母が亡くなったのだと胸に迫ってきた(この項続く。なお、明日は休日につきこのブログ、お休みをいただきます)。



母が亡くなるということ(後篇その2)

 広島駅に到着し在来線に乗り換えると、大規模土砂災害現場の復興に向かうボランティアの人たちの群団に会った。


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 おいらも余裕があれば、ボランティアへの仲間入りをしたいが今はそういう場合ではない。

 斎場に入る。

 北枕の母の顔に白い布が被せてある。弟夫婦たちがすでに母の回りにいた。

 母の死に顔は穏やかであった。最後は眠るように息を引き取ったという。これまでよく頑張ったよ、母さん、そう声をかける。

 少々して、葬儀の係りのTさんが来られる。この人がプロフェッショナルだった。遺族のことを含め様々なことを考え、段取りを仕切ってくれた。

 これには助かった。なにせこちらは、葬儀に参列したことは数多あるが、施主になったことなどない。ましてや今回は喪主である。これが会議の設営なら仕事で手練れたものだが、仕事と葬儀とではお点前が違う。

 実はおいらが喪主になるのは今度で二回目である。一度目は父が亡くなったときだが、大学4年のときだ。実質的には母が仕切っていた。お飾りだったのである。しかし、今回は正真正銘の喪主である。Tさんを頼りながらもおいらが仕切らねばならぬ。

 ただし、従兄弟が坊主である。また、このブログでも紹介したとおり、その従兄弟の弟が昨年亡くなっているので近親者の葬儀が分かっていない訳ではない。従兄弟には、関東と広島の葬儀が異なるので戸惑うことが多いと教えられていた。

 ひえ~。例えば、広島では香典は受け取ったその場で開封し、金銭を確かめる。また、香典返しは関東同様その場で返すのが普通になっているが、広島では1万円以上の香典返しは後日、商品券とするのが一般のようだ。

 Tさんとの打合せで遺影を那須御用邸のときのものとし、通夜・告別式の会場に母の描いた油彩数点を展示したらどうかのアイデアが出され、賛同する。母のアルバム(写真帳)も3冊展示することにする。

 また、広島での通夜ぶるまいは親族のみで行うことを教えて貰った(友人、知人による通夜の宴席はない)。親族控室で親戚だけが集まって宴席を持つのである。その酒席でのビールや寿司などは持ち込みが認められるので、会場そばのデパ地下で調達するなどを決める。

 そして、お布施をいくらにするかを取り決める。と、云ってもTさんの指示に従いやや多めの水準としたが、それでも関東の水準に比較すると少なめである。

 なお、母は生前、既に本願寺(西本願寺)で法名を得ていたので、戒名代は不要であった。

 そうこうしているうちに湯灌の儀が始まる。映画で観たとおりの納棺師の仕事である。

 死化粧をして母は棺の中に納まった。母さん、別嬪だよ。さあ、いよいよ明日は通夜である(この項続く)。



母が亡くなるということ(後篇その3)

 通夜当日である。


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 通夜の前日は二つ年が下の弟と実家に泊まり、母を偲んで通夜をした。一番下の弟は、斎場の安置室が寝泊まりできるようになっており、そこで一夜を過ごした。

 弟と二人で斎場に飾る母の油彩を選別した。母は還暦を過ぎてから油彩を始めた。セミプロの講師に油彩を習い、最初は模写から始め、あっという間に上達した。生涯描いた油彩は200枚近くだ。気に入った絵は額に入れて友人知人に渡し、今ではそれが形見分けの様なものになっている。

 午後3時、菩提寺の住職に来てもらい、久し振りに再開することになった。母がリハビリを行っていたころ、お盆には毎年車椅子の母を墓参りに連れて行っていたが、3年前に寝たきりになってからはお会いしていない。

 枕経(まくらぎょう)をお願いする。

 恥ずかしい話しだが、枕経の意味が最初分からなかった。枕経とは通夜の儀式を行う前に、亡くなった者の枕元でお経を詠んでもらうことである。本来は死んでゆく人が不安にならぬ様、案内として枕元で死を看取りながらお経をあげる事らしい。

 枕経の後、お寺様に御布施をお渡しする。この御布施は枕経から通夜、告別式、そして初七日の分までワンセットでお渡しするのである。

 時間は慌ただしく去っていく。午後5時半、バスに乗った弔問の皆さまがお参りに来られた。町内会から実家の前にマイクロバスを手配して欲しいと依頼されていたので用意したのである。

 午後6時、定刻に通夜が始まる。通夜の運びは関東と同じであった。通夜終了後においらは親族代表として挨拶をさせてもらった。ただし、上述のとおり、挨拶の最後に「これからは身内のものでお通夜を営みたいと思いますのでよろしくお願いします」と話すのがしきたりである。

 なお、参列者にはお帰り時に羊羹を持ち帰っていただくのがこちらの習わしである。

 そして、参列者へのお見送りをし、親戚一同集まって通夜控室でお酒をふるまうのである。ただし、車で来ている人が多いので、ノンアルコールビールを飲む人が多い。通夜で味わうビールなるも酔えないところは痛し痒しだろうが、やむを得ないよねぇ。

 皆、久し振りに会ったことでもあるし、また、親戚なのに初めてお会いする人もいたりする。これが面はゆい。だが、母のことを皆が偲んでくれて思い出深い通夜となった。

 当日の夜は翌日の葬儀の準備もあり、兄弟三人で控室に宿泊することにした。宿泊設備も整っているのである(この項続く)。


母が亡くなるということ(後篇その4)

 いよいよ告別式当日である。


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 喪主は大変である。朝早くから、弔電の拝読順位をどうするかの打ち合わせが始まる(写真は会葬御礼)。

 母の遺体を式場へ移動する。告別式は午前10時から開始なので、9時半には式場でお出迎えをしなければならない。式服に着替えて、荷物をクローゼットに移動させる。

 このように葬儀とは目まぐるしいジェットコースターに乗っているようなもので、次から次へとやっつけなければいけないことが押寄せて来る。これでは故人を偲ぶことなど二の次である。いや、そうさせないようにしているのが葬儀のシステムではないかと思ってしまう。

 だが、これは、いわば先人の知恵のようなもので、だから、母が亡くなったという実感によって心の中にぽっかりと穴が開くのは三七日あたりからである。

 10時、告別式開始

     終了時、喪主挨拶

 11時、出棺

 11時半、火葬場着

 13時、収骨

 14時、斎場に再び戻り、初七日の儀

 15時、解散

 あっという間だった。母が天国にいくのを見届けた。

 だが、この後、四十九日(納骨を兼ねる)、香典返し、母の遺品整理などまだ山ほどしなければならないことが残っている。まったく遺族はゆっくりすることなどできないようになっている。


 最後に。

 前にも書いたが、先輩から「ご母堂とは、いつのときでも生の球根で繋がっています。ご自愛ください。」という温かいエールをいただいた。

 生の球根。母とは、やはり切っても切れない、偉大な存在である(この項終わり)。


母の四十九日法要(前篇)

 先週の月曜日、母の四十九日の法要を広島で執り行った。


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 葬儀、初七日を経て、一周忌に至るまでの最大のイベントである。四十九日では納骨も同時に行う。

 しかし、この勝手がよく分からない。

 分からないと云うのは、幸せなことである。心配することがない。お寺に任せておけば良いのだ。

 ただし、御布施だけは失礼があってはならない。

 これについては、葬儀をお願いした先にいくら包むのがよいのか確認していた。

 その上、お布施以外に納骨料や御膳料までお寺さんにお支払した方がよいということも聞いていた。だから、その内容に従えばよいと安心していたのである。

 後は、法要の後の食事である。

 これも菩提寺のご住職に食事処を紹介してもらっていたので、そこを予約しておいた。その食事処をネットで検索すると評判もよい。おいらは早速その店の一押しの食事を人数分予約しておいたのである。

 万事、手筈を整えていたつもりであったが、ふと、お参りに来られる方々からいただくご仏前のお返しをどうしようかと思い始めた。

 香典返しと一緒でこれにもしきたりがあるはずだ。

 実は、香典返しも、いつ、どのくらいの額を、何でするかで悶絶した。広島のしきたりに従おうとしたからである。

 広島では1万円以上のお返しは、原則としてその半額を商品券でお返しする。また、返しが不要だと云われた先に対しても、四割を返すのが礼儀だと教わったからである。

 ま、その香典返しは無事済ませたのだが、おいらは四十九日のご仏前返しのことについては何も知らない(この項続く)。


母の四十九日法要(後篇)

 ご仏前のお返しをどうするか、である。


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 ネットで調べてみると、法要の後の食事を頂いた金額の六掛けとするなど豪華な精進落しにしなさいとのご宣託である。

 え、え~? 年寄りが多い参列者に懐石料理をこれまでかと振る舞うのは如何なものかと思ったので、困ったときの葬儀屋に再び聞くことにした。

 これが葬儀屋に聞いて大正解。

 広島では、ご仏前(普通は一人当たり1万円を包むようだ)の半分を食事に、残りの半分を残らないもの(例えば海苔やお茶)で一家に一つずつ当日お返しするのが慣行だという。

 これではまるで赤穂浪士の畳替えと同じではないか。

 慌てて食事処に一人当たり5千円の食事にグレードアップして欲しいと連絡した。このとき、「おとき」もご一緒にしますかと問われたので、お願いしますと答えた。

 だが、おときという言葉も初めて聞く言葉である。

 これも調べてみると、お斎(おとき)とあり、ご飯と御新香で食事をし、以後、精進落しとなるのである。

 そして、宴席の始めにおいらが「本日はお忙しいところを故人のためにお集まり下さり有難うございました。お陰さまで法要をとどこおりなく終えることができました。誠に粗餐ではございますが、ごゆるりとおくつろぎいただき、召し上がっていただきたいと存じます」と挨拶しろというのだが、もちろん、こういう堅苦しい挨拶はしない(笑)。

 また、引き出物も5千円の海苔を用意することとした。

 全く四十九日法要を行うのも大変である。

 そうは云いながらも、つつがなくこの法要も終了することができた。

 なお、先月述べた関東と広島の葬儀の差で云い忘れたことがある。

 親友が驚いていたので述べる。

 広島では位牌がない。浄土真宗のことであるが、関東に長くいると位牌があるのが普通だと思ってしまう。

 また、葬儀の後のお清めの塩もない。これも浄土真宗では、死は不浄のものではないとするからである。

 ま、いろいろあるのじゃよ。葬儀や法要のしきたりは大変だ(この項終わり)。


血族前篇

 本日より3日間は、関ネットワークス「情報の缶詰11月号」に掲載された「血族」をおおくりします。


血族


1.母が亡くなる

 母が86歳と2カ月で肺炎により他界した。喜寿となった77歳のときに左脳の脳梗塞で右半身が不自由になったが、懸命なリハビリのお陰で一時は杖をついて歩けるようになるまで回復した。


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 しかし、車椅子生活の83歳のときに脳梗塞が再発し、その後は残念ながら寝たきりとなり、最後は眠るように亡くなった。9年間に渡る闘病生活だったので、母には「天国でもうゆっくりと休んで良いよ」と声をかけたい。

 思い起こせば、母はくったくのない、明るい、まるで太陽のような母であった。

 誰からも好かれ、ちょっとおっちょこちょいの所もあったが、他人に喜んで貰えることが大好きで、それでいて賢い母だった。母は息子三人が自慢だったが、その息子にとっても自慢の母であった。

 その母は末っ子の弟の手がかからなくなった還暦のころからは自由の身になり、好きな旅行を始めとして、大正琴の演奏、菊の栽培、老人大学への入学、地元中国新聞や雑誌へのエセー投稿、おはぎやカレーを作って近所に配ること、今のカープ女子の元祖となるカープファンなど多彩な趣味に打ち込み、そして極めつけは油彩でプロもどきの油彩を描き、人生を思う存分謳歌していた。

 生涯、描いた油彩は200枚近くに及び、また、47都道府県で行ったことがない県はなく、海外はハワイまで行っている。

 同時に母は手紙魔でもあり、年賀状の交換が生きがいで、亡くなるまで毎年110枚の年賀状を頂戴していた。

 母の闘病生活中は好きな絵を水彩に変え、数多くの水彩画を描いていた。その間、息子三人はローテーションを組んで定期的に広島に帰り、母の介護を続けていたのである。

 闘病中、思い出深いことは母と息子三人がアラーキー(荒木経惟=あらき のぶよし)のライフワーク「広島の顔」で写真を撮ってもらったことだ。母の嬉しそうな顔。菩薩さまのような笑顔であった。

 こうして母のことを語ると、とめどもない。

 その母も今では、早世した父と天国で一緒になり、2人で仲良くしていることと思う。母は父のことも密かに自慢していたと思うのだ。

 母さん、万歳(この項続く)。


血族中篇

2.先祖をたどる


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 その母が亡くなったので、母の除籍謄本が必要となった。

 おいらは福山市で生まれ育っているが、両親は広島の安芸太田町出身である。なじみのない名前の町だと思うが、あの源田実(海軍出身、元参議院議員)の出身地でもある。

 安芸太田町の役場に出向いたおいらは、母の除籍謄本を貰うに際し、「母のルーツとなる先祖まで遡って除籍謄本をいただけますか」とお願いしたのである。快諾されたので、次に「父の除籍謄本も同様に先祖まで遡って謄本を欲しい」とお願いしたのである。

 待つこと約30分、他にお客さんがいないので、かかりっきりで父母の先祖の除籍謄本を用意してくれたのである。

 実は、おいらが幼少の頃、父の実家の仏壇には我が家の家系図が入っていたことを覚えている。しかし、当時のおいらには全く興味がなかった。知らない名前が羅列されていたからである。

 だが、その家は今から約40年前の大規模水害に遭遇して全壊、家財もろともなくなった。川沿いに建てられた旅館だったからである。わが家は、戦前は山持ちで羽振りが良く、旅館業を営んでいたのである。

 しかし、おいらが知っていたのは祖父母の名前までで、曽祖父やその先代の名前などは知らない。ましてや祖父の兄弟など知る由もない。


3.佐々木四郎高綱がルーツ

 おいらが家系図に興味を持ったのは、今では知る人の少ない駒田信二(作家、中国文学者)の「好色の勧め」(ポケット文春、1971年)を読んでいたときである。

「佐々木殿の紋」という表現があり、かの宇治川の先陣争いで有名な佐々木四郎高綱の紋所が四目結(よつめゆい)とあったのである。

 実は、我が家の家紋もこの四目結である。それに親父が酔っぱらうと、我が家の先祖は佐々木四郎高綱だと云っていたことを思い出したからである。

 冗談で云ったのだろうと思っていたが、確かに安芸太田町には佐々木性が多い。わが家は分家だと聞いていたので、謄本があると我が家の本家まで分かり、時代は江戸時代まで遡ることが可能かも知れない。役場に行って謄本を貰わない手はない(この項続く)。


血族後篇

4.除籍謄本の解読

 役場で貰った父方の除籍謄本は全部で4通、11枚。細かい文字でびっしりと書かれている。


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 これを解読するのは少々面倒だが、コツが分かれば除籍謄本の解読は難しくはない。

 まず、おいらの親父が子供として名前が載っている謄本を探す。これが見つかれば、父の父、すなわち祖父と祖母、父の兄弟姉妹が全て分かる。次に、祖父が子供として掲載されている謄本を探し、同じ作業を順次繰り返していくのである。

 これによって分かったことは、おいらの曽祖父の名前は佐々木楽蔵(天保14年(1843年)生まれ)、その先代が佐々木辰太郎(生年未記載)だったことである。

 そして、曽祖父の楽蔵は6男2女を生み、長男が本家、次男以下が分家しており、四男は福岡に分家していたのである(と云うことは、九州においらの親戚がいることになる。ビックリ!)。

 おいらの祖父は五男で分家しており、旅館業で財をなしたようである。

 ここで佐々木四郎高綱のことを云わないと片手落ちである。

 宇多源氏佐々木氏であった佐々木高綱は源頼朝を主君とし、歌舞伎「鎌倉三代記」に登場する人気のある武士である。

 佐々木高綱は文治3年(1186年)に長門、備前の守護へと任ぜられ、安芸・因幡・伯耆・出雲などに恩賞地を拝領している。また、島根県松江市の善光寺も高綱による開基と云われる。

 つまり、佐々木高綱は中国地方に縁のある武将なのである。こうしてみると、親父の云う高綱が家系だというのはあながちはずれていないようにも思える。

 こうして我が家の家系作りは終了したが、この家系作り、探偵事務所に頼むと20万円程度はかかるという。

 皆さまもご興味があれば、ご自分でのルーツ探しをお勧めする(戸籍法によれば除籍謄本の保存期間はわずか80年であり、廃棄される恐れがあるので早めに取得しておいた方が良い)(この項終わり)。


喪中につき

 喪中である。


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 日本の慣行では忌中は四十九日までで、没後一年間を喪中と呼ぶらしい。

 ただし、浄土真宗やキリスト教では死を穢れとは捉えていないので、忌や喪という概念はそもそもない。

 したがって、喪中ハガキも本来は出さなくて良いようである。つまり、普通にすれば良いということだ。

 しかし、そうは云っても、近親者が亡くなったのである。正月だからといって羽目をはずすのはやめた方がよいに決まっている。お祝い事を控えようと考えるのは、人間として普通のことであろう。

 だから、喪中の正月は自分から進んでお祝い事をするのは避けて(例えば、飾りつけなどは慎む)、神社仏閣へのお参りも避けるようにした方が良いようだ。

 また、年始などで挨拶を受けるのは(自分から行うのではないので)問題がないらしい。

 なるほど喪中の正月の雰囲気が分かってきた。今年の正月はひっそりと暮らすようにしよう。

 以上に伴い、新年のブログは1月5日(月)から再開します。皆さん、良いお年をお迎えください。それでは、来年もよろしくお願いします。




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