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さすらいの天才不良文学中年
人生は8勝7敗 王道か覇道か
年末余話(2005年)
さすらいのカンチョーマン、年末につき、近況報告とする。
『各位
ご無沙汰をしていますが、お元気でご活躍のことと思います。
さて、退職後5ヶ月近くが経過し、また、年末ということでもありますので、小職の近況をご報告させていただきます。
お蔭様で、現在は好きな思索をしたり書き物など自分のやりたいことを中心に生活を組み立てることが出来るようになりました。
充足感があるかと聞かれれば、毎日が充実しています。特に時間は自由になりますので、たまにはシエスタを愉しむことも出来ますし、翌日は気にしないで半徹夜も勿論可能です。
退職後これまでも、会社を一緒に興さないかとか、仕事を手伝ってくれとかいくつかの真面目な話しもありましたが、
<ルール1>好きなことしかしない。
<ルール2>銭金(ぜにかね)のためには働かない。
<ルール3>出来ることと、やりたいことを区別する。そうしないと現役時代の繰り返しになってしまう、の3原則を人生の指針とするつもりです。
ただし、このルールがあっても毎日が忙しくて大変です。併し、つまらないことに人生を費消しているという感覚はなく、一日一日が愉しく、家族ともども幸せを感じております。これは大切なことだと思います。
さて、嫁はんとポルトガル行き(ロングステイ)を検討していた件ですが、実は母が先月倒れ、看病(広島への帰省)などのため、残念ながら当面延期せざるを得ない状況となりました。併し、これも小職への良い試練と考え、世の中急がば廻れという諺を思い出しております。
毎日をあせらずに、併し、当初建てた計画どおり、着実に前を向いて歩いていこうと考えていますので、今後ともご指導ご鞭撻のほど、何卒よろしくお願い申し上げます。
それでは、良いお年をお迎えください。HAVE A GOOD LUCK !! ごきげんよう。』
年末余話(2006年の総括)
今年も本日で終わりである。おいらの2006年を総括してみよう。
まず、2005年である昨年が、おいらにとって大激動の年であった。2月に身内が交通事故に遭遇した。7月においらが早期退職をした。11月に母が脳梗塞で倒れた。おいらの人生の中でこれ以上のことが起こることはもうなかろうと思う。
逆に、今年は上昇気流の年である。あこがれのフリーの生活が板についてきた。良い作品が3本書けた。9月には文藝春秋社の「オール讀物推理小説新人賞」二次予選通過を果たした。11月に知己が自主映画を発表した。12月、母の容態も安定した。
敬愛する嵐山光三郎氏の「人生8勝7敗説」がおいらは好きである。人生で15戦全勝などあり得ない。もし、あったとすれば、どこかで歪みが出てくるのである。すべからく物事は、陰と陽、正と負で成り立っている。
グレート・ギャツビーを書いたスコット・フィッツジェラルドも言っているではないか。若いうちに人生のやり遂げたいことを全てやってしまうことほど、不幸はない。これから先、今以上にもう良いことなど起きないからだ。
おいらの場合も、これまでの期間が人生の種蒔きのときであったと思いたい。これからの十年を、真の意味での収穫のときにしたいものである。
2007年を振り返る
馬齢を重ねた。
今年の戦績は、
「オール讀物新人賞第1次予選通過」
「推理小説新人賞第1次予選通過」と、
ベンチャーを手伝っている先での
「新商品開発(商品改定)認可取得」
であろうか。
新人賞の予選などいくら通過しても、入選しなければ意味がない。それにベンチャー先の成果など、今更である。
ただし、今勤務しているベンチャーの世界は、極めて興味深いということが分かって来た。今の世の中の縮図である。これが面白くない訳がない。江戸川乱歩賞に挑戦すると過日ブログで述べたが、充分、その世界足りうる話しである。しかも、この業界はまだ日々動いているのである。
そのため、乱歩賞のプロット変更を重ねているうちに、来年1月末の締め切りをもう1年延ばそうと考え直し、現在は他の新人賞をターゲットにすることにした。
ところで、今年は母の闘病への介護で動きの取りにくい1年でもあった。母の介護は、今年の11月でとうとう3年目を迎えた。しかし、母は、母である。生きているうちに親孝行をしなければ、おいらの価値はない。
閑話休題。今年で57歳を迎えた。それなのに、まだ、心は少年である。やりたくてたまらないことがまだ多すぎる。これでは成仏できない。早く、心穏やかな、ヒヒジジイになりたいものである。
2009年を振り返って(今年を総括する・前編その1)
2009年も本日を入れて後4日である。そこで、おいらにとっての今年の総括を行おう。
今年も昨年に引き続き、三足の草鞋を履いた年であった。作家修行、ベンチャー企業のお手伝い、母の遠距離介護である。
1.作家修行
昨年10月に某新聞社の取材を受け、おいらの作家修行について、写真入りの記事を掲載して貰った。
新聞は実名で掲載されていたので、このブログでは触れなかったのだが、その記事の中でおいらが狙うのはミステリーの最高峰である江戸川乱歩賞としていた。
この賞の締め切りは、今年の1月。
プロットもほぼ出来上がっていたので執筆に入っていたが、実はおいらにはその作品以外にどうしても書きたい小説があった。
それは、何故おいらが会社を辞めてまで小説を書きたかったかという作品である。前々からおいらの心の中でそのことを一度整理しておく必要があると思っていたからである。
その思いは日増しに強くなり、物書きにこだわる理由を今書いておかなければ、今後も中途半端なまま作家修行をすることになると思ったのである。
おいらが人生とは何かを目覚めたのは幼稚園に遡る。
そこで、おいらと文学との関係について幼少時代から深層心理を探った顛末を芥川賞候補の登竜門と云われる「文学界新人賞」に応募することにしたのである。自信作に仕上がったと自負していた。今年の4月のことである。
ところが、これが見事に落選。
はっきりとは覚えていないが、応募総数の千作品程度に対し、1次予選通過は50作品位ではなかったかと思う。
おいらはもともとストーリー・テリングに自信がある。直木賞を狙いたい所以である。だが、奇想天外なストーリーであってもおいらが必ず小説の中に入れるのが、人生とは何かである。それはおいらが書く小説の宝の部分と云ってもよい。
だから、純文学の権化である文学界新人賞であったとしても、小説のテイストに差はないと思っていた。しかも、我ながら面白くない訳がないという作品である。1次予選位は通過しても良いではないか。しかし、これが敢えなく討ち死に。
ところが、この落選がおいらの小説魂に火を点けたのである。純文学を狙ってやると。
7月に短編小説1作品、9月(北日本文学賞)と12月(太宰治賞)に2作品と、合計3作品を続けて応募したのである。
しかし、7月の短編小説と9月の北日本文学賞もあっさりと落選。これにはおいらもこたえた(太宰賞の発表は来春)。
昨年後半から今年の1年間は純文学の世界に入り浸っていたのである。それがこの結末だとすると、この1年は無駄骨だったのかなと思わざるを得ないのである。トホホ…。
だが、おいらはめげないのである。人生に無駄などない。寄り道は結果的に近道になることもある(プラス思考にならないとやってられない?)。
さて、冷静に考えると、これは、神様が初心に帰れと云って下さったのである。お前の好きなミステリーに打ち込めと神の警告なのである。はい、分かりました
なお、この7月にキネマ旬報社が「キネマ旬報」創刊90周年を記念して、「映画史上オールタイムベスト・テン」を読者から募集した。11月にその結果が単行本「オールタイムベスト映画遺産200」日本映画編(キネ旬ムック)として発売されることになった。
この本においらのコメントが掲載されたので、その内容を年明けに述べる予定である(この項続く)。
2009年を振り返って(今年を総括する・前編その2)
2.ベンチャー系企業のお手伝い
昨年から、現在のベンチャー系企業に顧問という形で勤務している(週三日(月・水・金)、午前10時から午後6時までの勤務)。
おいらの前職のノウハウを生かすことが出来るので、この企業に何らかの貢献が出来ればという想いで、様々なアドバイスをさせて貰っている。
勤務地が九段下で、神保町に接しているというところも良い。
さて、おいらは某一部上場企業に勤務していたので、現役時代は、大企業の弊害、ま、大企業病とでも呼ぼうか、勤務先がそういう病気にだけはならないように努めて来たつもりである。
実際、ベンチャー系企業で、顧客のことを考えなくなったら、お仕舞いである。
しかし、元いた企業を外から眺めてみると、杞憂かもしれないが、例えばコンプライアンスという名目で、自分の会社のことしか考えていないのではないかと思わざるを得ない部分が目に付くのはおいらだけだろうか。
いや、正確に述べると、その傾向は日本の社会全体にはびこっているのではなかろうか。今年、政権交代があったのは、そういうことへの警鐘ではないかと思うのである。おいら達は好むと好まざるとを問わず、時代と寝ている。
それにしても、ベンチャー系企業とは面白いところである。無限の可能性を秘めている。
3.母の遠距離介護
このブログの「広島帰省考」で何回も述べているので、詳しくは繰り返さないが、今年のハイライトは、何と云っても憧れのアラーキーに母と弟共々一緒に写真を撮って貰ったことである。
何よりも嬉しいのは、母が大喜びしてくれたことである。
しかも、広島市現代美術館 開設10周年特別記念展「広島の顔」のポスターにおいらたちの写真が掲載されるというオマケ付きであった。
今年は、良い親孝行が出来た(この項続く)。
2009年を振り返って(今年を総括する・中編)
毎年、良く知っている人が逝く。
今年もそうであったが、まさか、おいらの人生の師匠のような人が死を迎えるとは思ってもみなかった。
連絡は突然やって来た。
おいらの敬愛するMSさんから師匠の訃報連絡を受けた。だが、冷静に考えると、そういう予感がしていなかった訳ではない。
11月28日に年末恒例のミーティングのお誘いを兼ねて、師匠にご機嫌伺いのメールを出状したのである。しかし、その日に亡くなられていたことが後で判明する。
師匠は、このブログでも述べているが、スケールがでかく、それでいて懐が深い人柄であった。ユーモアと酒が好きであった。酒を飲むと冗談半分にゴルゴ13を自称することもあった。
人生に影響を与える先輩というのは、そう多くはない。その数少ない先輩の一人であった。
享年69歳。喉頭がんと胃がんの併発であった。喉頭がんと分かってから1年経過していなかったように思う。実際、その間も数か月おきに飲んでおり、最後はこの夏に飲んだばかりであった。
それが、あっという間に他界である。喉頭がんの進行が早かったのだろうか。
一つだけ云えることがある。
師匠は人生の達人であった。思うように生きてこられた人生のはずである。そう云う意味では、人生で悔いを残すことはなかったと思う。
ダンディズムを貫き通した一生であった。おいらも師匠のようにありたいものである。
合掌(この項続く)。
2009年を振り返って(今年を総括する・後編)
さて、年末を飾る最終章は、節酒である。
遂に今年、禁酒年間160日を達成した。実は、節酒出来たということにおいら自身が未だに信じられないでいる。
簡潔に述べる。節酒のコツは何か。
それは、おいらの場合、次の3つである。
1.飲みたい衝動にかられたら、15秒、我慢する。
2.飲みたくなっていた原因=飲まないときの不安をなくす。
3.飲まないときのプラスを考える。
これに尽きる。
一つ目の15秒とは何か。たまたまテレビでタモリが「禁煙は、15秒、我慢すると出来る」と云っていたのを見た。
確かにそうかも知れない。飲みたい衝動のときはそうすることにした。
これが効果があるのだ。
15秒。人生とはそんなものかも知れない。
二つ目は、寝付きの問題である。考えてみれば、おいらは飲まないと寝付きが悪くなるのではないかということに不安を覚えていた。しかし、杞憂であった。適度に運動したり、就寝前に風呂に入ると難なく眠れることが分かったのである。
三つ目である。従来は仕事の反動で飲んでいたように思う。ま、酒はストレス解消である。酒でバランスを取っていたのである。だから、好きな創作が中途半端になっていた。
それが、酒を止めると身が入る。だから、一日が長くなった。夕食の後の時間が活用できるのである。小説の執筆時間として申し分ない。
ただし、断酒した訳ではない。現在でも宴席は1週間に2回程度のペースでお誘いがかかっている。自宅でも偶には飲むことにした。節制している関係上、ついつい飲み過ぎてしまうのが問題ではあるが、ま、それ位はご容赦して貰おう。来年も、この生活を続けようと思う。
以上、2009年はこうして終る(この項終り)。
近況報告07年5月編
兎角、この世はままならず
実は、どうしても断りきれない事情があって、昨年の暮れからベンチャー企業の立ち上げを手伝うことになった。
当初は、週2日勤務の約束で、指南役のような仕事をして貰えばよいというものであった。ところが、今年に入ってから、「非常勤顧問では対外的に困るので、ラインの部長になって欲しい」との依頼に変わった。しかも、週3日の勤務になるという。
少々考えたが、三顧の礼で迎えられた経緯もある。片肌脱いだのなら、それも止むを得ないと承諾した。物事には流れというものがある。
さて、そのときはこう考えた。週3日程度のペースであれば、文筆活動に影響を与えることもなかろう。また、久し振りの都心への通勤も文筆への刺激になってよい。しかし、そう思ったのが、間違いの始まりであった。
新しい勤務先は、某役所の監督下にある会社である。その会社の部長に、今年の1月から祭り上げられることになった。
ところで、役所の監督下にあるということは、事業開始はこの役所への届出をしなければならないということである。届出というと聞こえは良いが、内実は認可と同じである。箸の上げ下げまで指導されるのである。嘘のようだが、これが真実である。
この顛末はいずれ述べることにするが、おいらは前職で役所を10年以上担当していたので、その経歴が買われたのである。
で、4月1日の開業に間に合わせるように奔走し、やっと、届出が受理されたのだが(それ自体は目出度い)、毎日出社するのでなければ、役所折衝は勤まらない。考えてみれば、役所との折衝は全身全霊を打ち込まなければうまくいかないのである。それに、役所からの待機命令が何時出るか分からない。
したがって、3月中旬からは、とうとう毎日勤務にせざるを得なくなってしまった。しかも、開業1週間前は、半徹夜の連続となってしまったのである。
しかし、この苦労も3月一杯までだ、4月に入って事業が開始するまでの苦労だ、と思って凌いできた。
ところが、月が替わって、事業を開始した翌月も諸般の事情により、当局との折衝が引続き継続することになったのである。
さあ、おいらは、どうすべきか。
道は、二つ。乗り掛かった船であるとこのまま毎日勤務を続けるべきか、初志を貫徹して文筆活動に専念するべきか(すなわち、この仕事を辞めるか)である。
という訳で、おいらは、今大いに迷っているのである。
充電期間の終了(前編)08年6月
近況を報告する。
この3月末に勤務先を退職し、4月初めに母が施設へ入所、そうしておいらは左眼を手術した。滅多に起きないような話しが続いたのである。
退職後、充電しようと熱海に温泉旅行と考えていたのだが、それどころではない。
では、おいらがその間、何をしていたのかというと、これが実に何もしていないのである。
そもそも、意気込んで書いていた小説は2月中旬から前職のゴタゴタで創作活動が中断したままである。3月に入って会社の内紛に伴う退職騒動や4月に続いた事案によって小説への集中力が途絶えてしまったのである。
この小説、どうしても年内に発表したいものなのだが。
それに、この1年数ヶ月、身を置いた業界の内幕ものをどうしても執筆してみたいのだ。その内容が棄て難いのである。
そうこうしている内に、昔取った杵柄によって、前から仕事を手伝って欲しいという話しが再燃してきた。勤務条件は悪くはない。おいらの執筆活動に配慮し、週三日の勤務で良いのである。
これには悩んだ。
勤めるのはもう止めても良いのではないか。好きな執筆活動に身を投じても良いのではないか。
贅沢をするつもりはない。しかも、後2年もすれば、企業年金の受給権も発生する。幸い、家内も質素な生活で満足するという。
しかし、思うのだ。そうするには、何かが足りないのだ。人はパンのみにて生きるにあらず。自分の信念のために生きなければ、生きている資格はないのである。そのためには、賞を取りたいのだ。作家もどきではなく、作家として生きたいのだ。清貧でも良い。そのためには、自分の心の中に何かの裏打ちが必要なのである。
だから、まだ、横浜で作家修行をしなければならないと決めたのである。修行のためには、勝手かも知れぬが稼ぐということをしないといけないと決めたのである。現役でいる間に賞を取ろうと決めたのである。逆説かも知れないが、おいらは働きながら賞を取る。そう心に決めたのである(続く)。
充電期間の終了(後編)
もう一つある。
それは自惚れかも知れぬが、おいらに作家の素養がなくもないと気付かされたことである。
素養とは恥ずかしいが、おいらの書く小説が箸にも棒にもかからないことはないということが分かったことである。
曲がりなりにもいくつかの賞の予選を通過した。
それに、週三日勤務ということは、週四日は作家修行が出来るということである。無論、その仕事をないがしろにするつもりはない。面白い仕事だから楽しめば良い。
そうなのだ。おいらの座右の銘「人生を楽しんでいるか」を今回の判断に当て嵌めてみたのである。
面白い小説は、面白い仕事に両立するのである。それを証明してみせるのだ。
面白い小説
面白い仕事
面白い人生
それで良いではないか。
二ヶ月間の充電を経て、今月から新しい風を吹かそう。
それがいばらの道であったとしても良い。おいらが決めた道である。この道を進む。
2010年を振り返って(前編)
2010年もいよいよ終わる。2000年問題であれだけ大騒ぎしたのに、早くも10年が経った勘定になる。
さて、今年を振り返る。
今年は何と云ってもおいらが還暦を迎えたことである。今でも、夢のような話しだと思うのである。
おいらの親父が享年49歳。祖父が57歳で他界している。まさか、おいらの年齢が60歳を超えるとは思わなかった。
最近、感じるところがあり、吉行淳之介が何歳で逝去したかを調べてみた。
病弱だったので早世かとおもっていたのだが、享年69歳であった。
昔からのおいらの人生設計では、65歳でこの世におさらばと考えていたのだが、それなら、後10年近くは生きていられるかも知れないと思い始めたのである。
それでも、後わずか10年。それまでに本当にしたいことをしなければと、今更ながらに考える。
さて、今年嬉しかったことを一つ。
敬愛する直木賞作家の車谷長吉氏と間接的にお近付きできたことである。
このブログの20万アクセスのときにも書いているが、おいらは氏の「世界一周恐怖航海記」(2006年、文藝春秋)の中に、登場者の友達として掲載されているのである。その車谷長吉氏自身から登場者を介して、氏の揮毫をいただいたのである。いや、有難いのぅ~。
今や、氏の色紙はおいらの宝物である。車谷長吉先生、有難うございました。
次に今年の親孝行について、一言。
母のことをお好み焼きに託して書いたエセ-が、RCC中国放送で8月にオンエアーされたのである。
母はもとより、実家の近所や、親戚連中がこぞってラジオの前に居て頂けることになり、皆さんに喜んで貰ったのである。もちろん、一番喜んだのは母である。
さて、いよいよ、明日は大晦日である。今年のおいらのブログの最後は、今年の作家修業を総括する(この項続く)。
2010年を振り返って(後編)
さて、今年のおいらの作家修業の顛末である。
第3回城山三郎経済小説大賞の予選通過(最終候補になれず)であった。
大作に仕上げたつもりではあったが、題材がやや小振りであったかも知れない。それでも最終候補にはなるかなと考えていたので、今回の落選は正直落胆した。
ただし、原稿用紙355枚の作品を最後まで完成させたということで、長編小説を書き上げたという自信がついたことは大きい。
長編小説が書けなければ、やはり作家とは云えぬ。それに、この小説を書き上げたことで、小説とは何かが少し分かったような気がする。
小説とは何か。それは、またの機会に。
さて、その外にもいくつかの文学賞に小品を投稿したが、選外であった。完成度の高い、しかもおいらの好きな作品であったが、受賞の傾向とは全く作風の合わない小説であった。
だから、受かるとは思っていなかったし、また、そうなっても悲観することは全くなかった。小品を書く愉しみというのも、また別にあるのだ。
では、来年はどうするのか。それは、明日の「年頭所感」で述べたいと思う。
それでは皆さん、どうぞ良いお年をお迎えください(この項終り)。
今年の創作活動
今年2015年の捜索活動について触れる。
このブログにはほとんど書きこまなかったが、今年も創作活動を休んでいたわけではない。
今年も二作品を書き上げた。しかし、結果はサクラチルであった。やっぱ、めげるよねぇ。
だが、これについては、解説が必要である。
今回応募した小説はいずれも最終受賞作品のみが発表されており、予選通過などの公表はされていない。
すなわち、おいらの作品が選考の中でどこまで行ったが不明である。これにはまいってしまう。予選をどこまで通過したかが分からないと、二の矢が打てないからである。
公募小説の主催者がそれを発表しないのには、それなりの理由があるのだろう。
しかし、おいらは過去のおいらの水準以上の内容のものしか応募していない。おいらの作品が最終候補には残っていなかったとしても、その前のどの段階までであったかくらいは知りたいものである。
そうは云っても負け犬の遠吠えになるので、これ以上は書かない。
ところで、小説の世界は数字の世界ではない。感覚の世界である。だから、似たような水準の作品が多くあると選別は難しくなる。
何が云いたいか。一定水準以上の作品となると、最後は横一線となる可能性が高い。
おいらの小説がそこまで完成されているとは己惚れていないが、面白さにかけては自信がある。だから、もう一歩、いやもう5センチの努力が足りないのかも知れないと思うのだ。
凡人はその5センチの努力を惜しむのだ。その5センチであきらめてしまうのだ。おいらは、もう5センチ前に出た小説を書く必要があると思うのである。
来年も公募小説に挑戦する。その心意気が続く限りはおいらもまだ大丈夫だと信じたい。人間、志があればできないことはない。後5センチの努力だ。老年よ、大志を抱け。
ハッピィ・リタイアメント 第2の人生、これにて終了
今月(2016年10月)末を持って、現在手伝っている仕事を終了することにした。ハッピィ・リタイアメントである。
思えば、平成17年に某上場企業を早期退職し、その後、前職の経験を生かして欲しいと現在の職場からの要請を受け、第二の人生として数多くの皆様方からのご支援をいただき、微力ながら縁の下の力持ちの仕事をさせていただくことができた。
しかし、おいらもこの10月に66歳となった。人生を80年とすると第三の人生はこれから10余年しかないことになる。
おいらは考えたのである。この10余年を単なる趣味の世界に没頭する時期とするのか、それとも収穫の時期にするか、である。
おいらはNY時代、マンハッタンの高層アパートに住んで最先端の金融の現場にいたとき、切った張ったのヒリヒリするような仕事にシビレルほどの生きがいを感じていた。
だが、同時に、人生で一番大切なものはカネや名誉などの薄っぺらなものではなく、精神的な豊かさ(「悟り」とも云うようである)だと気付き、爾来、B級でもよいからいずれは高等遊民になりたいという夢を持つようになった。
幸い、文章を書くことが好きだったこともあり、これまでいくつかの小説が公募小説賞の予選通過や最終候補作となった。これからはそれに本腰を入れたり、小説のテーマとなる地(藤田嗣治終焉の地であるパリ郊外)を訪問するなど今後、おいらが収穫したいことは山ほどある。
これからの第三の人生はB級高等遊民として、収穫に興じてみようかと思う。そうしなければ、死ぬときに悔いが残るだろう。
たかが10余年、されど10余年。第三の人生は、収穫の時期と見つけたり。
2016年最後のご挨拶
「行政機関の休日に関する法律」によれば昨日28日が御用納めということなので、今年最後のブログとする。
それにしても、年末という感覚が薄れてきたと思うのはおいらだけだろうか。
世間はまだ普通の月末の雰囲気である。街は通常どおり営業しているし、元旦も一部のデパートが休日とするらしいが、ほとんど普段どおりである。
こういうのは精神衛生上よくないよなぁ。区切りをつけて一段落するから、また頑張ろうという気になるのである。
新年になって、初心に帰るからリフレッシュできるのである。昔の人は、そういう生活の知恵を知っていた。
閑話休題。
おいらの今年の最大のイベントは、今年の10月末をもって完全リタイアしたことである。
そのときのブログを再掲する。
「思えば、平成17年に某上場企業を早期退職し、その後、前職の経験を生かして欲しいと現在の職場からの要請を受け、第二の人生として数多くの皆様方からのご支援をいただき、微力ながら縁の下の力持ちの仕事をさせていただくことができた。
しかし、おいらもこの10月に66歳となった。人生を80年とすると第三の人生はこれから10余年しかないことになる。
おいらは考えたのである。この10余年を単なる趣味の世界に没頭する時期とするのか、それとも収穫の時期にするか、である。
おいらはNY時代、マンハッタンの高層アパートに住んで最先端の金融の現場にいたとき、切った張ったのヒリヒリするような仕事にシビレルほどの生きがいを感じていた。
だが、同時に、人生で一番大切なものはカネや名誉などの薄っぺらなものではなく、精神的な豊かさ(「悟り」とも云うようである)だと気付き、爾来、B級でもよいからいずれは高等遊民になりたいという夢を持つようになった。
幸い、文章を書くことが好きだったこともあり、これまでいくつかの小説が公募小説賞の予選通過や最終候補作となった。これからはそれに本腰を入れたり、小説のテーマとなる地(藤田嗣治終焉の地であるパリ郊外)を訪問するなど今後、おいらが収穫したいことは山ほどある。
これからの第三の人生はB級高等遊民として、収穫に興じてみようかと思う。そうしなければ、死ぬときに悔いが残るだろう。
たかが10余年、されど10余年。第三の人生は、収穫の時期と見つけたり」
今年は、以上に尽きる(25年振りのカープ優勝もあるが、それはこのブログで再三のべているのでここでは取り上げない)。
なお、今年、純個人的なことでは慶事があったが、そういうことを書く場ではないので割愛する。
皆さん、今年もお世話になりました。良いお年をお迎えください(新年は、1月5日(月)から再開の予定です)。
人生は8勝7敗がいい(前篇)
本日より三日間、関ネットワークス「情報の缶詰」2017年4月号に掲載された「人生は8勝7敗がいい」をお届けします。
「人生は8勝7敗がいい」
おいらの敬愛する関編集長が胃がんになられた。幸い手術も成功され、また、予後も順調ということで安堵した。
だが、実はおいらも今年1月の定期健診で胃がんと肺がんの疑いをかけられたのである。
医者が最初に云った言葉は「肉親でがんの方はいらっしゃいますか」であった。
おいらの父と弟はがんである。父は直腸がんで早世している。弟は大腸がんで大手術であった(術後、10年が経過し現在は健康)。だから、おいらもがんになる可能性は高い。
そういうことから先月、おいらはあわただしく精密検査を受けることになった。運よく両方とも誤診と分かり一安心したのだが、おいらも既に66才であり、ここいらで人生を考え直してみた。
1.あなたの人生は何勝何敗ですか
人生80年である。最近は人生100年という言葉も聞くが、脳や足腰の機能が衰えない時期を考えれば実質の人生は80年かも知れない。
そこで、この80年を生まれてから5年刻みで割ると16になる(80÷5=16)。
ただし、5歳までの人生は自分よりも周り(どういう家に生まれたかなど)に左右されるので勝ち負けの対象から除外する。
そうすると、6才から10才までが初日、11才から15歳までが二日目というふうになり、76才から80歳までが千秋楽となる。
そういう風に人生を5年刻みに考えてみると、さて、あなたの人生は何勝何敗ですか?(この項続く)
人生は8勝7敗がいい(中篇)
2.おいらの場合
おいらは広島で生まれた。
親父が県庁に勤務しており、県内の転勤生活であったが(小学校は3つ通った)、あまり勉強しないでも本が好きだったので成績は悪くはなく、ずっと学級委員であった。
だから、初日(6才~10才、小学時代)は白星でもいいだろう。
二日目(11才~15才、中学高校時代)は中高一貫教育の広大附属福山中学に合格し、2連勝。
三日目(16才~20才、高校大学時代)は京大を志望していたのだが、東大の入試が学園紛争のあおりを受けて中止、親父ががん発病で浪人できないことになり、名大に鞍替えした。
今から思うと人生に学歴の持つ意味は多くはないので深刻に考える必要はなかったが、このとき初めて挫折感を味わう。
三日目、初黒星。ただし、結果的には名大に進んだことが塞翁が馬となる。人生の友をここで得ることができたし、実力を磨けばよいという人生の真理を学べたためである。
四日目(21才~25才)、親父が亡くなる。2勝2敗。
しかし、某一部上場企業に入社する。入社して新潟支店に配属されたので辞めようかとも思ったが、そこでおいらの座右の銘「義理と人情と浪花節」を体得する。
五日目(26才~30才)で結婚。
仕事も順調で本社商品開発部門に抜擢される。3勝2敗。
六日目(31才~35才)、七日目(36才~40才)、八日目(41才~45才)は仕事で破竹の連勝、第一選抜で課長、部長に。
一気に6勝2敗。
3.人生は8勝7敗がいい
さて、ここでおいらの好きな無頼作家、阿佐田哲也の登場である。
阿佐田の人生訓は「8勝7敗」である。
人生で15戦全勝はありえない。15戦全勝すると、どこかでひずみが出る。仕事で全勝すると家庭が火の地獄かも知れない。仕事で出世頭だとしても、それは失脚の始まりかも知れない。
山高ければ、谷深し。栄耀栄華を極めれば、その後に待っているのは没落しかない(この項続く)。
人生は8勝7敗がいい(後篇)
3.人生は8勝7敗がいい(続き)
阿佐田のエピソードに、阿佐田がわざと競馬に負けるシーンがある。わざと負けて、心底嬉しそうにニンマリとするのだ。
しかし、明らかに負けるような負け方ではない。微妙に負けるのだが、負けるにも技術がいる。神様が「残念だったね」と云ってくれる負け方でなければならない。
阿佐田は、何時も勝ち続けることが出来ないということを本能的に知っていたのだ。だから、負けるなら小さい負けにする。負けは運を使わないからだ。
それに反して、勝ちは運を使う。一回使うと、次の運は何時来るか分からない。だから、阿佐田は8勝7敗を人生の指針としたのだ。
4.好事魔多し
おいらの九日目(46才~50才)。ここでつまずく。仕事が順調なときほど落とし穴がある。ある案件で社内から足を引っぱられ、結果的にこれが上層部の不興を買った。
おいらは云い訳をするのを潔しとしないのでラインを外れ、おいらが温めていたプロジェクトの担当としてニューヨークに単身赴任する。このニューヨークでの仕事は成功。それでも6勝3敗。
十日目(51才~55才)。おいらのライフワークであるプロジェクトが実り、関連会社を設立。実質ナンバーワンのポジションにつく。
しかし、リーマンショックによりマーケットが閉鎖。それに伴い会社を閉める。同時に、かねてより考えていた一匹狼となる。その年、文藝春秋社「オール讀物推理小説新人賞」第2次予選通過する。
人生の二度目の船出で7勝3敗。
十一日目(56才~60才)。講談社「島田荘司本格ミステリーベテラン新人賞」最終候補になるが、還暦までに公募小説新人賞受賞という夢を実現できず。
また、母が脳梗塞で倒れ、仕事、作家修業、遠距離介護の三足のわらじとなる。7勝4敗。
十二日目(61才~65才)。母逝去。代わりに初孫誕生。この間、美術展や趣味の世界に没頭し、充実したものの、やはり新人賞受賞ならず。7勝5敗。
こうして現在は66才の十三日目。おいらの波乱万丈の人生は阿佐田の至高とする8勝7敗に近付いているのだろうか、それとも残りの3日間勝てずに7勝8敗か。
まだまだおいらの人生、これからが面白い(この項終り)。
セオリーは王道(正攻法)を良しとするのか(前篇)
本日より3日間は、関ネットワークス「情報の缶詰」(2017年11月号)に掲載しましたおいらの「自由人」事始め(その139)「セオリーは王道(正攻法)を良しとするのか」をおおくりします。
セオリーは王道(正攻法)を良しとするのか
人生は王道(正攻法)を歩むべきなのか。それとも奇をてらうのを良しとするのか。
この誌面が皆さんに届いているころには日本シリーズが盛り上がっており、短期決戦はペナントレースと違う采配(作戦)が必要と云われているかもしれないので今回はその話しを書く。
1.勝負の世界
人生を勝負と置き換えるといやな顔をされるかも知れないが、人生はある意味で勝負の連続である。
人生での転機点は、大は志望校の選定から就職先の決定、配偶者との結婚、仕事上での決断、家を買うなどの人生の一大事から、小は今日の昼めしは何にするか、明日の休みはどこに行くかなどの選択が続き、その都度決断が求められ、うまく行った(勝った)、行かなかった(負けた)と一喜一憂する世界でもある。
そうだとすると、勝負を制する方法を知っている(いた)のと知らない(知らなかった)では長い人生で大きな差が生じることになる。
2.王道と覇道
おいらはこの年で未だに「人生とは何ぞや」という書生みたいなことを考え続けている。だから、こういう場合の基本の答えは「王道」か「覇道」か、である。
王道・覇道は、孟子によって説かれた。
徳を持って世を治めることを王道と呼び(それを遂行する者を王者と呼ぶ)、春秋時代の諸侯のように力ずくで世を抑え込むことを覇道と呼んだ(それを遂行する者を覇者と呼ぶ)。
その孟子は王道が理想であるとし、覇道を賎しいものとしたので「尊王賎覇」という言葉が残っている。
だから、転じて王道は正攻法を意味し、覇道は力ずくだから何でもありと解されることがある(この項続く)。
セオリーは王道(正攻法)を良しとするのか(中篇)
3.藤沢秀行の「厚み」
おいらが好きだった藤沢秀行は、最後の無頼派と呼ばれた名誉棋聖である。
その藤沢は、人生の大局の読み方において「厚み」を大事にした。「厚み」とは目先の利を捨て、将来に備えて力をためることだという。おいらは彼の生き方が好きで、氏の著作を若い頃読み漁ったものである。
その氏から教わったのが、「勝とうとするな。芸を磨けば最後は勝つ」である。
これはある意味での哲学であり、勝負がすべてではない、芸を磨けば、つまり、実力をつければ自然に勝てるという考え方である。
これに対し、プロは結果がすべてで勝負によって芸は磨かれるという対極の考え方がある。
どちらが正しいのか。その答えは人それぞれによって異なり、両方とも正しいと云えるかもしれない。
しかし、藤沢は断じて碁は芸であり、若いうちは芸を磨け、わき目もふらず精進しろ、目先の勝負にこだわるな、そうすれば碁に厚みが生じると云い続けたのである。
いわば王道を歩めば、結果として勝負に勝つと藤沢は云うのである。
4.緒方野球
さて、広島カープが37年振りにセ・リーグを連覇した。
この緒方野球は走攻守と3拍子の揃った守り勝つ野球である。それを支えたのは基本を大切にし、一塁先を目指すのではなく、二塁先を目指す野球である。
打では、石井コーチが「打率は7割が失敗。その7割でどうやって点を取るか」という意識改革を選手に植え付けた。
凡打にも良い凡打と悪い凡打がある。その時の状況に応じて、それぞれが何をなすべきか。ヒットやホームランだけが評価されるのではない。結果的に三振だったとしても、その三振に内容があれば構わないという考え方が選手のプレッシャーを大きく軽減させた。
云うまでもなくスポーツはプレッシャーとの闘いである。カープの選手が走れば凡打でも全速力するので、相手のエラーを誘発する。相手もカープが相手だとプレッシャーを感じるのである。
しかも、練習量が日本一のカープの野球は、あれだけ練習したのだから必ずうまくいく、失敗してもかまわないという心構えだから極限状態でも平常心で野球ができる。
だから、緒方監督は昨年の日本シリーズでもペナントレースと同じ采配をかたくなに守った。短期決戦だからと云って王道である正攻法の攻め方を変える必要はないという考えであった。
これに対し、日本ハムの栗山監督は、何でもありの采配である。結果はご承知のとおり、日本ハムが日本一に輝いた(この項続く)。
セオリーは王道(正攻法)を良しとするのか(後篇)
4.緒方野球(続き)
これで思い出すのが、長嶋巨人軍と高木中日ドラゴンズがセ・リーグ優勝をかけて闘った94年の10・8決戦である。
日本プロ野球史上に残るこの名勝負は、勝った方が優勝という大一番であった。
このとき、高木監督はペナントレース同様の王道采配を行い、これに対し長嶋監督はセオリー無視の戦法(先発三本柱の槙原、斎藤、桑田を継投)によって優勝したのである。
とすれば、奇をてらう作戦の方が勝負の世界では有効なのだろうか。
5.人生の大局の読み方
さて、ここまで正攻法と奇襲戦法(王道と覇道)を述べてきたが、おいらはこの使い方は両者をTPOで使い分けるべきとこれまで考えてきたのである。
ところが、最近、読んだ勝負本で目からうろこが落ちたのが桜井章一「流れをつかむ技術」(17年6月、集英社)である。
ご存知の方も多いと思うが、桜井氏は雀鬼(じゃんき)として知る人ぞ知るプロの雀士である(現在、雀鬼会主催)。
おいらは、若い頃この人に魅力を感じたねぇ。人生に正面から挑んでいたからである。氏の口癖は「勝負においては逃げるな」である。
この桜井氏の奥義を一言で述べれば、こざかしいことは全て捨てて、正攻法で生きなさいと云うことである。
麻雀で云えば、テンパって西の単騎待ちなどは下の下ということである。
つまり、麻雀もその本質は「斬った張った」の世界ではなく、人生と同じ試練の場だということである。麻雀は複雑な遊戯だと思う。
だが、当たり前だが、人生はもっと複雑な遊戯である。複雑な遊戯であればあるほど、シンプルに正攻法を歩むのがベストな選択だと氏は教えてくれるのである。
ここまで書いて、信長も奇襲戦法は桶狭間だけで後は勝てる戦しかしなかったことを思い出した。だから、人生は面白い。
誌友は、さて、正攻法、奇襲戦法のどちらのお味方ですか?(この項終り)
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