さすらいの天才不良文学中年

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横浜中華街 横浜港クルージング 三渓園

横浜中華街春節探訪

 中国では古来から正月は旧暦で祝い、春節と呼ぶのが慣わしである。その春節(今年は1月29日)を味わうために、海外旅行のノリで、昨日午後、横浜中華街に行ってきた(写真は元町中華街駅構内と山下町公園の會芳亭)。


横浜春節1


横浜春節2


 中国のニュースなどを見ると、正月には爆竹を鳴らしているが、あれはカウントダウンを始めて、丁度午前0時になった瞬間に鳴らすのだそうだ。また、中国の家庭で新年に食べる物が餃子であると点も面白い。

 さて、今年の中華街の春節である。日曜日と重なったこともあって、人混みは最高潮、恐らくスリの稼ぎ時?でもあったろう、芋の子を洗うような盛況であった。残念ながら獅子舞い、龍舞、中国古典装束(京劇を想像されたし)によるパレードは予定より早く終了(夕方5時までの予定が4時ごろ終了)していたため、祝舞遊行を見ることは出来なかったが、その雰囲気は充分堪能出来た。


横浜春節3


 帰路、某大衆中華飯店にて鱶鰭(ふかひれ)スープかけご飯を所望する(写真)。880円。絶品であり、満足して家路についた。



祝アクセス数、101,000突破

 先週の5月7日(木)、謎の不良中年のブログアクセス数が101,000を突破しました。

 101,000突破は偏に皆様のおかげのたまものです。深く感謝し、有難く厚く御礼申し上げます。


横浜ベイ・ブリッジ1


 お礼に、横浜港を周遊する「ロイヤルウイング」船上から観た横浜ベイ・ブリッジをご覧下さい。


横浜ベイ・ブリッジ2


横浜ベイ・ブリッジ3


 横浜ベイ・ブリッジを真下から眺めることなど、普通は出来ません(写真中・下)。


 次回は、102,000ヒットを目指して精進いたしますので、これからもよろしくご指導のほどお願い申し上げます。


 2009年5月11日(月)


謎の不良中年 柚木 惇 記


横浜港クルージング(前編)

 今月のホームページのトップは横浜港で飾っている。横浜開港150周年である。

 これには理由がある。

 横浜開港150周年のイベントを探していたら、横浜港を周遊している「ロイヤルウイング」号に、横浜市港北区所在の人間であれば無料ご招待というのを発見したのである(既に期間は満了)。

 そこで、これに乗らぬ手はないと先月某日の日曜日、横浜港の大桟橋まで出向いた。


大桟橋


 地元であるので、山下公園や元町中華街に出向くことは多いのだが、大桟橋まで行くことは珍しい。途中に掲示してある100年位前の絵を見ながら大桟橋に向かう。

 中に入ると、「たねまる」が待っていて、開港150周年の雰囲気が出ている。


たねまる


 この「たねまる」は横浜開港150周年のマスコットキャラなのだが、先日電車の中で誰かが「種馬」みたいだと喋っていたので、旨いことを云うなぁと感心したばかりである。

 さて、おいらが乗船する船は、総トン数約2,900トン、全長約90メートル、旅客定員630人の豪華客船である。

 周遊時間は約2時間。午後5時過ぎに出発して、横浜ベイブリッジをくぐり、本牧埠頭を右手に見ながら東京湾まで出てそのまま迂回して横浜港まで戻るというクルージングコースである。

 30分前から出立口には人が並んでいる。おいらは区報を提示し(港北区の住民である証明)、搭乗券を貰う。乗船するだけで大人一名2,400円が無料になるのだから、有難い。

 さあ、いよいよ出発である(続く)。


横浜港クルージング(後編)


 大桟橋が離れていく。


大桟橋


 海から見ると、大桟橋はこういう風に見えるのである。

 時刻はまだ夕方の5時過ぎ。明るい。ベイブリッジをくぐる。


横浜ベイ・ブリッジ3


 本牧埠頭が茜色に染まり始める。


落日


 一隻の船が出港して並走している。絵になる風景である。


落陽


 マストに灯が点る。


マスト


 ところで、四月とはいえ、この日は寒かった。風がなければ凌げるのだが、結構船の速度があり、また時折吹く夜風に震える一場面もあった。

 船上で缶ビールを買って飲もうと思っていたが、全くそのような気分にはならなかったのである。ハイ。


ロイヤルウイング1


 カメラ小僧と思われる中年のおじさんは、用意したウインドブレーカーを纏い、三脚を抱えて小走りに横浜港の夜景を撮り始める。う~む、おぬし、出来るのぅ。


 到着した「ロイヤルウイング」号である。


ロイヤルウイング2


 汐に吹かれ、横浜開港150周年を堪能した一日であった(この項終り)。


イージス護衛艦「きりしま」「しらせ」の一般公開

 この日曜日(7月26日)に横浜の山下公園に行ったところ、多くの人が横浜港の大桟橋埠頭にカメラを向けている。

 ん?

 おいらも、同じ方向を見ると、戦艦が係留されているではないか。聞いてみると、「海フェスタよこはま2009」のため、イージス護衛艦「きりしま」(7250トン)と砕氷艦「しらせ(2代目)」(1万2650トン)とが係留されているという。



イージス艦 しらせ


イージス艦


 前日の土曜と日曜との二日間、両艦の内部を一般公開していたらしい。

 実は先週の22日にも、一日だけではあるが、アメリカ海軍のイージス駆逐艦「ジョン・S・マッケイン」(8315トン。米海軍横須賀基地所属)が横浜大桟橋に入港し、一般公開されたばかりである。

 それもこれも横浜開港150周年記念のイベント「海フェスタよこはま2009」のイベントの一環だという。

 しかし、平和団体などは「国際平和都市がとるべき姿ではない」として、中田宏市長に抗議文を送ったという。

 ま、その気持ちは分からない訳でもないが、これはお祭りの一種である。目くじらを立てる性格のものではないだろう。

 おいらはこれで思い出すのが、マンハッタンのウエストサイドに係留されていた米航空母艦「イントレピッド」である。公開していて、誰でも入場料を支払えば、内部を見学することが出来る。

 例えは悪いが、あれは高級玩具である。男は何時まで経っても子供である。おいらもわくわくしながら見学したことを覚えている。

 さて、イージス護衛艦「きりしま」である。午後の遅い時間であったこともあって、大桟橋は見学者でごった返していた。芋の子を洗う様相である。しかも、滅法暑く、近くまで行こうと思ったが、あまりにも人が多いため、おいらは恐れをなして望遠での写真撮影までとした。

 しかし、それでも十分楽しめた横浜港の一日である。


横浜本牧を散策(前篇)

 今年の桜は九段の靖国神社のほかに、横浜本牧の三渓園を訪ねた。


三渓園絶景1.jpg


 本牧のイメージは米軍とジャズである。大東亜戦争での敗戦後、本牧は米軍に接収されたのである。

 住民は強制退去とされ、米軍の住宅は「ベイサイド・コート」(別名・アメリカ村)としてフェンスに囲まれたのである。

 だから、おいらの世代にとって本牧は米兵のイメージが強く(ただし、82年に日本に返還されている)、同時に、日本でのジャズ発祥の地としても本牧は有名である。

 だが、本牧で欠かせないのは、実は三渓園である。

 このブログでも紹介したことのある原三渓の旧自宅が三渓園として残されているのである。

 この三渓園が四季折々の花で目を愉しませてくれ、特に春は桜の名勝地として有名なのである。

 もう一つ。

 おいらが広島支店時代にご一緒させてもらったM支店長が現在は本牧にお住まいなのである。これは、関係ないか。

 当日は車で出かけることにした。本牧は鉄道空白地帯(陸の孤島)であり、交通手段はバスがメインだからである(かつては横浜市電本牧線が通っていたが、70年に廃止されたようだ)。

 調べてみると、三渓園には駐車場もある、ただし、桜の時期であり、駐車場は満杯であった(近隣の駐車場に車を置くことになった)。


三渓園通り.jpg


 さあ、いよいよ桜咲く三渓園に到着である(この項続く)。


三渓園入り口.jpg


横浜本牧を散策(後篇)

 さて、三渓園である。


三渓園絶景3.jpg


三渓園桜.jpg


 原三渓は、日本の生糸王であった。このブログで触れた佐竹本(36歌仙切断事件)のうちの一枚を買い取った当時の大金持ちである。

 原が偉かったのは、関東大震災で壊滅した横浜の復興に当たり、横浜市復興会の会長職を務める傍ら、自らも私財をなげうって復興に力を尽くしたことである。

 同時に美術にも理解を示し、小林古径、前田青邨らのパトロンになって日本美術界の底上げを図ったことは有名である。

 原の自宅(現在の三渓園)は日本庭園として本格的に造園され、完成度が高い。金に糸目をつけない限りこのように明媚な庭園は造れるものではない。


三渓園絶景2.jpg


 また、邸内の建築物が秀逸である。京都相楽郡加茂の燈明寺から三重塔を移築するなど、全国の名高い歴史上の古建築を多数移築しているのである。これも見ものである。

 しかし、昭和12年にナイロンが発明されて以来、原家は衰亡することになり、昭和22年には佐竹本を含め名品を手放すことになる。三渓園はその後横浜市に譲られ、一般公開されるに至っている。

 おいらが訪問した日は好天に恵まれ、桜も満開。結婚式も数組行われていた。


結婚式1.jpg


結婚式2.jpg


 新郎新婦を観るのは良いものである。

 平日にもかかわらず、三渓園を訪れる観光客はひきもきらないが、ゆっくりと園内を散策することができたことを報告しておこう。


三渓園絶景4.jpg


 三渓園よ、ありがとう(この項終わり)。


公時神社(金時神社)参拝

 行楽日和である。


金時神社.JPG


 先月、とあることによりおいらと愚妻が箱根に招待を受けることになった。

 昨日までのブログに書き込んだピカソの美術展も箱根のポーラ美術館を訪問したときに触発されて書き込んだものである。

 その道すがら、公時神社(金時神社)を訪れた(写真上)。

箱根は金太郎(坂田公時)でも有名である。その公時の生家とされる「坂田屋敷」の跡にあった小祠が戦前の昭和9年、公時神社になったのである。

 ウイキペディアによると、社殿は町の有志が集い、造営したものとされる。

 これには驚いた。金太郎は全国銘柄である。しかも歴史がある。おいらが子供のころから知っている金太郎は足柄山で熊と相撲をとり、母に孝行する元気で優しい子だった。

 平安時代に足柄峠にさしかかった源頼光と出会い、その力量を認められて家来となり、名前も坂田公時(きんとき)と改め、京にのぼって頼光四天王の一人となったという人物である。

 そして有名なのが、丹波の国の大江山(京都府福知山市)に住む酒呑童子の退治劇である。

 それが平安時代ではなく、戦前に神社を創られたとなると何だか情けない国だと思っていたら、どうも違うらしい。

 静岡県小山町にも公時神社があり(ただし、ウイキペディアには記載がない)、確か足柄山にも金太郎の彫像があったような記憶がある。

 つまり、金太郎の伝説にはどうも異説があり、全国に公時神社があるようだと分かった。

 ま、しかし、そんなことはどうでも良い。

 ここ箱根の地元中島の人々に温かく守られている公時神社の御利益は、安産、子育て、健康などである。

 ここでは七五三の参拝も行われており、金太郎にあやかろうという親子が多数訪れるのである。だから、おいらは「こどもの神様」の公時神社は箱根だと思いたい。



秦野は「はだの」か「はたの」か(前篇)

 この(2017年9月)23日、24日に秦野市で「秦野たばこ祭」があった。


秦野たばこ祭.jpg


 このお祭りのメインとなったのが、同市本町小学校の校庭に特設ステージを設置して行われた「たばこ祭絆ステージ」である。

 新沼謙治のほか、キャロルのジョニー大倉の長男ケンイチ大倉が出演するというので、物好きなおいらは小田急線で秦野駅まで出向いたのである。

 そのおいらは秦野駅に到着して驚愕した。


IMG_0311-001.JPG


 駅舎がでかくて立派なのである。秦野は都会だったのである。

 好奇心の強いおいらは早速秦野のことを調べてみると、人口が17万人で面積は約100平方キロメートル。神奈川県内19市中5位の広さを持つとのことである。

 秦野は、北と西は丹沢山系、東は大根台地、南は大磯丘陵に囲まれる盆地である。

 その盆地の中心に秦野市街がある。

 なぜ秦野でたばこ祭りが行われるかと云うと、秦野はたばこの名産地だったからである。中世以来、秦野の経済はタバコ栽培を中心として栄えていたのである。

 日本専売公社秦野工場があったが、タバコ産業の工業化が進んで以来、秦野盆地における煙草栽培は急速に衰退し、1984年(昭和59年)に栽培は終了することになる。

 日本専売公社跡地にはジャスコ(現イオン)を核テナントとしたショッピングセンターが開店し、街はにぎわっている。

 これが駅北口からの写真。


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 さすが、たばこ祭り。同市長の説明によると二日間での来場者は30万人だという(この項続く)。


秦野は「はだの」か「はたの」か(後篇)

 さて、本題に入る。


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 秦野は「はだの」か「はたの」か、である。

 結論から述べると、現在の秦野市は「はだのし」と読むのだが、その昔、この地名は「波多野郷」とされ(出典、「和名抄」)、万葉仮名では清濁を区別していたことから「はたの」であったとされる。

 同時に、この波多野郷は秦氏に由来するとして「はだの」であったとする説もある。

 実際、明治以降、西部の上秦野村は「はたの」と読み、他の地名は「はだの」と読んだ。

 小田急電鉄も現在は秦野駅(はだのえき)だが、かつては「大秦野駅」(おおはたのえき)だったから、両者互角であったが、いつの間にか「はだの」になったようだ。

 したがって、現在でも学校名や企業施設名などで「はだの」ではなく、「はたの」と呼ぶものも多いという。清濁問題は尽きないのである。

 そう云えば、おいらの敬愛する先輩に波多野姓の方がおられるが、秦野に関係があるのかなぁ。


 閑話休題。

「たばこ祭絆ステージ」の会場は、人だかりであった(写真上)。その会場でのケンイチ大倉をおいらは観に行ったのである。

 ジョニー大倉は亡くなったが、その息子(長男)は愛称「ケニー」として健在であった(なお、弟は俳優の大倉弘也)。

 調べてみると、昭和47年生まれで現在は44歳。ミュージシャン、作詞家として活躍中であり、作曲家の坂本つとむと組んで、「つとケン」としてステージに立っていたのである(写真右)。


IMG_0335.JPG


 こりゃ、うれしかったねぇ。曲も新曲のほかに「ファンキー・モンキー・ベイビー」(作詞ジョニー大倉、作曲矢沢永吉)を唄っていたのでござる。

 メインの新沼謙治は、たっぷり1時間かけて熱唱。聴かせましたなぁ。


IMG_0431.JPG


 駅前のイルミネーション(写真上)を観ながら、おいらは帰路についたのである。「秦野たばこ祭」、なかなかのものであった(この項終り)。


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