さすらいの天才不良文学中年

さすらいの天才不良文学中年

伊豆(続き) 港の見える丘公園

中伊豆探訪(後篇その1)

 お待ちかね、「怪しい少年少女博物館」である。


怪しい 外観.JPG


 国道135号線を北上していたおいらは、城ヶ崎海岸駅そばの交差点の左手に怪しげなペンギン像(昨日の画像)を発見したのである。こりゃ、目立つわ。

 これが噂の「怪しい少年少女博物館」である。おいらは躊躇せずに車を駐車場に停めたのである。

 だが、博物館の駐車場には車が一台もない。つまり、おいらしか入場者がいないことになる。解説すると、愚妻はこの手には全く興味がなく、車の中で休みを取るという。


怪しい 玄関.JPG


 博物館の外観は以上のとおりで、いかにもエログロナンセンス満載である。しかも、受付から内部を覗いてみると館内はカオスの塊である。


怪しい 内部.JPG


 おいらはすでにこの博物館のパンフレットを前回の伊豆旅行中にもらっていたので(入場料が百円引きになる)、受付でパンフを提示して900円で入館する。


怪しい パンフ.JPG


 アルバイトだろうか、若いおねえちゃんがもぎりをやっているので、「写真撮影は大丈夫ですか」と尋ねると、ハイとの返事、「どんどん宣伝してください」と云われた。う~む、気さくなおねんちゃんじゃのぅ。

 おいらは調子に乗っておねえちゃんに話しかける。

「近くに姉妹館の『怪しい秘密基地まぼろし博覧会』もあるんですよね」

「ええ、あちらの方が本格的です。大きさが全然違います。こっちは1時間もあれば十分ですが、あちらの方を全部観るには最低2時間かかりますよ」

「うへぇ」

「それに、あちらは伊勢志摩にあった秘宝館が閉めたときに展示してあったマネキンを弊社の社長が頑張って買い付けにいったという品が随分展示されていますので」

「秘宝館のエロ人形ですかぁ」

 てな会話が交わされ、おいらはこの博物館に入った。館内は吹き抜けの二階建てになっており、なつかしき昭和のグッズが脈絡もなく(本当はそれなりにあるのだろうが)所狭しと展示されている。

 入館すると、まぎれもなく昭和30年代にタイムスリップする。二階にはろくろっ首や一つ目小僧の唐傘人形も展示されており、見世物小屋の雰囲気も出している。


怪しい 唐笠.JPG


 そして、アネックスにはお化け屋敷もある。これもおねえちゃんの解説によると社長自らが本腰を入れて造ったものであり、中身はちゃちくなかった。

 お化け屋敷の内部を紹介するとルール違反になるので止めておくが、五感に訴える内容となっており、大人でも十分愉しめる内容であった。

 とまれ、ここには時間の制約もあって約30分の入場であったが、観る価値が十分にある見世物小屋であったと評したい(この項続く)。



本日と明日はお休み

 本日と明日は休日につき、お休みです。


由美かおる.JPG


 写真上は、昨日の「怪しい少年少女博物館」に展示してあった由美かおる嬢の「琺瑯(ホーロー)看板」。

 昔は、この手の看板がどこの田舎にも必ずあったものです。

 知らない? そりゃ、もぐりだね。


 それでは、皆様よろしゅうに。


平成27年12月19日(土)


 謎の不良翁 柚木惇 記す


中伊豆探訪(後篇その2)

 続いて「怪しい秘密基地まぼろし博覧会」である。


怪しい 外観.JPG


 これも国道135号線を伊藤方面に北上すると右手にある。これは昨日述べたように巨大な造りである。図録によると、この博物館は従来植物園であったが、倒産して社長が買い取ったものらしい。

 う~む、この博物館の社長には興味があるなぁ~。どんな人なんだろうと思ってしまう。

 さて、この駐車場に入ったのが午後4時ちょうど。この博物館は午後5時で閉館なのだ。しかし、この駐車場もだだっ広いが停めてある車はない。

 これでは経営が成り立たないだろうと人ごとながら心配してしまう。


怪しい 地図.JPG


 ここも受付でパンフレットを提示して入館料1,200円を1,100円にまけてもらう。この受付は30代から40代前半の人の良さそうな男性である。


怪しい パンフ.JPG


 入口にすぐおみやげや書籍販売がなされている。図録(実は単行本「アホとボケの楽園」平成26年、データハウス)が千円(定価1,200円)で販売されていたので購入。


図録.JPG


 館内の展示物を撮りまくった写真集である。天下の奇書と評するが、残念なのは解説が少ないことである。しかし、一日中眺めていても飽きない本には違いない。

 ここは植物園であったところに巨大な聖徳太子像が展示されている。


怪しい1 聖徳太子.JPG


 誰が何のために造ったものか意味不明だが、これは一見の価値あり。展示されて長いのか、塗装が剥げているところが物悲しい。

 元植物園を出ると、本館はここも2階建てで見どころ満載。「怪しい少年少女博物館」の昭和30年代ノスタルジアと似ているところもあるが、エログロが強調されている。


怪しい 入口.JPG


 秘宝館のエロマネキンは立派にここで再生され、元気で活躍していたことを報告したい。

 この博物館のコンセプトは見世物小屋と秘宝館もどきだろう。ネットでこの博物館を検索するとこういう怪しい博物館マニアが大挙してこの博物館に押し寄せるものがあるが、観る方も立派な博物館の一部と考えてもよい。

 それにしてもよくもまあこれまで蒐集したものだと感心するのだが、世の中には同好の士もいるらしく、古いカストリ雑誌などはまとめて寄贈されることもあるという。頷ける話しである。この博物館が潰れないことを切に祈るものである。


怪しい ポスター.JPG


 なお、おいらが帰路につこうとしているときに品川ナンバーのRVが駐車場内をうろうろとしていた。5時を過ぎて閉館していたので残念がっている模様である。やはり、5時閉館はちと早いのぅ。

 とにかくお腹いっぱいになってこの博物館を後にした。ありがとう、博物館、そして博物館の社長さん(この項終わり)。






港の見える丘公園ミニ・バック・パック(前)

 前日(31日)に締め切りであった書き物が完成し、肩の荷が下りていたこともある。また、日曜日は前線の通過により関東地方は大雨の予報である。ために、いそいそとバック・パックの格好をして自宅を出た(写真は元町谷戸坂の桜)。


谷戸坂桜4


 道すがら、名曲「港の見える丘」を口ずさんでいた。カラオケで好きな歌である。考えてみれば、横浜は何度も訪問しているが、港の見える丘公園や外人墓地を訪れたことがないことに気付く。愉しみである。東急東横線某駅に乗り込み、横浜経由でみなとみらい線乗り入れ元町中華街に到着する。


フランス山入り口


 元町方向に歩き、物の数分で港の見える丘公園入り口(港の見える丘公園フランス山地域。写真上)に到着する。意外なことを教わる。ここは幕末からフランス軍に縁のある場所で、フランス領事館が建てられていた場所であると知る(領事館跡。写真下)。そう言えばと、徳川慶喜がフランス軍の盛装をしていた写真を思い出す。


領事館跡


 体がなまっているので、少々坂がきついが展望台まで上る。港の見える丘とは良くぞ言ったものである。横浜ベイ・ブリッジを始め、その眺めは絶景である(写真)。


展望台


 景色をそこそこにして、さぞや公園の中央部は桜の満開が綺麗だろうと探すが、拍子抜けである。桜並木をイメージしていたが、公園の中には桜がほとんどない。しかし、ありました、一本、桜の大木が(写真)。


名物桜


 貫禄充分の桜である。アマチュア写真家が雨後の竹の子の如く、この大木を撮りまくっていた。どうやら、この桜、港が見える丘公園の名物桜らしい。また、桜の名所はこの公園の周辺に多いようである。


水の階段


 ところで、おいらは何故かその傍にあった「水の階段」に見とれ、こちらもパチリ(写真上)。こういう隠れた被写体の穴場というのは、案外身近にあるものかも知れない。(TB Continued)



港の見える丘公園ミニ・バック・パック(中)

 港の見える丘公園を後にし、外人墓地(横浜外国人墓地)に向かう。外人墓地は一般に公開されていないと聞いていたが、この日は午後4時まで特別公開とのこと、外人墓地維持募金(200円)に協力し、中に入る。思った以上に中は広い(写真)。


外人墓地1


 外人墓地の歴史は古い。1854年(嘉永6年。当然、江戸時代。なお、黒船来航は1853年)、横浜港(当時は横浜村)沖に停泊中の戦艦ミシシッピー号乗組員の水兵が事故死し、その埋葬を契機として外人墓地が設営されたという。

 したがって、古いお墓も多い。150年も経っている勘定なので、その多くが無縁仏(広い意味での)になっていてもおかしくはない。併し、墓地の管理は財団法人横浜外国人墓地が行っているので、お墓の管理もしっかりなされているようだ。

 埋葬されている方には、有名人も多く、日本の近代化に功績のある人も多い。学問、医師、建築、鉄道、宣教師等の関係の方々の他、何とあの快楽亭ブラック師匠(日本初の外国人落語家。HENRY JAMES BLACK)のお墓もここにあるのだ。ブラック師匠にはしっかりと、ご冥福をお祈り申し上げておきました。


マリア様


 マリア様も安置されているし(写真上)、銀座から持ってきた柳の木も植樹してあった(写真下)。異国情緒溢れる中、風流でもある。


外人墓地2


 土曜日の休日とあって家族連れで賑わっていたと付け加えておく。今や観光スポットと化した外人墓地である。(TB Continued)



港の見える丘公園ミニ・バック・パック(後)

 外人墓地から(元町)谷戸坂を下って山下公園に向かう。谷戸坂の途中が桜並木になっている(写真)。


谷戸坂桜並木


 手の届くところに桜の枝があるので、これもパチリ(写真)。満開で心も豊かになる。


谷戸坂並木桜2


 山下公園は土曜日ということもあって、お花見客で一杯であった。お花見の絶景スポットでもある(写真)。


山下公園桜


 山下公園は、思い起こせばおいらが高校のとき修学旅行で訪れた場所である。懐かしいというよりもおぞましいという感じが強い。当時、お定まりの修学旅行コースである氷川丸(写真)に乗船させられたことを覚えている。青春を思い出すのは今でも恥ずかしい。


氷川丸


 東京に住んでから山下公園に来たことはあるが、一人で来たのは初めてだ。こうやって、ただ、路上観察するのも情緒があって良い(写真は、ホテル・ニュー・グランド)。


ホテルニュ-グランド

 元町商店街を経由して、帰路に着いた。元町から中華街を経由して戻る途中、ワシントンのポトマック湖畔に桜の苗を贈ったシドモア婦人(横浜在住であった)を称える碑と、そのポトマックから逆輸入した桜の苗が植樹されていた。後、何十年かしたら、この河川沿いに桜並木が映えると思うと、愉しみである(写真)。


シドモア桜


 その河川の上を無粋な高速が通る(写真)。まあ、この景色にも慣れてはいるが、やはり、高速は地下に走らせたいものだ。


元町高架


 以上、久し振りにゆっくりとミニ・バック・パックした一日であった。ジャン・ジャン!



連休に横浜に遊ぶの巻(前編)

 横浜・広島三連戦の切符が手に入った。4月28日、29日、30日に通用する内野席入場券である。連休初日の29日(午後2時開始)の都合が良いので、昼前から出かけた。


入場券


 前日から用意したもの。帽子、サングラス、双眼鏡、ラジオ、球場用座布団、カメラ、折りたたみ傘、合羽である。前日夜の天気予報の当日の降水確率は50%。試合当日の横浜スタジアムのインターネットを見たら曇りとなっていたので、決行とする。


日本大通り


 日本大通りに到着、驚いた。大雨である。鞄を傘代わりに頭に乗せていた人がずぶぬれとなって地下鉄の入り口に入ってくる。

 小雨になるはずと、地下鉄の出口で辛抱強く待つ。5分程度で止んだので、拍子抜けする。球場への途中、ちょっとハイカラな店で弁当とビールを手に入れる。球場の中はバカ高いし、何より好きなものが食べられないからだ。

 横浜スタジアムは久し振りである。独身時代に、関内下車でカープ戦を観に行った記憶がある。それも今や、みなとみらい線で日本大通りから歩いてすぐである。球場内の公園の花を愛でながら3塁側内野席の入り口を目指す。大勢のファンがたむろしている。


横浜公園


 ガ・ガーン!!雨天中止であった。まさしく晴天の霹靂。それはないぜ、セニョール。折角、横浜スタジアムまで脚を運んだんだぜ、少々の雨ならファンは覚悟して球場に行くのだよ。


中止立看


 おいらの読み。横浜の優秀な首脳陣が今日はあかん、カープに負ける、いや、絶対に負けると思って、早々と中止にしたに違いない。それなら、まあ許してやるしかなかろぅがのう。そう思わなければ、やってられない。現に、その後の雨足はほとんど強くならず、4時ごろには晴れ間も見えた。

 お願いしますっよ(続く)。

連休に横浜に遊ぶの巻(中編)

 横浜・広島戦が中止になっても、時間と弁当は手許にある。

 おいらの好きな都都逸(どどいつ)に「惚れて通えば千里も一理、逢わずに帰ればまた千里」というのがある(斎藤英三郎「熟語本位英和中辞典」。因みに、この都都逸はLove is blind.の訳である)。弁当もビールも野球を見る前は軽いが、中止になれば急に重くなる。トホホ。


花壇


 山下公園に屋根の付いた休憩所があることを思い出して、そこで弁当を食すことにする(写真は山下公園の横浜を模した花壇)。

 途中、横浜開港資料館を右手に通る。「外国人カメラマンが撮った幕末ニッポン」(F.ベアト作品展。7月26日まで開催)をやっていた。無条件に入る。木戸賃、200円。


横浜資料館


ベアト


 こじんまりとした資料館で、20分もあれば特別展示を含め全部観ることが出来る。

 資料館の中に入り、この地に今から約150年前の1857年、ペリー提督が上陸したのだと分かる。資料館の中庭に玉楠(たまくす)の木があるのだが、ペリー上陸の図(絵)にその玉楠の木も描いてある(写真下。厳密にはこの玉楠は関東大震災で焼失。併し、生命力が強く、再び芽を出して現在の大木になったもの)。ヨコハマの地形が150年前とほとんど変わっていないことに驚く。


ペリー上陸


 しかも、この横浜は、当時わずか100所帯の半農半漁の住民しか住んでいなかった本当に小さな村(名称:横浜村)であったことにも驚かされる。その横浜村が日米和親条約・通商条約によって開港場と定められ(条約では神奈川)、現在の港ヨコハマとなったのだ。

 なお、ベアトの写真はこれまでもテレビや本などで紹介されているので珍しくはないが、一見の価値があるものであった。横浜に遊びに行ったら、立ち寄って損のないところである(続く)。


連休に横浜に遊ぶの巻(後編)

 山下公園でお弁当を広げて食べる。機嫌が治る(写真は休憩所とその周辺)。


休憩所


山下公園


 さて、小雨にもかかわらず、流石、山下公園である。大道芸をやっていた。これが、拾い物であった。久し振りに金を払いたい大道芸に出会ったのである(写真)。


大道芸1


大道芸2


大道芸3


 最初、黒山の人だかりで何をやっているのかなと、おっかなびっくりで人の輪に入っていった。見せた。曲芸師であった。話芸も巧い。名付けて「ハンガーマン」。

 はりがねのハンガーを使って、曲芸をする。「染之助、染太郎兄弟」のように兄が話芸で、弟が曲芸をし、二人で一つの芸をするというのがあるが、この大道芸はその二人分の芸を一人でしていた。

 一輪車あり、三本の刀のお手玉あり、ヨーヨーありであったが、圧巻はハンガーを使っての縄跳びや、写真にあるように下が安定しない場所での曲芸(丸い筒を横に寝かせ、その上の乗せたお盆の上で曲芸をする。写真はお盆が二枚だが、最後は三枚になった)であった。

 毎回異なる客、毎回異なる雰囲気の中で自分の持ち味を出して、客からお金を取る。これは並大抵のものではなかろう。

 また木戸銭(お金)の取り方も上品である。「働いていない人はお金を払う必要がありません」と言っていたが(心憎い)、良いものにはお金を払わずにはいられない。わずかだが、お札を払うことにした。それほどのプロの技であった。

 帰路、中華街で台湾料理を食す。台湾ビールを注文し、汁ビーフンを食す。


台湾ビール


汁


 ビーフン大好き人間にもかかわらず、これまで「もり」ばかりで「かけ」にしたことがなかったことに気付く。正解であった。ラーメンよりもあっさりしていて、それでいて、ビーフンがしっかりと分かる味であった。

 連休初日の愉しい横浜であった。




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