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さすらいの天才不良文学中年
恐怖の三陸海岸探訪記
恐怖の三陸海岸探訪記(前篇その1)
自由人だと云いながら、時間のやりくりについては意外に不自由である。週二日勤務とは云いながら未だに勤め人であるし、広島の母の遠距離介護もある。
また、気の置けないメンバーとの飲み会も毎週欠かすことはない。
だから、まる4日間自由になる日ができたので、旅に出たいと思った。行くならこの時期、三陸しかない(写真は、陸中海岸=岩手県宮古市の絶景)。
本当は車で放浪したいのである。6年前に執筆の取材を兼ねて青森県三沢市にある寺山修司記念館を訪問したことがある。
その足で恐山に出向いた。
恐山の中に予約なしで入れる温泉があった。
温泉に浸かっていると風来坊のような爺さんが入ってきた。話しを聞くと、独り者でアテのない旅をしているという。足は車だ。見た目はぱっとしない人だったが、こういうのを高等遊民というのである。
その当時、おいらにはまだそういう旅がピンとこなかった。
しかし、おいらも今年63歳になる。残された時間を考えなければならない年齢になった。遠出を車で自由にすることができるのも、後数年かも知れない。
幸い、車を新しくしたばかりである。
そう思ったら末弟の顔が浮かんだ。母が元気なころは、母が好きだった富士山に三人で旅行していたものである。母が毎年5月に上京し、おいらと母と弟の三人で伊豆や下田、熱海、箱根など富士山の見える場所を中心に旅していたのだ。
久し振りに弟と旅するのも良いだろう。母がその昔、おいらへの土産にくれたカーアクセサリーを車内にぶらさげ、おいらと弟と、母の代わりであるアクセサリーとの三人旅としゃれこもう。
さあ、三陸への出発である(この項続く)。
恐怖の三陸海岸探訪記(前篇その2)
三陸に行くのに、細かいスケジュールを建てるつもりはない。弟と一緒だから気楽なものである。
3泊4日のスケジュールなので、漠然と初日は福島原発を経て相馬泊、2日目はあまちゃんでフィーバーしている三陸海岸泊、3日目は三沢か青森泊、東日本(北日本)を3日間かけて北上し、4日目に弾丸で縦断、横浜に帰ろうと考えていた。
距離にして往復約二千キロ。
旅館は現地で決める予定で、行き当たりばったり。どうだ、いいでせう。
車に積んだのは、いつもの旅行バッグ(パソコンが入っている)と愛用のカメラバッグ。それに、氷の代用ともなる、凍らしたペットボトル2本を入れたクーラーバッグ。
途中で洗濯するつもりはないので、着替えは潤沢に車に投げ込んでおいた。
携行品で役に立ったのは、ドライブマップ兼旅行ガイドブックである「まっぷるベストドライブ東北」(写真上)。950円。
ドライブ用のもので、良くできている。これ一冊あれば、ナビゲーターとガイドが同行しているようなものである。ただし、そうは云っても万人用に作ってあるので、実は思ったほど重宝しない。皆に良くしようと思うと、誰にも良く思われないのと同じである。
結局、現地で入手した地元のチラシや案内が一番役立つことになる。
それに、宿で呑むことになる場合の酒。おいらはバーボン好きなのでジャックダニエルを1本と適当なつまみをトランクの中に投げ込んでおいた。
なお、云わずもがなだが、一番活躍したのは、カーナビであった。これがなかったら、現地に土地勘のないおいらにとって、初めての地の旅は苦労したはずである。それが、カーナビのお蔭で、夜間、初めての旅館に行くのも全く問題がなかった。
20世紀の発明で最高のものは、恐らくGPSである(この項続く)。
恐怖の三陸海岸探訪記(本編初日その1)
さあ、初日である。
午前9時、横浜の菊名駅で弟と待合わせをする。
弟は都内杉並区に住んでいるのだが、横浜から福島原発に行くルートは常磐道であり、杉並を経由するには時間的がロスが多い。そこで、横浜集合とした。
カーナビに設定した最初の行先は、塩谷岬(福島県いわき市)。そう、美空ひばりの名曲で有名な塩谷岬である。
いよいよ出発である。カーナビの指示に従って常磐道に入り、守谷PAで1回休憩して北茨木ジャンクションに到着したのが、12時。
そこから一般道に入り、午後1時に塩谷岬の入り口に到着した。
その間、休憩を挟んでいるので、そこまでの実質的な運転時間は3時間。高速料金はETC料金で約3千円。
その塩谷岬の入り口から塩谷岬まで、海岸沿いを北上した。
ここで、初めて震災の洗礼を受ける。
進行方向右手に海岸を観ながら、左手に目を向けると何もないのだ。あるのは、草ぼうぼうの、住宅があったはずの平野である。
家の土台(基礎)だけが残っているのだ。あたり一面、その基礎の上にあれから2年半が経過したという雑草が覆い茂っているのである。
言葉を失う。
テレビで観る光景と同じなのだが、テレビには枠がある。枠の外まで同じ光景であるとは想像力が働かないのである。しかし、ここは現実の場である。見渡す限り、家がない。
ガレキが撤去されて震災が落着いたように見えるが、何も落ち着いていない。草ぼうぼうの光景は痛ましい限りである。
復興するには家を建てればよいはずだが、この場所にまた同じように家を建てることができないことは容易に想像がつく。津波はまた繰り返すのである。それが、また痛ましい。
実は、この光景は三陸海岸に行っても続き、さらに北上しても続くのである。つまり、日本の太平洋沿岸の東半分は、皆、同じ光景になっているということに愕然とするのである。
午後1時15分、福島県いわき市塩谷の岬に到着。美空ひばりの記念碑がある。記念碑から延々と彼女の「みだれ髪」が流れている。
だが、ここも被害にあったのだ。土産物はプレハブだ。その隣には、津波神社が祭ってある。
道をはさんでもう1軒の土産物屋に入る。津波被害に遭った写真が展示してある。ガレキの山に埋まった写真ばかりである。声が出ない。
震災の爪痕の前に、美空ひばりの歌声も霞んでしまうのである(この項続く)。
恐怖の三陸海岸探訪記(本編初日その2)
カーナビに南相馬市を入力し、北上を続ける。
国道6号線を上っていけば、福島第2原発、第1原発を経由して相馬に着くはずである。
午後2時40分、福島第2原発のそばまで到着。これ以上は原発に近付くことができない場所まで行ってみようと車を走らせる。
検問があった。侵入禁止と撮影禁止の掲示がある。
おいらは車を出て、「南相馬に行きたいのですが」と話すと、「これ以上は前に進めません。川内村の方に向かって迂回してください」と国道6号線の通行を断られる。許可車両以外はUターンを指示されるのだ。
怖いもの見たさもあり、とりあえず、あたりをグルグル車で回ることにした。
黄色いテープで住宅が囲われたテリトリーを発見する。黄色いテープは刑事もののテレビドラマで出てくる、ここから先は入ってはいけないよのサインである。当たり一帯人気(ひとけ)が全くない。
向かい側から音もなくパトカーがこちらに向かってやって来る。おいらたちを職質するでもなく、無言で去っていく。不審者や空き巣狙いなどをパトロールしているのだろうか。
恐らくおいらの車のナンバーは控えられたに違いない。
だが、この静寂は異常である。
これを形容すると、死の町である。誰も住んでいない。いや、誰もいないのである。町の中心部に着き、居酒屋「養老の滝」を発見するが、無論、廃墟のように放置されたままである。イヌ一匹も這回していない。
住宅街も不自然なままに放置されている。かなりの家屋敷が地震で崩れたりしており、その屋根の保護のためだろうか、屋根に土嚢(どのう)のようなものが置いてある。
はっきりしていることは、ここに人がいないという理由である。放射能で汚染されているからである。いや、未だに放射能がまき散らされているからである。だから、住みたくても住めないのである。これは人災である。
先ほど見た塩谷岬南部の被害は既に瓦礫も撤去され、これから復興を待つというシナリオがおぼろげながら見える。しかし、ここではそのシナリオが思い浮かばないのだ。
ここに住んでいた人たちは、この現実に直面しながら生きていかなければならないのである(この項続く)。
恐怖の三陸海岸探訪記(本編初日その3)
地震で慧眼だと思った発言は北野武氏である。
3・11以前の発言だが、氏は「地震があった場合、一番安全な場所は原発のはずだ。なぜなら、どんな地震があっても安全なように設計、建設してあるのが原発だからだ」と述べていた。
そのとおりである。しかし、人間は(この場合は東京電力だが)どんな地震があっても安全なように建設しなければならなかったのに、見事にそうしなかったのだ。想定外と云う理論を持ち出して。
だから、この問題での東電の責任は重い。しかし、その本質は、人間が自然をコントロールすることができないように、原発を制御できるなどと思い上がらないことではないだろうか。
そう考えると、おいらは、原発はもう信用できないんだよなぁ。信用できないものは、もういらないんだよなぁ。悪だもんなぁ。
そう思いながら南相馬を目指すが、カーナビが示す先に行くと必ず通行禁止である。
挙句の果てに、車はぐるぐると迷走し始めたのである。カーナビに従うと、一度居た場所にまた戻るのである。カーナビには通行禁止がインプットされていないからである(上の写真は、無人の「ローソン」)。
そうこうしているうちに、道路の前に一匹のニワトリを発見した。
ここは両側が畑だったのだろう、田園風景である。ニワトリが通行の邪魔をしているので、弟に車を出て追い払うように指示した。弟は二つ返事で車外に出て、ニワトリを追い払おうとしたのだが、腰が引けている。
道路は舗装されているので雑草は生えていないが、道路の両側はペンペン草でぼうぼうである。
そのペンペン草の背後から、20頭ほどのニワトリが現れたのだ。
最初は皇居のお堀のカルガモのように目の前の道路を横断するのかと思っていたら、そのニワトリが一斉に空を飛んだのだ。
弟が立ちすくんだ。後で聞くと、「兄貴はサファリパークの車に入っているようなものだから安全だが、俺は丸腰だから、ヒッチコックの鳥より怖かった」と話していた。
いや、車の中から見ていても怖かったのである。野生化したニワトリは獰猛になっているに違いない。この場所での生態系は、狂っている。
しかし、ここには永遠に近寄ることができない場所ではないのか。福島第1原発、第2原発からは今も放射能がまき散らされているとしたら、100年経っても200年経ってもここは侵入禁止のはずだ。
おいらも今日、何回もこの地で車外に出、検問の人と話しをしている。
被曝しているに違いない(この項続く)。
恐怖の三陸海岸探訪記(本編初日その4)
北上できないので作戦を変更し、西に向かうことにした。
川内村の方向に車を向ける。迂回して南相馬に行くためである。
かなり走ったら、カーナビが新しいルートを紹介してくれた。こういうとき、カーナビは便利である。新ルートで30分程度走ったら、あっと驚いた。
再び検問に引っかかったのだ。
つまり、南相馬は国道6号線を走れば目と鼻の先にあるのだが、福島第1原発と第2原発が広範囲にわたって侵入禁止区域のため、迂回の範囲も半端ではないのだ。
だから、相馬に着くためには例えば郡山まで西進して、それから北進、そして東進するしかないのだ。しかし、それでは日が暮れる。今日泊る予定だった相馬に行くことを諦めることにする。
ドライブマップを睨めながら、近隣の温泉を探す。今日の汗を流すには温泉に日本酒がベストである。
郡山方面の途中に「神田の湯」という温泉があるのを発見、ガソリンスタンドで満タンにしながら、店主に神田の湯温泉はやっているかと聞いたら営業しているはずだと云う。
電話番号を聞いたので、コールしたが出てこない。現地に行って泊めてもらえば良いと店主も云うので神田の湯を目指した。
しかし、神田の湯は閉ざされており、営業していなかったのである。この地に泊る客はいないのだろう。放射能という風評が原因か。
おいらと弟は現実に戻り、とにかく泊るところを探さなければならない。こうなっては、郡山しかないとネットでホテルを検索する。
しかし、ここでも難関が。
じゃらんを始めとする宿泊ネットは、当日の宿泊をオミットするのである。
バカたれが。
仕方がないので、ネットで電話番号を探して、電話で予約すると云う作業になったのである。
1軒目は満室で断られ、2軒目の旅館で予約が取れる。ほっとする。
当日の予約なので、夕食はなし。旅館のそばで夕食をとり、旅館に戻っての風呂は最高であった。
初日の走行距離、〆て424キロ。三陸海岸探訪の、長い一日が終わった(この項続く)。
恐怖の三陸海岸探訪記(本編2日目その1)
恐怖の三陸海岸探訪、2日目である。
郡山で朝の7時、起床。
朝食を食べに1階の食堂に行く。民宿のような小振りな宿だが、比較的広い食堂になっている。旅館の定番である、卵、焼き魚、海苔の3点セットがちゃんとテーブルの上に鎮座している。
意外にも美味。期待しないと美味しいと云う法則は、ここでも生きている。
午前8時半、チェックアウト。
宿の主人と話しをすると、昨夜は花火大会があったので、どこも宿が混んでいたはずだとの話しが出る。おぉ、そうか。それで最初の宿は断られたのだと納得する。改めて主人にお礼を云う。
おいらが原発を抜けて相馬に行きそこで宿泊する予定だったが、郡山になったと云う話しをしたら、「ぐるぐると回ったのでしょう」と云われる。
原発のそばは至る所が交通禁止になっているので、誰もが同じところをぐるぐる回るようだ。
そして、
「最近の放射能の数値は落着きましたが、それでもまだ測定値が上下しているんですよ」
と宿の外に設置した、大きめのガイガーカウンター(放射能測定器)を指差すのである(写真上)。
じぇじぇ。
普通の宿にもかかわらず、毎日、放射能を測定しているのだ。郡山まで福島原発の爪痕が残っているとは…。
午前9時、出発。2日目は、気仙沼(宮城県)を目指す。
郡山から東北自動車道に入り、三陸自動車道を経由して、まず桃生津山インターチェンジ(宮城県石巻市)まで行くことにする。
午前11時半に桃生の道の駅「もくもくランド」で昼食を取ることにした。この道の駅は、地元で取れた野菜などを売る産地直売店なのだ。
味噌おにぎりが美味しそうなので手に取ってみる。
よし、今日の昼飯は、もくもくランドの広場にある木陰でおにぎりを食べようと決める。牛乳や草餅、取れたてのトマト、そして珍味の「焼きそばアイス」も一緒に購入する。
味噌おにぎりは美味しい。生産者の名前として池田静子さんの名前がちゃんと書いてある。このむすびを握った池田さんの温かみが伝わってくる。
美味しくなかったのは「焼きそばアイス」。
これは失敗作だろうなぁ。いくら石巻B級グルメと云っても、いらつく味に仕上がっているのじゃよ。これで、一個350円。う~む(この項続く)。
恐怖の三陸海岸探訪記(本編2日目その2)
午後12時半、気仙沼へ向かい、「岩井崎(宮城県気仙沼市)」を目指すことにした。
宮城県絶景の展勝地だそうである。ゴツゴツした岩肌をあらわにした岬とコバルトブルーの海が売りである(写真上)。
その途中、南三陸町を通過する。ここも津波の被害がひどい。
更地が続くのである。住宅があった場所に何もない。そして、ガレキを集積した場所が目立つ。
途中、目についたのが道路上に設置してある「ここまで津波が浸水しました」と云う趣旨の表示である(写真下)。
この表示が至る所に設置してあるのである。こりゃ、凄いわ。高台と思われる場所にまで津波は来ているのだ!
午後1時過ぎ、岩井崎に到着。
ここで驚いたのは、岩井崎でのカーナビの指示であった。
カーナビはもっと前に進めと表示しているのだが、目の前は海である。
つまり、地震によってこの先の道路は海の底に埋没しているのだが、カーナビには地震の前のルートがインプットされたままなのだろう。
前に進むと車もろとも海中に落ちてしまう。しばし、絶句し、ぎりぎりの海岸線まで車を進めて停車をする(写真下は、手前の堤防部分が地震と津波でなくなっている)。
写真を撮りに車の外に出た。
ここで大失敗に気付く。愛用のミラーレス一眼レフカメラのSDカード(メモリーカード)が無くなっていたのだ。
どこかでSDカードを入れている蓋がはずれ、落としたようだ。まずいなぁ、これまで撮った写真が全部紛失したことに気付く。
弟もカメラを持参していたのだが、おいらが撮影係なので弟は本気で撮影していない。
だから、ここまでほとんど写真が残っていないのである。ガックシ。持参していた予備のSDカードをカメラに入れる。
なお、これには後日談があり、自宅の書斎からSDカードが見付かった。つまり、おいらが入れ忘れたのである。今回の旅行で慌てて自宅を出たからだろう。ヤキが廻ったものである(この項続く)。
恐怖の三陸海岸探訪記(本編2日目その3)
午後2時半、気仙沼港到着。
津波で火災が発生し、数日間港が燃え続け、文字通り火の海になった気仙沼港である。
ここの被害の爪痕はすさまじい。
ポツポツと残る建物は放置されたまま廃墟と化しており、想像力の限界というものを思い知らされる。
だが、漁港は復活しており、活気がみなぎっていた。産業の成り立つ場所から復活していくのである。魚市場は人出で賑わっており、車の往来もある。こういう景色は観ていてホッとする。
被災地ばかり観るのではなく、三陸復興国立公園の名勝地である巨釜半造(おおがまはんぞう。唐桑半島=宮城県気仙沼市唐桑町)で絶景でも眺めようと車を走らせることにした。
しかし、その途中での光景は見渡すばかり住宅の跡地である。更地になった跡地を夏草が覆い茂っている。何故か、兵(つわもの)どもが夢の跡という言葉を思い出す。
そのとき弟が大きな声を出した。
「あっ、船が」
驚いた。目に前に巨大な漁船が立ちはだかっているのだ。ここは陸地である。おいらは嘘だと思った。船はもう撤去されたはずだ。しかし、厳然と目の前にそれは鎮座しているのである。巨釜に行こうとしていたのだが、方向転換して船のそばまで行く。
ボランティアの人だろうか、10人程度を引き連れながら船の前で講釈をしている。
「この船は3・11当日、気仙沼港に停泊していました。
それが、津波によって約1キロ流され、引潮によって今の場所に残されることになりました。
港の入口には漁船用の燃料がタンクの中に貯蔵されており、それに引火したものだから数日間燃え続けることになり、消防も自衛隊も沈下するまで何もできませんでした。
なお、この船を撤去するかどうか、最近、住民投票が行われ、撤去されることになりました。
残すべきと云う意見もあるが、嫌な記憶に繋がると云う声が多かったようです」
おいらはその話しを聞きながら、「それでも船は残すべし」と思う。寺田寅彦の名言「天災は忘れたころにやって来る」だ。
そう、皆、忘れるのだ。
それにおいらは、現実の力を目のあたりに知ることができたのだ。
こんなでかいものがここまで流されるのだ。自然の力がなければこんなこと出来やしない。芸術の力と同じである。残すべし(だが、先日、解体されたと聞く。この項続く)。
恐怖の三陸海岸探訪記(本編2日目その4)
午後3時半、目的地である「巨釜・半造(おおがま・はんぞう)」の巨釜に到着する。宮城県屈指の景勝地である。
巨釜とは、日本語として理解しにくい固有名詞である。
海に連なる巨大な石が大きな釜に見えたのだろう。それにしてもこの高台から見える絶景は何と表現すべきなのだろう。
弟に云わせれば、土曜ワイド劇場、片平なぎさ出演ドラマの最後の絶壁のシーンだ。そう云えば、殺人犯が最後に真相を暴かれるのはこういう絶景である。面白いことを云うものである。
ここに柳田国夫の記念碑がある。
ちょっとした広場(ほとんどが駐車場だが)の端にそれはあった。
写真上の内容は、次のとおりである。
「『25か年後』
唐桑浜の宿という部落では、家の数が40戸足らずの中、ただの一戸だけ残って他はことごとくあの海嘯(かいしょう=海が吠えること)で潰れた。
その残ったという家でも床の上に4尺あがり、時の間にさっとさっと引いて、浮くほどの物は総て持って行ってしまった。
その上に男の児を一人亡くした。八つになるまことにおとなしい子だったそうである。
道の傍に店を出している婆さんの処へ泊りに往って、明日はどことかへ御参りに行くのだから、戻っているようにと迎えにやったが、おら詣(いた)りとうなござんす(行きたくない)と言って遂に永遠に還って来なかった。
この話をした婦人はその折、14歳であった」
日本の民話を残した柳田である。
実際に起きた(不思議なあるいは壮絶な)ことを経験した人間は、生きているときにはそのことを忘れない。
しかし、その人間は死ぬ。その話しを伝える役割の語り部もいずれ死ぬ。そうして、実際にあったことは忘れられる。いや、なかったことになる。
それを丹念に集めたのが柳田である。
柳田の話しは幻想のように思われるが、いずれも実際に日本であった話しである。
この話しも、たった1日で40近くの家が津波で消えた話しである。それが忘れられて、また、同じことが同じ場所で繰り返されるのである。
柳田は偉大な語り部なのだ(この項続く)。
恐怖の三陸海岸探訪記(本編2日目その5)
巨釜と対になっている半造まで行く。
絶壁の出っ張り部分まで遊歩道になっているので、歩く。
スタート地点に頑丈な竹で作った杖が置いてある(写真下)。「ご自由にお使いください」というので、借用することにした。早い話しが杖をついて歩こうと云う訳である。
あたかも水戸黄門である。
だが、これがすこぶる役に立った。杖はステッキのように持つものだと思っていたが、水戸黄門のように長い杖を縦に握って歩くと楽なのである。
3点歩行の基本は、水戸黄門スタイルだと実際に持ってみて初めて分かった。あれは、長時間歩くのに実用的である。実際、富士山登頂やお遍路も同じ理屈で皆、水戸黄門スタイルである。
吉田茂のようなステッキスタイルは、短時間の場合の歩行補助である。こういう新発見は嬉しい。
その後、御崎神社まで足を伸ばしてお参りをした後、本日の宿をどこにするか思案した。
気仙沼に泊まるか、少し足を延ばして目と鼻の先である陸前高田(岩手県)まで行くかである。
ここは思い切って岩手まで行こうかと考えたが、巨釜半造の休憩所のマスターから聞いた宿情報と宿マップに基づき、気仙沼市内に泊ることにした。気仙沼にはそれほどの魅力がある。
市内中心部の某ホテルを電話で予約し、宿泊先を確保する。夕方6時半、気仙沼市内のホテルに到着。
当日の予約なので、夕食はない。ホテルで旨い飯屋はないかと尋ねたら、「復興屋台村 気仙沼横丁」があると云う。おおそうか、テレビで観た復興屋台村だと思い、そそくさと出向くことにする。
日曜日というので、復興屋台村の半分位はお休みだろうか、少し活気がない。だが、やっている店を覗くと結構どの店も盛り上がっていて安心する。
気仙沼に来たのだから旨い海産物を食べたいとまぐろ専門店「まぐろ亭」の暖簾をくぐる。
ここで食べた、特製「まぐろいくら丼」(写真上)は絶品であった。まぐろといくらがコラボして、舌の上でとろけるのである。生ビールも旨い。店主の震災の後の苦労話しを聞いてしんみりとする。
遅くなったのでホテルに戻る途中、森進一「港町ブルース記念碑」を探す。
暗くなっていたので探すのが大変であったが、発見する。意外にでかくて嬉しくなる(上がフラッシュをたいたものだが、ほとんど見えない。ネットで昼の写真を探したものが下の二つ。震災前と震災後。下は震災で傾いている)。
「背伸びして見る海峡は」で始まる港町ブルースは昭和44年の大ヒット曲だ。この2番の歌詞で
「流す涙で割る酒は だました男の味がする
あなたの影を ひきずりながら
港、宮古、釜石、気仙沼」
と歌うのである。最後の「港、宮古、釜石、気仙沼」がサビで、これが耳に残るのである。気仙沼に記念碑を置くのはよろしいでござる。
さて、ホテルに帰り大浴場の風呂に入って二日目は終了した。二日目も中身の濃い旅となった(この項続く)。
恐怖の三陸海岸探訪記(本編3日目その1)
恐怖の三陸海岸探訪、3日目である(なお、2日目の走行距離は303キロ。これで横浜から727キロの距離となった)。
朝8時半、気仙沼(宮城県)から釜石(岩手県)を目指して出発する。
途中、陸前高田市(岩手県)を通過する。
陸前高田では「奇跡の一本松」がそびえ立っていた。この情景を観て、デジャブのような感覚に襲われた。いわゆる野中の一本杉である。広い野原にたった一本の杉が立っているという、あの光景である。
三陸は、小さい頃の教科書で習ったリアス式海岸のはずである。しかし、ここ陸前高田は例外で、海から延々と平野が続くのである。
その平野の真ん中に一本松があるのだが、その周りには何もないのである。つまり、根こそぎ津波にさらわれたのである。
今まで見た光景は、前が海、後ろが山。だから、山まで走って逃げればよかったのだが、ここではいくら後ろに走っても平野続きだから、逃げ場がないのである。人も家も津波が皆、さらっていったのである。
これには言葉を失ってしまう。
5階建て鉄筋コンクリート造りのマンションが更地の中にポツンと放置されているのを発見する。誰も住んでいない。近くまで行くと、4階まで破壊されているのが分かる。津波のすさまじさを思い知らされる。
恐ろしいことは、今までも津波の被害を見続けてきたのだが、その感覚がマヒしてしまったのではないかと云うことである。
ここのようなフラットな地域もあるということを思いつかなかったことである。
そうであれば、まだまだ違う形での津波被害が東日本の三陸海岸沿いに続いている恐れがあるということである。
11時半、「道の駅やまだ」(岩手県山田町)に到着。
今日の朝食はコンビニで買ったおにぎりとしたので、昼は麺類にしたいと思う。おいらは無類のラーメン好きなのだ。
ところで、このコンビニだが、ほとんどがプレハブ製である。津波で無くなった後、応急的に建てられたからである。コンビニは、今やライフラインである。だから、プレハブでの営業再開は素晴らしいことだと思う。
さて、「道の駅やまだ」の食堂に入る。
磯ラーメン、600円を食す。カニ、ホタテが具として構えており、麺は「めかぶ」を練りこんである。ここでも小渕の法則は生きている。期待しないで食べると旨い。
弟曰く、「ホームランではないが、タイムリーヒットじゃのぅ」。
この道の駅からおみやげものにあまちゃんグッズが登場し始めた。「北のアマ手ぬぐい」、「jjjTシャツ」などが販売されている。「ミサンガ」があれば土産に買っても良いと思うが、ない。
ま、この先、あまちゃんグッズは死ぬほど売っているのだろう。どんなものがあるのか、そういう些細なことも旅の愉しみの一つである(この項続く)。
恐怖の三陸海岸探訪記(本編3日目その2)
午後12時、「浄土ヶ浜」(岩手県宮古市。写真下)を目指して出発する。
ここでも津波にさらわれた住宅地が目の前に連なる。行けども行けどもペンペン草の生えた更地である。
陸前高田の光景を観た後でも、同じ光景が延々と続いているのである。想像力を超える、とてつもなく広い範囲での津波の爪痕。
怖いの一語に尽きる。だが、本当に恐ろしいのは、この光景に慣れている自分である。
午後1時半、「浄土ヶ浜」到着。ここに住んだ住職がお浄土のように美しい場所だと感じ、「浄土ヶ浜」と命名したという。
「浄土ヶ浜ビジターセンター(観光センター)」の展示室に入り、この地の歴史や三陸の地震の歴史、東日本大震災の記録を観る。
そこからすぐの処にある「浄土ヶ浜」に足を運ぶと遊覧船が出発しようとしている。どうやら浄土ヶ浜周辺の三陸海岸を周遊するようである。迷わず走る。ぎりぎりで乗船する。乗車賃@1,220円。
遊覧船の周りをウミネコが舞っている。
ウミネコは人に慣れているのだ。遊覧船が動き始めても、周りをずっと付いてくる。ウミネコ用のせんべい(100円)を乗船者がちぎって投げるからである。ウミネコは学習効果もあって器用にそれを食べるのである。
ガイド嬢の話しを聞くと、この船は東日本大震災で生き延びたという。地震発生直後に沖の向こうまで出たので、流されたり、破壊されることなく済んだのである。丘で整備中の兄弟船は津波の被害に遭ったという。
絶景が続く。船に乗ると分かる。三陸の交通手段は船なのだ。おいらたちは地上から物を見ると思っている。しかし、海から陸を見ると物事はがらりと変わる。人生も同じだ。
下船後、「奥浄土ヶ浜」まで歩くことにする。震災の悲惨な跡地ばかり見てきたので、こう云う美しい風景は一服の清涼剤である。
さて、宿泊をどこにするかと考えた。ここ宮古にするか、それとももう2時間北へ走って久慈にするかである。
土地勘が全くないので、奥浄土ヶ浜の女性従業員に宮古と久慈とどちらが大きい町かと尋ねたら、思案しながらも返答に困った。おばさんに聞いたこちらが悪いのだ。
浄土ヶ浜ビジターセンター(観光センター)に戻り、観光案内の人を探す。泊るのなら宮古の方が大きいし、ホテルも多いので宮古を薦められた。だが、あす以降のスケジュールが北に向かうのであれば、久慈も選択肢だと回答を得た。
久慈が小さい町でも明日はこの旅の最終日である。一日で横浜に戻らなければならない。あまちゃんに登場したピエール瀧と同じである。それだったら北の久慈を目指すことにしようと決める。
久慈の駅前の「蔦谷」と云う名前の旅館を予約する。何故、蔦谷か? 理由など何もない、写楽を排出した蔦谷と同じ名前だからである。
さあ、それでは久慈を目指して出発である(この項続く)。
恐怖の三陸海岸探訪記(本編3日目その3)
午後3時半、カーナビに久慈の「小袖海岸」(あまちゃんの「袖ヶ浜」のモデル。下の写真は、小袖海岸のパンフなど)をインプットし、宮古からひたすら北を目指して車は走り出す。
午後4時過ぎ、田老町(岩手県下閉伊郡)を通過する。
ここは、高さ10メートルという世界一の防潮堤を造った防災の町で有名であった。
過去の三陸沖地震による大惨事(津波によって何もなくなった)という経験を活かし、万里の長城と云われるほどのハード面(下の写真はネットから転用)と避難経路などを含めたソフト面とで万全の津波対策を施していたのだ。
だが、この地の被害も甚大であった。3・11の津波は容赦することなく、その防潮堤を粉々にしたのである(下の写真もネットから転用)。
防潮堤を超える津波が船を運び、その船が防潮堤の上から転がり落ちる光景は何度もテレビで中継されたので、覚えておられる方も多いと思う。
なまじっか防災対策が進んでいたために、それを過信して亡くなられた方もあったと聞く。その悲劇の地である。
現在は後片付けがなされており、町は何もなかったようになっているが、無力感は否めない。
万全の対策をしていたはずなのだが、三陸海岸の大参事は再び繰り返されたのである。この悲劇を二度と起こさないようにするためにはどうしたら良いのだろうか。
午後5時半、野田港(岩手県九戸郡野田村)に入り、「道の駅のだ」に到着する。野田は塩の産地で有名ということでその塩を運ぶ牛が銅像になっている。
ここでは、北三陸鉄道の絵葉書を買った。自宅に送るためである。おいらは旅行すると、必ず愚妻にハガキを出すのである。旅行の雰囲気をビビッドに伝えるためである。夜、旅館で筆を取るのはオツなものである。
ところで、若いおねえちゃんがいたので、あまちゃんに関連する話しを聞いてみた。
「まめぶを食べるのか」と聞くと、「食べたことがない」というではないか。
う~む、やはりそうか。
「じぇじぇじぇ」と云うのかと聞くと、「使ったことがない」という。
そうか、そういうもんかと、妙に納得する。
調べてみると、マメブはもともと山形町でしか食べないようで、おいらたちはクドカンの術中にはまっているのかも知れない。そう云えば、岩手の地名に「種市」と云う場所があるのを発見したのだが、あまちゃんの恋人の「種市先輩」の名前もその地名から取ったのかも知れない。
さて、野田から久慈まではもう一息である。
日が暮れる前にあまちゃんで有名な小袖海岸に行っておきたいと、再び車を走らせ始めた(この項続く)。
恐怖の三陸海岸探訪記(本編3日目その4)
さて、行き先は小袖海岸である。再び車を走らせることにした(写真は、小袖海岸とは関係がない「久慈市内のポスター」。あまちゃんに便乗しているのぅ)。
しかし、小袖海岸に行くのに難儀したのである。
簡単に説明する。
野田から久慈までの道のりは、国道45号線を北上すれば良い。
単調なルートで問題はないのだが、小袖海岸はその途中の右手(東方向)にあるので、国道を離れて近道となる山道を走ることにした。
こういうときカーナビは頼りになる。生活用道路のような道でも平気でくぐり抜けるのである。
ところが、である。
この山道が狭いのである。しかも、イロハ坂のように蛇行しているのである。対向車が来たら離合できないような山道をくねくねと山に入ったのだが、途中でカーナビの指示が現実の道路と合わなくなったのである。
しかも、日が暮れ始めた。こりゃ、まずいわ。
滅多に対向車も来ないので車が立ち往生することもないのだが、山中でおいらたちの車以外いないということは孤立しているということでもある。逆に、不安にもなる。
そのうち、Y字路でカーナビの指示する方向がどちらに進んでも赤色の表示(適性ではない)になった。
これではまるでキューブリックの「2001年宇宙の旅」のハル(コンピュータ)ではないか。
カーナビがギヴアップするほどの山道なのだ。山の中に入って30分以上になる。周りには誰もいない。日も暮れた。ここで迷路に入ったのでは、万事休すである。
このときに脳裏をかすめたのが、福島第一原発での出来事であった。いくら走っても車が元の場所に戻り、いつまで経っても前に進まなかったことである。あれは、一種のホラーである。
午後6時を過ぎた。三陸ではこの時間でも陽が落ちている。山中は、漆黒の世界になろうとしている。
決断を迫られる。八甲田山の教訓ではないが、土地勘のないところでは無理をすべきではない。北大氏欣也よりも高倉健である(この意味、分かるかなぁ)。おいらは、カーナビの設定をチェンジし、元来た道に引き返すことにした。
小袖海岸を諦めて「道の駅のだ」まで戻り、そこから直接、久慈の旅館に行くことにしたのである(この項続く)。
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