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さすらいの天才不良文学中年
梶山季之という作家がいた 福岡幸司
広島帰省考09年3月編(中篇その4)
梶山季之文学碑
梶山季之を見直している。
梶山季之は広島の生んだ偉大な作家である。父親が朝鮮総督府に勤務していた関係から、昭和5年に京城で生まれた。敗戦後、父親の郷里である広島に引揚げ、現在の廿日市市で育った。
その梶山は、週刊誌のトップ屋として現在の週刊誌の記事のスタイルを作った男である。多芸多才で、時代感覚に溢れたベストセラー作家で有名であった。彼が何といっても記憶に残るのは、突然の早世である。香港でライフワークの小説を取材中、客死している。享年わずか45歳であった。
その梶山を取り上げた本を神田神保町の古書店で見付けた。「時代を先取りした作家 梶山季之をいま見直す」(没後33年記念事業、中国新聞社、07年)である。
その本に、梶山の文学碑が広島市内に建立されているとの特集記事を見付けた。
そこで、日曜日(09年3月22日)の午前中の所要が終わった後、数時間の余裕があるので、広島市中区加古町に位置する「アステール・プラザ」の河口寄りに設置されている梶山の文学碑を尋ねようと思ったのである。
西区横川駅から市電に乗車し、広島市役所で降りる。乗車した電車を見ると大阪の市電から譲り受けた電車と分かる。趣があるのぅ。市役所前から西に歩き、万代橋を渡る。これがバンダイバシ(新潟ではこう呼ぶ)ではなく、ヨロズバシと呼ぶと分かる。
その先に「アステール・プラザ」があり、中を通り抜ける。
「アステール・プラザ」とは「市民文化創造センター」とあるが、何じゃらほい。いかにも役人が創った名前のようじゃが…(続く)。
広島帰省考09年3月編(中篇その5)
梶山季之文学碑がありました。
もくれんの花が文学碑に散って、風流この上ない風情である。あたかも梶山季之がここに眠るが如くである。
この文学碑は平成3年5月に設置された。
「花不語(花は語らず)」と本人による揮毫が彫りこまれており、花を象った碑に仕上がっている。設計は東京芸大の荒川教授。
文学碑の除幕式には梶山夫人長女が参列したことを前述の特集で知っていたので、思わずその光景を心に浮かべた。
橋の袂に近く、おいらは30分以上もいたので、本川(太田川)を遊覧船もどきが行き来している。
しかし、「アステール・プラザ」の裏手に当たるので、この間、通り過ぎる人間は数名。文学碑の設置場所はあまり良くない。
しかも、通り過ぎる人間が誰もこの文学碑を一瞥しようともしない。
栄枯盛衰か。一世を風靡した作家である。その彼の文学碑がひっそりと川面にある。彼が嘗て居住した加古町に因んでこの地に設置したのが、間違いなのであろうか。
梶山は思っているのではないか。生前、あれだけチヤホヤされた男であるから、「おいおい少しは寄って行けよ」と。
いやいや、「もうゆっくりとさせてくれよ」と、案外、この場所が気に入っているのかも知れないとおいらは思った(続く)。
梶山季之という作家がいた「その2」(前編)
「広島帰省考09年3月編」で梶山季之のことを取り上げました。そこで、本日より3日間、関ネットワークス「情報の缶詰09年4月号」掲載の「梶山季之という作家がいた」を加筆して「その2」として送りします。
広島出身で偉大な作家と云えば、井伏鱒二か阿川弘之だと思っていたが、先日、神田神保町の古書店で「時代を先取りした作家 梶山季之をいま見直す」という本を見付けた(没後33年記念事業、中国新聞社、07年)。
おいらの父親が梶山季之のことを広島出身のエロ作家だと云いながら、その作品より生き方を評していたことを思い出した。広島高等師範学校(現広島大学)卒業であり、おいらも広大付属高校出身だから少しは縁があることになるのだろうか。
梶山季之は週刊誌のトップ屋として現在の週刊誌の記事のスタイルを作った男である。多芸多才で、時代感覚に溢れたベストセラー作家で有名であった。彼が何といっても記憶に残るのは、突然の早世である。香港でライフワークの小説を取材中、客死している。享年わずか45歳であった。
1.どういう経歴だったか
Wikipediaによれば、梶山季之は父親が朝鮮総督府に勤務していた関係から、昭和5年に京城で生まれている。南大門小学校に通い、五木寛之は後輩だったという。
敗戦に伴い、父親の郷里である広島に引揚げ、現在の廿日市市で育った。小さい頃から作家志望で、中学生のときから同人誌で活躍し始め、高等師範卒業後、横浜鶴見工業高校の教師を務める。
同人誌で小説を発表する傍ら、「週刊新潮」や「文芸春秋」などにジャーナリストとして売り込み、その後、昭和34年の「週刊文春」創刊後はトップ屋として名を馳せた。
記事を書くためのデータ収集を「データマン」、その情報をもとに記事を書く「アンカーマン」という分業体制を確立させたのは梶山である。
昭和36年、体を壊したための入院を契機として、小説家となる。トップ屋時代の経験を生かした「黒の試走車」や「赤いダイヤ」などでベストセラーを連発し、昭和38年発表した「李朝残影」では直木賞候補となった。多作で120冊の文庫本を出し、1,300万部の売り上げをあげている。
昭和46年、月刊「噂」(文壇の埋もれた逸話紹介誌)を作家兼ジャーナリスト兼編集者兼営業マン兼経営者として自費創刊したが、時代には早すぎ、3年後にオイルショックによる紙代と印刷代の高騰により休刊とした。
ライフワークは、梶山の生地である「朝鮮」、広島の「原爆」、母のハワイへの「移民」という3つのテーマをまとめた壮大な小説「積乱雲」であったが、執筆途中で急逝している(続く)。
梶山季之という作家がいた「その2」(中編)
2.梶山季之の生き方
ポルノ作家とも呼ばれたが、本質的には律儀であり、サービス精神が旺盛な人間味に溢れる人物であった。反権力であり、無頼でもあったが、守るべきものはきっちりと守る生き方をした。
そこが、家宅の人と呼ばれた檀一雄などとは本質的に違っていたようだ。編集者や周りの人々への気配りに遺漏なく、生活に乱れることもなかった。
文壇納税ランキングで1位になっても蓄財には励まず、友人と取材のためには惜しみなく金を注ぎ込んだ。
酒と博打が好きで、柴田錬三郎や藤本義一とはドボン仲間であった。この仲間との逸話は多い。
柴田錬三郎にドボンで負け続けた梶山は某ホテルの開業記念式典で来賓として挨拶、そのとき、柴田錬三郎から「オ×××と云ったら、これまでの借金を帳消しにしてやる」と云われ、「私はポルノ作家の梶山季之であります。人生は、オ×××であります」と祝辞を述べたのは、有名な話しである。
3.梶山季之の作品
常に新鮮な時代感覚に溢れ、読者への旺盛なサービス精神を忘れることはなかった。天性のストーリー・テラーで、筆が速く、編集者は困ったときの梶山頼みであった。穴が開くと、梶山に電話して原稿を取りに行くと短編小説なら出来上がっていたという逸話の持ち主である。
面白いものであれば、何でも小説にした。したがって、そのジャンルは経済小説(「影の凶器」「見切り千両」など)、経済人物小説(五島慶太や堤康次郎など)、痛快小説(「と金紳士」など。日刊ゲンダイの漫画に連載)、推理小説、サスペンス小説、ポルノ小説(「ミスターエロチスト」など)など多岐に渡った。
梶山は、驚異の原稿月産1,300枚を記録している。この原稿(前編・中編・後編の合計)が原稿用紙約6枚であり、この220回分の量をわずか一月で書いた計算になる。一文ごとに改行する小説のスタイルを創り上げたのも梶山である。
梶山の真骨頂は、作品の文章や文学性を批評されても、小説の題材と中身に絶大の自信を持っていることであった。徹底した取材に基づいて小説を書いており、ジャーナリストとして報道出来ない記事を小説に託すという意味もあったようだ。しかも、小説の基本であるロマンを忘れることはない。
また、ミミズ千匹は梶山が創った言葉であるとも云われている(「女の警察」)。旦那が何人もいてその手当だけで、当時まだ珍しいマンションを建てた温泉芸者が「私のは、ミミズ千匹らしいのよ」と云った取材に基づいているという。
梶山季之という作家がいた「その2」(後編)
4.客死
昭和50年5月7日、「積乱雲」取材のため香港を訪れていた宿泊先のホテルで吐血、一時は容態を取り戻したものの、4日後、食道静脈瘤破裂で死亡した。おいらは入社2年目で、この記事をよく覚えている。長年の酒がたたった梶山は肝硬変でもあった。葬儀は盛大に執り行われ、戒名は今東光が「文麗院梶葉浄心大居士」と命名した。大宅壮一が眠っている鎌倉瑞泉寺に今も葬られ、命日の5月11日は梶葉忌として偲ばれている。
5.もし現在も生きていれば
17回忌の平成3年、広島に梶山季之文学碑が建立された。彼の直筆による「花不語(花は語らず)」が刻まれている。このことについては、おいらのブログ(「3月30日、31日」、同フリーページ:「梶山季之という作家がいた」)を参照されたい。
梶山が現在も生きていれば79歳であり、ライフワークの「積乱雲」(新潮社から十年かけて書き下ろし出版の予定だった)も完成しているはずだ。藤本義一(昭和8年生まれ)と同世代だから、まだ現役である。
サービス精神が旺盛な梶山のことだから、現代の社会と人間のおかしさをえぐり出すことにより、今なお時代を掻き回していたとしても不思議ではない。
梶山の没後、彼の助手を務めた橋本健午氏が平成9年に著した「梶山季之」(日本経済評論社)によると、梶山が亡くなる3年前に娘に遺書を残していたという。生前、彼は自分が不慮の死を遂げることを予期していたのだろうか。
その遺書の中で、彼は娘がポルノちゃんと呼ばれていることに対し、自分がやっていることは時代や権威に挑戦している先駆者であり、後、2、30年もすれば、自分の書いている小説は普通になるという趣旨の内容を娘に残している。
橋本氏によれば、梶山は晩年、疲れ切っていたという。
確かに、梶山のライフワークは完成していなかった。しかも、客死である。しかし、梶山は時代を疾走した。立派に「太く、短く」生きた。本望の人生であったとおいらは思うのである。
梶山季之、生き急いだ、偉大な男の一生である(この項終わり)。
本日と明日はお休み
本日と明日は休日につき、お休みです。
写真は、梶山季之の揮毫。
人生は、こうでなくっちゃ。
それでは、皆様よろしゅうに。
平成22年10月16日(土)
謎の不良中年 柚木惇 記す
浄瑠璃「みはら物語」(前編)
高校時代の友人と飲んだ。
先週末、新宿でささやかな同期会を開催したのである。そのときにF君と隣り合わせになった。
F君はこのブログでも度々取り上げている。
1度目は「死後、霊の世界があるかどうか」である。彼の質問に触発されてこのブログでも死について何度か書き込んでいる。
そして、2度目は彼の親父さんが新藤兼人の百歳記念パーティに参加したときのことである(フリーページ「新藤兼人監督100歳記念パーティ」参照)。
ま、このF君はおもろい奴なのである。しかし、この息子にしてこの親父さんありである。
実は、この親父さんが傑物である。
福岡幸司氏 三原文庫主幹 広島県三原市在住
御歳(おんとし)、数えで90歳であられる。
氏は、これまで三原文庫と銘打って、既に19巻を発刊しておられるのだが、今般、第19巻の浄瑠璃「みはら物語」の別冊として「続みはら物語」(現代語訳)を上梓されたのである(写真上)。
F君から新藤兼人監督100歳記念パーティの話しを聞いていたとき、氏が浄瑠璃の現代語訳に取り組んでおられるという話しだったので、上梓されたら、その本が読みたいと彼に頼んでいたのである。
F君は、「これ、親父からだ」とおいらにこの本を手渡してくれたのである。おぉ、カタジケナイのぅ。有難うございまする。
写真はこの本の奥付である。矍鑠(かくしゃく)とされた福岡幸司氏が写っておられる。
おいらは早速この浄瑠璃を読んでみたのだが、あまりの面白さに一気に読了することとなった(この項続く)。
浄瑠璃「みはら物語」(後編)
さて、福岡氏が「みはら物語」の現代語訳を上梓されたというニュースは、地元の中国新聞でも取り上げられることになった。
記事によれば、氏はこの著書を700冊出版され、そのうち500冊を福岡氏の母校である広島大学附属三原小学校に寄贈されたとある。う~む、太っ腹じゃのぅ。
さて、この浄瑠璃の「みはら物語」は記事にもあるとおり、江戸初期の万治2年(1659年)に書かれたと思われる、旧三原城城主にまつわる仇討の物語である。
時代設定は鎌倉時代。当時、備中と備後の太守は山名氏正(三原城城主)であった。
その城主が別腹の弟に謀反を起こされ、呪い殺される。ほとんどの家臣が謀反を起こした弟に追随するが、忠臣と若君は艱難辛苦の末、ここまでやるかと云うほどの危機に会いながらも、お家を再興するという波乱万丈の物語である。
これが滅法面白い。浄瑠璃が江戸時代の娯楽として庶民に楽しまれていたことがよく分かる傑作である。
細かいストーリーを明かすのは野暮なのでしないことにするが、この「みはら物語」は忠臣蔵に匹敵するほどの力作である。
ここには、日本人の原型となる忠孝と義理人情とがある。おいらは福岡氏の訳文を読みながら、日本人に生まれて良かったとハラハラと涙を流したのである。
いやあ、福岡幸司氏、良い仕事をしておられるのぅ。ここにも人生の達人がいらっしゃる。
なお、この浄瑠璃「みはら物語」は一冊1,000円で頒布されている。ご興味のある方は、福岡氏に直接連絡されると良い。氏の電話番号は中国新聞に掲載されているとおり、0848-62-2935である(この項終り)。
カルチャーショック
三原文庫「浄瑠璃 続みはら物語」とその著者である福岡幸司氏をこのブログで紹介したら(フリーページ 本の愉しみ「福岡幸司」参照)、福岡さんご本人から礼状と同時に「みはら物語」の正編と次作予告編とが送られてきた。
福岡幸司氏は今年数えで90歳、御子息とおいらが高校時代からの友人なので、これまでの顛末は書き込んでいるとおりである。
早速、「みはら物語」を拝見させて貰う予定である。正編をお送りいただいたのは有難い限りである。氏には、この場を借りてお礼を申し上げる次第である。
さて、この「みはら物語」には原文(かな文)と福岡氏の私訳(現代語訳)が同時並行して掲載されているので、原文を読みながら現代語訳を一緒に読むことができるという優れものである。
日本人である。やはり原文(古語文)を読まないで古典を理解するのはおかしいだろう。浄瑠璃であっても立派な日本語である。こうして古典に親しむ癖がつくのは悪くない。
ところで、カルチャーショックである。
実は、氏の礼状の書き出しのことである。
失礼を顧みずに引用させていただくと、
「多忙にてという陳腐な言い方をすべきではないと思いながらも、やはり多忙でとお断りします。返信が遅れました」
とある(写真下は福岡氏)。
礼状はその後も鄭重な内容で申し分のないものであるが、おいらがカルチャーショックを受けたのは、この「多忙」についてである。
氏は90歳であられるのである。
おいらのイメージだと、90歳であれば無理をせずにゆったりと人生を満喫しているという情景が浮かぶのである。あくせくなどしないのである。多忙など有り得ないのである。
だから、こりゃ、おいらのイメージと違うのじゃよ。90でも多忙であられるというのは。
そこに、おいらは驚いたのである。老いると毎日がゆっくりと進むものだとばかり思っていたからである。
しかし、冷静に考えてみれば、急にそうなる分けではない。歳は一時に取るものではないのである。年齢は日々の積み重ねなのである。
つまり、歳は少しづつ取るのだ。そうだとすると、おいらも死ぬまで毎日が多忙なのだと気付いたのである。カルチャーショック!
怪物と呼ばれる福岡幸司さん
このブログで「新藤兼人監督100歳記念パーティ」のことに触れたとき、おいらの高校時代の友人F君の親父さんのことを書いた(フリーページ「福岡幸司」参照)。
その親父さん、ただものではない。
福岡幸司さん(以下、「福岡翁」)である。御年92歳であられ、現役のバリバリ。広島県三原市在住で歴史家の傍ら、三原文庫を主催、主幹。
これまで自らが執筆された三原文庫を23号まで上梓しておられる。
福岡翁は歴史家と云っても単なる郷土史家ではない。古典に精通しておられるため、備後三原を中心とした古文書を読み解き、現代文に訳して文庫にしておられるのである。
その福岡翁が地元紙の芸陽日日新聞に「怪物と呼ばれる福岡幸司さん」と紹介されて一面トップ記事として掲載された(写真上)。
いやあ、大した、たまげた。
おいらは、この「怪物」!?の表現には思わず大笑いした。
しかし、福山では百七歳で亡くなった平櫛田中(彫刻家)が有名である。
彼の座右の銘は、
「不老 六十七十は鼻垂れ小僧 男盛りは百から百から わしもこれからこれから」
であった。
だから、福岡翁も怪物になられるのはこれからだ。
人間、脳さえしっかりしていれば、百歳を超えても大丈夫という見本のような話しである。
おいらもまだ鼻垂れ小僧とはいえ、男盛りは百からと云われるようにしなければ。
う~む、そのためにはやはり大きな夢が必要だろうねぇ。めざせ、最年長直木賞(これまでの受賞時最年長直木賞作家は星川清司氏、68歳)。
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