さすらいの天才不良文学中年

さすらいの天才不良文学中年

森山大道 河鍋暁斎 五姓田義松

東京中央郵便局

 まさか取り壊しをすることはないだろうと思うのだが。


東京中央郵便局


 東京中央郵便局の立替計画である。高層ビル化して賃貸収入を得る事業化が検討されているという(産経新聞8月20日)。

 気持ちは分かる。丸の内エリアは、丸ビルの立替に始まり、三菱商事ビルなど相次ぐビルの立替ラッシュである。乗り遅れないようにしようという考えも、理解出来る。

 しかし、東京中央郵便局は、近代建築の保存活動を行う国際的NPOドコモモ(DOCOMOMO)によれば、シンプルなモダニズム建築の代表として「優れた日本近代建築百選」に名を連ねる建築物だ。特に、世界的な建築家ブルーノ・タウトに絶賛されたという曰く付きの建物である。さらに、東京中央郵便局は東京駅の顔であると言っても過言ではない。

 建築は、文化の現れである。軽々しく壊すことなど考えるべきではない。しかし、万一取り壊す必要があるのであれば、それは都市計画の一環の中で議論されてしかるべきである。

 おいらがニューヨークにいたとき、ワールド・トレード・センターの北隣にあったアメリカ郵便局(FEDERAL OFFICE BLDG. & US POST OFFICE)は、超高層ビルの隣にありながらも、近代建築としての重厚感を見事に表現しており、都市の景観として立派に調和していた。

 東京は、これ以上ペラペラの都市にはなって欲しくない。


東京中央郵便局

 東京中央郵便局を取り壊すのではないかという噂がある。


東京中央郵便局1


東京中央郵便局2


 日本郵政公社は今週の郵政民有化に伴い、高層ビル化を検討しているというのだ。

 その背景には、今年の5月から東京駅前の郵便局跡地の再開発を公募、その設計者を決定する見通しがあるようだ。

 残暑が厳しく、暑い盛りだというのに、わざわざ東京中央郵便局まで出向くことにした。写真は、全て今週撮ったものである。


東京中央郵便局3


 結論。このビルを壊すのは犯罪である。

 もし、取り壊すとしたら、日本の文化を破壊することである。東京は何の思想もない、のっぺらぼうの街になってしまうだろう。

 前にも書いたが、ニューヨークの街が何故ニューヨークなのか、パリの街が
何故パリなのか、京都が何故京都なのか。それは市民が街の文化を守りながら、街の色を濃くして発展したからである。

 マレーシアは発展した。首都クアラルンプールはピカピカの街になった。しかし、あの名著「深夜特急」で沢木耕太郎はクアラルンプールをこき下ろしている。人工的な街なのだ。そこは最早マレーシアではない。おいらもクアラルンプールを訪問して好きだったのは、高層ビルの立つクアラルンプールではなく、路地裏の人間的なクアラルンプールの街並みだ。世界中の新興国が競って高層ビルを立て、皆同じ顔の都市になろうとしているのである。

 古くなったから、壊せばよいという国に思想や未来はない。何の見識もなく、新しい機能を満載したビルがそこらじゅうに建つ。これでは、東京は新興国と同じ、ただのペラペラの街でしかない。ここでも日本は腐っている。


明日はお休み


 明日は日曜日につき、お休みをいただきます。


東京中央郵便局1


 さて、このブログでも書き込みしている東京中央郵便局の解体工事が鳩山総務大臣の視察と一連の発言によって、ストップしています(写真はありし日の郵便局)。

 これで驚いたこと。

 解体が決定して工事が始まったことをおいらは今週まで知りませんでした。聞けば昨年の夏には決定していたとのこと。ヒエ~! それなら、何でそのときに鳩山大臣は反対表明しなかったのでしょう。

 しかも、解体工事が始まっての視察とは、一体何なんでしょう。断っておきますが、おいらは解体に賛成で云っているのではありません。

 今回の動きにせよ、かんぽの宿の追及にせよ、何か背後に大きな意図を感じます。

 分かりやすく云えば、権力闘争です。だが、そう思うのはおいらだけなのでしょうか。小沢党首の秘書逮捕などは、まさしくそうだとしか思えないのですが…


 月曜日よりまた再開いたしますので、皆様よろしゅうに。


 平成21年3月7日(土)


 謎の不良中年 柚木 惇 記す




旧モーガン邸全焼

 昭和の洋館「旧モーガン邸」(神奈川県藤沢市)がこの2日、全焼した。


モーガン邸


 J・H・モーガン(1873~1937、米)は1920年来日、東京駅前の旧「丸ビル」の設計に携わった建築家である。

 日本を愛し、日本の文化・生活様式に深い関心と認識を持っていたモーガンは、1931年、日本建築の特徴を西洋館に取り入れた自宅を藤沢に建築した(JR藤沢駅から2キロ北の住宅街)。

 多くの人々から愛されていた建物であり、建築史的にも文化史的にも価値の高い建物であったため、市と文化財保護団体が買い取って保存していたものだ。

 ところが、新聞報道によると、現場に火の気はなく、不審火の疑いがあるという。しかも、このモーガン邸は昨年5月にも放火の疑いで全焼しており、修復作業中であったというのだ。

 おいおい、ミステリー好きのおいらとしては、捨て置けない事件である。

 恐らく今回も放火であり、同一人物が放火犯であろう。しかも、放火とは全く卑劣な犯罪である。

 放火で思い出すのは、三島由紀夫の「金閣寺」である。この犯人には、果たしてどういう動機があったのだろうか。モーガン邸を愛していたから放火したという歪んだ動機か。恐らくそうではなかろう。私怨による放火という、悪意に満ちた行為のような気がする。かてて加えて、二度に渡る狼藉である。そうであれば、犯人は獄門・火あぶりの刑に処するしかない。おいらはこういう悪を憎む。


 森山大道の新宿

 森山大道の「新宿+(プラス)」(2006年、月曜社)である。


森山大道1


 全頁、白黒写真。サイン入り。


森山大道2


 おいらは勤務先が新宿であった関係から、永年に渡って新宿を見て来た。

 東京は都市としては住みにくい街である。ニューヨークに住んでいたときには、住民と街との一体感があった。しかし、東京の都心を歩いていても、同じ様な親近感を味わうことは難しい。

 生前の永井荷風によれば、当時の東京でさえも、もはや昔の良き時代の東京ではないと嫌っていた。東京は近代化にあたり、薄っぺらで人工的な街に変わり、都市作りに失敗したのである。

 しかし、唯一、東京で東京らしさが出ているとしたら、おいらは新宿だと思う。新宿東口は<ごった煮>である。ただし、新宿西口と南口は街ではない。あれは人工的なコンクリートの街でしかない。

 新宿は雑踏が命である。新旧の交叉が真髄である。人と街とが混然一体としている。欲望が渦巻いている。24時間眠らない。

 この森山大道の「新宿」はそれをよく表している(撮影は2000年~2004年)。人間と都市を正面から見据えた力作である。しかも、森山の特徴であるわざとブレさせた作風の写真が満載されている。アラーキーのエロスとタナトスの新宿とはまた、一味違った新宿である。

 森山大道(1938年~。現在71歳)。寺山修司の写真展で一度だけお姿を拝見したことがある。飾らない性格とお見受けした。街に溶け込む様な人であった。

 こういう写真家もまた良い。


「今 和次郎展」に行く(前編)

 おいらの親友であるKさんより、古くから付き合いのあるパラノイアのMさんを通じて、図らずも「今 和次郎(こん わじろう)採集講義展」の招待券を頂戴することになった。


  • 今和二郎展招待券.jpg



  • 「えっ、今和次郎? 聞いてないよ~」というものだったのだが、この二人が推薦する展覧会だから、絶対にハズレはないと思って汐留に出向いたのが大正解。

     はっきりと云う。これほど面白い企画展はなかった。エガッタ~。この場を借りてお礼を云う。Kさん、Mさん、オブリガード。

     さて、今和二郎氏(1888年~1973年)は、青森県生まれで東京美術学校(現東京芸大)図案科卒の変わった学者である。氏は昭和に入って急速に都会化する東京の生活や街並の変化を克明に記録したパラノイアとでも評した方が(実は褒め言葉でもある)良いかも知れない。

     古き良きものが廃(すた)れていく。そうであれば、保存するしかなかろう。もしそれが保存出来ないのであれば、記録するしかなかろう。新しいものが出て来る。それが時代なら、どういう風に新しいものが出て来るのか調査するしかないであろう。

     そういう発想だから、古民家がなくなりそうだと思えば、全国を行脚する。氏は、果ては朝鮮半島まで足を延ばして各地の古民家をスケッチしながら記録していくのである。また、昭和に入って銀座をハイカラな老若男女が闊歩するのであれば、その出で立ちを詳細に記録分析していくのである。

     万事がこんな具合だから、収集するコレクションやデータは膨大になる。しかも、カメラがなかなか手に入らない時代だから、記録に残すのは自らが手書きした絵や図表である。


  • パナソニック館.jpg



 その貴重なコレクションが「パナソニック汐留ミュージアム」で展示されていると云うではないか(25日まで開催中)。おいらはいそいそと汐留に出向いたのである(写真上は会場となる汐留のパナソニック館)(この項続く)。


「今 和次郎展」に行く(後編)

 この展覧会、「採集講義展」と銘打っており、全体で4部構成からなる。


  • DSC06132.JPG



 第1部が「農村調査、民家研究の仕事」、第2部が「関東大震災―都市の崩壊と再生、そして考現学の誕生」、第3部が「建築家、デザイナーとしての活動」、第4部が「教育普及活動とドローイングがめざしたもの」である。

 まず、会場に入って第1部の古民家の調査に圧倒される。

 柳田國男の「日本の古い民家はなくなる。だから、それまでに記録しておく必要がある」という考え方に賛同し、全国各地の古民家をスケッチして歩くのである。その成果は今氏の描いた細密図であったり、図面であったり、模型であったりするのである。ここで参観者は、氏の仕事が本物であることに気付かされる。その仕事の緻密さとその迫力に圧倒されるのである。

 第2部からは、氏の収集癖と分析癖に唸ってしまう。展覧会のポスターにも使われている東京銀座1925年の風俗記録は必見である。

 氏は、従来から存在する「考古学」(アーケオロジー)に対して、現在を分析すると言う観点から「考現学」(モデルノロジオ)という新しい概念を提唱するのである。この考現学は多岐にわたり、1927年に紀伊国屋書店新宿本店で開催した「しらべもの(考現学)展」は大盛況となる。

 余談だが、昭和の世相を「金魂巻」(「マルキン(金)マルビ(貧)」というフレーズ)で風靡した渡辺和博氏(56歳で急逝)も考現学に類似の仕事を残したが、今氏の仕事には及ばないと云わざるを得ないだろう。

 氏の評価すべきは、以上の調査収集を単なる分析に終わらせることなく、それらを総合して、「かくあるべし」という持論にまで至らせている点にある。戦後は、農家の改善や主婦の生活向上まで提唱しており、生涯を研究に捧げた羨ましい人生の持ち主である。


 最後に。絵が好きな人、自分に収集癖があると思っている人、パラノイアを自称する人、変わったことが好きな人。そういう人は騙されたと思って今すぐ汐留に行くべし。

 木戸銭500円。月曜休館。25日まで。図録は早くも2版になっているぞ!(この項終り)。


 本日と明日はお休み

 本日と明日は休日につき、お休みです。


汐留ミュージアム


 写真は、一昨日にも書き込んだ今和次郎展のパナソニック汐留ミュージアム。

 実は、この美術館、館内で「ルオー」の常設展もやっています。あの有名なキリストや道化師もさりげなく置いてあります。ルオーは絵が巧いので、絵心のある人には新鮮です。ルオーの良さを是非ともご堪能あれ。


 なお、余談ですが、このブログへの写真の掲載の仕方がやっと分かり(掲載方法がリニューアルされていました)、遅ればせながら本日より従来どおりの写真の大きさに戻したものを掲載します。それでは、皆様よろしゅうに。


平成24年3月17日(土)


 謎の不良中年 柚木惇 記す



鳥獣戯画、恐るべし(前篇)

 上野の国立博物館で「鳥獣戯画」(正確には「鳥獣人物戯画」)展を観てきた。


鳥獣戯画1.jpg


 これは大評判の美術展で、入場まで3時間待ちが普通だというからその人気のすごさが分かると云うものである。

 中に入ってからもあの有名な蛙や兎の戯画を観るのにまた長時間またなければならないらしい。

 それが運よく観ることができたのである。某老舗百貨店の外商ルートで博物館の休館日が貸切になったのである。国立博物館も今や独立行政法人なので商売しないといけないのだろう。

 とまれ、おいらの親戚がその招待券をもらったので同伴者として入館することができたのである。5月25日(月)のことであった。

 入館する。

 事前にNHKのアーカイブス番組で手塚治虫が鳥獣戯画を解説する番組とBS日テレの山田五郎がうんちくを述べる「ぶらぶら美術館」を観ていたので、入り口で高山寺の3D写真が設置されていても驚かされることはなかった。

 今回の鳥獣戯画展は、鳥獣戯画だけでなく、それを収蔵する高山寺の至宝も同時に展示されているのである。それがまた素晴らしい。国宝や重文がゴロゴロと展示してあるのだ。

 それが会場の半分、そして、鳥獣戯画の全4巻が会場の半分のスペースを占めている。

 高山寺の至宝の中で特筆するとなると、運慶の子である湛慶が掘った神鹿の彫刻(重文)である。


湛慶_神鹿.jpg


 女鹿と男鹿の対なのだが、精巧に彫ってある。当時の彫刻家は仏師である。仏を彫るのが仕事だから、こういう鹿などを彫るのは極めて珍しいだろう。必見である。

 さて、鳥獣戯画である。

 国宝だが、その昔、高山寺では訪ねてきた人が見せてほしいと云われると誰にでも見せていたというからぼろぼろになったという。古き良き時代である。今回の展示はそのこととは直接関係がないが、修復が完成したので行われているのだ。

 展示の順番は、甲乙丙丁の4巻が丁、丙、乙、甲となり、逆の順である。

 蛙と兎が相撲をとっている有名な戯画は甲の巻である。いわば、鑑賞するのにもったいをつけているのだが、この逆の順に観るというのが結果オーライであった。観ていくうちに期待が盛り上がって、最終の甲巻で興奮がピークになるように仕組んである。憎いねぇ(この項続く)。


本日と明日はお休み

 本日と明日は休日につき、お休みです。


国立博物館.jpg


 写真上は、鳥獣戯画展に入るまでの国立博物館の外庭。

 手前の池に、鳥獣戯画のウサギたちが!! 何とも云えぬこのセンスの良さ。

 そして、博物館に入るまでに並べられた(蛇行した)緑色のコーンの列!!

 こういうシーンを国立博物館で観るのは珍しいことです。


 それでは、皆様よろしゅうに。


平成27年5月30日(土)


 謎の不良翁 柚木惇 記す



鳥獣戯画、恐るべし(後篇)

 さて、いよいよ鳥獣戯画とご対面である。


鳥獣戯画2.jpg


 丁巻は、人物ばかりの登場である。

 荒い線で書きなぐったような印象を受けるが、これをじっくりと見ると、実はてだれた描き方であることに気付く。現代のマンガ感覚で述べると、上質の政治漫画(一こま漫画)のようでもある。

 また、乙巻では動物の姿態のオンパレードなのだが、これが「北斎漫画」を思い起こさせる。世界の北斎の遥か昔に、北斎漫画が既に描かれていたのである。これも驚きである。


鳥獣戯画3.jpg


 だが、この鳥獣戯画に驚くのは、誰が何のために描いたのかが未だに分かっていないことである。

 時代は約800年前である。

 京都北西部の栂尾(とがのお)の山寺にこの漫画が残っていたのである。

 誰かに見せるために描いたものなのか、それとも自分が愉しむために描いたのものなのかも不明である。紙質が悪いので、少なくとも発表するための作品ではなかったようである。それが運よく今でも残っているのである。

 当時の絵描きとして、仏師は曼荼羅や仏の像を描くが、こういう落書きのようなものを描くとは思えない。宮廷お抱えの絵師であっても同様であろう。また、描かれた時代が同一時期なのか、異なっているのかによって作者が一人なのか、複数なのかも変わってくるだろう。

 そう思ってみると、また、愉しさが倍増するのである。

 それにこの巻物はもともとはバラバラの紙に描かれたものを一つにつなぎ合せている(昔の巻物は、長い紙を作れないので皆つないでいる)。実は、つなぎ合わされなかった断片(これを断簡(だんかん)と呼ぶ)も今回は展示されており、興味深い。

 さて、こういう巻物の絵は、一般に細かく線が描かれ、また、彩色されてぎょうぎょうしいのだが、鳥獣戯画は墨で描かれた漫画であり、大きさもほどよいことから、観る者に画面がせまってくる。

 また、説明書きも原則としてなく、絵だけで勝負しているから、わかりやすい。

 しかも、漫画の基本である、誇張(蛙と兎が同じ大きさ)、流線(漫画で人物が動くときなどの流れを表す線)、吹き出し(口から言葉を発している線)などがこの時代にもうできているのである。

 そして、何よりも戯画の人物の表情である。800年前も今も喜怒哀楽は同じことに驚かされてしまうのである。思わず見入ってこちらまでニヤリとしてしまう。

 とまれ、これが描かれた時代に西洋ではまだビザンチン美術であったことを考えると、日本の美術の完成度は遥かに西洋を凌駕していたのだと思わせられるのである。

 一生のうちに一度は観ておきたい作品と云っても過言ではない。6月7日までと残りの日数が少ないが、会場に足を運んで絶対に損はしない展覧会である(この項終わり)。


 なお、明日6月2日(火)より、二日間の予定で愚妻と藤田嗣治の絵を観に秋田に行ってまいります。このため、明日からのブログはお休みをいただき、6月5日(金)から再開の予定です。



奇想の絵師、「河鍋暁斎展」に出向いた

 先月(15年8月)中旬、河鍋暁斎展に出向いた(「三菱一号館美術館」)。


暁斎展.JPG


 おいらの敬愛する全オム連会長のM氏から招待券をいただいたからである。


暁斎入場券.JPG


 実は、この企画展にはおいらも行きたいと思っていたので、渡りに舟であった。

 河鍋暁斎(かわなべ きょうさい)と聞いてピンとくる人はそういるものではない。

  河鍋暁斎は幕末から明治にかけて活躍した絵師で、彼の作品に伴うイメージは、エロ・グロとエキセントリックである。

 では、お前のイメージはどうなんだと問われれば、おいらがこの画家で知っていたのは、伊藤若冲と曾我蕭白に並ぶ三大奇想絵師のうちの一人であったことである。

 言葉は悪いが、伊藤若冲や曾我蕭白は化け物のような画家である。

 おいおい、そうであるならば暁斎も化け物のような画家かよぅと思われるかも知れないが、実は、暁斎にはもう一つの顔がある。

 それは、伝統的な狩野派の流れを引く日本画家としての顔である。彼は狩野派の絵師であったから、水墨画や日本画も達者なのである。したがって、河鍋暁斎のことを理解するには、奇想の画家と正統派の画家という二つの顔を持つ画家だと考えると分かりやすい。

 ここで、注意しておく必要があるのは、彼が狩野派の流れを汲む絵師であり、絵の基礎がしっかりしていたということである。

 これは重要な意味合いを持つ。絵の基本が出来ているので、応用が利く。応用が利くというのは、強みなのだよねぇ。自分の思った絵が描けるし、しかも、彼は、ずば抜けた技量を持った絵描きだったから、奇想画を描いても苦にならない。いや、むしろ、見事な出来栄えとなるのである。

 そして、暁斎が明治になって脚光を浴びたのが風俗画である。

 彼の代表作として取り上げられている「大和美人図屏風」は、遊女の立ち姿を描いている(写真下右)。


暁斎 大和美人図.jpg


 江戸時代前期の浮世絵のスタイルが踏襲されているにもかかわらず、同時に絵の背景には金箔を塗るなど大和絵の技法もしっかりと取り入れている。

 伝統を踏まえながら、百年先でも色あせない最先端の絵として通用する絵としている。

 また、猿の絵では猿の毛の一本一本を細密に描写するというパラノイア振りも発揮している。


暁斎 猿.jpg


 こうして、二つの顔を持つ暁斎は売れない日本画より風俗画に手を染めるようになり、妖怪画や笑い絵(春画)の類まで手を広げ、奇想の画家としての地位を確立するのである。

 それにしても、この人の絵は巧い。舌を巻いてしまう。付言すると、この美術展には珍しく、暁斎の春画も数点展示されている。

 なお、この暁斎展には暁斎に弟子入りした英国人建築家ジョサイア・コンドル(政府お抱えであった)の軌跡にも触れている。

 素人の絵描きであったコンドルが暁斎に触発されて絵が巧くなっていく過程を観て取ることができる。建築家の本質というものは、実はアーティストなのだということが分かるのである。

 9月6日(日)までの開催なので、興味のある方は是非とも東京駅前の丸の内に行くべし(三菱一号館美術館)。

 それだけ価値のある美術展である。本日は竹原の話しを休載して、特別に暁斎の話しとした。



五姓田義松展に行く(前篇)

 今月初め(2015年11月8日)まで神奈川県立歴史博物館で「没後百年 五姓田義松展 最後の天才」が開催されていた。


五姓田義松ポスター.jpg


 おいらは、展覧会が終了する間際に横浜の馬車道まで出向いた。


横浜正金銀行.JPG


 ここは永井荷風のいた横浜正金銀行の本店がそのまま博物館になっている。いつ見ても異国情緒にあふれる建物で、ここに立つと明治の気分に浸れるところがよい。

 さて、五姓田義松(ごせだ よしまつ)と聞いて知っている人はまずいないだろう。

 おいらだって知らないよなぁ。展覧会の概要を拝見して日本の洋画家第一号だと知ったのだが、おいおい日本の洋画家の嚆矢は、たしかシャケの切り身を描いた(教科書に必ず載っている油彩。芸大収蔵。写真下)高橋由一だったはずだと思ったのだが、格が違うようだ。


高橋由一.jpg


 五姓田義松は天才だったのだ。

 彼は安政2年(1855年)に武士の子として江戸に生まれた。幼いころから絵心があり、10歳で英国人画家チャールズ・ワーグマンに弟子入りし、16歳で洋画家としてデビューするのである。

 その腕は他の追随を許さず、第1回「内国勧業博覧会」では最高賞を受賞する。20代で明治天皇の行幸に同行するまでとなり、訪問先の日本各地の風景を描く御付画家にも起用されるのである。

 国内ではもはや敵がなく、パリに渡るや、26歳で芸術アカデミー展覧会「サロン・ド・パリ」に入選するのである。

 おいらがこのブログで書いている藤田嗣治も真っ青の実績だよねぇ(フジタも「サロン・ドートンヌ展」受賞)。

 以上がおいらの五姓田義松の絵を観る前までの彼についての情報であった。

 ところが、五姓田義松についてのミステリーは、その後、彼の名がぱったりと消えてなくなることである。一体何があったのか。

 おいらは残念ながら彼の絵を観たことがない。明治時代の油彩の天才で世界の水準でも引けをとらない実力の持ち主というのだから、どんな絵を描いていたのか興味津々ではないか。そして、なぜ彼は歴史上からその名前が消えたのか。

 今回の五姓田義松展には、油彩画、水彩画、鉛筆画などの800点を超す作品が出品されているという。こりゃ愉しみじゃわい(この項続く)。



五姓田義松展に行く(後篇)

 展覧会に入った。先日も書いたが、初老のおいらは入場料が100円であった(一般900円)。ウレヒ~。


入場券.JPG


 最初の感想。

 会場入り口に五姓田義松の書簡や手帳などが多数展示してあり、収入と支出も克明に記録されている。これがややパラノイア気味で、そうとう緻密な性格だったようだ。

 会場にはその後、圧巻の鉛筆画、水彩画が数百点展示されている。これがうまい。とにかく絵がうまい。精巧なカメラで撮影したような描写力である。

 油彩もすごい。なかでも10代に描いた自画像は舌をまく。


五姓田義松自画像1.jpg


 明治の時代にこれほどの力量のある画家がいたのが驚きだが、この絵を描いたときが10代なのだから「うまい」を通りこしている。天才という表現は間違いではない。

 鉛筆画もこれが明治に描かれたものかと思うほどである。現代でもこれ以上のデッサンを極めるのは難しいだろう。


五姓田義松変顔.jpg


 さらに、老いた母が死のふちにある「老母図」は傑作である。この油彩にはおいらも圧倒された。この絵に衝撃を受けない人はいないのではないか。


老母図.jpg


 この油彩については、国営放送の日曜美術館の番組内で解説者が「ゴッホに通じるものがある」という趣旨のことを述べておられたような記憶があり、他の油彩と異なり、唯一印象派の手法を見てとることができる。

 何が云いたいのか。

 五姓田義松の絵は確かにうまいのである。しかし、絵がうまいのと絵に感銘を受けるのとは同じではない。

 これはおいらの持論であるが、歌のうまい歌手が聞きたい歌手になるわけではないのと同じ理屈である。

 身も蓋もない云い方をすれば、五姓田義松の絵は確かに天才的にうまいが、ただそれだけではないのだろうか。五姓田義松の風景は観光地のお土産売り場にある絵葉書の写真と同じように観えるのである。いや、まだ写真の方が正確無比に写しているのでその方がよいかもしれない。

 それに対し、ゴッホの絵が心を打つのは、彼が自分にしか見えない光景を描いているからである。だから、鑑賞する者はゴッホの絵に感嘆するのである。

 五姓田義松は絵がうますぎて、彼の筆はカメラと同じようにしか光景を切り取ることができなかったのである。

 残酷な云い方をすれば、彼の絵にはオリジナリティがない。だから、彼の絵は消えたのである。

 プロになるのは難しい。練習すれば到達する描き方だけではプロにはなれないのである。

 しかし、明治の初めではそれが通用したのである。あのピカソも若いころの絵は抽象画っぽい絵ではなく、恐ろしくうまい絵を描いている。うまく描けるからこそ、ああいう眼と鼻が反対を向いている絵を描くことができたのである。

 最後に。だが、五姓田義松の絵に価値がないとは云えない。

 明治の時代に日本人があれだけうまい油彩を描いたことは紛れもない事実だったのである。五姓田義松は評価されてしかるべき画家である。そのことを忘れてしまっては判断を誤ってしまう。

 いやはや、まことに芸術を論じることは難しい(この項終わり)。




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