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さすらいの天才不良文学中年
おいらの愛車遍歴 リニア
おいらの愛車遍歴(その1)
昨年暮れに車を買い替えた(写真は「2代目ブルーバード(1963~1967)」。おいらの新車とは関係がない。下記本文参照)。
おいらの住んでいる街には狭い通りが多い。だから、コンパクトな車に買い替えたいと思っていたのと、年を明けると直ぐに車検がやってくるのでエイヤッと思ったからである。
考えてみるとおいらと車との歴史は永い。
小学校5年生の時に広島県F市立A小学校に転校した。親父の仕事の関係でおいらの生まれた土地に戻ってきたのである。その小学校の友達の一人にやたら車に詳しいのがいた。皆に車の種類を説明するのだが、当時はほとんどの子が興味ないらしく、誰も相手にしてくれないのである。
そんなとき、おいらがその友達と話しをしたのが運のつきだった。セドリックのヘッドライトが縦目になっていると教わり、おいらも車の名前を覚えるのが好きになったのである。
ま、当時の車と云えば、地方の街を走っているのは、タクシー(オースティン?)とオート三輪が主流だったような気がするのだが…。
クラウンやコロナも走っていたはずだが、あまり記憶にない。それよりもマツダのクーペ(軽)やスバル360のことは良く覚えている。小学校の先生がマツダクーペに乗って喜んでいたのぅ。
しかし、当時はマイカーを持つなど高嶺の花である。持っていたのは町医者くらいだったのではないだろうか。わが家でも車と云えば2輪車のことで、親父は自動二輪に乗っていたことを思い出す。
中学に入って東京オリンピックが開催され、日本もモータリゼーションの時代に入る。この頃、おいらのクラスメートの親父が運送会社の社長をしており、ピニンファリーナの設計した2代目ブルーバード(1963~1967)に乗っていた関係からその車に乗せてもらったことがあった(写真上)。当時はデザインがダサイと思っていたが、今見直すとそうでもない。
日本にも車の時代がやって来たという実感が湧くのがこの頃からである(この項続く)。
おいらの愛車遍歴(その2)
高校に入って日産サニーが登場する。
この車の名前は全国で公募されたのである。高校生だったおいらも当時、広島の片田舎から応募したのである。
日産「ピューマ」と命名したような気もするが、はっきりとはしない。ジャガーという車があったから(「ジャガー」は今でも健在である。なお、余談だがイギリスでは「ジャギュワ」と発音する)、二番煎じだと思われたのじゃろうのぅ。
昭和44年、大学に入り、興味本位で自動車部の門を叩いた。クラウンを何回か運転させて貰ったので、当時、免許を取ろうかと思った。だが、部員は皆、車オタクばかりで、これは付き合い切れないと早々に退部した。
したがって、大学時代はもっぱら友達の車に乗せて貰っていた。一番の記憶は、トヨタのパブリカである。旧友F君が運転して下宿まで来てくれたのである。
おいらは当時、体育の授業をもう1回欠席すれば単位が貰えないという状況に陥っていた。だから、F君が下宿まで「お~い、行くぞ」と迎えに来てくれたのは本当に助かった。今でも彼のことを命の恩人だと思っている。
K君の乗っていたホンダN360も名車だった。大学時代の仲間数人とN360に乗って浜名湖近くまでドライブしたことを思い出すのである。ホンに、青春は陽炎のようなもの。
ところで、このN360は昨年新たに復活した。喜ばしい限りである。
学生時代の話しの付録を、付け加えておく。当時の桂文珍の車漫談は良かったのぅ。文珍がダジャレで車の名前を呼ぶのである。
この車はガソリンをクラウン。
ちょっとお金をカリーナ。
こういうダジャレが延々と続くのである(この項続く)。
おいらの愛車遍歴(その3)
昭和48年、某1部上場企業に入社した。
入社して早々に運転免許を取得する。免許取得は、休日や出勤前の早朝でなければ時間が自由にならない。だから、自動車教習所ではなく、個人指導の先生に教わった。このとき、先生の乗っていた車がグロリア。セドリックと同型車である。
今から思うと、日産が姉妹車を作るのは理解できるが(商売上の知恵)、当時のおいらにはセドもグロリアも区別は付かない。
閑話休題。
仕事で使った社有車は、ネイミングで因縁深いサニーであった。今では珍しい2ドアである。廉価で作るのだから、ボディの硬さを維持するには仕方がないのじゃろぅ。
さて、このサニー、最初に配属された勤務地が寒冷地だったので、チョークを引きながらエンジンをかけるのである。チョーク、死語である。今の人に、分かる訳ねぇだろうなぁ~。この勤務地では雪道でチェーンが必需品なので、チェーンの巻き方も覚えることになる。
ところで、この社有車であるが、当時、一定の使用年数を経過すると、廃車にするというのである。高度経済成長時代は何事も使い捨ての時代だったのである。
だから、取得を希望する社員には目方(重さ)で払い下げてくれたのである。おいらも願い出て、晴れて社有車のサニーのオーナーになったのである。2ドアなんて関係ない。ただただ嬉しかったのぅ。入社3年目の24歳のことであった。
このサニーには約2年乗り、次に買い替えたのがクラウンハードトップ(MS51)であった。
無論、中古だが、知り合いから安くゲット出来たのである。ルーフが白のレザー張りで本体はブルーのツートンカラー。タイヤにはアルミを履かせていた。おいらは、この車が気に入って夏休みには広島に帰省までしている。
おいらが乗る社有車の二代目は、ダイハツシャルマンであった。この車はエンジンが横置きだったような気がする。小さな車だったが、軽快に走った。ダイハツって、やるじゃん。愛着を感じたものである。
考えてみれば、この最初の配属地では車は必需品であった。だから、どこに行くにも車であった。おいらはサニー、クラウン、シャルマンにはお世話になった。そこで過ごした5年間は、これらの車と一緒だったのである(この項続く)。
おいらの愛車遍歴(その4)
昭和53年に本社勤務になる。
本社所在地は西新宿であった。おいらは文京区千駄木のマンションを借り上げ社宅としてもらい、そこから会社に通った。無論、電車通勤である。都心で駐車場を持てる身分ではない。そう、車を持てなくなり、クラウンハードトップを泣く泣く手放したのである。
本社勤務は8年間続いた。その間、おいらは結婚している。地下鉄丸ノ内線新中野駅から歩いて数分の社宅に移ることになった。
そこで、再び車との生活になる。同じ課にいたM君が結婚するのでサニー(写真上。同型車)を買ってくれないかというのである。
幸い社宅には駐車場もあるし、子供もできたので、ま、良いかである。M君にしてみれば、業者に売ると安く買い叩かれるし、おいらにしてみれば市場の値段よりもリーズナブルな値段で買うことが出来る。二つ返事で再びサニーに乗ることになる。
日産サニーは既に1,200CCになっていた。4ドアで燃費も悪くない。そう云えば、コラムシフトからフロアシフトになっていた。高速でも良く走った。
サニーで思い出すのは、カローラとのSC戦争である。サニーが大衆車の市場を開拓し、それをカローラに席巻されたというシナリオである。このあたりの経緯は徳大寺有恒氏の独壇場であるが、早い話しが、技術の日産が販売のトヨタに敗れたという歴史である。
トヨタはパブリカの販売で失敗し、自らがマーケッティングをすることを控える。日産がサニーで調査した市場の後追いでちょっとデラックスにしたカローラを販売し大当たりしたのである。
「隣のクルマが小さく見えます~」
すごいCMである。誰もサニーを買いたくなくなるだろう。トヨタには販売の神様、神谷正太郎がいたのである。
このことはBC戦争でも繰り返され、ブルーバードが市場調査した中型車のマーケットはコロナに持っていかれたのである。
商売のエッセンスが詰まった、深い話しである。
では何故、M君はサニーに乗っていたのか。何故、おいらはサニーで良いとしたのか。それは、おいらの勤務する会社が日産を得意先としていたからである。世の中はこんなものである。
ところで、このサニーには約5年乗った勘定になる。そして、広島に転勤して、おいらはまた車を買い替えることになるのである(この項続く)。
おいらの愛車遍歴(その5)
広島はおいらのフランチャイズである。
人事部も安易な異動をするものである。しかし、ここでの3年間は、日常で親孝行をすることができたのであるから感謝しなければならない。
さて、営業協力というのがある。別名、販売協力。そう、広島ではマツダ(東洋工業)が重要得意先であった。
マツダは既にフォードと提携しており、少し前に発売したファミリアが大ヒットして(「幸福の黄色いハンカチ」で武田鉄也が乗車する)、息を吹き返していた。
おいらの乗る車はマツダカペラ(写真上。同型車)になる。当時、アランドロンが宣伝をしていた。今から思えば、良くもまあ、ドロンがカペラの宣伝に出ていたものだと思う。時代はバブルである。
この車は1,600CCで名車だった。国内ではカペラの評判はイマイチであったが、ヨーロッパではマツダといえば、カペラである。デザインも洗練されていた。
この車に乗って九州一周旅行をしたものである。生まれて初めて車をフェリーに乗せたのもこのカペラである。
マツダと云えば、カープ(未だにカープの正式名称は「広島東洋カープ」である)とサンフレッチェ(東洋工業サッカー部が前身)の話しをしない訳にはいかないだろう。
おいらが広島にいた当時、カープもサンフレッチェも強かったのである。カープは山本浩二監督の下、セ・リーグ優勝をしている。
だが、その後のカープの凋落は留まるところを知らない。その当たりはこのブログでも書き散らしているので割愛するが、サンフレッチェが昨シーズン優勝したことは喜びに堪えない(この項続く)。
おいらの愛車遍歴(その6)
平成元年に再び本社勤務となる。
都内世田谷区の社宅に住んだ。広島から持参したカペラを品川ナンバーにして乗っていたが、再び、販売協力のお呼びが掛る。
今度は、ホンダの車に乗ることになる。
ホンダはスズキと並んで、もともとは二輪メーカーである。それが何を思ったのか、四輪に進出したのである。その昔、車の縄張りは、トヨタ、日産、東洋工業の三社の事実上の寡占で(三菱は三菱グループの人しか乗らなかった)、そこへ普通車の参入をするのだから、これは事件であった。当時の通産省と大喧嘩してホンダは意地を見せたのである。
そのホンダの四輪である。初期の頃、新潟でシビックを運転したことがある。FFの魅力に唸ったものである。スノータイヤを履いていないのに、雪道で車がお尻を振らないのである。
アクセル・ブレーキ・クラッチの配置位置もホンダは独特であった。日産の車に乗り慣れていたおいらは、こういう車の作り方もあるのかと感心したほどである。
だが、それもこれも本田宗一郎という天才エンジニアがいたからであろう。
とにかく宗一郎は真似が嫌いだったのだ。技術面のみならず、デザインであっても外車の真似など技術者がしようものなら、その試作車を蹴飛ばす人柄だったという。ホンダはそういう意味で、我が道を行く車造りであったのだ。
余談だが、このシビック、塗装が弱いのか、鉄板が腐りやすかったようだ。昔はガムテープで穴を補強したシビックをよく見たものである。
さて、手に入れた車は、ホンダインスパイア(写真上。同型車)。再び3ナンバーに戻った。
この車、完成度の高い車であった。エンジン音はほとんど車内に入らない。高速を走行中でも静寂であった。燃費は悪かったが、2,000CCであれば止むを得ないだろう。
驚いたのは、ホンダの特徴をあまり感じなかったことである。高級感を出せば出すほど、車はどこのメーカーのものでも似たようなものになっていくのだろうか。ともあれ、そう云う意味ではホンダイズムのない車であったのぅ(この項続く)。
おいらの愛車遍歴(その7)
ここで少し余談に入る。
NY駐在時代に乗った車である。おいらは外資との提携のため、平成9年から10年の約1年半NYに駐在していたのである。
ミッドマンハッタン東部(47丁目)に住んだ。会社はマンハッタン最南部に所在していた。9・11の世界貿易センタービルに隣接するビルであった。
おいらの社有車は、日産マキシマ(写真上。同型車)である。
3,000CCの車である。そんなに大きい感じはしないのだが、マキシマと名付けているだけあり、パワーは抜群であった(なお、NYで、現地の運転免許を取った)。
提携先の会社がNY郊外北部のアーマンクに所在していたので、高速を飛ばして訪問するのだが、時速80マイル(1マイルは約1.6キロだから、時速約130キロ)を出してもそんなに早いなぁという感じはしなかった。
おいらの感覚では80マイルの表示が80キロであったからかも知れない。今、考えればアブナイことこの上ない。
ところでこの車、ある日、コックピット上でオレンジ色の警告ランプが点滅するようになった。走行に不具合があるという表示である。同僚の外人に聞いたら、販売先に修理を頼めば良いという。
好奇心もあって、おいら自身が修理の依頼を米国の日産ディーラーにしてみることにした。おいらが独りで車を持ち込んだら、日産ディーラーの全員が現地人(外人)だったので妙に感心したことを覚えている(当たり前か)。
この車、FDRドライブ(イーストリバー沿いの高速道路)を走行していたら、パンクしたこともある。昔の車はパンクが普通であったが(タイヤがよくなかったのだろう)、まさかNYでパンクするとは思わなかった。土砂降りの中、ジャッキで車を上げて、スペアタイヤを履かしたのはよい思い出でもある。
こうしてみると車社会の米国では車は故障するもの、壊れるものという感じがつきまとうのではないだろうか。そうだとすれば、日本車のように故障の少ない車が売れるというのは理解できる話しである(この項続く)。
おいらの愛車遍歴(その8)
ここで、米国での車のキーのリモコン事情である。
NYの車のキーは、当時からリモコンであった。
それも、ドアの開閉のみならず、エンジンも車の外からリモコンでかけることが出来た。NYの冬は寒いのである。少し早めにエンジンをかけておけば、エンジンが暖まるのである。これは助かった。日本で車のキーがリモコンになるのはもう少し時間がかかったが、未だにエンジンをかけるのは一般的ではなかろう。
ところで、米国と日本とで異なる車の様式は、彼の地が右側通行だから車のパーツが左右対称になっていることである。
例えば、右折しようとしてウインカーを出そうとすると、ワイパーが自働的に動くのである。これには戸惑った。左右が逆なので、ウインカーは左側、ワイパーは右側で操作するためである。当分の間、違和感があったものである。
ま、左右対称の作りなのだが、その場合でもアクセルとブレーキ(クラッチも)の位置だけは変わらない。右からA(アクセル)B(ブレーキ)C(クラッチ)である。これはマトモじゃのぅ。
さて、駐在員時代の後半は、日産インフィニティ(Q45。写真上。同型車)に乗車した。
4,500CCである。とにかく大きな車で、アメ車に引けをとらない。ちょっと、昔のジャガーに似ているような気もしたのぅ、デザインも洗練されていた。
この車はFRで、加速時に後ろから押されて進むという感じがよく伝わった。スポーツカーはこうでなければいけない、と感じる車である。
インフィニティは日本ではほとんど走っていないが、稀に国内で見かけることがある。お~頑張っているのぅ、と今でも声を掛けたくなる。それ位、愛着のある車であった(この項続く)
おいらの愛車遍歴(その9)
おいらの愛車遍歴もこの回で終わりにする。
結局、ホンダインスパイアには10年以上乗った。ホンダ色のない車だと云いながら、長く乗っていると愛着が湧き、ずるずると乗ってしまったのである。
しかし、この年になると大きな車を運転するのが面倒になった。燃費も良くないし、駅までの距離であっても下駄代わりに乗るので、大きな車は煩わしい。コンパクトな車にしたいと思うようになったのである。
買い替えたのは、「スズキスイフトRS」である(写真上。同型車)。この車、一昨年のカーオブザイヤーである。
おいらの敬愛するH先輩と呑んだときに「買い替えるとしたら、どの車が良いでしょう」と尋ねたことがある。
この先輩は車にはうるさい。実は、おいらは昔からミニクーパーが好きだったのである。ミニクーパーはどうかと話すと、悪くはないが、外車は維持が大変だとのたまわれる。
早い話しが故障しやすいのである。今でこそ、外車も品質が良くなったが、一昔前は車検ごとにあちこちの部品を交換しなければならず、維持費が大変だったという。
それに較べて日本車は壊れない。壊れても直ぐに修理ができる。これには一理ある。そう云えば、おいらが若かりし頃にロンドンに出張したとき、彼の地ではミニよりもスズキフロンテの方が格が高かったことを思い出した。
イタリアのフィアット500も話題の俎上に乗せたが、同様であった。
そうであれば、小さな車で和製ミニのような車はないかと尋ねたら、先輩の薦めた車がスイフトだったのである。
調べてみると、この車には特別仕様車にRSがあり、機能も満載で(ディスチャージヘッドランプでアルミも履かせている)、値段もリーズナブルである。即決した。色は黒のメタリック。ナビは最高級のものを付けた。
さて、久し振りに乗る1,300CCは快適である。小回りも良いし(ただし、車輪が大きめなので思ったほどではない)、加速は素晴らしい。キビキビと走るので、狭い道や坂の多い街で走るにはうってつけである。燃費もリッター20キロと満足である。
このおいらが久し振りにドライブを愉しんでいる(この項終わり)。
コックピットのスピード表示
旅先ではレンタカーを借りることが多い。
そのときのことで、気づいたことを書く。コックピットのスピード表示である。
普通、運転席から見るコックピットのスピード表示はアナログで、円形のメーターである。
例えば、おいらが今乗っているスイフト(写真上)では速度の最高表示が200キロになっており、スピードメーターの真上が100キロである。
高速道路の法定速度は100キロなので、丁度真上が目安となる。
さて、先日、乗ったレンタカーはアクア(トヨタ車)であった。
このスピード表示がデジタルだったのである。老人力のついた目でもはっきりと分かるほど大きな数字が表示されるので分かりやすい。
地べたを走行するときに60キロ制限であれば、60の数字を少しだけ上回るだけの数字で走行しようと思う気になる。
だが、おいらは本能的にこのデジタル表示が嫌なのである。昔からそうで、今でもその考え方は変わっていない。
では、何故イヤなのか、その理由が分からなかったのだが、先日、はっと思いついた。
それは、円形メーターだと、咄嗟に見たときに、今、大体どれくらいの速度で走っているかが最高速度と比較して相対的に分かるということである。
左半分の真ん中から上だと、時速60キロ程度だとすぐに分かるのである。
それに対して、デジタルは絶対表示である。60キロだと60という表示のみである。速いか遅いかが瞬時には分からない。
確かに60という数字は60キロと認識できるから良いのではないかという意見もあろう。
しかし、おいらはそれがイヤなのである。数字は、そのまま見るよりもグラフで見た方が脳に訴える力があるのと同じである。円形のスピードメーターはいわば円グラフ表示であるとも考えられる。
これは趣味の問題ではなく、人間工学上の問題のような気がする。
航空機のコックピットが全て円形表示(一部、デジタル表示もあるような気がするが)であるのもそういう理由だからであろう。コックピットが全てデジタルだと、乱数表を見ているような気になるはずだ。
おいらはやっぱり、円形アナログ表示が好きだなぁ。
初めてカローラに乗った
来月(16年11月)、カローラが発売50周年を迎えるのだそうである(写真は、初代カローラ)。
もう50年も経つのかと思うが、おいらはそのカローラにこれまで一度も乗車したことがなかった。
もっぱらサニー派だったからである。
そのサニーの発売は66年(昭和41年)4月であった。前年、日産自動車は初の車名の公募を実施していたのでよく覚えている。
当時のおいらは高校生で、車名を応募している。ニッサン・ローズ(薔薇)と応募したが、無論、サニーに決定した。
余談だが、車はフランス語でvoiture(ヴォワチュール)であり、女性名詞である(ただし、taxi(タクシー)は男性名詞)。だから、高校生の分際で車の名称にローズと付けるのは、おいらながらセンスがいいと思う(自画自賛)。
そのサニーに遅れること約半年、トヨタカローラが発売された。
そのカローラは「プラス100ccの余裕」というキャッチフレーズじゃったのぅ。案の定、カローラはサ二ーを抑えて売り上げトップに立つ(余談だが、ヨーロッパではカローラではなく、コローラと呼ばれる)。
これがこののち40年に渡るCS戦争(カローラvsサニー)戦争の幕開けであった。
面白いのは、トヨタは日産が1000ccの大衆車を開発中ということを知り、もともとカローラはクーペタイプで開発中であったにもかかわらずセダンとし、しかも1100ccに変えたといういきさつがある。いつの世も「後出しじゃんけん」が勝つのである。
さて、サニーはカローラに負け続けたため、4年後にフルモデルチェンジする。日産はこの2代目サニーを1200ccとし、「隣の車が小さく見えま~す」のCMをうったのである。懐かしいのぅ。
閑話休題。
そのカローラも今や11代目(サニーは生産販売終了)。そして、おいらはこの夏にレンタカーを借りたのだが、それが新型カローラ(1.6L)だったのだ。
これが走りの良さにビックリ。今やカローラは高級車に仲間入りしている。
トヨタの車造りはしっかりしているわぁ。さすが、世界のトヨタ。本日はこれにてオシマイ。
今年一番驚いたこと
今年一番驚いたことと書いたが、たいそうな話ではない。
つい先日、車のタイヤがパンクしたのである。
走行中、近場のコンビニに立ち寄ろうとして、ハンドルを左に切ったら、視覚から見えない道路の端の部分が盛り上がっており、一瞬、そこに乗り上げたのである。
今から思えば、その瞬間、何だか小さな破裂音がしたような気がする。
それでも運転に支障はないので普通のようにコンビニの駐車場に入り、念のため、車から降りて左前方のフェンダー部分をのぞいたらあっと驚いた。
タイヤがスカタンなのだ。おいらは長年車に乗っているが、国内でパンクしたことは大昔を除いてない。
仕方がないので、トランクを開けてジャッキを探す。しかし、ジャッキがない。おいおい、最近の車にはジャッキが搭載されていないのか。
車検を済ませたばかりなので、ディーラーに電話してジャッキは載せていないのかと尋ねると、トランクの内側のすみに収納しているという。
あった。コンパクトに収納されていた。知らなんだ。
スペアタイヤはトランクの底にあるはずなので、底をひっぺがすと底の裏にスパナも装着されている。
そこで、ジャッキをセットする。
車輪が持ち上がるようにシャーシーがうまく引っ掛かる場所にセットする。ここが一番肝心である。
セットしたら後は手作業でジャッキアップし、スパナに体重をかけてナットを左回転させタイヤをはずす。
以上を全て手作業で行い30分くらいかかったろうか、無事、スペアタイヤを装着することができた。
これで思ったこと。
今の人はジャッキアップが自力でできるのだろうか? 自動車学校では教えていないだろうし、こういう技術は伝承されないだろうから、山道でパンクしたらお手上げだろうと思う(皆、JAFに電話するんだろうなぁ。いや、今では損保かも)。
おいらはそれで思い出したのが、ニューヨークにいたときに通勤用に乗車していた日産マキシマである。
マンハッタンの高速道路で右前方のタイヤが突然バーストしたのである。高速を降り、雨の中、一人でジャッキアップし、スペアタイヤに替えたことを思い出した。
彼の地でパンクしたときは、業者に助けを呼んでもすぐにはきてくれない。
おいらは車が好きで、自動車の動く仕組みや最低限の車の整備知識があったからパンクでも対応できたのである。そういう知識や経験がなかったら、途方にくれていたろうと思う。
ところで、どうでもいいことだが、英語ではパンクと言わない。I had a flat tireと云う。でも、なんでパンクと云うのだろう。不思議である。
これも蛇足だが、スペアタイヤ(spare tire)は彼の地ではドーナツ(donut)とも云う。確かに薄っぺらで頼りないので、ドーナツだな、あれは。
以上、パンクのお話しはこれにておしまい。それにしても、年末にパンクはないよなぁ。
リニア新幹線、時速500キロに試乗!!(その1)
本日より7回は、セキネットワークス「情報の缶詰」掲載の「リニア新幹線、時速500キロに試乗!!」をおおくりします。
リニア新幹線、時速500キロに試乗!!
おいらはこれまで大概の乗り物に乗った。超大型トラックはもとより、救急車やパトカーにも乗った。ヘリコプターにも乗った。
戦闘機と戦車は未経験だが、これは民間人なら乗ること自体が無理だろう。残念なのは飛行船やコンコルドに乗れなかったことであるが、今はもう飛んでいないので、仕方がない。
さて、おいらは馬齢を重ねて前期高齢者になった。
だから、この年になって新しい乗り物にチャレンジできるとは思っていなかったのだが、今回、リニア新幹線試乗抽選に当選したので、その顛末をご報告する。
1.2027年開業予定
おいらが生きているうちは乗車が無理だろうと思っていたリニア新幹線は品川、名古屋間の開業を2027年に予定している(東京、名古屋間を40分で結ぶ予定)。
超電導リニア技術を新幹線に導入するのは世界で初めてなのだが、後10年で実現するとは思ったよりも早い。
実際、JR東海ではすでに山梨リニア実験線(そのまま営業線に転用)が開通しており、神奈川予定駅と山梨予定駅との約半分の距離で現在も実用化の実験が行われている。
2.抽選
JR東海のネットに「超電導リニア体験乗車実施に関するご案内(主催:JR東海)」が掲載されている。
それによれば、
「JR東海では、山梨リニア実験線にて超電導リニアの走行試験を実施しておりますが、このたび、走行試験スケジュールの一部を活用して、超電導リニアの高速走行をご体験いただける『体験乗車』を実施いたします。体験乗車は抽選制となります」
とあるのをM先輩が見つけたのがこの物語の発端である(この項続く)。
リニア新幹線、時速500キロに試乗!!(その2)
2.抽選(続き)
何事も持つべきものは、良き先輩である。
M先輩はいわゆる鉄っちゃん(鉄道おたく)でもあられる。
だから、リニア体験乗車とあるといてもたってもいられなくなり、毎回抽選に応募されていたのだが、この試乗はやはり人気が高く、いつも抽選にもれておられたのである。
おいらもその話しを聞くたびに落胆していた。
では、なぜおいらがM先輩の抽選もれに落胆していたかというと、この試乗申し込みは二人一組なのである。おいらの新し物好きを先輩が知っていて毎回おいらの名前と一緒に申し込んでいただいていたからである。
これまで約1年になるだろうか、毎回、はずれてしまうので今回もダメだろうと思っていたら、M先輩から突然メールが入り、「当たった、10月31日に山梨に行こう」ということになったのである。
3.山梨県立リニア見学センター
集合場所は大月にある「山梨県立リニア見学センター」(写真上)である。
JR中央線の特急かいじで大月駅(写真上)まで行き、そこから富士急バスに約30分乗車し(写真下。途中、富士山が一瞬観えた)、終点のリニア見学センターに行くのである。
おいらは朝の8時半に自宅を出て、11時前に現地に到着した。
受付の午後1時まで約2時間と時間をたっぷり取ったのは、交通機関の遅延により、万が一予定時間までに間に合わなかった場合は、もう二度と抽選に当たらない予感がしたからである。
それにリニア見学センターにはリニアのミニテーマパークである「リニア館」がある(この項続く)。
リニア新幹線、時速500キロに試乗!!(その3)
3.山梨県立リニア見学センター(続き)
山梨県立リニア見学センターの1階には、2003年世界最速記録581キロを樹立した実車輛が展示されている。
2階には二人乗りのミニリニアがあり、試乗模擬体験も可能である。おいらも試乗してみたが、一瞬ふわりと浮く感覚を味わうことができた。
また、そのリニア館の2階にある屋外見学テラスと3階見学ラウンジからは、実際に動いているリニア新幹線を観ることができるのである。
時速500キロで走っているので、リニア新幹線が一瞬のうちに目の前を通り過ぎるのである(写真撮影可)。
おいらとM先輩はそこで嬉々としてリニア新幹線の仕組みや成り立ち、歴史などを堪能したのである。
驚いたことは、リニアの車輛は下に磁石をつけて浮くのではなく、左右の横に磁石をつけて車輛を浮かせていることであった。それでリニアが浮遊するのだから、意外である。したがって、試乗抽選にもれたとしてもこのリニア館に見学に行くだけでも価値がある。
なお、このリニア館にレストランはないが、軽食の自動販売機が設置してあるのでそこで昼食をとることもできる。
おいらは愛妻弁当と半冷凍の缶ビールを持参し、M先輩と歓談しながらそこでお昼をとったのである(この項続く)。
リニア新幹線、時速500キロに試乗!!(その4)
4.集合
受付は前述のとおり午後1時開始(当日の第3便に試乗)、集合時刻は1時15分、発車時刻は1時25分である。リニア館を出てみやげ物店を右目に観ながら、実験会場まで歩く。
受付後、Mさんが当選券を発券機に入れると二人の乗車券がでてきた。座席が指定されている。
入場時にセキュリティチェックがあり、皆が金属探知機の列に並ぶ。体験乗車は試験目的の車輛で実施のため、手荷物の持込は、貴重品・ハンドバッグ・カメラなど最低限の身の回り品のみとされている。
また、ペットボトルなどの飲み物や弁当、カメラの三脚も持ち込みが禁止である。おいらもペットボトルを持参していたので検査にひっかかったが、未開封だったためそのまま無事社内に持ち込むことができた。
試験用車輛のため車内にトイレがないので、トイレは試乗前に済まさなければならない。おかげで施設内のトイレには列ができていた。
入場すると大きなホールがある。そこに約150名分の座席が設営されており(座席指定であり、リニアの資料とおみやげ=特製ボールペンとメモパッドが椅子の上に置いてある)、オリエンテーリングが始まる。
乗車時間は30分だとか、現在は世界最速の時速603キロを樹立したギネス公式認定証(写真下)が後部に展示してあるなどの説明のほか、車輛内での注意事項などの口頭説明があり、リニアのビデオを観せてもらって(撮影、録音が禁止)いよいよ乗車である。
今回のリニア新幹線は5輌編成で先頭車輛と最後尾車輛は機材と関係者のみが乗車し、客車となっているのは3輌のみである。
1車輛に約50名が乗車する。おいらとM先輩は4号車の一番後部座席であった(この項続く)。
リニア新幹線、時速500キロに試乗!!(その5)
4.集合(続き)
ドアはウイング方式で上に開く。
超高速だからドアにも工夫があるのだろうか。
のぞみに乗り慣れているので、オヤッと思ったのは従来の新幹線に比べて車輛が少し小さめだったことだ。地下鉄だと銀座線のように他の路線と比較して少し小振りのような気がする。
車窓も小さい。新幹線の窓は大きくて外がよく観えるようになっているが、これではまるで航空機の窓のようである。
荷物の入場制限があったにもかかわらず、荷物棚があったので拍子抜けする。
座席のリクライニングも装着されているので、座り心地は悪くない。
5.いよいよスタート
スタートである。
リニアだからと云って最初から車体が浮いているわけではない。
飛行機に車輪があるようにリニアにも車輪がある。これも意外な発見であった。
リニアだから最初からふわりと浮いて動くものだと思っていたが、最初は普通の新幹線のように車輪でスタートする。そして、時速160キロになって初めて車体がふわりと浮くのである。
この感覚は飛行機が離陸した瞬間に似ている。
それまでは車輪が地面についているので、ゴーッと大きな音を出し、車体が揺れながら前に進んでいたのだが、それが突然ふわりと浮き上がり、ウソのように急に静かになるのである(この項続く)。
5.いよいよスタート(続き)
そしてさらに加速し、現在国内で一番速いとされている東北新幹線の320キロを簡単に超え、あっという間に時速500キロに到達する(発車してから80秒=1分20秒で500キロに到達。
ジェット機の時速は約1,000キロだから、この感覚はプロペラ機に近いと云える。
では、このときの感覚は前から引っ張られているのか、後ろから押されているのかであるが(自動車の前輪駆動と後輪駆動とで感覚が違うのと同じ)、これは飛行機と同じでどちらかと云えば前から引っ張られている感じに近い。
そして、加速のときの感覚は飛行機の離陸のときと同様に座席に体が押しつけられ、背中にググッと力がかかる。
ただし、慣れてしまえば飛行機と同じで、驚く感覚というほどのものでもない。
車窓から観える景色はほとんどがトンネルなので、トンネル内の照明灯がひたすら観える。
このトンネルの中には12メートル間隔で照明灯がついているのだが、時速500キロなので照明灯は光の帯のようにつながって観える!!
無論、外の景色が観える場所もあり、安倍首相とケネディ大使が試乗した際には首相が「富士山が観えました」といったら一瞬で観えなくなったというエピソードまであるくらいである。
とまれ、JR東海のサービス精神は旺盛で本来なら5分も走れば通過してしまう区間を複数回往復してくれ、30分の乗車時間をたっぷりと愉しませてくれた。
試乗が終わって、実際に搭乗したリニア新幹線の前で記念撮影である(写真上。この項続く)。
リニア新幹線、時速500キロに試乗!!(その7)
6.リニア体感
さて、リニア新幹線体感の感想である。
これまで述べたとおり、リニア新幹線は鉄道というよりもプロペラ機に乗っている感しに近い。だから、充分実用に耐えられると感じた(写真上はリニア館内のジオラマ)。
ただし、線路から浮いているので、もしも車輛が飛び出したら大惨事になるのは目に見えている。安全性の確保が課題で、それがクリアされれば実用化に問題はないだろう。
ところで、リニア新幹線に抽選とはいえ、試乗できることを知っている人は少ないはずだ。「百聞は一見に如かず」である。多くの人がこのリニア新幹線に試乗されることをお勧めする。あのふわりとする瞬間の感覚は乗ってみなければわからない。
なお、余談だが、リニアは和製英語で外人にはリニア新幹線と云っても分からない。
英語ではMAGLEVである。MAGはmagnetic、LEVはlevitation(浮遊)である。
だったら、リニアでなく、最初からマグレブ新幹線と云った方がよかったのかもしれない。
ではなぜリニアとしたのかと云えば、リニアの本来の意味は「直線」である。リニア新幹線のモーターは回転運動するモーターではなく、磁気浮上によって直線(リニア)運動するモーター(これは説明が面倒なので割愛)を使うので「リニアモーターカー」と呼び、その頭文字をとってリニアとしたのである。
技術屋だけが使っていた言葉がいつのまにか世間一般に広まった見本のような話しである。
そんなことはどうでもいい。あ~ぁ、愉しかった、リニア新幹線。もう一度乗ってみたくなる不思議な乗り物である。
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