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感情日記、感謝日記を続けていますが、それに伴って長時間かけてジャーナリングをする、ということをあまりしなくなりました。効果がない、というより、そこまでする必要を感じなくなったからです。何かにストレスを感じて、その原因が何か分からなくなる、ということがあまりなくなったのと、もしそうなったとしても何が原因だったのかを書き出すまでもなく特定できるようになったようです。これは一体どういうこと? と考えたんですが、これがいわゆる「マインドフルネス」って奴なのかもしれないと思いました。今この瞬間に立ち返ることができる以前はかなり意識しないと「今この瞬間」に頭が切り替わらないということが多くありました。車を運転していて、出発直後から到着するまで間の記憶がない、なんてわりと日常茶飯時だったんですが、最近はそこまでぼんやり運転をすることもなくなりました。これは「N」が「S」になった、というわけではなく、今この瞬間を意識することに頭が慣れた、ということだと思います。以前は目の前に流れる景色を見ているだけで頭がクラクラすることもありましたが、今はそういうこともほとんどありません。これがストレスとどう関係するかと言うと、今何にストレスを感じているか、というのに思い至れる視点を持てるようになった、ということだと思います。私がストレスで崩れる時は、体が重たいくらいの疲労感と、誰にも会いたくないという感覚が生じます。以前は明確な体調不良(頭痛や発熱、腹痛)がないと休んではいけない、という思い込みがあったので、疲れたとか人に会いたくないくらいは気の所為だと思っていました。でもそれがストレスの影響だと気づいてからは、そういう感覚があったら、すぐに直近の嫌だったことを思い起こすということができるようになったんです。リアルタイムじゃないのかい、と思われるかもしれませんが、年単位で無視してきた私としては数日前の出来事を思い浮かべるだけで原因が分かるのは本当に助かります。大きなお世話を断れる人から何かしてもらうことって、ありがたい時もありますけど、「それはちょっと要らないんだよな」と言いたくなる時もありますよね。私は以前はそれができず、提案されることを何でも受け入れようとして、余計にストレスを溜め込むということを繰り返していました。いえ、別に提案自体が間違っていたわけではないので、デメリットばかりではないんですが、自分が納得できていないのに人に動かされるのはストレスになります。そういうストレスを避けるのは、単に環境から受けるストレスを避けるよりも難しいときがあります。人を傷つけるかもしれない、という不安が付きまとうんですよね、こういうの。でも、目の前の人から言われた言葉にもやもやした感覚を持ったら、「あぁ、これは私にとってやりたくない提案なんだな」というのが分かります。もちろん納得できて、それが正しいんでしたら受け入れることも良いとは思いますが、やりたくないことも受け入れるのは境界線が崩れている状態です。「それ、要らないです」とか直接言う必要はないと思いますが、それを受け入れないことに変な罪悪感を持つことはなくなりました。これを上手にできるようになると、結構楽に生きられるような気がします。不快だと思っている自分に気づけるこれは大きなお世話を断ることにも繋がりますが、周囲の人の感情や場の空気ばかり気にする思考回路が、自分の頭の中で「それは嫌だ」と言っている自分に気づけるようになりました。まぁ、嫌だからって断れることばかりでもない残念な世の中なんですけれども、それが嫌だ、と分かっていれば、関わり方を選ぶこともできます。ストレスになったら、心を病む前に感情日記にその気持ちを書くことで、ネガティブな感情を表現することもできます。長文で書き連ねなくてもこれだけのことができるようになったのは、本当にありがたいことだと思います。それじゃあ、長文ジャーナリングは無駄?別に長文のジャーナリングが無駄ということもなかったのかな、と思います。私が自分の感情を見失っていたのは事実ですし、それを思い出すという意味では、出来事を書き起こすことでもう一度感情を経験するのは必要だったんじゃないかなと思います。それがトラウマクラスの出来事じゃなかったから、自分一人で過去の感情を洗い出す作業ができたんだとは思うので、全ての人にお勧めできるとは思いませんが、自分が何を嫌いで何が許せないのか、というのを自分の言葉で言えるようになっておくのは、メンタルの改善には大切なのかもしれません。まとめ。自己受容や肯定感、自尊感情というのを育てて行く上で、感情日記や感謝日記は今の私には欠かせないものとなっています。時間もそんなにかからないし、お金もかからないですからね。田舎でメンタルクリニックを探すよりは、手を出しやすいと思います。もう少し続けてみて、また何か効果を感じられたら、ここに記録していきたいと思います。
2026.09.29
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ここ数日、謎の疲労感と誰にも会いたくない感があって、「あ、これはまた何かストレス抱えたな?」というのは理解できたんですが、何がストレスなのか分からないというモヤモヤを抱えておりました。久々にがっつりジャーナリングをして、「実は苦手な人のことをほめなくちゃならないけど、それが嫌で嫌でたまらなかった」というほんっとおおおぉぉぉにしょうもないことが原因だったことが判明したわけですが、こういうイライラって社会人なら普通にあるあるですよね。それじゃ、普通はこういうイライラってどうやって解消するんでしょう? まさか自分の気持ちに正直に「私あなたのこと嫌いなんでほめ言葉とか言いたくないんですよね」なんて言う人は⋯⋯いないですよね。それじゃ、本人がいないところで陰口を叩くとか? でも私、心にもないほめ言葉を言うよりも、悪口が嫌いなんですよねぇ⋯⋯ストレス解消にならないではないか。まぁ、今の私にはジャーナリングという自分の気持ちを書き散らかす宛があるからいいですけど。悪口はストレス発散にならない?私の父親がテレビを見て悪口を言うタイプの人間なんですが、それでストレス発散になっているようには見えないんですよね。言えば言うほど口が悪くなって、最終的には相手の逝去を望むような最低な発言をするまでになるんです。で、それを周囲で聞いてる方も気分良くはないですよね。私なんて父親のそれが嫌で実家帰るのが嫌になってるところありますし。なんでも、脳科学的には悪口って言ってる人の脳にものすごい悪影響があるみたいですね。確かにドーパミンは出てるんで楽しいみたいですけど、ストレスホルモンもちゃんと出てるそうで。そして脳内麻薬とまで言われるドーパミンの影響で、悪口がエスカレートしていくみたいです。うちの父親が他人の消滅を望むまでの悪口を言うのは、そういう影響みたいです。ジャーナリングに悪口書いてるんじゃないの?私は悪口は言いませんが、ジャーナリングには本音を書き連ねています。結構言葉が荒くなることもゼロではありませんが、基本的に怒った時とかに限ります。じゃあそれが悪口なんじゃないか? と自分でもちょっと思ったので、ジャーナリングを始めた頃のノートをちょっと読み返してみました。最初の頃は結構怒りの気持ちを抱えていた(今だからそう思えますが)ので、気持ち悪いくらいの長文を連日書き散らかしていましたけど、悪口というか、私が怒った事や悲しいと思った事を書いているだけなことが結構多かったです。1回だけ、本当なら本人にぶつけたかった言葉を書いていた時があったんですが、それは愚痴に近い形かもしれません。そしてその時はストレスが落ち着いた感じはあんまりなかったように思います。本人に言いたい、でも言わない言葉って、まぁ相手が傷つくだろうなと思うから言わない選択をした言葉ですから、誰にも聞かせなくても悪口なのかもしれません。そしてストレスは確かに減りませんでした。たぶん、怒りに任せて書いたから感情を吐き出すというより、その時の気持ちに煽られて怒りを増幅させていたのかもしれないですね。相手を裁くのは気持ちを吐き出すのとは違うのかも悪口を言っていたつもりはなかったし、実際相手をボロカスにこき下ろすという言葉ではありませんでした。しかし、相手を評価する、というか裁く言葉になっていたような気がします。仕事に必要な報告をその人が怠ったせいで、周囲に迷惑がかかった。こちらの提案が気に食わなかったからその人は話し合いを避けていた。その人のその態度が全ての問題の元凶だ! みたいなの。今でこそ一歩引いたところから書いてますけど、当時はとんでもなく怒ってましたからね。エクスクラメーションマークたっぷりな、相手への非難一色でした。確かに感情に疎い私はその時の気持ちを再確認するために、当時の出来事を書いてもう一度感情を戻らせるというやり方で自己分析をしていました。でも、この件に関しては戻らせるまでもなく怒っていたので、今の私がやっている感情のラベリングと強度の評価だけで事足りたと思います。でも、この時の私はどんな感情も一旦戻らせる必要がある、と思っていたので、起きたことを詳細に書いて一人で怒りを爆発させていたようです。一通り怒った後、いつものように分析をしているので、翌日には気持ちがだいぶ落ち着いていました。だけど、ストレス発散という視点から言えば、前半の気持ちの再確認は、ちゃんと怒ってることが分かってる時は要らない要素、というよりストレスを増幅させることにしかなっていなかったかもしれません。悪口でも愚痴でもなく、「自分がどう感じていたか」明確な切り分けがうまく言葉にできないのですが、悪口や愚痴ではストレス解消にはならない、というのは確かなようです。相手を悪く言いたいのも確かに自分の気持ちなんですが、例えば「私はあの人が自分勝手な人だと思っている」というのと「あの人は自分勝手だ」というのとでは、報告と実況中継くらいの差があるのかも。報告する相手は自分の心、というか脳なので、実況中継だと現在進行形で怒ってるんだと脳が勘違いするのかもしれないですね。あぁ、でも悪口や愚痴をジャーナリングに書いちゃいけない、というわけではないと思います。書いたらストレスが発散する、と思って書くのは違う、というだけで。これを書いたらいい、あれは書いたら駄目と考えてしまうと、どの気持ちを書くかを自分で選んでしまうことになります。ジャーナリングって、他人に読ませないことを前提に書いてるものですから、本当に何書いたっていいんです。怒って腐って嫌になってる脳みそが書きたいままを文字として連ねてもいいと思います。ただ、その後で「自分が怒っていたのはどうして?」も言葉にしておくのがコツじゃないかな、と思います。怒った、ということは、自分にとって大事なことを無視された、踏みにじられた、ということですから、そこを言葉にできたら次に似たようなことが起きた時に対処しやすくなるんじゃないでしょうか。実際、今までの人生で起こった嫌なことを分析して分析して、私はようやく自分がどんな状況になると激怒するのかのパターンを把握できてきたと思います。今回ストレスが爆発する前に原因を把握できたのも、これまでの分析から「あ、このパターンだ」を見つけ出せたからだと思いますし。まとめ。どんなことがストレスになるのかを完全に把握するのは、感情をちゃんと把握できる人でも難しいのかもしれません。ましてやそこからパターンを見つけ出すのは、意識的な努力が必要なんでしょう。だからこそ、お酒を飲みながら愚痴をこぼす、というようなことも多いんでしょうし、怒りや悲しみによる芸術が生み出され続けるんでしょうね。でも、ストレスは普通に辛いですし、対処法を知っておけば少しは気が楽になります。私ももう少し自分のストレスをちゃんと把握して、崩れる前に対処できるようになりたいものです。
2026.09.27
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感謝日記を書くようになってまだ2週間は経っていないのですが、自分に対して厳しくない態度を取れるようになってきたな、と思うようになっています。なんというか、自分へのご褒美的な買い物をすることに抵抗が少なくなったような気がするんですよね。そんな程度の効果しかないの? と思われるかもしれませんが、以前は「これが終わったら欲しいアレを買おう」と思っても、終わると「まぁ、買うまでもないか」と諦めちゃう、という謎の行動を繰り返していたんです。自分との約束を軽く扱う、自分を大切にしない癖がどうしても抜けなかったんですよ。自分にも良いことは起きてる、誰かに大切にしてもらってる、という認識が頑固な思考パターンを少しずつ変えてくれているのかもしれません。自分を雑に扱う心理とは?別に私はマゾヒストとかじゃありません。これは本当に。ただ、周囲の人から雑に扱われるのが当然みたいな認識は持っていました。そんなの抗議すればいいじゃない、と客観的には思えるんですが、自分がそういう扱いをされるのが当たり前だと思ってるからか、大事にされるとものすごい違和感があったんですよね。そして、自分を大切にされるべき存在だと主張することが、自己中心的な行動にしか思えなかったんです。自己中心的なことをすれば周囲から嫌われて、ろくでもない扱いをされる。だから自分からろくでもない扱いを自分に課して、周囲から嫌われないようにする。そんな感じの自己防衛だったのかもしれませんね。でも、こんなの周囲からどういう扱いをされるかに関わらず、不幸な人生しか送れないです。それでも他人から傷つけられるよりは自分が納得して自分をいじめている方が楽だったんですよ。感謝日記がもたらしたもの仕事が無事に終われた、とか、車を洗車できた、みたいな自分がやったこととか、仕事の出来を褒めてもらったみたいな人から受けたこと、食べたおにぎりが美味しかったみたいな出来事⋯⋯。感謝の言葉にすることもしないことも、自分にとって良いと思えたことを書くようにしています。1日3つ書くようにしてますが、4つ書けた日もあります。正直感情が動いていたか、と聞かれたらそうでもないように感じる出来事もありましたけど、そんな体たらくでも効果はあったみたいです。そして、こういうことを記録するようになって、自分に対して投げられた雑な言葉を受け入れない、という選択ができるようになった気がします。かと言って「もっと私を大切にしろよ!」とか変な自己主張みたいな衝動もありません。私は私を大事にするけど、あなたはあなたを大事にすれば? みたいな一見冷たいことを思えるようになったんです。⋯⋯冷たくなったんなら失敗では? と思われるかもしれませんが、相手の主張を無制限に受け入れることって、自分を無制限に否定することでもあるんですよ。だから、感情日記のみを書いていた時よりも明確に境界線を引けるようになったということだと思います。心理学を学んだことがないので、どういう作用でこういう思考に至ったのか、自分でも分析はできていません。ですが、感謝日記のおかげで以前よりも気が楽になったような気がします。感謝日記で変わった周囲への目線以前は「不幸じゃないなら幸せなんじゃないですか」みたいな投げやりな人生観を持っていたせいか、良いことが起きても別に幸せだと思ったことはないし、悪いことが起きても生きてリカバリができるんなら不幸でもないだろ、とか斜めに構えていました。でも、感謝日記を書くようになって、少なくとも日記を書く一日の終わり、10分足らずの時間ではありますが、自分にとって「何か良いことがあったかな」と考えるようになりました。これ、昔あったアニメの「良かったさがし」みたいなものかもしれない、とちょっと思いました。あまりきちんと見た記憶はないんですが、大変な状況に遭っても「その日の良かったこと」というのを探すゲームをする女の子の話、だったような気がします。ただその子は、幸せになるために遮二無二良かったと思えたことを探していた感じではなく、ゲームとして楽しんでいたら幸せになれた、という感じだったように思います。つまり、私が日記に書くために良いことを探して一日の生活を振り返ったみたいに、その子もゲームとして楽しむために良かったことを探していたんですね。決して人生の悪い部分を見ないようにするために、無理にポジティブになろうとしていたんじゃない、ということです。「ポジティブな見方をしよう!」とお勧めするものはたくさんありますが、見方を変えるって意外とエネルギーが必要です。自分の信念も感情も抑え込んで「今日も一日ハッピーです!!」と自分を説得し続けなくちゃいけないんですから。でも、日記に書くにしても、ゲームにするにしても、やってることは「良かったことに視線を向ける」だけです。あ、そこに良いことあったわ、くらいの感覚だったんです。良いことに視線を向けたって、問題は1ミリも解決しません。でも、解決しないことに視線を向け続けたって、大概問題は解決しないんです。だったら、そんな自分に今日一日で良いこととかあったか、という視点を持てば、人生案外捨てたもんじゃないな⋯⋯と思う材料くらいにはなるのかもしれません。もちろん、問題から目を背け続けるのは単なる現実逃避なので、それはそれで問題解決にはなりませんけどね。自分いじめの信念を打ち壊すエネルギーに私の場合、感情に疎くて無視しがちなので、ストレスに対して脆いという弱点があります。そして、根底に自分を雑に扱う防衛手段を講じるという、幸せとは真逆の信念があります。そういうのへの対処法として、感情日記、そして感謝日記はお勧めできるものなのかもしれません。感情日記には、「こんな感情持っちゃ駄目」的な否定する言葉は書きません。どんな罵詈雑言溢れる感情だったとしても、それを書き出すようにしています。感謝日記には、「これは感謝しないと駄目だよな」ということではなく、自分が良かったと思えたことだけを書くようにしています。決して、自分に言い聞かせたりしません。そうしないと、結局自己否定になってしまいますので。その代わり、これらのノートは門外不出の禁断のノートとなります。他人に生ログ読まれたら自己の消滅並びにその人の記憶の消滅を画策するでしょう(笑)。まとめ。最初は半信半疑だったこれらの日記ですが、日々黒歴史を生産し続けるという側面もありますが、メンタルにはいい影響があるようです。最近はわりとサラッと自分の好きなものを選べる時も増えてきたので、感情の感じ取れないという抑圧も少しずつ緩んできたのかもしれません。ほぼ自己流のセルフメンタルケアですが、私には効果があったと言っていいのではないかと思います。
2026.09.23
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私、このブログにアドバイスについて結構後ろ向きな意見しか書いてこなかったような気がします。でも、アドバイスする人が全て間違っている、とか迷惑な人だと思っているわけではありません。むしろ、すぐに対策法を見つけられるってことですから、実務的にとても有能だということなんだと思います。なのですが、それでもやっぱり、本音を語る相手として選ぶのは難しいなぁ、とも思ってしまいます。アドバイスができる人って凄い例えば、旅行の予定を組む時とかに、「このお土産屋がすごくいいよ!」とか「この辺りなら何某ってご飯がお勧めだよ!」という情報をパパッと見つけられる人って、凄いなと思います。私は旅行に行く時は、行くための費用とかの方に目が行ってしまって、お食事のこととか全く目に入らない方なんです。行きたいところと宿泊する場所、交通手段と持っていくべき荷物とかが決まったら、あとは現地で考えますってタイプ。私によくアドバイスをして密かにウザがられている人は、そういう楽しむための調べ物が全力でできるタイプのようです。私が旅行に行くと聞けば、あれこれとお勧め情報などを教えてくれます。こうやって考えると、たぶんこの人の見えている物と私の見えている物って、結構違うんだろうなぁと思いますね。その人はきっと、現実的な物をベースに物を考えるタイプで、誰かをお世話する、となると物理的にとかお役立ち情報とかそういう物が真っ先に思い浮かぶんでしょうね。対して私は、そういう物理的なところはフワフワしていますが、誰かの話をじっくり聞いたり、その人がどんな気持ちでいるのかが気になったりするんです。たぶん、強みを活かせる場所が違うってだけなんだと思うんですよね。旅行の計画の時にじっくり話聞くのだって間違いじゃないんでしょうけど、役に立つかって聞かれたら微妙でしょうからね。現実ベースが悪いってわけじゃないアドバイスをしてくるこの人が以前に言っていたんですが、「自分はズカズカ踏み込んで行っちゃう方だから、嫌われることがある」らしいんですね。すぐに「こうしたらいい!」が思い浮かぶから、それをスパーンとぶつけてしまうみたいです。でもそれが悪いってわけじゃないんです。ただ、ニーズが合ってないというだけなんです。たぶん、「ズカズカ踏み込む」と言われるような場面って、相手が現実ベースのアドバイスを求めていない場面なんですよ。ただ話を聞いてほしい、とか、共感してほしいとか。人によっては、後ろ向きすぎて何の問題解決にもなってない、としか思えないのかもしれません。きっとこの人もそうなんでしょう。「それは違うんじゃない?」とか「こうすればいいよ」という言葉が即座に出るから、聞いてほしいだけの人にはジャッジされているようにしか思えないんですね。うん、そういう人相手だったら嫌われるかもしれませんね⋯⋯。で、さらに悪いことに、その人は自分が相手に思いやりを持って接している、という自負があるんです。だから積極的に悩みの相談に応じる。そして良かれと思ってアドバイスをする。そういうすれ違いが起きているんだろうなぁ、とその人を見てて思いました。じゃあどうすればいい?相手の悩みを解決しよう、と思わなくていいのではないかな、と私は思います。もちろん私だって、メンタルが傷ついている人に「こういう方法があるよ」と言いたい瞬間があったりもします。でも、一番は相手が何を求めているか、なんですよね。話を聞いてほしい人が語りたいだけ語った後、「なんかいい方法ないかな」と言ってくるなら、アドバイスの出番です。でも、共感してほしい人に語るべきは共感の言葉なんだと思います。良かれと思ってアドバイスをしてウザがられる人は、相手の問題を早く解決しないとならない、と考えちゃっているのかもしれません。解決を急ぐあまり、相手が求めていないとしても「良い方法」を思いついたら、それを共有したくなってしまうんじゃないでしょうか。相手のことを大切に思うからこその言葉です。でも、相手が求めている言葉ではない、というギャップが生じてしまっているんです。この人、そのギャップに気づけたら、相手を怒らせることもないんじゃないかなぁ⋯⋯とアドバイスを聞きながらぼんやり思っていました。そういうアドバイスに遭遇したらでは、望んでいないアドバイスをいただいたらどうしたらいいでしょう?反発してもきっと理解はされないでしょう。なにせ土台は善意ですから。それが少々独り善がりになっていたとしても、悪意でない以上人間関係が拗れて余計なストレスを生むだけです。なので私は、境界線を引く必要がある、と考えました。私にアドバイスする人の考えの土台を変える権利がないのと同じように、相手にも私に何かを強要する権利はありません。ぜひとも知ってほしい、と思っていることはお互いにあるんでしょうけど、それを受け入れるかどうかは相手の選択です。なので私は、「今の私にはちょっと難しいかもしれない」と答えようと思います。別に間違いじゃないけど、それを受け入れる状況とか心境にない、ってだけですから、その人を否定しているわけではありません。もしそれでその人が「何あれ感じ悪い」と思うのなら、それは仕方ないかもしれません。でも、そう思われるのを嫌って受け入れたりしたら、ストレスで崩れるのは間違いなく私なのです。うまく行ったとしても、押し付けられたという違和感は残るんです。アドバイスの本質は「相手への否定」です。否定してかかったわけですから、否定が返ってきたとしても裏切りや薄情ではないと思うんです。そして、否定してきた人が全て悪意からそうしているわけではないことも、また真実です。受け入れられないのは相手ではなく、相手の言葉。そのことが伝わるように上手な言葉を選べばいいんです。まとめ。感謝日記を書くようになってから、無理矢理感謝できるポイントを日常に探すようになりました。自分を否定するようなアドバイスしか聞かされなかったな、と思う日にどう考えたらいいんだろう? と思ってこんなことをノートに書いてみました。アドバイスを全て受け入れる義理はない、でもアドバイスが悪意だと思う必要もない。そう思ったら、まぁ言ってくれたことはありがたいよね、と思えるようになりました。でもみんな、そうとっさに思えることが少ないから、件の人が「嫌われることがある」と思っちゃうことが起きるんでしょうね。やっぱり、アドバイスって難しいですよね~。
2026.09.22
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いい年して「誰かに褒めてもらいたい」「認められたい」「大事にされたい」なんて言っていたら、たぶん大多数の人に「大人になりな?」と言われてしまうんだろうな、と思います。それでも、それを言わないと苦しいという人の気持ちが分かる人も、それなりの数でいるんじゃないかなとも思うんです。私もそういう人間の一人ですから、頭の中のどっかが子どものままで、承認欲求のままに駄々をこねてるんだろうなと思います。「認めてもらいたい」は恥ずかしい感情?私もずいぶんと長い間、この承認欲求(でいいんだろうな、と思う感情)に蓋をしてきました。大切にされた、という記憶がないから、きっと親にも言えなかったんでしょうし、親も特にそういうのを与えるタイプでもなかったんでしょう。以前、「もうちょっと褒めてもらいたかった」と愚痴を言ったら、「前にやったことをいつまでも褒めてもらえるわけないでしょ」と突っ返されたことがありました。つまり、うちの親にとっては、何か成し遂げたら褒める、というものだったんでしょう。素のままの私は認めてもらえないってことです。運動も勉強も苦手な子どもでしたから、褒めてもらえる機会なんてほぼゼロ。うぅん、こりゃ確かに子どもっぽい承認欲求が満たされるわけない環境ですね。でも、恥ずかしい感情ではないと思うんですよ。突き詰めれば、認めてほしいを原動力に世の中のいろんなことが回ってるんですから。お金があれば認めてもらえる、だから仕事を頑張る。SNSでいいねをもらえば認めてもらえる。趣味にしても家族との関わりにしても友人関係にしても、認めてもらえなくっても構わない、と言い切れるのって、相当悟りを開いた境地か、認めてもらえなくて諦めてしまった末路なんじゃないかなと思います。でも、それを人にぶつけると、途端に恥ずかしい物になってしまう。それは、他人の反応をコントロールしたい、という子どもっぽい願いだからなのかもしれません。今「認めてもらいたかった」?子どもっぽくて、理解されるどころか気味悪がられてしまうからって、抑圧すると心が病んでしまいます。だから、自分を受け入れてくれそうな人に依存して受け入れてもらいたい⋯⋯という流れになると、相手の人まで病んでしまいます。じゃあどうしろと? と私は必死で考えました。私にも話を聞いてくれる心の友はいますが、大切な友達だからこそ重たい荷物を背負わせたくないし、そんな権利は私にないと思っています(これは卑下してるとかではなく、心の友の幸せを心から願うからです)。それに、認めてもらうことが私の望みの本質なのか、というところも疑問でした。確かに認めてもらいたかったのは事実なんですけど、今親が手放しで私を褒めて認めてくれたとして、私はそれを大喜びで受け取るんだろうか? と考えたんです。結果、「できれば放っておいてくれませんか」というのが私の気持ちでした。今でこそ親も時間の経過と共に人格面で成長して、褒め言葉が人にもたらす効能というのを理解しているかもしれません。私という子どもがメンタルを壊しかけて、自分たちの接し方が私にとって幸せなものではなかったことも理解しているかもしれません。でも、それらを謝罪して、かつての子どもだった私に「優しい両親」として接する姿を想像して、それがとっても重たくて居心地の悪いもののように感じたんです。まぁ、もういい年ですから。頭を撫でられて「すごく頑張ったんだね」「偉かったね」が響くほど、純粋無垢でもなくなってしまいましたねぇ⋯⋯。私が本当に欲しかったもの謝罪することが悪いとか、褒めるのが悪いって言うんじゃないんです。ただ、以前欲しかったものが今でもそのままの形で欲しいのか、と聞かれたら、私にはちょっと違和感があったんです。そもそも、起きてしまったことを今更蒸し返して、できの悪い演劇みたいに望む台詞を唱えてもらうことが回復につながるとも思えませんでした。だから私は、認めてもらえない私が感じていた感情に注目することにしたんです。例によって、感情を抑え込んで生きてきた私は、大体過去の感情を未消化のまま抱え込んでいたせいでメンタルを病んでいました。だから、今抱えているこの意味の分からない不調は、それまで蓋をしていた未消化の感情が原因なんじゃないかと考えました。まず、大前提として、「自分が承認欲求を拗らせていた」ということを理解しました。そして、それをそのまま与えられても、今の私が納得しないだろうということも理解しました。でも、承認欲求が満たされずに「悲しんで」「怒って」「同情してほしい」と思っていることに気づいたんです。たぶん、昔の私は自分が認められないことが悲しくて、怒ってて、誰かに可哀想だと思ってもらいたかったんでしょうね。そこを埋められないまま放置していたから、自分を認められないし、自分を認めようとしない人間を苦手だと思っていたんだと思います。ノートに書いて様子見ここまでつらつらと書いてきたことを、自分のノートに書いてみて、なんとなくモヤモヤが薄くなったような気がしました。別に誰かに泣いてもらったり、怒ってもらったり、可哀想だと言ってもらったわけではありません。でも、そういう感情を自分が持っていた、と認めることが感情の消化なんだと思います。溜め込んだり抑圧するんじゃなく、文字なり音なりにして吐き出してしまうのがいいんでしょうね。周囲の人から見て「それで何がどう変わるの」と言われてしまえばそれまでかもしれませんが、こちらから相手をどう見るかの視点は変わると思います。感情が満たされずに動けないままだったから、いつまでも受け入れてくれない人に怒りを感じるし、自分をこれからも受け入れそうにない人には狭量な態度を取りがちでしたから、そこが今後どう変わるかを観察していきたいと思います。まとめ。今回の「承認欲求」に対する考察は、私が私を受け入れるのに必要なものだったんじゃないかと思います。訳も分からず、受け入れてくれなきゃ嫌だ! と主張して行動を大きく制限している原因なんじゃないかと思うので、少しでも生きやすくなるんなら時間をかけた甲斐もあったというものです。自分でモヤモヤを少し解消させてみて思ったのは、やはり「このアドバイスは押し付けだ」と思った他人の言葉は、的外れな言葉だったんだなと思いました。言葉の内容自体は正しくても、どの文脈で話されたものかによって意味合いが変わりますからね。今の私には強すぎたか早すぎた言葉だったのかもしれません。押し付けに聞こえたアドバイスが、否定的に聞こえなくなっていたら、私の中の何かが少し改善されたということになるかも、と思います。
2026.09.20
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感情日記をつけている、ということを話したら「えw」という顔で笑われる、ということがありました。そりゃ、出来事の日記なら一般的だから理解しやすいでしょうけど、それが必要だからやっているのに笑うとは何事ぞ? とちょっとムッとしました。一応こういう事情で記録することでストレス対策をしている、と説明したのですが⋯⋯そもそも感情が分からないということが理解不能なようで、それの何がストレス対策になるのか、という感覚だったのかもしれないですね。理解してくれたら嬉しいけどどんな人でも理解してくれる、とは思っていません。その人の目から見れば、私はちゃんと感情が出ているんだそうです。そりゃそうでしょ、感情はあるんだから。問題は「私自身が自分の感情を把握していない」ということだって、何度言ったら分かるんですかね、この人。⋯⋯分からないから、出ているんだから分かるでしょwという反応になるんでしょうけど。私にだって感情はありますけど、それを誰かが「今怒ってるね」とか「悲しいんだね」と言ってくれるわけじゃないから、自分で「怒ってたかも」とか「悲しかったのかも」と言葉にしてるんです。そうした記録のおかげで今回メンタルが変に傾いていることも気づけたんです。だけど、もし記録していなかったら原因不明のまま怒り狂っていた可能性まであるんです。記録しといて良かった、と私は思っていたけど、その人には無駄な労力としか見えていないんですね。あまつさえアドバイスを理解されないのは慣れてますから、まぁいいんです。悲しいですけど。でも、私にとって必要だと思えるからやっているのに、無駄扱いして、私には難しいとしか思えないことを「できていないから、それを頑張ったら?」と言うのは、さすがに頭に来ました。私には難しいこと、というのは、誰かにプレゼントをすること。私だって誰かに喜んでもらうことが嫌だ、と言うつもりはありません。ですが、相手の人に最適のプレゼントを用意できるか、その人に拒否されたらどうしよう? という不安が先に立って、何かをプレゼントするってのが難しいんです。(この人、何が欲しいんだろう? 負担になるから残る物より消耗品とか食べ物の方がいいかな? あぁでも今この人それが欲しいと思ってるかな? 要らないって言われたらどうしよう? そもそも気に入ってもらえない可能性まであるんだよな)こんな思考がグルグルしているから、プレゼントって実はものすごーく疲れるんです。簡単に言ってくれるなって話なんです。確かに、誰かに何か与えることが幸せにつながる、というのは心理学的にも正しいそうです。でも、こんな心理状態の人は、それに対するハードルがとんでもなく高いんじゃないでしょうか。今の私に必要なのは確かに頑張ってプレゼントを準備して、喜ばれるなら私のメンタルにもプラスになるかもしれません。でも、誰かにプレゼントしなければならない、という頭で与えるのはプレゼントじゃなく犠牲なんです。そんなの「嫌々あげてる」のと変わらないんです。だから、私が用意したプレゼントを喜んでくれる、という絶対の安心か、拒絶されてもメゲないメンタルのどちらかが必要なんじゃないかな、と思います。だから、私はそのアドバイスを受け入れるつもりはありません。少なくとも今は。その代わり、プレゼントをあげても大丈夫なメンタルを育てることにしました。私には相手の反応を操作することはできないし、100%喜んでもらえるプレゼントを用意できるほどのセンスも自信もありませんから。具体的には⋯⋯何をしたらいいのかは、これから考えます。まとめ。正しいアドバイスも、全部受け入れる必要はないのかな、と思います。できるかも、と思うならチャレンジしてもいいと思うけど、それで自分の精神を削っちゃうのなら、それはまだ難易度が高すぎるんでしょう。それにしても、プレゼントねぇ⋯⋯私は用意しようとした心を嬉しいと思う方だけど、知っている人の中には「要らない」と面と向かって言える面の皮が3センチくらいの人がいたりするので、世界はそんなに冷淡じゃないよ、という幻想は所詮幻想にしか思えないんですよね。私の気持ちを理解しようとしてくれる人がいるってのは、幸せな人生なんだと思いますけど、ナイフみたいにとんがった人もいるので、プラスマイナスゼロって奴なんですかね?
2026.09.18
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感謝日記を無理矢理書いて4日目となります。感謝、という感情を持つのは相変わらず難しいですが、感謝したらいいシチュエーションは分かるので、あんまり悩まず書けているような気がします。内面で感謝を感じているんなら、これ幸い。感謝という感情について、ちょっと考えたことを書いてみようと思います。感謝って、自分の心持ち次第かもあったりまえじゃないですか、とツッコミを入れられそうですけど、私にしては快挙な気付きでした。私、これまでの人生で、あんまり自分の感情を重要視していなかったんですよね。何かを選択する時に、相手の気持ちとかその場の空気とか常識とか、そういう物を重要視していたんです。なので、選択した行動に対する追い風や、誰かの支援に対して、自分への追い風や試練だ、と感じることはほぼなかったんです。だって、自分がやりたいかどうかなんて、ほとんど考えてませんでしたから。やりたいか、というよりも、やるべきなのか、とか、やった方がいいのか、という観点で物事を判断していたので、やった結果がうまくいったところで「良かったですねー」で終わってたんです。もちろん、私が本当に必要なことに関して物事がうまくいったら、「本当に嬉しい、ありがとう!」と思う感情はありました。でも、私が「本当に必要なこと」なんて、「死にかけた」とか「これがないと死ぬ」とか、そういう相当切羽詰まった状況でないと思うことなかったんですよ。だからこそ、感謝の感情って、自分の感情に根ざしたところにしか生まれないんだなぁ、と思った次第です。どうしたら感謝を感じられるか?自分が本当にやりたい、と思ったところに吹く追い風や支援に感謝ができるんなら、行動に自分の感情が乗らないと駄目ってことですよね。ということは、自分がどんなことを望んでいて、どんなことを望んでいないのかを理解していないといけない気がします。いえ、他人のためとか場の空気のためとか正しいことのための行動が悪い、と言っているんではありません。でもそれが自分の感情の乗らない行動、つまり自分を殺して選んだ行動だと、感謝を感じにくいんじゃないかなと思うんです。例えば、誰かのためのご飯を作ってあげた方がいい、と考えて行動するとします。そのための材料購入に「このお金、使ってください」と誰かが支援してくれたら、ありがたいと思うんです。でも、それはご飯を作ってあげる先の「誰か」のためだと考えれば、私が感謝する感情は生じにくいかもしれません。だからこういう場合、私へのお手伝いとして支援してくれた、と考えた方がいいんですね。⋯⋯普通はそう考えます? 私はこれまでそうじゃなかったんですよ。だって望んで誰かのためのご飯を作ろうとしてたわけじゃないですからね。徹頭徹尾、他人軸で行動していたから、どんな親切も私を通して他人のために示されたもの、という考え方だったんですよ。自分のしていることを無視されるのが嫌いなくせに、自分が自分を無視してたんですねー。自分を無視するから感情を感じられなくなるなんで自分を無視するんだ? と思われる人もいるかもしれませんが、私の人生、概ね他人に感情を無視されてきたんですよ。親ですら私の感情にほとんど注意を払いませんでしたし、私もそういうのがこの世界の常識だと思ってたとこがあるので、感情を無視して行動するのもわりと慣れてました。でも、そういう長年の思考パターンが、失感情症(アレキシサイミア)を抱える原因だったんじゃないかなと思います。もちろん、元々の私の傾向というか特性みたいなものもあったとは思います。だって、うちの家族の私以外の子ども、みんなちゃんと人を愛したり自分の人生を選んだりできてるんですよ。私だけなんです、それができないの。どうせ、と言ってはいけないのかもしれませんが、私の感情に寄り添えるのが私だけなんだとしたら、私ぐらいは私を無視しないで行動したいものです。まとめ。感情が分からない、というのを「厨二病」みたいに思う人もいるかもしれませんが、精神疾患の原因にもなる、極めて危険な状態だと私は思います。一度見えなくなると、見えるようになるまでずーっと精神の綱渡りをしているようなもんです。ちょっとしたモヤモヤならあっさり無視できる程度の違和感しかないので、気がついた時にはストレスで生活が崩れるなんて、ざらです。そして、愛情や感謝といったプラスになる感情が分からないので、他人からのそういった温かいものを受け取りにくくなります。私、心の友からの友情を「友情」という実感じゃなく、頭での理解でしか分かってないんですからね。心底申し訳ないですわ。それでも、養育者が子どもの心をないがしろにするなんて、残念ながらこの世界では珍しい例ではありません。だから、自分の中に感情が感じられない、という人は、自分自身を理解して自分だけは感情を無視しないであげてほしいと願っています。養育者や周囲が薄情でも、自分が不幸にならなきゃならない義務はないんです。そのためにも、ジャーナリングなりカウンセリングなりなんなりで、自分の中に感情を感じてほしいなと思います。
2026.09.14
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最近、朝起きるのが少し辛くなってきました。なかなか動けないので、気合いでなんとか動き出しています。前にメンタルが最悪な状態だった時も、同じように朝が辛かったので、なんか嫌な予感がしています。で、心の友に話を聞いてもらったのですが、心の友から「感謝日記」を勧められました。感謝日記とは?感謝日記とは、その日あった「ありがたいな~」という出来事を記録していく、というセルフメンタルケアの方法の1つだそうです。しかし、感情迷子に感謝とな??そう、私、自分の感情に滅法疎く、一番酷いときなど自分のストレスにも全く気づかないくらいには、感情を認識することができないんです。そんな人間が「感謝」を記録?いえ、確かに誰かに何かしてもらったら、お礼を言うのはマナーよな、と私も思います。なので、お店で店員さんにお会計してもらったら、ちゃんとお礼言います。感謝します。でも、心の中で何かが動いたという感覚はゼロです。なので、感謝を感じたら記録する、ということが根本的にできないんですよね~。感情日記をつけ始めた時は思えば、感情日記を始めた時にも、同じこと思ったんですよね。感情が分からないから困ってるのに、それを記録しろって⋯⋯食べてないご飯のカロリーを記録しろって言われてるくらいには意味が分からなかったです。でも、味が分かる物体を口に入れていることは分かる。つまり、こういう状況だったらこう思うだろうな、というのは頭では分かります。なので私は、今日の出来事とその時に感じたであろうことを無理矢理記録するという、少々強引な方法で日記をつけるようになりました。感情のラベリングが間違っていたって構うもんか、見るのは私だけだし、状況から推測してるんだから、悲しいを喜びに誤解するとかはないはず! と自分の常識を信じることにしたんです。で、最近では用意している感情の名前表を見なくても、こう感じたんだろうな、というのを自然に記録できるようになりました(若干理屈っぽいこと感じてるな、とは思いますけど)。なので、感謝にも同じ理屈が通るのではないか⋯⋯と思います。感謝ってどんな感情?辞書を引くまでもなく、何かをありがたがるポジティブな感情だというのは感情迷子の私にも分かります。でも、残念ながら今の私にはポジティブな感情は少々感じるのが難しい分野です。嬉しいとか楽しいとかなら何となく分かるんですが⋯⋯。感謝するべきタイミングは理解しているのに、感謝を感じられないのはどうしてなんだろう? と考えてみたところ、私は誰かに何かしてもらったり、思わぬ幸運が舞い込んだりすると、ありがたいと思う前に「私なんぞがそれを受け取るわけには!」と考えてパニックに陥っているようなんです。パニックになって色々ぐるぐる考え込むから、感謝の感情が消え去ってしまうんじゃないかと思います。自己肯定感や自尊感情を持つために、感謝日記を勧められたのに、自己肯定感や自尊感情がないためにパニックで感謝を感じられない。ある意味当然なんですが、絶望的な迷路にはまり込んでいる気がします。それでも強引に記録する感謝日記の本質は感情を感じ取ることではなく、自分にもそういう感謝できる出来事が舞い込んでいるんだ、と認識することなんじゃないでしょうか。感謝を記録するために、自分にどんな出来事が起きているかを意識して見るようになる。↓あ、これは感謝として記録できるな、という思考で、拒否する思考を抑えられる。↓しかもそれを「感謝」と名付けて記録している。↓死にかけてた感情のセンサーが仕事し始める。という大雑把な過程を想像して、自分を無理矢理納得させました。そんなわけで、強引に記録する感謝日記、2週間くらい続けてみようかなと思います。まとめ。別に劇的なのとか、壮大なのを感謝として記録しなくてもいいそうなので、しばらくオフラインの私の日記には、「今日も元気で飯が旨い」的なしょうもない感謝の記録が並びそうです。でも、それで自己肯定感、自尊感情が持てるようになれば、そして幸福感を感じられるようになれば、うつ病の初期症状っぽい今の状況を打破できるかもしれません。あくまで病院行かない予定なので、ぶっ壊れても「うつ病」にだけはならないんですが(本質うつ病でも、診断は下りませんからね)。あ、感情日記は今までどおり続けるつもりですよ~。
2026.09.12
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幸せになりたい、というのは大体の人の願いだと思います。でも、なぜか自分が悲しくなる方を選んだり、そもそも幸せになれる環境を拒否したり、という謎の行動を取ってしまうことがあります。そうすることで、なんか安心するんですよ。その先で後悔することになったとしても。今回はそんな切ない心理について考えてみました。幸せになる資格なんてない!別に誰から言われたわけじゃないけれど、なぜだか自分には幸せになる資格がない、と思うことがあります。と言っても普段から自分にそう言い聞かせてるわけではなく、普通に幸せになりたいという願いは持ってたりするんです。でも、いざ幸せになれそうなチャンスが来ると、それを選ぶことに罪悪感というか違和感というか、選ぶのがとってもストレスになってしまう。目の前の嫌な気分を回避したくて、自分が望まない選択肢を選ぶと、とりあえず楽にはなるんです。でも、後から絶対に後悔して、悲しくなってそれがまたストレスになるんです。幸せを望んであげられない理由自慢じゃないですが、私は幼い頃から「手のかからない子」と言われていました。育てやすいってことですし、親としてはほめ言葉のつもりだったかもしれません。でも、手をかけなくていい、ということは大概ほっとかれるんですよ。別にそれで問題が起きないから。うちは年子でして、下に手のかかる子どもがいたので、私にかけなくていい手は全部そっちに持ってかれていたんじゃないかと思います。⋯⋯まぁ、そんなのを当たり前に経験していたら、子どもの立場としては思うわけです。自分はあんまり愛されてないんだなぁ、と。愛されてないわけじゃないと思うんですよ。でも、2番目の子どもと比べたら愛情の差はあります。そして基本、子どもの気持ちにはわりと無頓着なタイプの親でしたから、一般的にかけられる愛情よりは薄い傾向があるわけです。元々うっすい愛情が、不平等に注がれてたわけで、そういう環境だから私は自分の感情に蓋をして生きていたんじゃないかな、と思うんです。で、どうせ目の前で掻っ攫われて悲しくなるくらいなら、愛情というか幸せなんて手放してしまえば楽だな、と無意識に学習してしまってたんじゃないかな、と。衣食住を与えるだけが親の役目じゃない子どもの個性は千差万別、自己主張できるタイプとできないタイプなら、できるタイプの方が希望を叶えてもらえます。それが年下なら尚更ですよね。私も衣食住は(時折足りてないわってときもありましたが)与えられていました。でも、下の子が強く希望して私から奪い取るようなことがあっても、基本的に我慢するのは私でした。なんか変だ、と思わなくもなかったんですが、言ったところで親が困ったり、そもそも聞いてくれなかったりするのを見てれば、強く言わなくもなります。小学校も高学年くらいになったら、だいぶ感情の蓋はガッチリ固まっていました。何も言われないのは親としては楽だったかもしれません。でも、こんな子育ては理想的とは言えないでしょう。理想なんて所詮幻想だとしても、こんな扱いされて嬉しい人なんていないですよね。そういう意味では、私は親を今でも恨んでいるのかもしれません。まとめ。感情が分からないうちは、こんな扱いでも特に何も思わないでいられました。でも、こういう無茶な心の動きってある程度の年齢になると、崩れてくるようです。私も何年か前から謎に不機嫌な人間だったんですよね。人間、年を取ると丸くなるって言うけど、とんがってくることもあるのかなぁ、なんて思っていましたけど、こういう育ち方が影響していたんじゃないかなと思います。考えると腹が立ちますが、本当は寂しくて悲しかったんでしょうかね。もう、どう転がっても手遅れですけどね~。
2026.09.09
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アドバイスってどう思いますか?仕事の出来とかに「これ、もっとこうした方がいいんじゃない?」と言ったりした経験は誰しもあるとは思います。でも、アドバイスってするのもされるのも結構大変だな、と私は思うんですよね~。アドバイスって否定すること誰かにアドバイスすることよりも、されることの方が圧倒的に多い私ですが、基本的にアドバイスってあんまり好きじゃありません。もちろん、「これどう思います?」と聞いた時に言ってもらえるアドバイスはありがたいと思うんですが、大概の場合別に求めていないのにされることが多いような気がします。私の友人に、なんだかんだでアドバイスしたがる人がいるんです。その人はよく気がつくタイプで、世話焼きタイプな人だと私は思っているんですが、その世話焼きがお節介に見えてしまうことがあるんです。本人的にはやってることは普段と一緒だし、良かれと思ってやってるんですから批判される謂れはないと思うかもしれないんですけど。でも、アドバイスって相手の考えや行動を否定して、別の提案をすることですから。求めてないのにホイホイとアドバイスしてしまうと、「なんで否定されにゃならんのですか」と反発食らうことになると思うんです。アドバイスに悪気はないけど良かれと思ってやってるんでしょうし、実際悪気はないと私も理解しています。でも、面白くはない。なんならメンタルが崩れてる時にやられると、さらにへし折れます。てきめんです。私は根っからの病院嫌いで、メンタル不調の時にも病院に行ってないので、特に診断はついていないんですが、感情が分からないタイプの人って結構うつ病とかになりやすいらしいので、うっかり否定とか激励とかするとまずい場合も結構あります。私も自分がうつ病だとは思ってませんが、「この人、心が弱ってる人にこの対応してたら、本気で心へし折っちゃうとかやりそうだな~」と考えたりします。アドバイス、悪気はなくても悪影響になることはあるんですよね。悪く取らなきゃいいじゃん、と言われてしまいそうですけど、正論が聞けたら誰もメンタルに不調なんて抱えてないと思うんですよ。だから、私はアドバイスは本当に放置してちゃ駄目だこれ、と思った時以外しないようにしています。良いアドバイスは苦い薬良薬口に苦し、と昔の人はうまいこと言ったものです。実際、へつらった言葉よりも良いアドバイスの方がその人のためにはなりますが、耳に激痛が走ります。そして薬ですから、相手の状態を見ながら処方しないと、副作用でとんでもないことになることもあります。現に私、件の友人のアドバイスで2日ほどメンタル落ちてましたからね~。余計なお世話です、とは言いませんでしたけど、「今の私にそれを受け入れる素地がありません」とは言ってきました。それが言えても落ち込むんですよ、ほんとに辛い時って。アドバイスしたい人の気持ちたぶんですけど、アドバイスしたい人って、相手の状況をなんとかしたいって思ってるんです。本人はきっと、「相手のために~」と思ってるんです。でも、「なんとかしたい」の動機はきっと、「自分がそれを嫌だと思ってるから」、つまり自分の気持ちを安心させたいからなんですよね。相手のことが大事だと思うから、早く元気になってほしい→いろいろバンバンアドバイスするよ~ってなるんです。でも、それが本当に相手のためになってるかという視点を持てないと、アドバイスでとどめを刺すことになるんですね。繰り返しますが、悪気はないんですよ。悪意あったらアドバイスなんてしないで放置一択ですもん。でも、アドバイスの本質が「相手への否定」ですから、タイミングと方法を間違えたら、「今私はこの人に否定された」という感情しか残らないし、それでますます病んでしまうかもしれません。だから、アドバイスって難しいと私は思うんです。まとめ。大事な人だと思うから、アドバイスはしたい。でも、大事な人のメンタルをぶっ壊すのは避けたい。こう思えている人なら、アドバイスをストレートにぶっつけることを躊躇するんじゃないかなと思います。そういう視点が持てない人は、いつか大きくやらかす可能性があるかもしれません。もちろん、受け取る側にも謙虚さとかが必要です。ですが、メンタルが弱ってる時って誰よりも本人が自分を否定しているんですよ。そこにアドバイスや激励でとどめを刺すのは、やっぱりタイミングを間違えてるよな~と思います。
2026.09.07
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感情を記録するようになって2ヶ月ほど経過しました。その日の出来事と、どんな気分になったかを数行だけ記録するという形ですが、最近あまり考えなくても気分を書けるようになってきました。記録するようになってから長期間メンタルが崩れることはなくなりました。それだけじゃなく、なんとなく傾向も見えてきたので、ちょっと書いていこうと思います。あんまり強い感情は出てこない自分がどんな感情を抱えているかを考えるために、ノートの表紙の裏のところに「基本の8感情」というメモを貼り付けています。基本の8感情というのは、「嬉しい系」「怒り系」「悲しい系」「不安・恐怖系」「恥・罪悪感系」「疲労・無力感系」「興味系」「嫌悪感系」の8つの感情の系列と、それぞれがどんな感情なのか例を上げているというものです。最初の頃は、物事に対する感想みたいなのしか書けなかったんですが、1ヶ月くらい経った頃には疲れているとか不安だとかを記録して、それに強さ(1から10までのレベル)を書けるくらいにはなりました。複雑な感情はまだちょっと難しいんですが、それでもノートに長々と書き込まなくても感情を見分けられるようになったのは進歩ですよね。ただ、書き込んできた感情を見返してみると、強めの感情があまりないことに気が付きました。感情の強度も最高で7、ちょっと気分が動いた時でも3とか4をうろついてる感じです。ストレスがないと、感情があまり上下していない感じがします。感情を抑圧しているのかも?友達から連絡をもらって嬉しいはずの時ですら、あんまり感情が動いていないということは、何かしら無意識の領域で感情を抑圧してしまっているのかもしれない、と思うようになりました。なんですが、私、ちゃんと怒れるんですよねぇ、本当にムカついた時は。「まぁいいか」で収めちゃならないと思った時は、見知らぬ人相手とか年上相手でも結構キレられるんです。全く自慢にはなりませんが。じゃあ、私はどんな感情を抑圧しているんだろう、と考えてみました。考えた結果、悲しい時にできるだけ平静を装うことが多いんじゃないか、という結論に達しました。親から否定されたとか、自分の信念を踏みにじられたとか、疎外感を覚えたりすると悲しくなるみたいなんですが、それをどうしても表に出せない。その結果、怒りとか嫉妬っぽい形になって他人に当たり散らすパターンが結構あるんです。以前は楽しいとか嬉しいもあまり外に出せなかったんですが、最近はなるべく人に分かるように意識して出しています。それができるんだから悲しいも外に出せるはずなんですが、悲しいだけはどうしても出せない。これまで「私泣くの下手だから~」と言い訳していたんですが、別に泣かなくても悲しみは表現できるものだと思います。でも、言葉にして人に言うこともできないってことは、悲しいという感情が変に抑圧されているのかなと思います。感情表現はわがままなのか?この傾向に気づいてから、自分の人生をざっくり振り返ってみたんですが、明らかに傷ついたなと思っている記憶に付随する感情が、ほとんど悲しいなんですよね。しかも、悲しいと表現しても結構素気なく却下、否定を食らってます。もしかしたら、記憶にない局面でも悲しいと思った感情を否定されまくって、悲しいという感情をわがままだと思っているのかもしれませんね。でも、それを解除するために、また誰かにお気持ち表明するとか勘弁してほしいので、なるべく自分のできる範囲で解除したいんですけどね。今のところ、AIに相談しても「病院行けば?」って言われるだけなので、もしかしたら自力救済は難易度高すぎるのかもしれませんねぇ⋯⋯。
2026.09.04
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