タヌキのジャーナリング帳

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2026.09.20
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カテゴリ: ジャーナリング

それでも、それを言わないと苦しいという人の気持ちが分かる人も、それなりの数でいるんじゃないかなとも思うんです。
私もそういう人間の一人ですから、頭の中のどっかが子どものままで、承認欲求のままに駄々をこねてるんだろうなと思います。
​

「認めてもらいたい」は恥ずかしい感情?

​
私もずいぶんと長い間、この承認欲求(でいいんだろうな、と思う感情)に蓋をしてきました。
大切にされた、という記憶がないから、きっと親にも言えなかったんでしょうし、親も特にそういうのを与えるタイプでもなかったんでしょう。
以前、「もうちょっと褒めてもらいたかった」と愚痴を言ったら、「前にやったことをいつまでも褒めてもらえるわけないでしょ」と突っ返されたことがありました。
つまり、うちの親にとっては、何か成し遂げたら褒める、というものだったんでしょう。素のままの私は認めてもらえないってことです。

でも、恥ずかしい感情ではないと思うんですよ。
突き詰めれば、認めてほしいを原動力に世の中のいろんなことが回ってるんですから。
お金があれば認めてもらえる、だから仕事を頑張る。SNSでいいねをもらえば認めてもらえる。趣味にしても家族との関わりにしても友人関係にしても、認めてもらえなくっても構わない、と言い切れるのって、相当悟りを開いた境地か、認めてもらえなくて諦めてしまった末路なんじゃないかなと思います。
でも、それを人にぶつけると、途端に恥ずかしい物になってしまう。
それは、他人の反応をコントロールしたい、という子どもっぽい願いだからなのかもしれません。
​

今「認めてもらいたかった」?

​
子どもっぽくて、理解されるどころか気味悪がられてしまうからって、抑圧すると心が病んでしまいます。だから、自分を受け入れてくれそうな人に依存して受け入れてもらいたい⋯⋯という流れになると、相手の人まで病んでしまいます。
じゃあどうしろと? と私は必死で考えました。私にも話を聞いてくれる心の友はいますが、大切な友達だからこそ重たい荷物を背負わせたくないし、そんな権利は私にないと思っています(これは卑下してるとかではなく、心の友の幸せを心から願うからです)。
それに、認めてもらうことが私の望みの本質なのか、というところも疑問でした。
確かに認めてもらいたかったのは事実なんですけど、今親が手放しで私を褒めて認めてくれたとして、私はそれを大喜びで受け取るんだろうか? と考えたんです。

今でこそ親も時間の経過と共に人格面で成長して、褒め言葉が人にもたらす効能というのを理解しているかもしれません。私という子どもがメンタルを壊しかけて、自分たちの接し方が私にとって幸せなものではなかったことも理解しているかもしれません。
でも、それらを謝罪して、かつての子どもだった私に「優しい両親」として接する姿を想像して、それがとっても重たくて居心地の悪いもののように感じたんです。
まぁ、もういい年ですから。頭を撫でられて「すごく頑張ったんだね」「偉かったね」が響くほど、純粋無垢でもなくなってしまいましたねぇ⋯⋯。
​

私が本当に欲しかったもの

​

ただ、以前欲しかったものが今でもそのままの形で欲しいのか、と聞かれたら、私にはちょっと違和感があったんです。
そもそも、起きてしまったことを今更蒸し返して、できの悪い演劇みたいに望む台詞を唱えてもらうことが回復につながるとも思えませんでした。だから私は、認めてもらえない私が感じていた感情に注目することにしたんです。
例によって、感情を抑え込んで生きてきた私は、大体過去の感情を未消化のまま抱え込んでいたせいでメンタルを病んでいました。だから、今抱えているこの意味の分からない不調は、それまで蓋をしていた未消化の感情が原因なんじゃないかと考えました。
まず、大前提として、「自分が承認欲求を拗らせていた」ということを理解しました。
そして、それをそのまま与えられても、今の私が納得しないだろうということも理解しました。
でも、承認欲求が満たされずに「悲しんで」「怒って」「同情してほしい」と思っていることに気づいたんです。
たぶん、昔の私は自分が認められないことが悲しくて、怒ってて、誰かに可哀想だと思ってもらいたかったんでしょうね。そこを埋められないまま放置していたから、自分を認められないし、自分を認めようとしない人間を苦手だと思っていたんだと思います。
​

ノートに書いて様子見

​
ここまでつらつらと書いてきたことを、自分のノートに書いてみて、なんとなくモヤモヤが薄くなったような気がしました。
別に誰かに泣いてもらったり、怒ってもらったり、可哀想だと言ってもらったわけではありません。
でも、そういう感情を自分が持っていた、と認めることが感情の消化なんだと思います。溜め込んだり抑圧するんじゃなく、文字なり音なりにして吐き出してしまうのがいいんでしょうね。
周囲の人から見て「それで何がどう変わるの」と言われてしまえばそれまでかもしれませんが、こちらから相手をどう見るかの視点は変わると思います。
感情が満たされずに動けないままだったから、いつまでも受け入れてくれない人に怒りを感じるし、自分をこれからも受け入れそうにない人には狭量な態度を取りがちでしたから、そこが今後どう変わるかを観察していきたいと思います。
​

まとめ。

​
今回の「承認欲求」に対する考察は、私が私を受け入れるのに必要なものだったんじゃないかと思います。
訳も分からず、受け入れてくれなきゃ嫌だ! と主張して行動を大きく制限している原因なんじゃないかと思うので、少しでも生きやすくなるんなら時間をかけた甲斐もあったというものです。
自分でモヤモヤを少し解消させてみて思ったのは、やはり「このアドバイスは押し付けだ」と思った他人の言葉は、的外れな言葉だったんだなと思いました。
言葉の内容自体は正しくても、どの文脈で話されたものかによって意味合いが変わりますからね。今の私には強すぎたか早すぎた言葉だったのかもしれません。
押し付けに聞こえたアドバイスが、否定的に聞こえなくなっていたら、私の中の何かが少し改善されたということになるかも、と思います。





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最終更新日  2026.09.20 22:51:14 コメントを書く


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