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昨日の太田総理の番組で世界中の軍隊をなくす話をしてました。そしたら、ムロン?批判の嵐・・曰く「北朝鮮が喜ぶだけ」そして硫黄島より生還した方の言葉。国を守るため、家族や郷土を守るため、「軍隊は必要」と。。何から守るんですか?「敵から」敵とは何か?北朝鮮ですか?では北朝鮮で、独裁の下に虐げられている方々は「敵」ですか?明確に「ノー」だと思います。敵とは一部の為政者ではないでしょうか?ところが、戦争では為政者は出てきません。出てくるのは我々と同じく、「為政者に文句の言えない人たち」ばかりではないでしょうか?本来、敵ではない方々と何故殺しあわなくてはならないのか?為政者同士が自分たちだけでバンバンやりあうのなら反対はしません。そのかわり、一般庶民に迷惑のかからないようにしていただきたい。。戦争に駆り出される人たちは、どこの国の兵士も同じような立場、恋人や両親や周りの人たちのために戦っているつもりかもしれない、でも、それっておかしいでしょう?変だと思いませんか?国と国との争いなんて、どちらかが正しいなんてのはないのです。どちらも自国のことしか考えていないのです。もっと言えば、「自国の儲け」のことしか考えていないのです。今では、あらゆる問題は地球規模に起こっており、地球規模で共同して立ち向かっていかないと解決が困難な状況に来ていると思います。自国のことだけしか考えないことは既に間違いの段階に来ていると思います。各国の人民同士は敵ではない、戦争で国同士が争っている場合じゃない、と思いませんか?年の終わりに、地球の将来を案じています。来る年が良い一年でありますように。皆様、良いお年を!!
2006年12月30日
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オウム真理教の中で上祐派というのがあるそうで、それが来年の前半にでも独立する予定のようです。来年の前半までに新しい教義を作るというのですが・・・それでは今は教義はない? では彼らは今「何を信じて」いるのでしょうか?オ○○真理教では麻原某の教えを正しいとしているのだと思われます。それが正しくないなら、ただやめればいいだけのことであって、別の教義をわざわざ作り出す必要はないように思うのですが・・・何のために?今信じているものに既に形があるのに、文章化できていない段階なのか?文章になっていなくても宗教心には関係ないのか?宗教とはそもそも、形が既にあるもの、という観念が間違っているのか?そうでないと新興宗教というものが出てくる余地がない、ですが・・(出てこなくても誰も困らないような?)ただ、何かを信じたいというだけなら別に宗教でなくてもいいような気もするのです。でも、とにかく、”何が何でも宗教”でなくてはいけないという人たちがいるのかな?そうであるなら、”それは何故なのか?”とても不思議です。
2006年12月30日
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今日もラジオ夕刊です。内橋克人さんの言葉、なるほど、と思いました。その言葉には続きがあって、内容的には、「待遇の差は労働時間の差のみであるのがいい」といったようなことでした。働く時間に比例して、8時間働く人と6時間働く人との労働条件の差はちょうど4対3になっているのがいい、ということなのかな?と。そういうことであれば、正社員と非正規社員との格差はないと言っていいでしょう。今問題なのは、前者と後者の差が実際の労働時間の差とあまりに乖離していること。しかも、後者の方は働き方が不安定なことこの上ない。これがあまりに違いすぎると精神衛生上よろしくないですよね。意識の上で分断されてしまう、と思います。内橋さんは「一人一人の人間が、助け合うようなことがしづらくなり、個々バラバラにされている」とも指摘されてました。「このイザナギ景気を超えたと言われる好景気?に経済成長はホンの数%のみであり、その間、企業の利益は30数%増えているという状況は何を意味するか?労働者の取り分を削っての利益と言えるのではないか?しかし、労働者は分断されていて、個々バラバラにされていて、労働条件が悪くなっても、異議を申し立てることもできない・・・」(これでは会社側のやりたい放題???)働いている人は皆、どんな人も同じく、安心して働きたいと思っているはず・・長時間労働はよくない、と思っているはず・・・皆で同じ立場で団結できれば・・・短時間で働く人も、長時間で働く人も、「労働条件が労働時間に比例して」「身分が保証されて」いれば選択の余地がぐっと広がるし、働き安い環境になると思います。人間は何かに働きかけて、ものを作っていかないことには生きていけないわけですから、人間にとって大事なことは「人間が働き安い環境」を作ること、これではないでしょうか。儲けが第一の社会ではできないかもですが・・・
2006年12月27日
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今日もラジオの聞きかじりなのですが(*^_^*)今年殺されたクマは本州だけで4500頭に上るとか。。しかし、人を傷つけたり殺したりしたクマは殺されても仕方ないけれど、傷ついたり亡くなったりした人は127名ほど。つまり殺されても仕方のないクマは130頭足らずだと言うのです。それに対して4500頭はあまりに多すぎるでしょう!と。。クマが必要以上に殺されている、という事実はクマにとっては一大事です。本州にツキノワグマは1万頭くらいしかいないそうで、そうなると半数近くこの1年で殺されてしまったということになり、まさに大虐殺!もう1年同じ勢いで殺戮が進んだら日本のクマは絶滅の危機に瀕します。これは地球環境にとっても一大事で、「森は海の恋人」と言いますが、クマが海から遡る鮭をとって食べることから、海の栄養が山に行き渡り、(また山の栄養が海に流れる)というしくみになっているとのことです。その循環がとぎれてしまい、山が枯れてしまう?のだそうで・・・日本の美しい山河はクマによって保たれている面があるのだということでした。そんなこと初耳で・・・というか不勉強のせいなのですが、そういうことこそ、学校で教えてくれないものでしょうか?ここまできたら、ボランティアに頼る段階ではなく、政府が本腰を入れて環境に予算をまわさないと(この予算は、今は素人がどんどん殺しているので、そうさせないための予算、殺していいクマかそうでないクマかを専門家に判断してもらうために必要な予算)、もうクマの危機どころではなく、環境の危機だということのようなのですが・・・そこまでの危機意識が(自分に)湧いてこないのも問題と思いまして、今日は忘れないための覚書です。
2006年12月25日
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労働組合の組織率が18%そこそこ・・と聞きました。ずっと30年位?率は下がり続けてきたそうですが、人数的には下がり始めたのはつい最近のことだそうで・・・何故か?メリットとデメリットを比べて、メリットの方が大きければ組織率は下がらないだろう、現に組合を必要と考える人は3分の2位はいる、とは今朝のラジオでの一言。メリットがない!とは・・・ある組合では、お金だけは徴収するのに、組合員の声を聞く姿勢はなく、大会で言いたいことを言える雰囲気もなく、有休をとることもできず、賃上げ交渉もない、何のための組合?と嘆いている声を聞いた事があります。それは民主主義がない、ということなのだそうです。民主主義とは、「思ったことを発言できることだ」と。。。それが言えないからグチを言って終わり・・組合とは労働者の声を押しつぶすところ?それでは組織率も人数も下がって当然。労組エゴという言葉が怖くて闘えないのでしょうか?働くものが、労働条件の改善を目指して闘うことは、労働者のエゴですか?いや、子供たちの未来のために、労働条件をよくすることは不可欠ではないでしょうか♪子供が未来を明るいものとして描くためには、労働者が明るく楽しく働いている姿を見せることが必要だと思うのです!お父さんやお母さんが楽しく働いていられるなら、育児も教育も今ほど困難でなくなるのに・・労働がつらいものとしてあるのは儲けのために”働かされているから”では???『たそがれ清兵』に(本日テレビにて鑑賞)「子供が育つのは作物が育つのに似ている、両方が楽しみ」みたいな言葉がありましたが、働かされるのでなく、働きたいような労働のあり方、をめざしたいものです。それが人間本来のあり方であり、そのために労働条件を改善することは必要なことなのだと。。労働者エゴでなく、人類のためである!と言いたい(^^)。。それにしても、「思ったことを発言できること」が民主主義とは・・・
2006年12月22日
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この年齢になると(50代半ばとしておきます)50年後はおろか、10年後や20年後を考えるのも・・・という感じですが、あえて、自分のことは棚に上げて、一般に人というものはという風に考えればつらさも薄らぐというものです。自分を人間一般に同化させる、みたいな。。人間というものは一応あと何百年もいや何千年も生きることが可能であろうと思うのですが・・・いやそれはひょっとしたら難しいかな・・・??地球の上で生かされている間に、地球がもたらしてくれる資源のすべてを使いきり、地球の持っているエネルギーを全部使い果たして、(どのエネルギーをとってもあと何十年か、よくて何百年かしかもたないと聞いた事があります)自分で自分の首を絞めているように思います。そう考えれば、日本の人口が8000万人になろうが、5000万人になろうが、たいした問題ではないように思えます。その人口で、地球の資源を食い尽くすより以上のものを地球に返す事が出来るか否か?循環、リサイクル、が可能であれば生み出す量と消費する量がつりあうことができる。。いつまでも地球の生きている限り、人は地球と仲良く暮らせるのだと思うのです。生み出す量より消費する量の方が大きいと、人の生きられる余地はますます少なくなり、しまいには・・・そう遠くない未来に、地球は人の住める場所でなくなるかもしれません。自分はせめて、あまり地球を傷つけたくないもの、と思いました。ブログを始めて丸2年。一年の締めくくりの時期とも重なり、つい、何年も先のことを考えてしまいました。やはり、人とのつながりが人にとって一番大事、との思いを新たにしています。
2006年12月20日
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教育基本法の改悪をすすめるために、悪名高きかのタウンミーティングで、こういう意見を言ってくださいと頼んで言ってもらったセリフがこれ?だそうで・・教育基本法って公教育のあり方を定めたものじゃなかったっけ?そこになんで、家庭教育がでてきますの?”公の仕事はこれです”、と定めて、”公が責任をもってこれこれのことをします”というのがこの法律の命じゃありませんか?そこで、これを骨抜きにするために、ムリヤリにでも、”国民の間からこういう声が上がっている、是非ともこの法律に家庭教育という言葉を入れねばならない”という形を作らねばならなかったのでしょう。”税金を使って!、その税を納める人たちの権利を狭めるために当の本人にそれを言わせている!”・・「国民の皆さん、あなたたちは自分でものを考えるのは下手のようですから、私たちが代わりに考えてさしあげましょう」?ですか・・・「代わりにものを言ってさしあげましょう」かな。『そんなことをしていると、この人たちはものを言う機会がなくても大丈夫だ、なんて為政者に思われ、どんどんものが言えなくなりますよ~』とやらせに協力した方々には言いたいし、その他の物言わぬ方々にも言いたいです。権力が家庭にものを言い始めると、人の権利はますます狭められていきます。家庭の責任まで、教育基本法の中で考えようというのは根本的に違うと思います。法律で家庭を縛ろうということに他ならないからです。個々の家庭の責任をあげつらうことは、『教育基本法』の仕事ではありません。やらせで衆議院を通り、参議院の委員会も本日通った今回の改悪案、後世の人々から「あんな恥ずかしいことを―誇りのかけらもない―あんな恥ずかしいやり方で通したなんて、なんて恥ずかしい選良たちだったろう!!」と評されるかも・・・
2006年12月14日
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今日のニュースによると、安倍首相は教員免許の更新制度の導入について明言したとか・・首相の顔が見えないと言われ続けているので、ここで何か言わないと、と思ったの?かしかし、口を開けばロクなことを言いませんね。教員への評価は誰がするのか?上からの評価ということになれば、”評価が悪ければ職を失ってしまう!”わけですから必然的に教師は子どもたちでなく、上を見て仕事をするようになるでしょう。(国家に批判的なことなんて、口が裂けても言えなくなります。)会社で、同僚がポツリと言いますことに、”報告報告って言うけど、上への報告より、お客さん相手の仕事なんだから、お客さんを大事にした方がいいんじゃないの?本末転倒だよ”と。。何か、全然違うことですが、似たようなものを感じてしまいました。今でさえ、先生は子供を相手にする時間が確保できなくて、上への報告にかなりな時間をとられていると聞きました。事務処理に!圧倒的な時間と能力を割かないといけないらしいのです。そんなことでは、子供がかわいそう・・・それなのに、それに輪をかけて!!もっと、上を見て仕事をしろ、というのでしょうか?それは何を意味するか?『国家への忠誠』以外に考えられません。国家に都合のいい、教育を!!それ以外は許されない、ということではないでしょうか・・安倍氏はおじいちゃんを尊敬していると伺いました。国家主義に、日本国民全員を染め上げて、まとまらせることができたら、~~などと夢見ているのかもしれません。教員を縛りあげれば、子供を縛ることは容易です。国家に都合のいい教員に育てられた子どもは国家に都合のいい”小国民”になるのでしょうか・・・そして、国家の一大事とあらば、”身を捨てて国家のために尽くす”という「硫黄島の若者」を大量に育てたいのでしょうか?(いや、実は見てないのでわかりませんが、『命を無駄にするな』という言葉もきかれたそうですね。しかし、戦場になってしまっては・・・)子供に命を大事に、と教えよと言いながら、実は「国家のためには惜しまず命を捨てるように」という教育をしようというのです。一般の国民の子供は国家のためなら、死んでもらいたいのです。そして自分たちの子供は何のためにでも、絶対に死んでもらっては困るのです・・きっと・・そんな教育になってしまう虞が教員免許の更新制度には巧妙に隠されていると思います。
2006年12月13日
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について書かれた本を斜め読み?しました。(題名を忘れました^^;)(『宇宙史の中の人間―宇宙と生命と人間』講談社 海部宣男著でした♪)改めて人間は「地球の一部」である以前に、「宇宙の一部」なんだな~と。。いや、同時に、と言い換えた方がいいようですが。無数にある銀河の中の一つ一つはそれぞれ同じようでありながら、個性があり、全く同じものは一つもない、「人間がそうであるのと同様に」という言葉が胸にささりました。銀河に同じものは一つもないということなら、地球はもちろん、「同じものはない」わけで地球は一つしかないのだから、地球を大事に、というのと同じ重さで、命は誰にも一つしかないのだから、どの命も大事に、と思いました。その命がなくなったら、「地球がなくなったようなものなんだよ」というくらいの気迫で子どもたちにせまってほしい。いや、「一人の命は地球の重さより重い」という言葉もありましたっけ。そういう言葉が宇宙の歴史などを読んでいると、素直に心にすっと入ってくるんですね。「国のために命を捧げるのが尊い」とか言ってる場合じゃない!それはなんてちっぽけなことなんだ!!せっかく人間として生まれてきたのに、広く宇宙とか地球とかのためでなく、それぞれの国という枠にはめられてその枠の中でしか生きる道がないなんて、その枠を守るためにしか生きられないなんて、そんなことは人間に対する冒涜だ!!いや、「国のために戦うんじゃない、愛する人を守るために戦うのだ」と言いたい人がいるかもしれない、でもそんなのまやかしで、うそっぱちで、どの国の人もそう思い込まされて、戦争に行ったら―他国の人を殺さなくちゃいけない立場に追いやられてしまう←国がそうするのだ!!戦争とはそういうものではないか?宇宙から大分話がそれました(*^_^*)・・
2006年12月10日
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今朝のNHKラジオ、聞かれましたか?千葉県の大網白里町のある不動産やさんでは社員が皆子連れ出勤しているのだそうです。保育園に預けないで子連れ出勤!!これだけ聞くと、その会社は仕事に大変な支障ががありそうだと思いそうなのですが・・それがそうでもなさそうなのです。子育てと言っても、ずっと子供の面倒を見っぱなしということは実はあまりないですよね。空いた時間と言うのは必ずありまして、それを上手に見つけて、社員が手分けして仕事も育児もりっぱに両立されているとか。お母さん(お父さんも?)が大勢いるようなもの、らしいです。。。二階建ての民家のような会社は子どもたちに開放されていて、学校に行ってるお子さんは会社に「ただいま!」と帰ってきます。仕事のお手伝い?もしているそうで、メモ用紙を作ったり、掃除をしたり、大きな子は小さな子の面倒をみたり・・・考えてみれば、異年齢の子供たちの集団が自然に形づくられているわけですね。近所の子供も受け入れているので、多い時には60人もの子どもたちが集まることもあるとか・・社会のルールも教えることが出来るし、また自然に身につくようでした。何より子どもたちが楽しくて、好きで集まってくるというところが素晴しいと思います。これはりっぱに、「社会で子供を育てる」ということになっているのではないか?と私などは自分の夢見ていることの縮図をみたような思いでした。これが一つの会社だけでなく、社会全体でこういうことが可能であったら・・・なんて♪何年か前、アグネス論争と言われた論争がありました。子連れで仕事場に来る歌手のアグネス・チャンさんに、作家の林真理子さんがかみついたのが始まりと言われ、新聞紙上で両方の立場からいろいろ論争が発展しましたっけ。大人の世界に女子供がなんたらとか、仕事はそんな甘いもんじゃないんだとか、「普通の働く女性は絶対真似ができない特権階級」のアグネスの言ってることに普遍性はないとか、さんざんでしたが・・・今に子連れ出勤の方が普通になったら、と考えると・・・(^^)そんな事態になるかもしれません♪♪
2006年12月06日
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いじめも犯罪のうちといいますが、いじめっ子の気持というものを考えてみませんか?誰が好きでいじめたりするものか?と考えてみませんか?その子らはいじめることで自己の居場所を見出しているでしょうか?自己実現をそこで図ろうとしているのでしょうか?いじめなんて、ホントはつまらないことで、そこから得られるものなんて、ちっとも心を豊かにしてくれるものではないし、心から楽しくそれぞれの生活を送っているとはとても考えられない、と思いませんか。心が貧しいのだと・・・その逆をいくなら??心豊かに毎日を送れることそれはたとえば・・私の狭い考えでは自分ががんばってやったことが他者に認められること、自分が考えたことを誰に遠慮なく表現でき、ちゃんと受け止めてくれる人がいること、自分がしたことで他の誰かが心から喜んでくれること新しい発見があり、知らなかったことを知り、知らなかった人を知り、いろんな経験ができること一人でできることもあり、一人ではできないこともあり、けんかしたり、仲直りしたり、ぶつかり合って他者の痛みを知り、自分のこともわかってもらえる、つまりは一人前の人間として、人格を認めてもらえることが人をいじめなくて済む道ではないかな?と考えるのであります。いじめに喜びを見出す必要をなくすことこれが一番だと思うのですね。。板橋の両親殺害少年に厳罰と言える14年の量刑・・その判決でちょっと関係ないかもしれませんが、犯罪に手をそめてしまう心を想像してしまいました。いじめっ子と共通点はないかもしれませんが・・・いや、いじめっ子の方が酷いかもしれないという思いが心のどこかであるのですが・・・しかし結果の重大性はその比ではありませんでしたね・・・そうであっても、何か、厳罰化には釈然としないものが残ります。
2006年12月04日
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