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『たとへば君』~四十年の恋歌~ 河野裕子・永田和宏能登ボランティアの荷物のなかに読み返している『たとへば君』も入れていた。自由時間に時々ページを開いた。多分以前にはさらっと読んでしまった箇所、今回はあちこちで引っ掛かった。なんにしてもあなたを置いて死ぬわけにはいかないと言う塵取りを持ちて大泣きに泣きたるあとにまだ泣きて泣きつつ包丁を研ぎいたるかなあなたにはわからないと言う切り捨てるように切り札のJ(ジャック)のように昔から手のつけようのないわがままは君がいちばん寂しかったとき 永田和宏『風位』より最初にあげた歌は、2000年9月、河野裕子に乳癌が見つかった翌日のことらしい。手術、放射線治療も始まり、その後彼女は不眠に悩まされ、精神のバランスを崩しやすくなったという。どうしても奥さんのことを思い出してしまう。奥さんに癌が見つかったのは2013年秋。心の内を言葉にはしたが、その不安やもやもやを僕にぶつけることはなかった。いや、ひょっとしたら奥さんなりのやり方で訴えていたかもしれない。僕が気付けなかっただけなのかもしれない。あの時の壊れたわたしを抱きしめて あなたは泣いた泣くより無くて 河野裕子「私が死んだらあなたは風呂で溺死する」そうだろうきっと酒に溺れて 永田和宏この歌を読んで、癌が見つかったときだったか、或いは転移、再発が分かったときだったか、僕は泣かなかったが奥さんを抱きとめたことがあった。そんな場面が浮かんできた。
2024.06.08
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東北教区ボランティアセンターは仙台市の繁華街近くにある西本願寺の別院。 もうずいぶん前から利用させてもらっている。 東北ボランティアで最初に泊まったのが岩手県遠野市。震災の年で、全国からだけでなく外国からボランティアもたくさんいた。最初の頃は寝袋持参で体育館の床の上にマットを敷いて寝た。 その後花巻市に近い東和の元小学校がボランティアの宿泊施設として利用できることが分かり、そこに行くようになった。そこが西本願寺が関わることが分かって、関連施設として仙台別院があることが分かった。 そうして何度もここを訪れた。 最初の頃は、田んぼに入り込んだ瓦礫や石ころを取り除く作業、ハウスに入り込んだ土を撤去する活動、海水や泥で汚れた写真を洗浄しきれいにする作業、埋め立てるまえにまだ見つからない遺骨を探す仕事等々外での作業が中心だった。 そういうボランティアの内容が仮設住宅の集会所や仮説を出た人たちが集まる復興住宅での「お茶っこ」「サロン」中心のものになってきた。そしてばら寿司つくりも僕らのボランティアの定番。 そういう僕らのボランティアのお世話をして下さるスタッフの方も大変だったと思う。 そのスタッフの方の入れ替わりも何度かあった。 最初の頃、ボランティアは寺院の敷地の中にあった保育園の後を使わせてもらっていた。 その建物も今はなく駐車スペースになっている。 今、僕らは門徒さんたちが利用する建物に泊めてもらっている。 ミーティングは毎日あるのだが、いつだったか仙台別院の責任ある立場の方が話された。「私たちはこの未曽有の災害のために、ボランティアが動きやすいように10年はこういうボランティア の受け入れを続けたい」 僕ら「ゆるボラ丹後の会」も大いに励まされて7年が過ぎた。 僕らも少なくともあと3年は続けたい。 2014.8 4年前の東北教区ボランティアセンター 左側の緑の屋根の建物は今はもうない
2018.04.09
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2週間前に入院。翌日手術。その週の土曜日に退院。松葉杖での家での生活は10日間。玄関に降りて新聞や郵便物を取りに行ったり、玄関のカギを開け閉めするのもだいぶスムーズにできるようになった。最初は松葉杖で降りようとしたが、病院にはなかった段差でよろけてしまった。思わずギブスをした右足をつきそうになって冷やっとした。たいした段差のないところでも転んでしまった。ようやく慣れてきた。この間、洗濯は娘や妹に頼んだが、さすがに自分でやらないとダメになってきて、今日の午前中洗濯機を回した。洗濯機がある勝手口につながる廊下に椅子を置いてもらっていて、その椅子を利用しながら洗濯物を振り込んだり、玄関と同じように座って段差を降り、サンダルを引っかけてダイヤルを回し洗剤を入れ動かす。部屋の中に干すので、洗濯できた物をバケツに入れて運ぶのだが、松葉杖では不安定になる。どうしたかというと、新しいゴミ袋に洗濯物を放り込み、それをリュックに入れて部屋まで運ぶのだ。そうして椅子に膝を乗せて干す。と、こんなふうにリュックサックに大いに助けられている。
2025.10.27
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