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やはり、山の夜は底冷えする。
濡れた髪がかかり、じん、と冷えるこめかみを意識しながら、氷翠王【シャナオウ】は伏せていた血の赤より強い深紅の瞳を上げた。
山奥だから、夜気の底や時折吹く風に木々の香りがして気持ちがいい。
夜気は痛いほど冷たいが、入っている露天風呂の湯は熱くて、身体はぽかぽかして寝てしまいそうなほど心地いい。
此処の湯はやわらかく、湯あたりをすることがないから、この時期だと入るといつまでも雪見をしてしまう。
そのうちふやけてしまうかもしれない。
空気が澄んでいるお陰で、圧倒される程の夜空を仰ぐ。
数千億の星、その火の様な輝き、満天の。
「きれいだ。」

本当は違う。
涙が出そうになる。
怖いほど満天の星空に。
(苦痛の涙も空虚の精神も、私には怖くない。)
偽りと欺瞞と偽善と真実の区別が、自分の心になくても。
たとえ明日、滅びるとしても。
この時代に足掻いて足掻いて、一滴の己の精神が泣き叫びながら持てる力の全てを振り絞って、己の心に刻み込んだ“想い”はきっと残るだろうから。
それが最期の最期に残った真実ならば。
この夜空は最初に誓った日の夜空に似て、自分に全てを思い出させる。
私が存在する限り、その誓いを忘れたりしない。
静かな、けれど獰猛な程の強い意志の宿る瞳を隠す様に氷翠王は目を伏る。

来る。
「あ・・・・・・・、あなた様?」
心底驚いた様な声がかけられ、氷翠王はその方向に目をやる。
長い黒髪が美しい女性だった。
「も、申し訳ありませぬ。」

露天風呂で、とは言え、同じ女性だが。
何故それほど驚く、と思いつつ、早々に出て行こうとする彼女を氷翠王は呼び止める。
「雪花【セッカ】。来い。風邪を引く。」
氷翠王の提案に雪花は少し目を見張り、それから首を横に振った。
「妾は・・・・、あなた様の臣下です故・・・・・・・。あなた様を少しでも軽んじるような真似はできませぬ・・・・・・。」
その理由も多少はあるだろうが、途中で言葉を捜す様な雪花の態度に、それが嘘だと判る。
視線を向けると、それに気づいたのか雪花は一瞬身体を強張らせる。
その雪花の手が自身の足を隠そうとしている仕草をしたのを、氷翠王は見逃さなかった。
だから氷翠王は視線をさり気なく逸らし、どこか大人びた表情を浮かべる。
「そうだな。馴れ合いになればお前はきっと、苦しくなる。」
雪花が目を此方に向ける。
氷翠王は視線を向けないままに、微笑した。
「私はそれを壊してはいけない。」
「・・・・・・・あ、わ、妾は・・・・・・。」
「分かってる。大丈夫だ。お前を不安にさせたりしない。」
今度は雪花に視線を合わせ、氷翠王は瞳にも微笑を佩いた。
「私が出る。」
立ち上がり、そのまま去りかけてふと立ち止まる。
「ゆっくり休め。風邪を引くなよ。」
朗らかに笑んで、今度こそ本当に去ろうとした氷翠王を驚いた様に見つめて、氷翠王の腕を雪花は慌てて引きとめた。
「あなた様は・・・・、あなた様は妾が気味悪くはない、のか・・・・?妾は見苦しいこの姿をあなた様の御目に入れたく・・・・なく・・・・・・。」
雪花は自分の言っていることが判らなくなり、苦しく目を伏せた。
自分のこの醜悪な足の傷を見られるのが厭で、足を傷つけた理由をこの方に知られておぞましい、と嫌悪されるのが何よりも怖くて。
誰に何を思われようとも心が動くことはなかったが、自分はこの方に疎まれては生きてはいけない・・・・・・・・・。
だから失礼を承知で氷翠王を避けようとしたのだ。
けれど、氷翠王の言葉に一瞬息をするのも忘れた。
『そうだな。馴れ合いになればお前はきっと苦しくなる。』
『分かってる。大丈夫だ。お前を不安にさせたりしない。』
この言葉は雪花の表層を掻い潜り、更に深くを知った上でしか出てこない言葉だ。
人に触れ合う事を恐れ、自分の事を他人に知られる事に怯え、そしてそれでも触れてくる人間におぞましささえ覚えながら憎んできた雪花の心を。
悟られた気がした。
臆病でおぞましい自分を。
それでも氷翠王が雪花に向けた言葉は、雪花を傷つけはしなかった。
他の者の様に。
氷翠王の言葉は温かく皮膚に溶け込んで、身体の内に沁みる。
雪花を心から思いやる言葉だったからだ。
その言葉の中に、雪花に避けられ拒まれた事に対する負の感情は欠片もない。
こんな事は初めてだった。
いや、氷翠王に助けられて拾われてからこの方にはそんな仕打ちを受けた事はなかったが。
けれど思いもよらなかったのだ。
己が主を軽んじるような態度を取っておいてまでも咎めず、それどころかこんな言葉を向けられるとは。
雪花は“禁足地”である此処に来てからまだ日が浅く、氷翠王と会うことは少ない。
それでも村に来た最初、まだ怪我のせいで一人で歩けもしなかった頃、一人心細い思いをしていた事を知っている様に毎日見舞いに来てくれた。
起き上がって歩けるようになった時も、村に馴染みやすいようにと色々手を打ってくれた事も知っていた。
何よりあの地獄から助け出してくれた氷翠王のことを、雪花は誰より何より慕わしく思っていたし、この方のためなら何でもできた。
命さえ惜しくはない。
だが、何故。
何故、このような奇跡のような言葉をくれるのだろうか。
しかも、雪花自身気づいてもいなかった様な、心の内奥を汲んでくれる様な言葉を。
ここまで気づいていて、何故気味悪く思わないのだろう。
たぶん、この足の傷の理由を知ってはいないからだろうか。
知っていれば、この様な言葉はくれないだろう。
きっと、他の者と同じ様に嫌悪するだろう。
自分でさえ、ゾッと思うのだから。
だから、試してみたくなった。
半ば以上、露悪的な感情に支配された様な気になったように自分を騙す。
本当は、この温かい人から、この優しすぎて苦しい場所から逃げたいためのことだと、本当は自分でも分かっていた。
(・・・・妾は臆病じゃ。)
臆病すぎて、畜生にも劣る。
「・・・・・・妾は、・・・・・・あなた様。」
震える声と自虐の笑みで微笑みかけても、氷翠王はただ此方を静かに見据えるだけだった。
「この足の傷は、妾が家が襲われた時につけられたものではなく、妾が妾の手でやったこと・・・・・・・・・。」
謳い上げる様に告げると氷翠王の目が微かに細められる。
それを見、ああやはり、と思う。
己の家の家臣であった者に裏切られ、屋敷に火をかけられ一族郎党を皆殺しにされた中で、長女であった自分だけ殺されずそのまま捕らえられ幽閉された。
両親と、仲の良い兄弟たち、よく仕えてくれた家臣たちを焼いた火と、人の肉の焼ける匂い、中途半端に爛れた人の生臭い血肉、口の端でたがの外れた欲望と醜悪な本能の含み笑いを佩く男どもと、陵辱される女たちの悲鳴、交じる体液の香りと精液の匂い。
それらが頭の中に蔓延るまま、連れてこられた部屋でその惨劇から一日も終わらぬまま、我らが家を裏切り皆を殺した男に陵辱された。
半狂乱になり、その男の持っていた刀で男を何度も何度も突き刺したことを覚えている。
乱れる息のまま気がついた時、自分が一番に気になったのは男の死体ではなく、もみ合った時についたであろう脚の傷から流れる血に目が釘付けになった。
一気に燃え上がった激情のままに、男を貫いた刀でその傷を何度も突き刺して切り開いた。
この男と同じ血が流れているのが許せなかった。
このむごく苦しい感情が自分の身を焼くのが許せなかった。
皆が死に、自分一人が生きているのが許せなかった。
こんなに苦しい感情がどうして自分に降りかかるのかが許せなかった。
感情があること自体許せなかった。
皆のこと以上に、感情が自分を苦しめるのが許せなかった。
なんて自分勝手でおぞましい感情か。
後に思い出した時は涙が出て、止まらなかった。
けれどその時は、そんな言葉なぞ頭にも浮かばず、ただ自分の足を刺して刺して刺し貫いて、そばに落ちていたからくりの機械の部品をその傷から体内に押し込んだ。
何度も、何度も。
突き入れた部品は、治療の後で知ったことだが、五十にも及んだらしい。
たぶん、その時は感情のない物になりたかったのだと思う。
人形かからくりか機械に。
狂っているどころではない。
自分の中にそんな感情があること事態、おぞましくておぞましくて、・・・・・・・・怖かった。
死にたかった。
あの時に殺されたかったのだ。
そうしたなら、知らないまま死ねた。
こんな、自分に対する生理的嫌悪など覚えずに。
ここまで一気に話し、雪花は目を背けた。
(・・・・・・・これで。)
これで終わりだ。
何もかも。
この話しで最愛のこの方は自分を見捨てるだろう。
こんな者を助けるのではなかったと後悔すらするかもしれない。
そうして待った言葉は、予想通りのものだった。
「馬鹿だな・・・・・・・。」
氷翠王は切り捨てるように呟く。
その口調も想像通りのものだ。
痛く苦しいものが雪花の中に生まれる。
同時に歓喜した。
この方に見捨てられれば妾は生きていけない。
ようやく死ねるのだ、自分は。
「お前は馬鹿だ。自分が先に逝った者を裏切ったと思って辛かったんだろう。なのにそれを解決する手段がどうしてまた、人を裏切ることなんだ。自分の真実から目を背けて。苦しかったんだろう。解放されたかったんだろう。本当はただ、先に逝った者たちに許されたいと思ったんだろう。そうして、生きたい、と思ったんだろう?」
氷翠王の瞳が強さを増し、厳しくきりきりと細められた。
「・・・・・・・・・・・。」
逆に雪花の瞳は有り得ないものを見るように見張られる。
「死ぬなど、許さない。」
断固とした口調に、雪花は身体が震えた。
「お前が自分の足を傷つけたのは、先に逝った者たちを忘れて自分の心の保身をはかったためじゃない。そうしなければ生きていけないと祈ったんだろう。ここで死ねば先に逝った者たちに何もしてやれないと思ったんだろう。」
「・・・・・・・・どうして・・・・・・?」
どうして分かるのだ、この人は。
さっき話を聞かせた時そんなことは自分は言わなかった。
自分の感情がなくなればいい、と思った。
けれど同時にこうしなければ生きていけないと、殺された皆に何かをしてやらねばとも思った。
けれど、忘れてしまいたいと思ったことも事実で、時間が経てば経つほど皆のためにという思いはあのときの自分を正当化するためだけではなかったのか、自分の心を思っただけではないのかと思うようになり、その全てが嘘のようで自分が信じられなかったのだ。
涙が出そうだった。
言って欲しい。
もう少しで掴める所まで来ている。
“真実”が。
「・・・・・・・・お前はずっと生きたかったんだ。立ち上がって。前を見据えて。先に逝った者たちのために、何をしてやれるか探したかった。だから理由が欲しかった。生きる理由が。」
雪花は目を見開き、その細い肩を震わせた。
それを静かに見下ろしながら、氷翠王は口を開いた。
「でもお前は優しすぎる。」
「・・・・・・・あなた、様・・・・・・。」
何処までも真摯なまなざしが雪花を射る。
「優しすぎて、背負いきるには苦しすぎたんだ。」
雪花の肩の震えが大きくなる。
ふ、と憑き物が落ちたような瞳を雪花は滲ませて、その頬に幾筋もの雫が滴った。
その一言で、全てが許された気がしたのだ。
「・・・・・・・・かた、・・・・・・・かたじけ、のう、御座います・・・・・・。」
その冷えた頬に美しい黒髪が掛かるのを梳いてやりながら、氷翠王はどこまでも真摯に、静かに言葉を紡ぐ。
「今からだって遅くない。」
それに何度も雪花が肯くのを見、氷翠王は幼児にするように頭を撫でてやる。
「大丈夫だ。何があっても力になる。皆も居る。怖いものなんて何もない。」
温かい心からの言葉が雪花の身体を包む。
舞い落ちる冷たい雪も、今は何よりも優しく感じられた。





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最終更新日  2006年04月01日 19時42分11秒
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