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ロサンゼルス国際空港(LAX)では、アメリカの航空会社以外はほぼターミナルB(トム・ブラッドリー国際ターミナル)から発着している。そのうえ、発着便が集中する時間帯もあるようなので、余裕をみて早めに滞在先を出発し、空港に向かった。幸いフリーウェイの渋滞はほとんどなく、搭乗時間の4時間くらい前に空港に着いた。ターミナルBに入り、まずはスーツケースを預けてしまおうと、航空会社(ANA)のカウンターに行ってみると「出発の3時間前に窓口は開きます」との表示があって、スタッフの姿はなかった。「あと1時間か…」と、つぶやきながら少しぶらついてみたが、搭乗手続きのフロアには飲食する場所やトラベルグッズのお店くらいしかない。ここで何もせずに時間を潰すのももったいないので、帰国便もスーツケースを機内に持ち込むことにした。小さなスーツケースでの旅は、こういう時に楽だ。だけど、預けるつもりだったスーツケースにペットボトルの水を入れていたことを忘れていたので手荷物検査で引っ掛かり、ペットボトルは未開封のまま没収された。反省…。出国手続きを終えて搭乗口のあるフロアに入ると、ブランドショップやお土産のお店などが並んでいた。とはいえ、どのお店も品揃えは豊富とは言えない。気の利いたお土産が買いたいなら、空港に来る前に買うのが正解だと思った。ここで僕は、免税店でお土産のチョコレートをいくつか買った。それから搭乗口に向かう途中で、蒸しパンのような大きなパンと、野菜ジュースのようなソフトドリンクも買った。搭乗口の近くに座って、パンを食べたり荷物の入れ替えをしながら搭乗までの時間を過ごした。不慣れなアメリカひとり旅も、あとは飛行機に乗るだけ。しかも飛行機は日本のANA。そう思うと、僕の心は一気にゆるゆるになり、至福の時間になった。意外なことに、アメリカからの出国に際して、LAX空港に着いてから飛行機に搭乗するまでパスポートを一度も使わなかった。特に搭乗口では、チケットも使わず、顔認証でゲートが開いた。(念のためパスポートとチケットを手に持っているようには促されたものの、使うことはなかった。)こんなに簡素化しても乗客の誤進入や悪意のある侵入を防げているのだからすごい、とひたすら感心しながら機内に向かった。
April 27, 2024
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表参道駅の近くから始まる「高樹町通り」。「骨董通り」とも呼ばれているこの通りを歩いた。路面電車(都電)が1967年(昭和42年)まで走っていたそうで、道幅は割と広い。表参道駅側からこの通りに入り西麻布側まで歩くと、突き当りの交差点の名前も「高樹町」となっていた。今の南青山6丁目あたりが昔の「赤坂青山高樹町」だったようだ。ここからは、母から聞いた話になる。裏取りは後回しにして取りあえず聞いたことを書き残そうと思う。母いわく…高樹町は、この町が「高木さま」というお殿様の町だったことの名残り。母の父(僕の祖父)は戦中、徴兵されるまで高木家のお屋敷で執事として働いていた。祖父の家は先祖代々、高木家にお仕えしていたらしい。高木邸は、三笠宮妃百合子様のご実家で、百合子様のお父様は高木正得(まさなり)子爵。高木家の敷地は広く、祖父がお仕えしていた頃は、そこから得る家賃収入も経済的な支えになっていたと聞いたことがある。祖父の家は高木邸に近い笄町(こうがいちょう。今の港区西麻布)にあり、母はそこで生まれた。母の話は概ねこのような内容だった。今回、この話をたどるつもりで「高樹町通り(骨董通り)」を歩いてみたが、通りの雰囲気は「南青山」以外の何物でもなく、母の話を思わせるものは見つからなかった。ただ、通りを一本入った根津美術館周辺には少し谷のように下がっているエリアがあって、そこには当時の面影と言っても良いような雰囲気が漂っていた。都内を歩いていると、幹線道路から1本横に入っただけで、懐かしい空気感に溢れる場所に入り込むことがかなり頻繁にある。東京という都市の奥深さを感じた気分になれて、いつもながら心地良かった。
July 13, 2024
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今から3年前。2018年(平成30年)10月21日の日曜日。時間は朝の8時半頃。 健康だけが取り柄と思っていた僕は、街の真ん中の地下通路で倒れた。 意識が消えたのは、地下鉄を降りて、改札を抜けた後だった。 その日、地下鉄に乗った頃からなんだか喉元に違和感があって、車内が急に暑くなった気がしていた。 目的駅のホームに降りたら今度は気持ちが悪くなってきて、さっさと用事を済ませて家帰って寝よう、と思いながら歩いてたら、ひどい目眩に襲われ、手すりにもたれかかったあたりで記憶が途切れた。 遠くから呼ばれた気がして目を開けたら、僕は地下通路の真ん中にうつ伏せに横たわっていた。 僕の顔の近くを次々と通勤の人たちの靴が通過していく中、紳士と女性のお二人が一生懸命僕に声をかけてくれていた。 「大丈夫ですか。駅員さん呼びましたからね。すぐに来てくれますよ」 「お忙しい時にすみません。目眩がしまして…」みたいなことを四つん這いになった僕が呟いていたら、駅員さんが車イスを押して駆けつけてきてくれた。 駅員さんはテキパキと119番に通報し、僕の様子を詳しく伝えてくれたおかげで、救急車が到着した時には搬送先の病院が決まっていた。 「血中酸素濃度、ちょっと取れないな…」 救急隊員の会話をぼんやり聞いてるうちにサイレンが止まり、救急車の扉が開いて病院の処置室に運び込まれた。 「あぁ、やっぱり」 病院スタッフの声が聞こえた後、矢継ぎ早に検査とか質問があって、お医者さんが家族に電話を入れてくれた後、冷や汗で重たくなった服を数人がかりで脱がされて、早速手術が始まった。 病名は急性心筋梗塞。 心臓近くの血管にステントを入れる手術だった。 術中2回心臓が止まって、2回AEDが使われたそうだ。執刀医の先生が自分の胸にガッと飛びついてきたことと、医療スタッフの皆さんが懸命に僕を呼んでくれていたことは、手術中おぼろげに感じていた。 「頑張りましたね。このまま2週間は入院。病院にたどり着けない患者さん、間に合わない患者さんが少なくありません。ラッキーでしたよ」 「ありがとうございました」 僕が言えた言葉はこれだけだったけど、今生きているのは、忙しい通勤時に見知らぬ僕のために走り回ってくださったお二人と、駅の外なのに駆けつけてくれて、消防に正確な情報を伝えてくださった駅員の皆さんと、その情報だけで心臓血管外科に受け入れ依頼をしてくださった消防の皆さんと、万全の体制で救急車を待ち受けてくださった病院の皆さんの奇跡的な連携プレーのおかげ… そんな思いが込み上げていた。 「僕なんかのために、皆さんがこんなにも一生懸命になってくれて。もったいない、もったいない、とてつもなくもったいない」 集中治療室の中で、僕は心の底からそう思っていた。 あれから3年、「助けた甲斐があったよ」と言ってもらえる僕になれたかは甚だ疑問。だけど自分だけの命ではない、という言葉は正しいと思えるようになった。 それから、「死にそう、死ぬ、死んでも…、死んだほうが…」みたいなワードは言えなくなった。 皆さんへの感謝の思いは日々、そして年々強まるばかりです。 退院後、直接のお礼は駅員さんにしか伝えられてないけど、お名前を伺い忘れたお二人を始め、助けていただいた皆さまに、この場をお借りして心から感謝申し上げます。 本当にありがとうございました。 救っていただいた命を無駄にしないように、しっかりと生きていきます。
October 14, 2021
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全然試合を観ていないのに、勝ったことを知っただけで、今日はとてもうれしいです。ソフトバンク打線を1点に抑えた田中投手は、これで7勝3敗!楽天ファンだから言いますが、楽天にいてこの数字は凄すぎです。9回裏の「1」という数字が気になる(大体想像はできますが…)けど、勝って本当に良かったです。祝杯(写真はオフィシャルホームページより)
July 10, 2007
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皇居の大手門のすぐ近くに建つ大手町パークビルディング(千代田区大手町1丁目1-1)脇の舗道に「旧内務省跡」と書かれた千代田区の案内板があリました。内務省とは、ざっくり言って、今の総務省だと思います。江戸時代には譜代大名、播磨姫路藩主 酒井家の屋敷があったこの場所に、明治6年(1873)から昭和8年(1933)まで内務省が置かれていたとのこと。大手町のすぐ隣、丸の内一帯が三菱社に払い下げられたのが明治23年(1890)。それ以前の丸の内は、陸軍が所有する事実上の荒地だったそうなので、三菱社が丸の内の開発に着手するまでの約20年間、内務省の人たちは広大な荒地を横目に仕事をしていたものと思われます。案内板の地図を見ると、まだまだ空き地が目立つ中にも、洋風の建物が建ち始めた明治30年代の丸の内の様子が描かれていました。(赤い丸が旧内務省跡)〔明治30年代の大手町周辺「東京一目新図」武部瀧三郎、1897年、千代田区教育委員会蔵〕(部分)今はビジネス街として一体感のある丸の内と大手町。当時は堀を挟んで大手町が官庁街、丸の内は空き地。それが官庁街と洋風のオフィス街の対比に変わったのはもう少し後。全体がビジネス街に変わったのは更にずっと後のことのようです。
March 23, 2024
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ロサンゼルスは車社会。だからロサンゼルス国際空港からはレンタカーで移動するのが一番便利、と言われている。だけど、自分がアメリカで車を運転していたのは20年以上も昔のこと。この国の交通ルールにすぐには順応できないことも自覚しているし、道路を逆走しない自信もない。なのでレンタカーは諦めよう、と決めた。かと言って、今回は現地の知り合いに送迎を頼めない。一方でUberのような身元が良くわからない人の車に乗るのも不安。ということで、今回は現地の知人の勧めでカーメル・シャトル・サービス(Karmel Shuttle Service)という会社に、空港から目的地までの往復を頼んでみた。使ってみて感じたメリットは、①空港から乗り場までの移動が不要で、ターミナルを出てすぐに車に乗れたこと。(ターミナルに車を直付けするライセンスを持っているらしい)。②乗り合いではないので、どこにも寄らずに目的地まで運んでくれたこと。③予約時にチップを込みでカード払いしていたので、ドライバーさんとのお金のやり取りが一切なかったこと。④ドライバーさんの身なりも振る舞いもしっかりしていて、到着まで不安を感じずに乗っていられたこと。予約にあたり少し迷ったことは、費用。今回はフリーウェイを1時間以上走る遠い場所が目的地だったこともあり、チップを入れて運賃が片道だいたい300ドル。円安なので日本円で約45,000円。日本の旅行会社で送迎を手配するよりは安いとは思ったが、正直、少し高いかなと思い、迷った。結局、「安全をお金で買おう」と割り切って予約を入れた。次回に向けて対策が必要、と思ったのが、空港に着いてから車に乗るまでのドライバーさんとのやり取り。本来であれは、飛行機の到着と同時に会社からショートメールが届き、そのリンク先に出発準備が整ったことを入力すると、ドライバーさんからショートメールで合流場所が知らされる、という簡単な仕組み。だけど、アメリカ以外のスマホにはこのリンク先が届かないらしい…ということに、LAXに着いてから気がついた。事前のメールに「リンク先が届かない時は、この電話番号にショートメールを送るか、電話を」とあったので、今度はショートメールを送ってみたが、アメリカの電話番号への送り方が良くわからず、送信は失敗した。仕方がないので勇気を出してシャトルの会社に電話をかけて「空港にいるがリンクが届かない」旨を懸命に話したら、「あなたの電話番号はわかっているから、ドライバーから電話します」と言われて終了。しかし、5分くらい待っても電話は鳴らず、「このまま空港に放置されてしまうのでは」と、勝手に不安に陥った。今にして思えば、電話で言われた通りドライバーさんからの電話をおとなしく待っていれば良かったのだけど、この時の僕は目の前の不安に勝てず、空港のインフォメーションデスクのおじさまに状況を伝え助けを求めていたところ、待望の電話がかかってきた。「ターミナルの出口(B6)に車が行く」と告げられ、僕の服装の色を聞かれた。B6と書かれた柱の下に立っていたら、無事、僕を目指して1台の車がやってきた。ドライバーさんと予約名と目的地を確認した後、全身の力が抜けるほどホッとした。十分な語学力があれば何の問題もなかったと思うが、そうではない僕には電話での会話は厳しかった。武勇伝をみやげ話にするために海外に行ったわけではないし、テンパってる僕の姿はかなり傍目に見ても滑稽だったに違いないので、次回はもっと爽やかに送迎の車に乗り込める人になりたい、と思った。
April 13, 2024
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札幌から日帰りで行けるところ…今回は夕張とトマムに行くことにした。初めに夕張、そしてトマムへ。高速道路が片側一車線だったせいか、夕張からトマムまでは地図で感じていたより遠く、北海道の広さを実感した。長いトンネルが連続する高速道路をトマムICで降りた。その途端、リゾートの雰囲気が一気に漂い始めた。さすがは星野リゾート、というのが第一印象。10月下旬。紅葉が見ごろを迎えていて、ハロウィンのデコレーションがあちこちにあるホテル内には、家族連れの姿を多く見かけた。ホテルから続く通路を「ホタルストリート」まで上り、「GARAKU」でスープカレーを食べて、チャイを飲んだ。とても美味しかった。ホテルの隣には広大な草原が広がり、乗馬を楽しむ姿などが見えた。千歳空港からも札幌からも決して近くないトマム。廃墟のようになったスキーリゾートを各地で見かける中、これだけ活気のあるリゾートがここにあることが嬉しくて、今度はゆっくり泊まりで来たい、と思った。
November 27, 2025
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宮町(みやまち)仙台東照宮の石段に立って南の方向を眺めてみると、宮町の通りが鳥居の向こうにまっすぐ延びていた。かつての町名「宮町」は、仙台東照宮の門前町として拓かれた。昭和45年2月1日の住居表示によって、今は宮町ニ〜四丁目になっている。〔仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書(平成21年1月)」より〕東照宮から2〜3分歩いた交差点に建つ辻標86番「宝蔵院/宮町」は、宮町を次のとおり説明している。・東照宮の門前町で、北六番丁から東六番丁北端までの南北の町。・承応3年(1654)玉手崎の天神社跡地に東照宮が造営された際に町割りがなされた。・全戸に五百文の田畑が与えられ、年貢や町の諸役が免除されたほか、仙台祭の日には絹布着用の特権が与えられていた。・御宮町・権現町ともいわれた。(JR仙山線の踏切近くに建つ「《宮町》通り」の標柱)仙台市HP「道路の通称として活用する歴史的町名の由来」では、《宮町》をこう説明している。・権現町・御宮町ともいい東照宮の門前町であることによった地名。・上御宮町・下御宮町の2区から成る。・「仙台鹿の子」によれば、門前町百五軒、1軒につき五百文ずつの御用捨田畑がが付けられ、無年貢であったという。・また酒類・塩・たばこ以外の店売については諸役を免除されたが、その代わり東照宮への奉仕が義務付けられていた。わからない言葉がいくつかあるので調べてみた。「玉手崎」は今の東照宮がある場所。天正19年に徳川家康公が葛西大崎一揆の視察を終えた帰り道に、この地で伊達政宗公と休憩したとの故事により、東照宮造営の地に選ばれたとのこと。(参考:宮城県神社庁HP)(かつて「玉手崎」と呼ばれていた東照宮の境内)「天神社」は、今は宮城野区榴ケ岡にある榴岡天満宮。平安時代の天延2年(974)に今の京都府に創建された後、天文20年(1551)から東照宮の場所にあったとのこと。(参考:榴岡天満宮HP)「仙台祭」は、東照宮造営の翌年、1655年に始まった東照宮例祭。江戸時代を通じて行われ、2代藩主伊達忠宗以降13代まで全ての歴代藩主が仙台祭に合わせて東照宮に参拝したとのこと。(参考:仙台東照宮HP)宮町の南端と思われる場所に、個人の建立と思われる石碑が建っていた。「北 是より御宮町」「この地 昭和四拾五年まで宮町壱番地」と書かれていた。東照宮の門前町の誇りのようなものを感じさせてくれた。
February 16, 2025
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開幕一軍のメンバー28人が発表されました。 【投手】一場 靖弘、吉崎 勝、小倉 恒、青山 浩二、田中 将大、L.インチェ、岩隈 久志、ドミンゴ、永井 怜、松本 輝、渡邉 恒樹【捕手】藤井 彰人、木村 考壱朗、嶋 基宏【内野手】塩川 達也、J.フェルナンデス、渡辺 直人、大廣 翔治、高須 洋介、リック、山崎 武司、枡田 慎太郎、草野 大輔【外野手】礒部 公一、憲史、聖澤 諒、高波 文一、鉄平こうしてみると、少ないですね。一軍にいることがいかに大変かが、少しわかるような気がします。特に山村、有銘、朝井、片山の各投手が入っていないので、オヤッ?と思いますが、朝井投手などは開幕戦の登板予定がないという理由だけで登録されていないのでしょうね、きっと。個人的には聖澤選手のプレーを一日も早く観てみたいです。(写真は昨年のファン感謝祭。こんなにたくさんの中から選ばれた28人ということで…)
March 18, 2008
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昨年、断念した始球式への応募、今年は念願かなって、楽天ブログスタッフBlogさんへ応募のトラックバックをしています去年は「あんなにたくさんの人たちの前に出るなんて絶対ヤダ!」、と言っていた子どもが、今年はあっさりとOKサインでした4月19日(土)、20日(日)の西武戦の始球式。かわいい子どもが出ていたらウチの子だと思ってください
March 22, 2008
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軽井沢でゴルフをしたいなぁ、と思い始めてから1年3ヶ月。 ゴルフをしていなかった頃、「ゴルフ以外にも役立つことが書いてあるよ」と友人にこの本を薦められた。だけどなかなかページが進まず(興味が沸かず)にそのままにしていて、このタイミングで再び手に取ってみた。 今回は、ゴルフの世界に少し足を踏み入れたおかげで、スルスルと読み進めることができました。 全編にわたってアマチュアゴルファーの「勘違いあるある」が書き連ねてあって、100を切ったことがないアマチュアゴルファーには読んでいてちょっと辛い面もありながら、役に立ちそうな細かいポイントがいろいろ書いてあった。 以下、自問自答。 1.練習グリーンの端から端までを使ったロングパットの練習をしているか。→していない。パットを舐めている割に平均3パットしてスコアを崩している。今から試してみます。 2.インパクトで意識的に呼吸をしているか。→いいえ。息を止めて力を込めて振っている。呼吸を止めずにちゃんと打てるのか、イメージが湧かないけど、信じてやってみます。 3.嫌なことがあったら自分の中で思い切り怒って、切り替える。これができているか。→まったくできていない。心を乱してはいけないと思っていたので、怒らないように頑張っていた。その結果、モヤモヤした気持ちを引きずったままラウンドしていた。一瞬怒ってパッと切り替える、というのをやってみます。 4.トータル100を切りたいなら、18ホールのスコアが99になるように各ホールをマネジメントしているか。→していない。どのホールも漠然とパーを目指していて、ホール毎のマネジメントはしていない。 まあ、このようなアドバイスがたくさん書いてあって、その大半が今の自分にはできてなくて、さて、どれから手を付けましょうか、という状態に今の自分はなっています。 これもまたゴルフ。楽しみましょう。 この本を見習って、少し頭を使ってみます…
August 8, 2021
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東北新幹線から、札幌へ向かう特急北斗に、新函館北斗駅で乗り換えた。新幹線到着から特急出発までの乗換時間は12分。乗り換えてみての感想は…現役世代ならゆっくり歩いても余裕で乗り換えられる。子供連れやお年寄りでも普通に歩けば大丈夫。とはいえ、新幹線から全員降りるので、混んでいると結構時間がかかる。できるだけ早く新幹線を降りた方がより安心、と思いました。乗り換えの流れは…①新幹線を降りる。②エスカレーターに乗って2階へ上る。③2階に着いたら、札幌方面に行く人も、函館方面に行く人も、次に乗る列車の切符を持っている人は全員「のりかえ」のサインのある改札に向かう。④乗ってきた新幹線のチケット、これから乗る特急のチケットと乗車券を一緒に改札に入れる。⑤特急のチケットと乗車券が手元に戻る。⑥特急北斗が停車しているホームに階段またはエレベーターで降りる。⑦特急北斗に乗車。注意点は…・10両編成の新幹線から降りた乗客が一斉にエスカレーターに向かうので、新幹線をゆっくり降りると、長い列の後ろに並ぶことになる。今回、新幹線を降りるのが遅かったので、ホームに降りてからエスカレーターに乗るまで、本来30秒もかからないところ、数分かかった気がする。10分程度の乗換時間でこの数分は結構焦る。・エスカレーターで2階に上ると、「出口」と「のりかえ口」が見える。大半の人が「のりかえ口」に向かうので、流れに乗って進む。・改札を抜けてホームに向かう階段に着くと、大半の人は函館方面のホームに降りていく。札幌方面のホームに行く人は少ないので間違わないように進む。・特急北斗は函館始発なので、新函館北斗駅の停車時間は短い。今回は、のりかえ口を過ぎたあたりから発車のベルと乗車を促すアナウンスが聞こえてきて、焦った。高齢の親には「急がなくて大丈夫」とか言いながらもできるだけ急いで階段を降り、列車に乗り込んだ。・とは言っても、乗り遅れが出ないように駅員さんが人の流れを後ろの方まで確認していた様子。あまり慌てる必要はなかったかもしれない。と特急に乗ってから思った。新幹線は満席。乗り換えた特急は、密にならないように指定席が割り当てられていて快適でした。
July 22, 2022
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楽天イーグルスのホームゲームを1塁側のフィールドシートで観戦した。試合が始まると、このシートからは一塁ランナーとピッチャーのジリジリとする駆け引きが一直線。真後ろから見ることができたので、かなり興奮した。学生野球をしていた頃、僕は塁に出てからの動きがかなり下手で、牽制球でアウトにならないだけで精一杯。投手にプレッシャーをかけるなんてギャンブル過ぎてできなかった。だから、強豪校の試合や社会人野球があると、だいたいこんな感じの場所に座って、塁上の選手の動きをじっと見つめていた。野球はもうやっていないので学習する必要はないのだけど、何と言っても目の前にいるのはプロ野球選手。気持ちだけ昔に戻って最高レベルの離塁技術を堪能させていただいた。なかでも凄まじかったのは7回に代走で登場した楽天の小深田選手。二塁に向けてスタートを切るかのような仕草を何度もチラつかせては牽制球を呼び込み、投手の集中力を確実に削いでいった。それでいて、投手の警戒をものともせず二塁への盗塁を敢行。その後、やや平常心を失った投手の暴投で三塁へ進塁。併殺崩れの間に決勝点となるホームを踏んだ。試合後半から雨が強めに降ってきたのでカメラに残せなかったことが残念だったけど、投手を翻弄しまくった小深田選手の走塁は、この日の勝因と言っても良いくらい見事だった。(帰塁する楽天の岡島選手と西武のボー・タカハシ投手。一塁手は山村選手)どの走者もぎりぎりアウトにならない自分なりの離塁幅を持っていて、しかもその「ぎりぎりアウトにならない」タイミングは、毎回本当にぎりぎりで、それでいて慌てて帰塁する場面には試合を通して出会わなかった。プロって凄いなぁ…と改めて思い、現役の頃にこれを見ていたら僕ももう少し上手になれたかも…とも、今さらながら少し思った。
July 6, 2024
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祖父と祖母の家、そして僕の母とその兄弟たちが生まれた家は笄町(こうがいちょう)という町にあった。当時の住所は麻布笄町。今の住所では、東京都港区西麻布四丁目のあたりになる。ある雨の日、かつての笄町に行ってみた。その家があったと思われる場所には高層マンションのような大きなビルが建っていて、昭和初期の名残りらしきものは何もなかった。だけどすぐ近くに「笄軒-AZABU KOUGAI KEN-」という名のレストランがあった。そして日比谷線が地下を走る広い道路の反対側には笄公園と笄小学校があった。「笄」という見慣れない文字をいくつか目にして、ここが僕の親たちが過ごした地なのだな…と思った。すぐ近くには古地図にも載っている、渋谷区と港区の境界にあたる独特な三角形もあった。V字の道路の外側が港区西麻布で、道路の内側が渋谷区広尾。渋谷区部分はかつて宮代町と呼ばれ、堀田坂(赤い方の道路)を登ったところに日本赤十字社の産院があり、母も、母の兄弟もそこで生まれた。母いわく、祖父は笄町の家から職場のある高樹町に通っていて、祖母は札幌からこの家に嫁いできた。その後、一家は笄町から文京区の本郷に引っ越した。戦況の悪化に伴って、当時小学生だった兄弟(母と母の兄弟)は栃木県の那須塩原に学童疎開。昭和20年に入り、空襲のため本郷には住めなくなり、一旦、笄町に住まいを戻した後、程なくして本郷の家は焼失。この時祖父母は、祖母の実家がある札幌に一家で身を寄せることを決め、初めに祖母が幼児を含む親子3人で、続いて祖父が那須塩原に疎開していた子どもたち2人を引き取りながら札幌に向かった。札幌に着いた後、祖父は徴兵されたものの敗戦後に帰還。戦後、子どもたちは札幌の学校に通い、札幌で就職し、札幌で結婚し、札幌で子どもを産んだ。ということらしい。「東京は空襲が酷くなったからね、札幌に移ったのさ」と母は簡単にまとめてしまうけど、子どもたちを連れて東京から札幌の実家まで旅をした祖父母の苦労は想像すらできない。そして戦後、土地勘のない札幌で職を探し、家族の暮らしを何とか支えた祖父もさぞかし大変だったに違いない。戦争がなかったら、せめてもっと早く終わっていたなら、こんな思いはしなくても良かったのに…。考えても仕方がないとはわかっていても、どうしてもそう思わずにはいられない。今の国際情勢もかなり酷い状態だと思うけど、これからは、国際政治の舞台を戦争を賢く避けながら渡り歩ける、駆け引き上手な賢いリーダーたちが世界中のあちこちに現れてほしい。優秀な政治家たちが、日々丁々発止のせめぎ合いをしながらも地球を戦禍から守ってくれますように。未来永劫、戦争を回避し続けてくれますように。この日はそんなことばかり願っていた。
August 3, 2024
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2025年の3月半ば、雪の残る「いろは坂」を上って中禅寺湖を目指した。スタッドレスを着けているとは言え、勾配とカーブがきついワインディングロードは未体験。雪が積もっていませんように、路面が凍っていませんように、と何日も前から祈りつつ、結果、この日はまったく問題なく走ることができた。上りの終点に近い明智平に、休憩用兼展望用と思しき駐車スペースがあったので、一度車を停めた。この日は坂の下、日光東照宮あたりにもまだ残雪がたくさんあったけど、いろは坂の除雪は全線で行き届いていた。路面も乾いていて、走っていて怖さは感じなかった。ただ、道路脇には除雪で寄せられた雪があるので、通常は2車線のところ、多くの場所で道幅は1車線程度になっていた。つまり追い越しはできない。前が詰まっても流れに身をまかせ、後ろの車がグイグイ来たら広いところで先に行ってもらう。そんな感じだった。ちなみに、明智平の駐車場にあるトイレは冬場は使用禁止になっていた。あと5分も走れば中禅寺湖畔の街に着くので大きな問題はなさそうに思えた。参考まで、この駐車場のすぐ近くにはロープウェイの乗り場もあった。ロープウェイに乗るか乗り場の有料駐車場を使う人ならそちらのトイレを使うこともできる。これが明智平ロープウェイ。往復1,000円。奥に見えるのが男体山。5分くらいで到着する上の駅には展望台があって、中禅寺湖や華厳の滝、男体山などが一望にできた。
March 23, 2025
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8月。午前中の盛岡。この日は暑かった。早めの新幹線で盛岡駅に着き、約束の時間まで街を散策。というのがこの日の予定。晴れていて良い気分だったけど、しばらくして暑さに耐えられず散策は中断。また駅前に戻る途中の写真がこちら⇩白い鉄橋、開運橋の向こうに盛岡駅がある。盛岡はいつ来ても良い街だと思う。そう思いながらも、駅から地下道を通らないと市街地に行けないと思われるところが少し不思議…といつも感じている。自分の歩き方が悪いのか、駅を出てから直線的に地下道に入ることも今までのところできていない。キャリーケースを転がしながら地下道入口を探して行きつ戻りつしている自分が毎度のことながら情けない…暑さで中断した盛岡散策の続きは、翌日、夜明けと同時にホテルを出て堪能した。商店街には夜の余韻が残っていて、酔ったお兄さんが路上で電話の相手と人生を語っていた。盛岡城跡は朝日に照らされ、犬を連れて散歩している姿をたくさん見かけた。
October 13, 2025
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なんだか天気予報では大荒れとか言ってますけど… 私はあきらめません先発予定は “マー君” と “べとべとさん”(石井一久)絶対見たいです。明日はきっとポカポカの良い天気に違いないオヒサマガンバレ
April 18, 2008
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今年初めての草野球の日でした。結果は3打席3打数ノーヒット。昨日、楽天×日ハムを観戦したので目だけはプロレベルだったのですが、体は悲しいレベルでした。まあ、久しぶりに体を動かして、気分転換にはなったので、良しとしましょう。次、ガンバリマス。
April 27, 2008
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