19世紀のアメリカ(47)
第2章 明白なる天命…8
米国南部のプランテーションは、19世紀に入ると共に、次々に生産品をタバコから綿花に切り替えてゆきました。それでもイギリスからの需要に追いつかない状態が続いたのです。
そのため、南部地域の富裕層の家庭の若者や、野心と意欲のある若者達が、アパラチア山脈を越えた西側の地域へと、綿花栽培と奴隷制を拡大して行ったのです。北東部に比べ、やや遅れた1810年代のことでした。
独立戦争後のアメリカ社会は、長子相続の伝統を捨て去り、相続財産は均等相続が当然のこととされたため、相続財産は限られるのが普通でした。そのため、若い世代の野心家達は、相続財産を基礎に徹底して経営の効率化をはかると共に、西方への進出と所有する農園の拡大を目指すのが常でした。
そして南部地域における西への拡大は、綿花プランテーションの拡大を中心として進められ、そのプランテーションの労働力としての、黒人奴隷制の拡大を必然的に伴う形で、行われたのです。
こうして、中小農民の進出を中心とする北西部や中西部の開拓と区別される形で、南西部のフロンティアもまた、西へ西へと進められたのです。
プランターは、農園の拡大と共に、土地環境の整備に取り組むことで、収穫量の拡大に関心を持ち、同時に綿花の市場価格にも注意を払う、経営感覚の持ち主でもあったのです。
しかし、プランターの所有する農園は、黒人の奴隷労働なしには存続できないものでした。それゆえ、プランターがいかに優れた経営感覚の持ち主であったとしても、彼らの社会意識は、北部や北西部の商工業者や農民とは、全く異なるものでした。
奴隷を所有することは、常に労働力が不足する、南部及び南西部の農園経営において、労働力の調達を可能とする唯一の方法でした。しかも、亜熱帯地方に属する合衆国南部地域での、灼熱の太陽の下での労働は、熱帯アフリカ出身の黒人こそが、最も似合いの存在でもあったのです。
プランターはまた、プランテーションの管理人を通じて、黒人奴隷達にいくばくかの耕地を与えることで、彼らの肉体を維持するための食料は自ら生産させる方法を編み出し、奴隷労働の維持費を最小にする方法をも、編み出していたのです。
こうした奴隷労働の徹底した搾取の上に、プランテーション経営の高い収益性が維持されていたのです。
続く
マンデラ釈放決定 2日の日記 2022.02.02 コメント(5)
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