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2008年09月14日
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カテゴリ: 天璋院篤姫
 今夜(9月14日)のNHK大河ドラマ「篤姫」の第37回目のタイトルは「友情と決別」でした。今回のドラマでの「友情」とは天璋院(宮崎あおい)と小松帯刀(瑛太)の友情を指し、「決別」とは久光(山口祐一郎)が実権を掌握している薩摩藩に対する天璋院の決別を指しています。

 島津久光は、幕政改革の三箇条の勅諚を携えた大原勅使(木村元)の随従を名目に500人ほどの兵士を率いて江戸に入ってきました。なお、この三箇条の勅諚の内容は、実際は島津久光の意見を採り入れて作成された幕政改革案で、鹿児島市で開催された「天璋院篤姫展」でも「幕府への勅諚三箇条写」が展示されており、また同展示会場で販売されていました図録の付録「天璋院 篤姫展 釈文一覧」にもそれが活字化されていましたので、下に転載しておきます。


大樹早ク諸大名ヲ率ヒ/上洛アツテ、/朝廷二オイテ相共二国家ノ/治乎ヲ計議シ、万人ノ疑/ヲ散セシメ、/皇国一和ノ正気トナシ、速/二蛮夷ノ患難ヲ攘ヒ、上ハ/祖宗ノ 神叡ヲ慰慰メ、下ハ/義臣ノ帰嚮二従ヒ、万民/ヲ化育シ、天下ヲ泰山ノ安/二比セラレ度事、
第二
豊臣ノ故事二ヨリ沿海五/ヶ国ノ大藩ヲ以テ五大老ト/シ、国政ヲ諮決シ、夷戎ヲ防/禦スルノ所置ヲ為シメハ、環海/ノ武備堅固確然トシテ、必夷/戎ヲ掃攘スルノ功アラント/思召候事、
第三
一橋刑部卿ヲ後見トシ、越/前前中将ヲ大老トシテ、幕/府ヲ扶ケ政事ヲ計ラシメハ、/戎虜ノ慢ヲ受スシテ衆人/ノ望二協フヘクト/思召候事、


 すなわち、(1)大樹(将軍)の上洛と朝廷での国是の討議 (2)沿海五ヶ国による五大老の新設 (3)一橋刑部卿(一橋慶喜)を将軍後見職、越前の前中将(松平春嶽)を大老に就任させること、以上のことを実現させようと島津久光は江戸にやって来たのです。

 しかし、大原勅使と会見した幕府老中たちは朝廷の要求をのらりくらりと拒み続けます。特に慶喜の将軍後見職就任の件については、この職はもう廃された言って認めようとはしませ。このことにいらだった久光は、大久保(原田泰造)に「今度はそちが出向き、どのような手を使っても構わぬから、わしがどれほどの覚悟で江戸に来たかを示してやれ」と命じます。大久保は大原勅使と幕府老中が会談している隣の部屋に薩摩藩士を控えさせ、鯉口(刀の鞘口)を切らせる音を老中たちに聞かせ、さらに「ここからお帰りになれぬことになるかも……」と脅かします。このような脅迫めいた行為に老中たちは動揺し、こうして一橋慶喜が将軍後見職に就き、松平春嶽は政事総裁職に就くことになります。

 大久保は暴力団まがいの随分乱暴なやり方を取って幕府に薩摩藩の要求を認めさせたものですね。あまりにも乱暴なやり方なので、かえって吉本新喜劇のあちゃらか芝居を見ているような気分になって私はつい大笑いしてしまいましたが、でもこれに近いことは実際にあったようですよ。佐々木克『大久保利通と明治維新』(吉川弘文館、1998年8月)にはつぎのようなことが書いてありました。

ようやく五月二十二日、大原勅使と久光が大久保をはじめ手兵を率いて出発。六月十日登城して将軍家茂に朝旨を伝達した。当時の老中は、松平信義(亀岡藩主)、水野忠精(山形藩主)、板倉勝静(備中松山準王)、脇坂安宅(竜野藩主)で、井伊が倒れていらいの安藤信睦、久世広周にかわって、脇坂と板倉が実権派であった。/さて勅使と幕府の交渉であるが、勅使の到着前に、幕府は将軍上洛の方針を内定していた。また五大老の設置は、朝廷側でも実現性が薄いとみていた。そこで問題は久光が主張する第三事ということになる。松平慶永はすでに幕政参与となっていたから、大老は無理としても、妥協の余地はあった。しかし慶喜に関しては、幕府は久光にたいする反感もあって、他から容喙されて要職を任命することに強く難色をしめしたのである。/久光の側面からの工作と、再三にわたる交渉のあと、二十六日、大原勅使は伝奏屋敷に老中を招いて交渉することになったが、ここで大久保は、もし老中が要求をあくまでも拒否するならば『閣老を返し申しまじく(刺殺する)決心』であることを大原に告げた(『日記』)。ずいぶん乱暴な話であるが、それだけの決意で交渉せよという、大久保の大原にたいする強い激励であり、自分たちもそれくらいの覚悟なのだということを伝えたものであろう。/硬骨漢の大原は、ここで奮い立ったらしい。交渉破裂の場合は帰らないとまで言って登城した二十九日、ついに幕府は折れた。かくて七月六日、慶喜は将軍後見職に、九日、松平慶永は政事総裁職に任ぜられて、まずは勅使の使命は達成されたのであった。」

 今夜のドラマでは、天璋院が力づくで自分たちの要求を呑ませようとする薩摩藩のやり方に非常に憤りを感じ、家定の命日の寛永寺への墓参を利用して同寺で久光と会見し、朝廷の威を借りて自分たちの要求を実現しょうとするやり方を批判しますが、幕府も同じようなことをしていると反論されてしまいます。そんななかで天璋院は、「私は薩摩に誇りを持ってきた。薩摩にだけは間違った道を進んでほしくなかった」と言うとともに、「私は徳川の大御台所として徳川家とこの国を守りぬく覚悟である」とも言い、今後一切薩摩からは指図は受けぬと決別宣言をしています。

 なお、久光に随行して寛永寺にやって来た小松帯刀(瑛太)の姿を見た天璋院は、家茂(松田翔太)の許しを得て大奥で彼と会うことにします。天璋院が碁を打ちながら小松帯刀に薩摩の今和泉家の近況などを質問しているなかで、二人は自然と昔の篤姫と肝付尚五郎に戻ります。そんな静かな語り合いの中、小松帯刀は現在の薩摩藩が力で人を動かそうとする強引なやり方は間違っていると思うと天璋院に語り、その言葉を聞いた天璋院は「私も薩摩を捨てたなどと言いましたが、それは自分の心に嘘をついていたのです」と言い、「私はこの大奥で徳川を守ります。あなたは私が愛する故郷(ふるさと)の薩摩を守ってください」と彼に頼むのでした。この天璋院と小松帯刀の再会の場面は、これまで何度か繰り返されて来ましたが、自然と心を通わすことのできる者同士が碁を打ちながら静かに語りあう場面はこれまでで一番良かったように思います。





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最終更新日  2008年09月16日 00時44分22秒
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