ポンコツ山のタヌキの便り

ポンコツ山のタヌキの便り

PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

やまもも2968

やまもも2968

カレンダー

バックナンバー

2025年11月
2025年10月
2025年09月
2025年08月
2025年07月

サイド自由欄

設定されていません。

コメント新着

さとし@ Re[2]:夕陽丘セツルメントの思い出(06/17) 昔の子供さんへ ?その後の文章ないですか…
夕陽のOBです@ Re:夕陽丘セツルメントの思い出(06/17) なんか懐かしくなって、夕陽ヶ丘セツルメ…
南日本リビング新聞社@ Re:天文館の唯一の映画館の最後の日(10/11) こちらの写真を新聞で掲載させていただき…
昔の子供@ Re:夕陽丘セツルメントの思い出(06/17) 懐かしいです、昔のお兄さんたちに会いた…
昔の子供@ Re:夕陽丘セツルメントの思い出(06/17) 偶然この文章読みました、まさにその当時…
安渓 遊地@ Re:武部利男先生と漢詩の中国音読み(04/01) やまもも様 吉川幸次郎先生(と武部先生)…
安渓 遊地@ Re[1]:武部利夫先生と漢詩の中国音読み(06/05) やまももさんへ 武部先生の漢文は、3年間…
通りすがり@ Re:夕陽丘セツルメントの思い出(06/17) こんにちは。 ここの大学のOBです。 同…
鹿児島の還暦じじい@ Re:鹿児島弁の「おいどん」は一人称複数!?(12/24) おいどんの記事興味深く読ませていただき…
やまもも@ Re:武部利夫先生と漢詩の中国音読み(06/05) mastanさん、ご質問に気がつかず、返事が…
2008年09月16日
XML
カテゴリ: 天璋院篤姫
 9月14日放映の篤姫ドラマのラストに文久2年8月21日(1862年9月14日)に薩摩藩士が起こした英国人殺害(生麦事件)のことが描かれていましたね。

 この生麦事件とは、島津久光が江戸で幕政改革の三箇条の勅諚を基本的に達成したため、その後、大原勅使に先発して行列を仕立てて京都に向かう途中に起ったもので、神奈川の生麦で英国人のリチャードソンたち4人が乗馬したまま久光の行列を乱したことから、それを怒った薩摩藩士の奈良原喜左衛門がリチャードソンにまず切りかかり、逃げるところをさらに久木村治休が抜き打ちに斬って致命傷を与えた偶発的事件です。この事件が原因で、約1年後に薩英戦争が起っていますね。

 ところで、9月14日の篤姫ドラマでは、生麦事件の騒ぎが起ったとき、島津久光は駕籠の中でうつらうつらしていた様に描かれていましたね。しかし、島津久光を「ひどい権力欲」の持ち主として描き、彼の上洛を「お山の大将になりたかっただけのことである」と切って捨てた司馬遼太郎の小説「きつね馬」では、生麦事件のときに久光が奈良原に「殺(や)れ」と命じたとしています。また同じ司馬遼太郎の代表作『龍馬はゆく』でも、「一説では、島津久光が、駕籠の引き戸をひらき、/『斬れ、斬れ』/といって顔をひっこめた、という」と書いています。ただし、「一説では」のその「一説」がどのような史料に書いてあるのかは、小説ですから司馬遼太郎は明らかにしていません。

 しかし、島津久光自身はそのような説を否定しているようですよ。桃源選書に八木昇編『幕末動乱の記録 「史談会」速記録』(桃源社、1965年8月)という本があります。この本の編者によると、同書は「歴史的価値が極めて高い、『史談会速記録』四百有余冊より採り出した精華十二編」を収めたとのことです。その12編のなかに明治になって島津家の家記編纂掛をしていた市来四郎の「生麦英人殺害事件の実況」も載っており、市来四郎が久光から生麦事件当日のことを聞いた話が紹介されています。それによりますと、当時の久光は「無謀の捷夷はよろしくない、後々は兎角開港せねばならぬという腹」であったが、その頃の攘夷説流行には正面から抗することはできないでいたとのことで、久光のそんな心理を市来はまずつぎの様に述べています。

「三ケ条の勅命も奉ぜらるることになって、首尾よく朝意の行われたと、ひと先ず安心して、八月二十一日高輪の藩邸を出発致しまして、帰京でなく久光のところは帰国というものでござりまして、直ぐに帰国するつもりで出立致しました。復命は大原卿の御責任でござりますから、久光は直ちに帰国のつもりでござりました。当時久光は種々な風説を受けて、全く覇権を握うとの策略から此に至ったと言い囃されましたのみならず、久光が初度上京致した建言に、無謀の攘夷はよろしくござりませぬという主義でござりました。けれども久光の心中というものは、故斉彬こは開港論者でござりますから、どこまでもその意を継紹致しまして、無謀の捷夷はよろしくない、後々は兎角開港せねばならぬという腹でござりましたけれども、時勢奈何せん攘夷説流行の時でござりますから、開港という説などいい出しては人心を殞(うしな)います。或は国中も捷夷家が沢山おりますから、かれこれその辺を斟酌致し、なかにも朝廷に建言致すに就ては、大勢奈何ともなしがたく、無謀撰夷は不可なりという文字を以て建言致したそうでござります。その含むところは到底開港論で時勢を俟(ま)って開港ということを申すつもりであったそうです。各藩共壊夷論の大勢であるから、捷夷不可なりとも言われぬ、言葉にも出されぬ程のことであったと申しました。この話が生麦の挙動、心ならぬことであったと申す序言でござります。」

 さらに市来四郎は、生麦事件そのものについてはつぎのように語っています。

「久光の話されますことに、高輪邸を出立致して、大原卿も同日にお立ちになりました。久光は生麦で昼休みを致すつもりでござりましたそうです。生麦の立場近く行列を立ててやって行くところに、供頭の奈良原喜左衛門という者が、駕籠側におりましたが、/『異人か』/というひと声掛けて先供の方に駈け出して行ったから、/定めて外国人がやって来るから行列をちぢめるかどうかであろう>と何心なく聞いていた。然るに程なく駕籠の行くを止めた。/<さては外国人が行列に踏込みて来たか>と思った。そうすると駕籠側供方の者が前後左右に集った様子で、/<如何さま失礼でも致したか>と考えて、左右の者に、/『何事か』と尋ねたけれでも一向わからぬ。/『異人が参るそうでございます』と言った。/<それで行列にさわったか知れず、喧嘩をせねばよいが、小事を以って大事を過(あやま)るようではいけない>/と心配を致した。」

 久光はこのように外国人と喧嘩にならねばよいがと心配したそうですが、しばらくすると 「異国人を斬りましたそうです」 との報告が入り 、「ずんずんやって行くから駕籠の中から路傍に気をつけたところが死骸は見えぬ。ただ路傍に血を流しているままであった。死骸はないから、<さだめて傷つけられてどこえか行ったであろう>と思って、程なく生麦の立場に着いて、茶一盃飲んでいるところに、側役の谷川次郎兵衛という者が出て来て、/「まことに大変なことを致しました。異国人が御行列にさわりましたから斬り棄てました」/と、こういうことを届けて出た」 そうです。久光は 「さても困った事を致したと、小事を以て大事を惹き出したと心配を起した。そういうことで小事を以て一両人殺して何にもならぬことである。天下の大変を惹き出し国難も惹き出した。と思ったけども、そこでそういうことを言えば、人心にも関するから黙して答えなかった」 そうです。しかし、この事件の後、薩摩藩内では攘夷の声が高まり、久光も 「戦争の準備もせねばならぬという覚悟を致した」

 ですから、市来四郎は 、「久光が下知致したことでは素よりござりません。なかには下知致したようにいうたものもござりますけれども、決してそうでござりません。表面の形によりて言うたもので、久光の心中は時機を察して、斉彬が趣旨通り開国論を発する胸算でありたと申しました。実に行きがかりの小事より卒然に起ったことでござります」 としています。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2008年09月17日 00時40分40秒
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: