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富士日記 武田百合子著夫の武田泰淳との山での生活を綴った13年間の記録。日記の舞台はこの近くの別荘地、昭和40年代。ご近所のIさんはこの富士日記が好きで富士山の麓の別荘地を買われたそうだ。早速楽天で取り寄せて読んでみた。単調なように見えて百合子さんの率直な飾らない性格にだんだんと引き込まれてしまう。本栖湖や山中湖で泳ぎ、庭に木を植え、草をむしり、富士宮の方まで車を飛ばして機織りを習いに行き、実にアクティブ、行動半径が広い。そして富士の麓で暮らす日々を泰淳とともにすごく楽しみに、大切に思っているのがわかる。平凡な日々の暮らしの中で愛犬が死んだり、車が壊れたり、根場集落の土砂崩れのニュースが流れたり、泰淳さんが病気に倒れたりする。本の最後の方で 年々体が弱っていく人のそばで、沢山食べ、沢山しゃべり、 大きな声で笑い、庭を駆け上がり、駈け下り、気分の照り降りを そのままに暮らしていた丈夫な私は、なんて鈍感な粗野な女だったろう。と百合子さんは書いている。そういう勢いのあるそのまんまの百合子さんに周りの人達は元気づけられたに違いないのだ。いよいよ山荘を後にする時、二人で暮らした夏を何度も振り返り振り返り東京に帰ってくる。それから程なく泰淳さんは亡くなっている。つれあいとふたりで武田山荘を探してみた。もう今は更地になっている。見つけた嬉しさより、うっそうと木々が茂って荒れた場所に時の流れと人の生き死の儚さを目の前につきつけられたように感じてしょんぼりと肩を落としてしまった。
2008.11.13
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「石塁」武田信玄の時代に敵の攻撃に備える為青木ケ原樹海内に溶岩で築いた防壁。 高さ2m位で約2キロほど続いている。本栖湖の近く、上九一色中学校入口のそばに石塁はある。以前ハイキングをしていた時、樹海の中に30~40センチの人工物らしきほとんど崩れた石積があった。何? これ? と不思議に思っていたのだが今回これが武田信玄の時代に(1550年頃)作られたものだと判明。いやー 万里の長城といいこれを積んだ庶民は大変だったろうなー命令する方はいいけどね。なんて考えてしまう。今では苔むして所々くずれているけれどキチンと積まれて残っているところもあり「ここはね、几帳面な人が積んだの」とつれあいは得意な様子で勝手に解説する。他に目を転じればおどろおどろしい樹海の中。なんでこんな所に、と思っていたけれど近くにある中道往還は甲斐の国と駿河の国を結ぶ歴史ある街道で、当時は名将が往来した軍用道だったそうだ。今では忘れ去られた街道。苔むした史跡。でも来年の大河ドラマは「風林火山」武田信玄がまたスポットを浴びることは確実。このマイナーな石塁を知っていればあなたはもう信玄通です。
2006.11.29
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